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千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。

2019年07月24日 16:34

千利休   
109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:50:46.96 ID:OySZ559h
千利休がまだ与四郎と名乗っていた頃、武野紹鴎の茶会に参加することを望んでいたが、ずっと
呼ばれることはなかった。与四郎は袴と肩衣をその時のためだけに用意したのだが、駄目であった。

武野紹鴎が四畳半の茶室を作った時、堺の南北の誰もが、その座敷開きに呼ばれることを心待ちに
していたが、誰も呼ばれること無く、だた「千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。」との使いが有った。

これに与四郎は「忝ない事ですが、明日は伺えません、明後日に参ります。」と返答した。
紹鴎は「それでは明後日お出で下さい。」と応じた。

与四郎は直ぐに夜通しで褊綴( 法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを
折衷して、十徳のように製した衣。)を取りに遣わし、僧体になって紹鴎の元に赴いた。
これに紹鴎は「さても、さとも」と感心されたという。

この時に名を『宗易』としたのだという。

(三斎伝書)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 12:02:48.51 ID:0lxTEov8
紹鴎すごいんやな
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茶の湯の歴史について

2018年09月24日 17:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。

信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。

武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。

千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。

居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。

その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。

本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。

(士談)

茶の湯の歴史について


利休の才

2017年10月06日 17:25

千利休   
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:34:10.18 ID:8zUhQpLS
千利休は茶について、武野紹鴎に学んだ。

紹鴎はある時、利休の才を試みようと、密かに人に命じてその庭を掃除させ、
その後、利休に「わが庭を掃除せよ」と命じた。

利休が紹鴎の茶亭の前に行くと、地面は拭うがごとく掃き清められ、わずかの塵すら留めず、
木々の緑を鮮やかに照らしていた。そこには利休が手を加える所はなかった。

しかし利休は木々の間に入り、一本の松を揺らすと、落ち葉が風に翻り、点々と地に落ちた。
これによって風情、一段と増した。

そして利休は紹鴎に伝えた
「謹んで命を完了しました。」

武野紹鴎はこれを見て、利休の奇才に感じ入り、茶における様々な秘訣を伝えた。
こうして利休は終には、茶博とまで呼ばれるに至った。

(今古雅談)



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:45:40.11 ID:M/gUdZAy
いいね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:39:59.42 ID:W5QFadg9
むかし、掃除した浜辺にわざわざゴミを撒き散らしたテレビ局がありましてね
それを回収する様子を放映してましたな

趣向はまったく違うがそれを思い出したw

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:41:45.09 ID:f5o6L3Z6
茶亭の前に行くとすでに掃き清められ手を加えるところがなかった利休は
松の木を揺らすなど激しい威嚇行動をとった

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 15:47:25.82 ID:bAHcXAIl
ゴリラかよ
たしか六尺の大男だったよな

茶の湯者と数奇者

2014年12月21日 17:34

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 09:58:07.04 ID:E91JbBFN
四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の武野紹鴎の雑談を聞いたと私(高坂弾正)に語った。
それによると、数奇者と茶の湯者は別なのだという。

茶の湯者というのは手前よく茶を点て、料理よくして、いかにも塩梅良く茶湯座敷にて振る舞いをする
人の事を言う。

さてまた、数寄者というのは、振る舞いが一汁一菜の粗末なもので、また茶も雲脚(品質の劣る抹茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名づけて呼ぶのだそうだ。
元来、数寄とは禅僧から出た言葉であるため、そのようなのだという。

仏教諸宗が仏語を大切にするのに対し、禅宗は仏心といって意地を肝要としており、
誠の心の多き志を執り行う人の点てる茶を、数寄者の振る舞いと呼ぶのだ。と言ったそうだ。

(甲陽軍鑑)




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 10:27:43.20 ID:E3XGtuvH
山上宗二に数寄者と呼ばれた三好実休の評価が爆あげやな。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 14:32:33.32 ID:7ipULcLW
調べたら、伊勢物語にも数寄者という言葉が出てたようだが

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 15:34:01.64 ID:vBhL3OLv
ヨシ、おら天下一のスキモノになる!

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 15:43:30.82 ID:ad3ek2aq
自重して下さい宗麟さん

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 16:13:31.06 ID:dwZE2B/I
義統の分も全部宗麟のせいにされてそうな気もする

大内滅亡のこと

2013年04月07日 19:02

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:46:13.00 ID:PtH2bR3D
中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、この御家が滅んだ様には、
こんな事が有った。それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて
点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放った。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。
そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが森(毛利)殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が
毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏し、陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て
陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。
(三好記)

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話である




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 16:55:51.90 ID:lWQzATh/
毛利が13ヶ国・・・だと

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 17:25:42.09 ID:QgSSx+3i
大内16ヶ国って確実に大友と尼子の領地も入れてるだろ

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:28:00.18 ID:WEgCBbGA
陶が居なきゃ、元々大内は持たなかったんじゃないの

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:01:24.04 ID:6e0cDLXg
最後の当主<筒だっけ

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 21:37:29.78 ID:CrUnkdXS
>>196
んなこともねえだよ。内藤とか実績のある重臣は他にもいる。
毛利は陶とやる時にそいつらを切り崩すのに全力を突っ込んでる。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 23:13:19.35 ID:jTQp3WsN
てか、元就は隆房につく気満々じゃなかったっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 00:24:39.86 ID:mnZw7MK7
毛利側資料によれば、陶から義隆を諌めるために隠居させ、嫡子に跡を継がせるから協力して欲しい、という要請があって応じたけど、蓋を開けてみたら主殺しだったので引いた、ってことになってる。
かけらも信憑性無いけどな

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 07:21:10.48 ID:LZJGEpGb
>>199
元就は陶につくと見せかけて他の国人調略のために時間稼ぎしてた
反旗翻してからの行動が非常に鮮やか

ついには茶博士の名を得ることとなった

2012年12月10日 19:51

千利休   
735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 18:53:51.03 ID:MgMcFtCU
千利休武野紹鴎に茶を学んだ。紹鴎はその才を試してみようと思い、
僕に命じて庭を掃除させ、その後に利休にも庭の掃除を命じた。

利休が庭を見ると掃除が行き届いておりどこにも手を下すべき所がなかった。
すると利休は林の中に入った。利休が試しに一本の木を揺らすと、落ち葉が
風に舞って地に点じ、庭は一段と風情のある味わいになった。

そして利休は紹鴎に「命を終えました」と告げ、庭を見た紹鴎は利休の奇才を
感じた。このために利休は紹鴎からことごとく秘訣を授けられ、ついには
茶博士の名を得ることとなった。

――『日本史伝文選(芸苑叢話)』




737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 21:36:40.40 ID:C3FsAhZV
>>735
有名な話の気がしたから既出でないかみてみたが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1787.html
ちょっと似ている話しかなかったか
(高山右近、古田織部、利休の話)