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足利義昭の最後

2019年04月13日 12:46

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 01:16:19.42 ID:rxTT5let
さるほどに足利義昭公は、持病に癪があったのだが、突然大きな発作を起こされて、世の常成らず
苦しまれた。されば御内の人々も、昼夜御前にあって看病した。また毛利より派遣された御伽の僧たちが、
芸州にこの事を報告すると、やがて毛利から名医が派遣された。これが医術を尽くして治療にあたったが、
前世の行いによって定まった寿命に限りがおとずれたのか、日に日に御気色衰えられた。
人々は「これではどうにも成らない」と、今更ながら驚き嘆いた。

このような中義昭公は、鑑首座という禅僧を御枕近くに召して仰せに成った

「私はたまたま武将(将軍)の家門に生を受けたと言っても、戒力薄くしてその徳備わらず、
そのため織田信長に一度救われ、厚恩謝し難く思っていたが、やがて信長自身が時めくために、
忽ち私を捨てた。しかし秀吉がそんな私を情を以て労り、どうにかこうにか光陰を送っていた所、
毛利輝元よりは大分の扶持を加え参らせ、その上種々の懇志、この世成らず、後世までも忘れないだろう。
この旨を心得ていてほしい。」

などと仰せに成ると、首座も涙にむせび、ややあって

「上意の通り、つぶさに畏まりました。さりながら、心細く思し召しに成ってはなりません。
御気色は未だ普段と変わりませんから、程なく御快気なされるでしょう。今回は御持病がたまたま
甚だしい発作を起こしたので、いつもよりも弱らせているのです。」
そう励ました。

その後義昭公は侍女を召して、「御料紙箱に色紙が2枚有る。ここへ持って参れ。」と命じ、
「首座、お主がいつぞやに色紙を望んだことが有ったが、ついとかくにして放置していた。
今はこの世の名残であるから、これを取って、形見にしてほしい。」

そう仰せられて、首座に下された。首座は頂戴し、涙を流しながらそれを見ると、そこに
古歌が書かれていた

 いずくにも こゝろとまらば すみかへよ
         ながらへばまた もとのふるさと

 朝露は きえのこりても ありぬべし
         たれかこの世に のこりはつべき

かくて2,3日あって、いよいよ衰弱されたが、暁の頃に、監物入道(柳沢元政)と侍女を召して、
密かに仰せられること暫く有って、其後は仏号をひたすらに唱えられ、明け方に眠るように臨終した。
紅顔は忽ち変じて青色の肌となって生気を失い、浮世の面影も無くなってしまった。
無常のならいでは有るが、あわれに儚く覚える。
御遺言にまかせて、火葬にされ、御骨を拾い上げ、高野山へと納められた。
御戒名は、入道なされた時の号『霊陽院昌山道休大居士』と申し奉った。

こうして御後のいとなみは、このように執り行われ、そうして御中陰が過ぎると、御局は京へと
送られた。万事、御遺言にまかせて行われた。

(室町殿物語)

足利義昭の最後についての記事。



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 07:56:06.56 ID:g5p7ulF5
>>849
前政権のトップにしては幸せな老後だったといえそう

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 11:23:47.15 ID:Pbv+XVB/
確かに
人生全うできたのは大切
本人はまた違ったのかもしれんが
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池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


秀吉はまことに前代未聞の大将なり

2019年02月16日 17:31

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 18:10:30.03 ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 20:26:06.18 ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 21:44:28.69 ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:15:30.40 ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:51:55.60 ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:13:36.59 ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!

毛利輝元「これも私の分の悪さです」

2018年09月26日 17:46

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 00:19:16.40 ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 02:35:15.07 ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 06:59:36.43 ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 16:07:48.69 ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 21:54:37.66 ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

2018年06月30日 21:10

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 14:43:23.66 ID:wJckDjva
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 15:08:18.32 ID:0QCKxBzw
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 16:38:51.60 ID:WAV9ogJV
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 17:46:36.57 ID:v37hq9s4
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 19:49:43.61 ID:Gy5MCzvM
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/01(日) 21:47:16.21 ID:X9OW92xd
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる

夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

秀吉の恩顧、度量に

2017年12月04日 19:52

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/04(月) 19:41:43.17 ID:nc3y9iGR
豊臣秀吉のもとに、毛利輝元が初めて出仕したときのこと。

毛利は天下第一の大名であり。中国は残らず彼の威風に属していた。
然らば、秀吉も定めて礼を正し、威厳に満ちた対面をするだろうと、人々はそう考えていた。

ところが、秀吉は輝元を対面所に暫く待たせ、その後、帯を手に持ちまるで形式張らない
格好で、女の禿(かむろ)に腰刀をもたせで現れると、その姿のまま輝元に対面し、
直に彼の手を取って立たせ、古のことなど色々と物語しつつ、大阪城内の座敷を一つ一つ
見せて周り、それから天守へと上がり、大阪の四方の繁栄を見せつけ、その場で刀を与えた。

それから座敷へと下り、庭に馬を曳かせた。
秀吉はその馬に乗り、輝元に馬の口を取らせた。その後馬は輝元に与えられた。

これにより毛利は尽く秀吉の恩顧、度量に平伏し、あるいは親しみ、あるいは恐れたという。

(士談)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 23:30:56.61 ID:fZVtOxA0
この人たらし

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:09:32.78 ID:IcvXM8GT
毛利元就ならともかく子供世代なら話にならないよなあ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:16:06.00 ID:6zYKbT+/
帯を手に持ち
って、帯つけてなかったってことか?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:17:07.77 ID:mUJQieT7
>>493
毛利なんて豪族の連合体だから脆いよ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:31:58.39 ID:5WkMmMJn
なにいってんだこいつ(AA略

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 17:49:43.46 ID:upLVsY/+
>>495
武田信玄「まったくだ」

赤川元保誅罰

2017年10月26日 18:20

184 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:13:35.86 ID:w2ASLYq0
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:17:34.15 ID:E3GEJJbr
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 20:41:48.26 ID:CcjnGyV8

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



はや此分にては身上続ましき…

2016年10月10日 10:34

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 10:23:21.32 ID:cTGsgr3g
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋



伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

毛利輝元の評

2015年09月20日 17:24

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/20(日) 01:09:46.85 ID:Mj1rml0Y
 輝元なる者がいる。京西の大師である。壬辰の役に元帥となった者である。
安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。(安芸は州名であり、毛利はその姓である。)

 まさに百済が亡ぼうとしたと時、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫(倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防
州に大内殿の称号がある。)となって周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を継いだ。輝元の祖先はす
なわちその従者であった。臨政の裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利氏と改めた。臨政の子孫がすでに絶えて
しまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を継ぎ、安芸州の広島に都した。

 物資にすぐれ、富んでいるのは、倭京に擬えられる。

 その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気象によく似ている、という。

 輝元の年はその時四八、その食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし実際はこれを越えている。

 宇喜多秀家ともども、賊魁(豊臣秀吉)の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだ時も、いくらかわあわれみの気持ちが
あった、という。
(看羊録)

姜コウ、というよりも藤原惺窩? からの評価が高いことを忍ばせる毛利輝元の評




広島城建設

2015年08月31日 05:20

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 17:27:17.35 ID:qLuQU98a
安芸の毛利家の居城は、吉田の郡山といい、毛利陸奥守元就以来の家城であった。
これに対し、豊臣秀吉は分別に

「毛利の居城は自然に惣構良く、敵の馬寄には悪く、その上猛勢が入り込んでも
無事に引き上げることは出来ないと聞いている。

この秀吉一代、輝元一代は別状ないだろう。しかし末代の天下持ちはどう考えるだろうか?
秀吉がこの事に気が付かなかったかのように、分別の厚い将来の天下持ちは思うのではないだろうか。
であるので、毛利の居城を変えさせるべきである。」

そう考え、当時まだ存命であった蜂須賀彦右衛門に内々に命じ、蜂須賀は毛利輝元、小早川隆景に
このように言った

「今どき、山城などというのは登り降りにも苦労する代物です。その上毛利家の御居城は
山中にありますから、輝元殿には不似合いと言うべきでしょう。
幸い、厳島に向かい合った海上に近い場所に広い土地があり、そこに平城を取立てられれば、
京都への往復も、城下から直に船を召して移動できます。ここを、御居城とされるべきでしょう。」

これを聞いた輝元、隆景も、城替えの普請苦しからずと思い
「ご指図の場所に、直ぐに城を取り立てましょう。」と、同意した。
蜂須賀彦右衛門は間もなく病死し、その後を黒田官兵衛が仰せ付けられ引き継いだ。
官兵衛は輝元、隆景と「では、ここに城を取り立てましょう」と議定した。
官兵衛はこれを秀吉に報告すると、「では早々にこの地に城を建設するのだ。」と、
秀吉は官兵衛を、この新城建設の横目付として遣わし、広島の地を取立て、官兵衛がその縄張りをした。

秀吉からは「辺りに川などあれば、それが城下に入るように見合って縄張りするように」と
念入りに言い含めた。

そして関ヶ原の時。
徳川家康は、もし毛利領に軍を向けた場合、吉田城であれば手間取ることになるだろうが、
今の広島城なら苦労なく乗り崩す事ができる。であるので、家康の有利な点と成ったと
聞こえている。

(川角太閤記)

毛利の広島城建設に関する逸話である。




238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 18:42:14.10 ID:QAk7Wrvm
戦国時代の最も末期に作られた最新式の山城である八王子城が
寡兵であったとはいえ、1日で陥落した事を思うと、山城が守備力高い
とは思えん。

岐阜城は言うに及ばず...

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 20:42:01.11 ID:iPqE+GO0
八王子はまともな兵力が籠ってなかったけどな

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 21:12:05.79 ID:eIkg4jQZ
岐阜城は攻め手に池田輝政がいたから落ちたんだよ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 23:54:07.22 ID:ePV5p545
>>238
最新式の山城って、一体どんなの?
今の時代に、「最新式の要塞」とか「最新式の戦艦」とか言ってるようなもんじゃないの?

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 01:45:20.04 ID:fOT1hgBo
>>241
>>241
最新式の山城といえば、古くからある山城を近世城郭にグレードアップした
高取城とか備中松山城かな

http://sightseeing.takatori.info/img/sightseeingspot/shiro_cg/higher_middle/cg.jpg
http://sightseeing.takatori.info/img/sightseeingspot/shiro_cg/west_side/cg.jpg

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 11:48:58.93 ID:U5xdB9df
三村氏の居城、松山城の画像がなくて泣いた

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 15:42:06.57 ID:lOg2cNV0
要塞小田原キャッスルの実物みてえなぁ

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 15:55:42.64 ID:BS7oAB8N
土塁と障子掘り天守閣無しで見栄えはパッとしないんだろうな後北条小田原城

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/31(月) 22:03:19.16 ID:vwe9D4wq
備中松山城はこないだ行ったがいいぞ~あそこ
600~700メートル山登りすると突如として出現する感じが

豊鑑より、上月城の戦いの模様

2015年01月20日 18:44

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 19:33:34.32 ID:LX2L6gSV
天正6年、大江(毛利)の輝元は吉川、小早川といった同族の者達を大将として、
備前美作の宇喜多直家をかたらい、5,6万ほどの大軍で西播磨へ進出し、山中鹿之介らが籠もる
上月城を幾重にも囲んだ。

これに鹿之助より後攻め(救援)を請われ、羽柴秀吉は小寺氏などを従えて高倉山に陣を張った。
毛利の軍勢は大軍であったので、城攻めの軍勢の中から軍勢を別け秀吉へも攻めてきたので、
秀吉はその方への備えをして、『このような状況であります』と織田信長へ早馬を打たせたところ、
太郎城介信忠を大将として佐久間右衛門(信盛)、滝川左近(一益)などが援軍として送られ、
また信長自身も近く出陣すると表明した。

ところがこの援軍は、明石高砂の傍に留まり、戦場である高倉表には向かおうともしなかった。
あまつさえ信長に対しその出陣を何度も止め、『高倉より撤退すべきです』と言い送った。
そこで信長も彼らの提言に従い、ついに『筑前守(秀吉)、軍を引くべし』と命じたため、
秀吉も、心得ぬことではあったが、力及ばずそれに従った。

これは援軍の者達が、秀吉に功を立てられる事を妬んで、この様に計らったという。
『私の妬みにて公を疎かにするのは、正しき道ではない。心ない人間はああいうものなのか』と、
当時の人々はみな嘲ったそうである。

秀吉はどうにかして、毛利と戦って上月城を救おうと心をもみ砕いたが、大軍が硬く陣を守っていたため
自分の軍勢だけではどうすることも出来なかった。

ある時は、毛利方が野伏を伏せて、秀吉方で馬草を取るために出かけた下郎たちを討った。
これに秀吉の兵たちは物の具を着けるのももどかしく陣より駆け下りて野伏共を打ち払ったが、
そこに毛利はまた兵を出した。
秀吉方の、尾藤氏、戸田氏と言った人々は先駆けをして傷を負い、中村氏は敵をよく防いだ。
宮田氏は命を失った。これらの人々は名を現し、禄を給わった。
このような合戦に及んだため。秀吉の軍は危うい状況になったものの、竹中某(半兵衛重治)が下知をして
その日は何とか治めた。

織田信長からは『戦いを止め即刻撤退するように』と、使いによって重々命ぜられ、秀吉も力なく、
高倉山を退いて書写山帰った。
上月城の者達は後詰こそを頼りにしていたので、この様に退かれては致し方なく、毛利に和を請うて
降伏した。その後、山中鹿之助は備中国神戸川にて殺されたそうである。

(豊鑑)

竹中重門の書いた豊鑑に見える、上月城の戦いの模様である。



275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 20:31:10.70 ID:Lz9nt3w0
「某」にしたのは謙遜のため?それとも諱を書かないため?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 10:35:32.67 ID:X/XtxoRm
豊鑑はよくある先祖顕彰のための家譜軍記とは一線を画した公平な歴史書として書いてあって
息子が書いたのに半兵衛の活躍がほとんど書いてない。某と濁したのもその一環じゃないかな

慶長五年九月二十五日、毛利輝元書状

2014年09月22日 19:19

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 17:33:03.35 ID:Y7ZVFnF2
慶長五年九月二十五日、毛利輝元より吉川広家への書状

そなたはとてもよくやってくれている。
ワシにはもうそなただけが頼りなんじゃ。

それはそうと、
福島正則と黒田長政が毛利の為に立ち回ってくれているようだが
こいつらはおべっか遣いも有るから頼りにはならないんだよ。
つうか、いまだ井伊直政に対面叶わずでお頼み入り出来てないみたいじゃん?
これはヤバいよ。
毛利家どうなっちゃうの?
とても心配だよ・・・。

(吉川家文書)




849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/21(日) 19:09:40.25 ID:xjz5QUXq
どこがいい話なの?

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:14:36.63 ID:Y7ZVFnF2
>>849
すまねえ
どうやら悪い話の方だったようだ

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:47:00.95 ID:ayMSSC2t
>>849
TERUの調子のいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 20:53:21.16 ID:dVF6Y+ZT
吉川ってのは本当に空気が読めないよな
親が親がなら子も子だ
立ち回りが下手すぎる


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 19:29:01.43 ID:82Ys0sln
>>848
こういうのは原文も併記して欲しいな。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/22(月) 23:09:04.45 ID:R+fUIXZj
>>856
後半部分のみならこうらしい

羽左太黒甲両人衆之手前、愈以無親疎段被申候由、尤専要候、於此方も其見懸ニ候、
乍然それは其身々々忠義ニ成候所をこそ可被存候条頼には難成歟、
いまだ井兵少へ御直面にて御たのみ入、不相調候段、此儀笑止迄ニ候

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 13:41:49.60 ID:R4jIaMgz
黒甲ってのは黒田甲州なんだろうけど羽左太は羽柴左衛門大夫の略?
すぐ名前略しちゃうのは日本人の大昔からのクセなのか

内藤隆春のちょっとした親バカさ

2014年09月14日 18:55

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 19:12:14.13 ID:S569RaeD
内藤隆春のちょっとした親バカさ


内藤隆春は毛利家当主・毛利輝元の叔父にあたる。

毛利家に忠義を尽くし、一門格としても誇りをもっていた。
ところで隆春が気にかけていたことといえば、息子たちのことであった。
隆春には元家、元忠、親春の3人の男子がいたが、甥・元盛(宍戸元続の弟)を婿養子にしていた。
特に元家は隆春の実子として思いのほか溺愛していた。
というか壮年期を過ぎて老年期前にできた息子だったそうだ。

豊臣秀吉による朝鮮出兵が決定した際、毛利家においても渡海するメンバーが詮議された。

まず、隆春は老齢であるという理由で免除された。
免除の代わりに佐波川の架橋と防長両国の守備を命じられ、綾木役の半分を与えられた。

※綾木=美祢郡にある地名

また、子・元家もまだ若年だという理由でメンバーから外された。
このことに隆春は不服だったらしく、年甲斐もなく息子宛の手紙に親バカな一面を垣間見せた。
「近日小早川隆景様が来られるので、私のこと(元家を渡海メンバーに入れること)もよく申し上げてほしい。
あなたはとにかく渡海と定め、よくお願いするがいい。そして、家来の召集など諸準備に心配りを怠らないことが大切である。」
と述べた。

結局のところ元家が朝鮮渡海のメンバーに入れたのかどうかは不明だが、その後も元家の身を案じる手紙を送りまくったという。
信長の野望の列伝の内容にあることは大抵は元家に対してのことである。

隆春は1600年に病没し、元家も1612年に亡くなり、元忠が婿養子として入った林家から実家に戻った。

甥・元盛の事件はまた別のお話。


『山口県の歴史』、『楠町の歴史』から一部抜粋




この男、杉重良

2014年09月12日 18:56

杉重良   
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:50:08.13 ID:Fh9Jk2yU
この男、杉重良


杉重良は杉重矩の孫で重輔の子にあたる。
4歳の時に父が内藤隆世によって殺された。
しかし、重臣たちが毛利元就を頼ったことで大内家滅亡と相成った。

この一連の出来事がきっかけで毛利家は重良を気にかけるようになった。

重良もこれを気にしていたらしく、大友宗麟の豊前東部の所領安堵よりも居城を捨ててまでして
大内輝弘討伐を優先した。
大友宗麟の重良へのラブレターを毛利家に送り、忠誠を示したほどである。

大内輝弘討伐の功で公領である徳地2000貫を与えようとしたくらいである。

重良も毛利家を継いだばかりの毛利輝元の期待に応え、軍功をあげるなどの活躍をした。

1573年、輝元により福原広俊(10代当主)の妹を妻に迎えた。
重良が毛利家にとってどういう立場なのかわかるであろう。

1578年、今度は豊前の高橋家(高橋重種かその一族か)から誘いがあった。
市川元教(経好の子)は誘いに乗り、山口で謀叛を起こして内藤元輔・雑賀隆利(隆和)に捕らえられ自殺した。
重良は同じく誘いを受けた吉見正頼と共にこれを拒否した。

まもなく大友家は耳川の戦いで島津家に大敗し、勢力を大きく衰退させた。
重良はこれをどう思ったのか、好機と見て秋月家を中心に外交で豊前・筑前の豪族との関係修復し、秋月家から人質を出させようと画策した。

秋月家は一旦これに同意したかに見えたが、人質に受け取りに毛利側から畑田右近が使者として向かった。
しかし、秋月家がこれを約束実行を気配を見せなかったため、畑田は『重良謀叛』と輝元に報告してしまった。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/11(木) 20:51:24.75 ID:Fh9Jk2yU
これに驚いたのは重良である。
面目を秋月家らに潰されただけでなく謀反人とされたのである。

重良は千二百の兵を率い、秋月家らから人質を連れ帰ろうと豊前蓑島(行橋市)へ渡った。
しかし、これを見た秋月種実は豊前長野家や高橋家らと連合して五~六千の兵で迎え撃った。

その結果、数で勝る秋月連合軍によって惨めな敗北を喫してしまった。


『重良謀叛』の報が毛利家に入ると、義兄の福原貞俊が毛利家中に詫びを入れるために奔走した。
これが功を奏したのか、1579年1月18日に毛利輝元は重良の行為を謀叛と認めつつも子・松千代丸の所領相続を認めた。

輝元が所領相続を認めた理由は以下の二点であった。
・重良の妻が重良に同意していなかったこと
・義兄の福原貞俊が丁寧に詫びを入れたこと

さて、輝元の裁断が下されるちょっと前の1月5日に益田藤兼は秋月種実にこんな手紙を送った。
「杉重良のことは我々が特別に相談してみる。先年からの筋目によって昵懇(入魂、じっこん)にされることが大切だ。」
といっている。
この手紙、何故か重良の子孫に伝わっているという。


重良が謀叛をしながらも、福原貞俊のフォロー・輝元が謀叛を大きく見なかったこと・益田藤兼が秋月種実をなだめたこと
毛利家が重良の謀叛を認めつつも一家断絶を免れさせたいい話


さて、謀叛起こした張本人の杉重良だが、1579年3月4日に高橋鑑種によって討たれているとされている。
異説では北部九州を転々とし、時には『田中源五郎』と変名したりし、最後は鍋島家の客分となったという。

1579年3月4日没としているのは子孫が憚ったのか、毛利家による杉家の名誉を守るための取り計らいかもしれない。

(杉新右衛門覚書)他
『山口県の歴史』、『楠町の歴史』より一部抜粋




毛利輝元、秀就に送った訓戒状

2014年04月13日 18:45

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 08:53:08.41 ID:Jd7voNHh
まとめにこの話自体は見当たらなかったのでTERUが晩年に息子秀就に送った訓戒状の件。
豊臣氏が滅亡した後、徳川政権による支配体制が確立され、諸大名に対する幕府の監視の目が強まって
改易も多々行われる中、TERUは悩んでいた。

(●▲●)こんな時代だからこそ一門の結束を強め、派手なことはせずに家の存続を考えねばならないのに
うちの秀就と来たら・・・
(*^◯^*)駿府で大御所様の見舞いが終わったら猿楽見るんだ!江戸に帰ったら踊るんだ!酒飲むんだ!
    政治なんて知らないんだ!

(●▲●)・・・・・だめだこの馬鹿息子

そして、1621年に輝元は秀就に21か条の訓戒を送るのであった。

(●▲●)<老臣や奉行の意見を聞け、側近は才能を見て選びなさい、直ぐにはぶてる(拗ねる)な、
     遊びは控えろ、後他の大名との付き合い方は(以下略)
(●▲●)<家康の見舞いの後に猿楽など見とるから形見分けもらってねーのお前だけじゃろが、
      秀忠にワシに養生せよと言われた?お前の行状が改まるのが一番の養生にして親孝行じゃ、この馬鹿たれが。

と言った感じでTERUは細々と21か条の訓戒を秀就に送っている。
そして、秀就もそれについて一つ一つ了承した旨の書状を父に返している。
家の存続に心を砕き、家族に宛て長い訓戒を送るその様子は祖父元就の晩年を見ているようでもある。
この様子をかつての後見人である小早川隆景が見たら、彼は一体何を思ったであろうか?



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 09:24:43.12 ID:ZF6hgZ9O
なんで毛利家の人間は若いころダメさ加減と、年取ってからのギャップが激しいんだろ。
隆景さんでさえ、若いころの逸話見るとただのワガママ小僧だったりするし。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 10:48:07.45 ID:CvmebuPg
>>761
弘元「そんなことは」
興元「無いと」
隆元「思うよ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 13:28:27.06 ID:0LlpbSRu
地獄から元春さんとか呼んできたほうがいいんじゃないか?

盲ぎり

2014年04月11日 18:54

944 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/10(木) 20:03:25.08 ID:JDN5WJMR
文句だけというもなんなので・・・
TERUさんのタグにはなかったので


盲ぎり

関ヶ原後、毛利家は八カ国に膨らんだ家臣団を防長二カ国で賄わなければならず、
まず家臣の家禄を五分の一に減らし財政の建て直しを計ったがそれでも見通しがたたず
いよいよ家臣団を整理するしか方法がなくなりました

毛利氏をしたい、生死を共に分け合った家臣を辞めさせるのは偲びがたいので
盲ぎりという方法をとったそうです

これは

殿様の前に家臣の名を書いた帳面を置き それを家来が一枚一枚めくっていく
殿様は目かくしをして 筆をもってその帳面に筋をひいてく
名前に筋がかかったものが武士をやめ帰農することになる 

という方法で、筋をひかれた者は運が悪かったとあきらめて帰農したということです


運まかせで整理されちゃう家臣ってことで悪い話に・・・
帰農した家臣が殿様へ直接的な不満をもたないようにワンクッション入れるための手段なんでしょうけどね




947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 23:25:48.02 ID:qdRMeZG3
>>944
これも一種の困ったときの神頼みみたいなもんかね