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松平信康に見出された踊り手

2022年12月09日 19:45

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/09(金) 17:57:02.08 ID:uhIMmw+J
貝原益軒朝野雑載」から松平信康に見出された踊り手

天正六年(1578年)?ごろ、三河・遠江に踊りが一年中流行したが、これは岡崎三郎殿(松平信康)が好んだためであった。
先年、駿河で踊りが流行した時には今川氏真が滅んだので不吉である、と諸人は申した。
三郎殿はたいへん乱暴な方で、下手な踊り手がいれば弓で射殺した。
そのため踊りはずいぶんけっこうなものとなった。
そのころ大浜の踊り子のなかに、太鼓を打っている十五ほどの容顔美麗な童がいた。
三郎殿が父の名を尋ねると「大浜明神の社人・長田平右衛門(長田重元、一説には永田徳本の兄)の息子です」と申した。
平右衛門は有名な勇士であったため、すぐにその子を召し使った。
長田伝八という名で出世したが、三郎殿の死(1579年)ののちは家康公に召し出された。
長田壱岐(源義朝を殺害した長田忠致)の末裔であったため、苗字を永井と改めさせた。
長久手の戦いで池田勝入(池田恒興)を討ち取るという功名を成し遂げた永井右近大夫(永井直勝)その人である



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/09(金) 22:13:12.98 ID:mCa/kIWL
親子で穴兄弟か

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/10(土) 20:25:42.27 ID:LP3IGkV/
>>505
信康の死の前年ごろと思ったため、天正六年としましたが
「三河後風土記」巻第十六 三遠両国踊流行・付永井伝八直勝の事
では「天正四年丙子夏の始めより」となっていました。
また、信康については
「信康君は御年若く猛勇血気の大将、この踊りをめでたまうこと斜めならず。日夜日夜踊りをのみ御覧ぜらる。
もし踊子ども麁服(粗末な服)を着し、踊りも思召しにかないぬは忽ちに射殺したまえば、後々は錦繍を取り重ね金銀をちりばめ日夜日夜士民これがために財宝を費やしける。
心ある御家人どもは先年今川氏真踊りを好み士民ども家業をわすれ踊りに財費を費やしけるほどに
国中は武備すたれゆるみし虚に乗じ武田信玄駿州を奪いとり、大殿もこの時遠州をば御手に入れたまう
前車の覆るを見て後車の戒め(轍を踏まない)、殷鑑遠からず、御心得あらせたまうべきにや、と諫める者も少なからず」
と踊りの上手い下手とともに、衣装が豪華かどうかも射殺の基準となっていました。
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この御用を蒙ること、全くその武功に寄るもの

2022年08月27日 18:40

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/27(土) 18:28:50.89 ID:nJHAYYUM
元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、駿府詰めの面々は皆江戸へと帰った。
同五年夏、台徳院殿(徳川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。

しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。

この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。

これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。

正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。

戸川記

福島正則改易についての戸川記の記事



先を越されて宿割をされた事

2021年08月04日 19:11

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/04(水) 16:47:42.11 ID:l4zrfRRo
朝鮮出兵により上杉景勝公が肥前名護屋へ向かう途中、芸州宮島にお泊まりという時、
陣場奉行衆に安田上総介(能元)を添えて、その準備のため先に宮島に参った。
総じて備大将衆が一組ごと順番に、陣割衆と両組にて先行し、陣場を準備して待つという
作法である故に、このようにされたのである。

ところが徳川家康公の御人数の宿割衆六、七百が、宮島の能き町を選んで既に
宿札を打っていた。これに対し安田らの衆は徳川の衆に向かい

「宮島に入るのは景勝の次に家康公であったのに、先を越されて宿割をされた事、
思いもよらぬことだ。あまつさえこの町の能き所を既に選び取っておられる。
それらを早々に明け渡して頂きたい。そこに景勝が本陣を打ち申す!」

これが口論となり、双方既に衝突しようという様子になったところで、
藤田能登守(信吉)、彼はいつも先陣であったので早くも追い付き、中人(仲介人)となって
双方の間を取り繕った。

「家康公の衆を残らず追い立てるというのも現実的ではない。だからと言って先陣である上杉勢の
本陣を立てるべき場所に、後陣の衆が先立って取り堅められているのを、そのまま黙認してしまうのは
大法に背くものであり、また景勝の宿割の者達への不調法にもなる。

そこで、景勝本陣と近習の陣所となる場所だけを明けて頂きたい。その場所の徳川勢の衆は、
軍陣に赴いている以上、後に下るのは不吉であり、先に進むのは吉事でありますから、繰り上げて
先に陣所を取るのが尤もであると存ずる。その他の徳川方の衆はそのままここに陣取られよ。」

これに対し、家康公の御内衆である村越茂助などを初め、その場に参っていた者達が相談し、
この提案を受け入れこの場は無事に相済んだ。

この事は後で家康公も聞き召され、藤田を御褒めになり、配下に対し「重ねてこのような事が
無いように。」と堅く仰せ付けられた。そして名護屋に到着すると藤田方へ、永井右近太夫(直勝)、
大久保七郎右衛門(忠世)の両人を使いとして仰せ下さり
「その方の取り持ち故に、我が方の者共は面目を失わずに済んだ。」
との事であった。

この事は、後に永井右近太夫殿が夏目舎人に直に語られた事である。また大久保七郎右衛門殿も
舎人に語られた事であり、相違無い。

管窺武鑑



長田氏は源義朝への逆臣の苗字であるので

2021年07月09日 17:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/09(金) 15:05:29.75 ID:b26G34El
永井右近太夫直勝(別名長田伝八郎)は永禄六年、三州大浜邑に生まれた。
祖父を長田喜八郎といい、松平広忠君に仕え、三州岡崎にて奉公した。

権現様(家康)が幼い頃、今川義元に仰せに成り、喜八郎に対して所領を賜った。
義元の証文判形が現存する。

父を長田平右衛門尉重元という。御当家(徳川家)に奉仕した。
天正十年六月、織田信長公御生害の時、権現様は泉州堺より伊賀路を越えて、三州大浜まで
出られた。この時重元が御迎えに出て、重元の館にて御膳を上げ、御供の衆へも饗応した。

永井直勝は若年の頃は、三郎信康君に奉公仕り、信康君御逝去の後、遠州浜松に於いて、
権現様に召し出され、

「長田氏は源義朝への逆臣の苗字であるので、永井氏になるように」

と仰せられた。長田は平姓であり、永井は大江姓である。大江の家紋、一文字に三ツ星をも。
直勝に御免なされ、御譜代阿部伊予守(正勝)の婿に仰せ付けられた。

管窺武鑑

永井家と永井直勝について



子飼いの武士ども、槍を仕り候

2021年05月23日 17:36

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 18:07:21.47 ID:VXFhhPTe
(小牧・長久手の戦いの時)

堀久太郎殿(秀政)はそのまま人数を引き返し、備えを立てられたところで式部大輔殿(榊原
康政)の人数が行きかかり、久太郎殿の備を見てまた見崩れ仕った。久太郎殿の人数は式部大
輔殿を追い立て来たるところで、権現様の御旗の手を見付け久太郎殿の人数もまた崩れ申した。

それより権現様は浅間山へ御上り、御備遊ばされた。阿弥陀ヶ峰には井伊兵部少輔殿(直政)
を立てられた。その様子が勝入公(池田恒興)、紀伊守様(池田元助)、武蔵守様(森長可
へ聞こえたゆえ取って返され、井伊兵部少輔殿と武蔵守様と合戦が始まり申した。

その節、兵部殿の手先で平松重治郎・鳥居重治郎の両人、武蔵守様の手では千田主水・山田八
右衛門とが一番に槍を合わせ申す。武蔵守様の備が色々と崩れ仕ったのを、武蔵守様は手槍を
御取り、御進み出て追い払わんとなされたところ、兵部殿の手より強く鉄砲を撃った故、その
鉄砲が武蔵守様に当たり御討死なされた。

すなわちその手が崩れ申した時に、権現様の御旗本、金の扇子の御馬印が進んだのを勝入公の
人数が見付け、ことごとく敗北仕った。その折、武蔵守様の御死骸を御家来が引きかけ退いた
が、後ろから大勢が追いかけるので退くことに難儀し、その辺りに捨て置いたのを本多八蔵殿
が御首を挙げられ、ならびに刀を取り添えて権現様へ御実検に入れられた。その刀で武蔵守様
ということが知れ申したという。

それより勝入公は東の方へ退かれたのを安藤彦兵衛殿(直次)が槍付けられ、永井伝八殿(直
勝)が首を挙げられた。紀伊守様は勝入公の討死を御聞き付け、阿弥陀ヶ峰の方へ乗り付けて
御越しになったのを、また彦兵衛殿が槍を合わされ首を御取りになったという。

権現様はことごとく御勝利を得られて「参(欠字)たちの子飼いの武士ども、槍を仕り候」と
仰せられ、信雄公へ首実検に入れ申すようにと仰せ付けられた。首どもは御送り遣わされ、そ
れより早速御人数を小幡へ御引き取り遊ばされた。

――『忠勝公御武功其外聞書



「万千代!万千代!」

2019年08月28日 15:59

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:30:41.50 ID:9gs3r0Od
勝入(池田恒興)を安藤帯刀(原注:直次。御旗本御鉄砲頭の現在の九郎左衛門の伯父である)が槍を
付け、永井右近(原注:万千代直勝)が後から来たり、勝入の御首を取った。大勢が這い掛けたので、
右近は右手の人差し指を切られたという。

成瀬吉右衛門(原注:今の吉右の父である)が帯刀に尋ねて曰く、「勝入は貴方が槍を付けて永井に首
を取られたと承っていますが、左様なのですか」と。帯刀は曰く「敵の大将を討って首を人にやること
があるか。槍を付けると、後から真っ黒な者が取り掛かると覚えた。これが永井である(原注:永井は
黒母衣である)。勝入の首をすかさず永井が挙げたのだ」と、帯刀は申されたという。

その後、後から武者一騎が脇目もふらずに乗り来たり、あまりに急なのでひらき過ごして後ろから突き
落とした。これが紀伊殿(池田元助)である。その次にまた初めのように乗り来たる者がいて、これも
初めのようにやり過ごして突き落とした。これは秋田加兵衛である。

(原注:岡山にいた秋田という老女の伯父である。老女は延宝7年(1679)に90歳で死去した。
池田主水(由孝)の家来に秋田五郎四郎という加兵衛の筋の者が現在もいる。秋田加兵衛から五郎四郎
までは四代である)

私に曰く、安藤と永井は取り分けて間柄が良かったので、勝入の御首を譲ったという。また曰く、安藤
に神君(徳川家康)が仰せられるには、「井伊万千代(直政。原注:19歳)を何とぞ取り飼い申すよ
うに(何トソトリカヒ申様ニ)」と仰せであった。これによって勝入を槍付けて「万千代!万千代!」
と呼んだのだという。すると、永井万千代が隙間なく駆けて来たという。

安藤帯刀が紀伊殿と加兵衛を討ち申されたことは、加賀爪民部(忠澄)が光政様(池田光政)へ御物語
り申されたという(原注:民部は帯刀の婿である)。

――『烈公間話』



あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

2018年07月13日 18:15

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 15:31:24.37 ID:m3mAOga4
井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、

兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。

(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)

また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、

「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。

左様に御心得なされ」と申された。

(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)

――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』



77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:35:18.29 ID:LVuhrboZ
時間経過なのか、忠勝の方が細かい観察力が優れているという話なのか。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 09:38:24.86 ID:0uqXaRXi
そんなんだから突出して銃撃されるんだよ

永井伝八郎への加増

2014年04月03日 19:00

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 17:02:10.23 ID:hE78VDN9
永井伝八郎(直勝)は十五歳で、池田勝入(恒興)と家康公の合戦に初陣を遂げた。
父の頼みで、安藤彦兵衛が初陣の手引きをすることを引き受けたという。
合戦は池田方が負け退くと、家康公の軍勢はさらに本城へと押し寄せ、
勝入が打ち出てきたところ、彦兵衛が渡り合い、槍で倒した。
彦兵衛は伝八郎を呼び、首を取るよう促すと、伝八郎は倒れた敵に馬乗りになり兜をとりのけた。
顔を確認した伝八郎は、
「初首に坊主の首は嫌だ」
と言い立ち去ろうとすると、倒れながら勝入が、
「見事な心がけの若武者である。
ワシこそが日本に隠れもない武勇の大将池田勝人斎だ。
我が首を取りて、末代までの手柄とせよ」
と言った。
すると伝八郎は引き返してきて、首をかき落とし、家康公のお目にかけた。
安藤は自身がまず槍をつけたことを言わず、伝八郎の手柄としたのである。
その後、和睦ということになり、家康公は勝入の息子三左衛門(輝政)を婿とされた。
その婿入りのとき、三左衛門が是非とも永井に会いたいと言い出した。
家康公をはじめ皆の者が、どうしたものかと気遣ったが、永井はそれを伝え聞くと、
「三左衛門殿にとって、拙者は親の敵であるから、婿入りの肴に我が首を御希望されるのかもしれない。
そうと知り出向かないとあっては武家の門に傷がつく」
と言い、すぐに御前へと参上した。三左衛門は永井に盃をさし、
「我が父の首を、あなたは十五歳にして討ち取ったと伝え聞いています。
十五にして比類なき高名手柄、日本が日本である間はその武勇隠れもないことでしょう。
ところで永井殿は知行はいかほどいただいているのか?」
と尋ねると、話を聞いておられた家康公が、
「永井には七万石与えている」
と仰せになられた。
すると三左衛門は、
「これほどの剛の者には少なく思われます。
永井殿へ御加増くださるよう、拙者からお願い申し上げます」
と言うと、家康公はその場で十五万石への加増を決めたとのことだ 【葉隠】




694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 17:57:41.77 ID:tTCr7JUK
え、石高が史実の10倍以上になってない?

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 21:08:05.88 ID:Zuu52779
四天王超えである

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/04(金) 16:33:22.96 ID:o/J4rtuS
>>694
このちょっと数字を盛る感じがいかにも逸話っぽくていいね

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/04(金) 18:41:28.43 ID:v7DrC6jR
四天王が五人も居るんだから
石高が十倍だっておかしくない…(白目で)

永井直勝、井伊直政に異見す

2012年11月21日 19:52

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:17:32.31 ID:fEpD3TWQ
関ヶ原戦後のこと
徳川家康より軍功のあった諸将への加増が発表されたが、井伊直政、本多忠勝にも
加増により所替えを仰せ付けられ、御書付を与えられた。

しかし井伊・本多はその加増の少ないのを不足に思い、新領地を拝領しない旨を申して
折紙を返上し、そのまま退出してしまった。そしてその事に不満を言っているのを
永井右近太夫直勝が聞きかね、直政に直接に異見した
「貴殿は徳川家の功臣であり、家臣団の中でも1,2に数えられる身であるというのに、
そのように禄を貪られるのは心得かねることである。御加増の折紙を御拝領すべきである。」

直政はこれを聞くやいなや
「永井!其の方などが存ずるようなことではない!
さほど功もない、一度与力したにすぎない大名共には大国・大領を与えられているのに、
これでは我らが、三河以来粉骨をしてきた甲斐もないではないか!無念の奉公を、恨まずにいられようか!」
そう、未だ蟠りを持っているように申し立てた。

これに永井直勝重ねて異見する
「これは直政の言うこととも思えぬ。貴殿や私のような譜代の輩は、今度の合戦の報奨について、
どのように扱われても、どうして御恨み申し上げることが出来るだろうか?
そもそも今度お味方された諸大名は、徳川家意外の恩録によって一家を立てた人々である。
そんな彼らの加勢がなかったら、どうしてこの度の一戦、御旗本の人数だけで、例え鬼神の働きを
したとしても、勝利することが出来ただろうか?

言わば、国々の大名は世間の存在である。我々は御身内である。貴殿は特に御人数も多く預かられている。
そうであれば、昔を思い返せば御恩が浅いなどと申すことは出来ない。
貴殿は上様から付けられている御人数がなければ、例え樊カイを欺くほどの武勇があったとしても、
どれほどの働きが出来ただろうか?」
直政はこの言葉に大いに腹を立て
「右近などと比較されるような、この兵部だと思うのか!?」と言い放った。これを永井はあざ笑う

「愚かなり直政!この右近にも、お主ほどの人数を預けさせて頂ければ、どうして貴殿に劣るだろうか!
小身であるから、働きも思ったようには行かないのだ。貴殿がそれほど道理に暗かったとは知らなかった。
そんな貴殿と年来交友を重ねたことが口惜しい!今後は絶交いたす!」
そう言い捨て立ち去った。

その後、直政はつくづくと考え、永井の言ったことこそ道理だと思った。
そして自分の非を悔やみ、「功に誇るのは義士の成すべきことではない。私は愚かにして、
上より下された所領を受けないというのは、畏れ多いことである。」
そう、誤りを正すことに決心し、本多忠勝にもこの道理を言い聞かせ、両人で家康の御前に出て

「以前、不足を申し上げた所領を、拝領仕るべし!」と申し上げた。
これに家康も
「尤もなり。良き了見なり」と、お咎めもなく折紙を与えた。

ここより直政は直に永井の所に向かい、彼と対面して
「以前の過言、面目のないことだった。貴殿は真実の友である。たった今私は、あなたに降参する。
どうか以前と変わらぬ、交友を続けていただきたい。」そういって文殊の茶入を差し出し

「この茶入は、あなたもご存知のように我が家第一の秘蔵の品であり、命にも代えがたいもである。
だが、今度の貴殿の厚情への感謝を、言葉で表すことはできない。せめて私の心ばせとして、これを。」

これに永井は直政の心の丁重さに感じ入り
「さてさて、以前に変わらぬ交友は、こちらからもお願いする。
しかしこの文殊は天下の重器ではないか。このようなものを受け取る事は出来ない。」
そう再三辞退したが、直政の
「この兵部の、拠ん所無い心底を見せる印である!」
との言葉に遂に受け取り、それは今も、永井の家に伝わっているそうである。
(武野燭談)

永井直勝、井伊直政に異見す、というお話




433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 20:56:46.19 ID:egQyUtaH
本多には言わなかったのかな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 21:09:04.71 ID:UpdhM8cs
この話は『茶道美談』にも紹介されているいい話ではないか
徳川家第一の重臣である直政に、臆せずにその非を直言する永井直勝もカッコよければ、
「功に誇りて、賞を貪るは、忠臣にあらず、義士にあらず、我れ過てり」
そうすぐに反省し「貴殿は眞實の友だ」と
命にも代え難い秘蔵の茶入を惜し気もなく渡す爽やかさを持つ直政もカッコいい

ちなみに茶道美談では最後はこう締めくくられている
「益友の一言(いちごん)は、萬鎰の黄金より貴し、井伊文林の宝器も物かは。」

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 21:50:29.44 ID:45EqPW6/
永井と井伊で仲いい話

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/20(火) 22:31:20.21 ID:IEvQZ50K
お後がよろしいようで

440 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/21(水) 11:45:25.97 ID:yuZ2AsFA
>>433
忠勝「わしの手勢は500だが?」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 13:08:54.92 ID:6pAeQzF3
兵500で100の首挙げられちゃ何も言えませんがな
兵5,000で前線でバリバリやってた主力の細川隊ですら首200なのに。
おかしいですよ本多さん・・・

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 20:47:20.26 ID:i3NIztTK
井伊直政は関ヶ原前に伏見城で在番期間の三倍も滞在して働き詰めで
とても疲弊しているという手紙を黒田官兵衛に送っているんだよな。
その後に足の付け根に腫れものが出来て痙攣を起こしたり
原因不明の高熱が出て生死の境を彷徨う病に倒れたために
急遽、本多忠勝が外様を率いる東海道組に加わったので小姓など500という少数部隊だったという。

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/21(水) 21:46:12.23 ID:FYTIsNnw
>>447
ちょっと働かせすぎだよなぁ
そりゃ過労死もしますって

万千代違い

2011年09月01日 22:01

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 14:46:28.28 ID:/MDj4qXf
小牧・長久手の戦いで、秀吉方について戦っていた池田恒興(勝入)が
家康家臣の永井伝八郎(直勝)に討ち取られた事はご存じの通り。
その経過は、安藤直次が勝入に槍を付けて、直勝にさし招かれた若武者・伝八郎が首を討ったもので
そしてそれを正直に報告した伝八郎と、クサイ芝居をして功を譲った直次という
これだけみると、過去にもこちらで挙がっている清々しい戦場の友情譚である。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html

…が、事の真相はどうやらもっと深~いものであったらしい。

実はこの戦前に、主君・家康から直々に直次にお達しがあった。
「井伊万千代(直政)に手柄を立てさせるように、よろしく援助してやってくれい」
戦歴が浅い為、目の中に入れても痛くない直政の事を頼まずには居られなかったのであろう。
可愛い直政にチョッカイを出そうと、その小姓部屋に忍び込んだとも言われる「敵」直次に頼み込む始末。

そして決戦の場。
直次は勝入に槍を付けて半死状態にした所で、後方から詰めている筈の直政に首を討たせようと、
「万千代、万千代!」と叫んだ。
すると予期せぬ方角から武者が襲いかかり、あっという間に勝入の首を掻き斬った。
その人物こそ伝八郎であり、前髪の頃は直政と同じ「万千代」という童名の持ち主だったのだ。

永井伝八郎直勝とはどのような人物か?
「すぐれたる美童」だった伝八郎は、家康の長男・信康に見染められ児小姓として寵愛されていた為
後に家康の直臣となった際も、家康からも目をかけられた。
機転が利き、軽やかな身のこなしで勇敢な為、この度の戦で初めて母衣衆に抜擢された。

一説(『武野燭談』)に、直次と伝八郎は衆道の契りを結んでいたと伝えられ
(※余談ではあるが、かの「三島由紀夫」は伝八郎の子孫だそうだ)
伝八郎としてみれば、直次が自分に敵将の首を譲ってくれるのだと思い飛びかかったに違いない。
(万千代違いだったが、伝八郎なら丁度いい。伝八郎にも誤解させたままでおこう)と直次が
思ったかどうかはわからない。
いずれにしても、伝八郎にとっては棚からぼたもちである。

その頃、本来の「万千代」はどうしていたかというと…

直次の思いは何のその、井伊隊の主将でありながら組下をどこかへ置き忘れて、敵陣深く攻め入り
一騎駆けよろしく池田隊と組みうちし、直次の助太刀もイラネとばかりに
勝入の黒母衣を組み伏せ、首を掻き斬っていたとさ。
もちろん直次に、「物主たるもの組下を置き去りにして一人働きするものではない!」と叱られました。




378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 15:01:41.36 ID:r6KjBAj3
万千代違いワロタw

なんかかわいいな 俺が呼ばれてる!と思って勇んで駆けてくるの

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 15:46:01.49 ID:35n8IDR5
>>377
戦場の話なのに微笑ましいのは何故だろう
それにしても安藤さんはアッー!方面も抜かりがないねw
長久手では井伊隊のあげた首級がパネェし
「我に遅れたる者は男じゃねー」
と飛び出して行った直政には最初から援助なんていらんわ
という感じだね

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 19:14:05.26 ID:3+7HXbDB
「覇王の家」でも信康が寵愛していた家臣だから、家康も目をかけていたって描写だったなー。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 19:23:52.76 ID:5saW7Eok
衆道関係をはっきりさしといた方が背景が分かるからいい
この時代は嗜みだったんだし


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 11:18:58.56 ID:1KCWKsp9
>>377
司馬遼太郎の覇王の家にも載ってたな。
永井伝八郎の事を他人に思われ慣れた者の厚かましさというものかもしれないって、けっこう酷く書かれてたけどw

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 12:28:49.28 ID:RpXRtaE/
>>402
あの場合は、永井の取った行動も最もな事だし仕方ないと思うけどなw
冷静になって、あれは自分を呼んだのではなく井伊万千代の事だったと気付いたはずだが
その後に権現様に直次殿からの貰い首と正直に言って褒められたエピも良い

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:17:33.80 ID:J6MLLiZh
>>402
覇王の家をして読み返したけど、何故あんなに永井に厳しいんだろ
永井も家康に正直に事情を話したと文中に書いてるくせに
他人に想われ慣れた者の厚かましさとか
首を討ったのは確かなのに
譲り受けていわばけろりとしていたなんて書いたり。
逆に直政に対しては
その美貌は婦人にも稀なほどとか想い人のように好意的w
家康との衆道も、徳川家のみならず
町人まで知ってる事実とか断定しちゃってる



405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:25:21.91 ID:DmRk64gg
>>404
子孫の三島由紀夫か分家筋の永井荷風が嫌いだったのかもしれんなw

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:35:25.50 ID:Y5sC0jWl
>>384
ちょっとシュトロハイム入ってるなw

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 16:51:24.97 ID:RpXRtaE/
>>405
それ自分も思ったw

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 18:41:10.75 ID:C9EFOOU5
>>404
エッセイ等よめばよく分かるが、
司馬は「欲深い人間」が死ぬほど嫌いなんだよ。
金銭欲、名誉欲、領土欲等を人一倍持ってると司馬に判断された人間は糞みそに悪く書かれちゃう。

反対に、司馬がヒーローを書く時は、多少無理があっても
「無欲で、自分の力を試したい・公平な世の中を作りたいという原動力で生きた人」として作っちゃうわけ。

だから、大封を得ても質素な生活を貫いた井伊直政には甘いし、
黒田官兵衛なんか暗黒面のエピソードを完全にスルーして「無欲で明るいクワンピョウエ」なんて
無理あり過ぎる美化をしちゃうw

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 18:46:11.15 ID:DmRk64gg
> 金銭欲、名誉欲、領土欲等を人一倍持ってる

この要素で真っ先に思い浮かぶのは太閤殿下だなw

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 18:47:16.72 ID:64WNbTQ7
大阪人に太閤=悪の発想はできません

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 19:17:24.29 ID:p64izSXP
太閤殿下は欲深いというのとはひとつ上の次元にいる気がする
良くも悪くも

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 20:00:55.44 ID:xNNneUWv
言われてみれば、司馬センセの作品に出てくる直政は、家康のお気に入りの名家の美男子であることがやら
強調されてる気がする。

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 20:12:35.41 ID:pl1wOrqD
>>412
まあ、実際にそうだったようだけどな

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 20:19:43.14 ID:BFHfy2D5
>>408
お前も司馬同様にレッテル貼りが好きなんだなw