信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた
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枉げて勝頼の下知を了承し

2018年04月22日 21:19

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:29:37.55 ID:ou08Zeez
 (1582年3月3日)新府城から郡内(小山田領)へ退避するために新府城にある物資や妻女たちを運ぶため、
夫馬300疋、人夫500人を新府城まで出すようにと国中に触れたが、
甲斐の地下人たちは山野に隠れてしまい、国中は織田方の侵攻と武田の敗戦を知り騒然としていた。
夫馬も人夫もなかなか姿を見せず、勝頼夫人の輿を担ぐ輿かきすら逃げうせてしまっていた。
家来たちが手分けして、夫馬一疋をようやく探し出し、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せた。
 勝頼は新府城を退去するにあたって、ここまで同行してきた信豊を呼び寄せた。
「信濃国を譲渡する。小諸城は要害堅固の城であるから、
ここを足場に舅である小幡上総介信真(小幡信貞)らを頼み、真田昌幸、内藤昌月らと協力して
上野、信濃の軍勢を集めて信長らが甲斐に侵攻してきたら後詰をして欲しい」と頼んだ

これに対し信豊は
 「信濃を譲られたことは誠に光栄であり、今生の思い出としたい。
だが譲られたとしても私に対し、上野、信濃の国衆が強力をしてくれなければ、
結局それは徒労に終わるほかない。ならば、どこまでも最後まで勝頼様と行動を共にしたい」
と勝頼が何度も頼んでもなかなか応じなかったが、勝頼もそれを承諾はしなかった。

勝頼は
「気持ちはありがたいが、一門が同じ場所に落ち行くならば、それは計略は無きに等しい。
枉げて勝頼の下知を了承し、後詰めの作戦を実行して欲しい」と頼んだ

ついには信豊が折れて佐久郡や上野衆をつけたうえで新府城を去り、勝頼と別れた
(甲乱記)

因みに勝沼で織田を防ぎ、信豊が織田軍を封鎖するというのは
天正壬午の時の北条に対して徳川がやったことと同じような作戦をやろうとしてたんではないかと

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:42:14.11 ID:ou08Zeez
あと書き忘れたけど
武田信豊は軍鑑では密室政治だと批判の対象の1人である
だから彼の最後は見限って本領(小諸)に帰ったとしている。(※小諸は信豊の本領ではない)

一方で甲乱記の信豊は
信豊と勝頼とは幼年期から仲が良く、勝頼が家督を相続してからは、特に信豊を重用していたので
信豊の意思は勝頼の意思であると武田領内の人々はそう認識していた

信豊も最後は小諸城主下曾根浄喜に裏切られ自害するわけだけど
少なくとも甲乱記の勝頼との最後は№2として悪い話じゃないと思って>>782書いた



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 00:08:54.64 ID:PU1Wd8To
No.2としては親父の足元にもおよばないのな、信豊

妻子を引き取る

2017年07月31日 12:09

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:23:38.85 ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:27:55.27 ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:54:53.00 ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 11:02:37.61 ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい

「甲乱記」では勝頼の新府城からの逃亡を

2017年03月05日 18:34

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか


岡崎殿御生害之こと併異聞

2017年02月06日 17:55

580 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」

581 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる

長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

2016年09月08日 17:37

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 11:25:17.38 ID:Rn2M2SzC
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

 成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があると、年来聞き及びながら過ごしてきた。
そういったある日にふと幸便があり、借覧を請うてみたら、
彼も部屋住みのときからの知り合いだというので、こころよく貸与してくれた。

 そこで模写させる傍らで絵を視てみると、
長篠城の体から、
勝頼が敗軍して武田の武将のかなりの数が突撃して討ち死にする体、
兵馬旗鼓の状態、
実にその場の真を写すに十分であった。
考えるに、当時の目撃人が描いたのであろう。

 その中の信長の先兵は、神祖の御兵と陣を並べて烏銃を発砲する様を描いたところを
詳しく見ると、信長の兵は十に一か二であるが、神祖の御兵はすべて皆片目で撃っている。
これから思うと、予の藩士が烏銃を撃つときは皆片目である。
 予は初めは田付武衛等の流派では、両目を開いて撃つので、領内のは田舎の旧風であろうと思っていた。
そこで、今は全て田付武衛のに従わせている。
しかし神祖の御時ではもっぱら片目での銃法があることを、これにて知ることができた。

荻野長(八百吉)が言うに
先年系譜修撰の御用を勤めたとき、稲富氏の系譜の中に隻眼烏銃の術を神祖に申し上げるというのを書載していて、
なおかつその時に稲富氏に神祖が下賜された御誓書は、今正しくその子孫に伝わっているという。
この稲富流があるのは世に広く知られていることである。
昔は稲富の法を御当家が採用されたことはこの古画で知ることができよう。

また予の領内で伝えられた隻眼の術は真柳流というとか。
今はその伝は絶えて名のみ残っている。

(甲子夜話)



武田勝頼父子の遺体は

2016年08月14日 17:24

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/14(日) 02:25:15.53 ID:bkrryuWC
武田勝頼父子の遺体は田野にあったけれども、織田信長を恐れて恵林寺
の僧をはじめとして収める人はいなかった。

しかし、田野の西北4里ほどの中山というところの曹洞宗の禅僧・広厳院
やって来て、勝頼夫婦や信勝以下の遺体を収め葬った。

その後、徳川家康が甲斐を治め、一寺を建立して“景徳院”と名付け、田地
を寄付した。また、小宮山内膳友信の弟が僧であったのを、家康は同寺の
住職の僧にしたのであった。

――『常山紀談』



今、この戦いに及んで昌続は

2016年06月23日 11:23

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 02:54:12.79 ID:/cWLiVkI
土屋昌続は平八郎、右衛門と称した。武田信玄に仕え、使番となってしばしば戦功が
あったので武田家の長臣・土屋の称号を許され、侍大将となり兵士5千騎を預かった。

元亀2年、信玄が三河国加茂郡に出張った時、昌続は抜群の働きがあったので、
徳川家康および織田信長は伝え聞いてその武勇に感心した。同3年12月22日の
三方ヶ原の戦いの時には鳥居四郎左衛門忠広を討ち取り、功名をあらわした。

天正3年5月21日、長篠の戦いに武田勝頼に従って発向した。以前に信玄が死去
した時、昌続は殉死しようとしたが、高坂弾正昌信に、「今死ぬことは容易いが、
生きながらえて主君のために戦死することは難しいことであろう」と言われて強いて
止められ、その通りだと思って殉死を止めた。

今、この戦いに及んで昌続は、「今日の討死は高坂がかつて諌めたところだ」として、
織田家の陣に向かい、柵際に攻め寄せて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦して、
鉄砲の玉に当たって討死した。享年31歳。法名は道官。

――『寛政重修諸家譜』



881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 07:44:59.38 ID:03GZzFDX
兵5千騎か…ふう。

御坐所は牀卑く作らせらるゝ事

2016年06月18日 11:29

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:33:03.99 ID:tk/OOdJm
神祖の御坐所は牀卑く作らせらるゝ事

 何れの時か、武田勝頼、神祖を秘かに害しようと、忍者を遣わして
御座所の床下に入って刺し通して来いと命じた。
やがて、その者は帰ってきた。
勝頼は「そうした。成し遂げたか」
と問うと、
忍者は
「床下まで忍び入ったが、床が低くて刀を使うことができなかった。なので空しく帰ってきた。」
と答えたという。

 ある日、林述斎にこの話を語ると以下の話をされた。

「神祖は駿城へ移りなさろうして、造作を命じられたとき、
『床の高さは、女子が上り下りが自由にできるほどにせよ。
そうすると間者が床下で、働くことができぬ。』
との上意があったという。」

(甲子夜話)

バリアフリー建築の思わぬ効用



863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 22:16:57.57 ID:9RvsmYHx
???「でも厠は広い方が良いよね」

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 22:36:07.45 ID:KYpkGVOp
更衣は広い所で致したい

徳川秀忠も同意であり

2016年06月14日 17:48

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:34:32.03 ID:VPNrXKgR
徳川家康武田勝頼のことを、「若気ゆえに強ちすぎて、終に滅亡した」と
言い、殊に惜しんだ。徳川秀忠も同意であり、勝頼の子孫を尋ねたところ、

宮原右京(晴克)の母は勝頼の娘である旨が申し上げられ、秀忠は喜んだ
様子で、「初めて聞いた。その他にはいないのか?」と、言った。

家名の絶えたことを憐れんでのことである。

――『明良洪範』



836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 03:12:55.53 ID:G40Fhy1X
清和源氏足利基氏の血筋なり。上杉憲寛、上杉義勝、宮原義照と続き
義照の実弟義久を養子とす、兄弟同母が真理谷信政の娘なり。
義久、家康より勝頼娘貞との結婚と嫡子は宮原姓、庶子は穴山姓を名乗ることを命ぜられる。
高家なり。


837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 07:08:30.30 ID:ym6v2zfR
>>835
甲陽軍鑑のせいだけど家康、勝頼は数えで4つしか違わないので
完全に同年代なんだよなぁ。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:00:59.65 ID:twXBwpVX
真理谷信政ということは武田信長の子孫か

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:10:57.18 ID:X1xNTxNG
真理谷には信玄の子供が養子に入ったという伝承があったような

信幸は武勇の大将であり

2016年03月09日 18:20

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 19:07:16.92 ID:lZNfxQ9T
織田信長による甲州征伐が進行する中、武田勝頼は新府城に到着すると、武田から寝返った
不忠の者達の人質は、あるいはハタモノ、あるいは獄門と、三族ともに成敗し、忠信の人々の人質は、
それぞれに形見として返還し、杯など下して本国へと送った。
そして真田昌幸の嫡男、源三郎信幸を召し出して言った

「お前の父、安房守の今度の忠信は、草葉の陰までも忘れがたいものである。私が小山田の申す所を用い、
このように成り果てたのは神慮にも放たれたということなのだろう。昌幸は私を、不甲斐ないものと
思うことだろう。
どうか、お前の母と弟、その他一族の人質をつつがなく引き取って帰り、末まで繁盛せよ。」

そして御杯を下し甲州黒と名づけられた名馬一匹、金作りの太刀を与え涙にむせびつつ「これまでである」と、
忝なくも広縁まで見送り、「若年の者、落人として生け捕りにされることがあるかもしれない。」と、
自身の人数から数十人を付け、5,6里の間彼らを送るよう命じた。誠に昌幸の忠義に感じ入ったため
致したことであった。誰もがこのようであるべきなのに、相伝の主君に弓を引き逆心を企てるような
心意は、神慮もきっと憎む事だろう。心ある輩はこれを感じて、みな涙を流した。

真田家の人々は3月5日に新府城を引き払い信濃との国境へと向かうと、ここかしこより甲州の落人を
剥ぎ取ろうと、盗人共が寄り合い同類を集め、百人二百人ずつ待ち伏せし、鬨の声を上げて討ってかかってきた。

真田信幸、この時17歳。弟藤蔵15歳、源五郎7歳、信幸の姉18歳、矢沢殿の娘、祢津殿の娘、
室賀殿の娘も同行して下っていた。
信幸は先陣に進み、続いて御母堂の乗物と続き、山田文右衛門が殿をしてその勢男女二百余人、
信幸は一揆共を追い払い、鳥居峠につくと人馬の息を休ませた。しかしこの事はすぐに盗人共に知られ
「よき物取りが出来る」と、信州のスッパと上州・武州のワッパ共集まり、一千余人、峠の麓の
小松原に潜み、坂中にて鬨の声を上げると、百千の雷もこれには過ぎぬと、恐ろしさのあまり
母親は信幸に訴えた

「敵は多勢、この方は無勢。そして京まで3日の間の道中にての、昼夜度々の戦にて手負いも多くあり、
多くは疲れ果てています、なまじ戦って雑人の手にかかるよりは、私は自害しましょう。それから
あなたもお腹を召しなさい。」
そう涙に咽んで語ったが、信幸は武勇の大将であり、謹んで母親に言った

「あの程度の一揆、たとえ百万騎あろうとも物の数ではありません。お心やすく思って下さい。
只今彼らを追い払い、安々と国元までお供いたします。」

そして鎧の上帯を締め直し十文字槍を持つと、勝頼より賜った甲州黒に打ち乗り、さも勇々とした態度で
控えた。母親も鎧を着、白綾を畳んで鉢巻にし、志津三郎の打った薙刀を小脇に手挟み床几に座った。
真田信為(信繁のことか?)も緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、弓を引き、敵がかかれば討ち懸からんと
母親の脇に控えた。

信幸は五反斗乗り出し一揆の様子を観察し、真田の男女200人の一行を3手に分け、先陣を山の并びに
50人、母親の所を旗本として100人、手回りに50人を従え、信幸は言った
「この山陰から麓に廻り貝を吹きたて、50人を二手に分け、喚きながら峠に駆け上れば、敵は盗賊の
奴原であるから、我々を尾張勢と勘違いして散々に逃げ去る事間違いない。ただし、もしこの作戦を
敵が悟り、戻ってきて戦うことになれば、この山上の岩窟に母上を引き上げた上で戦うべし。」

こう評定し山陰に廻ると、そこには鎧武者10騎ばかり、人数7,80人が忍びやかに細道を登っていた。
信幸は、これは敵が後ろより来たのだと思い、配下の50人のうち1人を農民の出で立ちにして物見に
行かせたところ、それは信州より信幸たちを迎えに来た人々であった。
「これはなんということか!」相互に大喜びし、一行はすぐに信幸の元に向かった
「この峠に差し掛かり、遠見を出したところ鬨の声が頻りに起こり、その軍勢は雲霞の如くでありましたので、
この山陰を廻ってきたのですが、これこそ天の与えた幸運でした。」

こうして彼らも信幸の共に属し、麓に下り貝を吹き、鬨の声を上げると、案の定一揆勢は四方八方に
逃げ散り一人も残らなかった。

それから母親らの人数と合流したが、信濃国は信長の尾張勢がここかしこの城要害に押し寄せ兵乱の
最中であり、通行も難しいということで、ここより輿を捨て、母親をはじめとした女性も男の出で立ちにて
通るべしと、皆甲冑姿と成った。
(加沢記)

参考
真田信之の脱出


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 09:57:20.30 ID:JZptPlK9
>>441
大泉洋と堺雅人が浮かんで来てコメディーになってしまう

一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」

大河内政房の忠義

2015年10月10日 18:39

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 09:15:53.55 ID:8ZCLhqrc
大河内政房の忠義

天正2年、武田勝頼が高天神城へ出兵した。城将小笠原与八郎長忠は目付の大河内源三郎政房と籠城したが、城の兵糧は尽き兵も疲弊していたので小笠原は
後詰めが間に合わないことに怒って降伏してしまった。
政房は松平清康の室華陽院の甥であり、降伏することを肯んじなかったので、小笠原に捕えられ、石牢へ押込められた。
勝頼は降伏すれば本領に加え知行地を倍にすると呼びかけたものの、政房が応じなかったので、怒って牢の鍵を閉めていった。
これより高天神落城まで8年間牢中にあったが、城に在番していた武田の横田甚五朗(尹松)は政房の忠節に感じ入り、懇ろに労わった。

落城の際、石川伯耆守数正に救い出された時にはすっかり足が萎えており、莚に乗せられて家康の前まで連れられていった。
家康は長年の苦労を思って涙し自ら褒美を与えたが、政房は生け捕られたことを恥辱と思っていた。
周りの者は「虜囚となったのは小笠原の不義のためで、忠節を貫いたのだからむしろ誉れだ」と言ったが、やはり無念であったのか剃髪して「肖空」と号した。
その後、家康の命によって尾張津島の湯にて養生し、足の萎えも治り、遠江の稗原の地を与えられたが、長久手の戦で討ち死にしてしまった。

『常山紀談』
どっかの軍師さんよりよっぽど苦労し(ry




814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 09:55:13.65 ID:a9KQbZ1+
人質交換すらさせて貰えなかったただの目付さんカワイソス

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 11:00:52.60 ID:sJpBltH4
うーん確かに見方を変えると、8年以上も見捨てられていた悪い話しだよな

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 12:10:25.18 ID:q5GibUct
石川さんも家康の忠義に感じ入ったことだろう

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/10(土) 16:52:10.63 ID:ScZR6GY0
アンサイクロペディアの三河武士のページに、
大河内さんの戦闘力9000とか書かれてたの思い出した

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど

2015年08月17日 16:17

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/17(月) 14:43:22.90 ID:6w/B9vgu
天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐により武田勝頼は滅び、織田信長は甲府へと入った。
そこで信長より「春先より、私から計略の書状を送ったが、それを受け取った武田家の侍大将たちは
皆礼を申しに出てくるように」との仰せ触れがあった。

甲州征伐に先立ち、この年の2月末、3月にかけて、信長父子より大量の書状が武田家重臣に
送られていたのだ。そこには、自分たちに味方すれば、或いは『甲州一国を与える』『信濃半国を与える』
『駿河を与えるだろう』などと約束されていた。これを誠と思ったため、武田勝頼の親類を始め、
重臣たちも勝頼の危機に皆引き篭もっていたのである。

そして彼らは、この触れも誠と思い信長のもとに御礼に罷り出た。しかし、
武田方の出頭人、跡部大炊は諏訪にて殺された。武田逍遥軒(信廉)は府中立石にて殺された。
小山田兵部、武田左衛門、小山田八左エ門、小菅五郎兵衛、甲府善光寺にて殺された。
一条(信龍)殿は甲府市川にて徳川家康に仰せ付けられ殺された。出頭人秋山内記は高坂にて殺された。
長坂長閑父子は一条殿御館にて殺された。

仁科(信盛)殿、小山田備中、渡部金太夫というこの3人ばかりは、高遠城において、織田城介(信忠)の
旗本に攻められ、わずか18人になるまで城を保つ天晴な討ち死にをした。
しかし小菅五郎兵衛は、元は山縣三郎兵衛の家臣で大剛の者であったのを、長篠の後勝頼によって
旗本に召し上げられ足軽大将となり、仁科信盛に付けられ高遠へと派遣されたにも関わらず、
卑怯にも織田勢が来る前に「勝頼公のお供をつかまつる!」と言って高遠を出て甲州に帰り、
そこで小山田兵部に合流して武田家への逆心を企てたが、彼も善光寺で織田勢に殺された。

高坂源五郎は沼津から、勝頼の最期の5日前に罷り帰り、勝頼に「お供つかまつる」と申し上げたが、
長坂長閑が「城を開けてやって来たというのは、どのようなつもりがあるのか解らない。
その上彼は侍20騎ばかり、雑兵百四,五十ばかりを引き連れているのも一体どうなのか…」
そう判断し、これを寄せ付けなかった。このため、高坂は井澤から直ぐに信州へと通った。
屋代(秀正)なども若いにもかかわらず、駿河をよく引き払い勝頼に合流したいと申し上げたが、
これも高坂源五郎のように寄せ付けなかった。
このようであったので、高坂源五郎は川中島で殺された。山縣源四郎も殺された。

駿河の先方衆も、勝頼公御為を一筋に信じていた者達は成敗された。

こうして、甲信駿の侍大将、家老衆はほとんどが殺された。ただし、信濃の真田、芦田、
上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆は皆命を助け、滝川一益に寄騎として付けた。これは
信長の

『3年の内に北条氏政、氏直父子を絶やすべし。これはもし手間取った場合に、真田小幡を始め
彼らに北条家への先手をさせるためだ。』

との考えからこうしたのである。
山上道及という侍があり、彼は元来上野衆であったが、久しく牢人し諸国を武者修業していたが、
彼もこの時信長に1万貫で召しだされた。これも北条を滅ぼしその跡を滝川一益に与える為であった。

下総国佐倉の千葉介国胤は大剛強の大将であったが、この国胤への信長の書状があまりに慮外であると、
信長からの贈り物であった馬の尾を切り追い払い、使者の髪の毛を剃って追い返した。
これは武田四郎(勝頼)が運尽きて滅亡し、このため北条氏政も頭を垂れ信長の被官となった。
しかし自身は、「国胤は小身であっても、たとえ滅亡しても家の誇りを立てる!」と考え
そのようにしたのだ。

(甲陽軍鑑)

武田滅亡、そしてその直ぐ後のことなど




新府城建設の経緯

2015年08月14日 14:24

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/13(木) 20:52:56.14 ID:kjx4sVmM
天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた

「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。

ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城が
ありませんでしたが、それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、駿河の久能、
甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、もしものときは籠城あるべきとの
事からでした。

しかしその時は、上杉謙信が「四人が組んで信玄一人を倒しても、信玄には四人がかりであったと
末代まで言われてしまう!」と、この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」

これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、新府城建設の経緯である。



甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めとその影響

2015年08月13日 18:36

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 18:54:22.56 ID:8lbm1Qo/
織田信長は播磨国を取ると、家老の木下藤吉を羽柴筑前守と名乗らせ、播磨一国をこの筑前守に与え、
安芸の毛利に差し向けた。

この羽柴筑前は信長に謀劣らぬ侍大将であったので、信長から金子を過分に申し受け、毛利家に対しこう申し
越した。

『毛利との間に和平を結びたい。何故なら信長公が、東の敵である武田をどうしても倒したいと考えているので、
中国の毛利家とは無事にするようにと仰せになったからだ。』

毛利家の弓矢も末と成っていたのだろう。彼らがこれを信じた所に、筑前守は見事な十両吹の金子を持ち込み

『武田攻めのため米を買い取り、船にて駿河国まで廻送する』

と触れ回った。これに毛利家の衆は、余剰の米だけでなく城米まで尽く売ってしまった。
この時毛利家の小早川隆景はこれを知るや、但馬半国に米を売ることを禁止させた。

その後、羽柴筑前守は軍勢1万5千にて出陣し、因幡、伯耆、但馬半国に攻め寄せた。
それらの国の城には兵糧米がなかったため、毛利方は尽く城を開けて逃げ出し、羽柴筑前に取られた。

こうして信長の分国は、本国の伊勢、志摩、近江、美濃、尾張に加え、山城、大和、河内、和泉、摂津、
丹波、播磨、因幡、伯耆、但馬、若狭、丹後、越前、加賀、越中、能登、伊賀、となり、またこの年3月、
高天神城を徳川家康に取られたため、家康も三河、遠江2ヶ国。両大将を合わせて24ヶ国の大敵である上、
小田原の北条氏政は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、下野の7ヶ国まで手に入れた。

この大将3人が敵と成った以上、武田勝頼公の御備は危ういと言うのも愚かなことである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めについて書かれたと思われる場面である。




勝頼が信長に使いを送った結果

2015年08月04日 12:05

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 22:41:05.92 ID:ea1bPGQk
天正8年、長坂長閑斎武田勝頼に申し上げた
織田信長に使いを送り、音信を行ってしかるべきと存じます。」

しかしこれに、小山田兵衛をはじめ皆反対した
「信長は殊の外威の強き大将ですから、使いを寄越すほど辱い事は無く、彼は当家を手に入れたと
考えるでしょう。ですからそれはやめたほうがいいと考えます。
それに例え使いを送ったとしても、信長が当家を滅ぼすための工夫、思案を止めることはないでしょう。」

長坂長閑斎は反論した
「信玄公の御代、我らは信長の分国である美濃岩村に攻撃したが、信長からは織田掃部、赤澤といった
者たちを甲府までさし寄越した。それを悪しきこととは誰も申さなかった。
また信玄公ご他界の後、越後の上杉輝虎(謙信)は、信長が持っていた加賀の松任を取り、越前にも
焼き討ちを行った。それでも信長は佐々という者を春日山に付け置いていた。

そのような信長のやり方と同じように、当方も行って然るべきなのです。」
この言葉に従い、武田勝頼は安土に使いを送った。

そしてその返事が届くと、その末尾には、日付からはるか一寸も下げた場所に『武田四郎殿へ』と
書かれてた。

4年前の暮れ、上杉輝虎が信長に、「有無の合戦を行おう」と決戦を要求する書状を送った時の
信長からの返答には、日付と同じ位置から少し上げたほどに輝虎の名を書いていたが、それですら
信玄公の時代とは大きく異なっていたというのに、勝頼公への返事には、殊の外下げて書かれていると
沙汰された。
早くも被官扱いの文章、その名付けにも、少しも武田家を尊重する様子はない。このような
信長・家康方の強気に、武田家の者達の恐れること大方無かった。

武辺の儀は勝るとも劣ることはない。だが、信長が軍勢を出せば、野山も埋め尽くすほどの大軍である。
長篠合戦の時の倍以上の軍勢を出してくるだろう。武田家中ではそのように予想したのだ。

(甲陽軍鑑)

勝頼が信長に使いを送った結果、という逸話である。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 09:47:02.16 ID:D6SEtJnd
天正八年◎月X日

                                                                       武田四郎殿へ
こうですね?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 10:30:11.73 ID:6QDetX0/
何が悪い話?

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 11:06:43.56 ID:6u7F90GO
長閑斎にしてみれば対等のつもりが下に見られたって嘆きでしょ

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/04(火) 13:22:23.31 ID:AmVPb3SD
窓口があればこそ勝長が帰還できたというもの

当家滅亡の物怪に

2015年07月26日 13:16

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 22:06:45.82 ID:WliaOztJ
卯の年(天正7年 (1579))春より、駿河国、富士の大宮の大杉より煙が立ち上った。これを武田勝頼は聞いて、
吉田守警斎を召し、常の間にて諸人出仕の人々が聞いている中、少しも隠すことなく、先の大杉より
煙の出たことを尋ねた。吉田は承ると、神道にある

 千早振る 我心より成る業を いずれの神がよそとみるべき

 身は社 心の神を持ちながら よそを問こそおろかなりけり

この二首を引き、「お気にさえ懸けられなければ問題はありません。」と申し上げた。

これを聞いて勝頼は言った
「少しも気にしていない。何故なら何事があろうとも、滅亡して退くと思えば心に懸かるべき物はない。
さてまた、この勝頼を押し詰めて滅亡させるべき人物は、日本国中でも大身であるから、
越後の謙信、安土の信長、安芸の毛利、小田原北条氏政、この四人の内以外にはありえない。

第一の候補は大身と言い武功と言い、長尾輝虎であるが、これは去年他界してしまった。
北条氏政は私の8最年長だが、彼の父氏康と違い、武功において恐ろしいことはない。
安芸の毛利も、今は代替わりの最中というし、その上国が隔たっている。

信長・家康は両人力を合わせ我が家を倒そうと企んでいるが、家康こそ5年前の長篠の戦いの後、
駿河に出兵しているものの、信長の方は長篠の後も、信州の内に手を出すこと少しもない。
家康の働きも、我らの旗先を見ては即時に引き上げている。これ偏に信玄公の御威光が残り
斯くの如しだ。

さりながら、信長家康に、北条氏政が内通したようであるから、ついにはこの勝頼、滅亡するであろう。
滅亡しても、信長の旗下に成るなどということは、御旗楯無もご照覧有れ!そんなことはありえない!

それに付き、当家滅亡の物怪に、富士大宮の杉より煙が立ったのであろう。」

この時勝頼は少しも愁いた表情はなく、嘲笑いながら座敷を立ち奥に入っていったと、後に勝頼の近習衆が
語った。

勝頼公はあまりに強き御屋形であると感じ、春日惣二郎、ここに書きつける。

(甲陽軍鑑)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 01:27:08.09 ID:75rkLFJE
大身といいながら家康が出てくるあたりがなんとも

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/26(日) 04:50:37.16 ID:wCQo3NPd
まさに韓信の化身やな

国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

2015年07月24日 12:44

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 20:52:36.33 ID:pGcxwbcl
上杉謙信の死後、養子の景勝と景虎が争った御館の乱。
景虎への救援として、北条氏政、武田勝頼が援軍を出すと一報が入ると、景勝は
このままでは滅亡疑いないと分別し、勝頼の出頭人である長坂長閑、跡部大炊が欲を構え、万事に礼物を取り
賄賂にて事を済ますという話を聞いて、勝頼に対して手を入れ、長坂長閑・跡部大炊を頼んだ。
謙信が貯め置いた金子を取り出して、長坂、跡部に二千両づつ与え、勝頼に対しては一万両を贈り、その上で

『縁者と成る事を仰せ付けられれば、景勝は勝頼公の旗本と罷り成ります。
東上野は少しも残らず勝頼公に差し上げます。』

そう伝えてきたので、長坂・跡部は勝頼にこう申し上げた。

「信玄公が御他界される前、天下に赴く為として、支度のための金子を調達するため、後家や出家の妻にまで
税金を課しましたが、その時集まった資金は漸く7千両ばかりでした。
今、何事もない所で1万両の金子を集めることが出来れば、勝頼公のご威光は、信玄公の十双倍に増すこと
でしょう。
その上景勝は起請を提出し御旗本となり、未来永劫、ご無沙汰申し上げないと誓っています。
さらに東上野全部を手に入れられるというのは、大いなる徳分です。

景勝には、信玄公御在世の時、長島の一向宗に約束していた、お菊御寮人を、越し参らせるべきでしょう。
また、いかに小舅だからといって。景勝と対立している三郎景虎が勝つ事になれば、彼の兄である
小田原の北条氏政は大佞人であり欲の深い大名ですから、越後を取り、その後は勝頼公も退治しようと
企む事、疑いありません。」

この進言により、勝頼は景勝と和平を結び、景虎を見殺しにした。
これに武田家領内の侍達は大小に及ばず、町人、地下人、長袖の出家衆までこのことを聞くと、
『武田の御家御滅亡疑いない。義理を違え、きたなき欲を構えて金を取り、卑怯なる仕方、
何につけても一つとして良いというべきところがない。長坂長閑・跡部大炊両人ながら分別なく
礼金を取り、義理も恥も知らず、後々のことも考えず己が欲得ばかりに耽り、このように悪し意見を
申し上げたのに、それを良いと思し召し、それに同意するのは、これこそ勝頼公御滅亡の基である。」

そう、大小・上下共に沙汰したのである。

(中略)

この年の暮れ、甲府の三日市場という日市の立ち辻に二首の歌を詠んだ落書が立った

 無常やな 国を寂滅する事は 越後のかねの諸行なりけり

 金故に まつきに恥は大炊助 尻をすべても跡部なりけり


(甲陽軍鑑)



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:20:06.67 ID:Ys5o13aR
甲相越の三国同盟でも織田に対抗するのは無理だから
何やっても滅亡する運命

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 23:41:42.38 ID:QG9/5ciG
時間は稼げたんじゃないかな。結果は同じだろうけど。

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 01:03:42.58 ID:1c405sEe
同盟つーか、武田が北条の傘下に入る代わりに、織田との戦いに援軍を出してもらえれば、かなり持ちこたえるんじゃないかね。
史実武田家の上州に注力している間に徳川に攻められる、ってこともなくなるし。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 02:12:52.44 ID:4sa+4i1A
三郎景虎への援軍をみれば本気で武田を助けると思うかい?

しかし義理を違えてとかさあ
駿河に侵攻した大悪人と比べたら大したことねえよ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 07:43:43.14 ID:A4u3IXsZ
信玄公のがもっと酷いことを、というか酷いことしかやってないよねw

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 08:28:07.04 ID:Oh/+D5ws
上杉に何の義理があるというのだ

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 10:29:56.83 ID:KEIZsXxu
勝頼が三度援軍を出したのに一度も援軍出してくれなかった北条なんて当てに成らんし
そもそもだから上杉にすり寄ったんじゃね

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。

2015年07月04日 12:31

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 20:50:59.40 ID:wVydyIW8
天正4年、武田勝頼は高天神城に兵糧を入れるとして出陣し、この時家康が高天神への
抑えの城として築いた横須賀城の徳川勢と対峙した。

武田勝頼はこの時、十七手の備にて徳川家康が陣を張る山から降り川を越えてくれば決戦をしようと
待ち構えていたが、家康は先年長篠にて勝ち、次第に我が鋒先強くなるべきと、工夫し、勝って兜の緒を締め、
少しも取り合おうとしなかった。
そのため勝頼は、横須賀城を右に見て少し後ろにまわり、徒歩の者30人ばかり引き連れて、横須賀城の
偵察に出た。手を出してこない徳川勢への挑発である。

この様子を高坂弾正は見て、急ぎ後から一騎で乗り付けると勝頼に向かって申し上げた
「敵に対して少しも警戒しないのはどういうことですか!去年の勝ちの勢いに乗じて家康が
たった今でも攻めかかってきたなら、我らは去年長篠の敗北で、ただでさえおくれ心を抱いているのですから、
千に一つも我が方が勝つことはないでしょう。

その上、家康の居城浜松へは、ここから道程5,6里程度ですが、甲州へは、高天神、遠州の小山、
駿河府中、富士の大宮を経由して、五日路です。五日の路を長篠に続けて負けては、どうやって引き取ると
言うのでしょうか?一騎一人、残らないでしょう。
その事をご分別無いのは、口惜しき限りです!」

しかし勝頼はこれを聞くと

「其方の言い分は尤もである。しかし家康は、一人の覚悟で我らと合戦しようとは思わないだろう。
必ず信長を後ろ盾にして戦おうとするはずだ。
去年、長篠において我らは後れを取り、大身・小身共に、法性院殿(信玄)ご秘蔵の衆を多く
討ち死にさせてしまったのは、私の分別違いの故である。

どういう事かといえば、信長は国を多く持つ大身であるのに、合戦において木の柵を二重三重に結った。
まさか信長があれほどまで慎重に戦を行うとは考えなかった事こそ、この勝頼のし損ないであった。
しかし、敵が柵を構築したのは、例えで言えば、碁であれば寝濱(ねばま:不正な手段)を使ったような
ものである。そして我々が柵が構築されている所に攻めかかったのは、先に言う碁打ちならば、見落としという
ものである。

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。これは、我々が元より不利で、敵方が
その強みで勝ったのだとは、いささか考え難い。このように、敵方にそれほど強みがあるとは
私は考えていない。だからこそ、重ねて合戦しようとも、信長・家康の二旗が揃わねば我らと
合戦しないだろう。」

高坂弾正は愕然として言った
「なんと力を落とすご発言でしょうか。信玄公御代の侍大将で生き残ったのは私一人ですが、
その私をも殺すつもりで、そのように仰っているのですか!?
何を申しても、勝頼公の御疵は、無二に強すぎるのは大いなる疵なのです!」

この高坂の言葉に、勝頼も本陣に帰り、早々に引き取った。前線に出ていた小笠原衆、山縣衆も、
撤退時に敵が追撃することはなかった。
次の日、生け捕った徳川軍の兵に尋ねると、徳川の中でも若者たちは攻めかかっての合戦を主張したが、
内藤四郎左衛門という弓矢巧者の兵がしきりに止め、家康に意見したため、合戦が起こらなかったのだという。

(甲陽軍鑑)

長篠の合戦の敗因に関する、武田勝頼の認識が表されている一節である。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 22:59:46.34 ID:TLX/Z1sW
ひとこと脳筋

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 23:51:59.43 ID:57etRZVb
弓矢巧者の内藤四郎左衛門というと、徳川16神将の内藤正成で間違いないかな?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:22:51.74 ID:Xen6Hxvi
>>21
うむ内藤正成で合ってる

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:47:37.20 ID:H6t4ua6a
勝頼って、万を超す様な大軍の総司令官には向いてないよな。

騎兵の千や二千も与えて、
「あの辺で暴れておいで」って指示したら大活躍しそうだが。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 02:54:27.56 ID:rV9MEbVl
弾正が小姑に見えてくる

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 07:32:39.98 ID:kd25Cj4f
弾正というと真っ先に爆弾正が思い浮かぶようになってしまった

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 09:32:30.73 ID:b1sslmBb
>>24
親父の元愛人だしな

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 14:51:47.26 ID:e+nJ1CZf
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 20:26:02.13 ID:rOGjjh0i
信玄も煩い老臣を合戦で死なせてるからね
長篠は武田家を新にさせるいい合戦