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この利勝である

2018年10月18日 19:31

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 16:00:43.03 ID:hz70uM1d
水野信元処断の頃)

信元は讒者のために家国を失い遺跡は絶えてしまったが、女子2人あり。これは女なので子細ある
べからず。この他に2歳の男子あり。これは如何許らんやと家人らも思い煩った。

その頃、水野家に客人と称した女房がおり、この女房は機転のきく者で男子を我が子であると披露
して懐に抱き、浜松に赴いて民間に隠れて養育した。この子は成長に従って聡明英才に見えたので

徳川家外様の侍・土井小左衛門利昌が養い取って子とした。神君(徳川家康)はその由緒を聞こし
召されたのか、天正10年(1582)4月7日、長丸殿(徳川秀忠)の御誕生の時に7歳の

この子を召し出され長丸殿に付けられたのだが、その頃は甚三郎利勝といった。後に追々出身して
下総古河城主となって16万石を領し、大炊頭といって天下大老職に昇ったのはこの利勝である。

(原注:一説によると神君が御鷹狩に出られた時、1人の女が小児を抱いて御乗物に向かって涙に
咽び口説き申す事があった。神君はその小児をただちに召し連れられ帰られた。後に土井大炊頭と
申したのはこの子であると、その説に見える)

――『改正三河後風土記』



376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 23:21:15.89 ID:HsflDq2G
>>373
>人の女が小児を抱いて御乗物に向かって涙に 咽び口説き申す事があった。

神君「床を敷けぇい」
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時移り世変じて

2018年01月20日 18:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 22:03:19.61 ID:o+2SsETU
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。


もしこの時取り乱せば、

2017年11月20日 12:56

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 09:51:24.57 ID:QuxzyNGx
水野下野守(信元)が、織田信長との間に事あって、三河刈谷から下城し大樹寺にて蟄居した。
信長から密かに、徳川家康へ水野を殺害するよう依頼があり、久松佐渡守(俊勝)を使いとして
水野を招いた。

水野は何の疑いもなく、その上久松が来たのだからと、彼を伴い岡崎へ至ったところ、
平岩七之助(親吉)に命じて水野を殺害させた。

この時、久松はこのような事に成るとは聊かも知らなかった。そのため日々の勤めが薄ければ
必ず取り乱したであろうが、彼は少しも動揺した様子はなく、由々しく見えたという。

しかしながら、久松は自分が人質のように遣わされたにも関わらず、この事について一言の
仰せも無かったため、もしこの時取り乱せば、一生のおくれとなったと、内心遺恨に思い、
以後、御前に出仕せず、死去するまで安居の領地に引き籠もったという。

(士談)



330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/20(月) 11:03:09.52 ID:VzGyCTru
既に出てるな、出典無しだが。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3749.html

これが武道の眼つよみ第一

2017年02月20日 15:54

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 07:32:55.54 ID:T9Gd58Ub
 尾州大高の城に権現様がございました時に、
水野下野守方から、
今川義元が殺されましたので、早々に大高の城を御引取りください。」
と報告しに来ました。

しかし家康公は
「きっと義元の御生害が誠であるのだろうが、
敵方の下野守からの知らせで城を空けて退くのは、不行届で慌てた様である。
この城でこのまま難に遭うことになっても、それは是非ないことだ。
ここで踏み止まり確かな報を聞き届けて、
証が正しいと分かった時に引き退くべし。」

と仰せられ落ち着かれていました。
そのところに、岡崎の山田新右衛門方から、
書状で申し上げられたので、じっくりとお調べまして大高をお引き退きました。

これが武道の眼つよみ第一である。


『武士としては』


この両説は、確かには分からない。

2016年12月27日 17:40

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 04:54:42.37 ID:M9KwdTmq
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

――『武功雑記』