かかる心を 武田とや云

2016年10月30日 20:57

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?

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上杉謙信、武田義信への不覚

2013年04月04日 19:51

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 16:02:25.95 ID:G+nl4ji6
永禄4年(1561)の第4次川中島合戦の後半において、上杉謙信は武田信玄の嫡男・義信の軍を
攻撃したが迎撃され、逆に広瀬という場所まで追い討ちされた。

この時の武田義信の働きは比類ない物であったが、これを甲陽軍鑑の作者は知らなかったのか、
記載していない。

謙信は

「若武者の義信に遭って不覚を取ったのは、一代の落ち度であった。これは我が油断のためである。」

と、後々まで無念に思い悔しがった。

ところが、本庄繁長長尾藤景がこれを可笑しく思い、若気でもあったので、謙信のこの合戦の模様を
批判した。

このため本城も長尾も謙信の気に背き、謙信は本庄に、長尾藤景を討つようにと下知した。
本庄繁長長尾藤景を謀って招き、これを討ち取った。
しかし、それでも謙信は本庄繁長を憎んだ。このために後年(永禄11年)、本庄繁長は謙信に
反旗を翻し籠城を行うのである。
(北越太平記)





雨宮十兵衛家次の帰参

2011年06月07日 00:01

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:33:46.00 ID:WLpP+f1l
ちょっと武田家のマイナーネタを
(1/2)


永祿七年(1564)、駿河侵略に異を唱えた嫡男義信を捕えて監禁し、翌年正月に飯富兵部を自害させた事件の時

当時、義信に近習として使えていた八十騎も同様に、処刑または追放されていた
これらは義信衆といわれ、いずれも優れた若武者で構成されていたうえに
義信を慕い傾倒していた者が多かったので、信玄もやむなく処断するしかなかったという

義信衆で追放された者の中に、雨宮十兵衛家次 という若い武士がいた
彼は義信の妹が嫁いでいる、小田原の北条家に身を寄せた
とりあえず、そういった関係もあったので北条家は十兵衛を快く迎えたという


926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:34:50.13 ID:WLpP+f1l
(2/2)

で、少し後のことになるが、この十兵衛
合戦ごとに実に良く戦場を駆け回り、氏康・氏政親子から3年間で感状を7通貰った
しかも手柄のうち4つが一番槍という暴れっぷり
その噂は山間を越え、高坂弾正の耳に届く

これに感心した弾正は、すぐに信玄に言う
「お館様、義信様のご家人には、罪があってないようなものでございます
雨宮十兵衛家次と申す者、小田原に仕えて短き間に感状を7通もとりました
武士のほまれでございましょう」

「ふむ」

「そのことで罪は消えていると思います
呼び戻し、わたくしの隊に預けて頂けませんか?」

信玄も、あたら若き義信衆を無下に切り捨てたことに未練があったのだろうか
弾正の言にはすぐに返答した
「そうだな、そのほうの好きにいたすがいい」

ただちに、高坂弾正より呼び戻しの使いが飛び、十兵衛は槍を担いで古巣に戻ってきた
義信衆八十騎の中で再び帰参の陽の目にあったのは彼一人だったという



なお、この雨宮十兵衛は村上義清の傍流で、家紋も同じかつ出自は信州、現長野県更埴市付近、
つまり、“川中島”近辺
実際、第4次川中島合戦にて上杉謙信が千曲川を渡った場所は
“雨宮”の渡しと呼ばれ、その近辺には雨宮十兵衛家次の菩提寺と、雨宮日吉神社が今でもあります




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:48:54.44 ID:/WujR3c5
いい話か…?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 01:02:10.44 ID:aCFDZqDc
愛人には甘い信玄であった