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長篠の戦いをなされたために

2023年06月21日 21:02

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/21(水) 20:19:14.13 ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

甲陽軍鑑
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かくの如くなってしまったのは物怪なり

2023年06月18日 18:31

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/18(日) 15:29:30.47 ID:IHoJZb3O
天正三年四月十二日、武田勝頼は武田信玄の薨去を公表し、葬儀を行った。

その後、勝頼公は御馬を出され、諏訪明神へ御社参されたのだが、この時亀の甲の御鑓が折れた。
さらに高遠へ御着されたが、この時堅固であったはずの橋が折れて、御小人衆のうち、一両名が死去した。
勝頼公もこの橋を渡っていたが、公は御馬上手であられたので、蹴り立ててこれを渡られた。
御馬の後ろの左の足が、橋の崩れに近々とかかっており、危険に見えたが御堅固であった。

この事について、めでたしと申す者もあり、堅固なる橋がかくの如くなってしまったのは物怪なりと
つぶやく者もあった。以上。

甲陽軍鑑



武田信玄公は御他界したのか

2023年06月14日 20:30

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/14(水) 19:54:47.90 ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公は御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

甲陽軍鑑



これをよくよく分別なさるべく候

2023年06月13日 19:57

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/12(月) 20:35:54.19 ID:rldIlKfX
武田信玄公の御他界後、万事勝頼公へ諫言を申し上げるため、長坂長閑斎(光堅)、跡部大炊助(勝資)殿に
申し上げた。
大身小身共に、常々思し召される事について、五ヶ条を深いもの、浅いものの合計十ヶ条である

一、慈悲を深く、欲を浅く。ただし大身の乱国を取られる事、小身の人が忠節忠功の奉公にて、所領を
  取ることは欲深い行為ではない。ここでいうのは邪欲の事である。慈悲も、それは決して罪過の者を
  憐れむことではない。

一、人を深く、我が身を浅く

一、忠節忠功の心がけを深く、所望を浅く

一、遠慮して慇懃を深く、遊山或いは楽事を浅く

一、人を使うに、穿鑿を深く、折檻を浅く

一、第一に国持大名が慈悲を知らないのは、非常に欲深い。理非無く欲深ければ、その下の出頭衆、邪欲をかまえ、
  欲得にふけり、己に音信仕る者を穿鑿も無しに取り立て、諸奉行或いは諸役者に定めてしまい、さらにその
  者共は上に学び、国法軍法に背いたものであっても、自分の気に入った者については、悪事をも押し隠し、
  法外にわたくしをさばき、科なき者であっても押し倒し、慈悲少なく、その大将の危うきも知らず、
  上杉憲政の家中のごとくになって、尽く意地汚い人が多くなるだろう。

一、第二に、国持大名が他の人をあさく、我が身を深く考えれば、出頭衆を始め尽く走り廻るほどの衆は、
  身に高慢して、しっかりとした証拠もない事を互いに褒め合い、誉れとし、そうなれば国を誤るものである。
  そのうえ民の困窮も知らず、下々の迷惑も知らず、殊に凄まじい戦などが有れば、ついにその滅却が
  あるだろう。

一、第三に、国持ち給う大将の、崇敬ある侍衆が、忠節忠功の心懸けが浅ければ、その家の下々まで
  主君の御為を思わず、手柄も無いのに所領を欲しがり、大剛の武士であっても小身であれば証拠もなく誹り、
  たとえ臆病であっても、親から譲られた所領を沢山に持ち、金銀米銭を持つ分限物を、侍については
  言うに及ばず、町人地下人までをも褒めて、しっかりとした証拠もないのに、「手柄の人かな」と
  申し習わす。故に、分限さえあれば町人などまで増長し、剛の武士の居る所にても、武辺雑談を仕り、
  皆尽く慮外がはやり、大平者が繁盛し、能き武士は次第に沙汰が無くなって、その家その国の弓矢は
  弱くなるものである。

一、第四に、出頭衆の遠慮が浅くて慇懃が無ければ、その家の諸人は先の考えもなく遊山にふけり身を飾り、
  恥も知らず、朝暮不足を欠いても恥と思わず、国法に背くもの多く、言い合いがあって過ちを仕り、
  或いは死ぬまじき所にて無駄に命を捨てることもあり、又は昼強盗などを仕り、政道が機能しないのは、
  測ることも出来ないような仕置故である。そのようになるのは、走り廻る衆の遠慮浅きより起こる
  のである。

一、第五に、国持大名が人を使うに穿鑿が浅ければ、取るべきではない人が知行を取り、崇敬ある衆の
  親類の者、大身の親類、分限者の身寄りの者ばかりが幅を利かせて、彼らにしそこないがあっても、
  能き縁者の影に寄って、自分の身には何事も有るまじきと思い、その上、たとえどんな悪事を仕り、
  千に一つ、身体が破れたとしても、主君の命令にも畏怖有るまじきと思っているので、国法を背いても
  苦しからざるを、能き親類を持たない者の、しかも分別のない人々がこれを見て、「能き者の
  よしみさえ背くのに、我らごときは猶以て、大将の御為など、さほど必要ない」と心得、背くこと
  多くして、法度があっても種々の悪事が横行し、訴訟が絶えなくなるだろう。

  これら、上記五ヶ条、裏表十ヶ条なり。これをよくよく分別なさるべく候。

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑に見える、武田勝頼への諫言十ヶ条



そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され

2023年06月07日 19:25

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/06(火) 21:28:53.52 ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

甲陽軍鑑

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。



面倒だから黒川を攻め破れ

2022年12月24日 19:43

667 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/23(金) 22:42:57.48 ID:CLLYe5AS
上州は由良国繁の領地での話。
黒川谷と言う地を治めていた松島式部少輔阿久沢能登守武田勝頼に裏切ろうとしているという噂を聞きつけた国繁は、老臣との評定の結果、松島淡路守を使者として彼らの真意を聞こうとした。
松島は黒川谷へ向かおうとしたが、前夜の大雨によって渡良瀬川が大増水していた。急いでいた松島は無理やり渡ろうとした。
「大事の使者であるから、時刻をおくらせてはならぬ。つづけ」と共の者に下知し、川に乗り入れた。
松島自身は水練の達人ではあったが、供の者たちにすがられて自由を失い、松島を含めた使者16名全員溺死してしまった。

松島の水死を聞いた国繁は「この上は面倒だから黒川を攻め破れ」と藤生紀伊守と谷右京、金谷因幡守に銘じて千五百人ほどで攻めさせた。
金谷勢は藤生と谷と連絡を取ろうと石原与市右衛門たちを派遣した。
しかし黒川谷側へはせ参じようとした軍勢に見つかってしまい、突破しようとしたが不案内山中で道に迷ってしまい、全員うちとられてしまった。
それを知った金谷は驚き、慎重に連絡を取ろうとした結果、丸一日を費やした。

一方黒川谷側では、和を請おうと松島弥太郎を使者として、藤生の元へ派遣した。
結果的に和議はなったが、そこまでに手間取ってしまったため、不安になった黒川谷勢が金谷の陣まで押し寄せてしまった。
金谷側も「攻め手が敵に寄せられるとは恥辱である」と攻撃をしかけたため、激戦になってしまった。
その最中に和議を成立した知らせが届いたが、それを聞いて自陣まで戻った者や、それを追ってさらに攻めかかる者、逃げ散る者もあり、大混乱となった。
金谷が鐘をうたせてようやく戦が止まったが、結局使者の松島弥太郎を含め二百人ほどが討ち死にした。
最終的に松島、阿久沢の両名が陳謝し、由良の幕下に入った。

ぐだぐだな展開で無駄に死者が増えてしまったお話。新田伝記より



佐橋甚五郎の事

2022年12月11日 14:09

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 00:15:06.60 ID:KFaUSJuD
改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。

なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)



この二ヶ条を以て、信玄公と義信御父子の仲は

2022年11月01日 17:56

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/01(火) 11:20:20.48 ID:wB7vPYTo
永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。

この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。

しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。

甲陽軍鑑

武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。



諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事

2022年10月20日 18:12

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/19(水) 22:48:37.75 ID:O1hpUpuD
甲府に幽閉された諏訪頼重の自刃により、諏訪の家は断絶した。ただし頼重の息女が、その年十四歳に
なられたが、尋常隠れなき美人であった。これを、武田晴信公は妾にしたいと考えられていた。
しかしこれに対し、板垣信方、飯富兵部、甘利備前の三人を始めとした各家老衆はこれを諌め申し上げた

「退治なされた頼重の息女を召し置かれるという事、彼女は女人といっても敵であるのですから如何かと
考えます。」

しかしながら、三年前に駿河より召し寄せられた、生国は三河牛久保の侍、山本勘助が進み出て、
板垣殿、飯富殿、甘利殿三人の侍大将に申し上げた

「晴信公の御威光が弱いものであれば、内縁者が伝を得たことを幸いと悦び、あらぬ企みを仕掛けることも
あるでしょう。しかし、晴信公の御威光は浅いものではありません。

その理由は、私は日本国中を大方見聞きしてきました。中国では安芸の毛利元就が、本知七百貫より弓矢を
取りすぐり、今や中国の大方を取り従え、四国九州までも御威光強くして、既に以て天下の異見を仕っています。
畿内の三好方も、元就の機嫌を取っているのは隠れなき事であります。

この毛利元就に対しても、晴信公二十五歳の内においてすら、さほど劣っていないその御威光を、私は
駿河において承っていました。
恐れながら私の考えでは、晴信公について日本国中が、若手の弓矢取りの代表と存じ奉る如くです。

甲府へ私が参って二年余たちました。その間、晴信公の発言を承り、また敵への対応の様子を見奉れば、
この屋形様が長命にさえあれば、必ず日本無双・文武二道の名大将と人々から唱えられるでしょう。
ですので、諏訪家の親類や被官たちも、何の企みも存じよる事はありません。
である以上、頼重の息女を召し置かれれば、諏訪衆は悦び、この御腹に御曹司た誕生し給えば、諏訪の家も
立ち申すべきと、出仕を望み、武田の譜代衆に劣り申しまじと、奉公申すでしょう。

このように、頼重の息女を晴信公が召し置かれる事は然るべきです。」

山本勘助がそのように工夫して申した故に、頼重の息女を晴信公は召し置かれた。そして勘介の分別の如く
諏訪衆はこれを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年に四郎殿(勝頼)が誕生された。これによって諏訪衆が屋形様を大切に存じ奉る事、
譜代衆同前となった。

甲陽軍鑑

武田晴信が諏訪頼重の娘を側室として迎える折のお話



456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/20(木) 00:20:51.49 ID:HQmP2XuJ
いい話か…?

八重垣姫の像・碑文

2022年09月30日 19:08

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/29(木) 16:32:47.56 ID:iX+uE6Pw
この前諏訪湖にいったら「八重垣姫の像」というのが建っていて、碑文の説明によれば

これは歌舞伎の「本朝廿四孝 狐火の段」の主人公・八重垣姫の像です。
上杉謙信の娘である八重垣姫武田勝頼と政略結婚の許嫁でしたが、勝頼が死んでしまったため毎日勝頼の絵図に手を合わせていました。
しかし謙信に新しく仕えた蓑作という下男が勝頼の絵図に瓜二つであったため問いただしたところ、実は勝頼本人であり、謙信に奪われた諏訪法性の兜を奪い返すために変名で仕えたということでした。
それを物陰から聞いていた謙信はわざと塩尻に勝頼を使いに出し、八重垣姫の勝頼助命嘆願も聞かず、討ち手を差し向けました。
八重垣姫は諏訪法性の兜を盗み出し、諏訪明神のお使い狐の狐火に導かれ、諏訪明神の霊力により氷の張られた諏訪湖を渡り、勝頼の元へとむかったのです。

歌舞伎だからいろいろ突っ込みどころはあるけど、この八重垣姫は一説には北条夫人をモデルにしたという話だとか。
ついでに長野県の塩尻には玄蕃之丞狐(玄蕃寮だから玄蕃允では?)という狐の伝承があるそうだけど、それも諏訪明神のお使いだろうか。



主人の勝頼は図らずも信長のために自害して

2022年01月04日 16:13

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/04(火) 03:12:50.87 ID:AEphEda+
(天正9年、笠原政晴の謀反の時)

小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。

その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。

この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。

そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。

(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)

同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、

「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」

これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。

左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」

すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。

しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。

――『異本小田原記』

笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな




烈士秋山六郎碑

2021年11月21日 16:00

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/20(土) 20:27:17.21 ID:b2yFIyIC
烈士秋山六郎碑

足山田城(現在の城山)は、武田方の秋山新九郎の守る城であったが、信玄没後、徳川家康に攻められ落城した。
その時、新九郎の家臣秋山六郎はのがれて長山村にかくれ住んでいたが(城山くずれと呼ばれていた)
天正三年(一五七五)五月、長篠合戦にむかう徳川、織田軍と宝川で戦い、壮烈な死を遂げた。
この事は伝えられ、同情をよせた村人は、正徳三年(一七一三)になって、彼が住んでいたあたりに菩提供養の墓を建てた。
さらに後になって彼の生きがいをあらわした「一屋銕心」の戎名が追贈された。
このあたりの地名を「六郎辻」という。

平成八年五月 豊川市教育委員会



小田原で与八郎に切腹させ

2021年08月01日 17:16

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 16:30:00.46 ID:LhTTMgH8
天正2年、勝頼(武田勝頼)は高天神の城へ取り掛け攻める。

家康公へ御加勢のために、信長公も遠州塩見坂まで5千余騎で出馬されたところ、
城代の小笠原与八郎(信興)が降参して城を渡し、勝頼に従う。それ故、信長公
はそれより引き返しなさった。

信長公のこの時の御憤りは浅からずして、甲州没落の後に小笠原与八郎が小田原
へ退くと信長公は氏直(北条氏直)へ再三御所望なさったので、小田原で与八郎
に切腹させ、首にて送らせなさったという。

――『岡崎記



人口の妨げによって不慮の生害

2021年07月26日 17:39

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/25(日) 18:15:49.22 ID:KBEvxZkh
天正7年己卯、家康公38の御歳、また山西へ麦苅り捨ての御働きをなさる。

その年、信康(松平信康)は家康公の御気に背きなさった。その子細は万事(信康の)
御心のままにして御行跡は法に過ぎたものであった。家康公の御意見をも御用いなく
御気随に行わせ給い、家老衆の諫言をなおもって御取り上げなさらなかった。

このため衆の讒言あって、勝頼(武田勝頼)と御内通あって逆心の由を申し上げられ
たことにより、家康公の御立腹は世の常ならず。

「子の身でありながら父に弓を扱う事、前代未聞の次第なり!」と岡崎の城を出し給
い、大浜へ移して堀江の城へ御越しになる。それより二股の城へ移らせ給い服部半蔵、
天方山城の両人に仰せ付けられて御生害となった。

信康が宣うには「父に弓を扱うというのは全くの偽りである。年寄どもの讒言なれば、
この上はとかく申し分には及ばず」と、2人の御女子の御事と御菩提は大樹寺を頼む
と仰せ置かれ、大久保一類とその他に御親身申す者どもの方へ御形見を送らせ給う。

念仏を御唱えになって腹を十文字に掻き切り「服部介錯申せ」と宣えば、三代相恩の
御事なれば半蔵も刀を捨て落涙する。「早く早く!」と宣うも力及ばず、遠州の住人
の天方山城が泣く泣く御介錯し奉る。惜しむべし、惜しかるべし。その年8月15日、
行年21にて生害し給うなり。

家康公も「人口の妨げによって不慮の生害」と御後悔の御言葉がたびたびあったとか。

――『岡崎記



大殿は三方ヶ原の御合戦から、

2021年07月23日 18:46

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/23(金) 18:06:47.41 ID:m6Tr4+SX
天正5年丁丑、家康公36の御歳8月、勝頼(武田勝頼)は2万ばかりの人数で
横須賀南とかりの尾さきまで働き、浜辺に陣取った。家康公御父子ともに横須賀
の城より4町ばかり北の丸山に御旗を立て、諸勢は浜辺へ押し出して備えた。

敵との間は3町ばかり隔てて、その中には入り江があったので互いに鉄砲を撃ち
合うばかりであった。信康は鈴木長兵衛という者1人を召し連れ給いて、勝頼の
旗の立つ所から2町ばかり近くに乗りよせ物見をなさり、家康公へ御合戦あって
御もっともと仰せ上げられた。

家康公宣うには、「敵は大軍で味方は小勢であるのに、切所をも構えず変わる
手段もなくして大敵と掛け合いの戦をしても勝利はない」として、御合戦無し。

各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」と感じ申したのであった。

――『岡崎記



340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 18:27:47.03 ID:jrtBMp+W
各々切れ者の衆が申されるには「大殿は三方ヶ原の御合戦から、良く御切れ者に
成らせ給う」

家康「そ、その前は…」

341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 18:39:20.52 ID:b6PXRtd+
>>340
大久某さん「キレが悪かったですよね。何がとは言いませぬが。」

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/23(金) 20:34:05.81 ID:vEtcmxrj
三方ヶ原で出したモノがデカすぎてガバガバになっちゃったのかな
戻らないっていうしねアレ

逆心の企みは

2021年06月19日 18:06

築山殿   
815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 17:30:35.32 ID:J7jDc0MV
この節、家康公は浜松におられ、天正3年には岡崎は三郎信康公、御守は小河の城主・石川備前守(数正)、
平岩七之助(親吉)などなり。家康様の御前・築山様は菅生の築山に御屋敷あり。信康公の御屋敷は城外の
北東に当たってあり、今の久右衛門町である。この節、御前築山様が御留主にて、殊に御仲も不和なりし。

その頃、甲州より口寄せ巫女数多来たりて、家中町村を廻って口寄せした。この時、勝頼(武田勝頼)より
巫女を騙して築山殿の御内にて下女に色々取らせて取り入り、下女より中間に取り入り、後には奥上﨟たち
までにいろいろの進物を致して取り入り、ついには御前様に御目見え申し上げてよく取り入り、折を見合わ
せて申し上げるには、

「もし御前様が今度勝頼と御一味なされば、(欠字)御前は天下の御台と備え天下無双に仰せられ、若殿は
若君と天下を仕り相譲るべし」と申し上げた。

その頃、西慶と申す唐人医がいて御屋敷へ節々出入りし御前様の御意に入った。これを談合して巻き込み、
大将分は大岡弥四郎(大賀弥四郎)が欠村に居り申し、松平新右衛門、江戸右衛門八、渡利村の小谷九郎左
衛門が大将にて申し合わせ、勝頼から知行の御判を取りかため申したのである。

時にその頃、(此処三字不知)城主は鳥井久兵衛で小谷もこの家来だった。朋輩に山田八蔵という者がいて、
ある時にこの者と九郎左衛門が取り分け入魂なれば「その方なども某どもと万事一味すれば、終いには欠綏
もせ申すべし」と申した。この時、山田八蔵は喜び「左様のことならば、何様にも一味仕り申すべし。ぜひ
ぜひ頼み入る」との由を誓言して申した。この時に九郎左衛門は山田八蔵を一味した。

逆心の企みは岡崎の城より南の方の吉良庄に旗百本ほどを並べて人数を見せかけて、甲州勢を城より北の足
助大樹寺口より引き入れ、城中では南表へさばき出る所を見て、北口より押し入り、城を固めて城外を放火
し、いよいよ甲州勢を入れ、三河を甲州へ取る企みであった。

この事を九郎左衛門が山田に話して同心となり、勝頼より2万石の御判を取り申したのである。

――『三河東泉記』

続き
捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず


『是非死に候へ』と思し召されているのに

2020年12月01日 16:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/01(火) 12:01:01.12 ID:YV3sJxZy
武田方に於いては、信長・家康が両旗にて長篠に後詰することを勝頼が聞き家老中を呼び、明日の軍評議が
あった。勝頼はここで、このように仰せになった
「明日は我々より押し懸けて、一戦を仕るべし。」
これに馬場美濃、内藤、山縣らは目を見合わせ、申し上げた。

「明日の御合戦については、御尤とは申し上げられません。何故ならば、敵は両旗にて殊に大軍です。
その上、我々は他国に踏み越えており、一つとして味方勝利を見つけられません。
今度、ここでおくれを取れば、弓矢の御損多く有るでしょう。ですので今回は馬を返されるべきです。
そうすれば、信長・家康の両人も馬を返すでしょうし、その上で又少しの間を置いて勢を出されれば、
信長も手前の上方の用などが有るので、度々はこちらに出陣することは出来ないでしょう。
その時は、長篠は思し召しのままに御手に入ります。」

勝頼はこれに「武田の家に、合戦を回避して、敵に後ろを見せたことはない。その上信長・家康が
大軍で我らを追撃してくれば、家の疵でも有り、また敵に勢いを付けることにも成る。」と仰せになった。
これに対して馬場は申し上げた
「我らを追撃して押し入るのならば、猶以て願うところです。彼等を信州伊那に引き入れて防戦をすれば、
地元での戦いでも有り、勝利疑い有りません。」

しかし勝頼は、全くお聞き入れにならなかった。そこで馬場、山縣、内藤が申し上げた
「そういう事でしたら、明日、長篠城を力攻めにすれば、人数千ばかりは損ずるでしょうが、即時に攻め落とす
事ができるでしょう。そして門城の掃除をし、屋形様を入れ置き、我らはその前の山に出張って防戦を仕ります。
そのようにしては如何でしょうか?」

勝頼はこれに「武田の家にて籠城を仕ったことこれ無し。今私は籠城など思いも寄らない。」と仰せになった。

そこで内藤が申し上げた
「それでしたら、長篠には押さえに二千を置き、屋形様はこの上の山に御陣城をお構えになり、先手の者共は、
あの山に備え、敵を引き受け合戦仕るべし。」

しかし勝頼は「我々から押しかけ合戦有れば、勝利すると思っている。異なことを申す。」と仰せになられた。
この時、長坂長閑斎が申した。「憚りながら、私もそのように存じます。法性院様(信玄)の時分であれば、
何れもこのような反論を申さなかったでしょう。」

これを聞いて内藤は立腹し、長坂と口論に及んだ。これに勝頼は「いやいや、口論はいらない。
旗楯無も上覧、明日の合戦は回避しない!」と仰せに成った。
そこで家老衆も、この誓言の上は料簡を申し上げること出来ず、「下々へも、明日の合戦を申し触れます」と、
その場を立った。
この時、馬場は長坂長閑斎に申した
「御異見申すが、我々は明日の合戦で討ち死に仕る。各々は、我々の討ち死にを見てから甲州に帰り、その事を
物語されるように。」

そして罷り立ち、皆々との別れ際に
「さてさて、法性院様御在世の時は、あはれ討ち死にを仕って御奉公したいと心がけていたのだが、終に
討ち死には出来ず、今まで存命してしまった。
そして、当屋形様には『是非死に候へ』と思し召されているのに、命が惜しいとは。大将の心入とは
このように有るものか。」と、からからと笑って立ち別れた。

(長篠合戰物語)

長篠の戦い前日の、武田方での軍議について



梅雪様の申しようはごもっともです

2020年08月20日 17:17

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 21:23:05.13 ID:9dfXvoM4
長篠合戦記』より
珍しくかっこいい穴山梅雪

(長篠の合戦が敗勢になり)勝頼は「討ち死にすべし」と言って、少しも退却するそぶりを見せなかった。そんなところに穴山梅雪がやってきて、「早く退却されてください」と進言した。
勝頼はまったく聞き入れなかった。すると梅雪は大いに腹を立て、「日頃からわがままで、家老の言うことを聞き入れないが為に、いまこのような状況になっているのです。この上でも聞き届けないなら、覚悟のないことだ」と言って刀に手をかけたが、それでも勝頼は聞く耳を持たなかった。
そこで初鹿野伝右衛門が両人の間に入って刀に手をかけ、梅雪に悪口を吐いた。
梅雪が話すには「伝右衛門はそういうが、なんとしても勝頼様を退却させたいからこそ申しているのだ。早く馬にお乗せしろ!」
さすがに伝右衛門もかしこまり、「梅雪様の申しようはごもっともです。いまのご無礼はお許しください」と言って、「小姓ども、それそれ!」と言い、馬に勝頼を抱いて乗せた。
勝頼は「そうであれば仕方ない、力のないことだ。馬に乗ろう」と話し、それより押し太鼓を鳴らし、整然と退却していった。


いろんな角度から史実とはとうてい思えない話でもありました。
ちなみに前段では家康使者の小栗大六が「信長が助けてくれないならしらないよ。上野を勝頼にあげる代わりに尾張もらうから。家康が先陣で尾張を攻めたら信長困るでしょ」と放言し、それを立ち聞きした信長が改心するストーリー。



かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 07:17:50.69 ID:jBC+6l/v
勝つしか無い武田勝頼くん ワシと戦いをした結果 負けて甲斐も信濃も失って 品のないことだよね

合戦を遂げることこそ尤もです

2020年07月02日 17:59

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 21:58:08.56 ID:spB6JqFb
長篠の合戦の時、武田勝頼は「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている」と語った。
これに対して武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は申し上げた

「敵軍は四万、我軍は一万です。この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず
放火し、その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、一両年中に存分と成るでしょう」

という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が「合戦を遂げることこそ尤もです。」と
言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。

この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、殊に弁舌明らかであった。
この時六十三歳であったという。

当代記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 22:03:21.53 ID:dkvDgPFT
当代記の時点で勝頼は老臣の話聞かない思慮の浅い武者、長閑斎は佞臣
みたいなテンプレが出来上がってるのね

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 02:51:07.33 ID:1ucQJuvg
>>159
甲陽軍鑑の影響でしょう
近年、再評価されているのは面白い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 10:32:46.38 ID:SJFjnxtY
大将が討ち死にすべしってだダメだろ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:26:32.35 ID:wNBo2v6N
>>161
信長だって「知恵の鏡が曇るとは」といわれたし
勝頼みたいに退路絶たれて突撃はしないと思うけど

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 02:42:17.31 ID:/iNLXb8k
父信玄に劣らない立派な2代目にするって事で臣下が犠牲を顧みず奮起して高天神を落としたのに
勝頼「コイツらやれば出来るのになんで何時も怠けてんだよ、何時も死ぬ気でやらんかい!」
だから設楽原で老臣たちの慎重論を怠けとして全軍突撃を命じたんだよなあ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 10:08:11.60 ID:yt6Qik+O
退路を断たれてしまった以上前方の敵をせめてある程度ひるませないと、退くにしても追撃でとんでもない被害出るし

そこまでおかしな行動とは思えないかなぁ、平山氏曰く織田勢は兵の数が過小に見えるように動いてたようだし

だからそもそもこの当代記の武田勢が織田勢の兵数を完璧に把握できてる状況ってのがすでにフィクションっぽい

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 15:12:49.38 ID:9dv9wt1q
>>164
「敵かたへ見えざる様に段々に御人数三万ばかり」ってやつね
しかし、仮に威嚇のためだったとして、何回も突撃して壊滅し、追撃戦を含めて錚々たる面子を失ってるからね

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 21:12:12.25 ID:yt6Qik+O
威嚇じゃなくある程度の撃滅が目的じゃね
そもそも目算が間違って死地に赴いてしまったのが問題であって、そのあとの収拾の方法は問題ないと思う
そもそもが大失敗しててそれを取り返しようがない状況だから

そのまま追撃受けたら壊滅して、錚々たるメンツが死んでたのには代わりないんで

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 13:20:01.29 ID:90/ImzUl
>>164

要するに一撃講話論ですね