西国の桶狭間、事の始まり

2018年05月06日 18:00

730 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/06(日) 13:42:31.42 ID:l9oNTbVm
西国の桶狭間、事の始まり

永正14年(1517年)10月、安芸の守護である武田元繁は安芸北部の山県の諸勢力を攻め、下した者らや元々の配下を糾合した後、有田の城をおよそ5千の兵で取り巻いて攻め立てた。
有田城主、小田信忠は老練の武将であり、城兵は300ばかりだったが敵の数に怯まず激しく防戦に当たった。
武田元繁はその勢いを持って有田を落とした後は近隣の毛利家や吉川家と言った自分に従わぬ大内傘下の者らを滅ぼそうと目論んでいた。
この城を武田元繁が真っ先に攻めるに至った理由は何からか?
それは永正元年(1504年)、石見の高橋久光が有田の城を攻め取った後、野田久之を城将として置き、これにより近郷一帯悉く高橋に従うこととなった。
ところが、元々この地の主であった吉川家家臣の森脇基方という者がこの城を奪い返そうと野田に取り入り、最初は警戒されたものの遂には家僕同然に振舞うほどとなり、表裏無く打ち解けるまでに至った。
そんなある年の8月15日、近隣の八幡神社の祭礼を見に野田の家来が皆出て行った時、森脇は好機到来と野田の宿舎を尋ねるとこう言った。

「野田殿、私も祭りを見に行きたいのですが、刀が見苦しいので遠慮しております。貴方の御太刀を貸して頂けませぬか?」
「良かろう、貸して進ぜよう」
野田から代々秘蔵の太刀を受け取った森脇は
「いやいや、これは見事な御太刀ですな、ベラベラベラベラ(以下略」
と、野田の太刀を弁舌巧みに褒めそやした。上機嫌になった野田は
「そうであろう。この太刀は見た目もさる事ながら斬れ味も優れ、ワシの先祖はこれで妖怪や大蛇を(以下略」
と、自慢気に刀の由来を語り上げた。野田の話がひと段落した時、森脇は
「では、その斬れ味を試させて頂きましょう!」
と一言、野田の頭を件の名刀で叩き斬った。
野田は「アッー!」と断末魔の声を上げて倒れ、森脇は彼の首を取ると傍輩や近郷の者らに告げ、5~60人の兵を集めると有田の城に立て篭もった。
その方を受け激怒した高橋久光は5000ほどの兵を集めて有田に攻め込み、森脇の主人である鬼吉川こと吉川経基も1000ばかりの兵を集めて有田城へ入城すると、双方の戦いは激しく数ヶ月に渡って決着は付かなかった。
この時、武田元繁の仲裁で両軍は和睦する事となったが、有田の城をどちらが取るかは双方譲らず一向に埒が開かなかった為、
武田元繁の鶴の一声で元々有田を本領とし、今は城を追われた小田氏を城主として有田の城を返させる事で何とか事は収まった。
その後も仔細有って武田と吉川は闘争に及んだが、この時小田は武田に恨みを含む所が有って吉川に与したので、元繁は小田を恩知らずと憎み有田の城を攻める事となった。
日が経つほど有田の小田方は苦境となり、小舅の熊谷元直を中に立て降伏を申し出たが、それすら許さぬ程に元繁は激怒しており、これを許さず有田の落城は目前に思われた。
有田城の落城は間近と見た為か、武田元繁は毛利幸松丸配下の元就が領する猿掛へ1000ばかりの兵を向かわせ、ここに西国の桶狭間こと有田中井手の戦いの戦端が開かれることとなるのである。
(陰徳太平記)


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その頃、芸州に毛利元就という人が

2018年04月07日 18:13

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 17:03:13.59 ID:lWxpVVTl
その年、天文二十四年十月、改元ありて弘治元年となる。

長門国では大内殿を討った陶尾張入道(晴賢)の子息、阿波守(長房か?)がその威勢を
近国にまで広げ、主君である大内義長とも不和なり、これにより大内家中の重臣層、
相良、杉、内藤といった者達と、陶晴賢勢との紛争が起こるように成った。

その頃、芸州に毛利元就という人があった。彼は始め、大内義隆の被官であり、安芸国にて
武田刑部大輔信実と国を争っていたが、武田の家老である熊谷伊豆守信直が武田に背き、
毛利に一味したため、終に武田は自害し、安芸は毛利元就が一国平均に治めた。

その後、元就は出雲国尼子と合戦をし、この折大内殿より度々合力があった。
しかし義隆生害により毛利は強く不安を覚え、また大内重臣の内藤氏が元就の子息の縁者で
あったため、陶と対立する大内家老衆と毛利は一味し、諸境に出城を取り、陶晴賢勢と
戦争状態に入った。

陶の運が尽きたのは、彼が芸州宮島に攻め来たのを、弘治元年十二月朔日の夜に入って、
毛利は風雨、夜に紛れ襲来したため、陶晴賢勢は大混乱に陥り忽ち敗軍し、陶晴賢、同長房は
討ち死にし、陶の家老である三浦越中守は突撃して防戦を行ったものの、小早川隆景勢が
すぐに馳せ寄り、越中守を討ち取った。

こうして陶勢は尽く討ち取られ、さらに毛利勢は周防長門へ侵攻し勢いを振るい、
大内義長も長門国府の長福寺にて自害し、内藤下野守は同国勝山にて自害、陶五郎は
周防の富田若山にて自害、江良弾正、伊香賀左衛門は須々麿にて自害した。

毛利元就は、このように忽ちのうちに大内義隆の恨みを晴らし、周防長門の主となった。

(足利季世記)

色々史実とは異なるものの、畿内から見た毛利元就の勃興についての記事


新たに征服した地域を支配する際の注意点

2018年04月01日 19:25

738 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/31(土) 22:37:40.58 ID:oYtXoVs4
新たに征服した地域を支配する際の注意点


毛利元就は新たな地域を支配する際にこういう事を言っている。
「征服された地域の人々を侮ってはいけない。
そういう事をすると恨みをかう。」

元就は自分が征服された立場になってものを考えた。
だから元就は征服した地域に毛利家からだけ指導者を出さなかった。
その地域で毛利家に協力する者があれば積極的に登用した。

元就はこう考えていたからだ。
「毛利家からだけ支配者を出しても、地域の住民は従わない。
それは必ず新しい経営のやり方と古いやり方を比較するからだ。
もし同程度であったら絶対に昔のやり方を懐かしむ。
それだけ(当時)地域では支配者と住民の繋がりは深い。
これを破壊するよりむしろ抱き込んだほうがよい。」


武田信玄も信濃国について
「征服された直後の地域住民は昔の支配者を慕っている。
たとえ悪い支配者であっても必ず新しい支配者と比較していい感情をもたない。
武田家からいった者はわりをくう。
そのため武田家に協力する者があればどんどん抱く事が必要だ。」と同じような事をいっている。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:06:08.00 ID:xEQom0Uz
>>738
策謀家の二人が言うと説得力がありますな…。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:26:51.78 ID:f1hrGfA/
武田のほうは佐久攻めからの教訓でしょう

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 14:51:13.15 ID:rVTjiwnx
毛利も楽勝と見込んだ筈の厳島合戦後の防長経略で
一揆軍の妨害に手こずって大幅に計画遅延させられた苦い経験がある

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/01(日) 15:11:47.64 ID:TSc5OARK
手のひら返しての陶攻めだし、靡かないのは仕方ないんじゃないのかな
ましてや1国人あがりだもの

旗返の姫塚由来

2017年11月28日 15:48

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:04.32 ID:+NX5BKfl
旗返の姫塚由来

旗返城主江田隆連は、庄原の山之内氏に誘われて、ひそかに山陰の尼子氏と通じたことが発覚すると、毛利元就は山口の大内氏に救援を求め、1万数千の大軍をもって江田領に攻め込んできました。
天文22(1553)7月には隆連の家臣武田祝氏(たけだほうりし)の居城高杉城を全滅させ、その勢いで旗返城に攻め寄せてきました。
隆連は尼子軍の救援を唯一の頼りに1千1百の軍勢で籠城しました。

毛利軍は、要害堅固な旗返城を攻略するため、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を構え、食糧や水を断つ作戦にでました。
 隆連は、唯一の頼りだった尼子の援軍が来ないため、落城も覚悟したのであろうか。包囲されて間もなく、妻と娘(姫)に一人の家来をつけて、庄原の山之内まで逃がそうとしました。

 始め廻神(めぐりかみ)を通ろうとしましたが、この道は既に敵軍の手に落ちており、仕方なく加風呂谷(かぶろだに)を下って、掛田(かけだ)に降り、夜陰にまぎれて石原から寄国(寄国)を通り、山之内に逃げようとしました。
そして、掛田川の川端までたどり着きましたが、娘(姫)は身ごもっており、ここまで来て急に産気づきました。

 そして苦しみながらかわいい娘の子を出産しましたが、敵陣の中を潜んでの逃亡で体力も尽き果ててしまいました。
 兼ねてより父隆連から、途中逃げ切れぬ時は自刃せよと諭されていたこともあり、妻と娘(姫)赤子ともども、この地で自刃して果てました。

 後、邑人(むらびと)たちはこのあわれな人たちのために祠を建てて供養しました。この祠を「姫塚」と呼びこの一帯を「姫原」と呼ぶようになりました。
 旗返城は、水と食料を断たれ、終に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

     川西郷郷土史研究会”
(当地の看板より)



おんばんさん

2017年11月12日 16:27

305 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/12(日) 07:55:19.56 ID:xEfHF25d
おんばんさん

 天文10(1541)年 毛利元就軍との戦で銀山城は落城しました。執拗な追撃をうけながら武田方の武士達は戦いながら沼田方面に敗走しました。
 しかし、多くの武田武士たちは>>299のように捕らわれて斬首されました。 
一方、少数の一族の子女や老人は神社そばの通称”隠れ里” (安西中学校付近まで続くつづれ折の谷間) に隠れていたそうです。 
隠れ里の入口には大きな岩が2~3枚あり,その陰で数人の武士達が護衛をしていましたが、毛利方に発見され全員殺されてしまいました。
 地元の人々は隠れ里入口の岩を割ってお墓を作り供養しました。昭和40年代後半の団地の形成に伴い移転されましたが、
地元ではその祠をおんばんさん(黄幡さん)と呼んで今も武田武士供養の祠として恵比寿神社に残っています。

恵比寿神社とおんばんさん
https://i.imgur.com/XoxSAkb.jpg
https://i.imgur.com/7gINtR9.jpg
XoxSAkb.jpg
7gINtR9.jpg
http://www.cf.city.hiroshima.jp/gion-k/webstation/rekishi/takeda-hiwa/onbansan/onbansan.html



306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/12(日) 12:04:59.63 ID:RkRtT+mU
>>305
>岩を割ってお墓を作り供養しました
ケンシロウみたいな百姓が岩割ってるの想像して草

三十人の墓

2017年11月04日 13:38

232 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 22:49:27.68 ID:lfiJSEc0
三十人の墓

広島市佐伯区の町中にある標高53mの海老山公園。
中世期には近隣の五日市城を居城とした宍戸備前守弥七郎元続(広島県北の宍戸氏でなく、厳島神主家の家臣である神領衆宍戸氏)
の支城があり、
当時は海に出た島城だった(現在近隣は埋め立て地となり住宅街の真っただ中)とも伝わる。
毛利元就と陶晴賢の合戦時、厳島に攻め込む直前の陶軍3万に攻め込まれた海老山城は
城主宍戸孫六以下30人の兵が討ち死に。死んだ30人の兵の亡骸は近隣住民により海老山に葬られ、墓石が作られたと伝わる。
https://i.imgur.com/FhteTPN.jpg
https://i.imgur.com/oCW5fJv.jpg
https://i.imgur.com/rhvuwgo.jpg
https://i.imgur.com/vGndI6B.jpg

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 07:49:48.97 ID:gZX9IM+r
追記

神領衆宍戸氏とこの海老山城の落城について調べてみたけど、
広島県史の記載によると厳島神主家の配下である神領衆は毛利方と陶方に分かれ、
宍戸・野坂・栗栖・大野といった陶方についた神領衆は滅亡したという記述が有るようだったり、
厳島合戦の時、陶軍は山口の玖珂郡(現山口県岩国市)今津・室木の浜から500艘の船で厳島へ向かったとされているので、厳島合戦前に厳島から東北に10km位先にある海老山城を攻めるってのはちょっと疑問に思うんだけど、
実際のところはどうだったんだろうか?
https://i.imgur.com/XXEVtBR.png



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:32:36.87 ID:2m9NcCoW
海老山の宍戸も他の宍戸のうにじつは大内方についいてて毛利に攻め滅ぼされたとか

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 08:51:44.61 ID:gZX9IM+r
>>236
https://i.imgur.com/emjyjgZ.jpg
もしかして:実は毛利がやった?

と、自分も思ったけど
Wikipediaの防芸引分や折敷畑の戦いの項を参照すると、吉川元春と熊谷信直の事前の調略や交渉が上手く進んで1日で佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。
と有るので、翌年まだ反毛利側の白井氏や離反した野間氏と陶水軍が東の仁保城奪回に何度か攻め込んだりしてるから、その折に海老山城でも戦が有ったのかもしれないですね

山口きらめーる255号より

2017年11月03日 20:59

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 05:23:44.99 ID:Do5pozMZ
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4~5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話



赤川元保誅罰

2017年10月26日 18:20

184 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:13:35.86 ID:w2ASLYq0
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:17:34.15 ID:E3GEJJbr
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 20:41:48.26 ID:CcjnGyV8

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響

2017年10月04日 19:08

279 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/03(火) 23:26:18.41 ID:PQQbOlsn
明治維新に影響をあたえた仰徳大明神(毛利元就


毛利元就は毛利家にとって神君として崇められていた。
徳川家康が東照宮大権現なら、元就は仰徳大明神である。

毛利家中興の英主といわれる重就は元就の遺訓をまとめて「御教戒」として君主のありかたを照らす鑑とした。
やがて幕末、藩士中村清旭は安政二年(1855年)元就の遺訓を集大成して「大訓衍義」を著した。
これは元就の勤王精神を長州に植え付けることとなった。
というのも毛利元就は永禄三年(1560年)に財政難の為、即位式が出来なかった正親町天皇の為に
即位の御料として銀四十八貫を献上し即位式を挙げさせてあげたのである。

これが前例となり毛利家だけは、他の大名と違い
年末年始はもちろん朝廷の吉凶時にさいしても、朝廷への進献が許されていた。
そして石見銀山を永久的に毛利家が支配する為に皇室御料所として寄進し、毛利家が管理者として実権を握った。
これにより秀吉が天下を取ったあとでも秀吉は石見銀山には中々手が出せなかった。


元就が天皇への勤王あつく(打算的勤王という人もいる。まあないとは言えないでしょうね)
こういった経緯もあり激動する情勢に長州藩では藩の方針を以下とした。

第一に天朝への忠節
第二に幕府への信義
第三に祖先への孝道

すなわち天朝と幕府が対立した場合、天朝方につく下地は元就のころから出来ていたのである。


高杉晋作は第二次下関戦争の為の挙兵での檄文で
「御先祖洞春公の御遺志を継がせられ御正義御遵守遊され候…」
「洞春公尊霊を地下に慰め御両殿様(藩主敬親、元徳父子)の御正義を天下万世に輝かし奉り…」と掲げた。

洞春公は元就の法名。
つまり元就を範に攘夷決行、王政復古を訴えたのである。

奇兵隊の最初の作戦は戦局には全く影響のない安芸郡山攻略。

目的は唯一つ、毛利元就の墓所の奪還である。



280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/03(火) 23:34:11.14 ID:KBj7WAN5
大江広元の子孫が武家政権を倒して王政復古を図るとは
祖先は天皇と幕府の次だから気にしてなかったんだろうけど

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 10:51:49.08 ID:4vJxH0l7
すべては「そうせい!」の一言で

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 16:18:09.71 ID:Kbab0n5s
>>279-280
歴史の流れって面白いなー
毛利と島津が幕末にあんなことになるとは権現様でも気づくめぇ

本成りの瓜

2017年09月25日 18:14

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 14:19:47.02 ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:11:35.14 ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:31:39.07 ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

一日の間貸され候へ

2017年07月04日 12:10

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/04(火) 12:07:16.30 ID:Z7UEEGAF
弘治元年10月、陶晴賢が芸州厳島に押し渡ったのを、同月30日大風雨の夜、毛利元就は押し渡って、ついに
陶を討ち果たした。いわゆる厳島合戦である。

この合戦は大事の軍であったから、陶晴賢の元より、伊予の河野へ船を借りに遣いが出された。
同日に、毛利元就よりも河野に船を借りに来た。
この時、陶晴賢は何ということもなく船を借りた。
毛利元就は「一日の間貸され候へ。厳島に渡りてやがて戻すべし。」と云い送った。

河野家の重臣であった村上通康はこれを聞いて
「少しのことながら、思い入れが違う。毛利が必ず勝利するだろう。」
そう考え毛利家に船三百艘を貸した。はたして陶晴賢はその合戦に打ち負けて、中国地方は悉く元就に属した。

(士談)



1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

尼子の家の先祖の祟り、外からの恨み

2016年12月18日 09:54

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 06:19:17.29 ID:ljNawsFS
 尼子義久は伯耆国をも手に入れて大身であったが、その気がすわらない人なので物事にとらわれやすかった。
毛利元就が口寄せの市子と申す者に金銀をとらせて、
「尼子の家は先祖の祟り、外からの恨みもあるので久しくは無いだろう。」等と色々誠らしい事を作って凶を告げさせた。
すると、尼子は気にかけて甚だくじけてしまい、その弱みを突かれて遂に亡んでしまった。

 物事の道理をよく考え、迷ってはならない。
巫女山伏に神が乗りうつられるという事は合点のいかぬ事である。
合点のいかぬ事に悩まされるのもなお合点がいかない。
とにかく手前に無理がなければ外よりよこしまな事があろうことはない。
道理を尽くしても悪事となって邪な事が来ても、天命であるとして是非はないと思え。
 自分の弱みを突かれ気が虚けていたら、たぶらかされる事は必定である。

(武士としては)

尼子氏の先祖の祟り、外からの祟り…
思い当たりがありすぎる…



元就と隆元の近習頭の友情

2016年12月03日 20:56

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 09:23:58.64 ID:etEgTkDh
元就と隆元の近習頭の友情


坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んで以来、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
槌山攻めの際、粟屋は吉川元春配下の新庄勢に紛れて共に抜け駆けし、鑓を合わせて坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元の近習頭だったので、隆元の旗本を離れることができず、
また隆元より全軍に抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就の近習頭だったので、隆元の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
抜け駆けの際に手負いとなり、療養のため寝込んでいる粟屋のところへと案内も通さずに乗り込んでいった。そして
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 20:11:42.18 ID:vFOgTN/w
と言って傷口に塩を塗り込む強かさも兼ね備えていた

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 20:46:51.14 ID:cNzBp7tS
この坂新五左衛門は父親が元就の弟の相合元綱の謀反に加担した坂広秀なんだね
後には雷神立花さんとも戦ったりしてるのな

隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

2016年11月23日 14:08

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね~成否が士気にかかわるのよ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…

342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか

大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

2016年10月21日 09:26

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 00:37:34.28 ID:rAcw/9qK
松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね




元就、軍議の席次を巡って争う

2016年10月16日 15:38

216 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

続き
大内勢、味方を討って手柄を得る