FC2ブログ

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな
スポンサーサイト

すべて信玄の作謀

2018年12月29日 17:14

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/28(金) 19:44:13.74 ID:pBe2OoRD
永禄12年(1569)5月下旬には、遠江一円が神君(徳川家康)に帰順した。かねがね大井川を限りに西は尽く
御領地となさる旨を武田信玄とは堅く盟約されたので、御領地の境を御巡見のため僅かな御供5,6百騎を召し連れ
なさって、榛原郡に赴かれた。

その時、信玄の侍大将・山県三郎兵衛昌景も3千余騎を連れて駿府よりこの辺りに来たり、金谷にて思いがけず行き
違った。昌景は礼をなしてその場を過ぎようとしたが、神君の御供が少ないのを見ると、喧嘩に事を寄せてたちまち
打って掛からんとした。これは内々信玄の密旨を受けており、かねてより虎狼の心を抱いていたからである。神君は
この様子を御覧になって、

「山県は味方が小勢であるのを見て時節よしと思い、かねての約を変じてにわかに備を立て直し、味方を襲い討たん
としている。去年に秋山伯耆守(虎繁)が約を背いて我が国境を犯そうとしたのも、今日の山県の狼藉も、いずれに
しても信玄の偽謀に疑いない。しかしながら味方は僅かの小勢、しかも地の利を得ず。少し引き退いて地利に拠って
戦うべし!」

と仰せになると、兵を5,6町引き退け険路に備えて待ち受けなさった。山県は徳川勢が逃げると思い勝ちに乗じて
暇なく追っ掛けたところ、本多平八郎忠勝が一番に小返りして奮戦した。その手に属する三浦竹蔵・原田弥之助・
桜井庄之助・梶金平(勝忠)・柴田五郎右衛門・大原作之右衛門・木村三七・渡辺半兵衛(真綱)・多門越中・荒川
甚太郎・本多甚六・河合又五郎は同じく進んで槍を入れる。

二番に大須賀五郎左衛門康高と榊原小平太康政が婿舅一手になり、槍を振るい決戦した。両将の手に属す坂部又十郎
(正家)・筧龍之助・久世三四郎(広宣)・筧助太夫(正重)・渥美源五郎(勝吉)・伊藤雁助・清水久三郎・鈴木
角太夫・加藤平次郎も劣るまいと争い進めば、

三番に大久保七郎右衛門忠世・弟の治右衛門忠佐が、また御旗本からは渡辺半蔵(守綱)・服部半蔵(正成)・菅沼
新八郎(定盈)・石川又四郎が馳せ出て槍を合わせ、敵7,8騎をたちまちに突き落とせば、山県はこの戦いに利は
あるまいと知って早々に人数を引き纏め、駿府目指して逃げ去った。

神君は秋山・山県らの狼藉はすべて信玄の姦謀であると御知りになって、これより永く信玄とは誼を断ちなさった。
信玄もこの頃に世上では信玄の姦謀を批難したのでこれを憂い、一旦山県を蟄居させ、その後程なく馬場・小山田ら
が愁訴するからとして山県を許したのであった。これはすべて信玄の作謀の致すところである。

越後の謙信もこれを聞いて「この度、信玄が徳川殿と盟約を変じ、山県をもってその虚に乗じ討たんと計ったことは、
武田家の瑕瑾(名折れ)である」と評したのであった。

(原注:按ずるに応仁以来、諸国割拠の英雄豪傑は少なからず。その中でも、越後の謙信と甲斐の信玄の2人は殊更
胸に六韜三略を明らめ、手に常蛇を制す。兵を用い陣を敷き、城を攻め敵を計る。尽く孫呉と機を同じくせずという
ことなし。天下後世が規則として仰ぐこと泰山北斗の如し。

しかしながら信玄のなすところは、すでに父を追って国を奪い甥を倒して地を掠み、天倫の道は絶えてしまったので
隣国の盟約を背く如きは論ずるに足らず。されどもこの度、盟約は未だ数ヶ月も経ずして山県に密かに計略を含め、
兵の少なきを窺って襲い討たんと計った偽詐姦邪はおのずと国々へ言い伝えて、これより大いに人望を失ったという
のは、そのようになってもっともな事である)

――『改正三河後風土記(武徳大成記・東遷基業)』


こうしてこの者どもの手並みは知れた

2018年12月14日 17:41

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 19:20:15.18 ID:4rbL4FzT
天文23年(1554)2月中旬、北条氏康は小田原より駿河へ馬を出された。先陣は松田尾張守(憲秀)・
北条常陸介(綱高)・笠原能登守・志水・大道寺を始めとして下方庄へ打ち入り、吉原・蒲原に陣を取った。

駿河の今川義元はその頃、尾張の敵が蜂起して三河まで発向しており、その敵と対陣しているため小田原勢に
向かい難かった。甲斐の武田晴信は義元の小舅なので、義元から頼まれて軍勢を引率し、富士川の端、加島の
柳島に陣を取った。小山田弥三郎・馬場民部(信房)を先陣として、大宮厚原辺りへ足軽が出合い、日々矢戦
に及んだ。同3月3日、氏康父子の出陣あって、浮島ヶ原に旗を立て給う。

(中略)

越智弾正が物見に出ると、甲斐勢より小田兵衛尉が弾正を目掛けて乗り寄せて、互いに名乗って槍を合わせて、
ついに小田を討った。すると敵の大勢が取り巻いてすでに弾正が危うく見えたところに、原美濃守(虎胤)が
これを見て敵の中に割って入り、馬上の敵2騎を討って落とした。美濃守のその日の装束は、紺糸の鎧に半月
の2間ほど両方へ出ている指物で、冑の真甲に“原美濃守平虎胤”と書き、太く逞しい駁の馬に乗り敵を追い
散らし、弾正を連れて味方の陣へ引き退いた。

武蔵国の住人・太田源六(康資)は筋金を入れている例の樫の棒で、甲斐勢の先駆けの武者を馬上から7,8
騎打ち落とした。その他馬の平首や太腹など、人馬を選ばず当たるを幸いに薙ぎ払った。敵は冑の真甲や脇骨
を微塵に打ち砕かれ、この勢いに恐れてあえて近付く者はいなかった。源六自身も馬を射られ歩行立ちとなり、
美濃守と一緒に引き退いた。

さてさて、この美濃守は下総国千葉の侍である。父・原能登守友胤は小弓御所の合戦の頃に下総より浪人し、
甲斐へ行って武田信虎に仕えて、数度高名を顕してついに討死した。その子・美濃守は父に劣らぬ大剛の者で
あったので、信虎は憐愍を加えて烏帽子子にして、虎胤と名付けられて数度の高名類無し。その虎胤は近年に
小田原に来たり、氏康に仕えて忠戦を励ました。

甲斐の軍兵は敵ながらも昔の朋輩なので、美濃守を見知って「我が討ち取らん!」と進んだ。中でも小山田勢
から武者5騎が虎胤を目掛け、「近藤右馬丞!」と名乗って近々と追っ掛けて来た武者がいた。虎胤はキッと
これを見て「優れた心ばえだな!」と近藤の冑の錣の端を峰打ちして首の骨を2打3打すると、近藤は馬から
ドッと落ちてしまった。

かの近藤が立ち上がらんとするところを、太田源六が取って返して「どれ目に物見せよう!」と棒を振り上げ
打たんとし、虎胤は立ち返って、「この者は私めが甲斐にいた時に目を掛けた者に候ぞや! 命を助け給え!」
と制止し、源六は同心して静かに味方へ引き入った。

こうしてこの者どもの(原・太田の?)手並みは知れた。寄せ合わせようともせず日は既に暮れて、甲斐勢も
流石に叶わないと思ったのか、合戦は明後日有無の勝負と極め、その日は互いに相引きに引き退いたのである。
この日の合戦で小田原勢2百3十余人が討たれ、甲斐勢も2百余騎が討ち取られた。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 20:19:38.02 ID:/uZzskCv
>>558
>源六は同心して静かに味方へ引き入った
かっこいい…。

薩た峠の戦い

2018年12月09日 19:09

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:37:48.91 ID:wtlDa408
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

頃は正月末つかた、余寒激しく山々の雪は未だ消えやらず、浜風はいたく吹き立てた。軍勢が堪え凌ぎかねて
いるその様を見て、武田信玄は駿府から多くの酒を取り寄せて諸軍に飲ませれば、諸軍勢はこれを飲んで寒気
を忘れ、大いに喜び勇んだ。

その酔心で気力を得て、「いざや一夜討して敵の眠りを覚まさん!」と2千余人が申し合わせ、各々その用意
をして山上に登ってみると、北条勢は寒気に耐えかねて、陣営ごとに焼火で寒気を凌いで座眠りしている者も
いれば、麓に集まりうずくまって縮み伏している者もおり、いずれも油断の有様なれば、武田勢は「これこそ
天の与えなれ!」と喜び、どっと喚き叫んで陣屋陣屋を蹴破り、弓鉄砲その他武具を分捕り、軽く纏めて引き
返した。

北条勢はその声に驚いて「ああっ夜討の入りたるぞ! 太刀よ、物具よ!」と、ひしめく間に寄手は軽く引き
取れば、北条方の将卒どもは、「余りの寒さに油断して大盗人にあった!」と後悔すれども、その甲斐なし。

この後は相互に夜討の用心をして、昼は両陣より50騎か百騎ずつが出て迫り合うのみとなったが、ある日、
武田方より跡部大炊介勝資が、地黄に紺筋の旗1流をさっと差し上げて、その勢3百余人が撞鐘の馬印を押し
立て乗り出した。北条方よりも松田尾張守憲秀が、白地に山道を黒く染め付けている旗を、これも1流を浜風
に翻して、その勢8百余人が打って出た。

互いに掛け合わせて始めの頃は弓鉄砲で射合い撃ち合ったが、後には双方騎兵を入り交ぜて突き合い切り合う
と見えたところで、武田方は小勢のために掛け立てられて2町余り敗走した。

北条方の松田尾張守が士卒に命じて敗走する敵勢を食い止めんと進んで来れば、跡部大炊介は取って返さんと
すれども、備が乱れ立って士卒の足並みはしどろもどろになり返せず、逃げようとすれば松田勢が近くに追っ
掛けて来て、跡部はどうしようもなく見えたところに、武田方より馬場美濃守氏勝(信房)が2百余騎で掛け
向かい、ひしひしと折敷の姿勢を取り、槍衾を作って一面に備えた。松田はこれを見て「今やこれまでぞ!」
と軍士を招いて引き返した。

この時、馬場の属兵・鴟大弐という者は紀州根来の生まれで大剛の兵のため、信玄は常にこれを寵した。この
大弐はこの日衆に抜きんで先頭に進み出て、松田勢を食い止めんと働いたのだが、鉄砲で腰を撃たれて倒れた
のを見た松田勢20騎ほどが、その首を取らんと馳せ集まった。それをこれも馬場の属兵である金丸弥右衛門
(弥左衛門)が、これを見るなり馳せ寄り大身の槍を取り伸べて、近寄る敵7,8人を突き倒し、大弐を引き
立てて味方の陣へ帰ったのである。

大弐は甲斐へ帰国の後に様々に治療し、腰は少し引いたけれども勝頼の時代まで生き長らえて、長篠の戦いで
勇戦した。その時に飯寄惣兵衛と名乗って討死したのは、この大弐であったのだという。

かくて北条と武田は90余日対陣し、4月28日に信玄はついに軍を帰し大地山を越えて甲斐に入った。北条
父子は駿河に入り、ここかしこに隠れていた今川の侍どもを招き集め、その他に小田原勢1万8千人を駿河の
蒲原・三枚橋(原注:今沼津と言う)・興国時・善徳寺・深沢・新庄、また伊豆の戸倉・泉頭・山中・鷹巣・
湯浅などの城々に籠め置いて、小田原へと帰陣した。

――『改正三河後風土記』


550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:45:15.64 ID:wtlDa408
甲斐勢の跡部・栗原(伊豆守か)は3百余騎で押し出すが、松田・富永(政家)の8百余騎に掛け立てられて
立つ足もなく敗北し、薩た山の下へ海際まで追い打ちにされた。剰え松田勢に食い止められ、取って返さんと
すれば備は乱れてしどろもどろとなり、引き退かんとすれば敵が押し掛けて追い詰めた。

跡部・栗原勢は一人も残らず討ち取られると見えたので、馬場美濃守は2百余騎で掛け向かうと、ひたひたと
折り敷いて一面に備えれば、松田勢が妨げられて挫けたところへ、内藤修理(昌豊)が横合に鉄砲を撃ち立て、
松田・富永も叶わず引き返した。

美濃守の同心・鴟大弐という者は大剛の兵で、深く働いて打ち合うも腿を鉄砲で撃ち抜かれて伏してしまった
ところを小田原勢が首を取らんと集まった。それをこれも美濃守の同心・金丸弥左衛門が走り寄って槍で突き
払い、大弐を引き立てて味方の陣に帰った。

しばらくあって敵味方は押し寄せ戦い、引き分かれてはまた寄せ合わせ、火が出るほど戦って両陣は相引きに
引き退いた。その後、信玄は如何に思われたのか、人数を出さず対陣して百騎2百騎の迫り合いのみで虚しく
春を過ごした。

甲斐は隣国ではあるが、大山を越えて通路は難儀なので数月の対陣で兵糧は尽き、4月28日に信玄は高野山
の麓、橘の小島を廻って終夜引き退いた。これによって、氏康父子も帰陣せられた。信玄がすでに今川を追い
落としたにも関わらず、氏康が(駿府を)手に入れたことは、犬の押さえし鶉を鷹に取られ、猟師の網にかか
りし兎を狼に食われたるが如し。

氏真の館を信玄はことごとく焼き払ったので(氏康父子は)久野弾正(宗政)・森川日向守・岡部次郎右衛門
(正綱)・河部大蔵らに御館の普請を言い付け、蒲原の城・大宮・善徳寺・高国寺・三枚橋・戸倉・志師浜・
泉頭に小田原勢を籠められた。

――『小田原北条記』



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/09(日) 16:01:40.91 ID:mbIVt329
>>549-550
両方の記述が一致してると信憑性高くて面白い。専門家はこういう作業ずっとやってるんだろうな。

氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや

2018年12月07日 13:14

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:52:50.75 ID:nH7hfDGG
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

信玄は駿河久能に城を築いた。一夫が怒って関を塞げば三軍の帥も通ることを得難きほどの名地である。今福
浄閑父子(長閑斎友清・虎孝)に同心40騎・雑兵3百7十余人を属しここに籠め置いた。小田原では甲斐勢
を追い散らして氏真を救わんと軍勢を催す。

信玄が思われたのは「氏政は我が婿であるから差し障りはあるまいが、氏真は氏康の婿だから底心は心許ない」
と思われ、寺島甫庵という弁舌者を使者にして小田原へ申されたことには、

「氏真は近年政道悪しきゆえ、家康公に国を取られること疑いなし。そこで家老どもと談合致して氏真を追い
出し候」

と言葉を尽くして謝し申したが、氏康父子は聞き入れなさらずに激怒して寺島甫庵を牢舎させ、同12年正月
18日に小田原を出馬し、三島新経寺に本陣を据えられた。

松田尾張守(憲秀)・同肥後守・同右兵衛大夫(康長)・北条新三郎(氏信)・同常陸守(北条氏繁)・同
治部少輔(北条氏秀)・狩野入道・九島伊賀守・大道寺駿河守(政繁)・多目(多米)周防守・荒川豊後守・
橋本次郎右衛門尉・成田下総守(氏長)・千葉介国胤(千葉邦胤)・原式部大輔(胤栄)・同大蔵丞・大石
信濃守(照基)・内藤大和守(綱秀)を先手として、都合その勢4万5千余騎が三島より蒲原まで段々に陣を
取った。

また三崎の城より北条美濃守(氏規)・大道寺孫九郎(直繁)、伊豆の妻良こうらと沼津三枚橋より鈴木・
渡部・富永(政家)・太田・安藤・梶原三河守・間宮新左衛門(康信)などが3百余艘の兵船を揃え三保崎
へ漕ぎ寄せた。その勢5千余騎。

信玄は久能の城に陣を取り、山県三郎兵衛を1千5百余騎で府中に残して山西の押さえとして、武田左馬助
(典厩信豊)を大将として興津清見寺へ出勢する。同25日、氏康・氏政が清見寺表、薩た山へ出張された。
信玄も久能より清見寺へ出張して興津川原で辰刻より未刻まで3ヶ度の合戦があった。

――『小田原北条記』


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 05:53:33.40 ID:nH7hfDGG
その頃また武田信玄は寺島甫庵という者を使者として相模小田原へ遣わし、北条氏康・氏政父子のもとへ申し
送ったことには、

今川氏真は信玄の甥であるが、昏弱にして佞奸の三浦右衛門佐(義鎮)の言葉のみ信用し、一族家人は非道
の政務を疎んで古老譜代の者どもは恨みを含み、軍卒国民は虐政に苦しんだ。そのうえ乱舞酒宴に耽って武備
を怠廃するゆえ、幕下被官ども皆徳川へ内通し、遠江の城々は大半が徳川のために攻め取られた。やがて駿河
をもかの家の所有となるは必定なり。他人のために取られてしまうよりは、信玄の手に預かり置くべきと存じ、
氏真を追放致し候。

このうえは富士郡の川原を境として川より東は北条家で管領なさるべし。川より西は信玄の所属として治め候
べし。このように約束を定めたうえは、両家はますます親睦して互いに患難を相救い申すべし」

信玄がこのように懇ろに申し送ると、北条父子は聞いて激怒し、

「姦賊が例の邪智巧言で欺くとも、氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや! その使者坊主めを帰すな!」

と甫庵を搦め捕って獄屋に繋ぎ置き、甫庵の従者どもにこれを見せて、

「汝らが甲斐に帰って言うべきは『来春は氏康が早々に出馬して駿河に留め置かれた甲斐の将卒は一々に首を
刎ねる! その用意をして待つべし!』と、信玄に申し聞かせ!」

と申し含めて追い返せば、従者どもは怖気おののき早々に逃げ去った。

北条氏康・氏政父子は永禄12年(1569)己巳正月に4万5千余(原注:一説に5万)の軍勢を引き連れ
て駿河へ発向するとして、まず武田信玄より使者に遣わされた寺島甫庵を三島の三枚橋で磔に掛けて、信玄の
無道と甥・今川氏真の家国を奪った罪を鳴らし、その18日には軍勢を進めて三島の心経寺に在陣し、先手の
諸軍を薩た山八幡平より由井・蒲原まで進ませた。

信玄方でもこれが聞こえて、山県三郎兵衛昌景に2千5百人を属し鞠子に砦を構え、花沢・藤枝・伊久美山の
敵を押さえさせて江尻・井上の両砦にも人数を加え、信玄の旗本は久能山に駐屯し駿河の人質どもをかの山中
に入れ置き、今福浄閑に馬兵40騎・歩卒3百5十人を添えて守護させた。先手は典厩信豊を大将に1万8千
の軍勢を興津河原に押し出し、北条勢と日々足軽迫り合いをさせた。けれどもその間には険阻の切所があった
ため、未だ互いに大合戦には至らずに日数を送った。

――『改正三河後風土記』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/07(金) 19:40:50.33 ID:WB/8Ev/K
>>507-508
北条視点と徳川視点か、みくらべると面白いね
信玄の酷さは共通してるw

久能山城

2018年12月03日 21:01

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/03(月) 07:03:54.33 ID:cI3SPXlp
武田信玄は駿府を焼き払わせ自身は久能に在陣した。そのため今川家を亡命した将士どもは降人に出て人質を
献ずる者は日々夜々に絶間なし。信玄は奥津の横山という所に要害を構え、穴山陸奥守信忠入道梅雪をここに
置いて守らせた。奥津に続いている山下という地は梅雪の所領なので、便宜のためにそう定めたのである。

ここにまた今川家の家士に庵原弥兵衛といって小身の者ではあるが、数度の高名比類なき剛の者がいた。特に
山本勘助入道道鬼の第一の弟子である。信玄は弥兵衛を召し出して「小勢で立て籠もり、大敵を引き受けての
防戦が容易な地形はあるか」と尋ねたところ、弥兵衛が申したことには、

「この久能山と申す場所は後ろは山の尾が長く引いて深山に続き、三方は岩石高くそびえて谷深く、そのうえ
用水も乏しくはありません。その中に1つの細道があって羊腸を踏んで雁歯に沿う難路です。秦の函谷、蜀の
剣閣もこれ以上とは覚えませぬ。実に一夫が怒れば三軍の士でさえ押して向かうことはできません。もっとも
要害の名地であります。

この山に城を築いて兵糧を多く蓄え置き、10人の勇士が心を合わせて弓鉄砲を掛け置けば、日本60余州の
総軍勢が残らず押し寄せようとも、容易く落城することはありますまい。

前述のことは先年、山本勘助が浪人して当国(駿河)にいた時に語ったものです」

と弥兵衛が申すと、信玄は大いに喜んで「それならば日を置かずにこの地に城を築かん!」と縄張り地祭りを
執り行い、土木の功が成就すると兵糧や馬の飼料までつぶさに点検して、今福常閑(長閑斎友清)とその子・
丹波(虎孝)に与力40騎を差し添えて、都合3百7十余人をここに籠め置いて守らせ、信玄は一先ず甲斐へ
帰陣したのであった。

また神君(徳川家康)は先年、御異父同母の御弟・松平源三郎康俊と酒井左衛門尉忠次の娘を今川家へ人質に
出されていたが、氏真はかねてよりその家人・三浦与一に預け置いていた。ところがこの度の駿府没落により、
与一も信玄に降参したため、与一は何かしら勤功にしようと思って氏真がかねがね預け置いていた人質を伴い、
甲府へと連れて行った。

これによって信玄は大いに喜び「この人質を我が方に留めて置けば、徳川殿も後々には私めの幕下に属される
ことは必定である!」とその人質を受け取り、甲府で番人に厳重に申し付けて守護させたのである。

――『改正三河後風土記』


甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追倒す見よ

2018年12月02日 17:56

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 19:16:47.19 ID:OplMdQS/
今川氏真の駿府退去後)

今川氏真の無二の寵臣・三浦右衛門佐(義鎮)は、氏真を伴い砥城の山家に忍んでいたが、朝比奈泰能(泰朝
の誤り)が使者を立てて氏真を遠江掛川城に迎え入れるに及び、右衛門佐も氏真に付き添って掛川へ参らねば
叶い難き身ではあるが、この年来に右衛門佐は氏真の寵に誇って古老武功の輩に無礼を振舞ったため、朝比奈
は右衛門佐を甚だ憎んでいたので、右衛門佐は大いに恐れて氏真と別れて、父・小原肥前守(鎮実)が守って
いる花沢城に入り、父子一緒に武田勢と一戦せんと立て籠った。

長谷川次郎右衛門(正長)は一族21人軍兵3百余人が藤枝の城(徳之一色城)に籠り、他に由比・浅原・
斎藤などの輩も伊具山に備えて一防せんと控えていた。故に信玄は容易には駿府へも入り難く、先手の山県
三郎兵衛(昌景)・馬場美濃守(信房)・小山田右兵衛尉(信成)・小幡上総介(信貞)・真田源太左衛門
(信綱)・同兵部少輔(昌輝)・内藤修理亮(昌豊)などを遣わして、駿府の城を焼かしめた。

折しも烈風が吹いて櫓やその他楼閣は一円に燃え上がり、黒煙は天地をかすめた。今川家数代の間に富貴奢侈
を極めて積み蓄えた財宝・珍器・名物は尽く焼亡し、金銀を散りばめた大廈高楼が一夕の灰燼となった有様は、
姑蘇城一夜の煙や咸陽宮三月の火もこうであったのか、呉越秦楚の古も思いやられて哀れというのも愚かなり。

(原注:『烈祖成積』『東遷基業』などには、信玄が賄賂で招くと留守を預かっている岡部次郎右衛門正綱は
信玄に降参して安部大蔵元真は退去し、後に神君に帰順した。その後に信玄は駿府の城を焼いたとある。

しかしながら翌年5月に神君が氏真と御和睦の後、氏真を駿府に帰任なさしめんと駿府の城を経営された時に、
岡部正綱兄弟にその事を命じられた。岡部がもし信玄に降参したなら、何故氏真のために築き給う城を岡部に
命じられようか。

まったく岡部はこの時までは信玄へ降参せず、氏真の味方であった故にこの普請を仰せ付けられたのであろう。
12年の11月より信玄は駿河に攻め入り、12月再び駿府を攻めた時に岡部はついに信玄に降ったのである。
安部もその時に退去したのであろう。よってここは成積・基業の説を取らない)

信玄は山県三郎兵衛に駿府を守らせ、自身は久能山に陣を取った。如何なる滑稽の者の仕業であろうか、翌月
駿府の焼き跡に一首の狂歌を大札に書いて立てたのである。

「甲斐もなき大僧正の官職を 慾に駿河の甥倒し見よ」
(欲のままに甥から駿河を奪わんとする大僧正の徳の無さを見よ)

信玄と氏真は舅甥の仲であるから、たとえ救援することは無いとしても、信玄は姦謀を巧みにして氏真の家人
どもを貨財をもって誘い、ついに国郡を奪い取ったことを憎まぬ者はいなかった故、このように誹謗したので
あろう。信玄は武門にあって何の故にか比叡山明応院に賄賂を送って大僧正の僧綱に任じ、今また甲斐を領し
ながら駿河を奪って甥・氏真の所領を失わしめた故、諸人はその無道を謗り憎むのも道理と知られたり。

これのみならず信玄が無道というのは、父・信虎を追い出して家国を押領し、罪なき嫡子・太郎義信を殺害し、
諏訪刑部大輔頼重と和睦し、頼重を甲斐へ招き寄せて偽り殺してその国郡を奪い、そのうえ頼重の娘を妾とし、
その腹に勝頼を設けた。

このような暴悪の所行は挙げて数え難し。今川家の重宝である京極黄門定家卿真蹟の古今集を借りて、ついに
返さず、国中の盲人を召し集めて焼き殺すといった類は物の数ではない。老算妙謀古今に比類なく、軍法戦術
は孫呉を彷彿させるといえども、子孫の繁盛は覚束ないと思わぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記』

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 01:14:12.53 ID:7oc/IBR2
武田先手の山県三郎兵衛・馬場美濃守・小山田・小幡・内藤の3千5百余騎は江尻・宇和原まで押し来たる。

駿府の地下町人は申すに及ばず、城中の男女は慌てふためき徒歩裸足で走り出て、どことも知らず迷い行く
のを、情けも知らぬ下部どもがここかしこに乱れ散って衣装を剥ぎ、手に持っている物を奪い取れば、喚き
叫んで悲しむ有様は、哀れというだけでは言い尽くせない。

そうして信玄の手に触る者もなく武田の軍兵は城中へ乱れ入り、今川の館を焼き払った。さしも長年作り磨か
れた大廈の構えが一時に灰燼となってしまったのは、何とも酷いものであった。

翌日に如何なる滑稽の者がしたものか、御館の焼け跡に、

「甲斐もなき大僧正の官賊が 欲に駿河を追(甥)倒す見よ」

と書き立てたのである。末代といえども氏真は信玄の甥であるから、親しき誼を疎んで捨てるまでは良いと
しても、押し倒して国を奪い取ることは無道至極であると眉を顰める人が多かった。

信玄は駿河衆を手に入れ、その人質を取って甲斐へ遣わされた。駿河花沢の城主・小原肥前、同藤枝の城主・
長谷川次郎左衛門、遠江掛川の城主・朝比奈備中守、その他に戸久・一色の城代らは無二の忠臣で、まず氏真
を掛川の城へ迎え入れて、その勢7千余騎は城を堅固に持ち堅め、用心は厳しく見えた。

この度、忠義を忘れて敵に与し、譜代重恩の主君を押し倒す輩はまさに人皮畜生と言えよう。

――『小田原北条記』


武田軍、駿河侵攻

2018年11月29日 21:02

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 20:16:21.24 ID:/TtpzPNN
今川諸将が氏真を見限り朝比奈兵衛太夫も逐電する内に、武田先陣の山県三郎兵衛昌景・馬場美濃守氏勝(信房)・
小山田右兵衛尉信茂・小幡上総介信実(信貞)・真田源太左衛門信綱・同兵部少輔達連(昌輝)・内藤修理亮昌豊ら

3千5百余騎は江尻を越えて宇和原まで寄せ来たる。駿河の町人・百姓どもは「これは何事なるや!」と上から下へ
と騒動して資材雑具を東西へ持ち運び、あるいは幼き子を背負い老いた父母の手を引き南北へ逃げ迷う。城中の女童
も慌て騒ぐこと限りなし。武士も妻子を持て余して逃げ支度ばかりし、合戦を心掛ける者はなし。

大将の氏真も近習どもが騒ぐのを見て呆れ果てるばかりである。そんなところへ三浦右衛門佐(義鎮)が慌ただしく
馳せ来たり、手の舞い足の踏むところも覚えず、顔色は土の如くになって申すことには、「主君は未だ世の有様をも

御存知ないまま、そのように御過ごしなのですか! 21人の逆臣どもは皆々信玄に降参し、主君に向けて弓を引き、
矛を逆様にして攻めようとしています! これを防ぐ味方はおりません! 退くべきところは退き、進むべき時は進み、
進退節に応じますのを良将の振舞いとします! そのように座しながら敵の虜となり給うのは口惜しいことではあり

ませんか! 急ぎこの城を立ち出て砥城の山家へ身を潜めて計略を巡らし、重ねて快復の功を顕してください!」と
例の利口巧言をもって知恵有顔で申せば、何事も三浦の申すところに背かぬ氏真はこれをもっともと得心し、近習
わずかに50余騎を召し連れて、代々住み慣れた駿府を立ち出て、砥城の山家へ落ちて行ったのである。

城中の女童は皆歩行素足で走り出たが、道も分からずにかれこれさまよっているのを、情けも知らぬ下部(身分の
低い者)どもがここかしこに追い詰めて、打ち倒し押し伏せ衣服を剥ぎ取り、物を持っていれば奪い取って赤裸に
した。喚き叫んで泣き悲しめば、そのまま息絶える者もおり、目も当てられぬ有様であった。

――『改正三河後風土記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月26日 17:46

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 18:14:09.89 ID:ZB80nPSy
(薩た峠の戦いの時)

永禄11年(1568)11月6日、信玄は3万5千余人を引き連れて甲府を出軍し、下山通を経て由井八幡坂を左に
見なし、長坂を越え宇津総というところへ日数7日で押し付けて松野に陣を取った。信玄にかねがね内通する今川方の

諸将へ「いよいよ忠勤を励むべし。恩賞は望みのままであろう」と申し送った。氏真はこの事を夢にも知らず、信玄が
出軍したと聞き「さらば出向かい蹴散らさん!」と人数を催した。先陣の庵原左馬進忠宗と同安芸守忠胤は2千余騎で

薩た峠を前にして陣を取った。2陣は岡部忠兵衛長宗(土屋貞綱)・小倉内蔵助直次(資久)が7千余騎で八幡に陣を
取る。総大将・今川氏真は2万5千余騎で清見寺に備えていた。今川家一族や旧好の宿将老臣かれこれ21頭は

総じてその勢3万4千余。「股肱金鉄の勇士どもも今日を大事と兜の星を輝かし、具足の袖を連ねて雲霞の如く列して
いるから、今川と武田の雌雄を決する大合戦、さぞやいかめしき事であろう」と敵も味方も固唾を飲んで今日を最期と

思っていた。そこへ信玄方先手の旗の手が見えると、そのまま後陣に備えている今川方の朝比奈兵衛太夫秀盛(信置)
は早々に陣を払い駿府へ逃げ帰った。これを見て瀬名陸奥守親隆(氏俊)とその子・中務大輔氏範(信輝)や三浦与一
義高・葛山備中守氏信(氏元)、ならびに武田陸奥守信虎が駿府で設けた上野介信隆(信友)らを始めとしてかねがね

信玄に内通する侍大将21人の輩が同じく評議したことには「氏真の暗愚ではとても駿河・遠江領国を長く守ることは
できない。ついには織田・徳川両家のために切り取られるよりも、かねがね信玄が所望の如く信玄に授けて、その功を
もって我らは恩賞に郡邑を数多申し受けよう。これこそ家名を失わずに富貴を得る妙計である」と評議一決して各々

駿府へ逃げ入った。数代恩顧の老臣がすでにこの如くなれば、前後に隙間なく居並んでいる諸軍勢は氏真を顧みもせず、
しばらくの間に我も我もと逃げ帰り近辺に人ありとも見えざりけり。先陣の庵原左馬進と同安芸守が後ろを振り返って

見ると、後陣はにわかに群れ立って引き退くかと見えたので「これはいかがしたことぞ! 八幡辺りに控えている味方は
堪えているか見て来い!」と使者を遣わすと、やがて馳せ帰って「この近辺にいた味方の勢は1人も見えません!」と

言った。庵原は聞いて「それではこの勢だけでは武田との合戦は叶わない! ひとまずは駿府へ引き返し、重ねて軍議を
定めて合戦する!」と申し、21人の老臣どもを召し集めたところ各々別心を企てたのかもしくは武田勢に恐れたのか、
一言も存慮を申し出す者もなく途方に暮れた有様であった。

――『改正三河後風土記』



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 20:24:40.17 ID:542rKWP7
信玄視点だとまさに戦わずして勝つを体現したいい話かな
氏真視点だと眼も当てられないが

三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


汚れなく弓馬を取って

2018年08月29日 18:59

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 21:57:29.52 ID:0kRQSIZY
武田信玄に曰く、
「国を多く取ることは果報次第である。殊に天下を取って、日本国中を残らず皆治めることは、
源頼朝、北条数代、その後源尊氏、皆果報いみじく、公方にそなわり将軍になりて、武家の大望はこれに尽きる。

しかし彼らも果報の時刻に当たる以前には、どれほど艱難のことが有っただろうか。
また源義経は弓馬の誉れ、身の勤め共に有ったが、僅か伊予一国にて終わった。

このように、果報とは人間にはどうにもならない物であり、ひとまず差し置いて、末代までも弓馬の上に
汚れ無き如くに慎むべきなのだ。汚れなく弓馬を取って命長ければ、果報に任せて大国も天下も
自分の前に降りてくるものなのだ。

例えば四季を急ごうとしても、春から秋へは飛び越せないものだ。こういった理に昏いために、果報も
知らず大国大録を望み、自分に恩を与えている主君に逆意を企て不義を成すこと多い。
しかしそういった者達は、当分はそれをやりおおせても、時が至っていないため大体は
非法の死をなす事、古今にその試し多い。以て戒めとすべきである。

(士談)

いいこと言ってるけど信玄の言葉だと思うとすごい複雑な気分になるな。



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:38:08.74 ID:MRF/OVJX
>>232
>例えば四季を急ごうとしても、春から秋へは飛び越せないものだ。

森さん「近年、夏が終わったと思ったらもう冬なんですよ…」

真田幸隆、危機一髪

2018年08月21日 19:42

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:28:31.73 ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪



46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 09:19:26.55 ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような

謙信は唯鬼神にて候

2018年08月20日 11:09

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 20:26:30.58 ID:/lrM7d7Z
その合戦(八幡原の戦い)は時を移し、そのうちに晴信(武田信玄)の命で犀川に大綱を幾筋も
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の

細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。

晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。

そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。

越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて

太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。

信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。

そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。

謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)

その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。

信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。

中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。

この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇


布橋由来

2018年08月02日 13:10

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 12:40:05.67 ID:s61QDbDi
前に銭取の地名の由来を書いたけど、布橋は書いたっけかな?

三方ヶ原で大敗した徳川軍
何としても一矢報いたいと ある計略を持って武田軍に夜襲を掛ける
大勝利に絶賛油断中の武田軍は後方よりの突然の奇襲に蜂の巣を突いた様な
恐慌状態に
「奇襲じゃ!」「逃げろ逃げろ!」「あそこに橋があるぞ!」「渡って逃げろ!」
「!! うわーー!!」
唯一残る逃げ道に兵達は殺到、しかしこんなところに橋なんてあったか?
そう武田軍に仕掛けた計略はこの橋
実は夜襲の前に谷に布を渡し橋のように見せかけていたのだ
殺到する人馬の勢いは止められず崖の下にはおびただしい数の兵士や
馬の死骸が山の様に積み重なっていたという

局地戦で見事意趣返しに成功した徳川家
しかしその後この崖から夜な夜なうめき声の様なものが聞こえ続け
数年後に慰霊の大念仏を家康が執り行うまで地域の住民を苦しめ続けたという




5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 14:59:15.81 ID:EaDFqGME
>>3
こんなデタラメな言い伝えを残したくなるぐらいに、完膚なきまでに負けたってことなんだろうなぁ…

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:20:42.89 ID:BjQSFajr
本当の伝承は負けて逃げる途中にあった崖に家康が褌を掛ければたちまち布が石になって徳川軍は逃げることができ
追ってきた武田軍が渡る頃には石が元の布に戻り武田の徒士が転落したというもの
地元じゃこの説が有力

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 15:36:46.83 ID:EaDFqGME
>>6
どっちにしたってあり得ん話やん…

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 19:10:51.28 ID:8Tj6olph
>>3
まとめの10964
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも


で後世の伝承以外が出てた

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 09:55:46.27 ID:WSX/lJ7W
流石に脳内地元民ではないのかそれ

異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…

新たに征服した地域を支配する際の注意点

2018年04月01日 19:25

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

平瀬落城

2018年03月23日 16:48

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 00:27:11.74 ID:JOeEPDaN
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』


小笠原長時の没落

2018年03月19日 17:30

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 00:20:42.28 ID:9EDGobDw
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』


神田将監の存分

2018年03月17日 18:15

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 05:18:29.71 ID:KXMpkOSs
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』


大手が敗軍した以上は

2018年03月13日 18:09

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 05:09:35.30 ID:YaEquyta
小笠原信貞は家老の多科惣蔵と溝口刑部を召して御命じになり、長時公(小笠原長時)が下諏訪
の城代・板垣を攻めなさるため諏訪へ取り掛かり申すにつき、下条殿と御談合のために

溝口刑部を御遣わしになり、伊那衆の侍はいずれも一身にして打ち立ち、下条殿、片桐、飯島、
知久、晴近の衆は下伊奈を5月中旬に出立し、相沢・駒沢まで詰めていた。そこに長時公が

諏訪峠合戦に敗軍の由が聞こえてきた。信貞公が仰せられたことには「一日早く出立していれば、
晴信方を切り崩していただろうに」とのことであった。その日は平出を越えて相沢・駒沢に陣を

取り、密かに出立した。伊那の軍勢の押さえのために板垣信方(信憲?)が置かれていたので、
下伊奈の軍勢が相沢・駒沢に詰めていたところを信方は攻め掛かり、小笠原信貞に切り崩されて
小尻まで追い討ちし、武田晴信方の首を多数討ち取って信貞は勝鬨を上げなさったのである。

板垣信方はやっとのことで下諏訪へ引き取り申した。信貞が仰せられたのは、「大手(長時本陣)
が敗軍した以上は、搦め手で勝利したといっても保科弾正(正俊)は晴信に心を寄せ、そのうえ
松島や大出などもそうであるから、対陣には及ばない」とのことで、伊那へ御引き取りなさった。

――『二木寿斎記(二木家記)』