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「続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

2023年02月27日 19:32

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 22:46:16.88 ID:EAgpXPFs
続武家閑談」から「岡崎にて一揆どもと御合戦のこと」

大御所様が岡崎に御居城あそばされた時、信長公へ六条門跡(本願寺、ただし六条門跡は堀川六条に西本願寺ができてからの呼称)が逆心したということで、宗旨の者どもも国々で一揆を起こした。
三河一国の宗旨の者もことごとく一揆をおこし、一揆勢には家中の歴々の武士も多かった。
これは当時、大御所様が信長公に御味方してらっしゃったためである。
一揆の者どもを御退治なさるべく評定を行い、明日御合戦をなさるとお決めになった。
青見藤六はその夜まで大御所様の近くにおり、御手立ての様子の委細を承知していたが、その夜に一揆勢方に加わり、一揆の大将となってしまった。
大御所様はこれをお知りになり小姓どもにお触れをなし
「今日の合戦でわしが討ち死にするようなことがあれば、忠義のものは石川新七と藤六の首をとってわが前に持って手向けをするように。
さすれば二世までの忠節と思おうぞ」とおっしゃった。
さて合戦で藤六と石川新七は先に進み、新七は水野和泉(水野忠重)に突きかかってきた。
新七は「和泉殿は日ごろは一家の主とあがめていたが、今日は敵となったからには一槍つかまつろう」と言って和泉と槍を合わせ、討ち死にした。
青見藤六は太郎作(水野正重)と出会い、太郎作は逃がすまいと進むと
藤六は「小せがれめ、射殺してくれるわ」と大弓を引いた。
こうして太郎作は槍、藤六は弓を引いたまま、互いににらみあった。
するとどこからかしらぬが流れ矢が藤六の肘に突き立った。
藤六は弓を捨て矢をかなぐり捨てたため、太郎作は「うれしや」と一槍突いたけれども、良い具足であったため槍がはしって藤六と鼻合わせになってしまった。
藤六は刀を抜き、太郎作の兜の鉢から斬ったものの、兜はよい兜であったため斬れなかった。
太郎作は槍を捨て、刀を抜いて一打ちすると、藤六は倒れながら「小せがれにやられるとは無念の次第」と言い、念仏を唱え「早く首をとれ」と申した。
こうして石川新七と青見藤六が討たれたため、一揆勢も討ちに討たれて敗北した。
その後、太郎作が藤六の首を持参すると大御所様は
「藤六を討ったのはその方か。まことに満足でなににたとえようか。
太郎作一世の奉公と思うことにする」と重々おっしゃられたそうだ。
これについては拙者よりも渡辺図書(渡辺半蔵の三男の子孫?)がつぶさに存じられている。
なおこの時、太郎作は二十歳だったという。

信長と本願寺との対立はもっとあとのはず。
また「三河物語」では水野忠重が討った一揆勢として石河新九郎、佐橋甚五郎、大見藤六郎を挙げている。



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兄の下野に何やら不足を申し

2020年04月18日 18:57

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 01:11:13.31 ID:+JLDXJgn
三州に一揆が起こっていた頃。拙者親(藤十郎と申し候(水野忠重の事))、兄の下野(水野信元)に
何やら不足を申し、下野の元を立ち退いて、三河鷲塚と申す所に牢人した、相聟の水野太郎作少と、
その親類である村越又一郎という者達と、鷲塚に三人で一所に居た。

このような所に、権現様(徳川家康)の御意に
「一揆殊の外起こり、一代の迷惑であると思っている。このような時であるので、罷り越して万事指図を
してほしい。是非に憑む。」
との御意にて、三州岡崎へ三人ながら罷り越し奉公をいたした。

『水野日向守覺書』

勝成の父親も一度水野家飛び出してるのか。



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 07:44:10.62 ID:s62VvPh3
その辺は、やはりあの迷惑千万大名の父親だけはある

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

水野勝成は天性凶暴な性格で

2015年10月31日 18:45


562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 19:21:19.42 ID:hj1CYVjj
水野勝成は天性凶暴な性格で、父の不興を蒙り、刈谷城を出て都にのぼり、六左衛門と名乗った。

世に伝わる話によると、勝成は父忠重の納所の役人を召して
「俺は我が家の嫡子であり、終には家を譲られる身である。父が持っている宝は、尽く我が物となるのだ。
お前たちも終には俺に仕えるべき身であろう?

それなのにお前たちが、ややもすれば俺に思う様に金銀を渡そうとしないこと奇怪である。
今後は、いかほどでも、何度でも、必ず渡すように!」

これに役人
「どうして仰せを背くでしょうか?ですが、大殿の御物をわたくしに奉ること、我々が罪を被るのは
物の数では有りませんが、貴方様がお咎めを受けるのをはばかって、お渡しできないのです。
どうか如何にもして、一度大殿の許しを得られたならば、その後は何度でも、仰せに従ってお渡しいたします。」

これを聞いて勝成は激怒した
「父に申すべきほどなら、おのれらにこのように言うものか!」
そう言うやいなや役人の首を打ち落とした。

その後、父忠重の気色、日を追って宜しからず、「このままでは俺も頸が斬られそうだ。」
勝成はそう思い、刈谷を逃げ出したということである。

(藩翰譜)



563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/30(金) 20:46:22.08 ID:i/5n7PMX
海音寺潮五郎の「かぶき大名」のオリジナルになったくだりかな。
もっとも、小説で勝成は斬りおとした武士の首を、
慌ててすげ直そうとするんだけどw

左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得

2013年09月24日 19:52

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 21:26:46.25 ID:0NWEFxX1
長久手の合戦の時は、卯月九日に小幡を打ち出ました。
その時私(水野勝成)は眼病を散々に患い、そのため兜を付けていませんでした。
それを父の惣兵衛(水野忠重)が見て

「お前の兜はなんのためにあるのか!?こういう時に着けるための兜であるのに、どうして着けないのか?
それで一体何の役に立つというのか!!
そういうことなら使わぬ兜はクソ桶にしてしまえ!!」
(其方か甲ハ何の為に候哉、此時着可申ための甲にて候に、何とて着不申候て何の役にたて申候哉、
左様に候ハバいぬめか甲はくそ桶に仕候得)

そういって散々に叱りつけました。私は惣兵衛に

「親だと言ってもそんな言い方は無いでしょう!今日オレの頭を割られても、それはそう言う
運命だったってことだ!是非に及ばぬ事である以上、たった今お暇乞いをいたします!
今日の一番首でも取って…、いいや取ってくる!!」
(親にて候得共左様之御意は無御座事にて候、此上は今日拙者のあたまをわられ申候は則時にて御座候間、
不及是非然上は、只今御暇乞にて御座候、今日の壱番首を取申候歟被取申か)

と言い捨てて馬を引き寄せ打ち乗り、その場から直に敵陣に乗り込みました。
(水野日向守覺書)

有名な話ですが、水野勝成の記憶では、兜をウンコ桶にしろとまで言われていたのですねw




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 22:43:39.66 ID:BsOf9FDc
山岡荘八の徳川家康でとりあげてた気がする。クソ桶

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/23(月) 23:46:14.55 ID:u/H0gC+0
似たもの親子www

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:28:34.93 ID:/ygDX1AN
クビ切り落としてクソ流し込むぞ
とか言わないだけどっかの軍曹よりはお優しい

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:40:55.45 ID:uVVo617r
荒木道糞「俺はもうひでぇクソだぜ」

水野忠重謀殺と堀尾吉晴

2013年08月28日 19:53

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 18:43:14.87 ID:vQh5f4kg
上杉征伐の時、徳川家康から石田三成と北国上方の様子を注進せよと命じられた
堀尾吉晴は、越前国に向かう途上で三河国池鯉鮒に至った。

時に水野忠重は吉晴と信友であったので、刈屋からやって来て吉晴を饗応した。
この時、図らずも加賀井秀望もやって来て三人は談話をしながら酒を飲んだ。

日はすでに暮れて吉晴は酔って眠ってしまった。すると突然、秀望は忠重を斬殺した。
太刀音を聞いて目覚めた吉晴は秀望を組み伏せて刺殺した。事態に気付いた忠重の
家臣達は刀を振るって吉晴に向かって来た。

吉晴は彼らを制したが聞き入れてもらえず、灯火を倒して暗闇にまぎれて庭に下り、
堀をつたって逃れた。吉晴は数ヶ所の傷を負い、家臣に扶持されて浜松へ帰った。

忠重の家臣達は吉晴が逆心により忠重と秀望を殺害したと関東へ報告した。
これを聞いて徳川秀忠は「吉晴と忠重の二人に限って逆意を企てるはずがない」と言ったが、

日あらずして飛脚が来たり「秀望の死骸をあらためたところ、三成の書簡がありました。
それには『徳川家の老臣、または吉晴か忠重を殺害したならば重く恩賞を与える』と
ありました。ですから秀望が忠重を殺し、吉晴が即座に秀望を討ったのです」と報告された。

よって吉晴の子息忠氏のもとへ使者を下してその功を賞し、家康も吉晴に御書を与えて、
その傷を見舞った。

――『寛政重修諸家譜』





徳川秀忠、「水野忠重殺害」の報に

2011年04月03日 00:01

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/01(金) 21:14:28.74 ID:62UdVtGC
関ヶ原直前の慶長5年(1600)7月19日、三河国池鯉鮒(現・愛知県知立市)において
水野忠重が加賀井重望に殺害されるという事件が起こる。
これにより「あの」水野勝成が急遽水野家の家督を継ぐことになったりと、色々な事が起るのだが、
この事件がひこ起こした最も大きな混乱は、水野忠重が加賀井重望に殺された酒席に
堀尾吉晴も同席しており、当初「堀尾吉晴が水野を殺した!」と見られたことである。

水野家から関東の家康に最初に届いた通報も、「堀尾吉晴による殺害」というものであった。
時に堀尾吉晴の嫡男・忠氏は、徳川秀忠に従い宇都宮にあった。

家康はこの情報に驚き、宇都宮の秀忠のもとに急報した。仮に堀尾吉晴が徳川家に対し
二心を持っていた場合、息子の忠氏も怪しい、と考えられるからである。

が、この知らせを聞いた秀忠は冷静であった。
彼は使者に

堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。例え承った通りに
堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。
彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」

と答えた。

やがて関東にも水野殺害の詳しい状況が伝わり、堀尾吉晴の疑いは晴れた。
この時人々「中納言殿(秀忠)は人の心をよく知り召される」と感じ入り、また堀尾忠氏
後でこれを聞いて忝く思い、後の関ヶ原での前哨戦に於いて大いに働くことと成る。

ちょっと珍しい、徳川秀忠の関ヶ原前、関東でのいい話。




687 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 05:31:35.09 ID:n8K4t/gZ
殿様が簡単に斬られちゃうって、、、
従者は何してんだよ!!

701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 16:29:51.42 ID:kcqPaJwv
>>684
暗殺が成功しました…
水野忠重→暗殺
水野信元→暗殺
水野信近→暗殺
暗殺の多い一家だな、戦じゃかなり有能なのにな

>>687確か責任とらされて2名ほど腹を切ってるはず、記録じゃ殉死扱いだけど

よりにもよって本能寺の変の時に京にいた2人の話

2011年01月07日 00:02

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 20:45:25 ID:PEfG71Ru
よりにもよって本能寺の変の時に京にいた2人の話

本能寺の変から3日経った頃、東福寺霊源院の裏手にある山から1人の男が降りてきて、長老にこう頼んだ。
「我々は本能寺の変で山に隠れた者ですが、三日何も食べておらず餓死寸前です。どうかお慈悲をもって
食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快く食事を差し出すと、その男は自分の分を平らげた後、残りを手ぬぐいに包んで
山に持って帰っていった。

その日の夕刻、今度は先程の1人に加えて4人が降りてきて、同様の説明をし匿って欲しいと恭順の証か5人とも
刀と脇差を手拭いで括い、差し出した。
長老は5人を院の天井に隠して寺の他の連中にも知らせないようにしていた。
その後、彼らが東国に帰ってしばらくすると刈谷城主水野忠重の使者が来て、先頃は長老のお陰で急難を免れ
恩儀は付きませぬと言った。
そうあの5人は水野忠重とその家臣だったのである。
その後、霊源院は水野家の菩提寺となり寺領50石を与えられたそうである。


そしてもう一人、京にいた男がいた。
その名は鳥居元忠、彼は家康と共に上洛していたのだが堺へ行く前に瘧を患い京の旅館に投宿をしていたのである。
本能寺の変を聞いたとき元忠は狂乱した。
自身が危うい事にではない、家康の側にいないことにである。
京では様々な噂が飛び交い家康の安否は全くの不明、ここに至り元忠は決心した。
「此の様な状況下では家康様も逃れられまい。自分は病に倒れ、主君側に居れぬは何とも悔しい。この期に及んでは
死んで冥土のお供をせん」
…何と言うか流石に幼少よりの仲というか言うことがクリソツである。

しかし老臣の高須信次がこう言って押しとどめた。
「家康様は並の大将ではございません。それに切腹するのは家康様の是非が解るまで抑えるべきです。短慮は
いけません」
その説得に元忠も切腹を思いとどまり、潜伏することになったが問題はその場所である。
これも高須が長年祈願をしていた愛宕山の長床坊を提案し、これが容れられた。
しかし、長年のよしみとは言え何があるか解らない。そこで高須のみを馬上とし、元忠含めた彼らは下郎の格好をして
元忠の家臣として長床坊へと向かった。

結果として長床坊の者達は快く迎えてくれたので、元忠も直ぐに身分を明かしてそこで身を潜めていた。
その間、長床坊の者たちが堺などで情報収集をするさなか、家康が三河に生還したという飛脚が届き、元忠も急ぎ
三河へと戻った。
戻った元忠を家康は大いに喜び、また元忠も高須に大いに感謝して彼に何時も佩用している刀を与えたそうである。


どっちもいい話なんだが、やっぱり京にはセーフハウス的なモノが必要なんだなと思ったり。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 21:44:00 ID:TlENGPMs
もしこの時元忠さんが死んじゃってたら…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 22:37:16 ID:2aaph1/H
>>140
伏見は作左かな?

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 22:50:54 ID:H2lH6u2r
関ヶ原の前に作左は死んでるじゃないかな?
家康さんらより一世代上のイメージあるけど~

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 23:04:55 ID:7UfslUNG
京都は普通に一見さんお断りだしな普段から付き合いをよくしとかないと
「~どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快くぶぶ漬けを差し出すと~ということになる


144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 23:52:19 ID:UwLpa3H8
平岩さんじゃないの


145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 07:18:07 ID:QYeMgOvr
>>144
親吉は駿府人質時代からの
同い年の親友だから、
家康が出さないんじゃ無いかな?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 08:07:55 ID:2fFFgccM
>>145
元忠のことは実は疎ましく思ってたんかい・・・最近出てきた、三成挙兵が寝耳に水で、伏見城が戦場になるなんて家康は思っていなかった説か
最初っから三成は挙兵すると思っていたかで、伏見城に残す意味合いがまったく変わっちゃうだろうしね

前者なら松平康元、後者なら大久保彦左衛門で・・・

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 08:57:31 ID:LloT+Aod
>>146
彦左衛門ってそこで名が出るほどの大身ではないんじゃ。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 13:15:13 ID:8mb9beZL
もういい年だからこれで楽隠居させるつもりだったとかじゃね?

149 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/06(木) 15:41:13 ID:Eyqnb04f
伏見の切腹者って、何で放置されたの?