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鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は

2023年05月17日 19:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/16(火) 21:01:32.73 ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

甲陽軍鑑



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【ニュース】“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開

2023年05月15日 20:27

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:01:07.43 ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
CNTS2023042600087_S.jpg

NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。

諏訪法性の兜について

2023年05月15日 20:25

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:05:37.68 ID:ZDewH9ua
笹間良彦甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html



足軽大将、侍大将の心得

2023年05月14日 17:52

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/14(日) 13:33:46.82 ID:h/ZA9HOh
足軽大将が心得るべきことは、自身で戦働きをするのは過失に繋がるという事である。
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。

侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。

若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。

甲陽軍鑑

足軽大将、侍大将の心得について



これらが三つの采配であり

2023年05月10日 19:16

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/09(火) 20:18:51.52 ID:z2UNFaNf
大将の三つの采配とは、第一に、常々自国・他国共に武士の手柄、忠節、忠功について、上中下共に
よき評価をすること。

第二に、人をよく見知り、それぞれに役を申しつける事。

第三に、忠節、忠功の武士に、手柄の上中下をよく詮索した上で、三段に恩を与えること。

これらが三つの采配であり、こういった事が悪しければ、諸侍は行儀ばかり慾り、上中下のうち
下の手柄であっても、様々なやりようで上になるのだと心得、戦場での働きを控え、軽薄な者
ばかりとなって、その大将の矛先が弱くなる。

であるから、この三ヶ条は国持大将の采配である。
そしてまた、手で采配を振るうというのは、国持大将の下である侍大将、或いは足軽大将の役目である。

甲陽軍鑑



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 10:33:50.91 ID:f26oxxe6
じゃあその三条の具体例が続くのかな
それともここまでに書いてるのかな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 12:16:35.86 ID:tcUmS+y+
ワイは人を見る目は確かで適材適所ができて適切な評価で褒賞授与できる大将(笑

戦いには、勝ち様が三つ有る

2023年05月06日 16:13

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/06(土) 14:50:46.01 ID:MCigo0Yu
武田信玄公は大将衆への御仕置において、このように御諚された

「競り合い・合戦といった戦いには、勝ち様が三つ有る。

十のうち六分・七分の勝ちが一つ。
十のうち八分・九分の勝ちが一つ。
十のうち十全の勝ちが一つ。

第一に、十のうち六・七分の勝ちは、これ十分の勝ちである。
第二に、十のうち八・九分の勝ちは危うい。
第三に、十のうち十分の勝ちは、その後必ず過失があって、跡の誉れを無にしてしまうだろう。」

また信玄公は宣われた

「若き大将が十分に勝っても、そのため過失があっては、その後どれほどの勝利を得ても、
若き時の過失による敗北を引き出され、後々までその過失を指摘されるものである。

必ず大将たらんとする者に、十を十ながら勝ちたいという思案があれば、それは自分の心中より
大敵・強敵を数々作り出し、勝利を失うであろう。

そういった意識は悪事を招くものなのだと、相心得るように。」


甲陽軍鑑



時期外れのこの桃を捨てたこの分別は

2023年04月05日 19:06

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 21:21:31.29 ID:7VhXufKi
武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、

『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。

この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』

これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された

「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。

さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」

そのように宣われた。

甲陽軍鑑



779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:18:07.62 ID:sy19QJwM
>>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 12:27:27.97 ID:wrO1aHin
毛利輝元と石田三成「テルとジヴ」・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-954.html

で輝元が秀吉に贈った桃を拒否している

781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:31:22.08 ID:sy19QJwM
>>780
おお、それだ。
ありがとうございます。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 16:53:04.10 ID:QdzFzLJH
少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな

敵討ちのことについて

2023年04月02日 17:20

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 16:24:46.07 ID:0/464KFC
敵討ちのことについて。

先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。

次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。

自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。

他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。

甲陽軍鑑



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 09:10:38.20 ID:d0SphvuW
>その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。

ここすき

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:14:50.13 ID:Flu5Hexi
この書き方だと、妻や子供の敵討ちというのは、弓や鉄砲は駄目なんだな。

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:22:08.31 ID:mUM08mQR
そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ

「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

2023年03月26日 18:52

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 22:46:11.27 ID:hu1HyIr1
「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 23:06:10.78 ID:hu1HyIr1
(続き)
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-497.html
武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話


後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/26(日) 10:53:20.18 ID:AqAmt3K9
まだ真田宝物館に旗があるようだ

武田信玄公は、軍法を新しくなされた事について

2023年03月22日 19:32

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:17:10.16 ID:x6CQOMpB
甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された

・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし   聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ  達磨大師

『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。

凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。

件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。

さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』

と宣われたのである。

甲陽軍鑑

信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。



武士が武士を褒める作法

2023年03月01日 19:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 22:50:36.52 ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

甲陽軍鑑



現代、織田信長は天下に意見するほどであるが

2023年02月27日 19:31

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 20:07:30.52 ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

甲陽軍鑑



南部殿は改易され

2023年02月22日 19:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/21(火) 21:32:02.19 ID:MJ0bmBdm
南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。

無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。

この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は

『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である

一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。

一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。

一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。

この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』

このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。

甲陽軍鑑



武田信玄公の人を召し使い方は

2023年02月15日 19:06

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/14(火) 20:42:38.59 ID:UZkk1VwY
ある時、馬場美濃守(信春)がこのように申した。

武田信玄公の人を召し使い方は、何とも私の分別に及ばない。どういう事かと言えば、
例えば職(裁判官)を用いての公事(裁判)沙汰などの裁きようは、物を読み物を知って、いかにも慈悲
やわらかなる人の技であると思えるのだが、或る年には原美濃守(虎胤)という大剛強のあら(荒)人に
職を仰せ付けられた。こういった事が不思議だと申したのは私ばかりではなく、各々が取り沙汰したのだが、
結果としてこの原美濃守の抜擢は、なんとも良き仕置であった。

そうではあったが、この原美濃守が公事にかかりきりになると、諸々の境目(国境)における武士道の御用が
困難になるとして奉行を上げられたが、その後しばらく、二,三ヵ月も後任の職が定まらなかった事、
また原美濃守殿ほど公事に理屈、批判を用いる裁判官は無いと言われたことは、信玄公の御工夫が
浅くなかったからこそである。

そのようであったからこそ、信玄公が何処へ御馬を向けられ、しかも敵国深くでの働きが有る時も、
諸々の武士、大小共に侍衆の事は申すに及ばず、誠に雑人まで「定めてこれは勝つだろう」と思い、
少しも撤退すべきなどとは考えなかった。これは信玄公の智略賢くまします故である。」

甲陽軍鑑



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/15(水) 17:10:30.83 ID:7xbgD4U9
その割に政治力低いのな

朝に志し、夕べに思うほどに

2023年02月11日 14:54

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 11:59:15.16 ID:Jx7Icl4Q
ある時武田信玄公はこのように言われた

「世の中の人は色々である。既に分別が有っても才覚のない人が有り、才覚が有っても慈悲のない人が居る。
慈悲が有っても人を見知らぬ者もある。

人を見知らぬ者は大身の場合、彼をとりまいている者共はその十人の内八人ほどに、役に立たない者が多い。
小身の場合、彼が親しく付き合う朋輩の、悪しき友人に近づく。
このように、人は色々様々に変わって見えるが、要はただ、分別の至らぬ心のゆえである。

分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても能く
行うものだ。そのように、人間は「分別」の二文字を諸色の元であると認識し、朝に志し、夕べに思うほどに
分別をよくせよ。」

そのように信玄公は仰っしゃられたのである。

甲陽軍鑑



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/11(土) 12:21:33.73 ID:x/H7JQan
甲陽軍鑑の武田褒めは空々しくて寒々しい

これはみな虚言である

2023年02月08日 19:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 20:59:36.20 ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

甲陽軍鑑

野田城の戦いについて



信玄公、人の御使いなされよう

2023年02月03日 18:50

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/03(金) 18:42:25.15 ID:G38mHENW
信玄公、人の御使いなされよう

信玄公は第一に、後ろ暗さが無いようにとされた。諸人が後ろ暗くなるのは、御恩を下す際、
上中下の詮索もなく、忠節、忠功の走り廻りも無い人々に所領を下すような事をすれば、
手柄のない人々は必ず軽薄を以て、功を繕って立身する故に、実際に忠節、忠功を成した人を嫉み、
悪口して逆に己の党の者を褒める。そういった者たちの奥意は主君への御為も思わず、
意地を貪って、へつらいまわる心である。故に、後ろ暗くなるのである。

信玄公は忠節、武功の武士には大身、小身によらす、尊卑にもよらず、その身の手柄次第に感状、また
御恩も下された。故に人が贔屓を執り成す事も、少しも叶わなかった。そのため、諸人の後ろ暗い事も
少なくなったのである。

甲陽軍鑑



遠州から立ち退くことは有るまじき

2023年02月01日 19:46

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/31(火) 21:26:19.84 ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

甲陽軍鑑

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。



信長の弓矢が締まっているとは

2023年01月25日 19:25

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/24(火) 21:32:04.96 ID:bZTeiPzH
午の年(元亀元年)の極月に武田信玄公は、馬場美濃、内藤修理、山縣三郎兵衛、高坂弾正、
小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介の七人を召して、弾正にこのように仰せになった。

「信長の使いである織田掃部(忠寛)は、家康の人質(松平康俊)が甲府から逃亡した事について
どのように申していたか。」

高坂承り
「掃部が申すことによると、

『信長がこれを聞けば、家康も届かないことだと考えるでしょうが、定めてこれは家康も知らない事でしょう。
源三郎(松平康俊)が不覚悟であったために、そのような事態になったのだと推量いたします。
ですので、やがて又、定めて別の人質を、家康より武田に進上するでしょうし、そうしなかったとしても、
信長は信玄公に御無沙汰申し上げるような事は少しも有りませんので、以後は信長からも、
舎弟なりとも子息なりとも、進上致されるでしょう。』

このように、いかにも異議無きように、織田掃部は請け合いました。」

信玄公はこれを聞かれ
「信長は去年近江坂本において朝倉義景と対陣し(志賀の陣)、又は当年七月より天下を支配仕るにつき、
我々としては信長家中の者を深く取りなし、弓矢の義を能々問わなければ、弾正に対して本音を申すような
事は無いだろう。隼人、大炊介に対しても申さないだろう。偶々であっても、各々の被官共に語ったような
事はなかったか?」

高坂も隼人、大炊介いずれも「承らず候。総じて信長の使いに限らず、どこからの使者衆も、当方に参って
武者雑談などは終にいたしません。」と申し上げた所、馬場美濃がこのように申した

「尾州犬山の城主であった津田下野守(織田信清)は、信長の姉婿でしたが、信長に負けて追い出され、
諸国を牢々いたし、三年前より東国へ参り、御舎弟の一条右衛門太夫(信龍)殿のはなしの衆に成り、
犬山哲斎と称しております。この人の語った所によると、信長は武辺形義について、父弾正忠(信秀)を
少しも真似ず、舅であった斎藤山城守(道三)の、弓矢形義を仕ると。そしてそそけた(乱れてだらしがない)
ように見えても、実際は殊の外締めた働きをしている、そのように沙汰致しました。」

信玄公は仰せになった
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることが出来ず、小身故に今川義元の旗下となり駿府に出仕した。
斎藤山城は、殊に我らを頼まれていた土岐(頼芸)殿牢々の後、美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には越前より朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどであり、斎藤の弓矢を
弾正忠と比べると、はるかにその弓矢の位は上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取り入れたのは尤もである。

しかも、山城の孫である龍興を信長は押し散らし、美濃侍を数多抱えたのであるから、父弾正の代には小家中
である故に、侍はどうしても大きな家中の家風を真似るものであり、おのずから信長衆も大体の事は、
斎藤山城のやっていたように致すのだ。それは意図的に真似ようとしなくても、例えば浄土寺へ行けば、
自然と念仏を申したく成る心が湧くのと同じ事である。」

また信玄公は馬場美濃に問われた
「信長の弓矢が締まっているとは、どういった事を根拠に犬山哲斎は申しているのか。」

馬場は
「ある時、犬山勢が油断し、侍を在々へ皆返した時、信長は七千の人数を以て犬山の宿町まで乱入しました。
しかし哲斎方十八人が反撃し彼らを追い出し、その後信長勢を追尾し、上方道を一里あまり追ったものの、
信長勢は返してこれと戦おうとせず、逃げ散ったような形となりました。しかし尾張中は皆信長に降参仕り、
犬山一人で信長に楯突くこともは今後成り難くなったため、終に城を渡し牢人仕りました。

信長の七千の人数が、十八騎に追い出されるということは無いでしょうが、尾張一国が皆信長に
従う上は、犬山も問題なく手に入るものであると判断したため、分別して哲斎をさほど強硬に攻めなかった、
という事から、「締りある」と哲斎は物語ったのです。」
と申した

甲陽軍鑑

武田家における信長の軍略についての認識について



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/25(水) 00:08:10.64 ID:AqQAHLQG
一矢報いたというのが言いたい負け惜しみやんけ

636 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/10(金) 10:46:03.47 ID:GWEK21bA
>>585

徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。

歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf

さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。

遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。