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「武家閑談」から庵原朝昌について

2023年03月10日 19:41

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:25:14.10 ID:BoWZ+Eku
「武家閑談」から庵原朝昌について

ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:27:57.91 ID:BoWZ+Eku
助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守安。右京のちに清左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。

二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。



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「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

2023年03月09日 18:29

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:50:34.21 ID:5gsbhMFH
武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:52:41.95 ID:5gsbhMFH
清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。



「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

2023年03月07日 19:00

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:10:13.65 ID:h0QaWSzD
武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。

「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

2023年03月06日 19:44

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 12:43:20.98 ID:Y3zjxpvb
武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。



702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/10(金) 13:19:38.82 ID:AqPhcBaW
>>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 15:19:04.75 ID:w0q880jL
馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ

「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)

2023年03月05日 16:11

698 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/05(日) 01:02:03.61 ID:aoFtKw4a

武家閑談」から上田宗箇(上田重安)
上田主水入道宗古(宗箇)は関ヶ原の時に三成方にむいたため、浅野幸長に預けられた。
それまでは一万石で、明智光秀逆心の時に織田七兵衛信澄(津田信澄)の首を取ったこともあったが、元来茶の湯で名が高かった。
ある時、和歌山の堀で普請があり、宗箇は大石を引いてきた。
柿の木綿羽織で馬に乗っていたがあきたのか、舟の舵を大紋につけ、渋手巾で鉢巻し、石の上に登って下知をした。
若い侍どもは「殿様はなるほど大名だ。なにせ一万石の茶坊主を抱えているんだから」と嘲笑った。
そのことが家中に知れ渡ったため、浅野幸長は宗箇のことを気にかけ、諸士の前で宗箇に脇差を賜り
「家中で何かと批判されているが気にかけるな。一大事の時に役を勤めてくれ」と言った。
宗箇も脇差をいただき「この脇差を血をつけることを願って、忍びましょう」と退出した。
家中のものはまた笑って「拝領の脇差に何の血をつけるのだろう。ネズミか?猫か?」と嘲った。
幸長死去ののち、大坂の陣で元和元年(1615年、ただし元和改元は大坂の陣後)四月二十九日に泉州樫井合戦で上田宗箇は一番槍をなし、しかも山縣三郎右衛門を組み打ちにした。
浅野但馬守長晟の本陣に参ると、長晟は感悦至極であった。
宗箇は座を立って「みなみな以前我を茶坊主と申し、そののち幸長様が脇差を下さった時、我が「この脇差に血をつけましょう」と申すと「茶坊主が武道とは」とまた嘲りましたな。
今日は茶道の宗箇ほどの働きをした方はいないように見えますが」
と言うと、誰も一言も言わなかった。



「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

2023年03月04日 17:57

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/03(金) 20:05:29.67 ID:OTZl9wjf
武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

広島浪人所持覚書によれば、浅野但馬守長晟が大坂に在陣している最中に熊野北山一揆が起きた。
一揆の大将は、大嶽の前鬼津具および山室という者だったという。
長晟より熊沢兵庫を大将として討手を派遣した。
前鬼津具は熊沢が大軍だったため新宮から西の川へ逃れ、雪に降り込まれ凍え死にした。
和州川井村の一揆の大将山室は北山へ逃れたため、熊沢が追いかけると、山室は一揆勢に下知して二、三度防戦して退いた。
熊沢兵庫はそれでも追いかけ、大沼村・竹平村の間に迫った。
山室は川を渡り上り、岩の陰で隠れ、熊沢を待ち受け、太刀打ち、組み打ってるうちに兵庫が下となった。
そこに長田作兵衛が駆けつけ、山室を突き倒し、首を取った。
兵庫と作兵衛が山室の首をそれぞれ自分のものだと主張したため、溝口五右衛門は進み出て
「兵庫が初め太刀打ち、組み打ちしていたのだから作兵衛は援助したということになる。
高名は兵庫のものだ」と山室の首を兵庫に渡した。
溝口の裁判が良いと思ったため、書き留める。

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/03(金) 20:19:36.10 ID:tsS3dxGo
「和歌山県史 近世史料三」の「七 一揆・騒動」に収録されている、慶長の時にまとめられた「北山一揆等取集書付」にも同じ話が見える
「熊沢兵庫川井村山室討候節ハ互ニ太刀打致、夫ゟ組合兵庫を組伏候所へ永井作兵衛出合山室を鑓にて突首を取、
其時兵庫と作兵衛論ニ成を溝口五右衛門と云者申候ハ、作兵衛手柄之程我等見申候、
首ハ兵庫組之旨兵庫へ首ハ渡候へと被申」

また後呂忠一「北山一揆について」という論文から孫引きとなるが
「自得公済美録」(浅野家の家史「済美録」の浅野長晟の代)に北山一揆についても記されていて
・河井村の山室、善鬼の津久、堀内将監、中村某、小中某は五鬼として知られていた
・熊沢兵庫が大沼村へ行こうとした所、五十才ばかりの夫婦を見つけ打ち取ろうとしたが、甲冑をつけていたために逆に組み敷かれ、女が持ち出した松割包丁で殺されそうになった。
そこへ新宮の住人永田五郎左衛門に助けられ相手の首を打ち取った。
首を調べるとそれは一揆の首謀者の一人、山室鬼助であった。
と書かれているとか。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 07:22:41.41 ID:QrIMP5Y9
2021年1月6日の朝日新聞デジタルの記事に五鬼について書かれていた
「私は鬼の末裔」記者に断言 熊野「五鬼」姓の謎を追え
>伝承の舞台は奈良県は下北山村の前鬼(ぜんき)集落。
>今から約1300年前、前鬼、後鬼(ごき)という鬼の夫婦がいた。この夫婦は山で修行する修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)の姿に心動かされ、仕えるようになった。
>そして「里へ下りて人として生活しなさい」との命を受けて暮らしはじめたのが前鬼集落だったという。
>前鬼と後鬼の5人の子は、修験者を世話する五つの宿坊を開いた。それぞれ「五鬼童(ごきどう)」「五鬼上(ごきじょう)」「五鬼継(ごきつぐ)」「五鬼助(ごきじょ)」そして「五鬼熊」と名乗った。



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 09:48:16.36 ID:83OMXFqB
鬼といえば人喰い

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 09:52:42.48 ID:CiDNdMPi
ここから戦国時代にどう繋げるのかなと思ったんだけど終わりなのかな?

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:06:52.06 ID:7UlQfOc/
IDが変わっていて、わかりづらくてすいません
朝日新聞の五鬼の記事について書いたのは、熊野北山一揆の指導者とされる
「河合村の山室(五鬼助?)」と「善鬼の津久(前鬼継)」がともに「済美録」では五鬼とされていて
五鬼の由来が役行者にまつわるという話がおもしろいため、付け足しただけです

691 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:09:53.89 ID:7UlQfOc/
またIDが変わってる。
>>685->>687は自分です

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:15:22.69 ID:Gyvr4Std
でどうやって繋げるの?

693 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/04(土) 13:29:25.72 ID:HF8bfFEn
毛利のところにいた世鬼は子孫かしら

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 13:53:57.64 ID:V+jxazcg
鬼小島が先祖です

697 名前:689[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 21:09:04.15 ID:/s1Ow7Jx
>>690
ああ、前の話への付記だったのね
こちらこそきちんと見てなくてごめん

698 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/05(日) 01:02:03.61 ID:aoFtKw4a
いえいえ気になさらず


705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:41:23.47 ID:h0QaWSzD
ついでにいい話スレに投稿した熊野北山一揆の話で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13841.html
武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

溝口五右衛門という人物が出ているが
>>507の「新東鑑」の話のように(「武家閑談」でも同じ話が上田宗箇の後にある)、同じく浅野家の亀田大隅守高綱も元は溝口半之丞と溝口姓
「木村又蔵」という講談では柴田勝家の元にいたときに産女(うぶめ)の妖怪に会って怪力を得たことになっている。



「武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い

2023年03月04日 17:56

695 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 14:58:18.47 ID:7UlQfOc/
武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い

>>685の次の話
同じく広島浪人の覚書の樫井の一戦によれば
(大坂夏の陣の一戦、熊野北山一揆と同じ頃)
紀州勢(浅野)は八丁畷から樫井町に入り、亀田大隅守(亀田高綱)は大梨打の兜、鷺の芦毛の羽織で人数に下知し殿軍した。
その武者使いはなかなか見事であり、良き大将に見えた。
樫井町に三丁ばかり乗り入れた所に大坂方がやってきたため亀田が向かうと、岡部大学(岡部則綱)がこの口にかかってきた。
亀田が町内に引き取ると、塙団右衛門(塙直之)勢、七、八十人ばかりが入ってきた。
上田主水(上田重安)は二十騎ほどで樫井町に潜んでいたため、塙勢が入ってきたところに一番槍で槍を合わせた。
上田主水配下の高川原小平太、水谷又兵衛、横井平左衛門が五、六人程で大坂方を追い立てると、亀田大隅守も上田主水に合流した。
大坂方は引き返し、塙団右衛門の家来の坂田庄次郎が真っ先に主水にかかってきたが、主水は槍で突き伏せ、小姓の横関新三郎に首を切らせ、足軽に命じて浅野長晟本陣に首を持って帰らせた。
また亀田勢は大坂方の山田五郎左衛門や金丸小膳以下数多を突き立てた。

696 名前:690[sage] 投稿日:2023/03/04(土) 15:01:17.76 ID:7UlQfOc/
橋のたもとで塙の家来、山形三郎右衛門(山縣昌重。山縣昌景の息子)が上田主水と槍を合わせたが、亀田大隅勢が大坂方を追い立ててきたため少し下がった。
主水が「上田主水である。引き返して勝負せよ」と山形に声をかけたため、山形も引き返した。
主水は槍で打ったが、槍の柄が真ん中から折れてしまった。
間髪入れず山形は主水を組み伏せた。
小姓の横関は主人を助けようと山形にかかったが、山形は横関をも同様に押し伏せてしまった。
上田主水配下の横井平左衛門は大坂方の一人を家の軒下に突き伏せつつ、主水に呼びかけたが返答がなかった。
振り返ると主人の主水は組み伏せられ、半月の立物も落ちていたため、突き伏せていた敵を捨て、平左衛門は主水の上に乗っている山形の高股(たかもも)を切り落とし、引き倒した。
主水は起き上がり「その首は小姓の新三郎に取らせよ」と命じたため、新三郎の高名となった。
横井は山形の下人をも切り伏せ、先程の首と合わせ二つ高名をなした。
塙団右衛門は田子助左衛門と渡り合っていたが、田子が放った矢が団右衛門の上帯に当たり、いきりたった団右衛門は十文字槍で田子の弓の弦を切った。
そこへ八木新左衛門が来て渡り合い、団右衛門は手負であったが果敢に戦い討ち死にし八木が首をとった。
こうして大坂方の討ち死には、芦田左内、横井治左衛門、山田権三郎、須藤忠右衛門、熊谷忠太夫、徳永浅右衛門、坂田庄次郎、山形三郎右衛門、そのほか四人で都合十二の兜首となった。
首を二条城へ持ち帰り、浅野長晟からこの旨報告した。



「武家閑談」から徳川頼宣の詩歌

2023年02月26日 16:26

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/25(土) 20:25:06.11 ID:iwVM1kCD
武家閑談」から徳川頼宣の詩歌

頼宣公、江戸御参勤のみぎりに伊勢の高見山(神武天皇の八咫烏の導きによる東征伝説の舞台)を越えられた時
頼宣公「武士(もののふ)の弓箭(ゆみや)とる名の高見山、猶幾度も越んとぞおもふ」
また芳野へ花見に登山なされた時、雨が降り旅宿で手持ち無沙汰となったため、浜田という医師などが御伽として連句を行った。
浜田は当座に
「不思廬山雨、為君開百花(思わざりき廬山の雨、君の為に百花を開かんとは)」※「不憶廬山雨、為君湛百花」というバージョンも
と一句をつかまつると、頼宣公は
「堪斟盤谷水、対客喫新茶(斟むに堪えたり盤谷の水、客に対ひて新茶を喫す)」
と詠まれたという。

浜田が使った字が「湛」の場合、「堪」「斟」とわざと「甚」がつく漢字を使ったことになる
また「盤谷」で検索するとタイの首都バンコクの漢字表記と出てきたが、韓愈の「李愿の盤谷に帰るを送る序」に出てくる
「太行の陽(みなみ)に盤谷あり。盤谷の間、泉甘く土肥ゆ」の方だろう。



「武家閑談」から黒田彦左衛門

2023年02月25日 18:18

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/24(金) 23:06:25.68 ID:b2jcO/M3
武家閑談」から黒田彦左衛門

大坂城落城の時、大坂方の赤母衣衆を榊原康勝家臣の黒田彦左衛門が討ち、首を取ろうとした。
そこへ同輩の三枝勘兵衛がやってきて
「彦左衛門よ、その首はともに討ったことにしよう」と言うと彦左衛門は首を打ち捨て、先に行った。
勘兵衛は恥じ「この首は彦左衛門が取った首だ」と声をかけたが彦左衛門は振り向かなかった。
論功行賞の時、三枝勘兵衛は「この首は黒田彦左衛門が取った首です」とことのあらましを言ったため
黒田彦左衛門を呼んで首のことを尋ねたが、彦左衛門は「まったく覚えのないことです」と答えた。
勘兵衛は事情をつぶさに述べて、彦左衛門に何度も認めさせようとしたが彦左衛門は「覚えがない」としか答えなかった。
このことが両御所(家康と秀忠)の上聞に達し、まことに感心なされたということだ。
孟之反が殿軍をしても「進んで殿軍をしたのではなく、馬が進まなかったからだ」と語り(「論語」に見える)、
馮異が光武帝の元で度々手柄を立てたにも関わらず功を誇らなかったようなものだ。



「武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣

2023年02月24日 19:17

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/23(木) 19:40:08.37 ID:0RbDe1Xr
武家閑談」から島原の乱の時の徳川頼宣

寛永十五年(1638年)二月二十一日の夜、島原の城から黒田、寺沢、鍋島勢に夜討がなされ、黒田忠之の究竟の侍数十人が討死にしたと江戸へ注進があった。
鍋島も「井楼や竹束なども焼かれた。なかなか城方の一揆勢は強い」と告げてきた。
御三家もそのため江戸城に登城し、諸大名も皆どうしたものかと思案していると、
紀伊大納言頼宣卿、御一人はその知らせを聞き
「さてもめでたい事である。近日中に城は落ちるだろう。
鍋島は井楼を焼かれたとはいえ、城内におる者どもの武官としての器量のほども知ったと見える」
とおっしゃると、諸大名は皆々こころえぬ顔をしていた。
そうこうしているうちに落城を告げる使者が来たため、諸人は頼宣卿に深く感心したという。



「武家閑談」から真田大助と三人の小姓

2023年02月23日 18:43

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 21:55:36.40 ID:ZjICsJeG
武家閑談」から真田大助と三人の小姓

秀頼公に御供した三十二人のうち、高橋半三郎は十五歳、土肥庄五郎は十七歳、高橋十三郎は十三歳で、三人はいずれも秀頼公の御小姓であった。
秀頼公御自害の時、秀頼公の上意により、上﨟どもは皆介錯を受けることとなった。
三人の児小姓と真田大助は幼少であり、加藤弥平太と武田左吉が介錯を申しつけられた。
三人の児小姓と真田大助はいずれも具足を脱ぎ、四人とも西に向かって並んで手を合せ、念仏を高らかに唱え、
雪のような肌をおし脱ぐと、四人一度に声をかけ、いさぎよく切腹した。
弥平太と左吉は介錯し終わると刀を捨て、涙をむせび泣いたという。



677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 23:07:30.48 ID:muSIJZw6
誰が見たんだよその場面

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/22(水) 23:15:28.01 ID:QsUorrkW
神君です

「武家閑談」から真田大助

2023年02月22日 19:04

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:27:41.98 ID:bL5twcMw
「武家閑談」から真田大助

五月七日の合戦前に真田左衛門佐(真田信繁)は秀頼公が御出馬されないため、子息大助を人質に城へ置き、自身は出陣することにした。
大助は十五歳であったが
「父上はお討死を決意されているようです。
私は父母の懐に生まれてより、これまで片時も離れずいました。
去年、大坂城に入る時に母上とは生き別れ、その後の母からの文でも
「互いに会うことはもうないでしょう。
どうか父の御最後を見届けなさい。生きようとせず、同じ枕で討ち死にして真田の名を挙げなさい」
と常々言われております。
ただ今父を見捨てて城に戻ることはできません」
と左衛門佐の袖に取り付いて泣いた。
左衛門佐も真田の軍兵も泣かぬものはなかった。
左衛門佐は涙を拭い、はったと大助を見つめて
「武士の家に生れた者は忠義名利を大切にして父母を忘れ、自分の身を忘れるものだ。城へ入れ。
秀頼公御屋形の御側で死ねばすぐに冥途にて巡り合うだろう。
暫時の別れを悲しむのは弓箭の家に生まれた者として甚だ未練がましい。早く城へ入れ」
と取り付く手を引き離すと、大助は名残惜しげに父を見て
「さようであればお城に参ります。来世でまたお会いしましょう」と別れた。
左衛門佐は気にしないふりをしていたものの、涙で東西がわからぬほどであった。

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 20:29:36.12 ID:bL5twcMw
大助は城に入り、郎等たちを拒み、ただ一人で秀頼公の御供をして芦田曲輪の朱三矢倉へ籠った。
七日の朝食時から翌八日の午の刻まで、秀頼公とその御供三十二人は矢倉に詰めていた。
大助は父の行方を気にして、城中に逃れた人に父について尋ねたところ
「真田殿は天王寺前で大勢の敵陣に駆け入り、馬上で戦い、そののち槍十本ほどに槍玉にかけられてお討死されました」
と詳しく申す者があったため、大助は涙をおしぬぐい、
母と別れた時「最期にはこれを持って討ち死にせよ」と渡された水晶の数珠を取り出し、念仏を唱えた。
こうして秀頼公の御自害を待っていると、速水甲斐(速水守久)は不憫に思い
「貴殿は一昨日誉田の戦いで股に槍傷を負ったと聞きます。
療養のためにここを出なされ。真田の縁者のところまで送り届けさせましょう」
と言ったが、大助は返答せず、念仏だけを唱えた。
八日午の刻、秀頼公は御自害なさり、供の男女三十二人も自害し、矢倉に火をかけ同じ煙に昇った。
大助も腹を十文字に掻き切り自害したため、見る人聞く人「さすが武士の子孫である」と誉めぬものはなかったという。



「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

2023年02月21日 19:09

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/20(月) 20:17:28.56 ID:XEaRtdGo
武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。



「武家閑談」から越前少将忠直御事

2023年02月06日 19:59

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/04(土) 23:44:31.35 ID:HC5xTxLS
武家閑談」から越前少将忠直御事

松平忠直公は大坂城落城のとき、一番合戦で三千七百五十の首級をとられた。
家中の本多伊豆守富正の手は百七十三の首をとり、落合美作守の手は四十八の首をとった。
詮議の時、本多伊豆守は「首数は家中第一である」と自讚した。
そこへ落合美作守が近づき「わが手の首数は手前より多い」と相論した。
伊豆守は「われは百七十三、その方は四十八、どこが首数が多いのか」と言うと
落合「貴殿は七万五千石の身上で首数が百七十三、われは一万石の身上で四十八、計算してみたまえ、我の首数は貴殿の首数よりも多い」
御使者の諸星金右衛門はもとは武州松山浪人で、居眠りして柱に寄りかかっていたが、これを聞きくわっと眼を見開き
「美作の言うことがもっとも至極である」と言った。
伊豆守は閉口したがこの遺恨のため、美作を讒言し美作はその年浪人した。
美作はのちに紀伊大納言頼宣卿に召し出され、三百人扶持の役高で落合卜安といった。
これは江戸で浪人をしていた青木八郎左衛門から聞いた話だ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1544.html
こちらの話では讒言のために浪人、までは書いてなかったので



「武家閑談」真田信繁の大坂城入城

2023年02月02日 19:58

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/02(木) 19:32:25.06 ID:y38eWKJL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-476.html
の元だと思われる
武家閑談」真田信繁の大坂城入城

真田は大坂に着き、その身のまま大野修理(大野治長)殿のところに行く。
その頃は伝心月沢として薙髪であり、玄関で案内を乞うた。
奏者が出てきて「山伏はどこから来た?」と尋ねてきたので
真田はわざと「大峯辺の山伏であります。御祈祷の巻数を持参いたしましたので御目見を願います」と言った。
奏者は「殿は城におられるのでこちらに通るがいい」と番列の脇に呼び入れられた。
御目見を待つ若侍たちが十人ばかりいて、刀剣の目利きをしていた。
一人が真田に向かい「御僧の刀を見せてくれぬか?」と言ったため
真田は「ただの山伏の犬おどしの刀ですのでなかなかお目にかける必要もありますまいが、お慰みになれば」と取り出した。
するりと抜いて柄を見れば、格好は申すにおよばず、刀の匂いも艶があった。
若侍たちは「さてもさても見事なり」と口々にほめ、「中小身はどうだろう」と銘を見ると「貞宗刀匠正宗」とあり、「中小身も見事だ」と言いあった。
ここで皆々怪しみ、さては只者ではないだろう、と思っているところに大野修理殿が城より帰った。
奏者が「玄関にて御目見なさってください」と待っていたものたちを引き出してきた。
大野は真田の前に手をついて「近日お越しになるとは伺っておりましたが、御足労くださったとは。
いそいで城に戻り秀頼公のお耳に入れましょう。どうぞ舎院にお入りください」と言って城に馳せ戻った。
さて秀頼公より速見甲斐守(速水守久)が使いとして馳せ参じ、黄金二百枚、銀三十貫目を下された。
これを見た玄関の若侍どもはあきれかえった。
真田はおかしがったため、そののちその若侍たちに会っては「刀の目利きは当たっていたようだな」と言うと、皆赤面したという。




611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 11:53:24.30 ID:+VrU+S7l
わざわざ正体を隠すとは性格が捻じ曲がった奴だな
そんなクズでも正体を見破り粛々と対応した修理はさすがだ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 14:34:43.05 ID:LD9TP4LV
いきなり真田左衛門佐であるといったとこで、顔を知ってる分けない衛士たちが、はいそうですかと通すわけもなく、軽く弄うてやろうとなるのは仕方ないんじゃないかな
話を作った人はそう考えたんだろう

「武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

2023年02月01日 19:48

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/01(水) 18:55:20.52 ID:+Gwn3Mrn
武家閑談」から真田信繁の九度山脱出

真田左衛門佐幸村(真田信繁)は父安房守昌幸といっしょに高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は橋本峠村近辺の百姓どもに下知し
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき」と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると
「昨夜の八つ時に真田殿が奥方や子連れで馬に荷をつけ、弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。



「武家閑談」から第二次上田合戦

2023年01月31日 19:23

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 19:59:21.02 ID:r6sM9i9Y
>>576の続き
武家閑談」から第二次上田合戦

本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 20:15:34.60 ID:r6sM9i9Y
というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役



「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

2023年01月23日 19:34

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:45:38.06 ID:vbYgp9gn
>>571の続き
武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:48:58.23 ID:vbYgp9gn
城方は手始めに相手方の二人を殺し、負傷させた、ということで真田兵の山本清右衛門と依田兵部がただ二人で追い打ちをかけにきた。
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述)



結城秀康と出雲阿国の有名な話

2023年01月20日 19:36

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 00:14:39.38 ID:2hnP0MBz
武家閑談」から結城秀康出雲阿国の有名な話

慶長年中伏見にて、越前黄門秀康公(結城秀康)のお屋敷に、お国というかぶき女を召し、かぶきを踊らせて御見物なさった。
お国が水晶の数珠を襟にかけて舞ってるのを御覧になった秀康公は
「水晶は見苦しい」と御具足の上にかけていた珊瑚珠の数珠を与え、お国の舞を御覧になった。
秀康公は御落涙され、おっしゃることには
「天下に幾万の女がいるが、一人の女と天下にも呼ばれるのはこの女である。
我は天下一人の男となる願いが叶わず、女にさえおとっているのは無念である。」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6502.html
こちらのウィキペディア出典の話も元は「武家閑談」のようだが、珊瑚珠の話まではなかったので



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 00:52:01.46 ID:OE2713w2
情緒不安定期だな

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/20(金) 12:06:05.28 ID:tNBITfCz
今なら「女にさえ」でアウトだな
面倒くさい時代になったもんだ・・・

玉虫次郎九郎の物見について

2023年01月19日 19:11

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:25:40.76 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」から玉虫次郎九郎の物見について

権現様がおっしゃるには
玉虫次郎九郎は空気(うつけ)ではあるが戦場では眼が八つあるほどの働きをする。
天正十三年(1585年)の上田の城攻めの時、酒井左衛門尉(酒井忠次)が物見をした。
次郎九郎の兄の城和泉(城昌茂)が「軽々しい振る舞いだ」とそしったところ、
次郎九郎は「あの上杉謙信ですら物見をなさった。
また謙信や酒井のような大身であれば物見ではなく見分と言うべきだろう。
内藤四郎左衛門(内藤正成)や我らがなすのがまことの物見である。」
と言ったそうだ。申すべき格言である。