972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/12(金) 14:40:37.96 ID:UigjWT+2
東照宮(徳川家康)の御母上で、大方殿と申された方は、水野右衛門太夫忠政の御娘であった。
岡崎贈大納言家(松平広忠)に嫁がれて、天分十一年の十二月二十六日に若君をもうけられた。
これを竹千代殿と申し、即ち東照宮の御事である。
その後、また姫君が一人産まれられ、これは始め松平与一郎忠政に嫁いだ後に、保科越前守正光の
妻となられた。
大方殿は御父水野忠政が亡くなった後、御兄である下野守信元が尾州の織田に志を通じられ、
その時岡崎殿は無二の今川方であられたため、筋を通して北の方を下野守の元に送り帰された。
これによって、尾張国知多郡阿古居の領主、久松佐渡守俊勝に再婚され、そこで男子三人、女子三人を
もうけられた。
永禄三年三月、東照宮は初めて阿古居の館に渡られ、御母上に見参され、継いで三人の子息を御弟に
なされて松平の御家号を許された。
兄は三郎太郎康元、後に因幡守。次は源三郎康俊、末は三郎四郎定勝、後に隠岐守という。
父の佐渡守俊勝も岡崎に祗候したため、三河国西郡の城を給わった。
下野守信元も御外舅であるので、隔てなくおられたのであるが、ある年、織田殿(信長)の不興を得て、
東照宮も力及ばず、岡崎に招いて失い給う。然れども所領の地は、事故無く弟であった水野藤十郎忠重に
織田殿より給わった。これは当家(徳川家)と御由縁がある故であったという。(これは織田家に、
佐久間信盛が讒言したためであり、その所領の地も佐久間が申し賜って横領したのであるが、その後
佐久間は罪を得て改易された後、下野守の旧領をその弟である水野忠重に織田殿より与えられた。)
佐渡守俊勝は天正十五年の三月十三日に失せた。尾張国知多郡のうち、坂部村洞雲院に葬られたという。
大方殿に対して、当家においては非常に尊重され、慶長七年の六月、都に上られた。
これは名所古跡などを御遊覧されるためであると言われている。そして八月九日、伏見城にて
おかくれになった。御年七十五歳であったという。(或いは七十七歳ともいう。七十五歳であれば
東照宮の産まれ給いし時大方殿わずかに十五歳にて、あまりに若くおわします。七十七歳と言うに
従うべきであろうか。また水野家譜にも七十七歳と見える。)
(以貴小伝)
家康の母、於大の方(大方殿)について
東照宮(徳川家康)の御母上で、大方殿と申された方は、水野右衛門太夫忠政の御娘であった。
岡崎贈大納言家(松平広忠)に嫁がれて、天分十一年の十二月二十六日に若君をもうけられた。
これを竹千代殿と申し、即ち東照宮の御事である。
その後、また姫君が一人産まれられ、これは始め松平与一郎忠政に嫁いだ後に、保科越前守正光の
妻となられた。
大方殿は御父水野忠政が亡くなった後、御兄である下野守信元が尾州の織田に志を通じられ、
その時岡崎殿は無二の今川方であられたため、筋を通して北の方を下野守の元に送り帰された。
これによって、尾張国知多郡阿古居の領主、久松佐渡守俊勝に再婚され、そこで男子三人、女子三人を
もうけられた。
永禄三年三月、東照宮は初めて阿古居の館に渡られ、御母上に見参され、継いで三人の子息を御弟に
なされて松平の御家号を許された。
兄は三郎太郎康元、後に因幡守。次は源三郎康俊、末は三郎四郎定勝、後に隠岐守という。
父の佐渡守俊勝も岡崎に祗候したため、三河国西郡の城を給わった。
下野守信元も御外舅であるので、隔てなくおられたのであるが、ある年、織田殿(信長)の不興を得て、
東照宮も力及ばず、岡崎に招いて失い給う。然れども所領の地は、事故無く弟であった水野藤十郎忠重に
織田殿より給わった。これは当家(徳川家)と御由縁がある故であったという。(これは織田家に、
佐久間信盛が讒言したためであり、その所領の地も佐久間が申し賜って横領したのであるが、その後
佐久間は罪を得て改易された後、下野守の旧領をその弟である水野忠重に織田殿より与えられた。)
佐渡守俊勝は天正十五年の三月十三日に失せた。尾張国知多郡のうち、坂部村洞雲院に葬られたという。
大方殿に対して、当家においては非常に尊重され、慶長七年の六月、都に上られた。
これは名所古跡などを御遊覧されるためであると言われている。そして八月九日、伏見城にて
おかくれになった。御年七十五歳であったという。(或いは七十七歳ともいう。七十五歳であれば
東照宮の産まれ給いし時大方殿わずかに十五歳にて、あまりに若くおわします。七十七歳と言うに
従うべきであろうか。また水野家譜にも七十七歳と見える。)
(以貴小伝)
家康の母、於大の方(大方殿)について
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