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榊原遠江守の落胤腹の子は、平十郎という

2021年07月08日 17:36

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/08(木) 14:58:49.18 ID:EkMa/nQQ
榊原遠江守(康勝)の落胤腹の子は、平十郎(勝政)という。しかしこの存在を家老たちが
押し隠して、「子は居ない」と申した故、御旗本へ出る事も成らず、又殺すことも成らずして、
辺土に押し込めて差し置いていたのを、加藤忠広が聞いて尋ね出し、これを扶助し、公儀に対し
「召し出されるように」と運動していたが、先に榊原遠江守に子は居ないと、家老共が言上しており、
今になってその事を言い立てると、家老共の不義が顕れ、却って家のためには如何かとの事で、
延引していた所、加藤忠広は改易のため流罪となり、いよいよ首尾調わなかった。

それでも確かに遠州の実子であるとして、一門の衆が取り繕い、談合して、
「遠江守別腹の妹の子、遠江守の甥である」
と報告し、これによって公儀との交渉もまとまり、御扶持方より千俵が下しおかれた。

しかし両三年が過ぎても、そのままの待遇であったため、不足に感じ落髪して。
高野山へ入り年久しくして松平新太郎(池田)光政より、様々に申し送られ、
備前に呼ばれ、榊原香庵と申したという。

管窺武鑑

榊原康政の孫、勝政について



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彼は人体静かにして、公儀つきも良く

2021年05月13日 17:49

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/13(木) 16:20:17.66 ID:HSTG9AXZ
生駒左近(光政様ノ家士也)はかつて、織田常真(信雄)に小々姓として仕えていた時、
信雄は何かの用があって左近に、「ここより内に人を入れてはならない。」と申し付けた。
そこで左近がその口で番をしていると、信雄家中で出頭の者がそこを通ろうとしたため、
先に信雄より申し付けられた事を申して止めたが、それを聞かず通ろうとしたため、
左近は彼を斬り殺した。その後、若輩では有るが理に当たるとして、褒美が与えられた。

彼は人体静かにして、公儀つき(上の覚え)も良く、それ故か武州様(池田利隆)より、
光政様の御守として付けられた。しかも、少し私曲があり、その故か、その頃生駒家が断絶
しそうになっており、当主の死も間近であるということで、左近がそれを相続するよう
仰せになられた。庚申(1680年)十一月十九日、備前西の丸御内所にて御物語された。

烈公間話



加藤左馬助殿は、常に動じない人であった

2021年05月12日 18:49

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 14:31:04.74 ID:H+XpSd11
未の年の正月、岡山に於いて物語された事である。

加藤左馬助(嘉明)殿は、常に動じない人であった。
(秀吉公が伏見に御座の時)殿中に於いて地震があった時も動じず、
また虎が朝鮮国より進上の時、虎の置かれていた大書院の縁を通る諸大名は、虎を恐れて
皆少し退くといった体であった。
山崎甲州(山崎家治カ)も気味悪く思われ、引き退こうとした時、左馬助殿を見ると、
彼は柱にもたれ、嘘眠りをして居られた。(柱ニモタレウソ子ムリテ被居)
これを見て、歯を食いしばって甲州も退かなかったと、甲州が光政様に物語されたという。

烈公間話



165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 15:40:33.86 ID:qwZOPA/Q
嘘眠り見抜かれてちょっと恥ずかしい

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 23:41:50.58 ID:ipb/lOQ8
他人の失態を見るのは失礼だから眠ったフリをしたんだよ

167 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/14(金) 06:40:52.21 ID:Ra1/CEvj
この逸話、かれこれ4回くらいこのスレで出てるけど登場人物が加藤清正と加藤嘉明のバージョンもあったりするけど、出典によって内容が違うんだろうか?

池田輝政の死

2021年04月30日 16:56

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/30(金) 14:31:25.20 ID:s9vSCkNd
ある年の十月、物語されたことである。
池田輝政様が姫路に於いて右京殿(池田政綱)の屋敷にお越しになり、その日より御気色悪しく、
御城へと帰られたが、この時鳥が多く飛び来て、御駕籠に当たったという。これは春の事であった。

まもなく御快気され、江府(江戸)へ御参勤成された。同八月頃に御帰国、翌慶長十八年に、
また御気色が悪化し、その時、座敷の書院、床の障子にまた、鳥が数多飛んで来て当たったという。

まもなく、逝去された。これは加藤九左衛門が覚えており、光政様に物語申し上げた内容である。
輝政様の逝去は、慶長十八年正月二十五日、享年五十歳であった。

烈公間話



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 21:01:22.25 ID:ADexeFwu
弱った輝政を見て喰ろてやるチャンスだと思ったんやな

只今秀吉公御死去

2021年04月29日 17:38

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/29(木) 14:39:47.50 ID:f09WRf9y
庚午(1630年)十二月に書写、丁巳(1617)年、池田光政様が御咄遊ばした。

秀吉公の御卒去は深く秘密とされたが、この時石田治部(三成方)より八十島と申す者が
使いとして、東照宮(家康)へ内密に申して曰く

「只今秀吉公御死去」

と申し上げた。

その後、秀吉公の御使者より東照宮に、蜜漬けが届けられた。
そしてその後、浅野弾正(長政)が御使として、御肴を持参して参られるということを
東照宮に申し上げた。

普段であれば、御使者が参った時は袴、肩衣を召して御馳走遊ばされていたのだが、
この時東照宮は以ての外の御様体にて、「弾正これへ」と召した。
弾正参り、御口上を申し上げた。
神君はややあって、以ての外の御機嫌にて

「今まで、死したる人の方より、使者を以て音信が有るという事は承ったことがない。
先程来た蜜漬けにも大毒満々たる故、この庭のふみ石にて打ち破って置いた。」と仰せになった。

弾正は
「そのようなことは有りません!」と色々弁明を申し上げた。
神君は
「治部方より御死去の日、注進があり、委細聞いたのだ。」と仰せに成られた。
浅野は申した

「石田を始め、堅く誓紙を取り交わしたというのに、彼が約束を変じた故に面目を失いました。
この申し分が実際の所であり、重ねて御奉公申し上げるでしょう。」
と申した。

その心の故に、関ヶ原にて御味方仕ったのである。

烈公間話



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 08:27:11.36 ID:yZrxDgdY
>>689
老人に甘いものは毒、もう糖尿病なんてあったのか

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 10:36:30.64 ID:xYlT6RcQ
>>691
米を大量に喰うから糖尿病(飲水病だっけ?)はあったけどこの文の趣旨はそれじゃない

南部越後について

2021年04月27日 18:20

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/27(火) 14:20:54.68 ID:EBmutGnO
南部越後について、彼は滝川殿(一益)の侍であり、滝川縫殿(当家番頭家次)の父出雲(辰政)の
父である。武勇有る能人であった。

かつて信長公が「小田原その他の敵を押さえるように。」と仰せに成られたが、南部越後
滝川家に従っての初合戦に参加しなかった。その時滝川は、使者を以て「どうして合戦に参加
しないのか」と、厳しく尋ねた。南部は答えて曰く
「御家中の士、この戦で皆武功をなされており、私ごときがここで働いても目に立たないためです。」
と答えた。そして重ねての軍で大きな手柄をしたのだという。

またある時、敵の城を攻める時に、柵際へ味方が大勢付いたが、ここで南部越後は「この柵をくぐって
行き、敵城に乗ろう」と考え、兜をくぐらせて見た所で、敵は門を叩き鬨の声をあげた。
その大音に驚き、味方はどっと逃げた。ところが越後は、大きな前立てを打った兜を着け、
その前立てを傾けて柵を潜ろうとしていた時であったので、前立てが柵にひっかかり、味方の勢が
敗走した中、南部越後一人がこらえて留まっていると見えた。
これを見た味方の勢は引き返した。これも大いなる功名となった。

後で南部は云った「私は勇気があってこらえていたのではない。先に言った通り、やむを得ず
ああなったのだ。」

しかしこの言葉によって、猶々手柄と成った。日頃武功が多かった故である。

この越後は、武蔵様(池田利隆)御家に罷り在り、大阪御陣の時、片桐市正(且元)の
大阪よりの退き口において、大阪方がこれへの追尾を行った。
尼崎には建部内匠(政長)が居り(当時十二歳)、武蔵様よりその補佐として南部越後
遣わされ、彼も尼崎に居た。

この時、尼崎勢は市正を助けず、この事を市正は東照宮(徳川家康)へ
『武蔵守は大阪に内通しているのではないか』
と申し上げた。
そのため、これに対して番大膳が東照宮の元に罷り出て、申し訳を仕った。

東照宮の仰せに曰く
「武蔵守の手に南部有り。しかも彼は尼崎の城に在って、なにか理由も無く片桐且元
助けないということは有るまじきと思ったのだ。」と仰せになった。

烈公間話



141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/27(火) 19:04:23.09 ID:fKzeA+2Y
南部越後は北勢四十八家の一つ、富田城主南部家の人物とされ
蒲生氏郷の配下の時代にキリシタンになったといいます
浪人後に輝政に三千石で召しだされたと

鳥取藩のキリシタン史で名前の出てくる医師森元交(もりげんこう)も南部越後の子だとか

難波戦記によると、御宿越前は

2021年04月26日 18:19

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/25(日) 23:29:35.67 ID:TIXyTC0r
難波戦記によると、御宿越前(勘兵衛)は、(大阪夏の陣、天王寺・岡山の戦いで)討ち死にした時、
殊に強く戦ったため、白糸の具足が血に染まり、赤糸に見えたという。

これについて、池田光政様に、先の松平出羽守殿(松平直政カ)が物語されたことによれば、
御宿は元来、左手の指が欠損しており(元来左手無手棒ニテ候)、その最期の時は、赤糸の具足を着し、
指の欠損したまま、鑓を持って居たのを、越前(松平)家の何某がこれを能く見知っていたため、
そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前家の手勢の事を詳しくご存知のはずであり、であれば、これが本説であるのだろう。
御宿は指が欠損していた故に、強く戦える状態では元来無かったのである。

烈公間話



686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 10:50:42.87 ID:Omwm547S
出羽守「元来の渡辺勘兵衛の左指デワー」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 17:15:15.59 ID:rhtGunLN
http://samidare.jp/yoshiaki/data/15407904041.jpeg
出羽守のポリコレ棒をくらえ!

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 18:36:23.46 ID:PQIaL2a9
小指切れてたら槍握るの大変だろなあ
ましてや親指だったら不可能でしょ

ハタラキタル茶湯

2021年04月24日 17:17

千道安   
133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/24(土) 12:14:21.18 ID:cbP7yFL3
千道安方へ、ある人が茶湯に行くと、庭に朝顔多く、花の盛りで、路地も見事であった。
この人はその見た通りを、利休に語った。利休は「申された事、未だ知らない。」と、
日を定めて道安に茶湯を所望した。

その日、行って路地を見ると、朝顔は一葉も無かった。「これは」と思っていると、
床の間の花入に、朝顔一輪が入れ置かれていた。

「既に数人に見古させた花を、庭にて父に見せ奉っては賞翫と成らない」との事であった。

このようなものが、ハタラキタル茶湯である。総じて、茶湯の心とはこういった事であるという。

烈公間話



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/24(土) 12:17:35.26 ID:okynbCIm
利休自身の逸話ではなかったのか

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/26(月) 12:47:05.64 ID:+AWW44bc
>>133
花の慶次で風評被害きっつい息子かー

当時の数寄者達は感じ入ったと言うが

2021年04月23日 17:56

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/23(金) 15:30:44.96 ID:dXmDSpBq
古田織部が家康公より逆心の咎めを受けた時、

「申し分を仕れば助かることも有るだろうが、この上において申し分をするのは見苦しい。」

と言って、申し分する事なく切腹した。
これについて、当時の数寄者達は感じ入ったと言うが、本当に身に誤りが無かったのであれば、
申し分をしたであろう。彼が切腹したのは、実際に逆心があった故ではないだろうか。
それは大阪城内への内通の罪であるという。

烈公間話



日頃の数寄が出たのだ

2021年04月22日 17:16

千利休   
132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 15:29:59.99 ID:/XbN5Ghq
千利休が大徳寺の山門を建立し、自分の人形を木を以て作り、ヘントツ(羽織のような僧衣)を着て
頭巾に杖をつかせ、雪踏を履かせ(雪踏は利休が初めて作ったと云う)、高所に置いた。

秀吉公はこれをご覧に成って、「公家衆を始め礼儀ある門に、推参至極の仕形である!」とて
大いに怒り給われ、その罪にて利休は切腹した。
その時、脇差が包まれているものを取り、巻き直し両端を揃え、能く見て切腹仕った。
「日頃の数寄が出たのだ」と、当時の数寄者たちは感じ入ったという。

烈公間話



これは我家相続の方便である

2021年04月18日 16:12

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 01:15:41.14 ID:MVa/nSU9
加藤清正は常々不養生であったという。加藤左馬助(嘉明)が彼に申した
「足下は常々不養生である。養生に油断せず、長命するように。」
さて、左馬助が退参した後、清正は側に居た人に云った

「私は不養生をして早く死ぬべく覚悟をしている。何故かと言えば、存命している間に
乱世に及び、家康公が秀頼公と御合戦有れば、恩主故、秀頼公の御方を仕る事が当然である。
しかし秀頼公の御軍が、どうして家康公に対し得るだろうか。だからといって家康公に
随い奉るのは不義である。

私が早死し、我が子の代になっていれば。ともかくも家康公に随い奉ってもその咎は軽い。
これは我家相続の方便である。」

と伝わる。『清正記』という書にもそのように有る。また左馬助は長命を願い存命して、
二心有って家康公に奉仕すると云々。

清正の覚悟は忠義ではない。左馬助については評するにも及ばない。
両人供勇将であると雖も、惜しいかな道徳の志がない。

このように池田光政様は仰せに成った。

烈公間話



665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 10:49:40.16 ID:SUJSDCEt
どうしろと?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 11:02:25.59 ID:zeGAD6FL
1609年生まれが偉そうに

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 14:26:22.66 ID:/9AHysH2
池田光政は何が言いたかったんだ

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 16:44:24.80 ID:7MqbF1gq
清正 主君・秀頼に従って滅亡したくないから早く死にたい
嘉明 家康に従って主君・秀頼を滅ぼすため長生きしたい

池田光政の政治思想や、日本における陽明学の受容に詳しいわけじゃないから自信ないけど
清正は「するべきこと(=秀頼のために戦う)」を分かっているのに実践しようとしない、それは忠義とはいえない
嘉明は旧恩ある豊臣家を滅ぼす助けをしようというのはそもそも言語道断
そんな感じじゃないか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 19:24:16.68 ID:7lxIuqFT
清正にしろ嘉明にしろ確かにこの時の選択は胸を張れる物ではないかもしれない
とはいえ同世代の秀頼に付いて死んでいった奴らに言われるならまだしも
後世の3代目くらいの連中にアレコレ言われる筋合いなど無いわ!って所だろうなぁ
ご先祖の池田輝政もそんなご立派な人ですか?と…

池田光政の少年時代のこと

2020年11月02日 16:30

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/02(月) 14:21:50.00 ID:gpMCPYrC
公(池田光政)が東照宮(徳川家康)に御目見得有ったのは、五つの御歳であった。
その時、御脇差を拝領し、公が御膝下近くに居られたのを、東照宮は公の鬢髪をかきなでて

「三左衛門(池田輝政)の孫であるか、早く人になり給え」

と仰せになった。この時公は、御拝領の脇差をするりと抜いてご覧になった。東照宮は「これは危ないことだ」
と、ご自身で柄を持たれ、鞘に納められた。

公が退出される時、「眼光のすさまじき、只人ならず」との東照宮の上意が有った。

公が未だ幼き時、夜ごとに寝床に入られても、眠られること無く、夜明け頃にわずかに枕に伏された。
近侍の人々は怪しみ、「いかなる事でしょうか?又は患われている事でもあるのでしょうか」と尋ねたが、
しかじかと答えられなかった。

ところがある夜より、非常に良く寝られるように成った。そこで近侍の人々も又々その故を問うた所、

「私は父祖のお陰で、このような大国を賜っっている事は、自分の分に越えた事だと思っている。
然れば、この国民をいかがして治め養うべきかと、様々に心を尽くして思慮していたために、久しく
寝られなかったのだが、思いついたことが有って、昨日論語を読ませて聞いたが、そこで私は
『君子の儒となりて、国産を教えやすんずべき』という事を知った。
これを決断した上は、別の思慮も無く、良く寝られるようになった。」
と仰せになった。
(御歳十四の御時の事という。一説には公が学問を思し召し付かれた最初である)

有斐録

池田光政の少年時代のこと



高松攻めの不審なること

2019年12月17日 17:52

417 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:34.32 ID:7IG7eVB0
佐怖彌右衛門入道常圓という者は、百余歳まで長命した人物であった。村瀬安兵衛は内々に、この
佐怖常圓が秀吉公の御供として、備中高松城攻めを目の当たりに見たと聞き及び、常圓の所に常々出入り
している町人に頼んで、「お目にかかって高松攻めについての不審なことをお尋ねしたいと望んでおり、
同道してほしい。」と望んだ。そしてある時、この町人と連れ立って常圓の邸宅に参った。

常圓は太い杖をついて座敷に出ると、そのまま挨拶した
「さてさて、若き人の奇特なる事か。私に逢って高松攻めの不審なることを聞きたいと言うが、それは
どのような事か。」

安兵衛はこれに
「先ずはお目にかかれたこと、忝なく存じ奉ります。ところで、秀吉公が高松城を御攻めになった際、
門前村よりカイルカ鼻(蛙ヶ鼻)までおおよそ一里ほどの長さの堤を築かれたという事ですか、それを城方が
うかうかと見物していたというのは不審に思います。また毛利家も大軍の後詰を出して向陣し、その間はたったの
二十間に足らない場所に居たのに、見物していたのみで長い堤を切り崩す事さえ成らず、一戦を遂げたという
事も聞き及びません。この事不審千万に思います。」

このように申した所、常圓は
「いかにもいかにも、尤もの不審である。ではでは、その時のことをお聞かせ申そう。
その時私は御馬廻りであり、御馬の蹄奉じの時も御供仕るほどで、委細を存じている。それ以前の、鳥取城の
時はゆるゆると取り巻き兵糧詰めにして落としたが、それと事変わり、次の冠城は一時攻めに攻め落とした。
このため味方に手負い、死人も多く出たが、この勢いを聞いて河屋城は直ぐに開け退いた。これによって
備前備中の境の山の上に御人数を備え、一両日してから、高松城は水攻めが然るべしと思し召しに成り、このように
仰せに成った
『私は今より馬で向かう!その跡を直ぐに追いかけてこい!』
そう言われるやそのまま乗り出し、御供はただ七、八人にて門前村よりカイルカ鼻までお乗りに成った。
この時城中より鉄砲が撃ちかけられ、羽織に弾が二つまで当たったが、少しも騒がず乗り返された。
そこから一夜の間に尽く塀をかけ、五十間に一つ宛てで櫓を上げた、これは外から見ると櫓に白土まで塗ったように
見えたが、これは白土ではなく、白紙を貼った障子で囲んだものであった。

これらの櫓から弓鉄砲で敵を撃ちすくめ射すくめさせ、塀の陰にて堤を築いた。これに対し少人数の城兵は
なかなか出ることが出来なかった。
さて、こうして堤が出来ると、これは秀吉公の御運なのであろう、それから三日の間に篠突く程の大雨が降った。

門前村の外に広さ三十間ほどの砂川があり、普段は脚絆が濡れる程度の浅さであった、この川上には大井村という
村があったため、川も大井川と言ったが、この三日間の大雨によって川は瀧のように成って流れた。この時
秀吉公の仰せで、人数二千人ばかりが手に手を取って、門前村の前でこの川の中にひたひたと入り、人によって
水流を弱めると、川下は二、三尺は無い程の浅瀬と成った所を、土俵を以てせき切り、門前村の前の堤の口に
流し込めば、水は逆巻いて城の周辺に滔々と流れ込み、目もこすらぬ間に大海のようになった。

そして城外の山々の方に流れる雨脚も言うに及ばず、備前の方の山半分に溝を付けて、備中高松の方に
流しかけた。現在もその山水は備中の田地に流れており、故に『備前の水にて備中の田を作る』と俗に
申すのは、この事より起こったものである。

そのような訳で城中の兵は何も出来ず、寝耳に水を入れたように呆れ果てたるばかりといった様子で、
また毛利家の後詰めも、あの見せ櫓を見て驚き、それに対する会議評定が終わらぬ内に城は水に浸った
のである。このため城主の清水氏(宗治)は切腹した。やがて京の大変(本能寺の変)が報告されたため、
和議して互いに誓紙を取り交わし、人数引き上げと成る時、この堤を切り崩し、そのまま引き上げた。
これによって俄に毛利家の陣所との間は大海のようになって。たとえ追討ちの心があったとしても、
何もすることは出来なかった。

418 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 12:54:57.97 ID:7IG7eVB0
備前の宇喜多秀家は幼少であり、岡山の城より出向いて半田山のあたりで秀吉公を待ち受け御対面された。
この時秀吉公の召されていた乗輿の中に入られ、様々懇ろに色々御咄など成され、『今後我が養子とする。』と
御約束に成った。沼城のあたりまでお連れに成り、それよりお返しになった。秀家からの加勢の人数も
先に向かわせた。そして飛脚を遣わし、『播州の町、在地に限らず、法華宗の出家は尽く城下に集まるように。』
と万部の御経を仰せ付けに成り、信長公のお弔いにすると、軒並みに仰せ遣わされた。

ところでこの間秀吉公は、御乗輿の中でひたすらお眠りに成り、正体も無いようであった。時々御馬を
召されたが、他愛も無く居眠りをされ、四、五度落馬されたほどであった。このため
『姫路に到着すれば休みを取り、御法事のため三七日(二十一日)過ぎて後に上方に出馬しよう。』と
申されていたのだが、いざ姫路に到着されると、その夜中には早くも御陣触れがあり、早朝に御出馬された。
今思い返してみると、秀吉公はあのように草臥れ、その上弔いの為に上方に上がるまで日数がかかると
光秀の方に聞こえたのであろうか、光秀は明智左馬介に人数を分けて安土へ遣わし油断していた所に、秀吉公は
急に御上がりになった故に、明智の謀は後手後手になって敗軍したのだと考えている。

ところで、尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆かれていた時は、秀吉公も嘆かれ、『この上は何れも
一味同心にて明智を討ち取り申す外はありません。何れも左様に思し召すように。』と、彼らを敬い、とても
慇懃で、同輩として接している様子が見受けられたが、明智敗軍の後、諸大名への御あしらいは『骨折々々』と
仰せになり、家来あしらいと成り、大いに威が付かれた。』

このように語られた、

この佐怖彌右衛門入道常圓は二百五十石下され、隠居したがその子が盲目であっため、孫を跡継ぎとし、
少将様(池田光政)より二百五十石下され、これも佐怖彌右衛門と名乗ったが、彼が死んで子がなく、
断絶という所に、少将様より『佐怖の跡は潰すべからす』との言葉があり、石田鶴右衛門の二男を
跡継ぎとして立てられ、これも佐怖彌右衛門と名乗ったのだが、阿呆を尽くして跡が潰れたという。

村瀬安兵衛は伊木勘解由(岡山藩池田家重臣)の元にて二百石の者で、この物語を聞いたのは、彼が
浪人であった若い頃の事である。

 貞享四年(1687)十月、安兵衛物語の通りに書き付けたもの也。

(高松城攻之物語)

秀吉の備中高松城攻めについて



419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/17(火) 13:17:08.85 ID:ROhwfMfq
>>417
生き証人の話はリアルでいいなぁ、説得力ある

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:31:01.22 ID:5yZpAfb1
>>417
2000人で川の流れを止めるとか信じられん
流されて悲惨なことになっただろう

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:51:20.57 ID:R4W40bDn
そもそも可能なんだろうか

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 08:07:21.11 ID:AainfZnh
細かい事解らんけど数十万トン位の圧力になりそう

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 13:35:14.64 ID:2ZgMZM/k
>>426
シーザーも似たようなことやっとるし昔から有効な方法なんだよ

座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、一器量あり

2019年09月16日 16:11

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 16:04:14.18 ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 22:48:38.12 ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ

かの一類を成敗すべし

2019年09月06日 17:42

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/06(金) 16:22:11.74 ID:xfBoafGR
(前略。大鳥逸平事件の記事)さて京都に下知あり。大坂・堺その他の国々でかの一類(かぶき者)
を成敗すべしとのことであった。これにより、この頃は無縁の者には宿を貸すことがなく、旅人は
このために迷惑した。

かのいつ兵衛(大鳥逸平)は相撲をも良く取り兵法をも使うので、(幕府の)若衆はかぶきとは知
らずに近付いたところを、罪科が行われて国々に遣わされた。

穂坂長四郎は越後衆の村上周防(忠勝)に預けられる。坂部金太夫は同越後衆の溝口伯耆(宣勝)
に預けられる。岡部藤次は奥州の南部に預けられる。米津勘十郎(北町奉行・米津田政の子)は同
奥州の津軽に預けられる。佐平次は佐渡に流された。

かのかぶきどもの傍輩で(かぶき者の)従者とは知らずにとりわけて近付いた者がいて、かぶき者
の中で去る5月に喧嘩して死んだ者を葬ろうとなおざりにしなかった。

その事とは傍輩に言わず「無縁の者が死んだので、結縁のために代物を少々合力してくれ」と様々
言ったので、何気なく代物を少し出したのをその一類と称して成敗され、この者どもは罪無くして
死を蒙った。迷惑なりし事共なり。

――『当代記』

当世に奴風といってバサラを好む人は、親に掛かる部屋住の若輩をよろしからぬ風俗に引き込むの
である。

例えばその若輩が弓を好むかまたは馬数寄ならば、すなわち「馬を見せ申そう」と招待し馬具など
を奇麗に伊達にして、あるいは馬取や中間に至るまですねふり奴を出して、奴を見習わせて真似を
したい心を付ける。その後に料理を出して酒になり、諸々のよろしからぬ風俗を教え奴の友に引き
込むのである。

「油断仕ってはならぬ」との(池田光政の)御物語りである。馬に限らず兵法や詩文の学、歌学の
友も慎むべきことである。

――『烈公間話』



加藤左馬助殿は常に動かない人である

2019年09月04日 17:31

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 18:53:07.73 ID:ca7nyELK
未の年正月、岡山での(池田光政の)御物語り。加藤左馬助殿(嘉明)は常に動かない人である
(常ニ不動人也)。殿中で地震の時(慶長伏見地震。原注:秀吉が伏見にござった時)に動かな
かった。

また虎を朝鮮国から進上した時に大書院の縁を虎を牽引して通り、諸大名は皆少し退き申される
様子であった。山崎甲州(家治)が気味悪く思って引き退こうと致した時、左馬助殿を見なさる
と、柱にもたれて嘘眠りしておられた。

これを見て甲州も歯を食い締めて退かなかったと、甲州が光政様へ御物語りしたという。

――『烈公間話』

家治は文禄3年生まれだから当時3,4歳か



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 10:42:49.57 ID:HqI8Jr40
実は腰が抜けていた

池田輝政の最期

2019年08月20日 16:44

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 15:12:23.45 ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 20:47:37.86 ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 22:38:50.73 ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

若輩でそのうえ理に当たる故

2019年08月19日 18:06

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 16:33:51.23 ID:LMV/o/Q5
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』



149 名前:148[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 02:51:05.66 ID:/g8X7WjZ
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方

御宿勘兵衛の最期

2019年07月15日 13:40

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 20:50:03.53 ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』



どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか