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あなたも相手に塩を

2017年08月20日 12:01

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 10:20:48.38 ID:1Gif5vGX
大阪の陣でのこと。堀尾山城守(忠晴)の寄口に、幕府使番渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)が訪れ
尋ねた

「この仕寄場より堀際まで如何程の距離があるか?将軍家よりお尋ねの時のため記しおきたい。」

しかし堀尾
「存じません。それを知りたければどうぞここから縄を打って測ってください。」

そこで渡辺は寄口より出て距離を測った。」

この話を横田尹松が聞いて、彼にこう言った
「失礼ながら御辺は今少し不巧者であるな。そういう時は、堀尾山城守も一緒に連れて出るものだ。
こちらに塩をつけるのなら、あなたも相手に塩を付けて良いのだ。」

(士談)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 21:06:40.38 ID:EppBfuOJ
一休宗純「私が縄を打ちますから渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)様は綱を打って下さい」

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 21:18:25.81 ID:yzDBFuw+
城の堀辺まで綱を渡す
渡辺守綱と堀尾山城
なにか狂歌ができそうな
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「そうか。ならばそっちを巡視しよう。」

2016年05月17日 18:37

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/17(火) 17:54:36.19 ID:alOWNQJz
大阪冬の陣、大御所徳川家康は仙波より順々に諸陣を巡視した。これに伊達陸奥守政宗、
藤堂和泉守高虎らが付き従った。諸将は且つ迎え且つ見送った。
石川主殿頭(忠総)の陣所を過ぎる時は、ここの家臣たちが三河以来知る者多かったため、
皆に言葉をかけた。馬喰が淵、阿波座、土佐座を乗っ取り、殊に高麗橋の戦功を賞賛し、
尚も巡視を続けていると、大阪城の兵たちが家康に気が付き、この一行に向かって
鉄砲を雨のように撃ってきた。

この事態に家康の馬廻りも散り乱れ、御家人衆は御馬の七寸(轡)に取り付いて
「あまりに鉄砲厳しく、御勿体なし!」と申し上げた。

家康は最初、これに返事すらしなかったが、人々が強いて諌めてくるのを聞くと

「運は天にあり!」

そう言ってさらに城の近くに進み、詳細に城の様子を観察し始めた。
この時、横田甚右衛門(尹松)が進み出た。

「ああ、いつもこの殿はこんな鉄砲激しい場所が好きですな。ならばそこを退き候へ」

そして家康の馬の周りにいた近習の面々を追い払い

「ここよりも西船場表(一説に信貴野)のほうが大変です。城中より大鉄砲を揃えて
激しく攻撃されているために、御味方は陣を成しかねぬ有様であると聞きました。
どうか、急ぎ御上覧あれかし。」

そう言って御馬の鼻先を西に向けると

「そうか。ならばそっちを巡視しよう。」

こうして家康は西船場方面へと馬を進めた。ところが西船場は城中より程遠く矢弾が全く来ない場所であった。
横田は武功有る故に、こうして鉄砲の急難から家康を逃したのである。

(新東鑑)



「討ち死に」と「討たれ死に」

2015年07月09日 15:52

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 22:47:46.10 ID:lst1SqUk
「討ち死に」と「討たれ死に」

鬼美濃と言われた原虎胤の孫で歴戦の勇士として知られ、
晩年は大久保彦左衛門と喧嘩したりしていた横田尹松であるが
  参考 大久保忠教と横田尹松が・いい話
     http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1658.html

寛永11年(1634年)7月、さすがの尹松も寄る年波に勝てず病にかかり危篤状態となった。
譜代の家士が尹松のそばにあって
「戦場にて討ち死にを遂げ、最期まで功名を顕されるであろうと思っていたのに
このように畳の上でお亡くなりになろうとするとは思いもかけぬことです。」
と涙を流しながら言ったところ
尹松はかっと目を見開き、その家士を睨んでこう言った。
「なんとお前は侍の道を知らぬ愚か者なのだ。
我は若年より数度の戦いに挑み、多くの城を破り、敵を数多討ち取った。
そのうえで、今静かに死ぬことこそ、『討ち死に』と言うべきである。
お前たちが言うところの死にざまは、『討たれ死に』とでも言うべきだ。」

尹松はこの月の5日息を引き取った。享年82歳。

干城録(出典表記は古井之埋草)より雰囲気訳で。
戦国の世を生き抜いた老武人らしい死にざまがちょっとかっこいい話?ということで。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/08(水) 23:57:14.80 ID:dA26JpKv
某宗滴「武者なら犬死にじゃ」

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 00:37:39.09 ID:NgHgD0xL
資正「犬死にってたって犬だって使い道あんだろ」

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 16:50:18.96 ID:6gzFGVb1
>>338
食糧になるニダ

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 20:32:42.23 ID:E31MnvT5
メジャーではないけど、日本でも犬は食されていたけどね
たしか伊達に記録あったでしょ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 20:43:09.46 ID:rRcJJjxo
江戸時代、江戸の薩摩藩邸周辺は野良犬が居ないことで有名だったそうな。理由はもちろん(ry

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 21:43:52.78 ID:GehJTn1n
ひえもんとり?

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 22:21:03.84 ID:Uc/gZAEc
えのころめし

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 22:23:38.95 ID:o7gK08JH
生類憐みの令が出るまでは江戸の町には野良犬がいなかったというが

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 23:35:00.30 ID:rRcJJjxo
>>345
逆。生類憐れみの令で野良犬を隔離したため、江戸の町から野良犬がいなくなり、狂犬病なども激減した。

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 00:06:07.16 ID:xrBTqrdP
避妊が処理してました

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 01:09:21.15 ID:jvju8zY3
横田尹松って、この話だと武骨で頑固なジジイという感じだが、
高天神の戦い方を見ると、割と冷静で現実的なんだよな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 03:19:24.33 ID:2McPgj1c
生類憐れみ令って、子どもを間引くなとか、現代人的なところもあるよね

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 07:36:00.39 ID:TP3m9KUp
世界的にも先進的な福祉&動物愛護法制だよ。
動物愛護のとこだけ、へんな切り口で見られてきたけど。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 08:10:38.76 ID:ejFrH2zc
江戸時代は少年法もあるし、拷問なんかも老中なんかの許可が必要だったみたいだし
同時代のヨーロッパなんかと比べたら、はるかに現代的

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 10:30:48.99 ID:44rNAWm5
>>351
欧米が列強化するまでは法分野は東洋の勝ち

徳川家康は諸口を巡視せんとただ一騎

2012年12月12日 19:58

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 17:49:53.63 ID:DWwV7Fb9
大坂冬の陣の際、徳川家康は諸口を巡視せんとただ一騎城の堀際まで馬を乗り回した。
皆が馳せ出て供奉しようとしたのだが、本多正信が制し止めた。

家康は素肌に鷹の羽を散らしたはな色の羽織を身につけ、鹿毛の馬に乗って城溝の辺りに
立った。城中より撃ち出される弾丸が雨のように降り注いだがいささかも怖れず、加賀越前の
丁場まで巡視して住吉の陣へ戻っていった。

この時のことであろうか、弾丸がしきりに降り注ぐので正信は「こんな所に長居されては
危険です。早くこの場を離れてください」と言うも、家康は聴く耳を持たない。

そこへ初鹿野信昌と横田尹松が進み出て「殿はもとより鉄砲の激しい所をお好みですから、
ここより船場の陣には大筒を仕かけてありますので、ちと御覧くだされ。いざ御供いたす」
と進言すると、家康は船場の方へ馬を進めた。

そこは蜂須賀家の持口で城より遠いので弾丸の来ることは稀であった。
「大将が巡視に出て弾丸が恐ろしいと引き返せば三軍の示しにならない。さすがかの両人は
甲州者だけあって軍陣の法に練熟しておる」と家康はいたく賞誉した。

――『徳川実紀(大坂覚書、感状記)』

一方、息子も似たようなことをやっていた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3141.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1681.html




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 18:38:37.12 ID:Iwm4yr/n
家康が裸で鷹の羽だけ付けてたのかと一瞬思っちゃったよ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 18:49:30.55 ID:CFkShBtG
>>756
このスリルが病みつきになると
銃弾が降り注ぐ中で弁当まで食べる戦中毒になるのかw
ダメ。ゼッタイ。

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 19:29:52.90 ID:5C2y/gx8
この時代の素肌は裸のことじゃなくて鎧をつけていないことって
前この板で教えてもらったよ

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 20:04:56.01 ID:R9HsZojG
素肌攻めじゃな

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 20:18:57.87 ID:v4yYEJ1c
>>760
毛利秀元「戦闘の最中に弁当とかバッカじゃないの?」

横田甚右衛門尉尹松の嘘と正直

2011年03月14日 00:01

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/12(土) 22:44:25.94 ID:vMZuxmwz
大阪夏の陣のこと。

徳川家の軍監、横田甚右衛門尉尹松(ただとし)はある日眠りが深くつい寝坊し、
軍監の職務である陣営巡検の時刻を過ごしてしまった。
大急ぎでその場に行くが、当然、もう巡検は終わっている。
同僚のものは「横田殿、どうして今日はあんなに遅参されたのか?」と問うたが、横田

「い、いやいや、拙者今朝は浜辺のほうが気になって、そちらの方を
巡検したのです。そのためこちらに来るのがこのように遅れてしまいました。」

と、つい嘘をついて誤魔化してしまった。
しかし同僚たちもその説明に納得し、疑うものも居なかった。

さて、大坂の陣が終わる。

徳川家康のもと旗本たちの武功の論考をする会議が開かれ、その場には軍監である
横田甚右衛門も当然呼ばれた。

ところが、この席で思いつめたような顔をしていた横田は、突然その場の皆に向かって
叫んだ

「せ、拙者は!大坂の役の過日、寝坊し巡検の時刻に遅れました!
しかしその場で本当のことを言うことが出来ず、浜辺の方に巡検に行ったため
遅刻したと、誤魔化してしまいました。
そんな卑怯な私が今この、重要な会議である論功の場にいること大いに恥じております。」

そして家康の方に向かって土下座し

「どうか、どうか拙者を、軍監のお役目から解任してください!!」

その席、会議を前に静まりかえる。

これを聞いた家康、声をかけた。

「甚右衛門よ、わしはな、お前がそんなふうに正直であることを知っているから、
この席に呼んだのだ。

さあ、堂々と会議に加わるが良い。」


この言葉に甚右衛門は咽び泣いた。
そして会議の席に加わった、と言う。


横田甚右衛門尉尹松の嘘と正直、と言うお話。





259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 00:00:15.94 ID:8j2hlrZ6
>>255
普通にいい話で心が安らいだ

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 01:58:11.87 ID:6Umt1AUR
>>255
愚直者が男泣きする話って好きだ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 07:01:04.31 ID:PnSCZBDU
>>255
横田尹松って高天神城のときからずっと現役なんだから息が長いね。

家康にとっても若き日の好敵手だったんだろうから大事にしたのかも。

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 09:37:56.33 ID:f4ALFCPq
家康と甲州武士って良エピソードの宝庫だな

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 09:45:21.72 ID:u3hUxyr2
その代わり嫉妬に狂った三河武士からは突き刺さるような視線が・・・。

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 12:42:35.13 ID:SjhqW754
家康が天下を治めた後だから余裕だな

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 13:19:47.58 ID:BJwR9Ocy
>>263
玉砕覚悟で外様たる信濃衆駿河衆が戦ってんのに
甲斐本国人が逃げ帰ってんだぜw

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 14:11:05.13 ID:u3hUxyr2
>>267
信濃衆は勝頼から見れば譜代だとおもう。
それに長篠で名立たる甲斐出身の老臣はやられちゃったからね
将も兵も小粒になってしまったんだろう。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/13(日) 14:55:13.40 ID:ZNDXKsc0
>>269
そもそも甲斐衆自体、信虎が強引にまとめたのを信玄個人のカリスマで繋ぎ止めてただけで
もともと地侍の連合体にしかすぎなかったからな
個々の戦闘力はともかく、集団としての本質はどうしようもない鳥合の衆
団結力は三河衆や土佐の一領具足に遠く及ばない