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例えばネコと申す獣は

2023年07月23日 16:58

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/23(日) 13:38:35.95 ID:ccTnDEmC
例えばネコと申す獣は、取り立ての主をも知らず、キレイな囲炉裏の中にも糞をし、或いは
飼鳥を狙うような、悪儀のケダモノであるのだが、ネズミを捕る時は一段といさぎよい。

また、ネズミという物は、大事な物の本をも切り破り、障子の絵も遠慮なく食い破る。
このような時はどうにかして退治したいと思うのだが、俄に退治することも出来ない。

しかしかのネコをけしかけて悉く取り尽くした時は、ネコについてのその他の悪しき事を忘却し、
ただネコは重宝とばかり思うものである。

甲陽軍鑑



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此の頃の大将弓矢取様之事

2023年07月09日 16:30

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/08(土) 22:09:11.41 ID:58EwJ9sF
此の頃の大将弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将にて度々の軍に勝利を得給う中に、夜軍にて管領上杉の大敵にひとしお付け、
  終に(上杉)憲政に斬り勝ち追い討ち、関東を切従えるように成った。つまり北条家の弓矢は、
  敵の油断を肝要に目を付けるものなのだ。

一、越後の(上杉)謙信は、後の負けにもかまわず差し懸る合戦をしようとするが、それは氾濫した川を
  無理矢理に渡るような仕方である。殊更相手がましい敵に対しては、いつも退き口が荒い。
  謙信は加賀、越中、或いは関東碓氷などで敗軍したことがあるが、武田信玄公と対峙する時は
  無二に仕掛け申された。

一、織田信長は取り囲んだ城の包囲を解いて撤退し、境目の小城をいくつ攻め落とされても問題としない。
  追い崩されて自軍の人数を追い討ちに討たれなければ、世間の取り沙汰は無いのだから。
  攻め難い所は急ぎ引き取り、すぐに(別方面に)出兵して国を多く取って持ち、大身と成れば、
  終にはその名は高きものとなる、という事である。

一、(武田)信玄公は軍に損害の無いように、敵を見て退き口が荒くならないようにした。
  包囲した城に対し敵の後詰め(援軍)が来ても、それを見て(慌てて)包囲を解いたり撤退しないよう、
  出陣の前からその方針を軍勢によく理解させて出る。
  総じて、我が領分の小城を一つも取られないように、跡の勝利を水にしないようにさえ有れば、
  末代まで名は残るものである。
  さて又、国を多く治めることについて信玄公は、その身の果報により少しも怪我無くして名を取ったが、
  この上寿命が長ければ終に扶桑(日本)六十余州の主とも成るだろうと仰せに成られた。

  信玄公の御作法は御小旗に文字で書かれている、四ヶ条の如くである。その古語とは、
  一其疾如風
  一其徐如林
  一其侵掠如火
  一其不動如山

甲陽軍鑑



武士道批判の事

2023年07月01日 18:12

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/01(土) 17:31:44.87 ID:5OhX76wn
武士道批判の事

一、人を褒める時は、褒めるに値する能き証拠を引き、謗る時はその根拠となる悪き証拠を引く、
  これが本道である。
  また邪道は、上杉憲政の家中のように、分限の者であれば悪しきも褒め、貧しければ良くても謗る。
  このような家中には、臆病な者が十人中八人ある。
一、たとえ一人が能くとも、大勢の悪きに囲まれると未練の様になる。その時は十人中十人がよわ者となり、
  そのようであったので、上杉憲政公は子息を捨てて越後へ逃げ込まれた。

  さて、証拠を引いて善悪の定めのある家は、先ず運が尽きてその大将が死んだとしても、跡まで
  その家中衆は弓箭に利発である。それは証拠を以て褒め、謗る故に、能き武士が多く集まり、
  また未練な者が十人の内二、三人あっても、皆能きように見えるものなのだ。

甲陽軍鑑

ホント甲陽軍鑑上杉憲政には容赦がないな



887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/01(土) 18:59:37.35 ID:a8HcLhKp
子息を捨てて越後に逃れて、謙信を頼り
子息の仇の氏康の子息の景虎のために御館の乱を調停しようとしたら
景勝軍に景虎の息子ともども殺される憲政

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/01(土) 19:25:49.30 ID:i1A71xwj
おだてられて育てられたボンボンでしょ

武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

2023年06月27日 22:49

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/26(月) 22:49:28.43 ID:BntjdKkv
武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

一、敵討ちについて、親のかたきを子が討つのは順、兄のを弟が討つのは順、
  子のかたきを親が討つのは逆、弟のを兄が討つのは逆である。
  叔父のかたきを甥が討つのは順ではあるが、討たなくても問題はない。

一、合戦、競り合いにおいて相打ちは非義である。強き武士は、大方の場合はしるし(頸)を
  取ろうとするものだが、よき武士というものは、しるしを取らなくても問題としない。
  相打ちは必ず無用である。例えば鑓を合わせる時、相鑓などと言う事は無いではないか。

一、味方討ちは御大将への逆心である。これはまた。ばい頸(売頸?)より劣った行為である。

一、武士の寄り合いの時、互いに仲が悪かったとしても、乗打をしてはならない。この時たとえ
  打ち果たしたとしても、無礼は弓矢神への恐れとなる事であるのだから、そのことをよくよく考え、
  実の道理を深く守るべきである。

一、親はまた、家中に奉公している場合、御旗本に奉公している親兄弟が科をして主人に成敗させられた
  事について、無分別な人々はこれを、「敵討ちの沙汰である」と申すが、それは不案内の儀である。
  能く沙汰してみれば、科有る者は敵討ちを厭い、故に成敗なくしてはおかざるものなのである。
  であるのだから、主に成敗された事を以てかたきと受け取るのなら、御旗本に有る人を屋形様が
  御殺した場合、その子は又屋形様を狙うであろうか。それは非儀であり、あってはならない事だ。
  であれば、「主人に成敗されたのに、その主人を(敵討ちとして)討たない」などと言って
  誹謗するのは、一段の無詮索ではないか。
  もし、前々から遺恨があったというのであれば、討ち手に人を討つ事もあるだろう。
  しかしそれとても、道理に外れた事である、

甲陽軍鑑



武田信玄公は御他界したのか

2023年06月14日 20:30

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/14(水) 19:54:47.90 ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公は御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

甲陽軍鑑



本当の合戦

2023年06月10日 17:36

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/10(土) 14:45:15.92 ID:WMKENhuW
ここ百年来、本当の合戦(本来の合戦)というものはほとんど無い。但し二度本当の合戦があった。
それは永禄四年の信州川中島合戦、遠州三方ヶ原合戦の二つである。

北条氏康公が河越において上杉管領八万余の大軍に、氏康八千にて勝たれたが、これは夜軍であったため
敵が油断した故である。そうでなければ八万余の軍勢が、人数八千の北条家にどうして負けるだろうか。
下総の国府台において氏康公は、阿波の義広(里見義弘ヵ)に勝利されたが、義弘ははじめ打ち勝ち、
そのため油断した所に氏康が懸って利運になされた。

この如くに出し抜き、或いはふたまたにて小身となった敵に勝ち、或いは堀を掘り、柵を付け打ち、
自身が逆心、また旗下の侍が合戦の場においてにわかに裏返って敵になる。

こうして無理な勝負を負けても、負けたとあまり心の負担に成ることはない。世間においても
本当の勝負であったという評価はされない。

国持同士が、敵味方ともに二、三万の人数を以て、白昼に合戦参るべく候とて、両方ともに、
他国の加勢はあっても、大将は一人ずつで、堀も川も柵も裏切りも無く打ち合い、正面から鑓を合わせ、
勝負をして実否を付けたものを、本当の合戦と言うのである。

甲陽軍鑑



そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され

2023年06月07日 19:25

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/06(火) 21:28:53.52 ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

甲陽軍鑑

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。



三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された

2023年06月04日 17:47

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/04(日) 15:03:32.74 ID:F4RPUIsG
天正元年(元亀四年)三月上旬に、武田信玄公の御病気は一段平癒された。その仔細は、板垣法印が薬を進上し、
その上四花の灸をされ給った事で、御快気目出度くましまして、同三月十五日には、織田信長の居城する国の内、
東美濃へ発向有るべきとの旨を公表され、その陣触れが甚だしかった。
諸人は大小・上下共に尽く、この度の陣には一入忠功を励まし御感に預からんと、喜ぶこと限りなかった。

甲陽軍鑑

武田信玄の西上のさい野田城を陥落させた後発病したとされ、その後元亀四年四月十二日に死去するわけですが、
一時的には回復し、東美濃攻略を目指していたらしい、という記述。



「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

2023年05月31日 19:17

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:37:28.02 ID:0JPugDAC
ついでに「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

川中島合戦の後、武田義信は信玄に対して逆心があったため、家督を譲られなかった。
その理由であるが、信玄が川中島の戦いにおいて、名代に義信を立てて先陣を勤めさせて入れ替わったところ、慈悲がないと義信が恨んだためだという。
川中島の戦いでは信玄の旗本は義信と入れ替わっていたそうだ。



鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は

2023年05月17日 19:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/16(火) 21:01:32.73 ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

甲陽軍鑑



【ニュース】“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開

2023年05月15日 20:27

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:01:07.43 ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
CNTS2023042600087_S.jpg

NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。

諏訪法性の兜について

2023年05月15日 20:25

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:05:37.68 ID:ZDewH9ua
笹間良彦甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html



足軽大将、侍大将の心得

2023年05月14日 17:52

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/14(日) 13:33:46.82 ID:h/ZA9HOh
足軽大将が心得るべきことは、自身で戦働きをするのは過失に繋がるという事である。
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。

侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。

若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。

甲陽軍鑑

足軽大将、侍大将の心得について



これらが三つの采配であり

2023年05月10日 19:16

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/09(火) 20:18:51.52 ID:z2UNFaNf
大将の三つの采配とは、第一に、常々自国・他国共に武士の手柄、忠節、忠功について、上中下共に
よき評価をすること。

第二に、人をよく見知り、それぞれに役を申しつける事。

第三に、忠節、忠功の武士に、手柄の上中下をよく詮索した上で、三段に恩を与えること。

これらが三つの采配であり、こういった事が悪しければ、諸侍は行儀ばかり慾り、上中下のうち
下の手柄であっても、様々なやりようで上になるのだと心得、戦場での働きを控え、軽薄な者
ばかりとなって、その大将の矛先が弱くなる。

であるから、この三ヶ条は国持大将の采配である。
そしてまた、手で采配を振るうというのは、国持大将の下である侍大将、或いは足軽大将の役目である。

甲陽軍鑑



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 10:33:50.91 ID:f26oxxe6
じゃあその三条の具体例が続くのかな
それともここまでに書いてるのかな

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/10(水) 12:16:35.86 ID:tcUmS+y+
ワイは人を見る目は確かで適材適所ができて適切な評価で褒賞授与できる大将(笑

戦いには、勝ち様が三つ有る

2023年05月06日 16:13

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/06(土) 14:50:46.01 ID:MCigo0Yu
武田信玄公は大将衆への御仕置において、このように御諚された

「競り合い・合戦といった戦いには、勝ち様が三つ有る。

十のうち六分・七分の勝ちが一つ。
十のうち八分・九分の勝ちが一つ。
十のうち十全の勝ちが一つ。

第一に、十のうち六・七分の勝ちは、これ十分の勝ちである。
第二に、十のうち八・九分の勝ちは危うい。
第三に、十のうち十分の勝ちは、その後必ず過失があって、跡の誉れを無にしてしまうだろう。」

また信玄公は宣われた

「若き大将が十分に勝っても、そのため過失があっては、その後どれほどの勝利を得ても、
若き時の過失による敗北を引き出され、後々までその過失を指摘されるものである。

必ず大将たらんとする者に、十を十ながら勝ちたいという思案があれば、それは自分の心中より
大敵・強敵を数々作り出し、勝利を失うであろう。

そういった意識は悪事を招くものなのだと、相心得るように。」


甲陽軍鑑



時期外れのこの桃を捨てたこの分別は

2023年04月05日 19:06

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 21:21:31.29 ID:7VhXufKi
武田信玄公の仕置に、諸々の境目に在る侍大将衆に、近国・他国の大将の行儀、作法、仕形などを
聞き出し次第、善悪共に一ツ書にて言上いたせ、というものがあった。
或る年、遠州犬居の天野宮内右衛門(藤秀)と申す侍大将の所より進上仕る書状に、

『美濃岐阜の織田信長に、直系一尺(約30センチ)にもなる桃が三つ成ったものを枝折りにして、
霜月(十一月)中の十日に献上した所、信長は差し引きの冴えたる大将であり、上辺は事を破っている
ように見えても、内心には時により、一段と練れたる事の多き武士でありますから、この桃を大いに
心祝いして、一つは信長自身が取り、もう一つは嫡子城介信忠へ参らされ、三ツ目を遠州浜松の
徳川家康へと送られました。

この事に対し家康は、世の常ならぬほど忝ないことだという返事を出しましたが、その桃は密かに捨てさせ、
家康が食うことはありませんでした。』

これを天野宮内右衛門は書き付けて提出した。それは一ツ書の多い中に、「これはそれほどの事でも無い」と、
末にいかにも粗略に書いたものであったが、信玄公はこれをご覧になり、その書付を御手に取られ、
しばらく目を塞がれた後、御目を開いて申された

「家康は今年で定めて三十ばかりであろう。しかし四十代に及び殊更大身の信長に比べ、五位も増した、
締まりどころ在る分別である。これに対し、武士の心馳せの無い者が聞けば、年齢に似合わぬとも
申すであろうが、三河国を治めるとして、十九歳より二十六まで八年の間に粉骨を尽くし、戦功の誉れも
それに相応し、海道一の武士と呼ばれているが、日本国においても彼に匹敵する武将はあまり多くはないだろう。
丹波の赤井(荻野直正ヵ)、江北の浅井備前守(長政)、四国の長宗我部(元親)、会津の(蘆名)盛氏、そして
若手にはこの家康であろう。

さて、時期外れのこの桃を捨てたこの分別は、後の出世を考えてのことであろう。この出世とは、無事年を明ける
事ができれば吉事となるという事であり。その意味は馬場美濃、内藤修理、高政は定めて合点するであろう。」

そのように宣われた。

甲陽軍鑑



779 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:18:07.62 ID:sy19QJwM
>>769
重要人物は季節外れの果物は食べないって、別の逸話でも見た気がするな。あれは誰だったか…。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 12:27:27.97 ID:wrO1aHin
毛利輝元と石田三成「テルとジヴ」・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-954.html

で輝元が秀吉に贈った桃を拒否している

781 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/06(木) 12:31:22.08 ID:sy19QJwM
>>780
おお、それだ。
ありがとうございます。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/06(木) 16:53:04.10 ID:QdzFzLJH
少し意味が違うが、打ち首直前の石田三成が水を飲ませてくれと言ったら、水はないが柿ならあるけれどどうだ?と言われて、柿は腹を冷やすからいらないと言った話があったな

敵討ちのことについて

2023年04月02日 17:20

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/02(日) 16:24:46.07 ID:0/464KFC
敵討ちのことについて。

先ず、狙われる側の人は常に寝所を変え、昼夜用心し、その上路次を行く所に、先に敵が待っていると聞けば、
脇道を通って迂回するなど、どのように仕るとも討たれるようにするのが分別尤もと言える。
この事を、無案内な人々から卑怯であると言われても、全く問題はない(此儀を無案内なる人々比興という共不苦)。
信玄家の作法はそのようになっているのだ。

次に狙う人は、その身が怪我をしたことへの意趣であるなら、夜昼共に狙って討ち果たそうという時、
その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを
手柄といたすべきである。

自分の意趣で討つ場合でも、敵討ちであっても、その敵の家に忍び込んで討ち果たすのは、ひとしお良き
心馳せと申すものである。

他の家はどうであれ、信玄家の作法は斯くの如しである。

甲陽軍鑑



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/04(火) 09:10:38.20 ID:d0SphvuW
>その武器として刀、脇差、或いは鑓、薙刀までは問題ない。
>さて又、親兄弟、師匠、伯父、従兄弟までの敵討ちであるならば、弓、鉄砲であっても討ち果たしたことを手柄といたすべきである。

ここすき

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:14:50.13 ID:Flu5Hexi
この書き方だと、妻や子供の敵討ちというのは、弓や鉄砲は駄目なんだな。

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/04(火) 21:22:08.31 ID:mUM08mQR
そもそも目上の男性の敵以外は敵討にならないよ

「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

2023年03月26日 18:52

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 22:46:11.27 ID:hu1HyIr1
「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 23:06:10.78 ID:hu1HyIr1
(続き)
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-497.html
武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話


後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/26(日) 10:53:20.18 ID:AqAmt3K9
まだ真田宝物館に旗があるようだ

武田信玄公は、軍法を新しくなされた事について

2023年03月22日 19:32

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:17:10.16 ID:x6CQOMpB
甲州において、武田法性院大僧正信玄公は、軍法を新しくなされた事について、このような古歌を索かれ説明された

・しなてるや かた岡山のいひにうへて ふせる旅人あはれ親なし   聖徳太子
・いかるかや とみのおがはのたえばこそ 我大君のみなはわすれめ  達磨大師

『この歌は昔、聖徳太子と達磨大師が対面した折の歌である。達磨大師も日本国に渡られて、大和国の片岡山に、
乞食のようにして住まわれていた。臨済の録に、片岡山下老野狐とあるが、その通りであったのだろう。

凡人はゆめにもこれを存じなかったが、聖徳太子、達磨大師は何れも三世を悟る佛同士の寄り合いであり、
互いにそれを知っているからこそ、先の歌の上に『達磨は唐土に帰ると定めていたが、それは日本の仏心宗が、
その頃は時季相応ではないという故であった。事長し。あらゝゝ』と云ったとある。

件の歌は聖徳のものも達磨のものも本来ずっと長かったのだが、これでは人は会得できないとして、藤原定家卿が
短く歌二首に詠んで、人が会得できるようにされたのだと聞いている。

さて又、いやしくも信玄は分別・才覚の真似を以て、工夫・思案して唐国の諸葛孔明が陣をとりしぎ、備を
設けて城を構えられた儀を尋ねてこれに習い、陣取りを大小二つにして、その他人数、備、三つの構え、数の
働きようを仕り、自分の子孫ばかりではなく、誰人であるといえども、扶桑(日本)戦国の中において、
数万の衆を率いて合戦を行う場合の、疑いを定められまいらせんがための、信玄の軍法は斯くの如しである。』

と宣われたのである。

甲陽軍鑑

信玄の軍法は誰であっても合戦の疑問に答えられるように作った、という事なのでしょうね。



武士が武士を褒める作法

2023年03月01日 19:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 22:50:36.52 ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

甲陽軍鑑