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伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで
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信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



かかる心を 武田とや云

2016年10月30日 20:57

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?

上杉謙信、武田義信への不覚

2013年04月04日 19:51

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 16:02:25.95 ID:G+nl4ji6
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を
攻撃したが迎撃され、逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。

この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、
記載していない。

謙信は

「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。これは我が油断のためである。」

と、後々まで無念に思い悔しがった。

ところが、本庄繁長長尾藤景がこれを可笑しく思い、若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を
批判した。

このため本城も長尾も謙信の気に背き、謙信は本庄に、長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に
反旗を翻し籠城を行うのである。
(北越太平記)





雨宮十兵衛家次の帰参

2011年06月07日 00:01

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:33:46.00 ID:WLpP+f1l
ちょっと武田家のマイナーネタを
(1/2)


永祿七年(1564)、駿河侵略に異を唱えた嫡男義信を捕えて監禁し、翌年正月に飯富兵部を自害させた事件の時

当時、義信に近習として使えていた八十騎も同様に、処刑または追放されていた
これらは義信衆といわれ、いずれも優れた若武者で構成されていたうえに
義信を慕い傾倒していた者が多かったので、信玄もやむなく処断するしかなかったという

義信衆で追放された者の中に、雨宮十兵衛家次 という若い武士がいた
彼は義信の妹が嫁いでいる、小田原の北条家に身を寄せた
とりあえず、そういった関係もあったので北条家は十兵衛を快く迎えたという


926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:34:50.13 ID:WLpP+f1l
(2/2)

で、少し後のことになるが、この十兵衛
合戦ごとに実に良く戦場を駆け回り、氏康・氏政親子から3年間で感状を7通貰った
しかも手柄のうち4つが一番槍という暴れっぷり
その噂は山間を越え、高坂弾正の耳に届く

これに感心した弾正は、すぐに信玄に言う
「お館様、義信様のご家人には、罪があってないようなものでございます
雨宮十兵衛家次と申す者、小田原に仕えて短き間に感状を7通もとりました
武士のほまれでございましょう」

「ふむ」

「そのことで罪は消えていると思います
呼び戻し、わたくしの隊に預けて頂けませんか?」

信玄も、あたら若き義信衆を無下に切り捨てたことに未練があったのだろうか
弾正の言にはすぐに返答した
「そうだな、そのほうの好きにいたすがいい」

ただちに、高坂弾正より呼び戻しの使いが飛び、十兵衛は槍を担いで古巣に戻ってきた
義信衆八十騎の中で再び帰参の陽の目にあったのは彼一人だったという



なお、この雨宮十兵衛は村上義清の傍流で、家紋も同じかつ出自は信州、現長野県更埴市付近、
つまり、“川中島”近辺
実際、第4次川中島合戦にて上杉謙信が千曲川を渡った場所は
“雨宮”の渡しと呼ばれ、その近辺には雨宮十兵衛家次の菩提寺と、雨宮日吉神社が今でもあります




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:48:54.44 ID:/WujR3c5
いい話か…?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 01:02:10.44 ID:aCFDZqDc
愛人には甘い信玄であった