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宍戸氏の毛利氏への帰順

2022年12月07日 18:42

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/06(火) 22:52:48.42 ID:bvkRYqkY
朝野雑載」から宍戸氏の毛利氏への帰順

宍戸隆家の先祖は源義朝と妾との間に生まれた八田知家であった。
平治の乱の時に源氏が禍にあったため、藤原氏の子として難を逃れ、のちに頼朝に属した。
その八代孫は安芸に下り、宍戸朝家と号した。
それからまた数代の子孫である宍戸元源は甲立城(五龍城)を領有し、毛利元就の郡山城、高橋権頭(高橋興光?)の猪掛城と鼎立を成したがいに争っていた。
あるとき毛利元就は甲立城に出向いて宍戸元源と対面し
「我が祖先・大江広元は源頼朝の家臣であり、御辺の先祖は頼朝の兄弟であります。
それなのに御辺に対して戦をするのははなはだ無礼といえますので、降参いたします」
と言うと元源は大いに感動し
「御辺は我より大身であるから降参とはもったいない。我らが降伏いたしましょう。
どうか嫡子隆家(宍戸隆家は元源の孫)を婿として取り立ててください(元就の娘の五龍局を正室にする)」
このときから宍戸氏は繁栄し、隆家の三女(清光院)は毛利輝元の内室となり、隆家嫡子の宍戸元秀、その嫡子の宍戸元続も八万石を有し朝鮮にて数度功名を成した。
元続の娘を輝元の養子とし、小早川秀秋に嫁がせた。



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/06(火) 23:50:43.00 ID:EFubGdPK
獅子泥鰌

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/07(水) 11:50:22.25 ID:ZltX1f5j
嫁が不細工だと整形するしか手がない子孫カワイソス

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/07(水) 12:34:53.74 ID:14zCj7Y+
不細工なのは五龍局と仲の悪かった、新庄局(吉川元春の妻)
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頼朝河田を斬るは天下定まるの時なり

2022年03月04日 19:39

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/01(火) 20:49:46.34 ID:tG55Aeij
朝野雑載」から
若山の城(陶氏の本拠地)に陶尾張守(晴賢)が嫡男、五郎(長房?鶴寿丸?)たて篭もりける。
陶五郎が家人、野田寺内(野上房忠?)、五郎を殺し、その頸を元就へもちきたる。
昔頼朝奥州の泰衡を討ち給いしとき、泰衡が家人河田次郎という者、主君を討ちてその頸を頼朝に献ず。
頼朝河田が悪逆をにくみて斬る。
しかれば元就も野田寺内を誅せらるべきなるに、何とて助けおかれけるぞ。
頼朝河田を斬るは天下定まるの時なり。
元就野田寺内を助けらるるは、国家いまだ定まらざるの故なり。

長房は自刃だし、鶴寿丸は野上房忠に殺されたとはいえ、房忠は主君に殉じてるしよくわからない



釜ヶ淵の化生

2022年02月19日 15:52

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/18(金) 21:17:33.64 ID:Y94FHw/O
天文三年(1534)、芸州吉田、釜ヶ淵に化生の者が出て、近辺の男女児童を掴んで淵に引きずり込んだ。
民間の者達は恐れ、この地域の往来が絶えた。
大江(毛利)元就はこれを聞くと、「早く退治すべき」と下知をしたのだが、家中の者達は
「大蛇か、鬼のたぐいか」と衆議喧々にして、あえて進み出る者は無かった。

この時、荒源三郎元重という者が、「大蛇、鬼の類であっても、壮勇を以て退治すれば容易いことだ。」と、
この役目を引き受けた。彼は身長七尺(約210センチ)、十人力と言われる大男で、太刀を取って
釜ヶ淵に行き、裸に成って下帯に太刀を差し、水の中に入ると

「この淵の化生、確かに聞け!人民を悩ますその咎によって殺害の為、荒源三郎元重、主命を
承ってここへ来た。出て勝負せよ!」

そう大音に呼びかけると、淵の底鳴り響き、逆波立って水は岸に溢れ、源三郎の両足が水中より
ひしと取られ引きずり込まれんとした。源三郎は足を掴んでいるその両手を取って引き合ったが、
まるで山の如く動かなかった。その者の面を見ると、それは淵猿(河童)であった。

源三郎は兼ねて『淵猿は、頭頂部のくぼんだ所に水があると力があるが、水のないときは力がない』と
聞いており、これの頭を執ろうとしたが、滑って非常に執りにくかった。しかしどうにかして終に
頭を掴み、逆さまにして振り回すと、頭上の水が溢れて力が弱った。これを持ち上げて岸に上がり、
縛って城中へ連れ帰った。

元就は源三郎の勇猛を賞して、加増五十貫、来國行の太刀を賜った。しかしこれに源三郎

「私は数度の戦で敵を討ち取りましたが賞禄は少なく、ですが更に不足とは思いませんでした。
今、この畜類を生け捕ったとして過分の恩賞を頂くのは、却って不快です。」

そう打ち笑って、恩賞の刀を置いて退出した。源三郎にとってその功は誇るべきものでな無いのだろう、
と云われた。

志士清談



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/18(金) 21:53:49.13 ID:lZwU7FsR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3822.html
柳田國男も書いてるようだから調べたら
山島民譚集の「河童駒引」に「老媼茶話」にその話があると書かれていた。(自分が読んだ「老媼茶話」にはなかったが)

ついでに柳田國男によれば、
この話は仁徳天皇の御代に吉備の川島河の縁において笠臣の祖縣守という勇士がミズチを退治した話とよく似ているが偶然だろう。
「武家高名記」「陰徳太平記」「志士清談」にも同じ話があり(南方熊楠氏のご教示による)
芸藩通志の高田郡吉田村釜淵の条には、荒源三郎(井上元重)がカワワラワを生捕りした故跡と書かれている、らしい

山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

2022年02月10日 15:30

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 21:13:26.24 ID:Dw9mTBTQ
山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

山本勘助物見の松より南西の方向、下久堅虎岩と接する尾根筋一帯に提灯づるねとか提灯ずるねと呼ばれる公園がある。
勘助は物見の松に上って神ノ峰城の様子を偵察すると夜襲をしかけて城に火を放って一気に攻略したという。

この時、城の西側に位置するこの場所に沢山の提灯をつるして大軍が居るように見せかけて、敵の注意をこちらに引きつけ、城の東側から
攻め込んだともいわれている。

余談ではあるが同じような逸話が毛利元就にもある。

謀神の佐東銀山城攻め
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8468.html


こちらも、毛利元就が1541年に安芸武田氏が支配する堅牢な佐東銀山城を攻めるのに搦手に位置する長楽寺(広島市安佐南区)を調略したのち、
城の大手門側に位置する太田川へ地元住民に油に浸した千足の草鞋を作らせて夜に火をつけて流し、城兵の注意を大手門側に引き付けたのち、
搦手から攻め上って城を落としたというものである。
ただの偶然なのか後世にどちらかを参考に作られた逸話なのか?

面白いのは元就が作らせた千足の草鞋から来る千足、勘助が提灯を吊るさせたづるね(ずるね=尾根を意味する)
いずれも現代に地名として残っているのである。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



「大友興廃記」より「城中水に渇すること」

2022年02月09日 18:18

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:15:24.76 ID:EhFZQJMw
まともな白米城伝説を

大友興廃記」より「城中水に渇すること」
永禄十一年十月、毛利の吉川小早川が中国兵十万余騎をもって立花の城に攻めてきた。
立花の城代は鶴原掃部助、田北民部であったが、大友宗麟は戸次道雪、臼杵田原などに筑後の蒲池などを加えて五万五千八百騎の勢力をもって中国勢の後に陣を取らせた。
こうして18余度の合戦があったが立花の城はよく持ち堪えた。
ある時、城から「五月雨では物具にもかびが生えることでしょう、笑止なことです」ということで
「五月まつ はなたちばなの 城ぜめは くさるよろひの 袖の香ぞする」と送った。
一方中国陣からは「すぐに落城の嘆きが思いやられていたわしく思います」ということで
「あはれおもふ 人は矢倉の 夜の雨に なみだをそふる 山しろのうち」と返してきた。
その後、城中は水に渇し、久しく雨も降らなかったため人馬ともに難儀であった。
中国方は金ほりにたくみなものが多く、水の手を全て掘って絶ってしまっていた。
鶴原、田原の下知で白米に灰を入れ、山城高いところで多くの馬を出して湯洗いの真似をした。
(灰が混ざった白米はそのまま馬の飼料になったという)
これはまだ城には水があると敵に見せるための謀であった。
のちには米を袋に入れ、岩根の湿気のあるところに埋め置き、とりあげ、煎って食べた。

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 22:33:26.16 ID:EhFZQJMw
ここから先はいい話

その後、水もなくなり勇力も尽き、こうなれば討死覚悟で撃って出よう、それこそ勇士の本意であろう、しかしその前に宗麟公に申しておこうと
宗麟の元に吉田弥六兵衛という忍びの上手を遣わしたところ
宗麟「思う仔細あり、早々に降参すべし」と仰られた。
城中に戻った吉田からそのことを聞いた鶴原・田北は吉川・小早川に降参した。
なお降参兵は元就の命令でみな宗麟の陣へ送り届けられた。
その後、大内の生き残りの大内輝弘・武弘の親子が宗麟より送られた三千余の兵とともに周防・山口に打ち入ったところ国人の多くが輝弘方についたため、毛利は劣勢となった。
こうして毛利は立花城を引き払い中国に戻ることになったが、誰も後に残ろうと言い出すものはなかったため、御一門の端ということで桂能登(元澄)が残ることになった。
その時、坂田新五左衛門と浦兵部という勇士が後に残ることをかってで、都合三百余人で籠城し、ほかの兵が中国へ戻るまで大友軍の足止めをした。
毛利兵は山口の小郡というところで輝弘軍を破り、輝弘は切腹した。
こうして役目も達せられたため、城中に残った将は切腹しようとしたところ
攻めての道雪は「中国勢残り居候をうちはたさんこと、籠鳥をころすと同じ。今度残り候者は、元就以来用に立ち候ども者なり。
このたびわずかの人数にて敵国に残りし志の勇者を、むざむざと打ち果たすこと、不便の至りなり。
鶴原、田北がこともあれば、中国へ送り届けしかるべき」
と城中に「忠節の至り感じ入り候。城中の衆、城を渡し、中国へおかえりあるべき」と道雪が申したところ、城中は同意した。
こうして籠城していた兵は道雪の志に感動しことごとく中国へ帰還した。
道雪は立花の城を任せられ、それ以来、立花道雪と名乗った。



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 22:40:45.56 ID:7DijzLVu
>>326
東伊豆の河津城には少しだけ違った白米伝説がある。

この城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻戦で落城したと云われる。
独立した山頂に在って水が乏しい城で、伊勢軍の火矢から起きた火災を消す水が無い。
そこで代わりに大量の白米をかけて消火した、と。

なお、
河津城の考古学調査に於いて十五世紀末期から十六世紀初頭の出土遺物群に不自然なほど多量の炭化穀物粒が認められている。

「義鑑公御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」

2021年12月26日 15:58

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 23:13:53.37 ID:fzoKlB+k
大友記」より「義鑑公(宗麟)御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。

毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな



今そ引きる安芸の元就

2021年10月30日 16:25

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 15:00:27.07 ID://LSt/4J
出雲の白髪という城は山陰道の名城であり、この城に籠もる者は幼い童が白髪になるまで成長しても、
曾て落ちることのない城であるとして、白髪城と呼ばれたそうである。さらにこの城を毛利元就
攻めるという時、尼子方である城内の者たちは籠城を覚悟して糧米、馬料、塩、味噌に至るまで
よく貯えておいたため、月を超えて年を経ても、城内には倦労の気色も無く、却って折々切って出て
旺盛な武威を示した。このため、知謀深き元就も攻めあぐね、石見国の銀山より金堀子を召し寄せて、
白髪城本丸の下を目当てに穴仕寄を掘らせた。

この時、城中より何者であろうか、一首の狂歌を読んで洗骸の陣の外構に立てた

 元就は 白髪の糸にむすほれて 懸もかからす引もひかれす
 (毛利元就は白髪城に絡め取られて、攻勢にも出られず撤退も出来なくなっている)

元就は歌道が中国においてその名のある人であったので、即座に返歌をして、白髪の岸涯に立てられた

 義久か命と頼む白か糸 今そ引きる安芸の元就
 (尼子義久が生命線として頼っている白髪城の、その糸を今こそ引き切るのがこの安芸の元就である)

宍戸記

尼子側の狂歌を得意の歌道で見事に返した毛利元就のお話。



759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/31(日) 10:44:47.71 ID:K9T+0l0d
石見銀山が欲しくて本城を謀殺したら降ってた尼子方が‥
謀将のイメージあるけど結構失策多いね

「臆したる仰せかな」

2021年10月30日 16:24

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/30(土) 16:16:27.50 ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている



尼の子と成って以来

2021年10月25日 17:47

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/25(月) 16:28:47.23 ID:1KOF0XaZ
尼子の家は宇多源氏佐々木の一流、塩冶判官高貞五代の後胤である。塩冶高貞が讒死した時、三歳の
幼子が有り、八幡太郎と言ったが彼は母親の元から出され、密かに養育し、この時尼の弟子と成して
命を助け、その後出雲国に入り月山富田城に住し、やがて子孫が出雲、伯耆、因幡、石見、隠岐の五ヶ国を
領した。

尼の子と成って以来、家が再興された事により、氏を改め尼子と名乗り、この由緒を忘れない事を示した。
尼子家は山陰道の守護職に補任され、武威を他国に振るい、それだけではなく旗を山陽に動かし
備後、備中、安芸の大半に鉾先を傾け、関西に於いては大内尼子の両家に肩を並べる者は無かったが、
右衛門督晴久の代に至って逸遊を好み、治国撫民の徳を失い、蒙昧にしてそれまで親しかった者たちを
遠ざけ、他人を近づけ、君臣共に奢侈となり、花車風流のみにふけり、武道を忘れ文を試みず、
忠臣は志が齟齬する事で身を奉って退き、又は讒言に遭って死んだ。そのようであったので分国も
日々に侵食され、遂に家を失った。

嗚呼、尼子を滅ぼす者は尼子であった。元就には非ざる也。

宍戸記

尼子氏は近江国甲良荘尼子郷が名字の地とされていますが、先祖が尼に育てられたから尼子、という
話もあったのですね。



一芸もいらず、能もいらず、遊びもいらず

2021年10月22日 17:19

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 20:15:59.13 ID:KxVqndT3
立花の上手、歌道の達者、乱舞の者、盤上の名人以下が諸方より御音信して参り、
毛利元就は)それぞれ相当に御応対なされた。

御国内にはどの国にも遊民がいて一芸一能に携わる小人は多く、そのような者は
執心の稽古をおのずからさせられ、それぞれ御用の時に召し出された。

御一味、その他御弓箭の御手子衆などへは御内々にこのような小芸に執着しない
ように御下知されたという。その証拠に御自筆で置かせ遊ばされた御叶書の中に、

「一芸もいらず、能もいらず、遊びもいらず、歴(註:暦カ)もいらず、何もか
もいらない。ただ日夜共に武略調略の工夫が肝要に候肝要に候肝要に候肝要に候
(武略調略之工夫肝要に候/\/\/\)」

このように御覧遊ばされた御ヶ条があり、御読ませなされた時に承った。

――『老翁物語



706 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/22(金) 06:29:17.31 ID:Ue9qKs/X
立花(りっか)、生け花だけど、どうしてもたちばなと読んでしまうな

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 07:17:55.08 ID:kQyIZzfT
地元ではリッカって訓むけどな

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 08:04:07.84 ID:S1Fx+5pn
立花で愛称がりっかのタレントもいたような

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 09:20:26.08 ID:4zjk7nok
立て花と立花って違うのか
知らんかった

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 12:04:56.58 ID:SP5ugJnf
ミシンの話みたいに見える・・

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/22(金) 19:00:21.13 ID:sn46SWVM
立て花
たてばな
古立華ともいう。生け花の初期の写実的様式。供花,装飾花,挿花から,作品を重視し,花を挿す行為の法式化が成立した室町時代末,
15世紀後半~16世紀前半の生け花。形態を真,行,草に分けるとき,伝統的な供花 (三具足の挿花) は真として規則を重視し,
作品観賞の挿花は行,草として自由な創作を認めた。立て花の名手には同朋の立阿弥,文阿弥,寺僧の専慶 (→池坊 ) らがおり,当時の花道界を2分した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典



自分の場合、立花(りっか)って言葉を知ったのは大河ドラマ太平記の佐々木判官登場回ですね。

陶長房の滅亡

2021年10月21日 17:32

陶長房   
100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/21(木) 16:14:26.25 ID:vu/Oysxu
陶五郎長房は父入道(陶晴賢)を始め一門支葉、譜代恩顧の者までも芸州厳島に於いて
悉く討たれ(厳島の戦い)、また倉掛、沼の両城も没落したと聞いて、周防国都濃郡富田の
富田若山城に閉じ籠もるより術なく在ったが、これを聞いて毛利元就父子は、宍戸隆家、
小早川隆景は直ぐに富田表へ打ち出て若山城を囲んだ。

この時大内累代の臣である杉伯耆守重矩の二人の子、杉弾正重輔、同七郎正重は、去る天文の頃
父重矩が陶晴賢に殺されて以来、時節を以て親の仇を討つために豊前国箕島に在り、恨みを防州の雲に馳せ、
憤りを箕島の浪に漂わせ、時を窺い日を移していた所に、陶入道は厳島に於いて一族もろとも討たれ、
五郎長房も若山の城に籠もっているが、日を移さずそこも落城するだろうと聞き、杉兄弟は

「主君の讐、親の敵である晴賢を討てなかった事は心外であり口惜しい。剰え五郎に矢の一筋も射掛け
なければ天の咎もいかがであろうか。生前の面目、死後の恥、永々以て免れない。片時でも早く
打ち渡り、胸中の恨みを散じなければ。」

と、兄弟打ち連れて走るその様子は韋駄天の如くであった。すると前代報恩の者たちがここそこより
集まり、その勢百ばかりに成って、弘治三年(1557)二月二十二日、若山に駆け付け見ると、
若山城は毛利勢が取り囲み、旗幟が並んでいた。そこで杉兄弟は搦手へ廻ると、城中よりこれを見て、
彼等は下口より敵が来るとは考えていなかったため、この勢は必定大内義長からの加勢であると思い、
門を開けて彼等を入れた。杉兄弟は自身で謀る事を成さずに、安々と城に入ると、城中より切って出ると、
城を取り囲んでいた毛利勢は、城中に返り忠の者が出たのだと思い、我先にと乗り込むと、即時に城は
乘り落とされた。

五郎長房は山口に落ちようとして、徳地の庄まで落ちた所で、この地は吉見正親の領地であり、
郷民たちは蜂起して彼を通さず、よって徳地に於いて害された。こうして陶一族は根を絶ち葉を枯らした。
君を弑した悪逆の因果、不昧は臣たる者の咎である。

(宍戸記)



宍戸家の者共の志は、何れも健やかである

2021年10月19日 16:49

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/19(火) 16:02:22.60 ID:p7SjWLTJ
ではせっかくだから西国の話を

安芸国吉田郡山城の毛利元就と、甲立五龍城の宍戸元源は天文二年(1532)に和睦し双方音信を通じたが
未だ参会することは無かった。そして翌三年正月十八日、元就は年始の礼として五龍へ参った。

宍戸元源はこれを慇懃に饗応し終日物語などあった。元就は寵臣である粟屋右京、国司右京の
両人だけを留め置き、その他の人数は悉く郡山へ返し、主従三人ばかりが五龍に滞留した。
元源は元就が隔心無く人数を返したその志が健やかな事に感じ入り、打ち解けて終夜、軍法の評判、
隣国諸士の甲乙などを論じ、旧知のように睦まじく語り合った。

虎穴に入らずんば虎子を得難しと云うが、元就は言った
「我々がこのように別心無き上は、私の嫡女を貴殿の嫡孫である隆家殿に進め、親子の仲となれば、
一家の者共までも心安く申し合わせるようになるでしょう。元源殿がこれに同心して頂ければ、
本望何事かこれに及ぶでしょうか。」

元源答えて曰く
「その御志に、甚だ悦び入っております。私は既に老衰に及び、息子である元家に遅れ、隆家は
若輩であり、最も力なく思っており、私の方から時節を見てそれを申し入れようと考えていた所を、
それを遮って貴殿の方から仰せを承りました。これは実に深い知遇です。

元就殿には子息達も数多居られますから、今後隆家にも兄弟が多くなります。
隆家の事はすべて元就殿にお任せしますので、どうぞ御指南をしてください。
さあ、子孫長久の酒を進めましょう。」

そう云うと隆兼、元祐、元周、元久、その他親族衆が連座して山海の珍味を尽くし、甘酒泉のごとく湛え、
様々な料理を連ねて宴を催し、貴賤の別なく献酬交錯して酔を進め、夜もすがら乱舞して、元就は吉田へと
帰られた。

その後、吉辰を選び婚姻の礼を調え、吉田と甲立の境に仮屋を構え、毛利、宍戸の双方より出会い、
宍戸家側が元就嫡女の在る輿を請け取る事となった。毛利家より役人として、桂左衛門尉元澄、
児玉三郎右衛門就忠が付き従い、宍戸家よりは江田筑前守元周、黒井石見家雄が出た。

輿を据えて、桂元澄、児玉就忠が式対してこれを渡すと、江田元周は輿の側にスルスルと立ち寄り、
戸を開いて輿の中を望み見て、元就の息女に紛れ無き体を篤と見届けた上で元澄に向かい、
「請取たり」と答えた。

後でこれを聞いた元就は
「乱世の時であるのだから、元周の振舞いも理である。惣じて宍戸家の者共の志は、何れも健やかである。
我が家の若き者共はこれを見置いて手本にせよ。」と称賛したという。

これ以降、隣国の大半が元就に従うように成った。

宍戸記



ぜひ御供させてください!御許しくだされ!

2021年10月18日 16:50

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/18(月) 01:43:13.19 ID:iXhrryok
(吉田郡山城の戦いの時。大内氏・毛利氏と尼子氏の戦い)

あくる正月13日、また卯の刻に城中の勢3千余騎を城外に備えられる。
自身(毛利元就)は床几に腰掛け、敵軍を検見しておられた。陶(晴賢)
の郎等、末富志摩守は戦場見合のために打ち廻ったが、吉田勢が早くも
出たと見て急ぎ(大内軍へ)走り帰った。

元就朝臣の二男元春朝臣(吉川元春)は今年12歳になり給うが、今日
の戦場に供奉せんと走り出なさった。元就朝臣は井上河内守(元兼)に
「次郎を連れて帰れ」と仰せられ、(井上は)抱き奉って内へ入った。

元春は大いに怒り、太刀に手をかけすでに抜き打ちにせんとなさるので、
(井上は)力無く逃げ隠れた。

その隙に走り出て、「ぜひ御供させてください!御許しくだされ!」と
宣うので元就はにっこりと打ち笑い「それでは連れて行こう」と宣って
共に打ち連れて出なさった。

――『安西軍策



永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した

2020年12月07日 17:24

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/07(月) 16:44:25.42 ID:BqGHKMK4
山陰騒動多かりければ、京都より、尼子・毛利の和睦の勅使として、三宝院僧正義堯が派遣された。
しかし両軍、累年の遺恨が募る上は勅意を容れず、月日を移していた所、尼子右衛門督晴久が逝去したが、
その跡を子息の三郎四郎義久が継いで、なおも合戦は止まなかった。

このような所に、晴久(義久の間違いか)は内々に、備後の住人である和智又九郎豊郷(誠春)と
親しみ深く、彼と策を用い、永禄六年八月四日、毛利隆元を毒殺した。

これによって陸奥守羽林(毛利元就)は憤激し安からず、怨敵への憤りはいよいよ増し、
勅使も空しく帰っていった。

雲州軍話首

毛利隆元毒殺説ですね



476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/08(火) 17:18:06.63 ID:VXO61z9T
『史籍集覧』の第百八十六に「雲州軍話首」とあるが、冒頭には「雲州軍話の首(序)」と書いてあるだけなので
書名は「雲州軍話」が正しい。総目解題でも「雲州軍話」。
著者は南宗軒多々良一龍(後太平記作者)、尼子視点で書かれたとのこと。

竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した

2020年07月21日 18:10

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/21(火) 00:19:32.56 ID:kYKXU6n9
元亀二年毛利元就、芸州に卒去す。
嫡孫輝元家を継ぎ、二男、小早川隆景が家のことを執り行った。
竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した。
「その昔、大内氏全盛の時は、かの家に通じて家業を落とさなかった。大内は既に滅んで、毛利氏中国を呑む。
 我は初めより元就に志を運んだ。元就既に卒去し輝元その跡を継ぎ、今、義昭将軍は、輝元のもとにおわします。どうして弔い申さないでおられよう。」
かくして鍋島信生を使節とし、隆景に付いて義昭卿に通じられた。
将軍ことに御悦喜なさり、九州平均の命を隆信にくだされた。
隆景と信生は関係良好であったので、将来のことなど談ぜられ、信生は帰国された。
隆信は将軍の命を受けた後は、いよいよ弓矢の工夫を怠られることなく、九州平治の計略の外他事なかった。

肥陽軍記



【雑談】”三本の矢”の逸話について

2020年04月11日 14:48

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 04:17:37.43 ID:HBLqrn9K
>>958
学研のまんが日本の歴史か何かでそんなシーンを見たような気がする

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:26:27.70 ID:993hYZ3y
>>970
俺も

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 16:39:27.23 ID:wSTI+j0w
>>958
創作したやつが黒澤映画の「乱」を見てパクったんだろうな

厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ

2020年04月10日 17:53

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 00:58:54.03 ID:Z0cMNdBb
或いは曰く、毛利元就は陶晴賢が厳島に渡海することを聞いて、元就より、追手の物見を二人、
搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。

その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。

この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)

毛利元就記



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 07:38:28.78 ID:oP8U78Ec
>>963
神社をも利用する元就…

豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について

2020年04月08日 19:27

907 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:31.33 ID:7j1OFAgQ
毛利一門、その他大名は筑前に打ち出て立花の城拵え、普請手堅く相調え、秋月と対陣した。
そのような所に豊後国大友の軍兵二万余騎打ち出て立花に相向かった。そして大友の調略に、
大内義隆の落子が山口落城の時に母の懐中に抱かれ豊後国に落ち行き、その子が成人の後に
大内太郎左衛門尉輝廣(大内輝弘:(正確には大内政弘の次男・大内高弘の子))と名乗り、大友は
これを取り立て、大内家の諸浪人を抱え、その他手前の軍兵相添えて、都合一万二千余騎にて
毛利一門、および諸大名が悉く豊後(筑前の間違いか)に在陣した所で、周防国山口に討ち入り
築山に陣取り、高峯の城では毛利方の市川常吉が籠城した。

このような俄の押し寄せは思いもしなかったことで、城中には人数もなかったが、常吉は智謀を以て
城を堅固に保った。そのような中、市川常吉の子・少輔四郎は予てより高峯の麓に宅地を構え居住していた。
この少輔四郎が、大内太郎左衛門尉(輝弘)に一味したのである。常吉はこれを聞いて軍兵五十人を差し下し
少輔四郎を討ち果たした。これについて世間では常吉覚悟名誉の義と申された。

さて毛利元就の陣所に飛脚を遣わし、「山口如此」と注進すると、元就はこれを聞いて仰られた
「筑前立花へも豊後より猛勢打ち出て戦陣と成ることが告げ来て、また山口にこのような事が起こるとは
心もとない事である。さりながら山口の城には常吉を籠め置いてあるので、たとえ人数が無くとも
十日二十日は城は堅固であろう。立花に居る一門中、その他諸士悉く呼び戻し、この元就はここでそれを
待って山口に討ち入るべき。」(この時元就は長門国赤間関に在ったとされる)
そう宣われ、夜を日に継いでその手遣いをした。

元就は立花に仰せ遣わした
「その陣早々引き退くべきである。山口はこのような状況と成った。さりながらその陣の退き口は一大事の
事である。おそらく豊後より打ち出てきた軍兵どもが追尾し合戦に及ぶだろう。その事は言うまでもない。」

この旨が告げられると、在陣している毛利一門その他に、各々如何考えるかと尋ねられた所、宍戸隆家
申された
「只今のこの状況ではとかくに及びません。敵方が動き出す前に、日を移さず早々に各々引き退くべきです。
殿はこの隆家が仕りますので、それについてはご安心ください」
そう申したところ、吉川元春が申した
「隆家殿は一門を率いて退かれるべきです。この元春が殿を仕ります。」
これに対して、毛利隆元は言った
「元春は未だ若武者であり、隆家が殿をなされよ。」また隆元は「この立花の城一円を明け退くことは
無念の至である。只今はこのようになっても、何れも豊筑両国の事は捨て置かない。立花には名誉の士を
五、三人差し置く。」
として、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、坂新五左衛門就清の三人を立花の要害に籠め捨て置き、
各々一同に引き退いた。この時十二月二十九日であった。

宍戸隆家が殿を成した所に、退き口付近の豊後陣より追撃が千騎ほど、道五十町ばかり追い掛けてきた。
隆家は返し合戦して、追手の者百五十余打ち捨て、豊後衆は引き退いた。
これについて、宍戸隆家の事は申すに及ばず、その家中の者共についても『名誉の三合力』と讃えられた。
その中で隆家家臣の北野新左衛門は鑓下にて討ち死にし、以下二十六名が討ち死にした。

そこよりは心静かに毛利一門その他諸大名は、長門国の毛利元就の陣所に走り参り、かくて隆元は元就に
仰せになった
「今度、宍戸隆家が殿を成し、その三合力は比類ないものでした。それ故一門の者達、その他の軍兵も、
難なく退くことが出来ました。またこの隆元は、存ずる仔細在って、桂元重浦宗勝坂就清、彼ら三人を
立花の城に籠め捨て置きました。」

元就はこれを聞くと「隆家の武勇により一門その他が堅固に退いたこと、三合力浅からず、これもひとえに
当家の武運が長久であるという事なのだろう。また三人を立花に籠め置いた事は、隆元がこの元就の考えを
よく理解しているからであって、軍法はかくこそ有るべきである。そしてかの三人は定めて切腹するであろう。
武士の習いとは言いながら、大き中にただ三人残り置いて切腹すべきこそ、神妙千萬、不憫もまた至極である。」
そう感涙を流された。これを見る人聞く人も、皆感涙を流した。そうではあっても、弓矢を取る者の面目であると
各々感じ入った。

908 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:47.06 ID:7j1OFAgQ
さて、立花の城では大将御引退の後、その夜は残った三人が覚悟し、思い思いのあり方で様々に物語などした。
坂新五左衛門申しけるは「この上は武勇の沙汰も無いだろう」と、武具を脱ぎ置き、帯を解き、焚き火に
当たって背をあぶった。
浦兵部は「死するとも歯噛みという下説がある。生頸を抜かれるのも口惜しい次第である」と、用心を呼びかけ
夜廻りをした。
桂右衛門太夫が申しけるは「この城の状況では、中々今夜は押し寄せて来ないだろう。明日、潔く切腹すべし。
このような寒夜に兵部丞が夜廻りするのは無益である。方々、家人を召し連れてこちらに入られ、酒を一つ
まいられよ。新五左衛門、背あぶりも大概にするのがいいぞ。さあ、こちらへ。」と呼び入れ、
「このような時節であり、座の高下は要らぬ。うち乱れて酒を飲もう。」と夜もすがら酒宴した。

新五左衛門が申した「それがし、宵より焚き火に当たっておりましたが、ここでひとさし、舞いましょう。」
そう言ってこの時出合面と錦戸切を舞った。一入の舞の出来に、上下感じ入った。

そのうちに漸次天は晴れ明け、かくて城中より敵方へことわりを申した
『毛利一門、仔細有って悉く退きて候。ここにある拙者たちは、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、
坂新五左衛門就清、城番として罷り在り候。どうか使いを出して頂きたい。切腹仕り、その上で
御城御請取あるべし。』

このように伝えると、敵方よりこのように申してきた
「これより申す事が、御返事となるでしょう。各々敗軍されたように見及び候。さては両三人、その番として
残られたか。名誉の義共に候。しかし御切腹は中々有るまじき義にて候。何方へなりとも、御望み次第に
送り参らすべし。」

それより互いに使者を立てて、「そういう事であれば羽片(博多カ)へ退くべし」と云い、敵方は軍兵百人相添え
彼らを羽片へ送った。三人は心静かに退き、名誉の義と申された。これは筑前国立花の物語である。

毛利元就記

いわゆる多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:19:23.69 ID:JgMZTM7o
>>907
元就って九州だと苦戦してるイメージあるなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:43:21.26 ID:oQ0XNDO8
西へ行っても備前や播磨は切り取れたと思うけど、畿内大名や本願寺とかは破れなかったと思う
秋月とかは調略してたらしいが、尼子や大内の残党残してたのが運の尽き

921 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/08(水) 20:52:46.13 ID:TpSfU/aE
元就はしゃらくさいことしか言わないな
嫌われてたのも当然というべきか

943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 01:09:40.24 ID:jWZEcqZB
>>907
大友家も異常だよね
この戦いのあとは家老3家に豊後1国を任せちゃうとかさ
下剋上の時代にその忠誠度はどこから来てるのか謎すぎる

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 11:27:16.20 ID:wni+Wks1
>>943
上杉謙信と一緒で国政を司るのが嫌になったんじゃねーの?
キリシタンに傾倒するのもこの辺からでしょ
そもそもコイツに戦国大名としての器はないよ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 12:07:58.69 ID:jWZEcqZB
>>947
確かに宗麟は当主になれたのは後の重臣たちのおかげという負い目があったのかもな
配下が優秀すぎてお飾り当主になっていたのかも

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 13:05:44.59 ID:cs1WhzJ5
若い頃はボンクラ、二家老に擁立されたら強豪、二家老死んだらボンクラ
二家老がすごかっただけじゃね理論成立しちゃうよね

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 14:51:03.68 ID:wfT8RyTh
息子のダメさ加減がその説の後押しになりそう

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 15:53:36.03 ID:tmPlr+RY
二家老しんだあとの宗麟って完全隠居してて一切政策に関わってないってのが最近の研究じゃ?
あとキリシタンに傾倒してないって話と

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:02:20.64 ID:jWZEcqZB
>>951
信長と毛利せめる約束してたり秀吉に泣きついたり動きは活発だと思うけど

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:21:28.18 ID:tmPlr+RY
>>952
泣きつきはむしろ家臣たちが完全隠居してた宗麟に泣きついて一瞬だけ復帰してもらったようであるって話
どうも隠居中に一切裁許とかを出してないようなのよね、宗麟

毛利の家 鷹の羽を継きははしら

2020年04月07日 17:11

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/07(火) 01:42:34.40 ID:GTsReKHF
毛利弘元には三人の男子が有った。
嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。

弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。

しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)

元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。

毛利元就記

いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。