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鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は

2023年05月17日 19:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/16(火) 21:01:32.73 ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

甲陽軍鑑



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武田の家があらん限りは

2022年12月01日 19:07

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/30(水) 19:50:13.49 ID:9cUq6Z2A
寅(1566)の六月二十四日に、武田信虎公より同年五月五日の日付にて、信玄公へ書状が使わされた。
その内容は、

『去る甲子(1564)三月、公方光源院殿(足利義輝)へ信虎が御礼申し上げ罷り帰る所、
公方様は広縁まで私をお見送りになった。そのためこの信虎は、頭を地に付けて申し上げた。

「武田の家があらん限りは、広縁まで公方が御送りある。我が家の系図是成。」

しかしながら三好が道なき故に、光源院殿の御妹の聟となる御恩を抛ち、去年乙丑(1565)、
義輝様を討ち奉る。(永禄の変)
そのような事があっても、侍という存在が有る限りは、公方が絶え給う事は無い。
その心得有るべし。」

このように折々、信玄公へ信虎公より仰せ越された。かの強くまします信虎公も、御父子の間なれば、
信玄公御吉事の義を折々仰せに成ると、武田の家老たちも涙を流した。

甲陽軍鑑

武田信虎から見た将軍義輝や永禄の変について



487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 03:25:54.83 ID:8YHKCnPj
>>486



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/01(木) 08:25:51.64 ID:nEsIqGw1
>>486
家康「おう俺も公方だぞ伏して拝めや信玄坊主」

信虎みなちがひなりと思ふ

2022年11月09日 18:55

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/08(火) 21:30:21.63 ID:KK3AKmtk
永禄六年正月七日、遠州掛川の圓福寺という律宗の寺より出家一人が甲府へと来た。
長坂長閑に付いて御前に参り、信玄公に申し上げた内容は、御父信虎公が、今川氏実公の御気に
違われ、この春中に都に上がられる予定であるという。その事を申し上げた上で、
「小身の侍で信玄公が御心やすく思し召し、いかにもしっかりした分別ある侍」を一人、この僧と共に
寄越してほしいとの事であった。そこで信玄公は日向源藤斎に正月十三日に命じその日の内に
甲府を立たせ、遠州掛川圓福寺へと派遣した。

源藤斎は十七日に掛川圓福寺に到着し、その夜に信虎公の御目にかかった。
信虎公は仰せになった
「日向源藤斎と名乗っているようだが、お前は何者なのか。」

「日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた時、今から二十六年前は
私は奉公もいたしておらず、日向大和を頼り、年齢も二十歳にも届いていませんでした。
また元来、信濃が本国であります。」

信虎公は聞き召され
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのであれば苦しからず。」と仰せになった

(中略)

その夜半、人々もみな静まった時分に信虎公は源藤斎を召して仰せになった。

「私は信玄に対して恨みがあると言っても、それは既に過ぎて久しい事だ。また信玄の方の道理も
万々多い。

あの頃は、能き上にも能くあれかしと思って折檻したのだが、今考えるとこの信虎のやったことは
全て間違いであったと思う。(其儀はよきうへにも能くあれかしと存て、折檻仕れども、信虎みな
ちがひなりと思ふ)
何故なら、今信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃は皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間に
治めるという沙汰を聞けば、信虎の祝着これに過ぎず。

そう、信玄に言ってほしい。」

そのように仰せに成ると、源藤斎は「畏まりて候」と申し上げた。

甲陽軍鑑

武田信虎が信玄の派遣した侍に対し、自分の間違いを率直に認めたというお話。




武田信虎追放について

2022年10月14日 19:10

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/12(水) 21:25:04.54 ID:pUCJxExe
同年(天文七年)の三月九日に、武田信虎は駿河を訪問された。
嫡子・晴信について、駿河より一報があり次第来るようにと、晴信公は甘利備前の所に預けられ、
次郎殿(信繁)は御館の御留に置かれた。

信虎公が駿河に行かれるということで、晴信の衆は内々に支度をした。そうした中、板垣信方、飯富兵部(虎昌)
両人を、晴信公は御頼りになった。

信虎公が甲府を出立されて九日目、三月十七日に逆心が行われた。
この事については既に駿河の今川義元と内通されていたために、少しも手間取ることはなかった。
信虎公の御供の侍衆も皆、その妻子を人質に取られていたので。彼らは信虎公を捨てて皆甲州に帰った。

甲陽軍鑑

武田信虎追放について。



これは晴信公十八歳の時の事である

2022年10月12日 19:05

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/11(火) 21:00:09.80 ID:LIz3lhCB
天文七年正月元日に、武田信虎公は子息晴信公に盃を遣わされず、次男次郎殿(信繁)へ御杯を
遣わされた。

そのような事があって正月二十日には、板垣信方を以て信虎公より嫡子・晴信公へ仰せ遣わされた。
その内容は、太郎殿(晴信)は駿河の(今川)義元の肝入を以て、信濃守・大膳大夫晴信と名乗られた事で、
この上は義元に付き添い、万事異見を受け、心の至る者の機、作法をも学ぶように、との事であった。
晴信公はその返事に「ともかくも信虎公の御意次第」と仰せになった。

すると重ねて、飯富兵部ら二名を使いとして信虎公は仰せになった
「当三月より晴信は駿河へ行き、一両年も駿府においてよろず学問をするように。」
この事、ゆくゆくは次郎殿を惣領にするため、嫡子太郎殿を長く甲府へ返さないようにする、との
意図の模様であった。

これは晴信公十八歳の時の事である。

甲陽軍鑑

信玄廃嫡の危機についてのお話。



武田信玄の幼名について

2022年10月11日 19:21

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/10(月) 20:40:27.29 ID:N12PfjLC
武田信玄公は幼名を勝千代殿と申す。その仔細は、御父信虎公が二十八歳の時、駿河のくしま(福島)という武士、
今川殿を軽んじ、さらに甲州を取って己の国に仕らんとして、遠・駿の人数を率いて甲州飯田河原まで来た。
しかも六十五日あまり陣を張っていたが、この間甲州御一家(武田一門)の衆は尽く身構えをして動かず、
武田の御家はもはや滅亡かと見えた所に、信虎公の家老である荻原常陸守という大剛の武士が、武略を以て
信虎公の勝利を得た。

敵の大将であるくしまを討ち取られたその日のその時、誕生された故に、信玄公は「勝千代殿」の
幼名を付けられたのである。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦であるとした、武田信虎公家老の
沙汰であった。

また勝千代殿の誕生前に種々の不思議が、信州諏訪明神より告げ来たと言われている。

甲陽軍鑑

武田信玄の幼名についてのお話。



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/10(月) 21:02:15.88 ID:QBpDoS3b
あれ、武田家代々の幼名と違うの?
…信虎がパパじゃないとすると色んな事が腑に落ちるんだけどどうなんだろ

442 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/10/10(月) 22:46:20.57 ID:I5XffvIN
信虎は種無しだったもんな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/10(月) 22:53:17.60 ID:RSFjfb0/
信玄の幼名は太郎だけどな

婿入りも まだせぬさきの 舅入り

2022年08月19日 18:30

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/18(木) 21:22:34.43 ID:VIhSpD76
甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた

『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』

寒川入道筆記



“勝千代殿”

2020年05月05日 16:53

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 02:24:52.45 ID:iO/doWIk
一、それ、信玄公幼き時の御名を勝千代殿と申す。子細は御父の信虎公28歳の時、駿河のくしま
  (福島)という武士は今川殿を軽視し、結果甲州を取って己の国に仕らんと遠駿の人数を引き
  連れ甲州飯田河原まで来たり、しかも65日余り陣を張っていた。

  その時、甲州御一家の衆はことごとく身構えをして、「武田の御家はもはや滅却するだろう」
  と仕るところに、信虎公の家老・荻原常陸守(常陸介昌勝)と申す大剛の武士の武略をもって、
  信虎公は勝利を得給う。

  敵の大将のくしまを討ち取りなさったその日のその時に誕生なさった故、“勝千代殿”と信玄
  公に幼名を付け申す。すなわちその時の合戦は勝千代殿の合戦である。武田信虎公の家老の沙
  汰なり。勝千代殿誕生前に諸々の不思議が信州諏訪明神より告げ来たるという。

一、荻原常陸守は信虎公御幼少の時に弓矢の指南申し、信玄公御幼稚の時分も弓矢の物語りを申し
  上げられた。信玄公12,3歳の御時分に常陸守は70余歳で死去なり。

――『甲陽軍鑑



ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより

2020年04月29日 17:38

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 20:36:36.02 ID:WPub7+sJ
信虎公(武田信虎)の御代には軍法も信玄公の十分の一でしかなかった。

ことさら信虎公28歳の御時のくしま(福島)合戦(飯田河原の合戦)の折、譜代衆は大方が在所へ引き
籠り見物仕る。右のくしまに勝ち給いて、その時より甲州一国の衆を8年の間にことごとく絶やし給うに
付き、2百・3百あるいは5百が立て籠もった城どもを攻め取りなさることによって、矢傷・槍傷・刀傷
をたくさん手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公が家中において、譜代衆・牢人衆中で健壮なる武士を75人選び出しなさった侍衆は、
信玄公の御代に大方討死して、年寄るまで長らえたのは横田備中(高松)・多田淡路・安満(あんま)・
鎌田織部・原美濃(虎胤)・小幡山城、この6人である。

ことさら60ヶ年以来は鉄砲があることにより、武辺かせぐ衆はひとしお討死多し。鉄砲は大永6年(1
526)に井上新左衛門という西国牢人が信虎公へ奉公申し、この侍が鉄砲を持ち来たり教えたと申し伝
える。しかしながら、稀であったと聞く。

その後、信玄公の御若き時は、かち路大膳・同又作と申す牢人親子がいた。この侍が各々に教えた。近年
は佐藤一甫斎と申す牢人が来て教えているのである。今は侍衆皆が鉄砲を良く上手に撃っている中で、横
田十郎兵衛(康景)・日向藤九郎の両人は鉄砲を用に立てている。

――『甲陽軍鑑



128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 22:44:35.38 ID:2ocCnCTT
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけ

だから死ぬんだよ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/29(水) 07:38:57.06 ID:8oiWljdW
>>127
一番槍なんて鉄砲のいい的だろうしなぁ

就中信虎御隠居分事

2019年07月02日 17:35

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 00:24:13.86 ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御隠居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:52:44.70 ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 20:17:55.08 ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw

内藤修理は元来工藤なり

2019年06月10日 14:29

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 02:24:57.23 ID:2hX+mQxB
内藤修理(昌豊)は元来工藤なり(工藤源左衛門)。これも信玄公御代に“内藤”になされた。

信虎公・信玄公両代で首数9つあり。人並みのしるし故、御証文は1つもなし。弓矢功者で、
思案・工夫の分別は馬場美濃(信春)に劣らぬ人であり、人数の扱いを良くする人なり。

――『甲陽軍鑑』



武田の家のあらん限りは

2019年05月23日 17:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/22(水) 20:54:19.06 ID:/jjf8gGf
寅の6月24日(永禄9年(丙寅)。1565年)に、信虎公(武田信虎)より同年5月5日の日付で
信玄公へ御書を遣しなされた。その趣きは、

「去る甲子3月に公方光源院殿(足利義輝)へ信虎は御礼申し上げて帰るところで、広縁まで
光源院殿が御送りになられたので、信虎は頭を地に付けて申し上げた。

『武田の家のあらん限りは公方が広縁まで御送りになられる。我が家の系図これなり』

と申し上げ候。しかれば三好は道無き故、光源院殿の御妹婿になった御恩を投げ打ち、去る年
乙丑に、義輝公を討ち奉った。そうであっても、侍のある内は公方の絶えなさることはない。
その心得あるべく候」

と折々信玄公へ信虎公より仰せ越しなされた。「かの強くいらっしゃる信虎公も、御父子の間
だから信玄公に御吉事のことを折々仰せられるのだ」と武田の家老各々は涙を流したのである。

以上。

――『甲陽軍鑑』



信虎公はこの刀で50人余りを

2019年05月17日 17:38

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 04:23:46.41 ID:w2OiBgOR
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 07:41:32.52 ID:EMUiFFNb
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:29:42.79 ID:tI1C2xsG
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:54:21.30 ID:vPXWVMD0
てか信虎長生きだな

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:18.75 ID:nH85bSJc
(だからやばいって言ったやん・・・)

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:53.50 ID:3JPX1a4D
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ~」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 13:58:13.33 ID:viLJ6jis
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 23:29:12.88 ID:LonsrQcf
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 05:45:56.56 ID:GNN10F73
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 07:56:39.50 ID:4ffkuKZb
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 15:03:48.62 ID:kgdWSgPA
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:14:54.39 ID:hDnie7Gp
>>34
珍しく長閑を褒めてるね

この中でも信友は、

2018年10月22日 17:29

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 16:18:02.48 ID:wL/yqqre
この戦い(長篠の戦い)も未だ半ばであるのに、勝頼の右備の穴山梅雪、本陣の後備の
武田左衛門信光(信堯)ならびに上野介信友(武田信友)らは勝頼を捨てて甲斐

目指して逃げて行く。この中でも信友は、信玄入道の父・信虎が我が子・信玄のために
本国甲斐を追い出されて婿の今川義元を頼み駿府に寓居した頃、かのところで設けた子

である。信友は駿河で成長し、父・信虎と謀を合わせ信玄に内通して今川家の諸功臣を
仲間に引き入れ、ついに氏真を追い出して信玄に駿河を奪わせた。

その功により、今は勝頼の方に扶持されていたところであったが、近年は癩病を患って
面相は変わり人の交わりも叶わず。よって甲斐勢は、「今回は是非幸いと目を驚かす

働きをして花々しく討死することだろうよ!」と頼もしく思ったが、人よりも先に逃げ
出したために諸軍は興さめてぞ覚えける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



異形な僧体の正体は

2018年05月03日 17:40

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 15:10:58.53 ID:TwZnZBzO
天文の乱とその後の燻りが集結し混沌としていた伊達家が落ち着きを取り戻した天文21年、伊達家当主伊達晴宗は、弟の亘理元宗に対し上洛を命じた。
将軍足利義輝への拝謁、晴宗の家督相続後の報告、愛宕詣などを終えた元宗は当時二十一歳の若者。
文武両道に優れ後世からは伊達家三代の重鎮と称された元宗だが、流石に大任を終えた達成感から人心地ついていた。

そんな元宗の下へ、急な来訪者が現れる。慌てて面会をしてみれば、相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。
おまけに左右に屈強な供の者を従えており、元宗もこの訪問者をただならぬ人物と見抜いた。

「失礼ながら、どなたでありましょうか」

「こちらこそ急な面会御無礼いたす。某は先の甲斐守護、武田無人斎と申す」

なんと異形な僧体の正体は、約十年前に嫡男晴信によって甲斐を追放された武田信虎であった。
甲斐を去って西国に赴き、後に駿河に住まわっていた信虎であったが、その後も度々京や高野山、奈良の諸山を遊訪し、時には将軍家に対し奉公していたらしい。
驚く元宗に対して信虎は悠然と諸国の時勢を尋ね語らい、いつの間にやら二人はすっかり意気投合してしまった。
しかし元宗もいつまでも京に長居をするわけにもいかない。国へ戻らねばならぬ旨を信虎に伝えると、信虎は名残惜しそうな顔を若者に向けた。

「そなたの様な文武に通じた若者と会えることは人生の何よりの楽しみである。この度の語らいは実に愉快であった」

そう言って、自らの腰から佩刀を抜き元宗に手渡した。

「これは相州の業物、綱広の作である。是非受け取ってほしい」

元宗は感激し、恭しくその刀を拝領した。
そして信虎とその供の者達に丁重に礼を述べると、陸奥への帰路に立ったのであった。

信虎が甲斐を離れた際、嫡男晴信は二十歳であった。
もしかしたら信虎は才気煥発な若き武士に、かつての我が子の姿を重ねたのかも知れない。



845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:06:21.19 ID:m/bWX0G2
我が子の姿を重ねたらそんな接し方しないだろw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 17:45:10.59 ID:C+6Oo2ju
>>845
確かにw
でも、早くこっちにおいでよって手紙書いてるし

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 19:22:44.85 ID:GiUzTZdE
「嫡男晴信は二十歳」
の後に
「、次男信繁は十六歳」
と加えれば何とか

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 20:40:37.87 ID:XqUwDBpF
>>844 これこそ良い話だ
>>845
信虎は今川領にいても晴信とやりとりしてたから憎しみだけではないのではないかな知らんけど

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:17:45.38 ID:RcMzVUiV
なんで信虎はいきなり訪問してきたんだろ
上洛する諸大名の関係者に会いまくってたのかな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 21:56:54.58 ID:oCGv9hVP
>>844
これ出展は何でしょうか?
祖父物語?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 22:36:26.38 ID:Mb6IjGto
なんで伊達と武田の話が祖父物語に出てくると思うのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 00:21:37.24 ID:obnNlYmh
伊達政宗の祖父の弟の話だから祖父物語とでも思ったんじゃね

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:16:44.09 ID:vUy0oAOP
伊達も親子で争って親を幽閉して子が継いだ
親近感を抱いたのは想像に難くない
従って晴宗の股肱元宗の中に兄思いの息子信繁の姿を見たのだろう

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:23:12.07 ID:pSLxbVzv
>>857
若武者の逞しさを羨ましく感じていたんじゃないかと思った
大河で追放後でも晴信を叱咤していたイメージが強いからかな

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 08:44:28.98 ID:vUy0oAOP
大河は創作、好き嫌いっていうより方向性の違いでしょ
前の支配者を貶めるのは誰もがやってる事
ウソを見抜けない人はネットでもバカを晒す

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 08:49:18.10 ID:rklRNSKj
信虎さんて、甲斐を追放された後も

>相手は壮年の出家姿なれどもただならぬ威容の持ち主。

なんて書かれたり各地を転々として回ってたり、息子より長生きしたり…
乱破でもしてたんだろうか?老いてなお盛んだなぁ…

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 09:16:17.33 ID:mE2l5ksp
甲賀の六角残党と連携して義昭の挙兵に呼応した近江侵攻も目論んでたらしいし、成功してたら信虎・信玄による武田親子夢の信長挟み撃ちが見れたかも知れないあたりに面白さを感じる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 10:39:41.61 ID:CB9h8h4v
武田信虎のwikiには在京中に南部信長と交流があったとされている
まとめにありましたが、どうやら南部但馬守信長が国元の七戸氏に送った手紙に信虎の名が
ただし年代が不明、南部信長は将軍足利義政に出仕して但馬守を拝任したらしい
南部但馬守でググると丹羽長秀の小説がw
言継卿記にも名前が出てくる、知行の件で相談したいんだとか
南部信長のwikiを見ると八戸信長と久慈治義のことを指すんだとか
久慈家は代々備前守と摂津守を名乗ってて一族に昆但馬高光という人がいたようだ
久慈治義は備前守、南部信長との関係は不明

何が言いたいのかというと南部但馬は在京中に子供を作って代々将軍に仕えさせてたんじゃないかってこと

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 11:48:31.64 ID:pSLxbVzv
>>863
一族が在京する家はそれなりにあるんじゃないの?
隣国だけど近江の六角なんかはそうだったよね
まあ伝承のなかの人物がいたりもするけど
あとは伊勢みたいに当主は在京して一族に領地を任せておくとか

武田の場合、信虎の前に敗走した信長が在京してたけど、若狭武田の伝手とかなんかな?

865 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/03(木) 12:03:40.36 ID:rklRNSKj
>>863
確かに足利義政に仕えた人物だと、とんでもないことになるしね…

甲賀は忍の者多し

2016年07月13日 15:06

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/13(水) 03:06:43.40 ID:FdEry9Oe
甲賀は忍びの者が多い。人柄は甲斐甲斐しき所である。信虎(武田信虎か)
は、かの地を頼みにしておられた。

(甲賀は忍の者多し。人柄かいかい敷所なり。信虎彼地を頼被居候)

――『武功雑記』





武田信虎「信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように」

2015年05月09日 16:25

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 21:22:04.96 ID:HjLXgSyq
遠州掛川の円福寺にあった武田信虎は、信玄より遣わされた日向源藤斎にこのように言った。
「今川家は、ここ10年のうちにも滅亡するだろう。その仔細は、上方牢人の武藤という、武辺のことについては
仮初にも知らない、利得ばかりの役を今川義元から申し付けられた、半分町人、半分侍のような者が居るが、
その子が、生まれつき良き者であると、今川氏真の御座を直させる役につかせ、三浦右衛門(正俊)と名づけた。

そして今では氏真は、この三浦右衛門の言うがままと成り、霜月や極月にも、右衛門が所望ならば
踊りを七月のように踊らせ、また五月の菖蒲斬りを七月末まで叩き合わせ、能・猿楽、遊山、月見、花見、
歌、茶の湯、川漁、舟遊びにあけくれ、民百姓を虐待し、譜代の家老や今川一家の衆にも頭を上げさせない。
ことに、遠州の国人飯尾氏の跡目を望み、今川家において最も権威ある家老である朝比奈兵衛尉をも遮り、
地下も侍も氏真を恨むように成ったのは、みな三浦右衛門のせいである。

この三浦右衛門と言う人物は武士の義理を知らぬ者らしく、今川義元が手を付けた女子に、菊鶴という、
これは義元の近習・四宮右近の妹があったのだが、これを密かに妾にしたのが、義元が討ち死にした
年のうちであった。この事も右衛門を恐れて、氏真に知らせる者とてなかった。
しかしこういった事を、この信虎は氏真に申し聞かせたため、右衛門は私を憎み、彼のお気に入りである
名古屋の与七郎と言う者は、私を武田の強欲入道と名付けた。

これというのも、元は氏真の心得が悪いからである。氏真が23歳の時、父義元を織田信長に殺されて
はや4年になる。当年26歳に氏真は年令を重ねても、父の弔い合戦をするような心ばせは夢にも無い。
氏真も臆病というわけではない。しかし心掛けが無いため、西国において大内義隆、関東にては上杉憲政と
同類に数えられる。

特に、三河岡崎の城主で、今は家康と名乗っている者は当年22歳になるが、義元のお陰で岡崎に帰還したが、
氏真を見限り今川の敵である信長と入魂して、互いに起請文を交換し合い、信長に脅威があれば家康が助け、
家康に大事があれな信長ら助けるとし、既に家康の、当年5歳になる嫡男を聟に取ると約束した。
そして元康といったのを家康と改名し、4年前より三河国を切り取って廻った。

この事に対し今川家の重臣より抗議が寄せられたが、家康は
『今川の御恩にて岡崎に帰参致すこと、父広忠以来二代に渡り、少しでも今川家に対しぞんざいに思えば
御罰が当たります。このあたりでの取り合いは、所領の境問答があるからです。
信長と入魂したのは、彼の内実を見透かし、義元公の弔い合戦を氏真公がなされる時のためです。』
そう答えて家康は弟を人質に出した。
しかしその駿河の使いが山中あたりを行く自分に働き、氏真を主君として崇める者達を次々と切り従えたのを、
今川家の重臣達は重大事と考え氏真を諌めたが、家康のめのとである酒井雅楽助(正親か)という者の
工夫良き故か、成瀬藤五郎という口利きの上手い侍を一人、三浦右衛門の所に付け置いたことで、
氏真と家康の間も元のように回復した。

こんな状態なら、家康と信長の同盟により、三河、遠州、駿河3ヶ国は家康信長に取られ、結局
敵の方が今川家を滅ぼすであろうから、信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように。
ただ、舅であるから北条氏康今川氏真を助けるだろう、しかし氏康の子息氏政は、信玄の婿であるから、
そのあたりは信玄も定めて分別が有ると思う。こう、信玄に申せ。」

これに日向源藤斎は申し上げた
「信玄様は、万事において入念な方です。口上だけを以っては如何かと思います。信虎様の御一筆を
遣わされますように。」

しかし信虎
「文書で言うならその方を呼びはしない!大事の事は、絶対に書物にはせぬものだ。」

「であれば、信虎公の御判を一つ押して下さい。それをお目にかけ証拠とし、信虎公の奥意を申し上げます。
私は諸国へ御使に参りますが、どんな手立てにおける吉事であっても信玄公は、ふまえる所のない情報は
少しも信用なされません。」

そこで信虎は直判を日向源藤斎に渡した。次の日は日向は逗留し、翌19日、信虎は円福寺を立って上洛した。
それを見送ると、日向は二十日に掛川を立ったが、安倍川が増水していたため回り道をし、25日に甲府に付き
信玄に信虎の判を御目にかけ、件の事を申し上げた所、一切感心のないような表情で

「信虎公は老耄されたのだろう。皆いたずら事である。源藤斎はこの事、今後必ず取り沙汰してはならない。」
そう機嫌悪く言った。
(甲陽軍鑑)




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 10:01:41.22 ID:byQptwpE
本当今川氏真って最低なやつだなw

武田信虎と、駿河での子

2015年05月08日 18:55

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 19:40:16.96 ID:GDeBRSsV
永禄6年正月7日、遠州掛川の円福寺という、律宗の寺より一人の出家が甲府へと来た。
これに長坂長閑が付き添って、武田信玄公に申し上げた

「御父君である信虎公ですが、今川氏真公の御意に違いになり、この春のうちにも都に
御上りなされることに成りました。その事について、信玄公に仰せ渡したい事があります。
小身の侍のうち、信玄公が心やすく思われ、また何事にもしっかりと分別有る者を一人、
この僧と供に信虎公の元に寄越して頂きたいのです。」

そこで信玄公は、日向源藤斎を、正月13日に仰せ付け、その日に甲府を立たせて遠州掛川の
円福寺に向かわせた。
日向源藤斎は17日に掛川円福寺に到着。その夜に信虎公にお目にかかった。
信虎公は先ずこうに仰せに成った

日向源藤斎と名乗るお主は何者か?」

「私は日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた26年前には、私は奉公もせず
日向大和に扶養されておりました。年齢も二十歳になっておりませんでした。
元来は、信濃が本国です。」

信虎公これを聞くと
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのならくるしからず。

私は信玄に出し抜かれこの体になり、45歳の時より当年まで26年の間、今川義元に扶持を受け、
今や70になってしまった。
義元が生きている間は。私も甲州に居た時と同じように待遇され、今川家の侍衆も、『御舅殿』と
崇めていたのだが、4年前の5月19日、義元が討ち死にすると、子息の氏真はこの信虎に祖父の待遇をしない。
よって去年の晴までは駿府にいたのだが、夏の間にこの円福寺に移ったのだ。

それから、私が牢人した次の年、駿府にて男子一人を持った。義元はこれも、小舅の待遇にしてくれ、
騎馬の者を20ばかり預け、武田上野守と名乗り、当年25になる。
この上野守が16の時に設けた子に、私が名を付けたが、信玄にあやかるようにと勝千代と付けた。
この子も、当年10歳となった。

この上野父子も駿府で過ごしていたが、私が円福寺に去年から移ると、三浦右衛門という今川氏真の出頭人が
遮って、上野父子は氏真から声もかけられない有り様で有る。

そこで信虎はこの3日の内に上洛し、都の辺りに居住するつもりである。
私は公家の菊亭晴季殿に、上野の妹で、当年19歳になるのを、義元が生きている時に祝言させたので、
菊亭殿は信虎の聟であり、これに頼って都に上る。
然れば、上野は信玄の弟であるから、この父子を懇ろに待遇するよう、信玄によくよく言うように。」

そう、日向源藤斎に仰せ付けになられた。

その夜半過ぎ、人々が皆寝静まった頃に、信虎公は日向源藤斎を召して言った
「私は信玄に対し恨みあるといえども、もはや過ぎて久しき事だ。また、信玄の方にも道理は萬々多かった。
あの当時は、良き上にも良くあるようにと思って、信玄に対し折檻したが、あれは皆、信虎の間違いであった。
なぜなら今や、信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃を皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間にに
治めるだろうという沙汰を聞く、信虎の喜びは、これに過ぎる事はないと、信玄に言ってほしい。」

源藤斎はこれに「かしこまりて候」と答えた。

(甲陽軍鑑)

武田信虎、駿河で作った子供を信玄に頼み込む、というお話。




757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:21:22.75 ID:Y5kEKSGr
武田の父子不和は遺伝的疾患かね?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:25:36.51 ID:J2Y9jU6L
現代でも親たちの作った借金や制度に
子供たちが苦しんでるだろ

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:54:11.02 ID:Np3grdNi
親子不和なんて珍しくもないでしょ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:05:54.45 ID:PWgJoWir
大塚家具とか

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:21:31.65 ID:ZLQ/3S+8
武田の父子不和は伝統芸やね

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:47:15.86 ID:aYn4wbvv
そもそも河内源氏自身が・・・・・・

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:58:02.50 ID:o4/pQzaX
あの世で新羅三郎も、子孫が身内で争ってることにこころを痛めただろうな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 11:09:38.39 ID:Z/2crxAD
>>763
義綱「…」

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 11:47:54.68 ID:2EjhBKU2
家族でころころしあうのは源氏のお家芸みたいなもんやし

伊良子宗牛の事

2015年03月15日 16:24

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 06:52:00.57 ID:2TOljY+0
伊良子宗牛の事

永正の頃(1500年頃)、甲斐国守護の座を巡り武田信直(武田信虎)は叔父の油川信恵と国を二分する争いを行っていた
信恵方には武田一族の岩手縄美、秋山信任、小山田氏らが味方したが、信恵が大敗を喫すると秋山氏も信直に従う事となった
しかし秋山一族の中には信直を国主として認めない者や、信恵方についた事を咎められ、やがては所領を捨て出奔する者もあった
その中には三河渥美の伊良子に移り住んだ者もいた
三河に移った者は土地の名を取り伊良子を名乗り、その後出羽国に流れ最上義守に仕えた

「奥羽軍談」「山形の昔話」ほか

伊良子宗牛の出自の話



信虎、孕石を厚遇する

2014年10月14日 18:51

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 21:28:24.41 ID:yt39XJqp
孕石なにがしという侍は、あるとき信虎公に仕え南郡に領地を賜った。
そこで孕石は、ご恩を得た記念に苗字を改めたいと申し上げた。

このとき、孕石に嫁がせていた一族の娘が子を授かった。
信虎公はすでに孕石に新しい苗字を言い渡したところであったが、それを聞くと大いにお喜びになり、
御自ら孕石を追いかけられて、

「石女(うまずめ)を孕ませたのはあっぱれな槍働きである。めでたいことだ。
このために、お前を孕石と呼ばせることにしよう」と、おっしゃった。

その上で、もともと孕石が名乗るはずだった新しい苗字は、生まれてきた娘に与えられた。
このかじか姫は美しく育って、道行く人々が孕石の屋敷のそばを通りたがったので、このあたりを寄居と呼ぶようになった。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 21:31:34.88 ID:yt39XJqp
かじかって、あまり美しいイメージがないのだが、結果オーライなのだろうか?

信虎が孕石を厚遇する(?)良い(?)話。




37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 22:13:46.49 ID:3HYN2LHI
元の名字Aから貰ったBにかえかけたけど夜の槍働きの功で孕石を賜りBは娘の…名前になったのか?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 22:21:15.79 ID:47wU7RSO
某権現「全員斬れ」

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 23:28:33.73 ID:rF4OIBYe
ん?AはBを名乗ることになり、Bの娘はAを名乗ることを許されたんでしょ

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 02:41:14.50 ID:pAbaCAPf
>>37なんじゃないの?
某 → 新しく、かじかを名乗るが良い → あ、やっぱお前孕石ね!かじかは生まれてくる子に名付けよ!

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 03:43:25.24 ID:wcUG1HlT
三河の子倅には………

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 07:30:10.77 ID:6J7GM+Mf
火の鳥にいたな、かじか

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 20:58:15.80 ID:yIz+gdFK
河鹿→カジカガエル。河川の上流~中流やその周辺に生息するカエル。
鳴き声から和歌の題材になったり、美声で唄う個体を「河鹿」と呼んで讃えることもあった。
江戸時代には専用の籠(河鹿籠)による飼育がされた。
http://www.youtube.com/watch?v=gnK00uOLsa8

鰍→カジカ。カサゴ目カジカ科に属する魚。地方によっては他のハゼ科の魚とともにゴリ、ドンコと呼ばれることもある。
見た目は悪いが、とても美味な魚とされる。汁物、鍋料理では、大変美味な出汁が良くでる為「なべこわし」とも称される。

まあ、どちらも見た目はよくないけどね。