FC2ブログ

毛利輝元「これも私の分の悪さです」

2018年09月26日 17:46

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 00:19:16.40 ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 02:35:15.07 ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 06:59:36.43 ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 16:07:48.69 ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 21:54:37.66 ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう
スポンサーサイト

水手(かこ)切りと厚藤四郎

2017年01月02日 20:59

487 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:15:43.31 ID:/Gyz7fw9
水手(かこ)切りと厚藤四郎

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2043.html?sp&sp
↑に纏わるお話

天正20年(1592年)7月、母大政所が危篤という報を受けた秀吉が、肥前名護屋城から水路上洛中、舟が豊前の沖(関門海峡)で浅瀬に乗り上げ、転覆しそうになり秀吉は海中へ投げ出された。
この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。
秀吉は危うく遭難する所であったが、護衛にあたっていた後続の毛利秀元の船に救い出されて難を逃れ、この功により秀元は名物「厚藤四郎」を拝領した。

太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり

この時秀吉は、海難と大政所の臨終に間に合わなくなるという怒りから、水手の頭明石与次兵衛をこの時佩刀していた、備前三郎国宗で手討にしようとしたと伝わる。

その為、この備前三郎国宗に水手(かこ=船頭または船乗りの意)切りの名が付いたと言う。

488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:21:21.59 ID:/Gyz7fw9
異説として、この際毛利秀元の懇願により、明石与次兵衛は打首ではなく切腹(当時の武士としては名誉の死)に処されたという。
明石与次兵衛は柳ヶ浦の浜で自害するが、地元では与次兵衛の不運を哀れんで遺体を浜に手厚く葬り、目印に一本の松の木を植え、
後に「明石松」と呼ばれたという。また篠瀬も同様に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
のち、慶長5年(1600年)に黒田孝高の後に細川忠興が豊前に入部する際、この明石与次兵衛が事故当時に細川家の組下であったことから、
与次兵衛の死を悼みまた航海の安全を祈願して、船が座礁した暗礁に明石与次兵衛の塔を建てさせている。
その後この石塔は何度も流されるが、そのたびに建てなおされている。しかし文政11年(1828年)の嵐の際に大波にあおられ、ついに海中に流されてしまったという。
文政年間に柳ヶ浦一帯の民の手により再建されるが、大正年間に旧日本海軍が航路を確保する目的で暗礁を爆破する際に、石塔は海中投棄されてしまった。しかし戦後、昭和29年3月に門司郷土会の有志によって海中から引き上げられ、現在は和布刈めかり公園に建っている。

水手切りはこの明石与次兵衛切腹の際、介錯に使われたとも言われる。

与次兵衛は元は明石(石井)与次兵衛といい、播磨国明石を拠点としていた海賊衆。
その後豊臣秀吉の水軍の将となり、石井の姓を与えられ、四国攻めや九州攻め、小田原攻めなどにおいて活躍したという。


490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:35:13.41 ID:/Gyz7fw9
>>487の追記として、毛利秀元は秀吉を自らの舟で救助した際、家臣共々秀吉に逆心無き事を示す為、
この時佩いていた自分達の刀を海に投げ捨て、その気遣いや手際の良さから秀吉からその器量を認められ、
後に秀吉養女の大善院(秀長娘)を妻として迎える事になったり慶長の役で若輩にも関わらず病身の輝元の代わりに右軍総大将を任されたと言う。



秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話

続き
この清水の作の脇差を帯び、




朝鮮元旦の踊り

2013年04月21日 19:01

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 09:54:55.01 ID:0BxUDqg8
朝鮮の役の時のことである

正月元日の未明、朝鮮に在陣していた毛利宰相秀元の本陣に、太鼓や鐘をかき鳴らして何者かが近づいてきたのが聞こえてきた。
その日は元旦であったので、秀元の本陣では、上下とも静まり返って朝拝の儀式を執り行っていた。
そんな時にこのような事があり、敵が攻め寄せてきたのではと申す者も有り、秀元は物見の者に、急ぎ見てくるよう命じた。

物見は馬を飛ばしそれに近づいて見ると、獅子頭、赤頭など、いろいろな面をかぶり、異形なる衣類の美麗な出で立ちをして、
旗印、笠鉾などを指した2,3千の人々が、太鼓や鐘、笙や篳篥(ひちりき)などの楽器をかき鳴らし進んでいた。

物見が、これは一体何者なのかと聞くと、通訳は
「あれは年頭の御礼に、大将軍(秀元)に踊りの興行をかけ奉る者達です。」
と言う。

急ぎ帰ってこのことを報告すると、秀元は
「日本では盂蘭盆に踊りがあるが、正月元旦に踊るとは、風俗も違っているのだな。」
と仰り、それから支度のため待たせ、大手の門を開いて彼らを尽く入れて踊らせた。

この踊りの者達は、様々な曲を仕り楽を奏し、四ツ時分(午後10時頃)まで踊った。
秀元はこれに褒美として、鳥目五十貫を取らせた。

その後彼らは加藤主計(清正)殿の所に向かい、その他諸侯を3ヶ日の間、次々と踊りまわったという。
(義殘後覺)




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 11:26:52.99 ID:hH6Pfpc7
どんな罠かと思いながら読んでたがここはいい話スレだった

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 18:46:07.77 ID:q0Uxl8Mt
>>85
経久「正月に踊るのは実にいいぞ」

江戸城ランチタイム

2011年11月26日 22:00

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:25:33.43 ID:DPw1/h2X
一部既出ながら詳しい系行ってみます。

江戸城ランチタイム

昔、徳川家光公のお伽衆といって、毎晩登城して物語を申し上げ、夜話をされる10人ほどの人々があった。
毛利秀元候、丹羽長重候、蜂須賀至鎮侯、林道春といった人々であった。

この人々が登城の時は、皆、屋敷から弁当を持参してきて、蔀の間に集まって、みんなで弁当を食べた。
珍しいおかずなどがあるときは、互いに交換し合って賞味したそうである。

毛利秀元候の弁当のおかずに干し鮭があったときは、皆が「これは結構なおかずですね!珍しい!」と
殊の外に秀元から分けてもらい賞味したそうだ。
阿部重次は握り飯を包ませ、これを懐に入れて持参していた。そして昼食時にはこれを召し上がられ、
その包みの紙にくっついた飯粒も丁寧に拾って食べ、さらにその紙の端を伸ばして洟をかんだ事もあったのを、
それを見たものがいたと言うことである。

原文
(昔、大猷公御噺の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。
珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。
毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。
阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、御中食の時は是を召し上げられ、その包みたる
紙に付きたる飯粒を拾いて食い、紙のはしを伸ばして涕をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。)

『雨窓閑話』


関連
空弁当
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
毛利秀就の鮭の切り身・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html


749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:46:59.03 ID:u1xqeTqB
権現様の教え

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 04:22:57.65 ID:Fijq0F/H
どこの学食の風景だw

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:00:59.91 ID:vS0mFjkw
昼休みの女子高生みたいだなw

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:03:17.03 ID:+Z4sEyBz
>>751
恋バナで盛り上がるんだな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:30:34.13 ID:qiM0mC9+
一応
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:31:52.70 ID:qiM0mC9+
↑のはまとめスレの関連リンク用に

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 09:38:34.16 ID:tisvb3hY
>>751
えどじょう!

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:31:14.00 ID:BBCfUJaS
*全室禁煙です

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:32:58.20 ID:Wu6NonT7
鶏の唐揚げとかないのかな てんぷらとか

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:15:22.74 ID:sjFzGqQ6
>>748
登場人物が三頭身くらいのデフォルメさられたキャラで再生されるww

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:35:49.11 ID:Ek/fQSvQ
外国の歴史系小説とか読んでても、こんなふうに自分の食べ物を
みんなで交換しあって食べる描写って見たことがないんだよな
獲物をわけて食べてた狩猟民族のほうがやりそうに思えるのに

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 19:23:24.80 ID:RbJaqasY
殺伐とした時代だからこそ、こういう話は和むなー
秀元は分け与えてばかりだが、代わりにおかず分けてもらえんだろうか

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:31:45.00 ID:OWZV6+Rz
関ヶ原の時も鮭弁食ってたんすか?w
って聞いたら斬られるかな?絶縁かな

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:42:39.61 ID:UEkovXwU
毛利のボンが違う意味で切れそうだなw

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 21:08:40.58 ID:pxPB91XN
>>763
輝じゃなくて広家だろ?

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 22:00:33.83 ID:GEqmI+s8
>>761
育ちがいいからみんなに分けてあげたら自分の分がなくなって泣き出しちゃうタイプだな

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 09:42:18.33 ID:UoFoRsew
この時代の最高級料理は鮭だったのか・・・
ハンバーグとかカレーライスとかウインナーとか食べれないなんて嫌だな

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:16:07.70 ID:1opcnV6K
>>760
西洋で弁当っていわれてもサンドイッチくらいしか思いつかん俺

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:34:56.89 ID:rcvoOtpH
日本の歴史小説でも弁当の分け合いっこは見たことが無いがw

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:03:11.07 ID:PCz8tsV7
>>767
カレーは確かに不可能っぽいし
ウィンナーも環境を選びそうだが
ハンバーグは、技術的にも素材的にも不可能じゃないだろ。

食に一手間かける豊かさが無いのに問題はあるが

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:17:42.91 ID:Vttalziv
牛さんは食料という前に貴重な労働力かつトラクター兼乗用車だったんだろうか

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:28:28.27 ID:70A4zj5d
>>770
ターメリックとクミンはあるからコリアンダーの代用品に白根草を使えば一応形にはなるお

漢方薬のスープだからかなり高くつくけど…

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:42:01.59 ID:PCz8tsV7
>>771
牛さんが死んでから頂戴しても良いんじゃね?
いわゆる逸話だが、
牛肉食わせて貰うのに宗教をバカにした非礼を一心に詫びるってのがあったから、牛を食うのは
それ程異常じゃないと思われる。
だって、馬を食う奴だっていたんだろ?
そっちが余程基地外沙汰。
軍用としても民生用としても、非常に高性能な馬なのに。


カレーの香辛料って全部、金と等重量で交換するような希少品じゃなかったか?

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 13:33:15.40 ID:uVe1tSVS
馬は消耗品だよ、骨折した馬殺すにしてもただ埋めるだけじゃもったいないじゃない。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 14:20:24.80 ID:KUrIr5TG
>>772
大友宗麟がキリスト教じゃなくてイスラム教を保護してたら可能だったかもね
黄飯つくるくらいだからカレーの再現に挑戦するかもしれん

九州にイスラム教が浸透したら、インド→インドネシア→日本のムスリムネットワークが…できねーか

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 15:00:07.41 ID:PCz8tsV7
>>774
サラブレッドじゃあるまいし、そうそう骨折しないよw

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/27(日) 17:48:33.90 ID:4mvA5Lxz
>>760
東洋文化では割と普遍的な価値観かも

食べ物がどこからか送られて来た時には、
家臣たちに対して分配するようにしなければならぬ。
『三略』に、「古に良い将がいて兵士と苦楽をともにし、
陣中に酒や食べ物が送られて来た際には、
これらの品々を川に流し入れて、
将も兵士ともにその流れを飲んで楽しみをわかち合った」
という話が伝えられている。

武田信繁

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 21:08:48.14 ID:bkxepGwb
>>778
川に流すってどういう状態なんだろうな
つかみどり大会みたいなのを開いたってことかな?ポロリもあるよ!

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 22:33:19.65 ID:zFN6ZvLi
ボケたつもりか?>>785よ
旨い酒を皆で回し飲んだ「つもり」、旨い食い物を分け合って食べた「つもり」
上下心を一にしてって奴よと釣られたクマー

毛利秀元への約束、反故になる

2011年09月09日 22:23

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 21:10:13.98 ID:lK534Zs3
毛利秀元は元就庶子・穂井田元清の子として生まれ、輝元の養子となっていたが、
輝元に実子が生まれると家督相続を固辞した。
自ら身を引いたというと何やらカッコイイけれども、
実はこれ、養子入り当初からの織り込み済みのコトだった。
「輝元様に実子が生まれたら相続権を放棄します」って内容の起請文を提出している。
提出させられた、と表現した方がいいかもしれない。
しかしその代わり、かなり広い領地(毛利氏領国の約四分の一)を分知してもらう約束だった。
この約束は豊臣秀吉の肝入りなのでかなり重い意味を持つ。

輝元に実子・松寿丸(後の秀就)が生まれたのは1595年、
その二年後に隆景および元清、三年後に秀吉が没した。
そろそろ後継問題もケジメをつけなきゃいけなくなった輝元は……

輝元「あのね、秀元にこんなにあげると、本家が立ち行かないんだお
   秀元にあげる約束だった山陰にはもともと吉川一門を配置してるし、
   朝鮮から戻って日も浅い今、所領替すると家中が大混乱だお」
秀元「太閤とのお約束を違えるおつもりですか!?」
輝元「死んだ太閤も、毛利家全体のためなら許してくれるお、まけてくれお」
秀元「…………」
輝元「安国寺も元康叔父上(相談役)も賛成してくれてるお!」
秀元「……仕方、ありませんね(ギリッ」
輝元「ありがとう、ありがとう(号泣)!感謝してるお!!!」

まだ年若く後ろ盾の実父もすでに亡くしていた秀元が抵抗できるはずもなく、
結果的に四万石ほどまけさせられた。
お家騒動にもならず円満に(?)事が片付いたいい話かとも思ったけど、
やっぱり泣き寝入りした秀元がかわいそうなので悪い話に。

すぐに関ヶ原で大減封くらう羽目になるしな。





795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:11:31.68 ID:L8cIkRY+
>>788
隆景さんが死んだ後の毛利家は哀れすぎる・・。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 22:48:50.45 ID:/oWiGQY2
>>788
そうやって養子の分け前まで取り上げてよけいな栄養与えるから
秀就はちょっと踊っただけで息切れするようなピザに…

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 22:54:19.68 ID:ytKbqLMM
>>788
秀元、最終的には泣き寝入りどころか…

毛利秀元、輝元を安心させる

2011年04月28日 00:00

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:48:29.55 ID:43WRRULe
寛永の始めの頃(1624年か)の事だそうだ。

江戸に伺候した長門長府藩主・毛利秀元の元に萩の輝元入道宗瑞(毛利輝元)より、
井原加賀、清水信濃の両名が使者として訪れた。彼らの持ってきた書状の内容に、
秀元は仰天した。

『我が家は昔領するところ、十ヶ国に及びました。ところが今入道(輝元)の身に及び
僅か二ヶ国よりの租税を以て、累代の家臣たちにあてがわねばならなくなり、上も下も
悉く貧しさに苦しみ、軍役の負担に耐えることすら出来ません。
既に公の賦役に奉仕することが出来ないのなら、国を賜ってもまるで意味のないことです。

この上はぜひとも、二ヶ国の地を将軍家にお返しし、どうにかして宰相殿(秀元)の計らいで、
我が毛利家が滅びないように頼みたいと考えている。』

あまりのことに秀元はすぐに幕府重臣、土井利勝にこれを相談。
利勝からこれを聞いた徳川秀忠はすぐに秀元を呼び、この件について相談をした。

秀忠は言う
「はてさて宗瑞殿にも困ったものじゃ。隠居した者が領地を返上すると言ったからとて、
そのようなことが出来ようか。宰相殿、そなたには何か考えはあるか?」

「はっ。この事は毛利家の意思ではなく、輝元入道一人の心配に過ぎません。
しかしこのまま放っておけば、毛利家中にいらぬ混乱を起こすことも考えられます。
…要は輝元入道を安心させれば良いのです。私に任せて頂けますか?」

秀元は秀忠の許可を得、毛利家の領地周防長門30万石余りを、その頃の最新の基準で
検地し直した。するとなんと、新しく出た数値はそれまでの倍以上、76万石であった。

この事を聞いた輝元は、それなら毛利家はやっていけると大いに安堵し、二度と
領地返上のことは言い出さなくなった。そして翌寛永2年、安らかな往生を迎えた、と言う。

毛利秀元、輝元を安心させる。と言うお話。





197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:58:45.51 ID:+NO09G5q
>>195
これって表高?
だとすると、参勤交代や賦役とかがかえって大変になりそうな気がするんだけど、どうなんだろう?

内高2倍だと、農民に恨まれそうだな。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 21:59:44.63 ID:5/RUJ/xm
>>195
秀元の良い話、ではあるけど、
TERUの救いの無い話でもある気が…。
ほんとダメな子だ。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:02:49.10 ID:HsCmmE8P
伊達も上杉も領地返上を考えたことがあったらしいけど、
実際に財政が立ち行かないから領地を返上します・・・しました という大名家ってあるの?

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:06:39.52 ID:mADC8Bm7
本当に元就さんのしたたかさとバイタリティはどこへいったのか……。
余談だが闘戦経ってどう見ても毛利家とは無関係の偽書だよなあ……。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:10:09.27 ID:43WRRULe
>>199
財政じゃないけど、加藤嘉明の息子の加藤明成がお家騒動(会津騒動)のあげく、例の
鎌倉東慶寺に兵を入れた事件で幕府を激怒させて、それに怯えたあまり
「病のため領地返上したい」と幕府に申し出て改易。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:13:16.55 ID:HsCmmE8P
>>201

>>195の場合は、輝元が「大名家でなくてもいいから、ともかく家だけは
存続させたい(高家とか寄合、旗本狙い)」ということかな

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/26(火) 22:13:19.63 ID:kdLiuELR
明治に入ってだけど龍岡藩が財政破綻しちゃって廃藩したような

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/27(水) 21:47:52.09 ID:3g3h1sMj
>>197
遅レスだけど、毛利は72万石を届け出たけど、敗戦国の毛利が勝者である市松のとこより多いってのも
あんまりだから、50数万石を表高にされた、って「毛利は残った」って小説には書いてあった。
本当かどうかは知らんが、少なくとも72万石の格式は認められてない。

それと、「測りなおしてみたら」なんて生やさしいものではなくて、とにかく使える土地は全部何かに使う、
隠し田の類は全部摘発、免税特権は取り消し、と手段を選ばずに頑張ってようやく達成した数字。
んで、そのプロジェクトのリーダーはあきらかにTERU。形式上隠居してるけど藩政の実質トップ。

仁義なき毛利家・古志清左衛門と有地九郎左衛門

2010年12月10日 00:00

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/08(水) 23:28:21 ID:22qowhUG
慶長の役後、毛利家では朝鮮から帰国する際、手柄ある侍に対大将の毛利秀元から杯を与えることになった。
左に吉川広家、右に宍戸隆家等、重臣団が居並ぶ中、まず秀元は晋州城の戦いで奮戦した三刀屋監物に杯を与えた。

「次は当然わしじゃな!」
古志清左衛門がみずから進み出て二の杯を取ろうと左手を伸ばした時、横から有地九郎左衛門が進み出て
清左衛門の左手をつかむと、自分の膝の下に押さえつけ、杯を奪ってしまった。

すかさず清左衛門は空いた右手で脇差を抜き、九郎左衛門の脇にあてがい、秀元の方を見た。

「ヤッてもえぇですかいのぅ?」
「…い、いや、いいワケないだろ!?ひとまず落ち着け!」

あわてて秀元は立ち上がって二人をなだめると、両人一度に杯を与える事で場を丸く収めた。



以上、仁義なき毛利家の2話でした。なんだろう、メンツに関わると感じたら、ブチ切れて祐筆ボコろうが
大将の前で抜刀して刃傷沙汰起こそうが、構わない不文律でもあったんだろうか。





953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 00:13:18 ID:jw4ZFurA
ただ単に血の気が多いだけじゃね?

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 12:41:16 ID:Oz0iw69H
同じ地域の昭和時代の映画とかw