横町の由来

2016年04月14日 18:49

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:08:21.73 ID:DDb6sdaQ
横町の由来

天童合戦で野辺澤信景(延沢満延)を味方に率いれた最上義光はその喜びの余り、山形城下の定期市町の名称である「九日町」の名を満延に上げてしまった

それを知った重臣の氏江尾張のなにがし(氏家守棟)といった者が眉間に皺を寄せ、義光に窺った

守棟「城下には一(日)から十(日)までの数を冠した市町がありましたかな。
嗚呼、誰かが能登殿(満延)にその一つを差し上げられたので、今は歯抜けがありましたか。
ーそれで、欠けた『九日町』の代わりになる様な素晴らしい名前を我が殿は用意なされているのでしょうか?
満月も一つを欠いてはままなりませぬ。
思いつきや勢いで町名を上げたり等という事はまさかありませんよな?」

義光は守棟を宥める様に口を開いた

(´・ω・`)「いくら儂でもノリだけで迂闊な事はそうはしない。九日町の名を満延に与えたのはそれだけ彼を買っての事。
…九日町は七日町の南隣(つまり横)
かつ十日町の北隣(つまり横)
九の字は四(よ)と五(こ・ご)を足した数だから旧九日町の地の町の名には四と五で横町なんてどうだろう!
…なんつって!」

守棟「…」

(´・ω・`)「…(やばい…怒ってる?)」

かい摘まんでますが、本当に横町の由来がこんな鮭様のおやじギャグが発祥とされています

「山形細見」

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:49:01.91 ID:DDb6sdaQ
山形市横町(現山形市民会館付近)
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10558417622106&c=10

●九は四たす五、だから四五町に。語呂が悪いから「横町」

…義光公時代に「九日町」は尾花沢の延沢城にくれたという。町人は、四と五を加えて九日となるので、九の日に市を開きたいので四五町(よご町)にし、語呂が悪いから「横町」というようにしたと語り伝える人も見られた。



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 07:32:45.86 ID:GMsMng5l
家康「安直じゃな」

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 08:00:54.98 ID:9jR94Tq+
ノブ「子供の名前に使わせてもらおう」

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 19:33:28.52 ID:VVpbIm0a
また最上の病気が再発したか

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 21:18:29.99 ID:1ByHse5H
>>522
せっかく1から10まで揃ってるのに9あげちゃうのかよw
それだけ買ってるってことなのかも知れんが、もらう方も微妙な気が…

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 21:51:26.97 ID:biJM3Xtr
一戸から九戸までのうち四戸は縁起が悪いせいか今はないのに
四日市はいろんなとこにあるな

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 00:49:20.25 ID:aV2luiL4
そもそも町の名前ってあげちゃっていいものだったのか

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 11:24:57.02 ID:toTFfKWq
犬ころに娘を差し出す奴だっているしねえ
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光棟は死んだ

2015年10月30日 08:59

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 01:49:31.01 ID:vbXti872
光棟は死んだ

最上義光を支える最上直臣の重鎮に家宰の氏家守棟がいた
守棟は義光の手となり陰となり、山形の最上家のために常に奔走し、ようやく男子を天から授かったのは当時としては老齢に差し掛かる40歳近くになってからの事だった

守棟は三人の息子を得たが、庶子の三之助は橋間の合戦で羽柴勘十郎に討ち取られ、末子の某(後の親貞)は病弱のために幼少期から寺へと入れられていた

守棟の嫡男光棟は周りからの期待に違わぬ英邁で、少年の頃から論語を嗜み、最上家の柱として将来を渇望されていた

義光も光棟をとても慈しみ、娘の竹姫を娶らせ名前に「光」の一字を与え、我が子の様にかわいがっていた

しかし1588年、上杉軍の出羽乱入に東禅寺氏への援軍として庄内へ派遣した草苅虎之助に付き従い、氏家光棟も庄内十五里ヶ原の露となり、還らぬ身となった

父の守棟は光棟の死を境に病がちになり出仕も滞る様になり、三年程後に失意の内に没したとされる

「奥羽永慶軍記」ほか




庄内失地

2015年07月18日 16:59

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 14:38:27.52 ID:2AhyKDAD
庄内失地

天正16(1588)年春、東禅寺義長の治める庄内に、越後揚北の本庄繁長が突如として侵攻を開始した
旧庄内の領主大宝寺派の国人等も越後勢に呼応し、庄内の地は一挙に騒然となった
大崎合戦の始末で虚を突かれた最上義光は近臣草苅虎之助を大将に数百騎を庄内に派遣し、自身も後詰めとして近習馬廻を召し連れ山形城を発し、各地の諸将士軍勢には「急ぎいくさ仕度をし、庄内境で合流すべし」と早馬を飛ばした

中山境の里見民部は対伊達への牽制で動けず
延沢満延軍は大崎家支援のために陸奥名生にあり、
氏家、志村、鮭延、日野、安食等の郎党たちが次第に庄内境に詰めてきたが、そこには庄内からの敗報が櫛の歯を欠く様に入って来ていた

庄内からの早馬「尾浦の城落城!」

芳しくない報せに義光は血眼になり「無念この上ない!今いる兵だけで構わないから急ぎ押し寄せ味方に合流し、越後勢を留めよかし」とおっしゃったが
氏家守棟志村光安等は「この度はにわかな出陣で号を掛けた領内の兵もまだ馳せ集まっておりません!数百の兵では数千に及ぶ越後勢に敵わぬのも自明の理、地理もまた不利にて難所越えをして戦うのも兵をあたら失う事必定です!」と諌言をした

そこに別な早馬が二三駆けてきて報告した

早馬「地安(千安)黒瀬で東禅寺軍敗北!東禅寺勝正(東禅寺義長の弟)様討ち死に!草苅虎之助様も討ち死に!」

義光は守棟をきっと睨んだが、次の伝令が言葉を続けた

「…氏家様御子息、氏家光棟様、討ち死に!」

守棟「…殿、寡兵では越後勢に敵いませぬ
時期を待ち軍を調え、その上で本懐を遂げさせ玉(給)え」

どちらかが折れなければ収まりがつかなかったが、守棟のこの言葉に義光が折れた

最上義光物語」

その後庄内は上杉領となり、庄内の地が最上家のものとなったのは慶長6(1601)年の関ヶ原始末以降の事である

間に合わなかった援軍の話



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 15:59:15.71 ID:kMIIe4Qf
貴重な鮭の補給地が

お米券の登場

2015年05月04日 13:55

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 06:27:28.73 ID:7LhZA9Xq
お米券の登場

城下を行き来する農民・馬借や人足らが米俵を舟や木車に積み、扶持米を移動する様を見て最上義光は考えた

義光(´・ω・`)「農作業だけでも大変なのに、年貢を納めた後の区役もあってみんな色々と大変だよね。労を軽くし、少しでも民の負担を無くす良い方法はなにかないだろうか?」

義光は氏家守棟と片桐蔵人(谷柏直家)らと相談した

守棟「代官屋敷や肝入(名主・庄屋)に管理を一部任せ台帳を作り、帳面を山形城で一源管理をするとすれば、集積・分配や移動作業の重なる仕事を軽減できます」

直家「木札は荷札と紛らわしい故、貴重な紙の切符手形(切手)と米を交換できる様に取り図らってみてはいかがでしょう?」

(´・ω・`)「それはいいアイデアだね。移動も分配も楽になるし、民らの負担も少なくできるよね!」

こうして山形では「米制定法」が敷かれた

「山形の昔話」




鬼切丸の話

2015年03月03日 18:40

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 02:26:02.39 ID:gPerzVmy
鬼切丸の話

藤崎の戦いで新田義貞を追い詰めその首級を挙げたのは斯波氏の臣下で越中の住人の氏家重国である。
重国は義貞の佩刀髭切を主家に捧げ、主の斯波兼頼に付き従い奥州へと下向した。

髭切は斯波氏を経て最上家に伝わった鬼切丸の別名である。

氏家重国は氏家尾張(氏家守棟)の祖先と伝わる。

「山形の昔話」

義光と守棟と連歌

2014年09月04日 18:52

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:36:21.99 ID:9YxrKypW
義光と守棟と連歌

文禄2(1593)年2月、最上義光は朝鮮出兵の後陣として肥前名護屋にいた

その頃の京都
里村紹巴最上義光に文を綴った
「義光殿も遠方でなにかと気苦労なされている事でしょう。気分直しに当方主催の連歌会の発句を
頂戴できませんか?」

義光(´・ω・`)「!お師匠さまから重要な役割をもらったんよ!これは責任重大なんよ!」

義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし(梅の清々しい匂いが溢れている)」

氏家守棟「幾重霞のかこふ垣内(ここは霞のかかった屋敷内)」

(´・ω・`)「守棟、なに脇句作ってるの?」

守棟「拙者とて歌を書いていけない道理はありますまい?」

江口道連が京都の紹巴に義光の発句を届けた

里村紹巴「ほぅ、これは良い発句です。では私も続けて『春深きかげの山畑道見えで
(春霞に山道も溶けていく)』」

紹巴は義光の発句が気に入ったのか、夏に義光が帰京した時に最上屋敷を訪れ、改めて自らが脇句を添えて
歌衆を揃えて、百韻に仕立てた

義光にとっては連歌が評価された良い話

守棟にとっては「これはちょっと…」と暗にダメ出しをされた悪い話

氏家守棟は1591年頃に政治文書の減少から死亡したと考えられていたが、脇句から1593年の初頭までは
生存が再確認されたという意味では良い話?




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 06:53:17.95 ID:u2I46lAI
>>682
発句一首目・義光「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」
(梅の清々しい匂いが溢れている)

脇句二首目・守棟「幾重(いくかさね)霞のかこふ垣内(かきのうち)」
(ここは霞のかかった屋敷内)

続句三首目・紹巴「春深きかげの山畑道見えで」
(春霞に山道も溶けていく)

この江口さん、義光の発句と守棟の脇句(発句に続く二句目)を届けるついでにちゃっかり紹巴の連歌会にそのまま参加して、五首ほどが選ばれている

山形に残った氏家守棟の一族は

2014年03月09日 18:46

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 01:37:50.59 ID:Ev17vN9S
山形に残った氏家守棟の一族は

最上義光の死から八年後の元和八(1622)年、内紛により最上家は改易

累代最上家家宰・氏家家当主の氏家左近(光氏。また別人説で親貞とも)は家内騒動を抑え切れなかった
責を問われ山形から追放となり、長門毛利家へのお預けとなった

去んぬる氏家家当主であった氏家守棟(1534~1591)は既にこの世になかったが、守棟の一族は
最上家の改易により義光時代に授かった旧領の寒河江や白岩で帰農。土地の名主や肝入となり、
ムラを纏める者となった

最上家改易により白岩には酒井氏が入封

ただし重税と不作により、白岩では多くの餓死者を出した

白岩の氏家らの名主は山形に代表を出し談判に赴いたが、これらの者は山形で殺害された

「願いは無視され話し合いも出来ぬのなら、お上(江戸幕府)に訴えるまで!」と30人を越える名主や
肝入・百姓代らが酒井氏の悪政と年貢の減免を求め江戸へ立ったが、その多くが追捕されロクに
取り調べもされずに殺された

これらは「白岩の義民一揆」へと続く話

守棟の流れを組む軽部といった一家が仲間内によって残された

軽部家には底面に「大先祖」と記された氏家守棟の位牌が残る

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 01:42:00.77 ID:Ev17vN9S
酒井の圧政に潰され、保科正之の裁定に命を奪われた氏家守棟一族のなんとも哀しい話

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 01:57:55.06 ID:Ev17vN9S
白岩の義民一揆は酒井氏の圧政期間とその後の幕領期と幾度か飢饉が続き
名主らも「訴え出たのは山形へ」「山形では話にならぬとみた者があり、江戸を目指した者も少なくなかった」
といった話もある様です




704 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/09(日) 23:44:55.02 ID:Ev17vN9S
白岩の酒井、庄内の酒井となにかと因縁のある「酒井忠重」だしな…

元和8年(1622年) 出羽国村山郡白岩4000石領主となる(のちに8000石に加増される)。
寛永10年(1633年) 1000人余りの餓死者を出すなどの苛政をしいたため、白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える(白岩一揆)。
寛永15年(1638年) 江戸奉行所の判決により白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられる。
寛永19年(1642年) 忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚。
承応元年(1652年) 忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かったため幕府に提訴し、庄内藩主・酒井忠当より金2万両を贈られて義絶される。
寛文5年(1665年) 息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり、改易される。
寛文6年(1666年)9月24日、夜中、何者かに襲われて死亡する。享年71。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 15:43:02.73 ID:lG0+4x8m
>>704
坂崎直盛、加藤明成、松倉勝家そして酒井忠重
こいつらに一度狙われたら最後
地獄の果てまで粘着されて人生メチャクチャに。
これぞ戦国四大サイコパス。

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 18:40:27.84 ID:GoKNGOE0
酒井忠重、白岩一揆以前に苛政で既に「民らから毟れるだけ毟り取り」、直訴一揆前には表沙汰にならない部分でもかなり殺してそうなのが…

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 18:48:38.34 ID:GoKNGOE0
寛永10(1633)年、500戸ほどの出羽国村山郷白岩で領主酒井氏の圧制により1000人を越える餓死者が出た

1638年にも再度大規模な一揆が起こり、馬見ヶ崎川下流高瀬の河原で首謀者と見做された百姓の代表ら36人が磔(はりつけ)にされた

関連
保科正之と白岩一揆 - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ


時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ

2014年01月29日 19:04

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 16:41:07.43 ID:d5QP/6IU
氏家守棟の人物評

「誠ニ君々タレバ 臣々タリトカヤ 時ノ執事氏家尾張守 元来忠アリテ義アリ 謀ハ楠カ肝肺ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也」
『最上記』『続群書類従』ほか

天童合戦での延沢満延の引き込み、上山里見越後・民部親子調略、兼山の庭月広綱の引き込み、由利諸将懐柔、
白鳥暗殺等「最上の勢力拡大における策謀」の多くを立案しながら、おいしいところは鮭様に譲って大樹の陰に徹した最上家の屋台骨、執事長・氏家守棟の人物評




240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 16:50:47.32 ID:d5QP/6IU
この人(守棟)が大崎家の氏家吉継さんみたいに動いていたら、最上家も危なかったかも…

※大崎家と最上家の先祖は元々は同じ一つの家(斯波家)
※守棟と吉継は奥羽に下向した宇都宮氏族・氏家氏の子孫(遠縁)

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 17:08:02.00 ID:vQMBmOyn
氏家だと氏家直元と氏家ト全のほうが先に出てくる

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 16:18:08.13 ID:HkdSXETq
守棟を他人に説明するときは

最上の執事
南条くん…鮭様
ヤマオカ…守棟

最上家の黒執事
シエル・ファントムハイヴ…鮭様
セバスチャン・ミカエリス…守棟

伊達家で言うなら片倉小十郎

…どれが手っ取り早いんだろう…

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 16:19:26.00 ID:HkdSXETq
小田家で言う菅えもん?

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:47.81 ID:gVogvtOD
氏家守棟
ウジ・ヤモリ・棟
と読んだら怒られるな

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/30(木) 16:26:51.41 ID:8Eq9Z+rj
>245
司馬の小説でその後の話も載ってたような。

島津見捨てて置いて帰ったけど、やっぱヤバイというので様子を見に行ったって感じで。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/30(木) 17:25:29.40 ID:2gxSQ0ZA
やるおが鮭様でやらないおが光安さん?

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 17:35:37.15 ID:PQLhydbM
>>240
主君が分家すると、譜代家臣も同じように分家してついていくよね。
河内畠山と能登畠山なんかそうだし、そもそも越後守護上杉と越後守護代長尾もそうか。

柏木山の戦い

2013年12月03日 18:58

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:07:46.45 ID:0FDYrBrC
最近脳筋と単騎突撃たのしーのイメージが強くなりつつある鮭様の、たまにはかっこよさそうな話を

柏木山の戦い

最上義光(34才)は天童合戦において当時山形盆地で最上氏と拮抗、またはその実の上にあった天童氏を破り、
八楯を降した。
この義光の勝利と、山形周辺での急激なパワーバランスの変化を恐れた上山領主で里見党惣主の
上山満兼(里見満兼・武衛満兼)は米沢城の伊達輝宗(33)に加勢を頼み、天正6(1578)年山形南方の成沢へと
侵攻する。

この時の成沢城主は成沢道忠(70余)で、義光は武田信玄にも武才を讃えられた伊良子宗牛(60余)といった
老将を成沢城へ送り込み
義光「血気盛んな若者らが敵の姿を見て城から出て戦いたがるかも知れないが、成沢城は堅城だからけして
簡単に打って出てはならない。
そなたが老練の将だからこそこの任を頼む。篭城に徹してまずはいくさの流れを見よ。しばらくは
上山勢を足止めせよ。」
と申しつけた。

(つづく)

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:09:51.96 ID:0FDYrBrC
(つづき)

上山に入った輝宗は満兼から成沢城が篭城策を取った事を聞くと
輝宗「義光の心底が読めた。老将を置く事により短期決戦を避け、いずこかで野戦になった際には
方策を巡らせ、こちらの不意を突き成沢城兵と示し合わせ挟み打ちを目論んでいるに違いない。」
と考えた。

日を追い上山勢による成沢城攻撃も攻めあぐめ、早急に城を落とす事は難しくなっていた。そこに
義光が領内から兵を集め成沢へと援軍に向かっているといった報せが届く。戦局は重大事を向かえた。

満兼「当初は上山に義光が攻め入って来た際に山谷に伏兵を置き、不意を打ってこれを討つ
つもりでしたがこのままでは長丁場になりそうです。
輝宗様の米沢軍と私共の上山軍を合わせれば味方は最上軍の上を行く兵力となります。
主力をもって決戦を行えば数の内ではこちらが絶対優位ですし、義光を破れば成沢城も諦めて
降伏する事でしょう」

輝宗も満兼の言に一理あると考え、軍議を終えた。

(つづく)

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:42:07.59 ID:0FDYrBrC
(つづき)

一方義光側も軍議を行っていた。

氏家守棟(46)「成沢城はよく敵を引き付けてくれています。それと満兼らの軍に動きがある様です。
伊達軍の主隊も上山の奥から本陣を前方に進めて来るに相違ありません。
道程からすれば敵が陣を張りそうなのは柏木山。こちらも本隊を南下させつつ、遊軍を先に潜ませ、
敵の不意を突きましょう。」

戦いの臨旨がはっきりとし、理に適っていたので義光は守棟の策を採用した。

上山・伊達連合軍、最上軍双方は柏木山方面へと向かう。

最上軍の先陣は天童合戦から最上方に与した出羽最強の呼び名の高い延沢満延(35)が承り、
二陣は氏家守棟と七陣まであった。

両軍の先陣が松原で入り乱れて合戦が始まったが、義光はいくさの頃合いを見て本陣から太鼓と
鐘を打ち鳴らす。
柏木山付近に先に伏せていた最上方の鉄砲隊200挺が太鼓の合図に伊達軍の本陣目掛けて
釣瓶打ちへと撃ち掛かる。

輝宗の本陣は不意を打たれ、軍は乱れ、最上方の延沢・氏家の軍勢がここぞとばかりに押し込んだ。
延沢党の飯田小十郎らの前に多くの伊達譜代の旗本や衆目が討たれた。

金砕棒を奮い輝宗に縋る延沢満延に伊達の郎党たちが防戦し討ち死にする間、輝宗は命からがらに逃げ出し
、上山城の惣堀まで退いた。

これを合戦の地の名を取り「柏木山合戦」と称す。

「最上記」

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:45:48.12 ID:0FDYrBrC
この柏木山の戦いの話は軍記物の書き物ではありますが、「東北地方初の組織的な集団鉄砲戦」が
記された内容としても価値があると言われております








800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 18:48:57.38 ID:0FDYrBrC
(´・ω・`)大将として冷静にいくさ運びを行った良い話?

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 19:16:48.33 ID:Bgfzvsb9
戦場のど真ん中で鮭様が先頭!じゃないのか。珍しいな。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/02(月) 19:50:45.36 ID:0FDYrBrC
>>802
この戦いで鉄砕棒を振るって先頭で戦う延沢満延に影響されたのかも

その後
→例の愛用の鉄指揮棒が登場
→寒河江合戦・八沼城で先頭たのしー!

氏家守棟が八沼城攻めで最上義光にキレたわけの詳細

2013年11月11日 19:13

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 03:58:20.59 ID:Ah3RwMgJ
氏家守棟が八沼城攻めで最上義光にキレたわけの詳細

昔このスレで出てきた話なんだけど
氏家守棟最上義光に「なんなの?馬鹿なの?死ねばいいのに!」と言ったのは
最上義光が大将なのに一人で突進して単に雑兵のクビを取ってきたからだけではありません

詳細について触れていきたいと思います

八沼城は山形の西方にあり、貴志美作守といった者が守っておりましたが、貴志氏と最上義光は領地境のいさかいをたびたび起こしておりました

義光は千余りの兵を集め八沼城を攻めましたが、山岳戦や地の利は貴志軍にあり、いくさの序盤で最上方に負傷者や戦死者が続出しはじめました

(つづく)

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 04:06:14.06 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)

氏家守棟「やみくもに攻め込んでいては味方に被害が増すばかりです。一旦城外に兵を引き、態勢を整えましょう」
最上義光「うん、良い様に任せる」

貴志軍は最上軍が逃げ出したと思い、城の外へと打ち出して来ました

義光「敵が城を出て来るなら、戦わない道理はないよね?付け入ってさっさと城を落とそう」
守棟「ちょ、待っ!!」

味方の軍の再編を守棟に押し付け、義光はわずかな従者を引き連れ貴志軍に立ち向かいました

(つづく)

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 04:18:35.83 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)

貴志軍の先頭には龍頭の兜に緋威の鎧、大薙刀に鹿毛の馬に乗った、見映えの良い若武者がおりました

義光「名のある将と見た!」と従者を置き去りにし、一人敵に突っ込もうとする鮭様

従者「殿!らめぇ!!」

従者が引き留めようとする袖も振りちぎり、義光は敵の若武者に近付くと

「えい!」スパコーン☆

【例の鉄棒にて只一打落し
馬より飛下り頸ねぢ切て(原文ママ)】

愛用の鉄棒で若武者を馬から叩き落とし、倒れる武者に飛び乗って、その首級を挙げました

(つづく)

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 04:29:50.45 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)

義光が意気揚々と敵の首級を持って味方の方へと戻って来ると、氏家守棟が涙ながらに義光に問いつめてきました

「大将が軽率な行いをしないでください。その首級を誰に見せるおつもりですか?
つい先頃羽柴勘十郎を討ち取った時に『大将自ら出てくる方が悪い』って言ってたのはどこのどいつなの?
馬鹿なの?死ぬの?犬死にしたらお笑い者だよ?羽柴勘十郎の事を言えないじゃない?
あぁ情けない!情けない!!」

義光はちょっと天を仰ぎ面目なさそうにその首級を手持ち無沙汰にしていたが、近くの者に

(´・ω・`)「…これ、あげるんよ…」と与えられた

(つづく)

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 04:39:53.90 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)

貴志勢もやがては疲れが見えはじめ
城内へと引きはじめた

義光「味方優位だ!我に続け!!」

また敵に向かって駆け出そうとする鮭様

守棟「【今申しつる事早くも失念哉(原文ママ)】(ダメだこの馬鹿、なんとかしないと…)」

守棟がキレた!!

義光より先の方へと走り出し、槍を振り回しながら敵勢の中へと飛び込んだ!

最上義光(´・ω・`)「!【氏家うたすな尾張うたすな(原文ママ)(守棟を敵に討たせるな!みんな突っ込め!)】

(つづく)

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 04:46:01.69 ID:Ah3RwMgJ
(つづき)

その夜になってようやく八沼城は落ち、貴志美作守は降伏し助命され、山形城二ノ丸外西門付近に屋敷が与えられた

城主貴志氏は殺される事はなかったのになぜか伝承が残る「血塗られた八沼城の婚礼」と
「城主の若夫婦の身投げした春日沼伝説」の話と合わせて
単身突撃好きな鮭様と、思わずぶちキレてしまった氏家守棟のバツの悪い話

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 04:58:16.83 ID:Ah3RwMgJ
この頃の鮭様は40才くらい
氏家守棟も50代前半から半ばくらいだったと考えられています




701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 08:21:45.19 ID:t49SQDtm
ほんとに脳筋

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/11(月) 18:58:38.45 ID:6yCUI/n+
三河の人間と混ざっても違和感ねえな

成沢道忠と龍の兜

2010年10月31日 00:00

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 18:40:38 ID:70ZQeu6q
成沢道忠と龍の兜

昔話なんで深く突っ込まないで欲しい。

最上四十八楯の一角に長谷堂と双璧を成す成沢館という岡城があった。
館主は米沢の伊達侵攻の際にも家名を保った最上義定の一門成沢氏。

天文の大乱にも参加した成沢氏には家宝とも伝わる龍の前立ての兜があった。
多くの最上重臣が討たれた対伊達家の長谷堂の戦いでも成沢氏の武名と家名を守った栄光の兜である。

やがて時が流れこの兜の噂を聞きつけ氏家守棟の嫡子が成沢館を訪れた。
氏家某「それがし初陣はまだ叶わないものの、初陣の折には是非高名なる兜をお借りできませんでしょうか?」
成沢道忠「この兜は当家の宝にて、お貸しするワケには参りません」
氏家「そこをなんとか・・・」
成沢「くどいですぞ!実子の光氏にもそれがしが死んだらくれてやると言ってるくらい大切なものです。お引取りくだされ」

連日に渡って陳情しに来る氏家に、道忠も熱意に打たれ(いい加減に折れて)ついに家伝の兜を戦の時に
貸すことと成った。

龍の兜を被った氏家が参加したのは「十五里ヶ原の戦い」
知る人ぞ知る、「最上義光の代で最大の負け戦」である。

氏家は戦死したが、兜だけは後に成沢家に戻ってきたという。
事の詳細は判らない。

龍の兜は二度と被られることは無く、
成沢道忠の息子の光氏は後に氏家守棟の養子となり、名門成沢家は家名を失った。
件の龍の兜の行方は現在判っていない。

「山形の昔話」より




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 19:06:54 ID:fjcYRv8S

>>154
三河武士が聞いたら説教しそうな話だな
縁起のいい兜に浮かれて自ら心に油断を生じさせるとは何事かと

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 20:25:47 ID:tgUgFv5D
>>155
三河にも良く似た話があるな。
結末は全然違うけど……
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%CB%DC%C2%BF%C3%E9%BE%A1%A1%A1%B5%CB%B9%BC



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/30(土) 22:08:21 ID:Vr7GhCm5
>>154補足

諸説色々あるが

1570年代に伊達勢に後押しされた上山軍が最上を攻めてる。
この時迎撃したのが資料では「成沢道仲(みちなか・どうちゅう)」

1580年代後半に大崎合戦の傍ら行われた「十五里ヶ原合戦」には
「成沢道忠(みちただ・どうちゅう)」が60-70歳で出撃しているとある。

最上義光が死んだ1614年には成沢道忠入道が「山野辺義忠」を主君に据えようとして失敗し、
伊達領松島に逃げ、この子孫は現在も伝わっていると最上歴史館の人物史に表記がある。

同一人物だったらゆうに100歳越えてるわな。

道仲と道忠は二代だという説もあるけど
史料ではっきりとしないバツの悪い話って事で。

あと、この龍の兜「水魚の立ち物」とも「鯉の兜」とも言われてるみたい。
決して鮭の被り物じゃないよ。




続・最上四天王?

2010年10月26日 00:00

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 13:36:31 ID:KeSGVTOq
続・最上四天王?

以前「最上四天王」が「5人」だってまとめスレにあったんだが、
「歴史読本」の最新号で「有名武将の家臣団」で「最上四天王」が挙げられてて、「6人」に増えてたw

まぁ、このまま内容を書かせて頂きます。

「最上四天王」
「河北文書」だったかでは
楯岡満茂志村光安鮭延秀綱延沢満延里見民部の「5人」だった。

今回の「歴史読本」では
「最上四天王」の表記の後に
氏家守棟楯岡満茂志村光安鮭延秀綱延沢満延里見民部の「6人」の名があった。

変じゃねーかと思ったんだが、
解説に
志村光安鮭延秀綱延沢満延」は確定だが、
残りの人選は「最上義光分限帳」「軍記物」「書物」によってまちまちだとあった。

氏家守棟は軍師だから入らない
楯岡満茂は副将格だから別枠
里見民部は裏切って他家に逃げたから相応しくない

理由はわかる。

でもこのままだと
「最上四天王」は谷柏直家や江口五兵衛、北楯利長や山家国頼も含め
「何人いても四天王」といったエグザイル状態になってしまわないだろうか?

1600年を一区切りにするなら
死んでいる氏家守棟延沢満延が除かれる代わりに
延沢光昌(満延の息子)が四天王入りしてしまう・・・

竜造寺以上に判断の難しい「四天王」である・・・