fc2ブログ

これを味方が為したものと思い

2022年04月06日 15:06

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/05(火) 21:33:03.97 ID:pTJG6TRQ
或る本に、大坂夏の陣の時、大阪の城兵たちは、冬の陣のときと同じように、幕府方が早々に
攻め寄せてくることは無いと思っており、上下油断していたが、その中で毛利豊前守(勝永)の組の
鉄砲大将・松岡彦兵衛、雨森三右衛門らは、敵付の方を見おかんと、五月七日の未明に、両人
打ち連れて素肌(鎧をつけないこと)になり、刀を若党に持たせ、乱髪の体にて天王寺まで来た。

この時寄手は大御所(徳川家康)の仰せにより、井水、或いは溜水、また切門には、皆引裂紙を竹に
付けて立て置いていたが、松岡、雨森はこれを味方が為したものと思い、「さても早きものかな」と
語り合った。

さて、夜が明けると両人はその場を離れ、平野・岡山筋、東南五里の間に至ったところ、村里と覚しきものが
有った。霧によってそのように見えるのかと疑いながら能く見てみると、森林だと思っていたのは、
みな寄手の旗指物、長柄などであり、村里と思っていたのは、東国勢の備であった。
日が出るに従い、長柄などがきらめき渡り、八尾、若江、南は平野境へかかり、三里ほどが一面となって
押し来ていた。

松岡らはこれに驚き、毛利・真田の方へ右の趣を申し遣わした所、何れも周章てて足軽を張り出し、
備えを立てたという。

(新東鑑)

大坂夏の陣直前にも大阪方は油断していたというお話



スポンサーサイト



御辺は多勢にして本座の士であり

2022年01月09日 19:23

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/09(日) 17:47:45.92 ID:lggOd2q5
或る記に、大阪冬の陣、博労淵の戦いで薄田隼人正(兼相)は博労淵を乗っ取られたことに対し、
その憤慨甚だしく、殊に大阪城中の列将が大いに嘲った事で、彼は毛利豊前守(勝永)に向かって言った

「今夜、蜂須賀安房守の陣を打ち破る。そのため足下に後陣を頼みたい。」

これに豊前守曰く
「私は新参の士であり、その勢も三百ばかりですから、先陣するのが当然です。御辺は多勢にして
本座の士であり、これは後軍を成す所以であります。にもかかわらず私がどうして後陣に
あらねばならないのか。」

と、承引しなかった事で、薄田の血気の勇も衰え、其の事を黙止したという。

新東鑑

薄田隼人正のかっこ悪いお話



大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!

2019年07月12日 16:47

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:30:11.98 ID:NXcn6hNJ
御四男の左馬助忠吉公(阿部忠吉。正勝の子、忠秋の父)は、慶長19寅年(1614)の
大坂御陣(冬の陣)の折は御知行2千5百石の御従頭で、駿河に御詰めなされた。江戸の御
屋敷は西丸大手際で、後に三枝摂津守がおられた屋敷である。

翌卯年の大坂御陣(夏の陣)で前将軍・家康公の御先を御勤めになり、大坂から毛利豊前守
(勝永)が打ち出た時に、東兵は敗走する。

味方が崩れ掛かるのを忠吉公は御覧になり、道を要意してとある在家の後ろを回って御組中
ならびに御家臣を引き連れ、小高き所に鳥毛の三階笠の馬印を押し立てると、槍衾を作って
「敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!」と、膝を敷いて待ち受けた。

御旗本が足を乱して敗北(敗走)する中でも踏み留まった面々は、忠吉公の言葉を聞いたこ
とを後の証拠とした。将軍家(徳川秀忠)は、忠吉公は御眼前で天晴な御振る舞いであると
の由を仰せであった。

正勝公よりの附人は河野半右衛門・加藤半次郎。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



「このような者を討ち取るのは士の本意にあらず」

2016年09月08日 17:40

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 04:37:46.33 ID:HJ7j8xdk
慶長19年、大坂の御陣にて、小栗忠政は御使番・斥候の役目を承り、糧米3千俵を
恩賜され、与力20騎、弓・鉄砲の同心100人を付属された。

11月、後藤又兵衛基次と森豊前守勝永(毛利勝永)は仙波の人家に火をかけて城中
に引き入った。この時、船場の橋をも焼き捨てたのか実否は定かでなかったので、

本多正信を介して、「急ぎ見て参るように」との(徳川家康からの)仰せがあったため、
忠政はすぐさま1人で馬を馳せて行ったところ、

河野権右衛門通重は、御勘気を受けた身であったので忍んでいたのだが、忠政に伴う
ことを乞うた。それから、2人はともども船場の橋際に至り、忠政は馬を止めて静かに
その実否を見届けた。通重も徒歩で橋の向こう方に渡った。

城兵はこぞってその勇気を感心し、「このような者を討ち取るのは士の本意にあらず」
として、矢玉を放つ者はいなかった。

その後、忠政は帰って、敵の様子をつぶさに申したので、(家康から)「敵近く危うき所
に至り、よく見定めて帰った!」との、御感に預かった。

――『寛政重修諸家譜』




170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 07:09:12.21 ID:17UvBhRK
あれ?河野の手柄は?まさか…

このように、大阪方の手立て、仕置は

2015年10月27日 14:57

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 13:52:38.37 ID:DVPqIe60
かつて大和大納言(豊臣秀長)に仕えていた国島道喜は、左手が手首から切り落とされ、
右手ばかりであった。彼は大和豊臣家の滅亡後牢人していたが、大阪の陣の勃発に
大野修理(治長)によって呼び出され、鉄砲隊を預けられた。
大阪落城のあと、武士を辞めていたのだが、松平下総(忠明)殿に呼び出され、御伽衆のように仕えた。

この道喜が語ったことに、大阪夏の陣の5月4日、豊臣方では、幕府方蜂須賀の軍勢を、毛利豊前(勝永)の軍勢
一手にて打つべしとの事であったのに、作戦は相違し失敗した。

また5月6日の明け方七つ(午前4時頃)に大野修理が毛利豊前と共に国府まで出兵する約束であったのに、
支障があるとして六つ(午前6時頃)まで引き延べ、さらにまた五つ(午前8時)にすべしと、
3度も変更してようやく出馬した。この陣のなかに道喜も居た。

さらに平野のあたりで、大野修理は「豊前と相談することがあるので今一度言って話をする。人数を下げよ!」
そういって手廻り5,6騎にて引き返した。大野が率いていた豊臣方の諸軍勢は、疑いながらも引き上げた。
その道すがら、立派な騎兵4万ばかりと行き合った。これは大阪城の七手組の軍勢であった。

この時、大野修理が出馬のため鹿毛三寸ばかりの馬に乗ろうとした所、どうしたわけか馬が修理を乗せようとせず、
何度もやりなおして漸く騎乗したという。

このように、大阪方の手立て、仕置は、相違することばかりであった。

(武功雑記)



544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:38:01.69 ID:Z6+pZqxx
>鹿毛三寸ばかりの馬

何のサイズが三寸なんだろう?
まさか体高じゃないよね・・・

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:09.82 ID:DVPqIe60
>>544
原文のままなのですが、多分三尺の間違いじゃないかなとは思います。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:44:51.21 ID:awa9htJ4
尺が抜けてそうだよな
つか既出や

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 17:54:32.38 ID:XVncGBb9
三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 21:12:54.74 ID:Z6+pZqxx
>>547
>三寸は体高四尺三寸って意味だよ。
>馬は4尺あって当たり前なので、そこは略して単に○寸と表現する。

そういうことなんだね。
どうもありがとう。
しかし、いつも思うんだけど、みんな物識りだね~

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/27(火) 22:23:19.75 ID:X5C7r9E2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6508.html
これでもその話題があったな
後はこの四尺以下は農民に払い下げた話とか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3526.html

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 00:02:58.75 ID:h+07QPAW
しかし東国大名はむしろ体高が低めの馬を使うようにと推奨してるけどな
四尺一寸~三寸あたりの

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/28(水) 10:46:38.21 ID:P96eNA4e
だいたい乗り手の肩の高さ=馬の体高くらいが基準だよな

毛利勝永の妻

2015年05月26日 17:18

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 20:18:24.03 ID:b5cGOzqd
毛利勝永の妻

毛利勝永は関が原の戦いで石田三成に与力して領地を没収され、父勝信と共に土佐にて蟄居した。
父勝信の死後、勝永は茶道を嗜んでいたためその家臣である窪田甚三郎を京大阪に遣わして、茶器を
求めさせた。時に大野治長は、この窪田甚三郎の従弟であったので、このつてを頼り秀頼の様子を聞いていた・

慶長15年の冬、秀頼はついに挙兵に及び、勝永もそれを勧誘された。かれはそれに応じようと思ったが、
その夜、密かに妻に語った

「私が先年、誤って石田方に属したために、現在妻子まで困窮させていることは見るのも忍びない。
いま、私にはひとつの志願があるが、濫りに口外できないことである。」

勝永の妻は言った
「私がこの家に嫁いだのも、前世よりの宿因のためでしょう。どうしてそのように
深く嘆くことが在るでしょうか?
女が、一度嫁いでより夫とともに浮沈するのは、女の道というものです。
これを憂うことなどありません。
どうかあなたの御志願を言って下さい。」

「…我家が、武名を以って天下に振るうこと6代にわたる。なのに今、この辺鄙な場所に流されて
虚しく朽ちるという事、本意ではない。
幸いにも今、天下が東西に分かれて戦いが起ころうとしている。私は秀頼君に属して今の汚名を雪ぎたい。

だが、私がこの地を逃れ出れば、きっと妻子は捕らえられ禁錮と成るだろう。これを私は憂いているのだ。」

所が妻は、これを聞いて笑い出した
「あなたの言うことは、間違っておられます。
大丈夫たらん者が妻子のためにほだされて武名を汚すなど、真に恥ずべきこと。
速やかにこの地を去って、先祖の家名を興すべきです!
その時心に、妻子のことを止めてはなりません。

あなたがもし討ち死にすれば、私もこの海に身を投げて死を共にしましょう。
勝利すれば、再度お顔を拝しましょう。」

勝永はこれに大いに喜び、大阪に至ろうとしたが、土佐では厳重に監視されていたため、国主である
山内忠義の元に、関東に味方するためと言って、嫡子を連れて土佐を脱出し大阪に籠城した。
はたして忠義は勝永の妻子を捕らえて、駿府の家康にその処置を尋ねた。

家康はこれを聞き
「丈夫の志のある者は、みな、斯くの如しである。
彼の妻子を宥恕し、罰してはならない。」
そう命じた。
これによって山内忠義は勝永の妻子を高知城中に入れて養育した。

毛利勝永は翌年5月5日、大阪落城の時、天王寺において奮戦し、潔く自害したが、
これらの名誉はすべて、その妻のおかげであった。

(明良洪範)



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/25(月) 22:12:44.27 ID:yMD7iU0O
いい話だなぁ

勘兵衛殿は、世に知られた算術の指南役であるが

2015年01月09日 18:50

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 07:21:01.84 ID:UbqmL/WQ
勘兵衛殿(毛利重能・江戸時代の和算家※)は、世に知られた算術の指南役であるが、
若い頃は、毛利豊前(毛利勝永)に属して大坂で侍働きなどされたこともあるという。
弟子たちにせがまれて昔語りなどした時に、
「ある時、私が計算を行っているところに、豊前守殿が通りかかったことがあった。
豊前守殿は、私の手元をのぞきこんで、『世の中には、三種類の嘘がある。ひとつは、
普通の嘘である。二つ目は大嘘である』とおっしゃった。私が『最後はなんでしょう』と
尋ねると、『三つめは算術である』とおごそかにおっしゃられた。そこにいた者たちは、
みんな大笑いした。豊前守殿は口数が多いわけではないが、人懐っこく穏やかで
朗らかな人であられたので、兵たちは豊前守殿を慕っていた」
と懐かしそうに話された。  (落葉抄 「毛利勘兵衛殿の昔語りのこと」) 

※ 毛利重能 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD




530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 09:59:53.57 ID:YFEapb1P
数字を出して理詰めであれこれ言われるのいやだったんだろうなあ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/09(金) 10:26:00.06 ID:M7SJoWSY
何事も計算通りにはいかないという事だと思ったが

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/10(土) 07:59:26.33 ID:M5c4hDke
毛利勝永って、
 ・ギスギスしがちな譜代衆・浪人衆の中では、なだめ役・まとめ役的な穏やかな苦労人
 ・家族や部下への情愛深い人柄
 ・それでいて、戦場では鬼神のような武辺ぶり
 ・衆道 (*゚∀゚)=3 ウホ
 ・それをネタに騙して土佐を脱出する、人を食ったような飄々としたキャラ
 ・司馬遼の「城塞」に登場する筋肉質ガチムチなイメージ
のせいで、俺はテレビで阿部寛を見るにつけ、「毛利勝永ってこんな人だったんだろうなあ」
と思ってしまうw
大河の勝永役、阿部寛にならないかなあ

ちょっと酷いんじゃないか毛利勝永!

2011年03月07日 00:00

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 01:54:00.12 ID:7XA1TTOr
有名な話ですが多分未だ出てないので

慶長19年(1614)、大阪冬の陣が起こる。
土佐山内家当主・山内対馬守忠義も、当然これに参陣するため大阪へと向かった。

さてこの頃、毛利豊前守勝永は関ヶ原による改易の後、同じく土佐の、前藩主一豊の弟、山内修理亮康豊の元に
お預けとなっていた。ちなみに土佐でのお預けの最中、一子勝家まで生まれている。

まあそんな中大阪冬の陣の勃発と忠義の出陣を知った勝永は大いに焦った。
そして留守居をしている康豊の元に赴き、一つの書類を見せた

「これをご覧になってください」

「ん?一体…  なっ!? …こ、これは!!」

なんとそれは藩主山内忠義毛利勝永に渡した、衆道の契を交わした誓紙であった!ちゃんと忠義の判まで
押してある!

「僕達、そう言う関係だったのです!」

「い、いつの間に!?」

康豊は驚愕した。言ってみれば『あなたの息子の忠義くんと僕、実は結婚してるんです!これ結婚証明書!』
と、突然告白されたようなものである。いや、時代的にもっと重い意味があるかもしれない。

ともかくそんな衝撃の告白をした上で、勝永は未だ混乱している康豊に言う

「僕とそう言う関係である対馬守(忠義)くんが大阪に出陣したそうです!ならば僕は戦場において愛する対馬守くんを
助けなければならない!
そういうわけで大阪に行きますがとにかくそう言う関係なので見逃して下さいうちのクソ息子人質に
置いていきますから!!」

突然の衝撃に頭がぼーっとしている間にこうまくし立てられ、老練の武将である康豊も思わず、

「わ、わかった。他の場合ならともかく二人がそう言う関係ならしょうがない。大阪に行って対馬守を助けてくれ」

と、なんだか両親は絶対反対してるけどもう妊娠してるんだから結婚認めてくれるよう親を説得してくださいと
言い出された親戚みたいな気分で許可を出してしまった。
何というか、いつの時代も愛は理屈を吹っ飛ばすのですね。

そこで勝永は大喜びで船に乗り、出港直前『見送り』という名目で港まで来ていた息子をひっつかんで
親子一緒に出港、そして先の「愛する対馬守を~」の言葉はどこへやら、豊臣秀頼の招きに応じ堂々と
大阪城に入城したそうである。

しかしこの脱出劇でその愛をまんまと利用された山内忠義の心はいかばかりだったのか?
もしかしたら夏の陣の時暴風雨を理由に土佐に引きこもったのは、この時の心の傷が原因だったんじゃないか?
ちょっと酷いんじゃないか毛利勝永
なんてことをふと思ってしまう、大坂の陣毛利勝永、土佐脱出の一席。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 02:37:44.10 ID:7fqbhVQQ
>>130

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1860.html

ここで軽く出てるのの詳細版ですな
きっちりお詫びに来る毛利さんは律儀というか何というか

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 07:02:09.28 ID:ew8yZ6Zo
山内家としては勝永を派遣することで豊臣に義理を立てておいて、
表向きは斯様な脱走劇があったと徳川に言い訳を……

……いや、もうちょっとマシな理由を考えるか。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 09:05:32.01 ID:Wd6fecG5
港直前『見送り』という名目で港まで来ていた息子をひっつかんで

なんか嬉しいなw親子一緒 

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/06(日) 14:47:56.16 ID:FUYxwLv7
毛利勝永が正当に評価される時代は来るんだろうか・・・
彼の話題が出るといつもそんな気持ちになってモヤモヤしてしまう。

大阪城中千畳御上段の間には…

2010年11月15日 00:00

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:52:40 ID:9yQUECx3
落語「くっしゃみ講釈」の「難波戦記」について語っている部分

「大阪城中千畳御上段の間には、内大臣秀頼公、御左側には、御母公淀君をはじめとして、
介添として、大野道犬主馬修理之助、軍師には、真田左衛門尉海野幸村、せがれ大助幸昌、
四天王の銘々には、木村長門守重成、長曾我部宮内少輔秦元親、薄田隼人正兼相、
後藤又兵衛基次・・・」

真田信繁「・・・」
毛利勝永「・・・」
長宗我部盛親「おい!」
※「元親」になっているのは、本の誤植ではなく、なぜか落語ではずっと「元親」の
まま語られてきたらしい




590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:55:19 ID:xQdgwL9M
薄田隼人の逸話といや、狒々退治があるけど、なんであんな話ができたんだろうね?
実際にでかい猿を狩ったことがあったんだろうか。