266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 02:00:56.12 ID:ZIiyZKTJ
義光は笑った
慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した
最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た
この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた
兵には命知らずで足の早い者が集められた
これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た
主最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した
その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった
立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた
義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる
「山形合戦」等
義光は笑った
慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した
最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た
この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた
兵には命知らずで足の早い者が集められた
これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た
主最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した
その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった
立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた
義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる
「山形合戦」等
スポンサーサイト