FC2ブログ

四郎殿の御沙汰は何とも

2020年05月09日 18:47

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/09(土) 15:37:33.73 ID:pj8HJK61
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



スポンサーサイト



雑人陣にて煩ひの時

2020年05月07日 18:24

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 15:02:17.05 ID:RnSax87m
雑人陣にて煩ひの時

一、虫には曹洞宗の百貫草。水一盃の半分を一盃に煎じて飲ませる。手に1つも握る。口伝。
一、おこり(マラリア)には亀1つを黒焼きにする。水でこれを飲ませる。
一、熱気には拾五気の木。手1束に右の煎じ様で。口伝。

――『甲陽軍鑑



“勝千代殿”

2020年05月05日 16:53

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 02:24:52.45 ID:iO/doWIk
一、それ、信玄公幼き時の御名を勝千代殿と申す。子細は御父の信虎公28歳の時、駿河のくしま
  (福島)という武士は今川殿を軽視し、結果甲州を取って己の国に仕らんと遠駿の人数を引き
  連れ甲州飯田河原まで来たり、しかも65日余り陣を張っていた。

  その時、甲州御一家の衆はことごとく身構えをして、「武田の御家はもはや滅却するだろう」
  と仕るところに、信虎公の家老・荻原常陸守(常陸介昌勝)と申す大剛の武士の武略をもって、
  信虎公は勝利を得給う。

  敵の大将のくしまを討ち取りなさったその日のその時に誕生なさった故、“勝千代殿”と信玄
  公に幼名を付け申す。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦である。武田信虎公の家老の沙
  汰なり。勝千代殿誕生前に諸々の不思議が信州諏訪明神より告げ来たるという。

一、荻原常陸守は信虎公御幼少の時に弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語りを申し
  上げられた。信玄公12,3歳の御時分に常陸守は70余歳で死去なり。

――『甲陽軍鑑



ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより

2020年04月29日 17:38

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 20:36:36.02 ID:WPub7+sJ
信虎公(武田信虎)の御代には軍法も信玄公の十分の一でしかなかった。

ことさら信虎公28歳の御時のくしま(福島)合戦(飯田河原の合戦)の折、譜代衆は大方が在所へ引き
籠り見物仕る。右のくしまに勝ち給いて、その時より甲州一国の衆を8年の間にことごとく絶やし給うに
付き、2百・3百あるいは5百が立て籠もった城どもを攻め取りなさることによって、矢傷・槍傷・刀傷
をたくさん手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公が家中において、譜代衆・牢人衆中で健壮なる武士を75人選び出しなさった侍衆は、
信玄公の御代に大方討死して、年寄るまで長らえたのは横田備中(高松)・多田淡路・安満(あんま)・
鎌田織部・原美濃(虎胤)・小幡山城、この6人である。

ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより、武辺かせぐ衆はひとしお討死多し。鉄砲は大永6年(1
526)に井上新左衛門という西国牢人が信虎公へ奉公申し、この侍が鉄砲を持ち来たり教えたと申し伝
える。しかしながら、稀であったと聞く。

その後、信玄公の御若き時は、かち路大膳・同又作と申す牢人親子がいた。この侍が各々に教えた。近年
は佐藤一甫斎と申す牢人が来て教えているのである。今は侍衆皆が鉄砲を良く上手に撃っている中で、横
田十郎兵衛(康景)・日向藤九郎の両人は鉄砲を用に立てている。

――『甲陽軍鑑



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 22:44:35.38 ID:2ocCnCTT
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ

だから死ぬんだよ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 07:38:57.06 ID:8oiWljdW
>>127
一番槍なんて鉄砲のいい的だろうしなぁ

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様

2020年04月14日 18:14

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 00:34:32.23 ID:UAOt+l7t
元亀三年十二月二十二日、遠州三方ヶ原合戦が有った。
これは、足利義昭公が信長の救いを以て武将(征夷大将軍)に備え給わったと雖も、
信長公は自己の繁栄を先とし守禦の忠、日を逐って衰えたため、義昭公は信長を誅せんと、
密かに武田信玄を招き給うた。信玄は喜び、この年十月軍勢三万を率い遠州へ出、二俣城を攻めた。

この事態に、家康公より信長公へ加勢を請われたため、佐久間右衛門尉(信盛)を大将と成し、
七頭(佐久間信盛に付けられた七ヵ国の寄騎)を差し越させた。

そのような中、信玄は二俣城を攻め落とし、十二月二十二日、三方ヶ原へと進出した。
家康公は浜松を出た。この付近に城が有り、家康公の御備はサイカカケ(犀ヶ崖)に付いて右に有り、
佐久間信盛は七頭を従えその左の備であった。

信玄は大勢で以て信盛の備を手厚く押さえ、家康公の御勢に向かって合戦した。御家勢は終に敗北し、
家康公は犀ヶ崖より引き入れ東の御門より入った。甲州兵はその跡を追い掛かったが、犀ヶ崖へ落ち
人馬重なり死んだ。その間に家康公は浜松の本城に入り、御旗を立てられた。家康公の軍士たちは
浜松へ馳せ入り城を固めた。佐久間信盛、同久六安政も、手廻りばかりにて城中に籠もった。
信玄は城の堅固を見て攻め入らず、二十四日に兵を引き取ると云々。

佐久間軍記

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:44:59.17 ID:stkZ0XZE
あ、ちゃんと城を固めたって話になってるんすね
空城の計使ったみたいな話は何が初出なんだろ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:52:57.03 ID:j+0zRzqo
佐久間軍記は大坂の陣の後の、割と早い段階で成立したらしいね。

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:27:50.35 ID:RcQtnd87
信玄がここできっちり徳川にトドメを刺す方向へ決断してたら、後の日本史は大きく変わったに違いない。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:47:50.96 ID:wKITc2tn
陣没する場所が浜松になっただけ

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:52:14.17 ID:Jf7xcUU/
家康が死んでりゃ、毛利幕府が成立したかもしれないだろ

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 10:18:30.10 ID:0xdSiPIL
鞆幕府で毛利が義昭に養子を取らせて
その後京都に復帰
形式上は足利幕府存続だったり

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 13:07:49.42 ID:jIv+KTSX
鞆幕府臣の槙島昭光なんか、義昭、秀吉、秀頼、細川忠興をわたり歩いてるくらいだか、象徴のような人がいれば誰でも良かったんじゃない。

武田信玄は曾我時致が再生といふ説

2020年04月11日 14:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 03:19:39.86 ID:ONtCAS+0
武田信玄曾我時致が再生といふ説

 武田晴信入道信玄は曽我五郎時致の生まれ変わりであるという俗説がある。
その理由は、ある僧が富士野を通った時、曽我十郎祐成の幽霊が現れた。
「私の弟の時致は生前『法華経』を読経するという功により、甲斐国の領主武田大膳大夫晴信入道信玄として生まれ変わったのだ。
しかし私は女色に愛着していたので、今は六道に沈淪している。
どうかこの旨を信玄に告げて彼に私の弔いをさせて頂けないか?」
と頼んできたという。

 この俗説を考えてみるとしよう。
まず、そもそも再生輪廻の事は理にない事である。
これだけでなく他の理由も今しばらく俗談から検討したいと思う。
 曽我五郎時致は淫奔放蕩の謗りがあるといえど、工藤祐経を討って父の仇に復讐した。
取り所がない者ではない。
武田入道信玄は彼とは異なっている。その罪悪が際立っているものに、父信虎を追放して甲州を領した事が挙げられる。
「不得乎親 不可以為人」という言い伝えもある通り、人に非ざるのなら禽獣である。
ただし虎狼に父子の親しみあり、セキレイに兄弟の情ありという。禽獣にもしかずと言えるだろうか。
ところが物は類を以て集まるというのが世の習いである。
その臣の高坂弾正は主の不孝不義を諫めないだけでなく、信玄が父を追い出したという事実を断りながらも「一生『論語』を手に取られなかった」と『甲陽軍鑑』に記している。
晩年になっても『論語』を手に触れていたら、不孝を悔い旧悪を改める心も有ったのだと思うとひどく恨めしい。
これだけではない。降った諏訪の大祝頼重を誅して所領を奪い、その娘を頂き妾とした。
この妾の讒言により太郎義信飯富兵部を殺害し、欲にふけって親しきを忘れ甥の今川氏真を押し倒して駿州を奪った。
取り所のある人ではない。

(広益俗説弁 続編)

信玄が曽我五郎の生まれ変わりだったという説話があった事も驚きだけど、信玄の人格を否定することで俗説を批判しているのも面白い。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 16:07:42.88 ID:uo9+JVjf
>>969
ボロカスに言われとるな
異論はないけど

尼子再興軍挙兵

2020年03月14日 15:07

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 02:56:33.70 ID:HrhviztH
尼子伊予守義久の伯父である、孫四郎久勝、同弟・助四郎通久は(正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか)、さる永禄九年十一月、雲州富田城が没落した後は、ここかしこに身を潜め、
牢屈の悲しさに涙が尽きる日もなかった。洛陽(京都)東福寺に隠蟄し、出家遁世の姿に身をやつし、時が来れば
義兵の旗を挙げ素懐の恨みを晴らさんと、年月を風に吟し月に嘯き、怨みを山陰の雲に憤って明け暮れて座していた。

その頃、尼子一族譜代の郎従である山中鹿介幸盛。立原源太兵衛久綱、加藤彦四郎経盛も、京の嵯峨の辺りに居たが、
大江羽林(毛利元就)が九国(九州)を攻めて大乱に及ぶと聞くと、「今こそ、義兵を起こし鬱憤の旗を押し立て、
山陰道に討ち向かい、尼子累代の本領を取り返し、勝久兄弟の素懐に達するのは如何か」と議した所、
みな「尤も」と了承したため、急ぎ二条の御所に参り、委細を訴え出た。

織田信長はこれを聞くと、大いに喜んで言った
「関東では武田信玄が陰謀を呑み、西國では大江羽林が毒石を含んでいる。天下始終の魔障は、彼ら両勇である。
昔、漢の高祖は義帝を立てて秦の代を滅ぼし、周の武王は木主を作り殷の代を傾けた。幸いにいまここに、
勝久、通久の兄弟がいる。早く彼らを大将に立て、義兵の旗を挙げるべし!」

そう応じられ、御教書を調え、丹波、但馬の勢二千余騎を以て加勢に付けた。これに尼子孫四郎勝久、助四郎通久の
兄弟は、蟄望たちまち発し、虹龍が一陽の気に乗って天に上る如きであった。
尼子譜代の郎従に一言、芳恩の武士への催促を促した所、恨みを一刀の刀に掛けた兵たちが馳せ集まり、程なく
七千余騎となった。

雲州軍話首

しかし信玄と元就で「天下始終の魔障」とは、また偉い言われようですね。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 07:31:17.81 ID:OFEQsci3
>>760
>天下始終の魔障
>虹龍が一陽の気に乗って天に上る如き
言い回しがいちいちかっこいいwこういうのが講談の元になったというか発展したのかな
現代にも講談→小説→漫画としてつながってる気がする

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/14(土) 10:43:25.29 ID:CEi3z3Cr
>>760
>正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか

「はとこ」と言う

我が心を証人とする

2020年02月18日 18:44

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/18(火) 14:54:43.28 ID:tlsEyySc
甲州浪人の落合彦介上杉謙信公の御下へ参り、度々走り廻り心ばせある働きを仕ったとして賞禄を給わり、
御側二十八人の内に加えられた。

ある時、謙信公が槍間において彦介を御覧になり、このように言われた
武田勝頼の小姓である阿部加賀が、十余年以前に川中島にて汝を討ったとして、武田信玄はこれを悦び、
加賀に褒美を与えたという旨を、武笠という者が語ったのだが、これは阿部加賀守が見間違えたのか、
また余りにそう有ってほしいと、無い事を作って言ったのか、どちらにしても武田家中にてこれに過ぎる
大いなる弱みはない。

『三人行則有吾師其不善者而改之』という。我が配下の者達も、深くこれを思い相嗜むべきである。」
(論語・述而第七より「三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之」(三人で同行すれば、
必ず自分にとっての師となる人がいる。善き人を選んでこれに従い、不善である人については、これを
反面教師として自身を改めよう。))

そのように若き者達に、彦介、武笠を例として御異見を加えられ、またこのようにも仰せになった

「一切のこと、その中でも武辺については、有体にして我が心を証人とするより外は無い。
心を証とせずして取り囃し、言い成したる事は、必ず弱き事である。
結構なる働きをしたにもかかわらず其の名隠れ埋もれたとしても、心を証としていれば恨は無い。
君子は独りを慎むものだと聞いている。」

松隣夜話



これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。

2020年02月13日 17:35

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/13(木) 01:38:39.52 ID:iFHOP/rW
天正元年四月に武田信玄が死去したとの報が、同年九月、あたかありの阿達山より書付を以て注進された。
上杉謙信公は大いに惜しまれ

「子期去て伯牙留琴、吾天下に無千音」(鍾子期が去ってしまったというのに、伯牙である私は琴を留めている、
私は天下に知音を無くしてしまった。)(『断琴』『知音』の故事)

と、御涙を流された。そして荒尾一角、河田豊前を召され

「信玄は天下の英雄であった。今日より三日の間、府中の侍の家々は、音楽を禁じる。農民、商家はその沙汰に及ばず。
これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。
侍所より触れ渡すというのはあまりに大げさであるから、両人より縁々に物語して申し聞かせよ。」

と仰せになった。

松隣夜話



謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。

穴山梅雪の使い

2020年02月04日 18:09

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 04:33:50.85 ID:dDz2W3gf
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた

「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」

この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。

謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った

「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。

御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。

松隣夜話

義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:35.13 ID:T1G3qkQP
>>602
信玄の謀略くさいね

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:14:53.67 ID:u69+w5aj
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦

2020年02月03日 16:31

783 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:13.60 ID:JYHGVG8w
>>776の続き
上杉謙信は再び太田三楽を呼び出すとこのように言った
「私がここまで遥々出てきた以上、敵と手を合わせずに帰ることは出来ない。しかし利根川の北条・武田の
陣に掛かれば、信玄は工夫の深い人物でもあり、また手を詰めたような合戦に成り難しい。
そこでこの近辺に、氏康の要害は無いか?」

そう尋ねられたのを三楽承り
「山根城と申す所が、奥へ下道を四里の場所にあります。これは氏康秘蔵の要害であり、ここには忍の
成田の弟である小田助三郎、長野対馬守を置かれています。

ただし悪いことに、そこに行くには武田北条の両陣の前を遥々と奥へ通らねばなりません。
またそこを突破し要害を攻めることが出来たとしても、この城主は氏康奥筋の先手を任された
老功の者であり、千五百の人数が堅くこれを守っています。
前には城堅くして雌雄が決せられない内に、武田北条両旗にて押し懸られては甚だ危うい御軍となって
しまいます。
さらに、仮にこの城が手に入ったとしても、遠国の事でありますから保持は諦め乗り捨てにするより他に
道はなく、このような無益の場所の攻略に、腹心に等しい配下の大功の武士達を損ずるというのは、
御手違いであると存じ奉ります。これについて直江殿、宇佐美殿は如何お計らいに成るでしょうか?」

そう申した所、謙信はまた気色を損じられ、諸老の異見も窺われず
「謙信が守る所はそれではない!」
と、直ぐに須田という者を野根川の北条武田の両陣に使いに立て、このように伝えた

『輝虎は松山後詰めのため、ここまで罷り出てきたのであるが、早速に落城していた上は是非に及ばず、
あなた方も定めて、たぎらぬ振る舞いであると思し召しになっているだろう。恥じ入るばかりであり、
このままで罷り帰るというのは、両御旗に対し弓箭の無礼であると存じる。
そこで、氏康公秘蔵の要害と承る山根を明日押し破るつもりである。
その事無用と思し召すならば、両旗にて如何様にもこれを妨げられるように。』

そして利根川の品木の渡しに船橋を掛けさせ、押し渡って後に綱を切って船橋を流し、越後勢に太田三楽勢が
加わりその勢一万余騎にて武田北条陣の前、九町ばかりの傍を押し通り、山根城へと攻め寄せた。
この時太田三楽は内々に、『今度の戦いは他に譲ることは出来ない。』と考え、謙信に対したって先陣を乞い、
自身の軍勢二千に対し「我らの内一人でも生きている間は、越後衆に太刀を抜かせてはならない!」と
手の者達を励まし下知した。

この時の謙信の備にて定められた城攻め先鋒の面々は、西の手に大田三楽二千、南は柿崎和泉守、北條丹後
二千六百、東は直江山城守、河田豊前あわせて二千、御旗本は甘粕近江、長尾小四郎、中條五郎右衛門、
竹股勘解由、赤輪新介等であった。

謙信は諸将に会し「今度は無理に各々の一命をこの輝虎が所望申す。城攻めの方法は、私が下知を加えるに
及ばない。ただ荒攻めに仕るように。私はこれよりそれを見物する。もし武田北条による後詰めの有った時は、
本陣の合図に従ってこのように備を立てるように。」
そう言うと絵図を出した。

一方の山根城中はそのような事を全く知らず、矢倉にいた侍が小田助三郎の役所に来て「利根川の方より
馬煙夥しく見え、それが次第に近づいています。氏康公が奥筋に御手使されるのでしょうか?」と報告した。
これを聞いて小田助三郎も覚束なく、長野対馬守を伴って矢倉に上がりこれを見た。しかし両将としては、

「利根川に陣している軍門の前を押し通り、敵が通るはずもない。近国には上杉輝虎と太田三楽以外に
敵は無い。そして輝虎と三楽は松山城の後詰めのため昨日より前橋に到着したと聞いたが、松山城が
落ちた以上今日には定めて帰陣するはずである。
もし又、謙信が誤って奥筋に手勢を使わしたとしても、両将があのように居られるのだから、どうして
一戦もなく通るだろうか。

ではあるが又、味方であるとも見えない。大物見をかけよう。」

そして小田小四郎及び与力同心五十騎を引き連れ、自ら物見に出て七、八町西にあたる円山峠に乗り上げた所で、
太田三楽の先手である渋谷の一手が三百ばかりにて、険しい山の峰をつらぬいて攻め寄せてきた所に行き逢った。
双方は衝突し鑓を合わせ、一足も退かず各々の敵に当たり、そして物見の兵士は一人も残らずこの丸山にて
討ち死にし果てた。小田は太田の家来、深川修理という者に討たれ首を与えた。

784 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:50.11 ID:JYHGVG8w
長野対馬守は小田の便りを今か今かと待っていた所に、丸山の辺りに鉄砲の音が聞こえ、誰かは解らぬが
その勢二千ばかりが攻め懸けて小田の配下の者達を追い来たる、急いで対処せねばと判断した所に、
また南の山手より、銀の吹き流し矢筈の指物数多指した一備、馬煙を挙げて近づいてきた。長野は大いに
驚き手分けをして各持ち口に馳せ合わせようとしたが。混乱し騒動したため下知も届かず、長野対馬守
歯噛みをして「口惜しや!利根川の腰抜けたる味方を頼りとし不覚の死を遂げるものかな!」と言い捨て、
西の門を破って敵勢に乱入し、太田勢に馳せ向かうと、与力同心一四、五人共々暫く戦い、東を顧みると
北條・柿崎両手の馬印が早くも本丸に迫っていた。河田組、直江組もそれに続いて攻め入り、その中でも
太田勢は西の川の手より険しい山を一息に攻め上り外郭を破り、二の曲輪の門際まで切り行ったが、
長野対馬守が隙無く防戦したことで本丸への侵入を許さなかった。しかしながら城兵たちは敵より
あまりに強く攻められたために足を立てることも出来ず、明いていた北の方向に推しなだれた。

これを見て長野対馬守は同心の由良五六を近づけ、「御辺は早々に本丸へ入り、小田と我が妻子たちを
下知してよきに計らってほしい。郎従たちも残っているはずなので、きっと未だ事を果たすこと出来ると
推量している。どうか、頼み入り候。」

そう伝えると五六も委細相心得、「御心安く御戦死遊ばし候へ、それがしは御子息たちの御供を仕り、
直ぐに追いつき参るでしょう。」と申して立ち別れ、主従四人にて本丸役所へ入り、長野と小田の
妻子に自害をさせると、五六自身もその場で自害した。
長野対馬守は「この城を辛労してどうにか守っているが、一体いつまで保てるものか。この上は
心ゆくまで打ち合おう。」と、三楽の旗本に斬って掛かり、比類なき働きをして。父子主従、
十七人が一所にて討ち死にした。

こうして、直江山城、河田豊前、柿崎和泉、北條丹後、太田三楽ら三方より同時に乗り入れ、謙信公の
下知に任せ、老若男女、僧俗を分けず当たるを幸いに突き伏せ斬り倒した。
こうして謙信公の諸勢は過半が城に乗り入れた。この時御旗本より、竹股勘解由、本庄清七の組、合わせて
六百ばかりを別けて北の方に廻し鉄砲を以て逃げ出す者を撃った。このため助かる者は、百人のうち
一、二も有ること稀であった。

城中に籠もった者達は北条家に於いて度々武辺仕る、戦いに馴れたる勇士たちであったのだが、鉄砲を二打と
快く放つ者も無いほど、三方の寄手が急に攻めて刹那の間に乗り入れたのである。

謙信公は丸山よりこの様子を終始見られ、「侍は勿論の事、雑人下部まで一様に身命を塵とも思わぬ
働き、見事である。」と、度々称賛された。

辰の刻(午前8時ころ)に取り合い始まり、午の刻(午後12時ころ)に乗っ取った。今回、山根城において
死んだ者は、上下、男女、僧俗、童、おおよそ二千六百であった。
寄手で死んだ者は三百七十五人、手負い五百人であった。

事終わって直ぐに諸手を丸山に引き入れ、腰兵糧を使わせて人馬を休ませ、城は乗り捨てにして
また元の道を帰り、利根川下の瀬の渡り前橋へ入った。
永禄五年二月十三日、山根城合戦とは、これのことである。

松隣夜話



785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:10:21.16 ID:77IM5cvd
このキャラ付けが何がどうなって義のひとに味付けされたんだろ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 02:36:28.59 ID:/IgTbzXx
撫で斬りから3文字脱落したんだろう

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 08:30:00.80 ID:S5bz4vh3
>>784
ここまでやったのに
>城は乗り捨てにしてまた元の道を帰り
災害かな?

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 14:19:52.48 ID:4Cy1SCXO
松隣夜話だからといえばそれまでだけど
直江景綱の官途名混同してるな

>>787
松山城後詰に失敗した意趣晴らし100%の城攻めだから
武威を示すために残虐になるし
災害以外の何者でも無いわな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 19:17:18.00 ID:HwF5Po/z
城攻めなのに寄せ手の被害のほうが圧倒的に少ないのは、流石というかなんというか。

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:05:21.49 ID:TG2SWWxN
信長「謙信って残虐だよな」

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:17:06.28 ID:/IgTbzXx
史実かはともかく、上杉謙信なるものがこういう人だと考えられてたわけだよな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:03:52.95 ID:T1G3qkQP
人質の童子を寝所に連れてって夜伽をさせるのかと思ったら処刑かよ
きっと兄弟ともにブサイクだったんだな

虎口に死を免れた心地にて

2020年02月02日 16:04

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 04:00:17.37 ID:3/dAnLfC
永禄五年正月、北条氏康武田信玄へ使者を以て依頼をした。

『武州松山の城は以前より氏康持分の所であるが、それを去年、太田三楽(資正)が越後の柿崎と合わさって、
量らずもこれを乗っ取られてしまった。松山は東国の固めであるため、それ以降奥筋近国の手使が心のままに
叶わなくなった。であるので、この氏康は近日人数を出してかの城を取り返しいたいと考えている。
そういう事なので、三楽は必ず越後に後詰めを頼り、上杉謙信を引き出す事疑いない。今回は必ずかの城を
奪回するつもりなので、信玄公には氏康の警護をしていただきたい。松山城を取り返し、武州を押さえ
治めることが出来れば、以前の如く節々の御不祥の義を申し入れるような事は無くなるであろう。』

武田信玄はこれを了承し、甲州並びに信州に陣触れされ、二月下旬に信玄、嫡子義信一万八千余騎にて
武州に発向された。北条は氏康、嫡子氏政、その弟源蔵(氏照)の二万八千余騎、両家合わせてその勢
四万六千余騎が松山城を取り囲み、昼夜をいとわず攻めた。武田勢の内、甘利左衛門の与力・米倉丹後が、
竹束と言うものを用意して城に寄せた。諸手攻め近づいたため、城内からの火砲による抵抗もさほど威力を
発揮せず、籠城の兵士たちも気力を失った。城代の上杉友貞(上杉憲勝)も軍卒も、粉骨を尽くし難く、
武田北条は五万に及ぶ大軍で間断なく攻めたため、防戦の術も尽きて二月十日、上杉憲勝は降伏し、
城を明け渡した。

太田三楽はこれ以前に、越後に使いを出して、上杉謙信が出陣する旨の返答を得ていた。これによって
後三日も城が持ちこたえれば難なく寄せ手を追い払うこと疑いなしと思っていた所に、存外の急な落城であり、
臍を噛んで前橋まで出向き、謙信の到着を待った。

北条氏康武田信玄は、謙信が出陣してくることを上杉憲勝が白状したため、これを聞いて両軍山を
後ろにし、利根川を前に立てて鳥雲の陣を成した。

謙信はそれから二日して、八千騎にて前橋に到着し、太田三楽に対面すると激怒した
「これほどの不覚人に要害を預け、この謙信を引き出し手間を取らせ恥をかかせたこと、甚だ奇怪である!
こんな事ならば三楽を討ち果たす!」
と、刀に手をかけ、その場で三楽を手打ちにしようとする様子であった。これに三楽は騒がず、静かに
申し上げた

「仰せ、誠に尤もであります。しかしながら上杉(憲政)殿御浪人以来、それがし程の小身にて氏康の
大身の持分に挟まれ、今まで滅びること無く居られたのは、全く他でもなく、偏に謙信公の弓箭のお陰です。
ですので今回に限らず、何時であっても氏康信玄の大軍に仕掛けられてしまっては、それがしの二千三千の
兵では、たとえ呉氏孫氏の術を得ていたとしても手に及ばぬ事であり、何度でもお助けを待ち奉るしか方法は
ありません。
である以上、この三楽がたとえ禽獣であったとしても、どうして川の流れを酌んで、その水源を枯らすような
事をするでしょうか?

上杉憲勝は多年私の手について、武蔵上野所々の働きを任せてきましたが、終に不覚を取ったことは
ありませんでした。また三楽の重恩を以て全う仕る者でありました。ですのでこのような事が有り得るとは
考えなかったのです。それはそれがしの愚昧の成す所なのでしょう。是非に及びません。

籠城にあたって弓箭、鉄砲、弾薬、兵粮等は、ともかくも半年は不足の無いよう覚悟を仕っていました。
また今回のあまりの事態に、人質に取っていた、上杉憲勝の弟と実子をここに召し連れてきています。
これらをどうぞご覧になってください。」
そう言って兵粮弾薬の注文表と、上杉憲勝の子弟を御目にかけた。

謙信は立ち上がると、二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、一つ召すと、これを三楽に指し与えた。
三楽は『少しでも躊躇しては良くない』と思い、差し寄って一つ傾け、その上で側より引き取り、虎口に
死を免れた心地にて息をついだという。

松隣夜話

続き
永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:07:25.19 ID:aJsksDuw
野蛮にも程がある

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:18:51.87 ID:JORXOmS3
>>776
>二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
>一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、
漫画のラスボスかよw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 14:19:38.57 ID:v9fR+9K+
ヴィンランド・サガの初期にありそうな展開

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:10:21.74 ID:TaRyTcHC
岩明均の「雪の峠」にそのまま出てくる話だな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:29:37.77 ID:aroExui4
歴史漫画に便乗して
センゴクのプーチン謙信なら普通にやりそう、だと思った

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 22:49:38.55 ID:bEQuBdMs
イスラム国の処刑人でも真似できないだろ?

惣じて殿下の大胆闊達な事は

2019年12月07日 16:55

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:00:50.62 ID:RNLP5dbp
天正十八年七月十三日、小田原開城の後、豊臣秀吉公は小田原城に入られ、最前に笠懸山で約束した
通りに、徳川家康公に伊豆相模武蔵上総下総上野下野安房の八ヶ国を参らせ、また家康公の上京の
折々における旅中の用途の為として近江国伊香、野洲の両郡、また海道筋にて一万石を与えた。
そして旧領である東海の五ヶ国は殿下が受納され、諸将に今回の勲功の賞として分け与えた。

そのような処置の後、陸奥出羽の両国も平均なさしむべしとて、同十四日に秀吉公は小田原を発した。
前田利家父子、宇喜多秀家、蒲生氏郷が秀吉公より先陣の命を蒙り、その他の諸大将も先隊後躯の
列を守り、順々に打ち発った。数ヶ国の大軍が昼夜を分かたず野も岡も平押しに押し行き、
五里七里の間には、神社仏閣市店農家に軍勢の宿と成らない所は無かった。

そういった中、長岡幽斎法印玄旨は病気によって休暇を賜り、同十五日足柄竹ノ下より甲斐国に入り、
信濃路を経て京へ戻った。

秀吉公の方は、「このついでに鎌倉を一見したい。」と、相州藤澤駅より駕を枉げられ鶴ヶ岡の
八幡宮に参詣された。参詣が終わって右大将家(源頼朝)の廟所を尋ねられ、白旗の社(白旗神社)で
あることを申し上げると、そちらに詣でられ戸帳を開かれると、頼朝卿の影像をつくづくと眺められ

「おおよよ微賤より起こって天下一統に切り従え、四海を掌に握った者はあなたとこの秀吉のみである。
しかしながらあなたは多田満仲の後胤であり、王氏より出てからもそう隔たっていない。その上、
先祖に伊予守頼義、陸奥守義家が相続いて関東の守護をなし、故に国侍に馴染みも多く、被官の筋目が
有るのを以て流人の身であるといっても、義兵を挙げるや否や旧好を追って東国武士が属従し、
速成の大功を建てられた。

一方で私は氏も系図もない匹夫より出て、茂みの中から世上を靡かせたのだから、あなたよりこの秀吉の
創業の方が大なること明白である。しかし何れにしてもあなたと私は天下友達と言うべきであろう。」

そう言って影像の肩先をほとほとと叩き、からからと笑って立ち下がられた。扈従の者達も興に入り
「誠に活気の大将である。」と言わぬものは居なかった。

惣じて殿下の大胆闊達な事はこの話だけではない。宇都宮に出馬された砌に、御伽衆が侍座して
夜話をしていた折に、佐野天徳寺上杉謙信の、信州川中島の戦い、常州山王堂の戦いなどを語り、
「彼が勝れて剛絶なる大将であった証拠は、輝虎が関東へ越山するとの話が聞こえれば、諸家の
輩は一人ひとり身構えて手袋を引き弓矢を伏せた。そして謙信が帰陣して三国峠を越えたと聞くと、
大夕立と雷鳴が過ぎ去った跡のように、ようやく息をついて安心して座したものであった。」
と話した所、殿下はこれを聞かれると

「天徳寺よ、その信玄謙信の両入道も早くに死んで幸せであったな。今まで生きていたなら
私の今度の帰洛の時に、乗輿の先に立たせ、朱柄の傘、大長刀を担がせ力者として供をさせた
だろうに、早世して外聞も能く名を残せた。何が座備、車懸りか、戯言である。」

そう宣われた。これには天徳寺も言葉を失い苦笑するより無かった。

(関八州古戦録)



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:10:30.46 ID:JKruuVtX
関連
5875
『秀吉の大器』


9758
車懸りや座備が何だというのか


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:20:18.14 ID:JKruuVtX
これも関連に追加
846
豊臣秀吉、成り上がり者の心意気・いい話

3207
豊臣秀吉、天下人の自信

気遣いは分別のいろは

2019年11月11日 18:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 10:49:53.46 ID:h1wOUAM7
ある時武田信玄公がこのように仰られた

「世の中にはいろいろな人がある。分別が充分に有っても才覚のない人もある。才覚が有っても
慈悲のない人もある。慈悲が有っても人を解っていない人も有る。

人が解らない者の場合、大身だと、その者が尊敬している人物というのは十人の内八人は役に立たない
という事が多い、小身の場合は、その親交深い傍輩の悪しき知り合いに近づいてしまう。

このように色々様々に変わって見えるが、結局はただ分別が至らぬということだ。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、人を知るにも功を成すにも、何事につけても
良く成すものだ。このように人間にとって分別の二文字こそあらゆる事の基礎であると知り、
朝に志し、ゆうべに思うようにして、分別を良くするべきだ」と言われた。

内藤修理正(昌豊)曰く、「信玄公御錠に、人は分別肝要と仰られた。これは尤もな事である。
それについて、分別と言うことも、学んでその知恵がつくものだ。」

そう申したところ、小山田彌三郎(信有)が「願わくばその方法を教えて頂きたい。」と
しきりに問うてきた。そこで内藤修理は

「気遣いという気持ちがあれば、分別にも近寄るであろう、この気遣いから全ての事に心付て、
自分の至らぬ部分を分別ある人に習い、何事を成す場合でもこの心構えをその度に重ねれば、
自分の心得も出来、猶以て工夫、分別、広才の智のある人に近づく事だろう。
そこを考えれば、気遣いというものは分別のいろはでは無いだろうか。」

そう内藤は小山田に教えた。

(甲陽軍鑑)

分別の基は人に対する気遣い、つまり良い判断に必要なのは思いやりである、という所でしょうか。
現代でも通用しそうな考え方ですね。



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 17:59:45.43 ID:ypIcKaTN
小山田の名前を見るだけで警戒してしまうが、この人は26歳で早逝してるんだな

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:57:34.10 ID:3AMDOqwh
信玄公って部下教育にも長けてたんだろうなあ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:04:34.10 ID:j9tC0zm8
息子は失敗したけどな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 22:36:51.09 ID:eLkJFcq7
>>325
その辺も家康は信玄を見習ったなw

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:34:19.74 ID:2wX/tis6
武田は奥近習だっけ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 15:07:26.89 ID:AkKEwVuC
小山田は信有だらけなの、どうにかして…

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 16:39:27.95 ID:W5wF8sv2
先代とは意地でも同名を避けるつう命名基準から外れてるし理由を知りたい

相手にすると恐ろしい者

2019年11月10日 17:00

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/10(日) 09:01:59.88 ID:oWdch8EX
ある時武田信玄公が御噺衆に尋ねられた
「奉公人の中の大身、小身は言うに及ばず、下々の者まで相手にすると恐ろしい者がある。
それはどういう者だと思うか。」

御噺衆は誰も答えられなかった。そこで信玄公はこう言われた

「それは無分別な者だ。何故ならこの無分別な人物は、後先を考えず、口に任せ手に任せ、
考えもしないようなことを仕出かす。そういった人物は合戦の鍔迫り合いに成れば遅れ逃げるものだ。
ところが良き分別のある人物は、普段から詮索をよく致すために、逃げる無分別者を発見すれば
逃さず、勝負をつけようとする。こうして良き分別者が悪しき分別者と相手をし、徒に身を果たす
ような事になるとしたら、これをよく思案してみよ、分別なき者は恐ろしい人ではないか。」

そう仰られたのである。

(甲陽軍鑑)

有能な人物がバカに殺されてはかなわん、という話でしょうかね。



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 03:40:53.26 ID:mGN8Rjs4
無能な味方は敵より厄介

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 20:54:31.95 ID:3AMDOqwh
平凡でも良いから実直であって欲しい
ということも言いたいのかも

無能は不要とかだったら部下のストレスはんぱない

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/11(月) 21:53:10.65 ID:l/raO2w7
臆病者でも使い方次第という岩間大蔵左衛門の話も甲陽軍鑑だったっけ。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/11(月) 23:53:28.42 ID:ypIcKaTN
無能というかアスペや嫌なクズって感じ
これに真面目な人材が殺されたらたまらん

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:41:18.32 ID:l9uYArUl
窮鼠猫を噛む

侮って死んだ分別者w

信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

2019年11月07日 16:44

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 10:27:11.88 ID:0KJaQ8DD
信玄公御一代敵合の作法三ヶ条

一、敵の強き弱きについて分析し、またその国の大河、大坂、あるいは分限の模様、その家中諸人の
  行儀、作法、剛の武士、大身、小身、それらの多少のことであっても、味方の物頭衆によくその
  様子を知らせなければならない。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、勝負の事について、十分の内六、七分の勝ちこそが十分の勝ちであると
  御定めになった。中でも大合戦は殊更そのようにするのが肝要である。その理由は、八分の勝ちは
  危うく、九分十分の勝ちは味方大敗の下地作りであるからだという。

一、信玄公の仰せには、弓矢の儀、取り様のこと、四十歳以前ならば勝つように戦い、四十歳以後は
  負けぬように戦うべきであるという。ただし二十歳前後でも、自分より小身の敵に対しては、
  負けないように対処し、勝ちすぎてはならない。大敵には猶以て右のとおりであり、おしなべて、
  よく思案、工夫を以て、位詰めにし、心を長く持って後途の勝を得ることを肝要に仕るべきである、との
  儀であった。

(甲陽軍鑑)


甲陽軍鑑より、武田信玄の敵への対処のありかた三ヶ条



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 21:04:09.27 ID:UyfXPO7g
信玄って油断することあったのかな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/07(木) 23:36:49.16 ID:7WI7bWrx
油断して浮気がばれたために、誓詞を書く羽目に

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/08(金) 13:21:30.71 ID:cIUGsmSB
貧乏国の形態から父親追放の継承で実際重圧凄かったろうな

唐の頭に本多平八

2019年11月06日 17:21

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 07:09:48.92 ID:gResndio
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。

信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った

「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」

しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。

ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。

平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。

その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は

『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』

(甲陽軍鑑)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 12:54:26.21 ID:AkN9Xad1
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな

翌年の四月十二日になって思い当たった

2019年10月27日 16:53

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/27(日) 14:07:37.07 ID:lugWOShB
元亀三年の正月二十一日に、武田信玄公は法華宗身延山へ御使を遣わされた。その子細は、
去年織田信長が叡山を焼いた事により、身延を新たな叡山になさろうと考えられ、身延山を
御所望になられた。そしてその代わりとりて長野に寺を建て、今の身延より大きく御普請仰せ付けられ、
それを相渡すとの仰せであった。

身延山の各出家は御返事に、「日蓮聖人の御影の前で鬮を取った上で結論を申し上げる。」と、
鬮を三度、五度、七度まで取ったものの、合点の鬮を得ることはなかった。
その上山が変わらない祈念として、壱萬部の法華経を読んだ。また不思議なことに日蓮聖人の
御告げが多く有ったと沙汰された。

しかしそのような事を信玄公は知らず。是非身延を東の叡山にするべきであると内心定められていた。
「出家に悪く当たらぬ物」と言うが、これは翌年の四月十二日になって思い当たったものである。
武田信玄は元亀四年四月十二日に病没した)

(甲陽軍鑑)