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天正十二年、美濃賀々城攻め

2020年03月09日 18:28

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 18:02:57.78 ID:oiSUTUIE
小牧長久手合戦の時のこと。
尾張国竹ヶ鼻城では不破権内(綱村)の子息である源六郎が立て籠もり、織田信雄に合力していた。
そこで羽柴筑前守秀吉はじめ、その他の大名はこの城に押し寄せ攻め寄せ、水攻めに然るべしとして
大河小河を切かけ攻め破った。それより直に美濃国賀々城へ押し寄せ攻められた。

これに城中の兵たちは
「寄せ手の軍勢に比べれば、自分たちは大海の一滴、九牛の一毛である」と、叶うとも見えなかった。

城主の賀々井駿河守は謀りを廻らし、五月六日の夜、寄せ手の陣へ夜討ちをかけようと、伊勢国住人である
嶺、久須、千草、上木の四人を大将として、子の刻(深夜0時ころ)に追手の門より打ち出た。

実はこの内の千草は、蒲生飛騨守氏郷の母方の叔父であり、宵の頃より飛騨守に対して知らせが有ったという。
されば蒲生氏郷は「氏郷でなければ手に合わない」と、真一番に掛け合って戦われた。それに続いて
上坂左文、小坂といった侍たちが左右に従った。
その他、寄せ手の軍兵我も我もと追手の陣へ向かった。

五月の暗闇は大変暗く、敵も味方も見分けることが出来なかった。敵が二人落ちて来たのを、氏郷が
「何者か!?」と声をかけると、彼らは偽って「浅野弥兵衛家臣、生駒弥五左衛門!」と名乗った。
しかしこれを聞くと「そんなわけがない」と二人共に打ち留めた、

ここに城方の嶺孫三郎は、生年十八歳、容貌美麗、また人に優れて心優しい人物であったで、天下の男女恋焦がれて
小唄などを作って謡うほどであったが、彼も真っ先に駆けて戦ったところ、味方の兵たちと共に中に取り囲まれて
生け捕りと成り、片陰にて頸を斬った。

次に久須は生年十六歳、これも無双の若衆であったが、同じく氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

千草は当時六十歳ばかりの人物であったが、これも氏郷勢に生け捕られ頸を斬られた。

上木は歳三十ばかりと見えたが、これも討ち死にした。

こうして城方は敗北し、落ちてくる敵はその数を知れぬ程であった。
また関勝蔵の家子・佃又右衛門は追手の門際まで攻め寄せ、比類ない働きをして良き頸を取ってきた。
或いは、敵が「蒲生の者である」と名乗って氏郷の前に来たのを討ち留めたのも多かった。

敵は蜘蛛の子を散らすように落ちていくのを、氏郷主従三人はその真ん前にて突き倒し、斬り伏せ、頸を獲った。
その他、寄せ手も大勢が頸を取ること、その数が知れぬほどであった。

暫く戦っているうちに夜も白々と明けると、氏郷は左文、小阪を召して、自分の鑓を突き出し「これを見よ」と
言った。その鑓はササラのように成っていた。氏郷の鑓下の頸が曲がって、鑓の柄に血が朱に流れていた。
左文、小坂の鑓も見た所、ササラのように成っていた。
その時氏郷は
「今夜の合戦は、この三人のみが骨を折ったのだ。」と申された。
寄手の方が討ち取った頸数、都合四百余の内、氏郷の手にて百余を取ったと云う。

寄手の軍兵が我も我もと追手へ寄せ戦う間に、城の大将である林与五郎賀々井駿河守は密かに搦手より出て、
遂に尾張国へ落ち行った。

氏鄕記

蒲生氏郷等による、美濃賀々城めについての記事である。


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御自身御取り立ての侍によって命を失われたこと

2020年03月08日 15:35

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 11:04:03.83 ID:T94EJuRk
天正十年には正二位右大臣平信長公、嫡男三位中将信忠卿御父子、甲斐国へ御出馬有りて武田四郎勝頼を討ち果たし、
瀧川左近将監一益に関東八州切り取りにし、それより出羽奥州まで打ち平らげよと遣わした。

その頃、次男北畠中将信雄朝臣は伊勢国ホクスミという所へ、大河内の城を移され松ヶ島と改められた。
また、土佐国守護の長宗我部より、四国の大将を申し乞いければ、三男神戸三七殿に四国を給わって大将に
遣わされた。この時、関安芸守盛信は江州日野に預け置かれていたが、勘当を許され、流石文武を得たる者なればとて、
本領伊勢亀山を給わり三七信孝へ付けられ四国の御供に遣わされた。彼は蒲生賢秀の娘婿であったので、日野よりも
結解十郎兵衛を盛信へ付けられた。
こうして、信孝は一万五千余騎の人数を揃えここに神戸を立って摂津国住吉に下着された。

この時、羽柴筑前守秀吉は近年播磨国に在って中国毛利右馬頭輝元と合戦し数ヵ国を切り取ったが、将軍(信長)が
今度西国に出馬あって、九国二島(九州全域)まで太平に帰せんと宣いて、諸勢に触れさせられ、、京都にて
御勢を待たれるために、先手、手廻ばかりを召し具され、信長公、信忠卿御上洛されて仮に京都に御在されたのだが、
同六月二日、丹波守護明智日向守光秀が謀反を企て、二万余騎にて攻め上がり、先ず信長公を本能寺に取り囲み、
攻め奉った。この時戦うべき士卒も無かったため、将軍も叶わせ給いはて、遂に御年四十九歳にて御腹を召し果てられた。

次に信忠卿を二条の御所に取り囲み、御腹召させ奉る。御年二十六歳にお成りであった。

数度の大事を逃れられてきた将軍(信長)であったが、光秀という御自身が御取り立ての侍によって命を失われたこと、
御果報の程を申すも中々口惜しい事共である。

氏鄕記

「氏郷記」より天正十年の本能寺の変までの様子。長宗我部が信長に敵対したのではなく、むしろ信長に四国の総大将を
求めて来た、という描写はちょっと面白いと思いました。



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 19:08:14.52 ID:sPex4AbI
>>905
信長が将軍というのは大将くらいの意味なのか、はたまた征夷大将軍なのか。いろいろ特殊な史料ですね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:15:30.80 ID:U+SZeuSt
ヨーロッパの人は大名のことをショーグンっていうよね

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:38:14.12 ID:gAuGI6S0
ショーグンがジェネラル的な訳だと日本の王と伝わらないのでタイクーンなる単語が出来た

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 23:33:22.46 ID:sPex4AbI
将軍は台風や津波ということだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 19:55:32.70 ID:9Wi1g3Dz
頼朝と同じ右近衛大将になってるからかな?

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/10(火) 16:37:09.05 ID:B1PPJbD0
氏郷記を読んでみたけど、この章から急に信長公や信長卿から将軍に変わるね。
官位としては右大臣と明記(やめてるはずだけど)しているし、一般名詞として使っているみたい。

北畠具教の滅亡

2020年03月07日 16:31

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:03:05.01 ID:4mIamn/1
天正四年には、織田信長公は近江国安土山に城を拵え給いて、岐阜は御子信忠へ譲られた。
同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。

この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。

信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。

こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。

卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。

こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)

氏鄕記



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:24:49.62 ID:D3fNQvLL
人間50年か
まるでドラマでのノブさんの最後のようだ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:04:51.91 ID:oyNgTpDB
>>896
北畠信意は信雄ではないんだ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:27:33.61 ID:4mIamn/1
>>898
どうもこの『氏郷記』は具房と信意(信雄)の諱を混同していると思われます。

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 13:08:04.80 ID:3FlUNxOP
https://i.imgur.com/RM8snGg.jpg
「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:22:51.38 ID:z5ApWnH5
>>896
剣豪将軍らしい最後でこっちのが夢がある

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:34:24.41 ID:R5CMkxWC
>>901
剣豪将軍の話じゃないんだが?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 23:35:06.84 ID:jDbW28ko
ロマンと実際どうだったかって別やしなぁ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 08:46:07.12 ID:A/2T+4ly
>>902
将軍じゃなくて大名でした、失礼

織田信長による北伊勢攻略

2020年03月06日 18:36

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 02:18:33.57 ID:LPrscr5h
その頃、尾張国の守護であり、平相国清盛公二十一代の後胤である織田上総介平信長は(この場合の「守護」は
室町幕府の役職ではなく、単にその国の支配者という意味で用いられている)、武道に長じられていたため、
先の駿河国の守護。今川義元を討って三河遠江両国を従え、次に美濃国の守護斎藤右兵衛太夫龍興を滅ぼし
美濃国へ打ち越し、岐阜の城に居給いける。

その後、永禄十年春の頃、信長は数千騎を率いて伊勢国へ発向され、先手の兵たちは久須の城に押し寄せ攻め立てた
ところ、城中叶い難く思ったか、降参して先陣を申し請けた。その他当国の住人等降人に参る輩多かった。

こうして、神戸蔵人(具盛)の家人・山路紀伊守、子息久丞が立て籠もる高岡城に押し寄せ攻め立て、町口悉く
放火した。神戸城は北伊勢の要害であるので、すぐには落とせぬと見てこれより先ずは御勢を引き上げた。

翌永禄十一年の春、また信長は数千騎を率いて北伊勢へ出張し、高岡まで押し寄せると、北伊勢の侍たちの過半は
その味方に参った。ここに於いて、信長は神戸蔵人太夫方へ使者を以てこう宣った

『現在、源氏の輩は無道にして国土の乱逆は未絶である。故に信長は、苟も平氏の苗裔として、身をくだき
朝暮弓箭を放たず某逆の輩を討って国土を安んぜんと欲している。

御辺は平家の嫡流である、どうして一家の者と戦うのか。速やかに和睦し給え。
私が聞いている所によると、御辺は蒲生下総守定秀の娘の腹に一人の息女が有るが、子息は無いという。
私には数多の子供が有る。一人を養子に遣わそう。』

これを聞いて蔵人太夫も
「仰せの趣忝なし。」と同意し、直ぐに扱い(和睦)となった。これによって信長の三男、三七殿といって
この時十一歳の若君に、幸田彦右衛門を乳人として、その他岡本太郎左衛門、坂仙斎などという侍たち数多を
相副えて神戸家への養子に遣わされると、直ぐに祝言は調った。
こうして神戸蔵人太夫、嶺治部少輔、関安芸守を始めとして味方奉れば、北伊勢の侍たちは一編に従った。
そして上野城には信長の弟である織田上野介殿、安濃城には織田掃部助殿が置かれた。

氏鄕記

織田信長による北伊勢攻略についての記事。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 02:47:13.43 ID:fRaitGr9
そういえば織田信長の伝記?系の漫画なんかでも伊勢攻略の段ってなぜか飛ばされるよね
美濃とったらすぐ義昭奉じて上洛してって感じで
神戸氏に息子差し出したりなかなか重要視してるのに

神戸氏も北畠氏もなかなか凄惨な最期遂げてるし描きにくいんだろうか

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 10:29:29.38 ID:Lyr4UoL7
>>708
三河は安泰、信玄とは懇ろ。伊勢が安定するとこのときなら後背の不安がなくなり、上洛しやすくなるもんねえ
上洛に備えた事前作戦だから地味は地味だけど

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 11:02:11.23 ID:WzBM7Fcq
北伊勢侵攻は1567年初め~1568年半ばで、義昭が頼ってきたのは1568年7月
中小国人ひしめく北伊勢に勢力を伸ばした結果、
それまで北伊勢に影響力を持ってた南伊勢の北畠や近江の六角との対立が始まり
強力な敵を増やした藪蛇なわけで
上洛の事前作戦とはそこまで関係ないかと

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 11:59:50.31 ID:Lyr4UoL7
>>710
その前に一回頼られて、破談になってる。詳細は忘れたけど、六角の情勢かなんかじゃなかった?

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 20:33:32.50 ID:052K8XhH
>>708
信長公記に書かれてないからじゃないかな。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:33:33.39 ID:Wo3VQ8NE
なんで太田牛一は伊勢攻略書かんかったのか
何か書くとまずいことでもあったんだろうか

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:58:11.06 ID:Lyr4UoL7
>>713
内容が薄いだけで巻二に出てくる。それよりエピソード0みたいな首巻がいい加減なのが気になる。後から書いたにしても、まだメモ魔じゃなくて記録がなかったのかな。
そのメモ全部どっかから出てきてほしい。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 18:25:54.32 ID:rkLCkXKD
単純に伊勢攻略が比較的うまくいって
あまり特筆することがないからかと

長野神戸北畠どれも家としては
一族養子にして吸収してしまってる
旧当主が不満から策動してたりはあるけど
いずれも大きな動きに発展せず成敗されてる

そこを細かく描写し始めるとかなりややこいし
マニアックな割に盛り上がらないから
さらっと流される傾向あると思うよ

信雄とか信包とか大河ドラマになりでもしたら
クローズアップされる機会もありそうだが
何処かが後押しするような人物でもないし難しいな

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 00:27:53.44 ID:kxooVDd2
>>716
世間の人が求めてるのは伊賀忍者vs信長とかそういうことでしょう

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 10:57:44.67 ID:fFDqWvdN
>>720
伊忍道か

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 14:23:20.71 ID:v4cf6sdX
打倒信長か

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:20:10.22 ID:gAuGI6S0
妖術師ニコラス