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道三はその時すでに耳が遠く

2019年05月21日 14:16

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 21:02:18.44 ID:0sKb7zBq
老人(江村専斎)が幼い時、延寿院玄朔(曲直瀬玄朔)はすでに壮年で、故道三(曲直瀬道三)の
世嗣として、洛中医師の上首であった。人々は玄朔を敬慕した。故道三はその時すでに耳が遠く、
療治も絶え絶えとなり隠居した故である。

玄朔の療治は盛んに流行って方々から招待された。その時は肩輿という物もなくて、大きな朱傘を
差し掛けさせて高木履で杖をつき、何処へも歩いて行った。人々が羨むことであったという。

――『老人雑話』



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法華乱というのは

2019年04月28日 16:59

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/28(日) 15:39:39.57 ID:Jra19PYd
法華乱(天文法華の乱)というのは、承応2年(1653)から120年ほど前の出来事である。
老人(江村専斎)の父の既在(年齢?)など1,2歳の頃と聞いている。

日蓮宗が行われて京中の寺々が多くなったところで、比叡山が尽くこれを追放しようとした。日
蓮宗はこれを拒み、大きな合戦となった。今の新在家の者に、法華宗の旦那は多い。合戦の時に
討死した人数も多かったのである。老人の外曽祖父も討死した。

この時の公方家(足利将軍家)は微々たるもので、上が軽いために放埒な事が多かったという。

――『老人雑話』



老人雑話より短い記述を抜粋

2019年04月09日 23:02

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 18:11:56.73 ID:6Y5P9yS6
・遊行上人の始祖を一遍上人という。隆蘭渓に法を開き、歌学に優れた。これ故に今に至ってもその法流の者
 は連歌をする。昔ある人が一遍上人を嘲って曰く、「躍り念仏をするのは仏の踊躍歓喜という意味であろう。
 しかしながら、これだけで成仏とは訝しい」と言う。上人は和歌で答えて曰く、「はねばはね躍らば躍れ春
 駒の 法の道にははやきばかりぞ」。これらの事を書いた書一巻があるという。

・多武峯について。鎌足が入鹿を討たんと欲した時、帝とこの山に入って談合した。これ故にこの峯を“談山”
 という。鎌足を祭って“談山権現”という。“談”と“多武”は音が近く、また入鹿を討って武功多しとい
 う意味で、“多武峯”という。

・得長寿院は今の三十三間堂にあらず。鳥羽院の御造営なので昔は鳥羽にあったのであろうか。蓮華王院は後
 白河院の御造営で、新千体仏を安置している。これが今の三十三間堂なり。『増鑑』『拾芥抄』の記述から
 も明らかである。大仏の寺号は“方広寺”なり。

・“赤松乱”というのは普光院殿(足利義教)を弑逆した時のことなり。初め山名と赤松は並んで普光院殿に
 出仕した。ある時、庭前に枯れた松があったのを山名が見て曰く「あの赤松を斬って捨て申さん」と公方の
 前で言った。赤松はさしも歌学に達した口利者なので「山なをか」と言った。山名にあててなり。これより
 ますます仲悪しく、ついに普光院殿を弑逆す。この赤松は円心の三男・律師則祐の子孫なり。満祐という。
 この事の首尾はつぶさに書に見えず、人の物語で言い伝えているものである。

・“美濃三人衆”という隠れ無き武勇の名ある者あり。信長の家臣である。1人は稲葉一徹(原注:今の能登
 守5代の先祖。右京の父なり)。1人は氏家卜全(原注:これは大垣にいる)。1人は伊賀伊賀守(安藤守
 就)なり。

・長尾謙信(上杉謙信)が「信玄を滅ぼさん。談合せん」と、紙子1つ小脇差1腰で山越えし、越前の朝倉の
 もとへ行くことがあったという。

・東照宮(徳川家康)は太閤に馬を繋ぎ給う。後に関八州を与えたといえども、実は6ヶ国なり。常陸を佐竹
 に与えたのである。

・太閤が東照宮を関東に封じて後、甲斐を信義不二の北条遠江(加藤光泰)に与えた。高麗より遠江が病死し
 たと注進があると、即日に浅野弾正(長政)に与えた。甲斐は関東の押さえ第一の要地なり。

・土佐は蓮池氏の人が昔より領して近代までその子孫あり。先祖は頼朝の弟の土佐冠者希義を殺して、土佐を
 取った者である。近世は長宗我部元親が討ち滅ぼして、土佐を領した。

・伊予は河野という者が領す。義経を伊予守に任ぜられた時、誅伐されることがあった。義経一代の不覚なり。
 その子孫は信長の時までいた。

・庄林隼人(一心。加藤清正の家臣)が鉄砲で頭悩(頭脳?)を撃ち抜かれたのは伊勢の嶺城を攻めた時(1
 583年)なり。

・公方の恵林院殿(足利義稙。足利義勝の誤り)は馬を乗りならそうとし、落馬して逝去した。少年の時なり。

・雪踏みはもとからあって、革を加えることは利休からと言い伝える。

・対馬から高麗へは48里の渡りを経て釜山海に到着する。そこは下官の者がいる。倭館というところがあり、
 日本人がそこにいる。釜山海から朝鮮の都に至るまでは20日程。その間に東莱というところあり。そこは
 上官の者がいる。

・惺窩翁(藤原惺窩)に儒道の事を少し聞いた人は、細川越中守(忠興)・浅野采女正(長重)・曽我丹波・
 小畑孫一・城和泉守(昌茂)などである。

・吉田素庵(角倉素庵。了以の子)のところにあった『文章達徳綱領』10巻を、戸田以春という者が借りて、
 「失った」と言ってついに返さなかった。今その10巻は失われた。

・神馬弾正左衛門は太閤の時分の播磨辺りの大名なり。

――『老人雑話』

老人雑話より短い記述を抜粋



781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 19:17:44.29 ID:o+3zPBBS
>>780
ほんとに雑話だな、幅広い

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 20:42:57.04 ID:Z/Q1MrlW
>>780
戸田以春は借りた本を質にでも出したん?

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:48:30.42 ID:CuJn7q/Y
こういう戦国ネタ好き
https://www.losershogiblog.net/entry/2019/03/30/131700

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 21:12:02.12 ID:sUxxlZm4
>>780
頭を撃ち抜かれても庄林はなんともなかったのか

786 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/10(水) 04:02:50.68 ID:5BCBSUsy
>>785
1583年に頭打ち抜かれて1631年に死んでるから不死身の肉体を手に入れたんじゃね?
口癖はWRYYYYとか貧弱貧弱ゥー!だったとか

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 20:23:36.03 ID:xGZ5zBzt
>>780
なお一遍上人も河野氏の模様
戦国期にも活躍した河野水軍と関わりなくもないから書くと

空海が四国を回ってる時に伊予国の衛門三郎という豪族にお布施を願ったところ
「こじき坊主にはやらん!」と托鉢の鉢を八つに割られ、
その後衛門三郎の子供8人全員が死亡したことからあの御坊さまの祟りに違いない!
と四国中を追いかけた結果、反時計回りに四国を回ると、時計回りに回っていた空海に出会い、罪の赦しを願った。
空海が「お前の罪は赦された。願いをいえ」と言ったところ
衛門三郎が伊予国の豪族に生まれたい、と言いそのまま死亡。
翌年、伊予国の領主河野息利の家に男児が手を握ったまま生まれ、その赤ん坊の手を開いてみると「衛門三郎」という文字を書いた石がでてきた。
この衛門三郎の転生した男児、長じて7代目の河野息方から降って23代目が屋島や壇ノ浦などで活躍した河野通信であり、その孫が一遍上人という
四国出身の高僧二人に因縁があったとする四国遍路始まりのありがたくないお話
(踊り念仏が一遍上人の故郷の伊予で巡礼していたのを、讃岐出身の空海が修行した阿波と土佐にも拡大したのが四国遍路の始まりのようで
高僧二人に深い因縁が必要ということでくっつけられた)

なお伊予大三島の大山祇神社は河野氏の祖先神を祀っており、河野水軍の拠点でもあったことから八十八箇所の55番目は本来この大山祇神社であったが、
島に渡らなきゃいけないということで四国の今治に南光坊という別当ができて今ではそこがお遍路のコースとなっているという、
四国遍路の創始者の一人、一遍上人の出身河野氏としては残念なお話


禁中は信長の時から興隆した

2019年04月05日 16:42

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 19:45:06.04 ID:/rqPzBC8
信長の時代の禁中が微々なりしことは、近郊の民屋と異ならず。築地などは無く、竹の垣に茨などを
結い付けた有様であった。老人(江村専斎)が児童の時は遊びに行って、縁で土などをこね、破れた
簾をちょうど開けて見れば、人もいない様子であった。

信長が知行などを付けられて、造営など寄進があった故に、少し禁中の居做は良くなったのである。
これによって信長を御崇敬なされて、高官にも進められた。

禁中は信長の時から興隆したといえども、太閤の時代の初めまでは未だ微々たるものであった。近衛
殿(近衛前久か)のところで歌の会などがあると、三方の台の色はあくまで黒く、ころころとする赤
小豆餅を乗せて出されたのであった。しかしながら、歌は今時の人に10倍した。

――『老人雑話』



老人雑話序

2019年03月30日 21:20

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 19:39:31.63 ID:o28Hmy2/
老人雑話序

読書友古と、まことなるかな。書は万代の宝、温故知新なれば昔語りを珍しと思えばなり。ここに我が曽祖父の
倚松庵先生(江村専斎)は永禄8年(1565)乙丑に生まれ、寛文4年(1664)甲辰季夏下6日に没す。

齢すでに100歳に満ち、その初め加藤肥州(清正)に仕え、その後に森作州(忠政)に遊事す。医術をもって
京師に居住した。まことに奇代の長寿なりとして、後水尾上皇は勅して御杖を賜ったという(原注:その時の歌
ならびに辞世の歌を子孫に伝える)。

されば、老人の雑話を伊藤宗恕(担庵)が書き留めなされた一冊あり。その書を見れば老人に対話する心地して
閑居の友となり、古人を追慕するのみなり。宗恕は齢80歳余り。老人の孫婿の坂口法眼立益がこれを繕写す。
今年米寿なり。寿を世々に伝ふるにあらずや。私はまたこれを書して、古人の言葉を賞するのみ。

正徳3癸巳年(1713)暮春望日       武陽 滄洲題


老人雑話 乾の巻

老人は江村専斎なり。諱は宗具。医術を生業とす。初め加藤肥牧に仕え、後に森作牧に仕える。永禄8年、光源
院殿(足利義輝)乱の年に生まれ、寛文4年9月に没す。満100歳なり。


公方の霊陽院殿(足利義昭)が信長に敵対し、京がことごとく焼亡したのは老人9歳の時である。それより以後
の事は大方記憶していると老人は語った。時に老人89歳なり。実に承応2年(1653)癸巳のことである。

――『老人雑話』



758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 19:44:04.93 ID:FtSBVq2R
事件だらけの時代だし緊張感も段違いで記憶に残るんだな

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 23:54:32.10 ID:KGahKoGy
あの時代で100歳まで生きたのか
光h・・・じゃなかった天海の長寿説も信憑性が増すな。

土佐日記(定家筆本)

2019年03月27日 18:38

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/26(火) 17:15:05.86 ID:2ysR5WPg
貫之(紀貫之)自筆の『土佐日記』は蓮華王院の仕物であった。それを定家卿(藤原定家)が写した本が、
連歌師の玄的(里村玄的)のところにあった。今は加賀(前田家)の家蔵となっている。

定家の写本はすべて自分の筆力で写し、末の2,3葉は貫之自筆の本の大きさのまま、字の形をも模して
書かれている。これは後の世に貫之の書法を知らない者が、これを法とできるようにするためとして後書
きに書いた。これをもって見れば貫之の自筆は定家の時代でさえ至って稀であったと見える。今時は往々
にして人の家に貫之の真跡として所持しているものもあるが、笑うべきことなり。

定家の時代までは貫之自筆の本があったと見えて、その本の大きさをも図しているのである。貫之の本は
今は絶えてしまった。定家の本は老人(江村専斎)が度々見ていたのだが、貫之の書法は変わった字様な
り。今時の偽物とは似たものにあらず。定家の本は今は加賀より八条殿(八条宮家)へ進ぜられたという。

――『老人雑話』

※現在、前田育徳会尊経閣文庫蔵のこの定家筆本土佐日記は、国宝とされています


ところが『孟子』に至ると、

2019年03月23日 18:43

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 18:41:07.63 ID:MmvfBlxx
老人(江村専斎)が少年の時、洛中には四書の素読を教える人がいなかった。公家の中で山科殿(山科言継
が知っているということで、老人は山科殿から三部を習った。ところが『孟子』に至ると、山科殿は「本を
人に貸している」と言って、ついに教えなかった。事実は分からない。

――『老人雑話』



二条城落成式の日の思い出

2014年06月24日 18:54

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 05:34:38.01 ID:tSLvIleb
織田信長は、永禄12年(1569)の三好三人衆による京都襲撃のあと、防衛を固めるため
武衛陣に新たな城を築いた(二条城)。この築城が完成すると、足利義昭を据えての慶賀の能が
行われた。老人(江村専斎)も当時4歳ばかりであったが、乳母に抱かれてこれを見物した。

その日、信長は小鼓を打っていた。長岡三斎(細川忠興)は老人より年上で6歳ほどであったが、
猩々を一番舞われた。

その後、帰りに門外において、盗人に後の紐を切られたことを覚えている。
この頃は、盗人が刀の口蓋、小刀などを抜き取るということをがよくあったのだ。
そのため盗みのことを『ぬき』と呼んでいた。今の『すり』と言うのと同じである。

(老人雑話)

老人雑話より、二条城落成式の日の思い出、である。