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奇怪の至りである!

2022年04月15日 19:08

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/15(金) 18:13:31.33 ID:V3JBKu5c
或る本に、大坂夏の陣の後、大御所(徳川家康)は帰陣し二条城へと入ったが、この時水野日向守(勝成)を
召して言った。

「私は先に、お前が八方の大将を承る上は、相構えて昔のように、自ら高名しようなどと思うなと言った。
ところが五月七日の合戦(天王寺・岡山の戦い)で、明石(全登)の陣へ向かい、自ら鑓を取って
真っ先に駆けて敵四人と渡り合い、二人を追い払い二人は首を切るなどと、予ての私の命を背いて
軽々しい振る舞いばかりを仕り、奇怪の至りである!」

そのように甚だお叱りになったため、彼の手の者達も高名したのであるが、御感に預かることが出来なかった。

されどもこの年の七月二十日、三万石加増有って、大和郡山の城を賜った。これは今度の勧賞であったのだろう。

同五年、備後国福山の城を賜い、城を築いて移った。十万石であった。
慶安二年二月十五日に卒した。時に八十八歳であった。

新東鑑

水野勝成が家康から叱られたお話



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出来島隼人

2020年08月11日 17:31

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/11(火) 12:08:46.85 ID:vExl9+cv
慶長十三年
三河国苅屋城主の水野日向守(勝成)は去年十月、かぶき女で名字「出来島隼人」と
号する者を京より召し連れ下ったが、去る月にこれを引き連れ上洛し、衣装以下きらびやかにしてかぶかせた。

彼は内々に、聚楽勧進においてかぶかせる事を思い立ったが、それは然るべからずと友人が頻りに
諫言したため、それは止め、勧進法楽にてかぶき、見物の貴賤市を成した。

去年十月に彼女を連れ下った時は、亭主に銀子三十貫目を出し、今度は衣装その他の造作に銀子七十貫目が
入用であったという。

京の町人たちは彼女を歌や文章で讃え、若輩者共で見物しないものは無かった。

当代記



志岐天草表の手柄

2020年04月20日 19:01

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 10:18:50.04 ID:+n0zh/da
(天草国人一揆の時)
拙者(水野勝成)は小西摂津守(行長)の所に在り、志岐城攻めに加わった。この時肥後守(加藤清正)人数も
小西と同じように志岐城を取り巻いた。

志岐城はすぐに小西が請け取り、その後天草本渡城を押し詰め、朔日より取り掛かって本渡城に仕寄を付け、
二十三日目に乗り落とした。肥後守は山手の方から仕寄を付け、足場が非常に良かったが、小西は東の
水堀の方で、足場が悪く非常に迷惑した。

二十三日に城に乗り込んだ時、私は水堀を越えて堀裏に付き、一番乗りをした。私の跡に続いた
久米兵太夫が声をかけてきて、三間ほど跡を進んだ所で、胸板を鉄砲にて撃ち抜かれ、堀底へと落ちた。
私は堀を乗り越え本城(本丸)まで着いた時、松平三蔵殿(肥後殿にては加藤左助と申候)、この仁は兄弟連
であったが、私の側に参り

「未だ敵と手合わせをしていない。六左衛門殿(勝成)、頼み入るので、何卒手合わせの相手をくれないだろうか」

そう申してきたので「相心得候。私がよく見て、良い相手を見つけましょう。」と答えた。
本城の下にだしがまえ(馬出か)が有り、その門を開いて敵が突き出てきた。この時松平三蔵殿は鑓を合たが、
敵は突き捨てに仕掛け、左のこめかみを突かれたため、彼の弟に私から「早々に蔭に引き込むように!」と申し、
私はそのまま敵に突き入れ、その場にて七人を討ち取った。この内先駆けした者は私が討ち取り、残りの六人は
私の家来である山本次太夫、林志けりのすけ、近藤弥之助が討った。この三人も敵を一人ずつ討ち取った。
その他に歩行の者(足軽)も討った。近藤弥之助は弓にても良き者を射た。

山岡道阿弥がこの陣の様子を詳細に存じており、権現様(徳川家康)が伏見に居られた時、志岐天草表の
私の手柄を詳しく申し上げた所、権現様は殊の外御感になり、後で道阿弥から
「直ぐに召し遣わされるでしょうから、その事についてよくお心得に成って下さい。」
と申してきた。その後程なくして、私は御前に召し出された。

水野日向守覺書

天草国人一揆での水野勝成について。ここに出てくる松平三蔵、三河一向一揆で一揆方に与して牢人となった
人物ですね。



この下には水道があるのに

2020年02月15日 13:57

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 02:54:34.70 ID:hq79ljkl
ある時、水野勝成が駕籠に乗り城下町を移動してた際のこと

駕籠が武家町に差し掛かり移動してた際、
駕籠の者が上水道の上を通ったのを見て

勝成は「この下には御家中の侍達が飲む水道があるのに、どうして通ったのか?」といい、
「勿体ない事である、これからは脇を通りなさい」とその場で水をいただいた。
それからは上水道の上ではなく、その左右の脇を通るようになった。

宋休様御出語

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/19(水) 06:31:35.22 ID:0K6Weonq
>>646
なお、この話

上水道の上に乗れたことから
福山の上水道が、当時暗渠化してたのでは?との証拠でもあって
当時の上水道の研究では、引用されがちな話でもあり

福山旧水道のWikiでも
水路は道の中央にあった事が語られたり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E6%97%A7%E6%B0%B4%E9%81%93




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 11:00:25.93 ID:MsjspBDx
水野勝成の晩年の名君っぷりを見ると、森長可も名君になった可能性結構あるような気が。
少なくとも、森忠政みたいに外面だけはいいけど内政ぼろぼろということはないような気がする。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 11:40:07.63 ID:W0T7xOiX
駕籠の者が叩き斬られなくて良かった
年取って見事な分別持つようになったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:32:21.86 ID:mq716C2i
>>647
そう考えると長可の遺言の金山とか森家の跡を仙千代に継がさないでってのも
家族に武家なんて継がせたくないとかそんなんじゃなく
仙千代あいつやばいやつだから無茶苦茶しかねんっていうすごく実を見た判断だったんかなぁ

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:50:05.41 ID:jacqQtHU
坊丸力丸はどんな人だったんだろうね?
一番影が薄いお兄ちゃんもw

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:32:59.50 ID:MEjxNpV7
長可も忠政も癖が強いから単に合わなかっただけと思うw

どっちも不要の波風と人間関係に角立てまくりながら
やることやった上うまく乗り越えて結果オーライで治る
という評価の難しい人物

家臣団が優秀だっただけかも知れんけど

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 16:50:17.35 ID:zL0mkG8W
>>653
忠政は川中島でも津山でも暴政やらかした実績あるぞ。
長可は芋川一揆を強引に鎮圧したけど、あれは状況が状況だったし、
それ以外に苛政とか暴政と言えるようなものはあまり見当たらない。

センゴク権兵衛の水野勝成動静より

2018年07月09日 21:08

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 19:03:49.08 ID:pHebzZNl
センゴク権兵衛の水野勝成動静より

水野勝成が仙石権兵衛配下の際、長曾我部攻めで
水野勝成に兄を射殺された竹崎右衛門水野勝成に復讐を誓う
その水野勝成が土佐の国に放浪している事を知る。
土佐の村々で一宿一飯の旅をしているらしい。
そして水野勝成を村の相撲大会におびき寄せる事にした。
水野勝成が相撲大会に参加したところを引っ捕らえて兄の仇を討つ計画だったが
いざ水野勝成が相撲大会に参加した際にまさかの褌一丁の姿に驚き
水野勝成を捕らえる好機が無くなった。
相撲大会は無事水野勝成の優勝に終わり、竹崎右衛門の家来まで喝采するが
結局水野勝成は捕らえられた。
その時、竹崎右衛門は水野勝成の前に出て水野に賞品である米一斗を差し出した。
そして水野勝成も竹崎右衛門の前に自分の持って来た米を差し出して「供養にせよ」
と言った。
水野勝成は周辺の村で一宿一飯の恩義で米を集めて供養米を集めてたらしい。
竹崎右衛門は水野勝成に「これからも立派な武将になられませ」と返答した。



69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 12:25:51.02 ID:Elqyu4L1
一宿一飯の恩義で米を集めて

ここがよく分からなかったが、泊めて貰ってお土産で米を貰っていたという事か

70 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/09(月) 21:48:22.34 ID:zdyxJwFY
ついに水野勝成さんが明後日のヒストリアに登場だ
どのように調理されるか楽しみだ

※ あらまあ(´・ω・`) 7月18日22時25分からに変更になった模様

SnapCrab_No-0492.jpg


71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 22:37:20.20 ID:ms4qa/97
>>69
騙し取ったのかもしれん

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

お珊地蔵・珊誉女

2018年03月11日 13:28

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 12:50:46.28 ID:NUqogJM8
お珊地蔵・珊誉女

水野勝成の正室である
お珊の方
この方、生来歯の痛みの悩みがあったらしく
つまり虫歯の痛みで悩んでいたそうな

で、この方が亡くなる前に遺言で
「歯の痛みで苦しむ者がいたら
私の墓所で祈れば、その痛みを取り除いてあげましょう」と残し亡くなった

その後、この話は各地に伝わり
その結果、彼女の墓所の土が江戸の善長寺に伝来し

お珊地蔵なる地蔵が建てられたり

また横須賀の常福寺には、彼女の位牌が伝来し
そこでは珊誉女として

共に、歯の痛みに悩む人達に対して
信仰をあつめたそうな


これの別Verだね
水野勝成室お柵の方、「歯の神様」



荒木素白は書の名

2017年09月13日 18:22

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 22:54:40.59 ID:Mgtr1m2r
荒木素白は書の名、家名は光辰。通称は三次、のちに内膳。母は桂氏。
九歳で福山藩主水野勝成に仕えるが、十九歳のとき同僚と争論して去り、伊勢に赴き津の藤堂高虎に仕える。
高虎、勝成のために酒餞を設ける。素白は給仕周旋する。
勝成恚りてこれを高虎に言う。高虎肯んせす。
素白去りて京師にいく。勝成怒りて国に入るを禁じる。
数年後、素白は鞆の浦にやってきて告首罪を請う。勝成はなだめて京師に帰した。
素白剃髪して禪を霊隠寺一絲に問い名を虚空素白と改める。
勝成に再び召し抱えられて月棒を貰う。勝成勝俊が亡くなったあとで辞去。
高虎の嗣子が招くが辞退。
素白は書を好み藤木敦直を師としてその名は高し。上代風の中興。書体三跡の室に入るという。後水尾天皇は召しだして扇と色紙に書かせて、おおいにこれを悦ぶ。
晩年力老いて病むにおよび大納言藤原弘資を遣わして慰問する。使者絶えず。貞享二年春死ぬ。年齢八十六歳。七男一女あり。(野史、名家全書)
大日本人名辭書

頑張って翻訳してみた。
勝成と高虎って仲良さそうだね。



水野勝成宛消息

2017年01月22日 17:17

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 19:49:01.33 ID:k/8ijvKT
水野勝成宛消息

http://gallery-so.co.jp/artistwork/%E3%80%8C%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90%E5%AE%9B%E6%B6%88%E6%81%AF%E3%80%8D
datemasamune_nagainaokiyoshosoku-1.png

伊達政宗から勝成への手紙といえば、こんなのもあるらしいが
俺には読めない
だれか偉い人翻訳してくださいな



謎の手紙

2017年01月18日 10:11

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 20:20:58.62 ID:hCLw+O8A
謎の手紙

伊達政宗は、権力者に取り入るのが上手である
それは天下人だけではなく、天下人の取り巻きにも媚びを売るのが上手だからだ
ということで、政宗は、家康の取り巻きである水野勝成にも、いろいろと媚びを売っていたらしい。政宗から勝成へのお手紙が三通残っているとのこと。

・冬の陣の陣立てのときに、政宗が勝成に「そっちはいまどこですか、うちは枚方に明日つくかなってかんじです」という書状とか。

・平和な江戸時代にも、政宗は勝成に「鷹狩りいかない? だれか一緒つれてきてもいいし」というメールを送っている。

まぁ、これはいいのだが、不思議すぎるメールが一通ある

政宗文書番号1598
 慶長19年12月21日付
 ちなみに大坂冬の陣の和睦が、慶長19年12月20日。つまり、翌日、政宗から勝成に出されたお手紙。

かの牢人にお手紙を書いてくれてありがとう。なお重ねて様子を教えて。
いま岡山にいく途中なんだ。

意訳するとこんな感じらしい

かの牢人ってだれ?
勝成は大坂城内の牢人と連絡する手段を持っていたってこと?

空想が広がるお手紙である



518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:04:41.00 ID:/3OBSLpx
又兵衛じゃないの?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 22:16:37.51 ID:/3OBSLpx
宮本武蔵じゃね?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 04:50:36.50 ID:DYIdIhBH
岡山つながりで明石とか

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/18(水) 19:42:55.94 ID:gHO+4z/w
>>517
今回の、第11話『この想い届け☆八丈島にっ!』はお楽しみ頂けましたでしょうか?
次週最終話『ひどくない?江戸幕府って修羅の道なんだよ?』もお楽しみに!!

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 21:50:48.88 ID:BFUgJEUg
>>522
まーくんは八丈島のあの人にも手紙書いてたのかw

庵原朝昌の帰還

2016年10月15日 10:46

247 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 00:26:30.80 ID:QmUi7l/K
庵原朝昌の帰還

水野勝成が奉公構えを受けて九州を放浪した後、佐々家に1000石で雇われてた頃
勝成が雇った門番が庵原朝昌である。
当初は身分を隠していたが、ある日勝成が彼の荷物から立派な具足を見つけたので
門番に問い詰めたところ、井伊家を出奔した庵原朝昌である事がわかった。
それ以来、勝成は自分の所領である1000石から200石を朝昌に与えた。
その後、佐々家お取り潰しの際に勝成は井伊直政に朝昌を再雇用出来るように手紙を送り
朝昌は無事に井伊家に帰参する事になった。


250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 07:42:14.63 ID:QmUi7l/K
この話の出典は「放浪武者水野勝成」からの抜粋です


248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 00:41:51.39 ID:qDzPZbFf
井伊話だなー

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 01:00:38.30 ID:9W5iOiCM
葵徳川三代で木村長門討ち取るシーンで出てきたのがきっかけで知ったな~庵原朝晶

井伊家侍大将、庵原助右衛門朝昌の武功
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2446.html?sp&sp



後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

2016年10月14日 21:10

213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。



214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D
大事な事なので二度書きました

鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)

2016年08月29日 17:06

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:20:58.43 ID:N4wM4BOK
元和5年に福島正則が改易されると、
備後には水野勝成が10万石で入封されることとなった。
備後には古くより神辺城が存在していたが、
新たな領国経営のためには北方に過ぎると思われた
幕府より新規築城の許可を得た勝成は、
西国偃武の地としてふさわしい場所を選ぶべく領国内を巡検し、
最終的には陸路・海ともに近接している常興寺山に築城することとなった。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:21:19.20 ID:N4wM4BOK
ただし、常興寺山の北には山が存在しており、そこからの砲撃には防御が脆弱であることが懸念された。
「私ならば一日で城落として御覧に入れましょう」と言う家臣に対し、
勝成はこう答えたという。
「その事を一番分かっているのはわしである。
しかし、今回の築城では幕府の威容を示し、
この勝成が西国の中心で諸大名に睨みを効かせるのが重要である。
天守の北面には鉄板を貼って防御とすればよい。」

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:21:40.70 ID:N4wM4BOK
こうして築城された福山城は、幕府の援助もあり10万石としては破格の巨城となった。
そして、天守の北面は鉄板で覆われていた。
かくして、正式名称は鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)と呼称された。

縄張り図では南面に防御が分厚く、北面は守りが弱かった。
これは、勝成が幕府に遠慮してわざと北面を薄く作り、代わりに寺社を置いて防御の助けとしたため、とする説がある。

時は過ぎて戊辰戦争の際、福山城は長州藩に攻撃を受けた。
その際に城の北面からの砲撃を受けたが、天守の鉄板に弾き返されたという逸話が残っている。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:27:36.70 ID:N4wM4BOK
ちなみに福山城天守は戦前に国宝として指定を受けていたが、
惜しいことに太平洋戦争時の空襲で焼失してしまった。
現在の再建天守は、原型を留めない残念なものとなってしまっている。

縄張り図を見ると、南に重厚な防御を備えているのに北方は極端に弱い。
上記の幕府に遠慮した説のほかに、予算不足という説もある。

ただし、幕府も積極的に資金援助した江戸時代最後の大規模築城である事を考えると、
予算不足のみならず、技術者不足などもあったかも知れない。



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:43:28.21 ID:IBJrkX0/
いや、なんで福山城を長州が攻めるんだ。 第2次長州征伐の時の芸州口は大竹市から東は戦場になってないぞ。 そもそも芸州浅野は長州に同情的で中立だし。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:59:17.27 ID:N4wM4BOK
長州征伐じゃなくて戊辰戦争ね。
福山藩は歴代譜代大名が入ってて、幕末には阿部正弘が老中として活躍してる。
そのせいか幕府方とみなされて攻撃されかかってるし、実際に小規模な戦闘で死傷者も出てる。
恭順姿勢見せたから、全面対決は生じなかったけど、以降は新政府方の先鋒としてコキ使われたみたい。

「汝は我跡を相続する者ではあらず」

2016年02月27日 17:40

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:46:04.34 ID:Wke8w9Jz
天正の末、参州水野和泉守の嫡男、水野六左衛門は
太閤秀吉公の扈従であったが、相撲の諍いによって傍輩を殺して出奔した。
秀吉公大いに怒って、諸国を尋ね求めてこれを殺さんとした。
六左衛門は勇敢身に備えたる人であったので、九州へ下向し
姓名を改め、所々の戦闘に参加し功があった。
名が既に顕れたので、ここも逃げ去り、糧食も尽き、身も塞がってしまったので
漢の韓信が釣りを垂れる苦しみであった。
美作国へ往き、安藤という百姓の聟(むこ)となった。
しかし農作を勤めず、朝夕川に臨んで網釣を事とし
山へ登って禽獣を狩ってばかりいた。
安藤、これを見て「汝は我跡を相続する者ではあらず」と大いに怒り、追い出した。
恥辱と思ったのだろうか、刀を抜き刺殺し、ここをも走り去り、三村紀伊守を頼った。

(西国太平記)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 10:38:18.43 ID:r+I6p6vK
>>244
毎度お馴染みの水野さん

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 10:42:43.56 ID:mTZkIgw9
どの話でもだいたい大筋の流れ同じだからやっぱり本当にDQNだったのだろう

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 14:14:58.07 ID:4EbOraoe
>>244
水野「ヒャッハーッ!血だ!血を寄こせ!」

各地でこれだもんな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 00:26:07.39 ID:+mnejghW
>>244
水野勝成は今で言うADHDっぽい。
衝動性や他人への共感性の欠如や
自伝での虚言癖等、当てはまる要素が多い。
ADHDは適性に合った職や環境に出会うと改善するが
勝成の場合、家督を継いで小藩を治める、というのがそれだったんだろう。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 06:02:43.25 ID:8i+MnqKv
>>253
それ言いだすと、鎌倉時代以降~元禄期までの武士はADHDだらけだぞ。
毎日人を殺さないと気が晴れないとか、生首を飾ってないと機嫌が悪いとか、悪口から周囲を巻き込んで殺し合いとかごろごろしてる。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 07:02:41.61 ID:5s/MLQ/I
当時はそれが仕事だから

256 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 07:53:29.36 ID:MPqumkkl
>>244
これでも水野一族ではまともの方なんだよな
勝成さん以外の水野一族の方々も
表に出てないだけで勝成さん以上の無茶ぶりをやらかしてるし
三河では勝成さんクラスのDQNが当たり前だから
たまたま勝成さんは奉公構えで全国を彷徨ったから目立っただけだから
ただこの狂気な水野一族の血脈から天下人が出て来たから
ある意味勝ち組何だが

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 09:00:58.75 ID:xgbWrhES
それが当たり前なら、勝成を始めとする水野一族を
無理に持ち上げなくてもいいような気がするんだけど。
どうしても高く評価されないといかんのか?

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 10:02:18.56 ID:LfsNoNs8
それでも島津軍法みたいなのは基地だと思う
おかげで島津軍の通ったあとの九州各県は兵だけでなく
片っ端から村人殺されペンペン草も生えない大虐殺だらけで
薩摩以外からはいまだに嫌われてる
まあ黒田とかも好かれてないが

259 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 13:48:59.74 ID:sDx5l1XY
水野一族は変わり者が多いからな
天保の改革で有名な水野忠邦なんか
老中になりたいが為に実質20万石以上ある
唐津藩を捨てて6万石程度の浜松藩に転封したぐらいだからな

260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 15:03:20.59 ID:RTpfv5yA
松平の血で中和出来たんだろうか?
でも諸々のエピソード聴くと短気なところは受け継いでるな

「憎っくき今の言葉かな、思い知らせてくれん」

2016年02月02日 16:17

73 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/02(火) 10:13:31.55 ID:8nDx0e9s
>>68
の続き

この後勝成、乗乃助と名を変えて、毛利が家人、備中国の住人三村紀伊守という
三千石を領する人の家に行き、十八石の禄を受けて仕え、この国にて子息美作守をもうけた。
あらたまの春となり、三村が家に椀飯の事があり、饗膳をはり、茶を賜る事があったが
下様の人には及ばなかった。
勝成、さすがに昔を思い出し、どうにかして飲みたいと思ったので
茶を点てる童坊に近寄り、手をつかねて、事なさげに
「我にもお茶をたまわれ」と言うと、この童坊
「これはうえさまの人々に給はるもので、おこと等にまいることは叶わず」
勝成これに対して
「さればである。それゆえこうして望んでいるのだ」と言ったが
つれなく聞き入れられず
勝成「侍ほどの者に飲食の物にて恥は見せぬものだ」と言うと
童坊カラカラと笑って「おことも侍の数に入るのか、ああおかしい」と言ったので
勝成、大いに怒り、大の眼に角を立て、はたと睨んで
「憎っくき今の言葉かな、思い知らせてくれん」とつぶやきつぶやき立ち出でて
この童坊が茶の事終わりて帰る所を、ただ一刀にて斬り捨て
ここを去りて都を指して登って行ったと言う事である。

(藩翰譜)



74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/02(火) 13:36:56.89 ID:SLtLAPZq
水野勝成はほんと生まれる時代を間違えなかった

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/02(火) 14:56:38.29 ID:/5a0my5b
>>73
ただ、勝成に限らず戦国時代に侍を挑発すれば、切り捨てられてもまあ当然。

76 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/02(火) 21:41:31.05 ID:euXDDpox
これでも水野家ではまともな人だったわけだが

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 11:18:19.84 ID:zF8xJyop
>>73
勝成は水野側の資料(主張)がホント酷い。
例えば大坂夏の陣では後藤・真田・明石・薄田等
名だたる武将は全部水野家が討ち取り
越前松平、家康の窮地をも救って大坂城内一番乗りとかそういうレベル。
白石先生は藩翰譜でそういうホラ話は採用せずに淡々と記述してるが、その点はさすが。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 19:39:36.83 ID:IZjFTMLJ
白石と羅山、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い

81 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/03(水) 19:43:52.65 ID:DQrJ04RJ
徳川家の半分は水野家のDQNの血統で出来てます。
特に越前家に濃く出てます。

82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/03(水) 20:02:37.17 ID:DQrJ04RJ
≫79
そんなの言ったら真田の方が酷いだろ
真田十勇士とか無茶苦茶じゃないか

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 20:56:53.62 ID:zF8xJyop
水野の場合は家伝、つまり藩の公式見解がぶっ飛んでるってこと。
松代藩の記録には十勇士が出てこないでしょ。

水野家の関ヶ原後の恩賞

2015年12月07日 14:24

87 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/06(日) 18:51:57.80 ID:pR+7aHjN
水野家の関ヶ原後の恩賞
関ヶ原後に水野勝成に対して加増はなかったが
水野勝成の弟2人に各1万石の加増があった。
関ヶ原の前年に徳川家康の仲介で水野勝成が水野家に復帰した
そして関ヶ原の直前に水野家当主である
水野忠重の暗殺によって水野家の家督争いが勃発仕掛けたが
丁度その時に関ヶ原の戦いになった。
水野勝成は関ヶ原の戦いに直接参戦せずに
大垣城攻略に廻された
その際に九州3武将の調略をして無事に大垣城を落城させ
父忠重の仇を倒した
その後の恩賞は勝成自身じゃなく弟2人に各1万石を与えられた
これは家康のファインプレーである。
この事により水野家の家督争いが無事に解決できたのである。



水野日向守は目薬をさすとき

2015年11月11日 08:30

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:16:23.03 ID:ZsdUPDCe
水野日向守(勝成)は目薬をさすとき、片目ずつさした。

(武功雑記)

何故これが逸話として残っているのか?というか昔の人は両目いっぺんに目薬したのか?



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:21:55.75 ID:K0FucBaa
目薬の品質や毒が混ざってるかを警戒していたとかなんだろうか

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:42:06.37 ID:vJqyXwjv
両眼差して目をつぶってるときに何かあったら困るだろ。片方指して時間置いてもう片方指すんだよ!ってことじゃないのかにゃ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 18:52:22.27 ID:1N3bzgi5
ほかの四天王はどうさしたかな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 19:36:29.08 ID:2W+l2UW8
両目うるうるして視界見えないとやばいから片目ずつ時間おいたんだな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 20:20:57.69 ID:hL7p8s2L
そんな紛いモノはやめて我が家秘伝の眼薬を使うがよかろう
それと万々が一のために左手は空けておくがよかろうぞ?

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 10:18:17.79 ID:aIcu+Idj
そういや、かなり以前に業界誌にこんな話が載ってた。
ある人が眼を患い視力が落ちて来た。
と、そこへ「目医者でござ〜い」と1人の男が触れ回って来たので治してもらう事にした。
治療が始まると、なんとその男はいきなり眼球に針をブスリ!
あまりの痛さに悶え苦しみ、やっと落ち着いた頃には、その男は既にいなくなっており
その人の目は見えなくなったとか。
戦国時代の目医者の話だそうだ。

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 14:43:01.65 ID:ss8ii6li
ヒエッ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 16:21:50.01 ID:xLRzxji3
>>619
病草子にも描かれてる白内障の治療法だね
http://home.nms.ac.jp/page/magazines/ikikenko/byoukinorekisi/menotiryou.html

目の中の濁った水晶体に直接針を刺して破壊するリスキーな治療法で
古代から洋の東西を問わずあるよ。
音楽家のバッハやヘンデルも晩年この治療法を試して失明してる

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 16:34:38.66 ID:Z5vXwdXR
土生玄碩もシーボルトに、ベラドンナ(瞳孔を開くため美人ベラ・ドンナに見える薬)がないと
白内障の治療は危なっかしくて無理と言われたし
戦国時代じゃ仕方ないか

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 17:11:50.16 ID:Z6bkiv/M
>>623
バッハ、ヘンデルは同一のインチキ医者のせいで失明

水野勝成「ちょっと待ってくれ戸田殿」

2015年11月01日 13:14

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/31(土) 20:04:57.97 ID:4yIZAUwm
寛永16年、島原の乱で幕府軍が一揆を攻めあぐねる中、幕府より松平伊豆守信綱が派遣された。
将軍徳川家光は、信綱を派遣するに当たりこう仰せ下した

「(水野)日向守勝成は名にし負う古兵である。彼ら父子が参陣するまでは、ただ遠巻きにせよ。
合戦をして兵を討たせてはならない。」

信綱は現地に到着すると、軍を留めて勝成の到着を待った。勝成はわざと日数をかけ、2月22日に
到着した。

同24日、幕府軍の諸将は信綱の陣に集まり軍評定を開いた。ここで戸田氏鉄進み出て、
「我らは将軍家から、相構えて兵を討たすな、謀を巡らせて城を攻め落とせとの仰せを承った。
である以上、このまま遠攻めにして城中の兵糧の尽きるのを待つべきだと考えます。」
これを聞いて信綱は勝成の方に向き、尋ねた「日向守殿のお考えを承りたい」

勝成
「今は天下一統の世となって、一揆の奴原に力を合わせようという者は一人もいない。
何の恐れることがあるだろうか?ただ面をも出させず、干し殺してやるに若くべからず。
大御所も昔高天神の城を、そのように攻められたものだ。
殊にこの原城は古よりの名高き城であると、この勝成が若いころ、鎮西に流浪した時に承っている。
あたら武士の命を、土民百姓たちのために失うというのは謀ではない!」

戸田氏鉄我が意を得たりとばかりに
「尤もです!敵の兵糧が尽きるのを待つべきです!」

ところが勝成、これを聞くやいなや
「ちょっと待ってくれ戸田殿、私が言っているのは、今日まで遠攻めして味方を討たせないようにしたのが
良い謀だ、ということだ。」

「は?」

「城の奴原は一揆が勃興してから、100日も立て籠もっている。ならば今はもう兵糧も矢弾も尽き果てて
いるだろう。であれば、この後一体何を待つというのか?

我らはただ平攻めに攻め破って、奴らを捨ててしまえ!」

こうして幕府軍は総攻めを行うことに決定したのである。

(藩翰譜)



水野勝成は天性凶暴な性格で

2015年10月31日 18:45


562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 19:21:19.42 ID:hj1CYVjj
水野勝成は天性凶暴な性格で、父の不興を蒙り、刈谷城を出て都にのぼり、六左衛門と名乗った。

世に伝わる話によると、勝成は父忠重の納所の役人を召して
「俺は我が家の嫡子であり、終には家を譲られる身である。父が持っている宝は、尽く我が物となるのだ。
お前たちも終には俺に仕えるべき身であろう?

それなのにお前たちが、ややもすれば俺に思う様に金銀を渡そうとしないこと奇怪である。
今後は、いかほどでも、何度でも、必ず渡すように!」

これに役人
「どうして仰せを背くでしょうか?ですが、大殿の御物をわたくしに奉ること、我々が罪を被るのは
物の数では有りませんが、貴方様がお咎めを受けるのをはばかって、お渡しできないのです。
どうか如何にもして、一度大殿の許しを得られたならば、その後は何度でも、仰せに従ってお渡しいたします。」

これを聞いて勝成は激怒した
「父に申すべきほどなら、おのれらにこのように言うものか!」
そう言うやいなや役人の首を打ち落とした。

その後、父忠重の気色、日を追って宜しからず、「このままでは俺も頸が斬られそうだ。」
勝成はそう思い、刈谷を逃げ出したということである。

(藩翰譜)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 20:46:22.08 ID:i/5n7PMX
海音寺潮五郎の「かぶき大名」のオリジナルになったくだりかな。
もっとも、小説で勝成は斬りおとした武士の首を、
慌ててすげ直そうとするんだけどw

水野勝成の晩年の話

2014年11月16日 17:27

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:55:51.83 ID:nF9hxvrC
昔の福山の漫画にあった、水野勝成の晩年の話。
備後福山藩士である本庄重政は家禄500石である本庄重紹(しげつぐ)の長子であったが、自らを1000石の器として家督を継ぐを潔しとせずに出奔した。
話を聞いた勝成は、自分の若いころと同様であるとして笑ってこれを許し、本庄家は次男が家督を継いだ。
出奔した重政は山鹿素行と親交を持ち、軍学を学んだ。その際、赤穂藩士と知り合う縁を持ったといわれる。
重政は砲術を極め、本庄流砲術として1000石で自らを諸藩に売り込んだが、時は既に元和偃武にて砲術による仕官は叶わなかった。
結局、後々の加増を条件に岡山藩の池田光政によって300石で仕えることとなったが、4年経っても加増を得られないことを不満に思い無断で出奔してしまう。
池田光政は激怒して方向構えの処置をとり、諸藩に書状を送った。
これを読んだ勝成は重政を心配し、十歳となる重政の長男を仕官させるという名目で1644年に重政を500石で呼び戻した。
1651年に勝成は死去するが、重政は1660年より赤穂藩の塩田技術を取り入れて備後福山藩の神村・松崎の端に塩田作成に着手。
7年の歳月を経てついここれを完成させた。また、同地への商人の招聘にも尽力したといわれる。
重政は沼隈郡・新涯奉行としてこの地に住み、本庄村と称されたが、後に松寿永年にちなみ松永と改名された。
現在まで続く広島県福山市松永町の由来である。

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 01:58:24.17 ID:nF9hxvrC
794の続き
勝成は、家臣を思いやること非常に篤く、病の家臣は自ら見舞ったといわれる。
また、藩士が自藩を辞めて他家に仕官しようとする際、問い合わせがあった際には
「私に力がなく、待遇を思い通りにしてやれなかった。しかし大切に召し使えばきっと役に立つ男です」と返書を書いたといわれている。

備後福山藩では当時としては珍しく藩士に旅行の自由が認められており、
届け出さえ出せば西は宮島、南は屋島、東は京都・大阪・奈良・堺・伊勢神宮まで旅行ができた。
帰国した藩士が土産を持って拝謁した際には、勝成はその無事を喜び、みやげ話を聞くのを楽しみにしていた。
このため藩は非常によくまとまり、目付と法度無しで国が治まっていた。
目付や法度無しで国が治まっていることを池田光政が不思議がっていたという記録が残されている。



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 04:56:37.18 ID:fHBYzz2q
この塩田って埋め立て新田のほう?製塩の方の塩田に7年もかからんよな

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:45:04.16 ID:74yGtwhj
最終的に1000石にはなれたのだろうか

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 06:59:04.65 ID:8FmGoyBr
戦国は終わったのだし1,000石時代は遠くになりにけりってオチだと思う

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:24:08.86 ID:nF9hxvrC
>>797
製塩の方の塩田ですが、埋め立てて作ったそうです。
干潮時しか工事ができなかったそうで、難工事となったと思われます。

ちなみに完成した水路が木材の搬入に便利であったことから、
後に松永はゲタ生産でも有名となります。
その縁で、私が子供のころは日本で唯一のはきもの博物館がありましたが、
今調べたら閉園してた…orz

>>799-800
すいません、最終的に1000石いったかどうかは分かりませんでした。
弟が継いだ分と合わせると、本庄家全体では1000石ですね。
まあ、家督を継がずに出奔して、また500石で召し抱えてもらったんだから御の字かと。

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 10:29:44.18 ID:nF9hxvrC
ちなみに上記の話は、「まんが物語福山の歴史」(啓文社)という本にありました。
もともとは上下巻で出版されていたのですが、一冊にまとめて2011年に再販されたみたいです。

水野勝成の人生と福山の開発に焦点が当てられた本です。
晩年の逸話なども含まれており、大人となった今でも十分に読める内容でした。
熱心な勝成ファンでしたらぜひ購入をお勧めします。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:27:39.59 ID:fHBYzz2q
>>805
無知ですまんかった、この人その辺の地区の始祖な人だったんだな
猫の額みたいな塩まみれの土地に戦略港湾作ったようだ。こりゃ7年かかるわ
ちず

何か子孫は重政の死後早々に口実つけられて追放とか言う記述があったんだが、事実なら悲しい・・・

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:51:43.37 ID:nF9hxvrC
>811
面白い画像をありがとう。
もと福山市民として興味深く見せてもらったよ。

子孫は追放ですか、確かに事実なら悲しいなぁ。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 22:00:50.60 ID:njtJOn+k
>>811
一番右の入り江に目が行ってしまう
藁江よ。藁江ばいいさ