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人の命を助ける事は無類の儀である

2019年12月10日 11:59

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/09(月) 14:00:37.81 ID:Z8vJYSBu
文禄の役の折

その頃毛利秀元公は広島に在り、輝元公は高麗に居られたが、秀元公に輝元公より木下半介(吉隆)殿の
ご依頼ということで、彼に同行し名護屋へと向かった。赤間関に到着したその日、豊臣秀吉公が小倉に
到着されていた。これは秀吉公の母である大政所様がお患いであるとの事で、俄に上洛をなされその日
ここに至ったのである。この事を知り、翌日にはまた京へ向かわれるとの事で、秀元公は
「赤間関より早舟を立てて、明日小倉に参るべきではないでしょうか。」と半介殿に内々に伺った所、
「明日早々に小倉に到着するようにしましょう。」とのご返事であり、夜中に赤間関を出船して
翌日早朝に小倉に参上した。

到着すると半介殿は秀元公に「早々にこちらに参った事で秀吉公の出発前に間に合ったのは一段と良かった。
現在は朝食の途中とのことですが、先に御報告しておきましょう。」と秀吉公にお知らせした所、
二人が早々に参上したことを執着に思召になり、食事の途中では有ったが「対面する」と仰せになり、
秀元公は半介殿と同道して御前に出、盃を遣わされた。そしてすぐに広島に向かうとの事で、即座に
出船して秀吉公の上洛の供をした。

秀吉公の御座船には多くの櫓がついており、早くも広島まで半分ほど進んだが、この時船が止まり、
御座船より扇子にて後の船を呼ぶ様子が見えた。秀元の船に同乗していた福原大炊がこれに気が付き、
「何か有ったのか」と各々不審に思い、船頭に「あの辺りに岩礁などは無いか?」と尋ねた所、
「岩礁があります。きっとそれに掛かったのではないでしょうか。」と申したため、秀元公は
「そういう事であればこの船にて急ぎ御座船を岩礁から押し出そう。」と、水夫一人と小姓衆
一人だけを付けて御座船を押しに向かった。この時お供の船は数多あったが、真っ先に御座船を
押しに行ったのは秀元公の船であった。

この時、秀吉公は裸で、船より木下半介殿が抱きおろし、船が座礁した岩礁の上に先に降りていた
三十歳ばかり二人がこれを請けた。この時、船がこの岩に漕ぎ着き「これは大夫船です。お召しに
なられますか」と申し上げると、秀吉公はそれに乗船され、船の屋内にお入りになると、十八、九歳
ばかりの小姓に練の羽織を後ろより持ってこさせそれを召された。

この時、秀吉公に「船を赤間関に返しましょうか、それともここから直に上洛に向かいましょうか。」と
申し上げた所、「先ずこの磯に着けろ。」との御意にて、船を海岸に寄せそのまま上陸された。
御供の船も尽く磯に付け皆上陸し、秀吉公の居られる場所に集まった。そのような中、秀吉公は
このように仰せになった

「今日の右京太夫秀元の忠義は実に浅からぬものだ。戦場において苦戦している時に横槍を入れて
勝利を得させる、という事は間々有るが、今日のように人の命を助ける事は無類の儀である。
私は常日頃から、あの子は一廉の者であり、輝元の養子として相応しいと思っていた。
今回広島においてまたそう思ったが、これとても自身の忠義とは思わぬよう分別している。
これは、輝元が大名として日本一恵まれた人物であり、常々無為でいても、それが自然に顯れて
最初に船を漕ぎ着けるような行動ができるのだろう。

私も親への孝行の道のため上洛を急いでいた。故に天道私無く、難を逃れさせたのであろう。
右京太夫も輝元への孝行が肝要であるぞ」と仰せになった。

この時、金吾(小早川秀秋)を輝元の養子にという取沙汰があると聞かれたが
「これは如何様にも有るべき事ではない。この太閤もたいへんな辛労によって得た天下を
他人に渡したくは無い。遠い親類では有るが、三好治兵衛(豊臣秀次)遣わし、関白の位に成し、
四万の人数を添て聚楽に置かせている。これに比べても輝元は親類歴々であり、何れであっても
小早川隆景と相談した上で後継を定めるのが尤もであろう。であるのに、金吾を養子になどと
いうのは一体誰が言い出したのか。曲事でありかたく糾明する。」と仰せに成られた。

御当家(毛利家)を御大切に思召し、御入魂一廉ならぬ思いは大方ならないものであった。

(老翁物語)

秀吉の御座船座礁事件の時のお話。なにげに小早川秀秋を養子にするという話が言及されてる。



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官兵衛さんもやっていた旗指し物案件

2019年12月01日 15:40

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 11:19:45.27 ID:+TBKw16C
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。

宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は

「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」

そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。

この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。

ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。

(老翁物語)

官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。



小早川隆景の事

2019年11月30日 17:47

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 08:25:29.97 ID:f6sI2SvR
豊臣秀吉公によって天下が制せられた頃、毛利輝元公に小早川隆景公がお供して上洛を成した。
秀吉公と参会したが、大方ならない非常に丁寧な接遇であった。この事は桂美作守が詳しく
書き置き、その書物は今もかの家にあるり、その概略をここに示す。

この時、秀吉公の御意に
「私は主君の敵を討ったことで、その本意が天道に叶ったためであろうか、このように
日本を従え、高位にも上った。しかしながら隆景、安国寺のような優れた家臣を持っていない。
そこは輝元に劣っている。」
と仰られた。

小早川隆景は毛利元就の三男であり、十二、三の頃より元就公を助け、御一生の間、子の刻(夜0時頃)
に寝て寅の刻(午前四時頃)に起きると言われているように、不断に夜半過ぎまで伺候し、曉天に
起きられ火を灯して朝御膳をまいらされ、終日御前に在って、諸方への御用、御調を成されていた。
元就公、隆元公が御他界の後は輝元公を一層御尊敬になり、吉川元春公は、その輝元公を取り立てる
あり方を、周公旦の道に学んでいると仰せに成っていた。これはどういう事かと言えば、周の文王、
武王、周公旦は唐土四百余州の大聖人であることが書物に様々に見え、中で周公旦は文王の子、
武王の弟で成王の叔父であり、天下で誰一人その地位を争おうと思わない高貴の人であったが、
成王に仕えて、一回の髪を洗う間に三度も止め、一食の間に三度も口中の食べ物を吐き出して天下の士に
まみえたという。その行いと隆景公のあり方に違いがないと思われたのであろうか。

隆景公が輝元公の御座の前をお通りに成る時は、必ず膝を折り手をつかれてお通りに成った。輝元公が
その座に居られる時は申すに及ばず、御座に居られない時でもそのようであった。
この事ひとつを以ても、全体に於いて隆景公が輝元公にどのように接して居られたか推し量ることが
出来るだろう。またこのようであったので、隆景公の御行儀は日本一であると諸国でも申した。

先程の秀吉公の言葉の最後に言われていたように、後々に隆景公は日本国の御政道の御教書に
御連判もされ、輝元公、隆景公、前田利家公、宇喜多秀家公、徳川家康公の御上判にて諸国に
命が出された。そして後には東三十三ヶ国を家康公、西三十三ヶ国は輝元公にその進退をお預けになり、
このため西国の大名衆は折々に御挨拶に訪れた。

(老翁物語)

小早川隆景について



390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 17:18:19.23 ID:JVFouEOb
>>389
隆景が長生きしてたら関が原はどうなったかなぁ

そして信長公と御当家の間は手切れと成った

2019年11月24日 17:27

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。

信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。

そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。

城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。

(老翁物語)

大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。



彼の地域では珍しい物を音物として

2019年11月23日 19:26

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/23(土) 11:41:45.32 ID:u64zbpa/
毛利輝元公の御意に、
「その家々が繁栄する時には、その影のように成ってこれを輔ける臣下が出来るものである。
ある時元就公は御談合衆のうち、児玉就忠を召し出され、諸方の国境地域の衆に音信を怠らないよう
仰せに成った。

『境目の誰々には最近音無しであるので、使いの者を必ず遣わすよう考えているが、その時は
彼の地域では珍しい物を音物として届けるよう支度しておくように。』

これに児玉就忠はこのように申し上げた
『その事でありますが、かねてより御使者を遣わされる時のために、私の方で差し回して、かの地方には
無い物を2、3種類支度して置いてあります。その品物はここに書いてありますので、そこから
仰せ付けに成って遣わしてください。』

そこで元就公はすぐに、その家々に相応の、語り方や容姿の然るべき人物を選んで使いとして遣わした。
このようであったので東西南北いずれも存分となったと、常々心安い者達へ御物語されていた。

相手が忝ないと思うようにと、いつも繰り返し仰せに成っていた。それ故に、その方面に退治すべき
勢力が出た時には、彼らは山を越えて我等に人数を遣わし、我勝ちに馳走こそするが、我等に対し
通路を遮断するような事をする衆は居ない。当然我等はそれぞれの地域の城々に油断なく手当をして
いるが、普段より良い関係を構築しているからこそ、人々が心安く往来できるのだ。

古い書に『故得萬國之懽心、以事其先王。(あらゆる国の歓心を得ることが出来てはじめて、
亡き先王の祭祀を行うことが出来る。』とあるが、それに叶った話であろう。」

(老翁物語)



御奉公ほど難儀なものはない

2019年11月19日 17:38

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/19(火) 05:28:15.75 ID:F/WKH0BG
現在は天下御一統の御代となり、私戦によって他国を謀り入れる事は無くなった。

当時、戦乱の世の中だった頃は、国々で私に取り合いをして、その領地を得るのは手柄次第という
世の中であり、他国に調略のため遣わされた衆などは、相手も警戒しているため事々に咎められ、
戒められた。なんとか縄抜けなどをして帰国することが出来た者も、その帰路様々に考え

「世を渡る業の中でも、御奉公ほど難儀なものはない。今度まかり戻ったあかつきには、
やがて許可をとって実子養子などに所帯を譲り、私は奉公から抜けよう。」

などと思って帰国し、出仕するのであるが、主君と対面し御盃を下され、働きの様子など尋ねられ、
それを聞かれ少々の御落涙までなされ、様々に忝ない御意を与えられた時は、ある歌に

 いく度か 思ひさためてかハるらん 頼むましきは心なりけり
 (何度思い定めてもいつもその決心は変わってしまう。 頼みにならないのは心というものである。)

と申す如く、人の心というものは移ろいやすいものであり、この時にはまた
「明日にも御用を仰せ付けられれば、どこであっても参ろう!」
などと存ずるようになってしまうのだ。これは古き衆の申したものである。

(老翁物語)



592 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/19(火) 06:12:13.64 ID:c7+9ePhx
現代社畜の1人ですが、今も昔も変わらないんやなぁって思いました。

あまり顕栄でない血統の一貴族

2019年08月28日 16:01

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 22:09:29.53 ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述



足利義昭の最後

2019年04月13日 12:46

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 01:16:19.42 ID:rxTT5let
さるほどに足利義昭公は、持病に癪があったのだが、突然大きな発作を起こされて、世の常成らず
苦しまれた。されば御内の人々も、昼夜御前にあって看病した。また毛利より派遣された御伽の僧たちが、
芸州にこの事を報告すると、やがて毛利から名医が派遣された。これが医術を尽くして治療にあたったが、
前世の行いによって定まった寿命に限りがおとずれたのか、日に日に御気色衰えられた。
人々は「これではどうにも成らない」と、今更ながら驚き嘆いた。

このような中義昭公は、鑑首座という禅僧を御枕近くに召して仰せに成った

「私はたまたま武将(将軍)の家門に生を受けたと言っても、戒力薄くしてその徳備わらず、
そのため織田信長に一度救われ、厚恩謝し難く思っていたが、やがて信長自身が時めくために、
忽ち私を捨てた。しかし秀吉がそんな私を情を以て労り、どうにかこうにか光陰を送っていた所、
毛利輝元よりは大分の扶持を加え参らせ、その上種々の懇志、この世成らず、後世までも忘れないだろう。
この旨を心得ていてほしい。」

などと仰せに成ると、首座も涙にむせび、ややあって

「上意の通り、つぶさに畏まりました。さりながら、心細く思し召しに成ってはなりません。
御気色は未だ普段と変わりませんから、程なく御快気なされるでしょう。今回は御持病がたまたま
甚だしい発作を起こしたので、いつもよりも弱らせているのです。」
そう励ました。

その後義昭公は侍女を召して、「御料紙箱に色紙が2枚有る。ここへ持って参れ。」と命じ、
「首座、お主がいつぞやに色紙を望んだことが有ったが、ついとかくにして放置していた。
今はこの世の名残であるから、これを取って、形見にしてほしい。」

そう仰せられて、首座に下された。首座は頂戴し、涙を流しながらそれを見ると、そこに
古歌が書かれていた

 いずくにも こゝろとまらば すみかへよ
         ながらへばまた もとのふるさと

 朝露は きえのこりても ありぬべし
         たれかこの世に のこりはつべき

かくて2,3日あって、いよいよ衰弱されたが、暁の頃に、監物入道(柳沢元政)と侍女を召して、
密かに仰せられること暫く有って、其後は仏号をひたすらに唱えられ、明け方に眠るように臨終した。
紅顔は忽ち変じて青色の肌となって生気を失い、浮世の面影も無くなってしまった。
無常のならいでは有るが、あわれに儚く覚える。
御遺言にまかせて、火葬にされ、御骨を拾い上げ、高野山へと納められた。
御戒名は、入道なされた時の号『霊陽院昌山道休大居士』と申し奉った。

こうして御後のいとなみは、このように執り行われ、そうして御中陰が過ぎると、御局は京へと
送られた。万事、御遺言にまかせて行われた。

(室町殿物語)

足利義昭の最後についての記事。



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 07:56:06.56 ID:g5p7ulF5
>>849
前政権のトップにしては幸せな老後だったといえそう

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 11:23:47.15 ID:Pbv+XVB/
確かに
人生全うできたのは大切
本人はまた違ったのかもしれんが

池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


秀吉はまことに前代未聞の大将なり

2019年02月16日 17:31

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 18:10:30.03 ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 20:26:06.18 ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 21:44:28.69 ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:15:30.40 ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:51:55.60 ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:13:36.59 ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!

毛利輝元「これも私の分の悪さです」

2018年09月26日 17:46

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 00:19:16.40 ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 02:35:15.07 ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 06:59:36.43 ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 16:07:48.69 ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 21:54:37.66 ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

2018年06月30日 21:10

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 14:43:23.66 ID:wJckDjva
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って


以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。


私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。


――『毛利家文書 一一五七号』



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 15:08:18.32 ID:0QCKxBzw
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 16:38:51.60 ID:WAV9ogJV
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 17:46:36.57 ID:v37hq9s4
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/30(土) 19:49:43.61 ID:Gy5MCzvM
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/01(日) 21:47:16.21 ID:X9OW92xd
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる

夫の留守を守った妻

2018年03月09日 11:00

685 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/09(金) 04:06:05.15 ID:VpSRa6pd
夫の留守を守った妻

市川局。
石七郎兵衛尉経守の娘。一説に宮荘下野守基友の娘とも。
正確な名前は伝わっておらず夫は毛利元就の重臣、市川経好で周防、高嶺城番

1569年、毛利は九州へ上陸し豊前を攻略し筑前立花城攻略に向かっており
大友軍と激戦を繰り広げていた。

大友宗麟は毛利軍の背後をつくため元々周防を治めていたに大内氏の一族である大内輝弘を密かに周防へ上陸させた。
上陸した大内輝弘は大内の残党を糾合。
高嶺城へ襲いかかった。

夫、市川経好は九州へ従軍しており城中は留守を預かるわずかな兵と市川局や女中達のみであった。
しかも高嶺城は主郭を中心に、四方に郭を配している山城で、守りには不向きな構造。

しかし市川局は徹底抗戦を決意。
自ら総指揮をとり女中を従え,女中ともども甲冑を帯び,下知を加え,長刀をもって戦った。

大内軍は毛利軍が九州から戻る前になんとしても周防を制圧したい。
大軍で攻めるがどうしても高嶺城を落とせない。
焦った大内軍はとうとう諦めて包囲を解いてしまった。
守り抜いたのである。

その後毛利軍が北九州から救援に到着。
大内輝弘は敗れ自害した。


のちに毛利輝元から「比類なし」と称され感状を与えられた。
が褒美はなぜか夫の経好に。
長男の元教は大友宗麟に内通した罪で殺害される。

天正13年3月6日死去。 『萩藩閥閲録』



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 12:21:13.51 ID:2sJpI6MT
>>685
最後のオチが酷いw

秀吉の恩顧、度量に

2017年12月04日 19:52

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/04(月) 19:41:43.17 ID:nc3y9iGR
豊臣秀吉のもとに、毛利輝元が初めて出仕したときのこと。

毛利は天下第一の大名であり。中国は残らず彼の威風に属していた。
然らば、秀吉も定めて礼を正し、威厳に満ちた対面をするだろうと、人々はそう考えていた。

ところが、秀吉は輝元を対面所に暫く待たせ、その後、帯を手に持ちまるで形式張らない
格好で、女の禿(かむろ)に腰刀をもたせで現れると、その姿のまま輝元に対面し、
直に彼の手を取って立たせ、古のことなど色々と物語しつつ、大阪城内の座敷を一つ一つ
見せて周り、それから天守へと上がり、大阪の四方の繁栄を見せつけ、その場で刀を与えた。

それから座敷へと下り、庭に馬を曳かせた。
秀吉はその馬に乗り、輝元に馬の口を取らせた。その後馬は輝元に与えられた。

これにより毛利は尽く秀吉の恩顧、度量に平伏し、あるいは親しみ、あるいは恐れたという。

(士談)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 23:30:56.61 ID:fZVtOxA0
この人たらし

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:09:32.78 ID:IcvXM8GT
毛利元就ならともかく子供世代なら話にならないよなあ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:16:06.00 ID:6zYKbT+/
帯を手に持ち
って、帯つけてなかったってことか?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:17:07.77 ID:mUJQieT7
>>493
毛利なんて豪族の連合体だから脆いよ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:31:58.39 ID:5WkMmMJn
なにいってんだこいつ(AA略

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 17:49:43.46 ID:upLVsY/+
>>495
武田信玄「まったくだ」

赤川元保誅罰

2017年10月26日 18:20

184 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:13:35.86 ID:w2ASLYq0
赤川元保誅罰

嫡男隆元が早逝した責を理由に切腹に追いやられたされたとされる赤川元保の別のお話

赤川左京亮(元保)は近年、大友氏の抑えとして長門の国府、勝山に駐屯して居たがある日元就の命によって誅罰された。

左京は武勇に優れ、知恵もまた他の人よりも優れていたので元就様は輝元様が幼少の頃からその教育係として付けていた。
この為周囲の人々は左京を粗略には扱わず、左京は次第に驕り高ぶり傲慢な振る舞いが目立つ様になり、
遂には己が教育係を勤める輝元様が毛利家当主となれば自らの権勢はより高まるであろうと考えたか、左京は輝元様に

「輝元様も良いお歳になられました。いつまでそのままでいらっしゃるおつもりですか?元就様もうずいぶんご老衰のようですので、家督のことを急がせたとしても誰が反対しましょうか」
などと強弁していた。当時輝元様は志学(十五歳)の頃であったが、年齢よりも成熟した賢将で
「左京は邪な事を言っている。放ってはおけない」
と考えられ、元就様に直接この事を相談した。
「急いで京兆(左京亮の唐名)の首を刎ねてください」
との輝元様の言葉に元就様は
「左京め、驕りが過ぎるだけでなく、まだ二十歳にもならぬ輝元にこの様な邪な事を吹き込むとは、放っておけば秦の趙高か唐の安禄山が如き者となろう」
とお考えになり赤川左京を誅罰なさり、吉田の隅と言う地に住む左京の弟源右衛門には粟屋弥四郎、粟屋右衛門を差し向け、粟屋弥四郎が刺し違えて彼を討ち取り、
左京の養子又五郎には桂能登守が手勢数百人で囲んだが、屈強な又五郎の前に数十人が切られ、寄せ手は立ち往生してしまった。
そこへ粟屋彦右衛門と言う小兵の者が現れ、物陰に潜むと又五郎が数箇所手傷を負って眩暈がしたのか、しばらく息を整えているところに走りかかって引き倒し、取り押さえて首を切ってしまった。
又五郎は彦右衛門程度の小男ならがんじがらめにできるほどの大力であったが、
彦右衛門に組み伏せられてろくな抵抗もできずに討ち取られてしまったということだ。
彦右衛門もこうした大力の者と知りながら、自分の力が劣っているのも顧みず、無手と組んだその意気が立派であった。

(陰徳記)

185 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 19:17:34.15 ID:E3GEJJbr
ちなみにこの最後に出て来る粟屋彦右衛門は幼名を源二郎と言い、既 十六歳の折に元就の命令で、元就の妾と密通した木原兵部少輔を討ち取った男でもある。

既出の逸話
毛利元就、妾のもとに忍ぶ男を
を参照。



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 20:41:48.26 ID:CcjnGyV8

そして子供の頃は賢将だったと書かれる輝元

川通り餅の由来

2016年12月21日 17:28

446 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 07:20:38.66 ID:Ex3Uxlra
川通り餅の由来

12月1日、広島城下の人は餅を食べる習慣があった。
 それは城下の人だけでなく、郡部もであり、このことを「川通り餅」と言ったり「膝塗餅」とも言ったそうだ。
 この餅を食べたら、川を渡っても転ぶことがないと言い伝えられている。」

この由来は正平五年(観応元年,1350年)十二月一日、毛利師親が石見の国の佐波善四郎との戦いで江の川を渡ろうとした際、川の水面に浮かび上がった石が鐙に引っ掛かった。
師親はそのまま戦に臨み合戦に勝利し、この時鐙に引っ掛かった石は神の助けに違いないと持ち帰り、宮崎八幡宮に奉納した。
師親が治める安芸国吉田庄ではこれを祝って十二月一日に餅をこの小石に見立てて食べるのが習慣となり、その後子孫の毛利元就にも引き継がれ、
元就の孫の毛利輝元が吉田郡山城から広島城へ本拠地を移した際に川通り餅は広島城下から安芸国全体へと広まったのである。

今では広島の銘菓として、親しまれている。

(知新集、高田群史、亀屋のホームページより)
http://i.imgur.com/FOegWlI.jpg
FOegWlI.jpg




447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 08:41:22.82 ID:TUG5wkvm
>>446
広島住みだけど、子供の頃やってたCMが怖かった思い出
能?の鬼が出てくる

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:48:24.78 ID:YU7aAtsW
>>447
あれは文楽だよ
https://youtu.be/ZhvuwRwmYmg

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/21(水) 09:57:07.62 ID:YU7aAtsW
すまん、こっちも有った
https://youtu.be/6qT6wJz7J3s

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 11:26:32.70 ID:Iy76MskG
最近(でもないか?)武将の逸話が出尽くしたのか
風俗ネタが多いね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 12:01:41.46 ID:TUG5wkvm
>>449
まさにこれです!
夕方のアニメの時間帯によく流れていた記憶があります。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/21(水) 16:15:04.15 ID:3vDWZHcv
>>446
666年も前から未だに伝わるとは…

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



はや此分にては身上続ましき…

2016年10月10日 10:34

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 10:23:21.32 ID:cTGsgr3g
入道し毛利宗瑞となったTERUは祖父に鉄拳制裁を食らうわ叔父たちにガミガミ言われまくってた若き日々のことを回想しこう書き残している

…日頼様(元就)余御折檻候上に隆景元春さし合種々異見達被申、はや此分にては身上続ましき…

――『毛利家文書』より抜粋



伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

毛利輝元の評

2015年09月20日 17:24

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/20(日) 01:09:46.85 ID:Mj1rml0Y
 輝元なる者がいる。京西の大師である。壬辰の役に元帥となった者である。
安芸中納言と称し、あるいは毛利中納言とも称している。(安芸は州名であり、毛利はその姓である。)

 まさに百済が亡ぼうとしたと時、臨政太子が船に乗って倭国に入り、大内左京大夫(倭人は王を大内という。それで、今に至っても、周防
州に大内殿の称号がある。)となって周防州に都した。その子孫は、四七世を歴る間、代々倭官となってその土地を継いだ。輝元の祖先はす
なわちその従者であった。臨政の裔は多々良氏となり、輝元の祖先は大江氏となったが、のち、毛利氏と改めた。臨政の子孫がすでに絶えて
しまってからは、輝元の祖先が代わってその土地を継ぎ、安芸州の広島に都した。

 物資にすぐれ、富んでいるのは、倭京に擬えられる。

 その風俗は、倭のうちでは、いくらかつつしみ深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気象によく似ている、という。

 輝元の年はその時四八、その食邑は京西、九州にわたっており、土地の所出は150万石、しかし実際はこれを越えている。

 宇喜多秀家ともども、賊魁(豊臣秀吉)の命令におさえられて、やむをえずわが国人の鼻を削いだ時も、いくらかわあわれみの気持ちが
あった、という。
(看羊録)

姜コウ、というよりも藤原惺窩? からの評価が高いことを忍ばせる毛利輝元の評