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かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



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合戦を遂げることこそ尤もです

2020年07月02日 17:59

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 21:58:08.56 ID:spB6JqFb
長篠の合戦の時、武田勝頼は「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている」と語った。
これに対して武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は申し上げた

「敵軍は四万、我軍は一万です。この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず
放火し、その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、一両年中に存分と成るでしょう」

という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が「合戦を遂げることこそ尤もです。」と
言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。

この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、殊に弁舌明らかであった。
この時六十三歳であったという。

当代記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 22:03:21.53 ID:dkvDgPFT
当代記の時点で勝頼は老臣の話聞かない思慮の浅い武者、長閑斎は佞臣
みたいなテンプレが出来上がってるのね

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 02:51:07.33 ID:1ucQJuvg
>>159
甲陽軍鑑の影響でしょう
近年、再評価されているのは面白い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 10:32:46.38 ID:SJFjnxtY
大将が討ち死にすべしってだダメだろ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:26:32.35 ID:wNBo2v6N
>>161
信長だって「知恵の鏡が曇るとは」といわれたし
勝頼みたいに退路絶たれて突撃はしないと思うけど

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 02:42:17.31 ID:/iNLXb8k
父信玄に劣らない立派な2代目にするって事で臣下が犠牲を顧みず奮起して高天神を落としたのに
勝頼「コイツらやれば出来るのになんで何時も怠けてんだよ、何時も死ぬ気でやらんかい!」
だから設楽原で老臣たちの慎重論を怠けとして全軍突撃を命じたんだよなあ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 10:08:11.60 ID:yt6Qik+O
退路を断たれてしまった以上前方の敵をせめてある程度ひるませないと、退くにしても追撃でとんでもない被害出るし

そこまでおかしな行動とは思えないかなぁ、平山氏曰く織田勢は兵の数が過小に見えるように動いてたようだし

だからそもそもこの当代記の武田勢が織田勢の兵数を完璧に把握できてる状況ってのがすでにフィクションっぽい

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 15:12:49.38 ID:9dv9wt1q
>>164
「敵かたへ見えざる様に段々に御人数三万ばかり」ってやつね
しかし、仮に威嚇のためだったとして、何回も突撃して壊滅し、追撃戦を含めて錚々たる面子を失ってるからね

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 21:12:12.25 ID:yt6Qik+O
威嚇じゃなくある程度の撃滅が目的じゃね
そもそも目算が間違って死地に赴いてしまったのが問題であって、そのあとの収拾の方法は問題ないと思う
そもそもが大失敗しててそれを取り返しようがない状況だから

そのまま追撃受けたら壊滅して、錚々たるメンツが死んでたのには代わりないんで

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 13:20:01.29 ID:90/ImzUl
>>164

要するに一撃講話論ですね

四郎殿の御沙汰は何とも

2020年05月09日 18:47

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/09(土) 15:37:33.73 ID:pj8HJK61
(三増峠の戦いの時)

右の翌日に三増峠で馬場美濃殿(信春)は小勢故に敵と揉み合い勝負がつかなかったところを、勝頼公
武田勝頼)が自身で槍を取って横槍に入り崩しなさったのは、信玄公(武田信玄)の御眼前であった。

その翌日に反畑で馬場美濃と内藤(昌秀)はこの事を沙汰して信玄公の御前で四郎殿を誉め奉り、感涙
を流した。すると信玄公はとかくの御返事もなく仰せられ「“壮夫の涙”といって猛き武士はいずれも涙
もろい。大唐の韓信や樊カイは物を感じてすぐに涙を流した。また我が家でも昔、荻原常陸(昌勝)は
涙もろかったと聞く。方々も同様だ」と御意なされ、四郎殿の御沙汰は何とも仰せられなかった。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



千徳丸の供養墓石

2020年04月25日 15:07

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 20:03:13.81 ID:POivbMZQ
喧嘩ばかりしててもアレなんで地元の話を市のHPから一つ。

瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。
天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて
瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。
長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、
寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養墓石を造塔しました。これには、「御湯殿山千徳丸」と刻まれてます。
なお、瓦曽根村に潜居した信藤は、家康に仕え小金領(現在の松戸市)1,000石を知行した長男虎康の子昌秀のもとに
引き取られましたが、この昌秀の妹が家康の愛妾「おつまの方」です。おつまの方は家康の5男、
水戸15万石に封ぜられた武田信吉の生母でしたが、天正19年(1591)24歳の小金で病没しました。
また、武田信吉も慶長8年(1603)嗣子をなくして水戸で病没し、この家は断絶しました。
千徳丸の供養墓石は、これら戦国期のさまざまな由緒を秘めた史跡の一つともいえます。

出典:越谷市教育委員会「越谷市の文化財」

よくある落人伝説の類ではあろうが、照蓮院の敷地には幼稚園が建っていて今も子供たちを支えている。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 21:38:46.01 ID:FAijYLAj
勝頼の子に千徳丸なんて子いたのか

狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった

2020年04月15日 18:17

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/15(水) 12:08:07.67 ID:DKMCvcRx
天正三年夏、武田勝頼が三州長篠の城を囲んだ時、権現様(徳川家康)は出陣し、信長が御加勢なされた。
この時権現様と信長、御密談にて夜中、鳶巣山に御人数を廻し、城を攻め落とし勝頼の後ろを取り切って
御合戦なされるべきとの事で、酒井左衛門尉(忠次)、本多豊後守殿(広孝)、松平左近殿、並びに信長衆
相添え差し遣わされた。この時
「出来るだけ忍んで越え、鳶巣山へ登り着いたら狼煙を上げるように。その合図によって合戦を始める。」
と仰せ含まれた。

かの山において竹右衛門(この覚書の作者:岡田竹右衛門)が仰せ付けられ狼煙を上げ、直ぐに御一戦があった。
鳶巣の城は即座に乗取った、この時竹右衛門は高名を仕った。また妹婿の中根新八と申す者、若年にて初陣として
罷り在ったが、この新八にも竹右衛門が指導した。
この竹右衛門が走り廻ったことに対して、権現様より御感の旨を仰せに成られた。

岡田竹右衛門覺書

この覚書だと鳶巣砦攻撃に関して、酒井忠次が進言した話を信長が外に漏れないように激怒した云々、
という話は無いのですね。



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/15(水) 15:36:56.91 ID:jv7TOCdb
進言ありました、いつ誰が聞いてるのかもわからないから激怒してカムフラージュって
あまりにもお話として出来すぎ感がある

必ず天下の主となるでしょう

2020年02月22日 14:54

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/22(土) 03:07:15.27 ID:r7zQrgd2
(天正五年の事)
関東小田原の北条家家老衆は各々協議した
「越後の上杉謙信が来春上洛の為、武田勝頼を旗下とすると言います。両旗の人数おおよそ六万騎、勝頼は
三州濃州に働き、越後勢は越前より江州へ直に押し通り、都を志して上洛するという話が聞こえる事大です。

この話の通りであれば、信長家康に謙信勝頼の鑓を支えることは難しく、彼らは謙信の旗下と成るか
そうでなければ切腹すること疑い無い。近年、謙信公はいよいよ軍の鍛錬を重ね、軍を上手にされており、
その威勢強き事言葉にも及ばない。必ず天下の主となるでしょう。その果報でしょうか、去年より謙信の
敵と成るものは疫病を受けて死ぬと聞きます。

勝頼も信玄ほどの工夫が無いため、長篠にて不慮の遅れを取り、信玄取り立ての名人が悉く討ち死にしたため
威勢衰えると言いながらも、猶以て能き者数多残り、鑓向の強きことは前代に劣らず、それを謙信が指図して
備を出すのであれば、この両旗に対し敵する者は、首を切られないと言うことは無いでしょう。

氏政公は謙信に対しても勝頼に対しても、現在は御縁者であります。それに、信長が滅亡した後になって
祝儀を仰せに成っても宜しくないでしょう。来春、謙信と同様に、此の方からも御馬を出し、武田と牒を
合わせ、家康を追い立て尾州江州までも御発向無くては叶わぬ道理であります。

長きものには巻かれよと申す諺に相任せ、謙信に兎にも角にも異見を任せ給えば、行末目出度いでしょう。
武田も高坂弾正という家老が勝頼に能く異見をして、謙信幕下に属すると言います、油断すべきではありません。」

このように北条氏政へ異見した所、氏政は同意し、北条幻庵、多馬左近両人が先ず前橋へ行き、氏政は
三郎殿(上杉景虎)へ合力のため、来春三月十六日に三万五千にて遠三尾濃へ働き、謙信公御下知を
相待つという事を北條伊豆守を以てこれを申し、甲州にもまた使者を送った所、武田の諸勢は長篠の遺恨を
この時に至って一時に散らさんと、各々大変に勇み喜んだのである。

(松隣夜話)

上杉謙信の「上洛」についてのお話。この中に出てくる高坂弾正は、甲陽軍鑑の中では勝頼に、北条家の
旗下に成るよう諫言しているわけですが、ここでは謙信の旗下になるよう諫言しているのですね。



我が心を証人とする

2020年02月18日 18:44

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/18(火) 14:54:43.28 ID:tlsEyySc
甲州浪人の落合彦介上杉謙信公の御下へ参り、度々走り廻り心ばせある働きを仕ったとして賞禄を給わり、
御側二十八人の内に加えられた。

ある時、謙信公が槍間において彦介を御覧になり、このように言われた
武田勝頼の小姓である阿部加賀が、十余年以前に川中島にて汝を討ったとして、武田信玄はこれを悦び、
加賀に褒美を与えたという旨を、武笠という者が語ったのだが、これは阿部加賀守が見間違えたのか、
また余りにそう有ってほしいと、無い事を作って言ったのか、どちらにしても武田家中にてこれに過ぎる
大いなる弱みはない。

『三人行則有吾師其不善者而改之』という。我が配下の者達も、深くこれを思い相嗜むべきである。」
(論語・述而第七より「三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之」(三人で同行すれば、
必ず自分にとっての師となる人がいる。善き人を選んでこれに従い、不善である人については、これを
反面教師として自身を改めよう。))

そのように若き者達に、彦介、武笠を例として御異見を加えられ、またこのようにも仰せになった

「一切のこと、その中でも武辺については、有体にして我が心を証人とするより外は無い。
心を証とせずして取り囃し、言い成したる事は、必ず弱き事である。
結構なる働きをしたにもかかわらず其の名隠れ埋もれたとしても、心を証としていれば恨は無い。
君子は独りを慎むものだと聞いている。」

松隣夜話



『高遠の屋根ふき衆』

2020年01月30日 16:17

森長可   
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/30(木) 01:28:48.66 ID:Ii3m2zTb
天正五年五月、森蘭丸、坊丸、力丸の三人共、織田信長卿が召し出され、御近習に召し使われると
仰せ付けになられた。中でも蘭丸は、器量人に勝れ発明であったので、御寵愛限りなく思し召された
故に、御側を離される事がなかった。

信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
武蔵守(森長可)も手勢を率いてお供し、信州伊奈郡、小笠原掃部の城に武蔵守は取り掛かり、攻めた所、
早速に城を明け渡して降参し、城内の者達は旗下に加わった。次に飯田城へ押し寄せ散々に戦い勝利を得られ、
城を乗っ取り、首三百余を信忠公へ進上した。
そして高遠城へ取り掛かり、息も継がせず、各務兵庫、渡辺越中、豊前縫九郎、同市之丞、細野左近、林新右衛門、
同長兵衛、井戸宇右衛門、その他家中一命を軽んじて攻め戦い、この城も長くかからず落とした。

信忠公は御感限りなく、「今に始まらぬ武蔵守が働きよ」と御喜悦斜めならず、御感状を下され、信州四郡、
更科、高井、水内、埴科を下され、海津城を拵え住居すべしと仰せ付けられた。そして海津城の普請のための
軍営が成就した所で、近辺の野伏一万が海津城へと押し寄せ、鬨の声を上げた。この時海津城は未だ堀も
出来ておらず逆茂木すら無かったため、森勢は各々外へ打ち出て追い捲いて、火の出るほど戦った。
野伏たちは堪らず散々に打ち負け引き退いたが、森勢はそれを追い詰め追い討ちをかけて、首三千余を討ち取り、
信忠公へ実検に入れ奉った。信忠公は再び御喜悦斜めならぬ様子であった。そして降伏した小幡備中、春日周防
からの人質を預けられた。

舎弟蘭丸は京都に在ったので、海津城は各務兵庫を城代と為し暫く居住した。そして信忠公は関東平均を
打ち納め、京都へ上洛された。これらの事は悉く信長記に書かれている。

(枠外註:高遠の城攻めで、織田の兵は武田の鋭武に当たること能わず、森の兵は城の屋根に上り、
屋根の上より鉄砲を撃ち入れたとか。『高遠の屋根ふき衆』と言って、その頃物笑いにしたという。)

(兼山記)



皆もこのざまを見ろ

2019年10月18日 17:06

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/18(金) 13:57:46.00 ID:mXMwVoJ5
信濃国安曇郡吉田の城主である木曽左馬頭義昌は、武田信玄の妹婿であり(実際には娘婿)、
信玄の無二の幕下であった。しかし信玄亡きあと、その後を継いだ勝頼と不和に成った。
そこで勝頼はこれを攻め滅ぼさんと、武田逍遥軒(信廉)に小山田備中守昌行、横田十郎兵衛守昌などの
部将を付けて出陣させた。もちろん木曽義昌にも油断はなかった。

天正十年正月二十八日、敵味方の激しい戦いが始まった。木曽方で奈川の城主・木曽兵部丞仲親、および
今井丹波守などの働きで、武田方は一旦退かざるを得なかった。

この間に木曽義昌は岐阜の織田信長に助勢を請うた。それについて、甲州乱入のための手引をしても良いと
伝えた。信長は大いに喜び、嫡子秋田城介信忠に先陣を命じた。
信忠は五万余騎を率いて二月十二日に岐阜を出発し、信州伊那郡高遠へ押し出した。
加勢の徳川家康も、三万騎を率いて二月十八日に遠州浜松を出た。案内役は穴山陸奥守入道梅雪庵で、
富士の麓の川内通りから市川口へと押し出した。
これらに続き信長も、三月五日に七万余騎を率いて安土を出た。

武田家は新羅三郎義光以来の甲斐源氏の頭領として、現在数ヵ国を領している名高き大名である。
それをただ退治するという事では名目が立たぬと思ったのか、信長は前関白である近衛前久公を
担ぎ出した。一見朝敵征伐に見えるからである。人の口を塞ぐ信長の策であった。

三月十三日、信長の軍は信州根羽駅に着陣、翌十四日波合へ軍を進めた。十日には既に、城介信忠の名で
関喜平治、桑原助六郎の二人を降伏を促す使いとして出していた。
織田方の先陣は滝川左近将監一益、川尻肥後守秀隆であった。

そして甲州田野郷天目山に頼る所もなく彷徨っていた武田大膳大夫勝頼とその子太郎信勝は、
織田方に捕えられる前に自害した。

彼等の首実検の時、信長はこのように言った。
「そなたの父信玄は、平生言葉に表裏があり、無礼無道であったため、その天罰が子孫に当たったのであろう。
こうして数代の領民を失い、かような仕儀となった。お主も思い知ったであろう。
皆もこのざまを見ろ。快いことではないか。」

(関八州古戦録)

関八州古戦録における、武田家滅亡についての記事。



521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:06:09.16 ID:A+Lsgv+W
>>520
このあとすぐに本能寺の変が起きるんだから皮肉というか面白いというか

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 09:29:00.86 ID:YAAZcgX4
文章から信長の絶頂点を感じる
強すぎて誰もかなわない感覚

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 11:23:30.95 ID:meTP904Y
5万3万7万で15万か
絶望しか無いな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:26:36.49 ID:gY8uFqPv
「お前の父親は京入りが念願だったそうだから、お前に父親の願いを叶えてやろう」
と言った話も。なんて優しい信長

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 12:39:26.70 ID:Dc3TRckH
>>520
これだけで得々と先導する穴山梅雪って印象が出るのは何なんだろ
ああゆう末路になるわなあって感じの

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 14:11:28.28 ID:rHW680I5
そういえば、平清盛の絶頂期だった安徳天皇の即位から平氏滅亡も早かったよなぁ。
都落ちまでは3年、壇ノ浦まででもたったの5年。
執権北条氏も元弘の乱までは絶頂期で、それから2年で滅亡。

それを考えれば豊臣家は長生きしたほうなのかもしれない。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 09:16:13.25 ID:OKDUeII+
江戸幕府に比べるとスカスカの体制でよくあれだけ保ったなと
石田とか増田やらの奉行衆がよっぽど有能だったんかね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 19:17:00.09 ID:CFGmSaJm
秀吉存命中に力を見せつけたおかげで、豊臣による秩序が生まれたから。

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:14:52.67 ID:nRo1POF0
石田三成に人望さえあれば…

膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである

2019年07月31日 18:54

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 18:17:56.42 ID:Yj3Qypa8
永禄8年乙丑(1565)9月9日に、尾州織田信長公より織田掃部(忠寛)という侍を甲府へ御使に
遣しなさり、信玄公へ仰せられるには、

「恐れ多い申し事ですが、去る申の年に駿河義元公が信長を踏み潰しなさろうとして尾州へ発向なされ、
勝利を失って殊に討死なさり、その勢いをもって我が本国は夏秋中に信長に従い、その暮れより美濃国
へ取り掛かって今年まで6年ですから、大方今年か来年の間には、美濃国も信長が支配仕るでしょう。

そこで信玄公が御持ちの木曽郡と隣続きになりますので、所々の往来も互いに申す事がないように伊那
の四郎勝頼公へ信長の養子の娘(龍勝院)を進上したいのです。

この女子については、信長の父・弾正忠(織田信秀)存生の時に、美濃国の苗木勘太郎(遠山直廉)と
いう侍を婿に仕り、すなわち信長にとっては妹婿でして、昔より美濃国苗木の城に居住しております。

かの者(直廉)の娘を幼少から信長は養い置き、姪女と申せども実子よりは労わっています。信長には
息女もおりますが、私めは今年32歳なので惣領の男子でさえ10歳程で、20歳になられる四郎殿の
内方になるべき息女を持ち申しておりません」

と諸々の信長の申されようあって、乙丑霜月13日、苗木殿の娘で姪女と信長は養親になって伊那の高
遠へ御輿入れし、四郎勝頼公は尾州織田信長の婿になられたのである。

また御使を仕る織田掃部は信玄公に11年召し使われ、5年前の辛酉11月に信長が呼び返しなさった
尾州侍で、しかも信長譜代の侍であるが、信長18歳の時に気に違えて11年甲府に罷りおり、信長2
8歳の時に召し返された。

信長公より信玄公へ御使の人は織田掃部・赤沢七郎左衛門・佐々権左衛門(長穐)。この3人は正月・
3月・5月・7月・8月・9月・極月の7ヶ月に樽肴・巻物・袷帷子を贈り、殊に信玄公の御召し料に
と御小袖1重ずつを格別に武田菱を大きく蒔絵した。この紅で緒をしめたものに、御頭巾1つ・御綿帽
子2つの合い3色を、これも小さい蒔絵をした箱に入れて、甲府へ信長は御音信申されたのである。

信玄公より信長公への御使は秋山十郎兵衛であるが、1年に1度でも御使を遣しなさるのは希であった。

――『甲陽軍鑑』



125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 20:31:38.19 ID:zlGD2hC1
さすが信長

太郎信勝の良き生まれ付きも

2019年07月05日 18:26

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 01:56:33.78 ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 18:08:57.65 ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。

伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで

「信玄公は御在世なり」

2019年06月05日 18:05

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:57:10.59 ID:cSFIfsi/
小田原の北条氏政より、信玄公御他界かとのことをよく見届け申すべく、いたひえ岡江雪を差し遣しな
された。武田の家老各々は謀をもって江雪をしばらく留め申す様を仕り、その後の夜に入り逍遙軒(武
田信廉)を信玄公と申して御対面なされ、八百枚に据え置き給う。

御判の中でいかにも御判の不出来なものを選び、御返事を書いて江雪に渡すと、流石に賢き江雪も真と
仕って小田原へ帰り「信玄公は御在世なり」と氏政へ申し上げた故、御他界の取り沙汰しは無かったの
である。以上。

――『甲陽軍鑑』


信玄ついに逝去の時、遺言あってかの死去を隠し、ただ御病気とばかりの風説であった。これは四方皆
が敵であり、御逝去と聞けば小田原との御無事も破れることを迷惑して、このように計らったのである。

されども、その事は大方風聞したので、その実否を知るために小田原から板部岡江雪が御使者に参った。
これは信玄の病気について御心許なしとのことである。

甲州侍は殊の外迷惑し、色々の計りをなす。信玄の舎弟・逍遙軒はよく兄に似ておられたので、夜に入
ると逍遙軒を屏風の中に寝かせた。さて江雪を近い所に召し寄せ、逍遙軒は寝ながら返事をなされた。

流石の江雪も夜のことではあり、そのうえ逍遙軒はほうほうとしておられたので見違え、信玄と思って
帰り、「正しく信玄は御存生にて候。ただ御病気でいらっしゃいます。私は対面仕りました」とのこと
であった。

これにより小田原では「信玄が死に給うというのは誤りなり。存生である」とばかり存じたのである。

――『北条記』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 19:05:59.16 ID:7kLGMBrD
>>113
写真もない時代だし、数年前に一度あったきりだろうしそりゃここまでされたらわからんな。

信虎公はこの刀で50人余りを

2019年05月17日 17:38

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 04:23:46.41 ID:w2OiBgOR
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 07:41:32.52 ID:EMUiFFNb
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:29:42.79 ID:tI1C2xsG
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:54:21.30 ID:vPXWVMD0
てか信虎長生きだな

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:18.75 ID:nH85bSJc
(だからやばいって言ったやん・・・)

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:53.50 ID:3JPX1a4D
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ~」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 13:58:13.33 ID:viLJ6jis
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 23:29:12.88 ID:LonsrQcf
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 05:45:56.56 ID:GNN10F73
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 07:56:39.50 ID:4ffkuKZb
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 15:03:48.62 ID:kgdWSgPA
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:14:54.39 ID:hDnie7Gp
>>34
珍しく長閑を褒めてるね

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



又ものの分として何とて能せん

2019年05月01日 16:18

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 13:19:53.30 ID:8nKSRDUM
信長が甲斐の四郎(武田勝頼)と対陣の時(長篠の戦い)、鳶の巣の城を乗っ取ることを酒井左衛門尉
(忠次)が信長に乞うた。信長は叱って曰く、「陪臣の分際でどうして良い働きができるか!(又もの
の分として何とて能せん)」と。

左衛門尉は重ねて乞わず、即時に赴いて城を乗っ取ったという。左衛門尉は東照宮(徳川家康)の家臣
なり。東照宮が甲斐・信濃・上野を所領し給う時、威勢は一人盛んであった。今の宮内(原注:四郎)
の父なり。

――『老人雑話』



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 14:45:50.07 ID:zLaAnMy+
信長の功績を過少にしてる話多いよね

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 15:29:18.99 ID:2GWH/FK7
後であの場ではああ言ったが良い案だ、やれって言われたってバージョンもあったな。

小笠原与八郎の事

2019年04月30日 16:06

946 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/30(火) 02:50:22.89 ID:7AS7T0U+
1574年5月、武田勝頼は軍勢を率い、高天神城を攻撃した。

城主・小笠原与八郎(小笠原氏助)以下籠城衆はひと月以上粘り援軍を待ったが、徳川家康は単独で武田に相対する力がなく、織田信長の援軍がやっと吉田城についた辺りで開城してしまった。 

落城後、城主の小笠原与八郎が武田氏に一味し、家老衆らもこれに従っているとの噂が立っていた。

しかし彼らは家康に人質を出していることもあり、粗略にするような意図は全くありません、と浜松まで参上して申しあげた。しかし数日が経ち陰謀(与八郎たちの寝返りか)の内容が伝わると成敗されてしまった。 


月日は流れ1582年3月、武田氏が滅亡すると小笠原与八郎は北条氏を頼って小田原に逃れ、隠居の身となっていた。しかしこれは家康の知るところとなり、家康より信長へ与八郎を引き渡すように要請してほしいとの要望があった。

早速信長より北条氏へ命令が下り、与八郎は処刑された。その首は小田原より浜松へと直接届けられたという。 

『当代記』



甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?

武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』