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638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:16:25.42 ID:h+gKGqTL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期
後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。
639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:18:39.10 ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。
640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:39:32.43 ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期
後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。
639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:18:39.10 ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。
640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:39:32.43 ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。
636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/13(日) 09:44:17.19 ID:Oc4r4gLe
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。
一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。
一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。
一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。
一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。
一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。
この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。
『甲陽軍鑑』
飯富虎昌粛清について
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。
一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。
一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。
一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。
一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。
一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。
この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。
『甲陽軍鑑』
飯富虎昌粛清について
630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/02(水) 18:38:08.64 ID:Hwy3qHHU
「笹子落草紙」から鶴見の最期
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13690.html
で書かれているように武田信茂の誅殺のち、真里谷城城主・武田信隆は無実の信茂の恨みのためか死んでしまった。
また監物河内の家中の者に信茂の残念が入り込み無実を訴えたが、とりわけ下手人である後藤・鶴見への恨みを述べたため、国中の人は二人を憎んだ。
後藤は高名な弓取りであり、また上総武田家に連なる家であったため、監物とはかって三男の亀若丸を真里谷城主にしようとした。
鶴見は後藤の義弟であったが、これを聞くや後藤に「国の混乱の元であるから欲を捨てよ」と必死に説得した。
しかし後藤は「当国にて我に弓を引くものなどいようか」と嘲笑って聞こうとしなかった。
そこで鶴見は武田信秋(武田信隆の叔父)・武田義信の父子に臣従を誓ったところ、承諾の返事が届いた。
そのため鶴見は後藤方の監物の屋敷に押し寄せ、焼き払った。
これを知った後藤は上総武田の分家の小田喜朝信に対して
「鶴見は代々恩を受けていながら、天道をはばからず御当家に対して弓を引く不届きものです。急ぎお退治あるべきです」と逆さまに申し立てた。
小田喜朝信は後藤の婿であったため、頭から後藤を信用してしまい、相模の北条氏康に援軍を申し込んだ。
こうして北条九郎氏胤?一万余騎、千葉介三千余騎が笹子城に攻め込んできた。
(笹子城は武田信茂の死後は鶴見内匠が城主となっていた)
631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/02(水) 18:41:28.92 ID:Hwy3qHHU
鶴見はあらかじめ予想していたため少しも騒がす、赤銅造りの太刀を佩き、城表の櫓にのぼり、敵陣に対して言うには
「さても、鶴見は小身ではあるものの、名を後世に残すうれしさよ。
北条・千葉両大将を申し受け、潔く討ち死にすること、これ以上の悦びがあろうか。
しかし不忠の者の偽りごとを信用し忠臣を討つという小田喜朝信の行く末が見られないことだけが残念である。」
それを聞いた後藤兵庫は「はやく攻め殺せ」と命じ、四方から鬨を挙げて敵が攻め込んできた。
鶴見は櫓からさっと飛び降り、三人張りの弓に矢をつがえ、表門に来る敵を次から次へと射立てた。
これを見た朝信は盾を互い違いにさせて攻めてきたが、信仲(鶴見?)が矢を放つと十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた。
これを見た後藤はあわてて「命あっての物種だ」と逃げて行った。
しかし北条軍により土山が掘り返されてあっというまに平地となってしまった。
こうなっては鶴見も敗北を覚悟し、いったん宿に戻って長年契約していた和尚に善知識を問うと
和尚「利剣即ちこれ阿弥陀号、という言葉があります。
敵を無明と思って剣で斬りはらい続け、雑念が入る前に討ち死にするのがよいでしょう。
愚僧も一蓮托生の身ですから、すぐ参ります」
納得した鶴見はまた表に戻ろうとしたが、女房が子供を連れてきて
「敵に無残に討たれるよりは、我々を殿の手で討ってください」と言ってきた。
鶴見は情をふりきり、母に最後の挨拶をしたのち戦に戻った。
雲霞のような敵軍を、薙刀を水車のように振り回し切り伏せていったが、戦半ばで二つに折れてしまった。
鶴見は力も尽き果てたため西方に向かって念仏を唱え、腰の刀を抜いて切腹しようとした。
そこに北条氏康の身内で萩原というものが名を名乗って前に出てきたため、鶴見はからからと笑い
「西方浄土も遠くはなかろう。来迎往生は眼前である。これもなにかの縁だ。はやく首をとれ」
こうして萩原は鶴見の首を討ち落としたが、念仏の声は首が落ちた後にも響いていた。
これを見聞きしたものはみな「弓取りはかくあるべし」と言い、ほめぬものはなかった。
続き
「中尾落草紙」から、後藤一族の最期
「笹子落草紙」から鶴見の最期
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13690.html
で書かれているように武田信茂の誅殺のち、真里谷城城主・武田信隆は無実の信茂の恨みのためか死んでしまった。
また監物河内の家中の者に信茂の残念が入り込み無実を訴えたが、とりわけ下手人である後藤・鶴見への恨みを述べたため、国中の人は二人を憎んだ。
後藤は高名な弓取りであり、また上総武田家に連なる家であったため、監物とはかって三男の亀若丸を真里谷城主にしようとした。
鶴見は後藤の義弟であったが、これを聞くや後藤に「国の混乱の元であるから欲を捨てよ」と必死に説得した。
しかし後藤は「当国にて我に弓を引くものなどいようか」と嘲笑って聞こうとしなかった。
そこで鶴見は武田信秋(武田信隆の叔父)・武田義信の父子に臣従を誓ったところ、承諾の返事が届いた。
そのため鶴見は後藤方の監物の屋敷に押し寄せ、焼き払った。
これを知った後藤は上総武田の分家の小田喜朝信に対して
「鶴見は代々恩を受けていながら、天道をはばからず御当家に対して弓を引く不届きものです。急ぎお退治あるべきです」と逆さまに申し立てた。
小田喜朝信は後藤の婿であったため、頭から後藤を信用してしまい、相模の北条氏康に援軍を申し込んだ。
こうして北条九郎氏胤?一万余騎、千葉介三千余騎が笹子城に攻め込んできた。
(笹子城は武田信茂の死後は鶴見内匠が城主となっていた)
631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/02(水) 18:41:28.92 ID:Hwy3qHHU
鶴見はあらかじめ予想していたため少しも騒がす、赤銅造りの太刀を佩き、城表の櫓にのぼり、敵陣に対して言うには
「さても、鶴見は小身ではあるものの、名を後世に残すうれしさよ。
北条・千葉両大将を申し受け、潔く討ち死にすること、これ以上の悦びがあろうか。
しかし不忠の者の偽りごとを信用し忠臣を討つという小田喜朝信の行く末が見られないことだけが残念である。」
それを聞いた後藤兵庫は「はやく攻め殺せ」と命じ、四方から鬨を挙げて敵が攻め込んできた。
鶴見は櫓からさっと飛び降り、三人張りの弓に矢をつがえ、表門に来る敵を次から次へと射立てた。
これを見た朝信は盾を互い違いにさせて攻めてきたが、信仲(鶴見?)が矢を放つと十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた。
これを見た後藤はあわてて「命あっての物種だ」と逃げて行った。
しかし北条軍により土山が掘り返されてあっというまに平地となってしまった。
こうなっては鶴見も敗北を覚悟し、いったん宿に戻って長年契約していた和尚に善知識を問うと
和尚「利剣即ちこれ阿弥陀号、という言葉があります。
敵を無明と思って剣で斬りはらい続け、雑念が入る前に討ち死にするのがよいでしょう。
愚僧も一蓮托生の身ですから、すぐ参ります」
納得した鶴見はまた表に戻ろうとしたが、女房が子供を連れてきて
「敵に無残に討たれるよりは、我々を殿の手で討ってください」と言ってきた。
鶴見は情をふりきり、母に最後の挨拶をしたのち戦に戻った。
雲霞のような敵軍を、薙刀を水車のように振り回し切り伏せていったが、戦半ばで二つに折れてしまった。
鶴見は力も尽き果てたため西方に向かって念仏を唱え、腰の刀を抜いて切腹しようとした。
そこに北条氏康の身内で萩原というものが名を名乗って前に出てきたため、鶴見はからからと笑い
「西方浄土も遠くはなかろう。来迎往生は眼前である。これもなにかの縁だ。はやく首をとれ」
こうして萩原は鶴見の首を討ち落としたが、念仏の声は首が落ちた後にも響いていた。
これを見聞きしたものはみな「弓取りはかくあるべし」と言い、ほめぬものはなかった。
続き
「中尾落草紙」から、後藤一族の最期
626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/01(火) 11:20:20.48 ID:wB7vPYTo
永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。
この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。
しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。
『甲陽軍鑑』
武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。
永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。
この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。
しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。
『甲陽軍鑑』
武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。
587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/23(金) 20:51:57.40 ID:ReeIpMuj
永禄七年七月十四日の夜、武田太郎義信公が長坂源五郎を御供にて、燈籠見物にことよせて
御城を御出になり、忍んで飯富兵部(虎昌)の所に御座なされた。そして乱鳥(一番鶏、二番鶏が
過ぎた後に、鶏たちが一斉に鳴き出すこと)まで談合なされた。
この様子を不審に存じ、御中間頭(横目衆)の荻原豊前が信玄公へ報告した。それより信玄公は不審に思われ、
義信公逆心の事顕れ、翌年、飯富兵部、長坂源五郎の両人が御成敗となり、太郎義信公は牢に
入れ参らされ、その上義信衆は御成敗、或いは御改易となった。そして義信公御守りの曽根周防は
荻原豊前に仰せ付けられ、放し討ちに討たれた。
このように、御父子の間に不審の立つことであっても少しも隠すこと無く、目付、横目が言上致すのは、
甲斐の他は何れの国であっても有るまじき事である。これはただ偏に、信玄公が人を能く召し使い給い、
能く人物を目利きなされて、能く采配を取り、能く仕置の法度、無類なる故であろう。
『甲陽軍鑑』
永禄七年七月十四日の夜、武田太郎義信公が長坂源五郎を御供にて、燈籠見物にことよせて
御城を御出になり、忍んで飯富兵部(虎昌)の所に御座なされた。そして乱鳥(一番鶏、二番鶏が
過ぎた後に、鶏たちが一斉に鳴き出すこと)まで談合なされた。
この様子を不審に存じ、御中間頭(横目衆)の荻原豊前が信玄公へ報告した。それより信玄公は不審に思われ、
義信公逆心の事顕れ、翌年、飯富兵部、長坂源五郎の両人が御成敗となり、太郎義信公は牢に
入れ参らされ、その上義信衆は御成敗、或いは御改易となった。そして義信公御守りの曽根周防は
荻原豊前に仰せ付けられ、放し討ちに討たれた。
このように、御父子の間に不審の立つことであっても少しも隠すこと無く、目付、横目が言上致すのは、
甲斐の他は何れの国であっても有るまじき事である。これはただ偏に、信玄公が人を能く召し使い給い、
能く人物を目利きなされて、能く采配を取り、能く仕置の法度、無類なる故であろう。
『甲陽軍鑑』
150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 14:46:03.49 ID:dwJriU8b
先年、武田信玄の嫡男である武田太郎幸信(原文ママ。義信)が生害され給わった。
その故は、義信が父を討ち取り家督を取るという陰謀について、これが信玄の耳に入り、たちまち
義信を幽閉し、終には鴆毒を以てあい果てた。
然れば、信玄は父を追い出し子を殺し、甥の今川氏真の国を奪い取った。これを大悪行であると
思った故か、何者の仕業か、落書があった
『子を殺し 親に添てぞ追出す かかる心を武田とや云』
『当代記』
151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 21:02:49.55 ID:VWMlXOBe
武田の御曹司としての自覚もかなり強かったみたいだし、義信が家中をまとめて勝頼が先陣を切る武田家ってのも見てみたかったなあ
義信は勝頼をだいぶ目にかけていたって話が過去に書かれていたから案外うまくいったんじゃないかと思うけど
153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 22:36:37.28 ID:V2ZQMWZW
>>151
義信-勝頼間の感情が悪くないとしても、重臣や国衆がどう反応するか。
下手をすれば義信派と対立するor対立した国衆に担がれた勝頼が諏訪で挙兵とか、なりかねん。
154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 03:15:49.45 ID:WHFvIAdA
そうなるには義信の治世が最悪じゃないとな
先年、武田信玄の嫡男である武田太郎幸信(原文ママ。義信)が生害され給わった。
その故は、義信が父を討ち取り家督を取るという陰謀について、これが信玄の耳に入り、たちまち
義信を幽閉し、終には鴆毒を以てあい果てた。
然れば、信玄は父を追い出し子を殺し、甥の今川氏真の国を奪い取った。これを大悪行であると
思った故か、何者の仕業か、落書があった
『子を殺し 親に添てぞ追出す かかる心を武田とや云』
『当代記』
151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/27(土) 21:02:49.55 ID:VWMlXOBe
武田の御曹司としての自覚もかなり強かったみたいだし、義信が家中をまとめて勝頼が先陣を切る武田家ってのも見てみたかったなあ
義信は勝頼をだいぶ目にかけていたって話が過去に書かれていたから案外うまくいったんじゃないかと思うけど
153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 22:36:37.28 ID:V2ZQMWZW
>>151
義信-勝頼間の感情が悪くないとしても、重臣や国衆がどう反応するか。
下手をすれば義信派と対立するor対立した国衆に担がれた勝頼が諏訪で挙兵とか、なりかねん。
154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 03:15:49.45 ID:WHFvIAdA
そうなるには義信の治世が最悪じゃないとな
602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 04:33:50.85 ID:dDz2W3gf
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた
「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」
この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。
謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った
「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。
御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。
(松隣夜話)
義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。
604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:35.13 ID:T1G3qkQP
>>602
信玄の謀略くさいね
607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:14:53.67 ID:u69+w5aj
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ
甲州の穴山梅雪が越後の上杉謙信に対して、越後北の庄龍峰寺まで、空庵という僧を指し寄こした。
彼はこのようなことを伝えた
「いささか故あって、武田信玄は近来、総領の太郎義信を押し下し、庶子である伊奈四郎(勝頼)を
後継として立てようとしています。そのいざこざが猶も止まず、内戦に至らんとする機が既に顕れています。
そういう事であるので、謙信公が義信を養子としてお取り立てに成って頂ければ、梅雪が彼を連れて越後へ
罷り越します。信玄の家中にも四、五名が義信を支持しております。ですので更科より侵入されれば、
信州は大方、謙信公のお手に入るでしょう。これによって多年の御願望である、村上義清を本領に帰還
させる計策も成すことが出来るでしょう。」
この口上を聞いた謙信公の近習である諸角喜介、本郷八左衛門は、次の間に控えていた先手七組の諸老に
相談した。七組の衆は
「これは大吉の事である。甲州を謀る術の便りなのだから、早々に謙信公へ御披露すべきである。」
との意見であったので、諸角、本郷両人は謙信公の御前に罷り出て委細報告した。
謙信公はこれを聞くと「その僧をここに召し出すように。直答するべし。」との仰せであったので、
それに従い間もなく空庵は御前に参り謁見した。謙信公は空庵にこのように言った
「御坊、よく聞いて梅雪に伝えるように。
義信の使いを以て信州を取れとの義、この謙信には合点できぬ。どうしてもそれが必要なら、私は
人手を借りることはない。義信はまだ若いので仕方がないが、梅雪は何故にこれほどうつけたる言葉を
出すのか。身を寄せる所がないからそのような事を頼み入るという話であれば、この謙信としては何とも
慮外であると言わざるを得ない。
御坊、その黒衣に免じて、今回は無事に帰す。すぐに立ち去れ。(御坊黒衣に対して今度は無事に帰すとく去れ)」
そう、きつと白眼で睨むと、空庵は色を失って走り去った。
(松隣夜話)
義信事件に関して、こんなお話もあったのですね。
604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:11:35.13 ID:T1G3qkQP
>>602
信玄の謀略くさいね
607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 15:14:53.67 ID:u69+w5aj
>>602
上手く行けば儲けもの、失敗しても義信処分って感じ
188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。
しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。
子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。
(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)
そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)
また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。
(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。
(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)
後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)
――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』
「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる
189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて
191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。
しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。
子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。
(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)
そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)
また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。
(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。
(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)
後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)
――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』
「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる
189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて
191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで
21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事
御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。
一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。
一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。
一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
“輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。
一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。
一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
本卦の所きれて見えず」とある)
一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。
一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。
一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。
一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
して差し上げなされたのである。
――『甲陽軍鑑』
「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね
信玄公御時代諸大将之事
御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。
一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。
一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。
一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
“輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。
一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。
一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
本卦の所きれて見えず」とある)
一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。
一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。
一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。
一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
して差し上げなされたのである。
――『甲陽軍鑑』
「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね
263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。
その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。
さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。
「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」
――『当代記』
264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。
その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。
さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。
「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」
――『当代記』
264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?
155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 16:02:25.95 ID:G+nl4ji6
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を
攻撃したが迎撃され、逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。
この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、
記載していない。
謙信は
「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。これは我が油断のためである。」
と、後々まで無念に思い悔しがった。
ところが、本庄繁長と長尾藤景がこれを可笑しく思い、若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を
批判した。
このため本城も長尾も謙信の気に背き、謙信は本庄に、長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長は長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に
反旗を翻し籠城を行うのである。
(北越太平記)
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を
攻撃したが迎撃され、逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。
この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、
記載していない。
謙信は
「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。これは我が油断のためである。」
と、後々まで無念に思い悔しがった。
ところが、本庄繁長と長尾藤景がこれを可笑しく思い、若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を
批判した。
このため本城も長尾も謙信の気に背き、謙信は本庄に、長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長は長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に
反旗を翻し籠城を行うのである。
(北越太平記)
925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:33:46.00 ID:WLpP+f1l
ちょっと武田家のマイナーネタを
(1/2)
永祿七年(1564)、駿河侵略に異を唱えた嫡男義信を捕えて監禁し、翌年正月に飯富兵部を自害させた事件の時
当時、義信に近習として使えていた八十騎も同様に、処刑または追放されていた
これらは義信衆といわれ、いずれも優れた若武者で構成されていたうえに
義信を慕い傾倒していた者が多かったので、信玄もやむなく処断するしかなかったという
義信衆で追放された者の中に、雨宮十兵衛家次 という若い武士がいた
彼は義信の妹が嫁いでいる、小田原の北条家に身を寄せた
とりあえず、そういった関係もあったので北条家は十兵衛を快く迎えたという
926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:34:50.13 ID:WLpP+f1l
(2/2)
で、少し後のことになるが、この十兵衛
合戦ごとに実に良く戦場を駆け回り、氏康・氏政親子から3年間で感状を7通貰った
しかも手柄のうち4つが一番槍という暴れっぷり
その噂は山間を越え、高坂弾正の耳に届く
これに感心した弾正は、すぐに信玄に言う
「お館様、義信様のご家人には、罪があってないようなものでございます
雨宮十兵衛家次と申す者、小田原に仕えて短き間に感状を7通もとりました
武士のほまれでございましょう」
「ふむ」
「そのことで罪は消えていると思います
呼び戻し、わたくしの隊に預けて頂けませんか?」
信玄も、あたら若き義信衆を無下に切り捨てたことに未練があったのだろうか
弾正の言にはすぐに返答した
「そうだな、そのほうの好きにいたすがいい」
ただちに、高坂弾正より呼び戻しの使いが飛び、十兵衛は槍を担いで古巣に戻ってきた
義信衆八十騎の中で再び帰参の陽の目にあったのは彼一人だったという
なお、この雨宮十兵衛は村上義清の傍流で、家紋も同じかつ出自は信州、現長野県更埴市付近、
つまり、“川中島”近辺
実際、第4次川中島合戦にて上杉謙信が千曲川を渡った場所は
“雨宮”の渡しと呼ばれ、その近辺には雨宮十兵衛家次の菩提寺と、雨宮日吉神社が今でもあります
927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:48:54.44 ID:/WujR3c5
いい話か…?
929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 01:02:10.44 ID:aCFDZqDc
愛人には甘い信玄であった
ちょっと武田家のマイナーネタを
(1/2)
永祿七年(1564)、駿河侵略に異を唱えた嫡男義信を捕えて監禁し、翌年正月に飯富兵部を自害させた事件の時
当時、義信に近習として使えていた八十騎も同様に、処刑または追放されていた
これらは義信衆といわれ、いずれも優れた若武者で構成されていたうえに
義信を慕い傾倒していた者が多かったので、信玄もやむなく処断するしかなかったという
義信衆で追放された者の中に、雨宮十兵衛家次 という若い武士がいた
彼は義信の妹が嫁いでいる、小田原の北条家に身を寄せた
とりあえず、そういった関係もあったので北条家は十兵衛を快く迎えたという
926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:34:50.13 ID:WLpP+f1l
(2/2)
で、少し後のことになるが、この十兵衛
合戦ごとに実に良く戦場を駆け回り、氏康・氏政親子から3年間で感状を7通貰った
しかも手柄のうち4つが一番槍という暴れっぷり
その噂は山間を越え、高坂弾正の耳に届く
これに感心した弾正は、すぐに信玄に言う
「お館様、義信様のご家人には、罪があってないようなものでございます
雨宮十兵衛家次と申す者、小田原に仕えて短き間に感状を7通もとりました
武士のほまれでございましょう」
「ふむ」
「そのことで罪は消えていると思います
呼び戻し、わたくしの隊に預けて頂けませんか?」
信玄も、あたら若き義信衆を無下に切り捨てたことに未練があったのだろうか
弾正の言にはすぐに返答した
「そうだな、そのほうの好きにいたすがいい」
ただちに、高坂弾正より呼び戻しの使いが飛び、十兵衛は槍を担いで古巣に戻ってきた
義信衆八十騎の中で再び帰参の陽の目にあったのは彼一人だったという
なお、この雨宮十兵衛は村上義清の傍流で、家紋も同じかつ出自は信州、現長野県更埴市付近、
つまり、“川中島”近辺
実際、第4次川中島合戦にて上杉謙信が千曲川を渡った場所は
“雨宮”の渡しと呼ばれ、その近辺には雨宮十兵衛家次の菩提寺と、雨宮日吉神社が今でもあります
927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:48:54.44 ID:/WujR3c5
いい話か…?
929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 01:02:10.44 ID:aCFDZqDc
愛人には甘い信玄であった
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