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厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ

2020年04月10日 17:53

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 00:58:54.03 ID:Z0cMNdBb
或いは曰く、毛利元就は陶晴賢が厳島に渡海することを聞いて、元就より、追手の物見を二人、
搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。

その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。

この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)

毛利元就記



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 07:38:28.78 ID:oP8U78Ec
>>963
神社をも利用する元就…
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豊前陣撤退から毛利隆元の死去まで

2020年04月09日 18:07

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 22:36:47.37 ID:7j1OFAgQ
山中鹿介による尼子再興軍挙兵の報が)毛利元就に注進され、山口の高峯城へと告げられると、
この頃元就は、山口の隙きを明け諸勢を豊前に渡そうと思っていたのだが、思いの外の報の到来に、
豊前での取り合いを嫡男・隆元に任せ、豊前に派遣する予定だった軍勢を召し連れ山口を打ち立ち、
夜日を継いで雲州上日郡(原文ママ)に陣を据えた。山中鹿介も雲州に打ち出て山際に陣を取って対陣した。

このような中、豊前国の毛利隆元の陣に、その御代の公方・光源院殿(足利義輝)より、毛利大友和平の
御扱いとして(筆者注:実際には足利義昭による扱いである)、毛利家へは聖護院(道増)、大友へは
久我殿が御下向し、上意の旨は、

『前々大内が分国、防長両国の義は毛利元就が切り取った地であるので、毛利の分国とするものである。
西海九ヶ国の内、豊前筑前の義は存ずべからず。大友が只今保持しているものである。
諸士はこの旨に相従い、国々を堅固とするように。』

との仰せであった。上意に任せ、大友の軍は引き退き、毛利隆元も松山の城に籠め置いた口羽常吉、
その他諸軍を召し連れ長門国に帰陣した。そして聖護院殿のお供申し、宮島に渡った。
聖護院殿の御宿は座主、隆元の御宿は大願寺であった。

また、元就は雲州上日郡より聖護院殿に使者として福原貞俊を派遣して、
『御尊顔を拝する事が尤もであるのですが、軍陣の状況のため御免させて頂きます。畏まり、
忝ない事ですが、隆元がそこに居りますので、御請方々、頼み奉ります。』
と伝えた。

宮島には二十日ほど御逗留し、御馳走として神前にて能などが仰せ付けられ、御会釈相調い、
聖護院殿は御帰洛された。

そこから毛利隆元は直に雲州へ登られ、吉田郡山の麓も通られたのだが、元就は先陣に在るという事で、
その時は郡山城に御立ち寄りなく、佐々郡と申す所まで御越しになり、人数を揃えるためとして
一両日逗留したのだが、この時、不意に頓死された。享年四十一歳であった。
各々仰天したが、是非無く、この事を元就が聞くと、心の塞がりようは浅からぬものであった。
さりながら、「隆元を弔うための手切れの合戦であるべし」と、山中鹿介の陣山近くに陣を寄せた。

毛利元就記

毛利隆元の死去までについて。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:13:19.77 ID:FV4Nvjb2
何も前触れのない突然死だったんだな。毒殺とも言われてるんだっけか。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 07:34:26.86 ID:uuQ9h7Na
赤川さんを殺してしまった元就の悪い話…和智もほんとに暗殺したのかわからんけど

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:06:33.59 ID:6VXTQWG8
そういえば、3本の矢の話が、「元就が死に際に3人の息子に言った」みたいに紹介されてることがあるけど、何をどう間違えばそういう話になるんだろうな

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:52:12.88 ID:uuQ9h7Na
>>958
戦前の教科書にのってたらしいしその影響じゃないの
自分はドリフのコントで知ったけどw

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 02:07:49.95 ID:pF+bUfNd
>>958
あれ、元の話だと、隆元元春隆景じゃなくて、庶子三人だったらしいぞ
修身の教科書になるぐらいで、隆元以下に改変されたらしい

多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について

2020年04月08日 19:27

907 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:31.33 ID:7j1OFAgQ
毛利一門、その他大名は筑前に打ち出て立花の城拵え、普請手堅く相調え、秋月と対陣した。
そのような所に豊後国大友の軍兵二万余騎打ち出て立花に相向かった。そして大友の調略に、
大内義隆の落子が山口落城の時に母の懐中に抱かれ豊後国に落ち行き、その子が成人の後に
大内太郎左衛門尉輝廣(大内輝弘:(正確には大内政弘の次男・大内高弘の子))と名乗り、大友は
これを取り立て、大内家の諸浪人を抱え、その他手前の軍兵相添えて、都合一万二千余騎にて
毛利一門、および諸大名が悉く豊後(筑前の間違いか)に在陣した所で、周防国山口に討ち入り
築山に陣取り、高峯の城では毛利方の市川常吉が籠城した。

このような俄の押し寄せは思いもしなかったことで、城中には人数もなかったが、常吉は智謀を以て
城を堅固に保った。そのような中、市川常吉の子・少輔四郎は予てより高峯の麓に宅地を構え居住していた。
この少輔四郎が、大内太郎左衛門尉(輝弘)に一味したのである。常吉はこれを聞いて軍兵五十人を差し下し
少輔四郎を討ち果たした。これについて世間では常吉覚悟名誉の義と申された。

さて毛利元就の陣所に飛脚を遣わし、「山口如此」と注進すると、元就はこれを聞いて仰られた
「筑前立花へも豊後より猛勢打ち出て戦陣と成ることが告げ来て、また山口にこのような事が起こるとは
心もとない事である。さりながら山口の城には常吉を籠め置いてあるので、たとえ人数が無くとも
十日二十日は城は堅固であろう。立花に居る一門中、その他諸士悉く呼び戻し、この元就はここでそれを
待って山口に討ち入るべき。」(この時元就は長門国赤間関に在ったとされる)
そう宣われ、夜を日に継いでその手遣いをした。

元就は立花に仰せ遣わした
「その陣早々引き退くべきである。山口はこのような状況と成った。さりながらその陣の退き口は一大事の
事である。おそらく豊後より打ち出てきた軍兵どもが追尾し合戦に及ぶだろう。その事は言うまでもない。」

この旨が告げられると、在陣している毛利一門その他に、各々如何考えるかと尋ねられた所、宍戸隆家
申された
「只今のこの状況ではとかくに及びません。敵方が動き出す前に、日を移さず早々に各々引き退くべきです。
殿はこの隆家が仕りますので、それについてはご安心ください」
そう申したところ、吉川元春が申した
「隆家殿は一門を率いて退かれるべきです。この元春が殿を仕ります。」
これに対して、毛利隆元は言った
「元春は未だ若武者であり、隆家が殿をなされよ。」また隆元は「この立花の城一円を明け退くことは
無念の至である。只今はこのようになっても、何れも豊筑両国の事は捨て置かない。立花には名誉の士を
五、三人差し置く。」
として、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、坂新五左衛門就清の三人を立花の要害に籠め捨て置き、
各々一同に引き退いた。この時十二月二十九日であった。

宍戸隆家が殿を成した所に、退き口付近の豊後陣より追撃が千騎ほど、道五十町ばかり追い掛けてきた。
隆家は返し合戦して、追手の者百五十余打ち捨て、豊後衆は引き退いた。
これについて、宍戸隆家の事は申すに及ばず、その家中の者共についても『名誉の三合力』と讃えられた。
その中で隆家家臣の北野新左衛門は鑓下にて討ち死にし、以下二十六名が討ち死にした。

そこよりは心静かに毛利一門その他諸大名は、長門国の毛利元就の陣所に走り参り、かくて隆元は元就に
仰せになった
「今度、宍戸隆家が殿を成し、その三合力は比類ないものでした。それ故一門の者達、その他の軍兵も、
難なく退くことが出来ました。またこの隆元は、存ずる仔細在って、桂元重浦宗勝坂就清、彼ら三人を
立花の城に籠め捨て置きました。」

元就はこれを聞くと「隆家の武勇により一門その他が堅固に退いたこと、三合力浅からず、これもひとえに
当家の武運が長久であるという事なのだろう。また三人を立花に籠め置いた事は、隆元がこの元就の考えを
よく理解しているからであって、軍法はかくこそ有るべきである。そしてかの三人は定めて切腹するであろう。
武士の習いとは言いながら、大き中にただ三人残り置いて切腹すべきこそ、神妙千萬、不憫もまた至極である。」
そう感涙を流された。これを見る人聞く人も、皆感涙を流した。そうではあっても、弓矢を取る者の面目であると
各々感じ入った。

908 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 12:39:47.06 ID:7j1OFAgQ
さて、立花の城では大将御引退の後、その夜は残った三人が覚悟し、思い思いのあり方で様々に物語などした。
坂新五左衛門申しけるは「この上は武勇の沙汰も無いだろう」と、武具を脱ぎ置き、帯を解き、焚き火に
当たって背をあぶった。
浦兵部は「死するとも歯噛みという下説がある。生頸を抜かれるのも口惜しい次第である」と、用心を呼びかけ
夜廻りをした。
桂右衛門太夫が申しけるは「この城の状況では、中々今夜は押し寄せて来ないだろう。明日、潔く切腹すべし。
このような寒夜に兵部丞が夜廻りするのは無益である。方々、家人を召し連れてこちらに入られ、酒を一つ
まいられよ。新五左衛門、背あぶりも大概にするのがいいぞ。さあ、こちらへ。」と呼び入れ、
「このような時節であり、座の高下は要らぬ。うち乱れて酒を飲もう。」と夜もすがら酒宴した。

新五左衛門が申した「それがし、宵より焚き火に当たっておりましたが、ここでひとさし、舞いましょう。」
そう言ってこの時出合面と錦戸切を舞った。一入の舞の出来に、上下感じ入った。

そのうちに漸次天は晴れ明け、かくて城中より敵方へことわりを申した
『毛利一門、仔細有って悉く退きて候。ここにある拙者たちは、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、
坂新五左衛門就清、城番として罷り在り候。どうか使いを出して頂きたい。切腹仕り、その上で
御城御請取あるべし。』

このように伝えると、敵方よりこのように申してきた
「これより申す事が、御返事となるでしょう。各々敗軍されたように見及び候。さては両三人、その番として
残られたか。名誉の義共に候。しかし御切腹は中々有るまじき義にて候。何方へなりとも、御望み次第に
送り参らすべし。」

それより互いに使者を立てて、「そういう事であれば羽片(博多カ)へ退くべし」と云い、敵方は軍兵百人相添え
彼らを羽片へ送った。三人は心静かに退き、名誉の義と申された。これは筑前国立花の物語である。

毛利元就記

いわゆる多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:19:23.69 ID:JgMZTM7o
>>907
元就って九州だと苦戦してるイメージあるなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/08(水) 18:43:21.26 ID:oQ0XNDO8
西へ行っても備前や播磨は切り取れたと思うけど、畿内大名や本願寺とかは破れなかったと思う
秋月とかは調略してたらしいが、尼子や大内の残党残してたのが運の尽き

921 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/08(水) 20:52:46.13 ID:TpSfU/aE
元就はしゃらくさいことしか言わないな
嫌われてたのも当然というべきか

943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 01:09:40.24 ID:jWZEcqZB
>>907
大友家も異常だよね
この戦いのあとは家老3家に豊後1国を任せちゃうとかさ
下剋上の時代にその忠誠度はどこから来てるのか謎すぎる

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 11:27:16.20 ID:wni+Wks1
>>943
上杉謙信と一緒で国政を司るのが嫌になったんじゃねーの?
キリシタンに傾倒するのもこの辺からでしょ
そもそもコイツに戦国大名としての器はないよ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 12:07:58.69 ID:jWZEcqZB
>>947
確かに宗麟は当主になれたのは後の重臣たちのおかげという負い目があったのかもな
配下が優秀すぎてお飾り当主になっていたのかも

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 13:05:44.59 ID:cs1WhzJ5
若い頃はボンクラ、二家老に擁立されたら強豪、二家老死んだらボンクラ
二家老がすごかっただけじゃね理論成立しちゃうよね

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 14:51:03.68 ID:wfT8RyTh
息子のダメさ加減がその説の後押しになりそう

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 15:53:36.03 ID:tmPlr+RY
二家老しんだあとの宗麟って完全隠居してて一切政策に関わってないってのが最近の研究じゃ?
あとキリシタンに傾倒してないって話と

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:02:20.64 ID:jWZEcqZB
>>951
信長と毛利せめる約束してたり秀吉に泣きついたり動きは活発だと思うけど

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 18:21:28.18 ID:tmPlr+RY
>>952
泣きつきはむしろ家臣たちが完全隠居してた宗麟に泣きついて一瞬だけ復帰してもらったようであるって話
どうも隠居中に一切裁許とかを出してないようなのよね、宗麟

毛利の家 鷹の羽を継きははしら

2020年04月07日 17:11

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/07(火) 01:42:34.40 ID:GTsReKHF
毛利弘元には三人の男子が有った。
嫡子は毛利庄太郎興元と申す。二男を元就と申す。三男を弘成(元綱)と申す。
毛利太郎弘元の本領は、芸州高田郡吉田であり、かれこれ併せて三千貫の地であり、城は郡山であった。

弘元の死去後、家督は嫡子庄太郎(少輔太郎)興元が継いだ。次男元就には多治比七十五貫の地を分け与えて
猿掛に在城した。三男元綱は如左の地を分け与え。相合に在城した。

しかるに、興元は若くして死去し、興元の子を幸松丸と言ったが、これも八歳にて死去した。
これによって毛利家の家老諸士は相評議したが、元就に家督を継がしめんと云う者もあり、
また元綱を守り立てようという者もあり、未だ詮議まちまちであった所に、元就は兵を起こして
相合押し寄せ、元綱に腹を斬らせ、その一味の者共悉く生害し、その勢いに郡山へ入城して
毛利の家を相続した。時に大永三年八月十日であった。(相合元綱の没年については諸説あり)

元就はその夜の夢に。『毛利の家 鷹の羽を継きははしら』との発句を得て、
翌日万願寺ににて連歌を仰せ付けた。

毛利元就記

いわゆる「元綱事件」と、毛利元就の家督継承について。