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あまり顕栄でない血統の一貴族

2019年08月28日 16:01

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 22:09:29.53 ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述



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毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」

吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契

2018年07月21日 18:14

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/21(土) 17:06:40.52 ID:t7W75aUO
天文18年8月3日、毛利元就、隆元、吉川元春小早川隆景の父子四人は山口へ下向した。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。

また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度元春に進められたのだ、と聞き及んでいる。

(安西軍策)

陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話


槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

元就と隆元の近習頭の友情

2016年12月03日 20:56

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 09:23:58.64 ID:etEgTkDh
元就と隆元の近習頭の友情


坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んで以来、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
槌山攻めの際、粟屋は吉川元春配下の新庄勢に紛れて共に抜け駆けし、鑓を合わせて坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元の近習頭だったので、隆元の旗本を離れることができず、
また隆元より全軍に抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就の近習頭だったので、隆元の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
抜け駆けの際に手負いとなり、療養のため寝込んでいる粟屋のところへと案内も通さずに乗り込んでいった。そして
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 20:11:42.18 ID:vFOgTN/w
と言って傷口に塩を塗り込む強かさも兼ね備えていた

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 20:46:51.14 ID:cNzBp7tS
この坂新五左衛門は父親が元就の弟の相合元綱の謀反に加担した坂広秀なんだね
後には雷神立花さんとも戦ったりしてるのな

隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

2016年11月23日 14:08

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね~成否が士気にかかわるのよ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…

342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか

毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~

2016年03月25日 18:24

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:22:56.31 ID:hbwHPgnY
ちょっと訳しきれなかった所あるからあやふやだけどご勘弁


毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~

一、目上の方とご一緒する時は、下にむしろを敷いてはいけません。

一、風呂の湯殿に入る時は、自分の垢をきれいに掻き落としてからむしろを敷きます。
  主人が上がったら、いつまでも湯殿の中に残っていないで上り殿へ上がりなさい。
  本当に上がる時もちゃんと上り殿にいて、主人が帰った後は小風呂に入りなさい。

一、元結やさくすは小者に言って取ってもらいないさい、自分で取り寄せるんじゃない。
  湯殿の衆が上り殿に出てきたのに、小者達を上り殿に上げずにいたらこういう用がこなせません。
  前もって小者を上げておくこと。


当時の風呂も裸の付き合いとか言いながら、
会社の慰安旅行みたいに色々気を遣わなきゃいけないとこあったんだろうなーと
悲哀を感じたので悪い話で。
こんなマナーをメモに残しておくなんて、お兄ちゃん何かあったの……?




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:29:41.72 ID:gM8E/NV1
蒸し風呂とはいえあまりそこいらにあるものじゃないから、
使用方法に慣れてなかった人が多かったんじゃあるまいか

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:43:06.27 ID:VMlfcDmH
さくすって何?

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 23:11:11.56 ID:o+FjbNAE
さくすでググったらスクラマサクスって剣が出てきました

425 名前:421[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 23:14:41.69 ID:SiAtBDJm
>>423
すまん、自分もさくす分らんかった
元結と一緒に書かれてるから身の回りの品なんだろうとは思うんだが

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 11:13:55.44 ID:OLtmf2Ma
サクスもだけど、元結ってなんでしょうか?

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 11:59:42.46 ID:ZcUwe5A0
サクス…ザ・シンプソンズでリサが吹いてるやつだろ

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 12:03:06.67 ID:tbZyYa43
文七元結という人情噺でしったが髷を縛る紐

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 13:25:17.28 ID:10Tr2RE8
髷を結う紐だから、それに関係する物じゃないかな?
櫛とか椿かなにかの植物油とか、あるいは酢かもしれん

毛利隆元の急死

2013年01月06日 19:54

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/06(日) 11:02:16.22 ID:gKzfWS5Z
永禄6年(1563)、毛利隆元公は大友との和平締結に成功すると、7月10日、本拠地吉田郡山に帰還。
翌日、城内にあった嫡子・幸鶴丸(輝元)公と正室福原殿を城下の宿舎に呼び寄せ、三献のあとお供の衆も
召し出し、近年の戦局の次第、今回の大友との和睦のこと、公方方からの上意のこと、そして何より、
父・元就公が数年にわたり油断なくお心遣いされており、ご苦労されているのだということを、心静かに
仰せられた。

そうして幸鶴丸公母子を御城に帰されたが、久しぶりの妻子との再会だというのに、あまりうちとけない物であった。

腰を落ち着かせる間もなく、翌12日には尼子攻めの出雲戦線に合流すべく吉田を立ち、佐部という場所で
軍勢の集結を待ち、8月5日には出雲に向けて出立するということになった。

その直前の3日夜、和智誠春に招待されそこで夕食を取り、本陣に帰られた。
翌4日夜、にわかに体調が崩れ、そのまま隆元公は急死した。
これに下々に至るまで嘆き悲しむこと、言語を絶する程であった。

御遺体は吉田大通院に納められ、葬礼相調えられた。御法名は花渓常栄大居士とされた。

隆元公はその御一生の間、行跡能く御孝行を第一に考えられていたので、『平重盛以来の御名将である』と、
他国の人々も揃って唱えていた。

隆元公が最期に吉田に帰られた時も、2日ほど滞在されたのに、遂に御城には入られなかった。
どうしてかと尋ねられると、隆元公は

「今、父上は雲州において、昼夜ご苦労されているのだ。そんな所に、例え一夜であっても自宅に立ち寄るというのは、
あまりに気ままのように思う。
まあ、父上に対する敬意だよ。」

そう仰ったのだという。

御孝行の事など書き付けるのは、畏れ多いことだとも思うが、旧記によればこの様であったとの事である。
(吉田物語)

吉田物語より、毛利隆元急死に関する記事である。




42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/06(日) 15:19:37.82 ID:6Fgka5PV
平重盛とかw後世の作り話かよ
子供がいたら三好義興も揶揄されていたんだろうか

隆元死後に書簡を読んだ隆景と元就の反応

2012年08月01日 20:56

805 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/31(火) 20:31:19.30 ID:gQleTZO7
改めて確認したところ、隆元死後に書簡を読んだ隆景と元就の反応についてはまだ挙がっていなかったためまたもや拙い訳ながら投稿。


小早川隆景書状
書簡を拝見致しました。常栄(隆元)の書き置き数通を読みましたが、誠に是非に及ばぬ次第であります。
これ程までに思い詰めていたとは、言うべき言葉もありません。
おおよそ全ての事は紙面から伝わりましたので、更に論ずるまでもありません。
今世、来世の二世までもあなた様にお頼み申し上げておりましたようですので、
安芸に上国されて隆元のために一寺を建立して頂く事を肝要に思います。このこと、
私と元春も力の限りを致すつもりでおります。
元就の御心底についてはお察し下さい。
一寺建立の儀については急ぎお願いしたいとの事であります。
詳しくは昇蔵司に申し含めておりますので、よろしくお願い致します。恐惶謹言。
卯月十一日 隆景(花押)

(『毛利家文書 七六三』)
毛利元就書状
寄越して頂いた隆元の書き置きを日々拝見しております。
何と言えばよいのか、とても言葉では言い表せず(原文:言語道断)、感涙に堪えません。
これ程までに禅師を頼られているとは知らず、とても感謝しております。
是非とも御上国下さい。
また、お越しになられた際には隆元の菩提を弔ってやりたいと思います。
詳しくは昇公に申しております。恐惶謹言。
卯月十二日 元就(花押)

(『毛利家文書 七六四』)

元就の文書に関しては隆元の書簡を読んだ元就が本当に「言語道断」であったが如く、短い文であります。


関連
毛利隆元の苦悩
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6646.html


806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 21:36:30.36 ID:41vm73fE
隆元って大内家からすごく厚遇受けてたんじゃなかった?
毛利の時期当主だからと言うだけじゃなくて個人的に気に入られていたとしか思えないくらいだったような

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 22:37:19.87 ID:JY1+A6Vs
家康もあれで今川から結構厚遇されてたしなあ
世継ぎを人質ってのはうまく教育(洗脳)して自分たちのシンパにしてしまうって意味もあるからね
厚遇しない理由がない

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 23:34:42.82 ID:+6SRIQEk
家康が武士としての礼儀に五月蠅いのは今川家の教育が効いているのだろうか

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 00:02:08.86 ID:tn5qtDWN
これだけショックを受けるってことは隆元の表の姿と相当落差が激しかったんだろうな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 10:42:16.50 ID:lDuJTCjx
お兄ちゃんはミもココロも大内で教育された人だからなあ

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 11:14:20.55 ID:lnubV3dS
親父がいるとはいえ、当主の隆元が書簡にあるような心中を表に出してたら
家臣が逃げ出さない?

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 16:57:27.13 ID:ObEW6HMJ
(●ω^)「そんなネガティブじゃ家臣逃げ出しちゃうよ!俺みたいしてなきゃ。」

毛利隆元の苦悩

2012年07月30日 20:56

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/29(日) 19:51:59.08 ID:X5+SVVPC
毛利隆元の苦悩
天正二十三(1554)年三月十二日付けで、当時三十二歳であった隆元が、深く慕っていた一つ年上の
竺雲恵心に送った有名な手紙。
前にもちょこっと挙がってたけど、拙い訳で全文挙げてみる。



「恵心公宛隆元自筆書状」
謹述胸念
一、来世の善所(極楽)の事については、強く心に留め置いております。ですから、心の及ぶ限りに
  善根(善い行い)を積むように致したく思っております。

一、娑婆(現世)については、果報は一つもないと見ておりますので、何を恨む事がありましょうか。
  これも前の世の報いと弁えておりますので、殊更思い悩む事もありません。

一、私の一生は、先の易にも見えておりますから重ねて申し上げるまでもありませんが、私は
  無才無器量であるだけではなく、これは必然であるのかも知れません。

一、我が家も、父・元就の代で終わりと見えます。
  私の代で家運が尽きてしまうのも因果の道理に従っており、これも必然の道理であります。

一、他の諸家の有様については論じてませんが、この国も悉く変わりました。
  それは至って明白な事であります。
  また、そのような中で、当家だけがこの世に今日まで存続して居るのは不思議な事に思います。
  これは、偏に父・元就の信心の故と思います。
  私にはそのような信心がないため(原文:サノミハナキ習ニテ)、毛利の家運の尽きる時に当たり
  生まれたのだ、と思っております。

一、当家は代々名を留めた当主が多いと言う中でも、父・元就ほど先代を超えた者はありません。
  ですから、私に才覚器量があったとて、到底父には敵わない事でしょう。
  私が形ばかりとて当主として存在していても、家臣や人の覚えは莫大の劣れがあり、況んや
  他国一円においては沙汰の限りではありません。

一、その上、私には無才無器量に加えて良く補佐してくれる家臣もおりません(原文:家ニ無人候)。
  只今はこのように思っておりますが、ただ偏に父の一心の心遣い、心労によってこのような状況です。
  家に賢佐良弼もおりません。これは物事を見知る以前のことでしょうか。

(続く)

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/29(日) 19:52:50.73 ID:X5+SVVPC
一、「灯火消えんとする時、光りを増す」の例えのように、家運もまさにこの時まででしょうか。
  この理は能く悟っておりますから、迷う事はありません。

一、兎も角、今生においては十分に良く知っています。偏に来世安楽の念願は骨髄に染みております
  (原文:偏ニ来世安楽之念願骨随ニ染ミ候間)ので、お頼み申し上げます。

一、右、私の心の内を申すままとしました。

一、このように申したとて、国家を保つ事は努々(ゆめゆめ)油断なく、力不足と言えども、
  懸命にその心がけを果たす覚悟でおります。
  その次第については、少しも疎かにしないようにしております。

一、右の心中については、胸の奥に納める覚悟であります。
  何れにしても、帰真の道理を覚悟するまでの事であります。

一、盛者必衰 一、生者必滅 一、会者定離
  此の理は悉く覚(さと)りました。
  一、天道満ヲカク、
  此の理を以って覚(さと)りました。


右の理を更に深く理解せずに迷っておりましたので、速やかに分別して悟りました。
誠に恐れ多いとは思いますが、確かに現世・来世の二世共にお頼みしたいので、私の念を
残すところ無く申し上げました。重ねてお頼み申します。恐惶。

天文廿三 三月十二日 拝進 恵心公
足下
タカ元(花押)

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/29(日) 20:00:00.81 ID:X5+SVVPC
出典は毛利家文書の七六一、「毛利隆元自筆書状」より
初めてこれをみた時、思わず涙がこぼれてしまいました。
この書状を隆元の死後に読んだ隆景、元就の反応について(毛利家文書七六三、四)は既出であったと思います。
長文失礼致しました。
 


関連
隆元死後に書簡を読んだ隆景と元就の反応
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6650.html


778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:00:37.39 ID:7LkG5TlJ
暗っ!ネガティブすぎるだろお兄ちゃん…

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:08:39.58 ID:yai3/TVz
>良く補佐してくれる家臣もおりません
家臣涙目

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:18:05.61 ID:CQQ1pKt3
ネガティブなのに金を集められる人って言うのは余程相手に信頼感を感じさせる人柄だったんだろうな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:18:31.06 ID:CW530lSZ
こんだけ悲観的に見てても結局代々存続して「うむ、そうせい」に行き着いちゃうのね

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:22:31.77 ID:xiCdRbje
しかしそうせい公は名君だぞ。財政改革で文字通り藩内全体から憎まれた村田清風への信任を
最期まで曲げずに貫いた人だ。

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/29(日) 20:38:43.36 ID:t6G27uqv
これ毛利が陶と対立する直前のものだから隆元はこの時自分の代で毛利家滅亡を覚悟していたんだよね。
しかしそれが逆に毛利家を大大名へと飛躍させるきっかけを作ったんだから大したものだ。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 00:24:30.22 ID:cFBHc3UN
>>782
攘夷と真逆の航海遠略策を長井雅楽に言われるままに
藩論にしてるし何でもそうせい言ってた単なる馬鹿だろ。


790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 10:17:15.10 ID:kNykqfY1
>>788
何でもそうせい言ってた単なる馬鹿なら藩内から憎まれたという村田清風は早々に排除されるのでは?

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 19:49:02.88 ID:qrNaWWrX
>>788
もののみごとにそうせい候に騙されてるなあw
幕府はこれで長州をなめきってやられた。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 20:55:24.84 ID:ayx0Ezqt
>>790
「あいつムカつくんでやっちゃってイイっすか」
「そうせい」

こうなるわな

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 22:53:13.64 ID:ffqDqkYL
担ぐ神輿は軽くてパーがいい

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/30(月) 23:20:43.99 ID:+FETX6Hb
おっと権現様の悪口はそこまでだ。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 01:02:14.86 ID:SHqZ/elM
つまり義昭公サイコーと

802 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/31(火) 04:27:48.16 ID:gQleTZO7
>>783殿の仰る通りこの時期は正に毛利家存亡の時で、
昨年の天文二十二年には三村元親と結んで尼子氏側の備中猿掛城を攻略し
雲州進出を目論んでいた頃に当たり、隆元の嫡男・幸鶴丸(輝元)が生まれたのも
この年だった。

毛利家内部では関係がギクシャクしてきた陶晴賢と断交するか否かで家中が
真っ二つに割れていて、隆元は元春、隆景、口羽道良ら重臣たちと「力のある今こそ、
大内義長を擁して賢(陶晴賢)を破るべきだ」
と元就に進言するけれど、
元就自身は「しかし仕損じては陶、尼子から挟撃され、毛利は末代まで失せる。
ならば晴賢に味方して家を保つべき」
と晴賢との断交に消極的な態度を取っていた。

評定は結局堂々巡りのままに過ぎたが、天文二十三年の三月に入って
晴賢の安芸国内の調略が明るみに出、遂に元就も断交の意志を固めた。
しかし陶方の兵力は圧倒的、今は吉見氏を攻めているために動けないが、
近いうちに進撃して来るのは必定だろう――

と、そんな状況の中で>>775-776の書状をしたためたと考えてもらえれば
より隆元の胸中、特に
>国家を保つ事は努々油断なく、力不足と言えども、懸命にその心がけを
 果たす覚悟でおります
なんて所についてはわかって頂けると思い申す。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 08:08:01.19 ID:26quZrkC
むしろ、親父を押し切ろうと、主戦派の筆頭みたいになってたお兄ちゃんの内面がこうだってのがすごいよね。
相変わらず、外見と内面が一致しない人だ。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/31(火) 14:51:32.67 ID:dL+82e8W
元就-隆元間の手紙でも陶こえーから援軍に行くわという元就に
陶は信用できない父ちゃんが闇討ちされたら毛利家は潰れると泣き脅しだからな
結局らちあかないと陶からの使者を国司元相に討たせて強制断交w

小早川相続と前主君のアフターケア

2012年07月15日 20:45

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 23:48:47.30 ID:kvHodi21
このたび御家(沼田小早川家)又鶴丸(繁平)殿より竹原隆景へご相続ができましたのは全て皆さま方のご好意によるものです
我々はこのことを感謝し尽くしても尽くせません
そこでこのご好意についてはこの元就・隆元親子は言うに及ばず、例え御家が没落したとしても忘れず
長きにおいて粗末な扱いをすることは決して致しません
もしこのことに嘘偽りがあれば、梵天帝釈・四天王・総ての日本国中六十余州の大小の神々
中でも厳島両大明神・八幡大菩薩・天満大自在天の各ご神罰を受けることを誓います

天文二十年 九月 二十八日   
                  隆元 御判
                  元就 御判
         乃美弾正忠殿

小早川家相続について毛利元就・隆元が前主君のアフターケアを小早川家家臣の乃美景興に誓約した
毛利家の真摯度の高さが伺える起請文である。
これにより小早川家中をまとめ傘下に入れることに成功した毛利家はさらなる飛躍を遂げることとなる。

それにしても日本国中の神様に誓約するあたり物凄く神様が大好きな一家である。




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 23:57:05.58 ID:z3/RZvqb
まあこの時に隆景に嫁いだ繁平の妹を隆景は終生大事にしているしなあ
18の時に5歳くらいの嫁もらったんだっけ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 01:12:17.16 ID:68CsjlVo
毛利の三兄弟は誰も側室を置かなかったんだよね。
隆景さんとこは結局それで跡継ぎができなかったわけだけど。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 01:15:42.13 ID:p3aX0lDK
そういえば隆元は嫁さんに会うのにも必ず正装してたそうで。
どうも正妻との接し方について、元就は三兄弟に特異な教育をしてたんじゃないかとも思ったw

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 01:34:29.58 ID:Lo5S5Bcf
元就自身も三兄弟+宍戸へやった娘を生んだ正妻の存命中は側室置かなかったしね

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 01:35:39.72 ID:eIIROuzv
気のせいかだんだんTERU批判に見えてきた

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 07:42:58.19 ID:YQ2Ny3GU
>>411
あと少しで神無月だから滑り込みセーフだね。



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 12:49:06.54 ID:iinS7Ung
>>413-416
       ____
     /⌒輝⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   反面教師にして子孫残すことを図ったんだお!
  |     |r┬-|     |
  \      `ー'´     /

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 14:33:07.38 ID:c756xxfQ
>>428
祖父様の優秀な息子達に比べTERUの息子は困った息子達だったけどな

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 17:27:35.50 ID:N0wCnUmP
   / ̄ ̄\    
 /   _ノ  \   まだ足らなかったようだなjk
 |    ( ●)(●)
. |     (__人__) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\                /⌒l
  |     ` ⌒´ノ   ――--、 \――――----------ノ  /
.  |         }   ・     \ ヽ             /
.  ヽ         }         「 )))――――――――<    __
   ヽ     ノ   ・     /  /             \ / ̄ 輝⌒\
    \         ----―´ /--------―――――ヽ ヽi; ノ  (●) \
      \_______/                 ヽ丿 (●)_人__)⌒::l
                                    、  ノ:⌒ヽrっヽ:゚/ ぐぇあ
                                     ヽ__ `~'
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431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 20:27:41.91 ID:KEpI+rBp
>>429
しかし、TERUが毛利家伝統の長説教をしたためなんとかお家の大事には至らなかったという

元就と隆元が末っ子に会いに行ったようです

2011年11月25日 22:00

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 08:01:13.43 ID:vL8kGYKT
元就と隆元が末っ子に会いに行ったようです
毛利元就父子雄高山行向滞留日記)

永禄四年(1561年)
 3/26 元就・隆元吉田発、椋梨に宿泊
    隆景から挨拶の使者が送られる
 3/27 一行、隆景の居城雄高山(新高山城)到着、隆景が麓まで出迎える
    元就は井上春忠私邸に滞在、井上の饗応に隆景がご相伴
    隆元は巨眞寺に滞在、夜になって隆景が小魚持って訪ねてきたので数時間一緒に酒を飲む
    熊谷信直(元春の名代と思われる)・保利中務が到着、元就・隆元に炭薪などを贈る
 3/28 会所にて大宴会、能・七五三膳
 3/29 元就・隆元、御女中様(隆景妻・その母など)に御礼、饗応
 3/30 桂右衛門大夫の私邸にて宴会、五三々膳
閏3/01 会所にて大宴会、能・五三々膳 生鶴(鶴の刺身?)
閏3/02 連歌会、蹴鞠の会
    茶湯の間にて太平記読み、この夜隆元は奥の座敷に泊まる
閏3/03 会所にて宴会
閏3/04 隆元、宿所にて隆景をもてなす
閏3/05 お別れの大宴会、能・五三々膳
閏3/06 元就・隆元出立
    帰路のついでに栖眞寺で滝を見物
    見送りに来た隆景が栖眞寺で一行(近習衆まで含め百人余り)に一献を振舞う

約十日間ほぼ連日宴会とか、「生鶴」って何そのメニューとかいろいろツッコミたいが
とりあえずこれだけは言いたい

隆元と隆景だって仲いいんじゃん
でなきゃ何時間も一緒に酒飲まないよ
疎外されてないよ、自信持ってよお兄ちゃん!





737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 10:01:42.41 ID:H4stbxKS
生鶴w
なんかハードなスケジュールだな(胃腸的な意味で)

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 10:29:16.63 ID:9HSimLpx
鶏の刺身はあるらしい。
鶴はわからん。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 11:09:14.58 ID:UHoEpYcf
あるらしいってw
今でもあるじゃん

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 11:41:19.60 ID:fG26fPDD
つーかこの場合の「生鶴」は、鶴の刺身とかではなく、「生きた鶴をその場で〆て料理したよ」
ということだろう。

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 15:50:54.42 ID:8zPYxI2l
鳥は血抜き処理と羽根むしるのに時間かかるで
その場で殺して食うとか無理だと思うで


742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:07:18.76 ID:IfoxjoTk
鬼武蔵さん大蛇を生で食ってたような…

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 16:14:43.19 ID:6NgHtMm6
隆元が弟と仲良く酒飲んでる姿を想像してほっこりした
そして連日宴ってすごいなぁ 島津(善)家久の話でもあったけど
昔は持て成しっぷりが半端ねぇ

生鶴といえば、織田信長から近衛前久によく鷹狩で取った獲物を贈られたというけど
天正八年十二月に贈られた鶴が「生鶴」で、前久はそれを座敷に掛け置いて
吉田兼見に見せたらしい そして二人は生の鶴を見たのがこの時初めてだったそうな
(兼見卿記より)
二人ですっげーとか言ってる姿想像したら、なんか和んだ

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 17:06:39.31 ID:pMvdd0Hm
平安時代の話だけど…
三河では風祭という生贄の習慣(生きながらに料理とか)があった。
三河守大江定基は、彼の郎党たちがキジをとらえてきたのを見て、
「この鳥を生きながらに食べるより、もっといい味になる方法を試してみよ」
とさとしたが、郎党たちは勘違いして、キジの毛をむしり、生きたまま火あぶりにしたために、声を上げて泣いた。
そしてその日のうちに国府を出て京へ上り、出家して寂昭と名乗った。後に唐に渡ったらしい。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 18:49:21.95 ID:h3bopwSe
幽斎さんなら生きたのでも一瞬でやってくれるかもしれんw

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 19:59:45.97 ID:hUDrpAZQ
原始人みたいだな

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/25(金) 20:06:15.20 ID:KfWxEQIV
生きたまま火あぶりにしたら血が回りすぎてまずくなると思う

隆元の孝心

2011年09月05日 22:05

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 20:21:53.74 ID:UU7jyu51
ほいじゃそれがしも地味兄ちゃんのお話を。

永禄六年(1563年)七月、将軍家の仲裁によって毛利と大友の和睦が成立し、
毛利隆元が防州から出雲へと向かう途上のこと。
隆元は途中、厳島に滞在していた聖護院道増(将軍・足利義輝の使者)に挨拶した。

「長いこと防府に駐屯してたので、愚父・元就にずっと会っておらぬのですよ。
日に日に老い、さぞ疲れも溜まっていることだろうと心配しておりましたが、
将軍様の調停で大友との和睦が成立したので、
やっと父に会いに行くことができて、最高に嬉しく思っています。
大友征伐が完遂できなかったのは本意ではありませんが、
ともあれ、父に会えるのは喜びのきわみでございます」

さらに数日後、吉田郡山の麓に到着した。
帰城して4、5日なりとも休息をとってから出立しましょうと言う家臣に、隆元、

「長らく父上のお顔を見ていないのだから、大友と和睦がなったうえは、
できるだけ急いで父上のもとに見参すべきだ!
父上はこの六・七年ほど、出雲の大敵・尼子に対峙して、
お眠りになるにも席をお空けにならず、食事をなさるにも味をお忘れになるほど、
心身を削っていらっしゃるのだ。
それなのに子の私が、一人だけ楽をするために家に帰ろうなど、
不孝もはなはだしく、天に顔向けできることではない!」

と言って目の前の家城には立ち寄りもせず、一路出雲を目指した。
人々は口々に隆元の孝心を賞賛したそうな。

大友征伐に意外にもイケイケだった隆元。
どんだけ父ちゃんが恋しいねん、というお話。
まあ、会う前に死んじゃうんですけどね。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 20:35:01.98 ID:UuF0Kzeq
>>463
隆元本当にお父さん大好きなんだなあ…尊敬しているというよりお父さん子な印象だ
大友征伐したかったとか、さらっと物騒なこと言ってるが、やはり隆元も戦国時代の人間なんだな

>>まあ、会う前に死んじゃうんですけどね。
何たる悲劇…

天文七年三月七日・山口の大火事にて

2011年09月01日 22:02

367 名前:sage[] 投稿日:2011/09/01(木) 00:54:00.60 ID:2OZgzHLc
防災の日&毛利隆元の命日らしいので

天文七年二月下旬から三月上旬にかけて、山口では火事が多発していた。
二月二十五日、二十七日、翌月三月三日、七日と、放火なのか事故なのかはわからない。
なかでも三月七日に本町で発生した火事は「七日、本町家百はかり燃候」と記録されている。

この大火事のときに、鎮火のために奔走した集団がいた。
去年の天文六年十二月に、山口に人質としてやってきた毛利隆元が従えていた者達である。
隆元の山口での人質生活を書き留めている「毛利隆元山口滞留日記」には、

「此方衆走あひ、火をしつめられ候、其時内藤彦太郎殿爲御使、御館様御褒美にて候」

と記されており、具体的に何をどうしたのかは書かれていないが、大内義隆から褒美をもらうほど活躍したらしい。

のちに「優柔不断」と父・元就に評されてしまう隆元だが、一大事という時には部下を適切に動かすことはできたのだ。
まあ、隆元が自主的に動いたんじゃなくて「人手が足りないから手伝って!」とか言われたからかもしれんけど。

山口で人質中の隆元十六歳と、その配下のちょっといい話。




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 01:03:57.55 ID:6aZ2QESu
隆元の逸話きたー 16歳で凄いなあ
防災の日と隆元の命日が一緒なんだ 災いを防ぐ日なのに…

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 01:55:43.80 ID:YDkSPVnw
子孫が後の消防士である

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 06:15:18.50 ID:gjgHNumR
隆元の指揮下で動いてたというより
勝手に消火活動に奔走してたって感じの文だな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 07:33:41.12 ID:5chSyWAG
>>370
火付け役だろ
>>371
頑張れば若さまの評判も良くなるからね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 09:59:58.04 ID:MpLLgyi8
>>371
だよな
毛利隆元が指導力を発揮したなら具体的に書くはず、毛利側の史料なんだから

毛利隆元『名将の子供には、必ず…』

2011年01月05日 00:01

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/03(月) 23:37:36 ID:YjbfaFUK
『名将の子供には、必ず不運な者が生まれるものだと世間では申しています。
その言葉の意味、私にはよくわかります。』

(名将の子ニハ、必ず不運の者が生まれ候と申し候事、存知あたり候。)

これは毛利隆元が、彼が帰依する国清寺惠心に送った書状の一節である。
隆元の苦しみが垣間見られる、印象的な言葉であろう。




261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/03(月) 23:45:20 ID:lW+pdgvy
どこまでもキャラがぶれないな、隆元・・・鬱々としておられる

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/03(月) 23:54:12 ID:AnZ71xIa
小田政治「・・・・・・まさか・・・」

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 08:28:45 ID:+m6wm3n+
武田勝頼「私にもよくわかります。」

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 08:42:49 ID:WQ2dx8im
必ず不肖の子が生まれるもの、と言い換えても当てはまるな

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 08:59:16 ID:vkIJz2Mv
伊達さんとこの跡継ぎが相当まともに育ったのが不思議で仕方がない
庶長子はそれなりにやんちゃもしたようだが

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:00:56 ID:/jAvkES6
義元「麻呂の息子がこんなに不肖のはずがない」

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:32:28 ID:PBPQzyho
大友義鑑「どうしてああなった・・・」

大友宗麟「こ れ は ひ ど い」

大友義統「」

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:36:13 ID:7P8wkj8U
上杉謙信「よそから貰ってくれば問題無い」

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 09:45:46 ID:9w/ZIwOS
親へのコンプの他に
兄弟へのコンプもこじらせると生きづらくなる
この流れだと勝頼とか義統が隆元に近いかもな

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 10:39:03 ID:vxqR593n
隆元兄ちゃん…

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 14:37:18 ID:yP2btYx9
常真殿…

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 17:38:50 ID:3/vQfZQL
>>267
宗麟の言い分
「ふざけんなよクソ親父。幼いころ母を亡くして傷心の俺をほったらかして若い後妻といちゃいちゃしやがって、
おまけに付けてくれた御守役は裏切り者で、俺の廃嫡に賛成する始末、結局俺の廃嫡をだしにして有力家臣を粛清
しようとしたら逆襲されてアボーン。
その後病弱な体に鞭打って、やたらと騒がしい家臣共をまとめ、戦国一の陰険謀略厨の元就のちょっかいをかわし、
なんとか家を守ってきたんだぞー。あーよだきー、温泉にでもいってこよう。」
義統の言い分
「親父が悪い。宗茂が悪い。太閤が悪い。三成が悪い。内府が悪い。官兵衛が・・・」

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 21:48:50 ID:EXCmga44
>>268
関八州市の美少年のボクがいれば万事OKですよ。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/04(火) 22:38:57 ID:keNnEIrP
>>272
都で公家の娘を襲って犯した口が何を言うw

毛利親子の意思疎通

2010年09月09日 00:00

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 09:11:34 ID:8ozUcWYR

誤爆ついでに毛利親子のちょっと悪い話

毛利氏の居城といえば吉田郡山城が有名だが、
元就の代になって大規模な城の拡張が始まった。
拡張により郡山全体が城郭化したためか、城の本丸にも手がつけられ
山頂の「かさ」と呼ばれる新しく拡張された本丸には元就が住み、
そこからかなり下にある元々の本丸だった本城に隆元が住むことになった。

さて、当時の主な意思疎通方法といえば手紙である。
元就・隆元親子も例外ではなく、かさと本城の間で頻繁に手紙のやり取りを交わしていた。
しかし元就はそれだけでは不満だったのか
「文では一通り決まりきったことしか表現できないので不便です。
それに(手紙だけのやり取りでは)かえって話がこじれることもあるので
隆元が軽々とかさまで登って会いに来なさい」
と愚痴をこぼしていた。
こんな事を父親から言われたら隆元はかさまで登って会いに行くしかない。
しかし平坦ではない山道の行き来である。
元就に呼ばれる度に本城から山頂のかさまで登るのがしんどくなった隆元は、
ついに我慢できなくなり父親に申し出た。
「かさと本城は遠く不便なので何事も不如意です。
(以下、父から談合したいと言われても春にならないと登るのは大変だ等長々とした愚痴)
…ですのでかさに近い粟掃井新丸あたりに居を移してもらいたいです」
この訴えにより、ようやく隆元は尾崎丸という
かさに近い場所に住まいを構えることができた。




841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 09:37:46 ID:ws5DiZAA
毛利の居城ってそんなでかかったんだ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 09:44:49 ID:8ozUcWYR
山自体がそれほど大きくないし、
城郭つっても柵でぐるっと囲う程度だったと思うよ
大規模ってのは城の大きさではなくあくまでも工事の規模に掛かってる

843 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/08(水) 09:59:17 ID:WqZ2cB6J
>>840
蛙の子は蛙という言葉がお似合いで

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 11:31:35 ID:lwjR81Xa
会いに行くっていってもふらっとひとりでいくわけじゃないからめんどくさいんだろな>毛利さんとこ

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 11:37:50 ID:ws5DiZAA
毛利流めんどくさい発動・・?

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 12:23:49 ID:asH6mK1M
[Suspicious SPAM]父です                 2月22日22時23分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]父です(追伸)             2月22日22時25分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]父です。お返事はまだですか   2月22日22時30分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]なにかありましたか         2月22日22時35分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]大丈夫ですか?           2月22日22時40分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]そちらにいきましょうか?      2月22日22時50分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]お返事いただき安心しました   2月22日22時52分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]言い忘れたことがありました   2月22日22時54分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]先ほどの件どう思われますか  2月22日23時00分 Mori motonari
[Suspicious SPAM]なにかありましたか         2月22日23時03分 Mori motonari

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 12:37:45 ID:dz0ADuET
>>841
山自体は3~400mくらいでそれほど大きくない。
ただ話の通り元就の本丸と隆元の本城はけっこう高低差がある(ぐぐってみたら100mほどだとか。)
山道でそれくらい登るのは結構きついわけで…山城が廃れるはず。

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 12:39:11 ID:ZcLCCott
糸電話をつけるべきだったな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 13:19:56 ID:lwjR81Xa
>>847
隆元「景くん…親父がウザイんだけど」
隆景「だから俺、実家住まいやめたし」

毛利隆元の願文・いい話

2008年10月16日 11:21

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 00:35:41 ID:ttDF3EWe
毛利隆元が急死したのは、41歳の若さであった。

落胆する父元就に、厳島より一通の文章が届いた。彼が死ぬ八ヶ月前に、厳島神社に奉納していった物だという。
それには、こう書かれていた

「どうか、父を長生きさせてください。もし、父に巳歳の災難が降りかかると言うのであれば、どうぞ、私を身代わりにしてください。」

元就は、あふれる涙を抑える事ができなかった、と言う。




754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 02:43:46 ID:NKr2CleZ
>>752
隆元は望み通り父の身代わりになったのですね
いい話だな~(;Ⅱ;)

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 04:09:44 ID:WWmN0/t2
生かされた元就の方はたまらなかっただろうけどね・・・

隆元が死んだ1563年の毛利の事情はどうだったのか、
元就でなければ乗り切れない局面だったのか、
戦国にわかの俺にはわからない

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 09:28:54 ID:EdN5C6P5
尼子の家臣を謀略で切り崩してる真っ最中だな。
尼子との抗争長引いて大友にちょっかい出されたらやばい状況かな

毛利隆元と妻・いい話

2008年10月16日 00:49

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/07/10(木) 02:05:30 ID:6R3v8Heb
戦国列強の一角を担った毛利元就
彼の嫡男隆元は、戦国の世には珍しい愛妻家で、側室を持たなかった
次男の吉川元春は、ブスと評判の嫁を貰ったが、やはり側室を置かなかった
そして、なんと三男の小早川隆景もまた、奥さん一筋であった
上の二人は後継ぎが生まれたのでまだしもだが、隆景には生まれなかった
にもかかわらず、側室を置かなかったのである
戦国一、嫁さんを大事にした一族と言えるだろう




448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/10(木) 02:51:01 ID:seV6O5kC
毛利と言えば、その隆元の息子輝元が、秀吉に臣従するため大毛利家当主として初めて上洛すると言う時、
家臣の山内元興に当てた手紙

「銀子100枚でいいから貸してくれないか!?絶対返すから!」