異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…
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新たに征服した地域を支配する際の注意点

2018年04月01日 19:25

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

平瀬落城

2018年03月23日 16:48

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 00:27:11.74 ID:JOeEPDaN
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』


小笠原長時の没落

2018年03月19日 17:30

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 00:20:42.28 ID:9EDGobDw
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』


神田将監の存分

2018年03月17日 18:15

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 05:18:29.71 ID:KXMpkOSs
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』


大手が敗軍した以上は

2018年03月13日 18:09

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 05:09:35.30 ID:YaEquyta
小笠原信貞は家老の多科惣蔵と溝口刑部を召して御命じになり、長時公(小笠原長時)が下諏訪
の城代・板垣を攻めなさるため諏訪へ取り掛かり申すにつき、下条殿と御談合のために

溝口刑部を御遣わしになり、伊那衆の侍はいずれも一身にして打ち立ち、下条殿、片桐、飯島、
知久、晴近の衆は下伊奈を5月中旬に出立し、相沢・駒沢まで詰めていた。そこに長時公が

諏訪峠合戦に敗軍の由が聞こえてきた。信貞公が仰せられたことには「一日早く出立していれば、
晴信方を切り崩していただろうに」とのことであった。その日は平出を越えて相沢・駒沢に陣を

取り、密かに出立した。伊那の軍勢の押さえのために板垣信方(信憲?)が置かれていたので、
下伊奈の軍勢が相沢・駒沢に詰めていたところを信方は攻め掛かり、小笠原信貞に切り崩されて
小尻まで追い討ちし、武田晴信方の首を多数討ち取って信貞は勝鬨を上げなさったのである。

板垣信方はやっとのことで下諏訪へ引き取り申した。信貞が仰せられたのは、「大手(長時本陣)
が敗軍した以上は、搦め手で勝利したといっても保科弾正(正俊)は晴信に心を寄せ、そのうえ
松島や大出などもそうであるから、対陣には及ばない」とのことで、伊那へ御引き取りなさった。

――『二木寿斎記(二木家記)』


塩尻峠の戦い

2018年03月11日 13:23

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 01:25:25.61 ID:lRqFuNmu
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 13:51:07.78 ID:n9GW6pZV
人望ねえな。お高くとまって下々を蔑ろにしてるイメージだわ。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 18:31:06.29 ID:WNA5qEX9
>>592
小笠原さん戦は強いのに勿体ないよね
この頃の勢力差ならまだどうなるか分からなかったのに

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:06:57.16 ID:Que2OFwD
家臣団が強かっただけでしょ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:43:06.79 ID:OrM7ZJsf
御柱祭に乱入したら氏子に撃退されるおちゃめな長時公
お祭りVS戦国大名

諏訪併呑

2018年03月09日 10:59

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 06:39:05.96 ID:54OcSnrL
小笠原長時公は諏訪頼重を味方として、甲斐国内および柳と申すところまで度々御働きになった。
そんなところに晴信(武田信玄)が典厩(武田信繁)をもって頼重へ仰せられたことには、

「武田の味方となりましたら晴信の妹を人質ながら妻子に遣わしましょう。その上で信濃が治まり
ましたら、諏訪に村上郡を添えて遣わしましょう」と色々無事を作り仰せられ、

それに付き、頼重は同心致されたのである。頼重は長時公の家老・小見と申す者の婿でおられた。
小見の娘を追い出して晴信の妹の婿になり、甲斐上原城で祝言されて頼重の息女は甲斐へ人質に
越され申した。これは頼重の先腹の息女である。それより頼重は晴信の味方になったのである。

長時公が仰せられたことには、「晴信が諏訪頼重と縁組して諏訪を甲斐へ引き付けたのは、伊那・
林へ取り掛かろうという知略のためである。しからば、晴信の旗下になった諏訪頼重を踏み崩し、
晴信へ取り掛かって一戦をなすべし」と仰せられ、伊那衆と仁科衆がひとつになって長時公は

諏訪へ御働き遊ばし、頼重の持ち分を焼き払って上野原へ取り掛かった。4,5日攻めると頼重の
者たちを討ち取り、本城ばかりに攻め寄せていたところに、晴信は後詰に蔦木まで御出馬された。

先手は板垣(信方)、飯富兵部(虎昌)、浅利が諏訪の青柳まで参られた。長時公方は伊那衆の
小笠原民部少信貞、下条、箕輪頼親(藤沢頼親)、万西でこの衆が先手となって、長時公の本陣
より攻め掛かって板垣と飯富兵部を切り崩し、首百100ほどを討ち取った。

長時公は実検なさって勝鬨を作り、諏訪頼重は降参して人質を出し、長時公の旗下になられたに
付き、長時公は林へ御入馬されて、伊那衆も帰陣仕った。その後もまた頼重は晴信方になった。

伊那衆の内、箕輪と申すところは6千貫で箕輪殿の領地であった。福与城(箕輪城)に在城の
ところに諏訪頼重は晴信の先手を仕り、3月上旬福与城へ取り掛かり、60日ほど取り巻き攻め
申した。福与城に籠った箕輪頼親の侍衆・松島、大出、長岡、小河内、福島、木下の衆は箕輪殿の
家中で大身の武士である。その他に野口寺や澤々の者が100余騎、雑兵1500で籠っていた。

右の衆が城際で日夜取り合い申し、その時に箕輪殿の内に藤沢織部と大泉上総といって強弓の
射手がいた。福与城の大手でこの者たちの矢先に当たり、晴信の者たちが多く死んだ。2人の
武士は移って箕輪殿に供仕り、中塔城に籠り申した。伊那衆はことごとく残らず後詰仕り、

箕輪福与の近辺の三日町と申すところに陣を取った。天竜川を隔てて足軽合戦があり、長時公も
後詰に上伊那の内の籠ヶ崎と申すところを御本陣にされ、先手は北大手に陣を取り申した。

その時、それがし(著者・二木重吉)は万太郎と申し、生年庚寅年15歳で初めて具足を着仕り、
御供仕った。天文13年(1544)甲辰のことである。

下伊那の内の小笠原信貞より多科惣蔵を使者として籠ヶ崎へ参った趣は「御馬を福与城の根古屋
へ寄せられて、是非一戦仕るべし」との由を申して来た。ところが伊那衆に対して御憤りに思し
召すことがあったために御馬を御寄せにならなかったのは、御一代の御分別違いであった。

それに付き、伊那衆は引き取り申した。箕輪殿の城は無事になり、権次郎と申す弟を晴信へ人質
に出して箕輪殿は牢人となった。そのため長時公も林へ御引き取りになられた。

諏訪頼重が晴信公の妹に若子が出来申して心安く存じ、甲斐へ参られたところ、甲斐柳町と申す
ところで晴信より頼重を生害した。それがしが16歳の正月末のことである。それに付き諏訪衆
と晴信とが合戦し、その年中に諏訪と甲斐は治まり、晴信は城代に板垣を置かれ申した。

――『二木寿斎記(二木家記)』


それ故に、士気は常に十倍

2017年11月30日 12:35

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 10:57:46.87 ID:q79QVBiF
武田信玄が大敵と戦う前には、度々配下の軍勢の心合いを抑え、「おそらく合戦は無いだろう」
などと言って、彼らの中に、必ず合戦をするという気を励ました。

彼らは「是非御一戦あるべし!」としきりに戦を好むのを、信玄は尚抑えてその気を養い、
その上で戦わせるのだ。それ故に、士卒の士気は常に十倍したという。

(士談)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 18:19:16.28 ID:74SVy9wm
どうかんがえても逆効果

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 18:40:21.74 ID:FEsNPFXR
信玄の話が何でも美談にされちゃうのはやっぱり権現様の力なのかね

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/30(木) 19:18:58.23 ID:OVNfo8Ez
>>467
ダチョウ倶楽部かよw

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 14:17:46.20 ID:ARHJJxpy
分かってないなー
殺戮と強姦と掠奪に飢えた兵士を焦らすためにやってんだよ
ペットにメシやるとき必ず待てをさせるだろ
あれと一緒

人はただ、学ぶべきである

2017年09月15日 18:05

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/15(金) 17:36:03.52 ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。


○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

2017年08月14日 16:42

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 14:19:58.49 ID:O+XKGCMe
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』


○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

2017年08月02日 19:09

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:15:04.30 ID:qWCCf7Sp
○ 重箱獅子舞(三郷町野井)

口碑によれば徳川家康が武田氏と戦い、利なくして逃れて野井に来た時、

たまたま村民らは村社武並の祭典に集い、神前で酒を酌み、興に乗じて
重箱を戴き袱紗を被り舞っていた。

家康は、「ちょうど良い」とその群れに入り、ついに敵の危難から救われた。
家康は天下統一の後、この武並社の祭礼を重んじ、

“重箱獅子の舞”を奨励した。毎年の例祭には岩村藩主に使臣を遣させて
獅子舞を臨検させ、野井祭の名が高かったという。

今なお、重箱獅子の舞を伝えている。

――『恵那郡史』



117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/02(水) 01:17:29.09 ID:DdYy0X2r
なんでもかんでも三方ヶ原のせいにすればいいと思うなよw

武士の作法

2017年07月30日 19:08

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が礼をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)



『天上天下唯我独尊』の旗

2017年07月20日 21:25

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 23:02:45.18 ID:UmjAh2kJ
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)


信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に

2017年07月20日 21:24

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 11:40:47.67 ID:K/Okvhdd
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 17:38:21.91 ID:raQOLju8
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:23:30.87 ID:XOH91jah
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:51:10.51 ID:e2dWouAG
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

花澤城の鯨波の声

2017年07月10日 17:40

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/10(月) 13:41:31.93 ID:FFhxfwX+
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)



89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:44:28.37 ID:3R43EUyZ
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg
yLfJKkM.jpg

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:10:38.34 ID:3vZPBYkw
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:23:03.03 ID:/jTE09E/
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:29:38.91 ID:oXS0/r1j
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

「武田の弓矢は今、頂上に登った」

2017年05月15日 12:09

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 09:52:56.00 ID:LUvPc2Sq
武田信玄が北条と、駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。

武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。

このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。

現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。

馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。

「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。

(士談)



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 10:14:54.19 ID:wjrkMz9Q
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった

法性院阿闍梨

2017年05月09日 21:31

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/09(火) 00:23:38.79 ID:fJ31A3/a
また信玄(武田信玄)は、後には10年に及んで精進潔斎し、叡山より
袈裟衣を下され申し、“法性院阿闍梨”と号して常に看経三昧だった。

それ故であろうか、その頃所々の陣中において不思議な瑞兆もあった
とかいうことである。

――『当代記』


今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

長坂源五郎の事

2017年02月12日 09:25

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』



596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw