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名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない
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「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

枉げて勝頼の下知を了承し

2018年04月22日 21:19

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:29:37.55 ID:ou08Zeez
 (1582年3月3日)新府城から郡内(小山田領)へ退避するために新府城にある物資や妻女たちを運ぶため、
夫馬300疋、人夫500人を新府城まで出すようにと国中に触れたが、
甲斐の地下人たちは山野に隠れてしまい、国中は織田方の侵攻と武田の敗戦を知り騒然としていた。
夫馬も人夫もなかなか姿を見せず、勝頼夫人の輿を担ぐ輿かきすら逃げうせてしまっていた。
家来たちが手分けして、夫馬一疋をようやく探し出し、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せた。
 勝頼は新府城を退去するにあたって、ここまで同行してきた信豊を呼び寄せた。
「信濃国を譲渡する。小諸城は要害堅固の城であるから、
ここを足場に舅である小幡上総介信真(小幡信貞)らを頼み、真田昌幸、内藤昌月らと協力して
上野、信濃の軍勢を集めて信長らが甲斐に侵攻してきたら後詰をして欲しい」と頼んだ

これに対し信豊は
 「信濃を譲られたことは誠に光栄であり、今生の思い出としたい。
だが譲られたとしても私に対し、上野、信濃の国衆が強力をしてくれなければ、
結局それは徒労に終わるほかない。ならば、どこまでも最後まで勝頼様と行動を共にしたい」
と勝頼が何度も頼んでもなかなか応じなかったが、勝頼もそれを承諾はしなかった。

勝頼は
「気持ちはありがたいが、一門が同じ場所に落ち行くならば、それは計略は無きに等しい。
枉げて勝頼の下知を了承し、後詰めの作戦を実行して欲しい」と頼んだ

ついには信豊が折れて佐久郡や上野衆をつけたうえで新府城を去り、勝頼と別れた
(甲乱記)

因みに勝沼で織田を防ぎ、信豊が織田軍を封鎖するというのは
天正壬午の時の北条に対して徳川がやったことと同じような作戦をやろうとしてたんではないかと

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:42:14.11 ID:ou08Zeez
あと書き忘れたけど
武田信豊は軍鑑では密室政治だと批判の対象の1人である
だから彼の最後は見限って本領(小諸)に帰ったとしている。(※小諸は信豊の本領ではない)

一方で甲乱記の信豊は
信豊と勝頼とは幼年期から仲が良く、勝頼が家督を相続してからは、特に信豊を重用していたので
信豊の意思は勝頼の意思であると武田領内の人々はそう認識していた

信豊も最後は小諸城主下曾根浄喜に裏切られ自害するわけだけど
少なくとも甲乱記の勝頼との最後は№2として悪い話じゃないと思って>>782書いた



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 00:08:54.64 ID:PU1Wd8To
No.2としては親父の足元にもおよばないのな、信豊

坊主、座頭とは付き合わないのが

2014年10月11日 19:02

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 22:27:03.93 ID:s7oJc1BH
ある時、武田信繁の嫡男・典厩信豊が内藤修理亮(昌豊)に尋ねた

「奉公人が大小、上下に限らず付き合って悪しき者はあるでしょうか?願わくば
修理亮の意見を聞いて、私が召し使う者達の後学としたいのです。」

これに対し内藤修理亮は
「先ず二人の者達があります。それはいさかい好きの坊主と、同じくいさかいの好きな座頭です。

どう言う意味かといえば、男子たるもの、寄り合ってその場のはずみで雑言などあれば、殴り、殴られ、
斬り合う。その時死んだほうを負けと申します。然らば、人の口論と殴り合いは、坊主も座頭も雑人も侍も、
力次第、口次第、あるいは贔屓次第で勝負があります。成敗は何れの形であっても甲乙の無いものであり、
最期にはぶった斬る以外の方法はありません。(後はぶつきるより外の儀はなし)
しかし坊主、座頭達はこれに負けたとしても恥になりません。

男子たるもの、雑言の上で少し義理が違っても恥でありますから、ここを以って斬るに極まるのは
武士の技と申し定まっています。
斬って理を得るのはその人の普段のたしなみ、又は冥加です。そうして、その時の有り様で勝負に勝って、
それによってその人が世間から褒められる事は武士の行儀というものです。
ですが、坊主、座頭を斬ってしまうのは恥だとされています。

でありますから、いたずら坊主、座頭に付き合わないのが秘訣なのです。」

そう言って、さらに修理亮

「それにしても典厩様は、さすが信玄公の甥子であり、しかも故典厩信繁様の書かれた法に嗜みがありますから
このようなご詮索までなされるのでしょう。」

と、信豊を大変に褒めたという。


(甲陽軍鑑)

坊主座頭とケンカして斬り合いしても、勝っても負けても恥なんだからそもそもそういうことが起こらないよう
付き合うな、という内藤修理の忠告である。
しかし口論が即斬り合い殺し合いになると断定しているのが、いかにもこの時代の武士ですね。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 22:35:59.66 ID:PzTpVacq
つまりスルースキルが大事と

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 22:50:33.96 ID:ajTUXYlz
木村重成殿が深く首肯しておられまする

519 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/11(土) 07:19:30.70 ID:Ie0URXO+
前田利家「ホントね~、某も主君の弟の茶坊主を主君の目の前で斬ったら追い出されちゃったからね~、坊主には関わらん方がええよ」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 20:01:48.98 ID:sFkWLxP1
道雪先生「根性を叩き直せばなんとかなろう・・・何回目かのう」

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 21:28:26.54 ID:0zPERdI5
>>519
そういやお前の弟は同僚を切ったっけな

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 22:52:49.04 ID:FR3FHb+t
>>519
坊主なんか押し切ってしまえばええんじゃって御主君がゆってた

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/12(日) 14:25:31.14 ID:qvvYM4+0
敵対関係でもない異母弟を斬ったら普通切腹モノなのにな

熊谷弁治、山伏を打殺

2011年09月20日 22:06

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/20(火) 00:37:15.72 ID:FOKRKaW/
あくまで伝承


天正10年(1582)2月の頃、一人の山伏が殿島(現長野県伊那市)で神坂峠への道を村人熊谷弁治に訪ねた
詳細は不明だが会話の流れで口論となり…

『たった一つの単純な答えだ。テメーは俺を怒らせた』

熊谷弁治、山伏を打殺
山伏の遺体は街道脇に打ち捨てられた

その後間もなく、近隣の村で疾患で苦しむ人が続出した
原因は不明、医者もお手上げ状態

ある晩、疾患に苦しむ一人の村人の枕元に霊が立ち
「我は武田信豊。キチンと供養してくれ。(超意訳)」
と言って消えた

弁治は思い出した
ぶっ殺した山伏は武田の落武者を名乗っていた事を
自分が熊谷直実の子孫であり、武田は源氏の直系である事を

住人達が山伏の遺骨を探し出し社を造って安置すると疾患は止んだ

現在、同地にある大平神社がその社であり、御神体は‘頭蓋骨’である
史実資料では信豊は小諸で自害しており、その首は勝頼や仁科盛信の首と共に京都で晒されたとある

伝承の真偽はともかく武田一族の肖像画の裏付けやDNA採取が可能な遺物の可能性があるのだが…
医学的な調査はされていない

同神社は‘参れば頭が良くなる’とされている





31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/20(火) 17:12:16.88 ID:/o4M+j+a

>>30
真偽はともかくとして、やたらと血の気が多いな、戦国時代の村人はw