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どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか
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池田光政、お見舞いのお菓子を作る

2018年12月29日 17:15

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/29(土) 16:10:06.29 ID:0XdPBbAf
池田光政、お見舞いのお菓子を作る


御大老の酒井雅楽頭(忠勝)が(病気で)御不食のとき、御大名方が珍味を贈り物に
していたので、公(光政)も何か(雅楽頭に)差しあげたいと思われた。
御膳奉行を呼んで相談したところ、浮麩*がよいということになったので、赤小豆をすり
米粉を取り寄せて、御自身で拵えて小さい重箱に入れられた。
(光政は)御留守居役を使者として遣わしたが、余りにも少ししかないので(雅楽頭が)
気分を害されるかもしれないと使者は思いながら参った。

御口上を申し入れると、御使者へ逢われるそうなので待つようにと言われ暫くして
奥へと段々通され居間の襖障子が開くと、そこに(雅楽頭が)いらしゃった。
「新太郎殿(光政)の御使者に、懇意の贈り物のお礼を申せそうにありません。
 最近は何も食べられなかったのですが、御親切のお礼に食べてみせますよ」
と仰せられ、快く一つ分を召し上がった。

このことを帰ったら申し上げるように伝えられていたので、(光政は)殊の外お喜びに
なり、御使者も存外の首尾で帰ってくることが出来た。


ーー『率章録』


幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ

2018年10月17日 17:22

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 02:22:43.06 ID:+jmlmL63
幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ


池田光政様が母君の福照院様のところへお越しになったとき
福照院様が何でもいいから御物語をするようにと仰せられた。
吾(作者、このとき十五、六歳)は、童の時に人から語り聞かされた
後も先もない物語を慰みとして一つ二つ申し上げますと言って話した。

一休和尚が道を歩いていると、道の傍の木の梢に童が一休に小便をかけて
ひどく笑った。一休は腰から銭を取り出してその童にやり
「よくもかようの仕打ちをしたな」
と言って去っていった。その童はよいことをしたのだと思って、人が通ったときに
また同じことをして銭を貰おうと待った。そこに士が通ったので、さっきのように
小便をかけて笑ったところ、怒った士にぶたれてしまった。

一休が利口なので人を使って意趣返しをしたのです、と申し上げると光政様は
「この物語の趣旨はそうではないだろう。一休に誠の志があるなら最初に
 小便をかけられたときに強く叱って、私は出家しているからぶたないが
 他人にかようの仕打ちをしたら命を失うぞ、と教えてやればいいのにどうして
 銭をやり人に仕返しをさせるのか。よこしまな心があったからではないのか。
 かような話が若輩の者の心にかなうはずがない。幼児に聞かせる物語でも
 心得があるべきだ」
と仰せられた。愚耳に留まったので記す。


――『烈公間話』



319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 14:32:15.93 ID:pOFKU+KZ
一休ならありえる話と思えてしまう

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 15:53:08.01 ID:EuvSQKPV
>>318
一休はとんでもない食わせもんだしなぁw

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 16:06:42.37 ID:mXcoWGCT
一休の捻くれ具合を知らんかったんだろうなぁ…

その心持ちがないのは不孝だ

2018年07月25日 21:38

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:33:26.46 ID:IOR1qyBx
その心持ちがないのは不孝だ


池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。


――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。


池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


大身の方に嫁がせて物入りになれば

2018年04月28日 17:39

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 00:23:20.19 ID:zEPPlm+W
大身の方に嫁がせて物入りになれば


明暦2年、土佐藩主・山内忠義は末娘の重姫を
豊後国森藩1万2500石の領主、久留島通清に嫁がせた。

忠義公が縁組を公にする前、備前の新太郎様(池田光政)がそれを聞き付けて*
「今度御息女を久留島信濃守(通清)に御縁組なされると聞いたのですが
 信濃守は小身者ですので不相応に存じます」
と仰せられたので、忠義公は
「仰せのごとく信濃守は小身者です。貴方様は御大身なので左様には
 思われないかもしれませんが、私は小身ですから大身の方に嫁がせて
 物入りになれば、たくさんの家来を養うことが出来なくなるでしょう。
 それが小身の信濃守に嫁がせる理由です」
とお答えになられたという。


――『南路志』

* 光政の姉妹は忠義の嫡男の正室で、山内家と池田家は姻戚関係にあった



821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:25:17.99 ID:sp5yV1iF
>>819
久留島ってたぶん来島の事だろうなあ
大名として残ってたとは知らなんだ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 11:33:17.17 ID:RgCKd3Qt
>>821
元海賊だからと警戒させられて海のない陸にあげられたんじゃなかったかな

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 12:44:37.19 ID:VZTsxhdo
大身同士の縁組みだと金かかって家が大変だから、それを思いやってといういい話ではないだろうか。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 01:57:36.82 ID:3ZBtswZj
>>819
久留島家って末裔が童話作家とかボーイスカウトに尽力してんのね
直系は18代当主が普通に活動してるし

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/30(月) 09:22:39.21 ID:kOb2HE+7
大名として残ったおかげでそういう活動できるのかも
能島や因島の村上氏は毛利の家臣に組み込まれて地味になってしまった

陸奥守政宗は三方を頭に被って踊り申された

2017年09月30日 22:11

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 02:43:45.97 ID:PbrYLDou
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



天下は御前に参るでしょう

2017年05月29日 18:37

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 01:32:19.40 ID:N9Ip1c+w
天下は御前に参るでしょう


萬治四年の二月三日、備前において(池田光政が)焚き火をされているとき
五郎八様(池田政種)、信濃殿、八之丞殿、猪右衛門殿に御咄された。

「関ヶ原御陣に大坂の諸大名衆が人質を出したときのこと
 話に出る津田左京は大坂での留守居を首尾よく務めたので
 輝政様は殊の外御機嫌であった」

「その左京は左源太にとってはなんだったか……父か祖父か」
と言って重次郎(左源太の息子)を召され御問いになると
「祖父です」
と(重次郎は)申し上げた。
「父は何と云ったか」
と(光政が)仰せられたので
「彌次右衛門と申します」
と申し上げた。
そこにいて聞くようにとの御意だったので(重次郎は)御前に伺候した。

(光政の)仰せに曰く
その左京は粗忽者だったので輝政様へ
「斯様に御前が御全盛であれば、追付天下は御前に参るでしょう」
と申し上げると、輝政様は殊の外御機嫌を損ねられ
「常の者(無役)ではないので、成敗を申し付けるところだが
 左京は若く子細があるので免じる。
 再び免じることはないので、つつしむように」
と仰せられた。

「子細と仰せられたのは大坂の留守居のことだろう」

「このことについてよく覚えていたので咄したが、その時分は
 輝政様は御威勢が夥しく、姫路はもちろん備前にも諸大名が
 上り下りに寄られた。また輝政様が駿河に御越しのときには
 尾張様(義直)、紀州様(頼宣)などが阿部川まで御出迎えになられたという」


――『有斐録』


「これは危なきことよ」

2016年06月15日 13:14

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 03:36:11.83 ID:nrusAHo5
池田光政徳川家康に御目見したのは5歳の時だった。その時、彼は脇差を拝領し、
家康の膝元近くにいた。家康は彼の鬢髪をかき撫でて、

「三左衛門(池田輝政)の孫である。早く大人になり給え」と、言った。すると光政は
拝領した脇差をするりと抜いて見つめた。家康は、「これは危なきことよ」と言って、
自ら柄を持ち、鞘に納めた。

それから光政が退出した後に家康は、「眼光の凄まじさは常人ではない」と、言った。

――『有斐録』



現在では代官と言われる者さえ

2014年12月12日 18:35

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/12(金) 01:57:05.44 ID:iPgindBB

池田輝政が播磨の領主であった時代、直に村々に触れられて、一石につき二升宛の年貢免除を許された。
この事について、堀甚兵衛という名主の家には今も、輝政自筆の免状が伝わっている。
このように大名が村に直接指示を出したというのは、戦国の時であったからそんな事もあったのだと
言う人がいるが、新太郎少将(池田光政)の時代でも、その領内の村々を、大名自ら万事委細に理解し
扱いを行っていたのである。

現在では代官と言われる者さえその管理する村について知らない事すらある。

(明良洪範)




池田光政に山鹿某を推挙したところ

2014年02月24日 19:09

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/24(月) 17:16:24.28 ID:kb6mO7pp
山鹿某(素行)という士は軍学諸流を兼学して一統を起こし、経学より論を立てて
武を講じ、孫子呉子三略の趣旨を今日の和法に用いて古の軍学者などの及ぶところではなく、
まことに常用の武備はこの人に在りと、世間はこぞってほめている。

ある人が池田光政にその山鹿某を推挙したところ、光政は次のように言ったということだ。

「軍法兵学は、旧家にはそれぞれその家の軍法がある。武田家に山本勘助の軍法が、
上杉家に宇佐美駿河守の軍法があるようにな。我が池田家にも軍法があって、
信長の代より数十度の戦場に一度もおくれを取ったことがない。だがら我が家においては
(軍学者を)召し抱える必要がない。

いまは太平の代だから軍学などと言うが、乱世に生まれた者の軍学は皆自己の鍛練だ。
それは加藤清正、小西行長などが、朝鮮までも切りなびいたことから知ることができる。
それに古来未曾有と言われた豊臣太閤が軍学をしたということを聞いたことがない。
また、神君(徳川家康)に軍学の師という者はいないが、このように天下を平治なさった。

いま太平の代に立身して大名となった人で、先祖よりの軍法がなく自身で立てた法令のために
心許なく思う人こそ、軍師を召し抱えて法令を定めるのがよい。我が家には先祖よりの
軍法があり、乱世を過ぎて治世にあって国家はよく治まっているので、軍学は家に伝わるもので
足りるのである。新たに師を召し抱える必要はない。

そのうえ『乱世には武を以てし治世には文を以てす』といって、治世に国家を治めるには
仁義の道こそ肝要だ。故に熊沢五郎八(二郎八、蕃山)を召し抱えている」

その後、山鹿を津軽信政が召し抱えたいと思ったが、家老の神保三右衛門が無理をおして
留めたということである。

――『明良洪範』





ありふれた夫婦の話

2012年08月27日 20:51

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 15:44:40.14 ID:hMMpY9hx
ありふれた夫婦の話

徳川家光が三代将軍となって間もないころ、江戸柳原の裏長屋に、一組の浪人夫婦が住み着いた。浪人者のこと、
日々貧しい暮らしを送っていたが、しばらくして浪人は突然「京へ行く」と言って、旅立ってしまった。

残された浪人の夫人はさらに困窮するようになり、その哀れさに近所の長屋衆は夫人を何くれとなく気遣った。
「しかし、ご主人は何で遠い京まで行かれたのかね?」
ある日、浪人の消息について聞いた長屋衆に、夫人は答えた。

「私の夫は、佐治縫殿助と言います。実は、新太郎少将様(池田光政)から夫に『千石で仕えないか』という
お話があったのですが、夫は『二千石なら奉公いたします』と答え、交渉のために京へ向かったのです。」
浪人の素性を知った長屋衆は、白けた。失笑する者もいた。

佐治縫殿と言えば、富田信高に仕えて武勇を知られた士だったが、富田家を退転した後は小早川秀秋、
小早川家改易後は後藤又兵衛の家臣となり、大坂の陣後に浪人している、いわば『縁起の悪い侍』であり、
そんな男を先々代が『西国将軍』とまで呼ばれた大大名が高禄で雇うとは思えない。

これ以降、夫人を気遣う人はめっきり減り、口さがない者は夫人を『千石婆』と呼び、陰口を叩いた。


それからまたしばらく経ったある日。柳原の裏長屋に、金覆輪の鞍を置いた駿馬にまたがった立派な武士が
十人ほどの従者を連れ、やって来た。武士は勝手知ったる様子で長屋の片隅へ向かい、戸を開けた。

「すまぬ。遅くなった。」「お前様・・・・・・」

「佐治縫殿にござる。留守中、妻が世話になり申した。」空いた口のふさがらぬ長屋衆をよそに、
隣近所に丁重な礼を述べ、礼物まで贈った縫殿は、夫人を馬に乗せ西国へと去って行った。(常山紀談より)




248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 17:48:24.46 ID:mFoH9bix
「雨上がる」とか「武士の一分」的な映画の題材になりそうな話だ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 23:15:29.39 ID:utZ9DDNQ
牢人8年か

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 23:21:37.08 ID:iubtj+dh
自分で佐治縫殿にござる、という名乗りは妙だと思ったら縫殿の助ってことか


251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 23:24:32.84 ID:in7LcjBT
縫殿助(ぬいのすけ)

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 00:09:57.99 ID:zwzNmo3B
さじぬい か

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 12:46:52.48 ID:JRiJZDN0
なまじ武勇を知られるとその後の経歴が悪いとかえってそしりを受けるわけか
改易なんて本人次第でどーにかなるもんでもないし運が悪いと大変だな

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 13:16:19.43 ID:jjWVqCyv
縫殿助殿、殿が御殿でお呼びです

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 15:36:37.66 ID:RFcLmfKb
武士ならともかく、町人にしてみればずっと負け組みの人間でしかないからねぇ

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 20:04:21.98 ID:XMeqet5D
殿がつく官位は他に主殿頭(とのものかみ)なんてのがあるのか。
田沼主殿殿

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 20:08:22.14 ID:jQ1hMNTT
縫殿助殿、殿の命令により殿(しんがり)をお任せします

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 23:38:57.50 ID:tbpJN4Bp
そういや松平家忠が主殿助だね。

池田光政は生涯フキを食べなかった。

2012年02月09日 21:57

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 21:50:31.23 ID:aT/7iTip
初カキコついでに、今日の読売のコラムに乗っていた話を一つ。

岡山藩の名君・池田光政は、父親がフキ畑で討ち死にしたため、生涯フキを食べなかった。
あるとき、儒者の熊沢蕃山が軽口を叩いた。
「殿はお幸せですなあ。水田で最後を迎えていたならば、米を召し上がれませぬ。」
これに光政、「うん・・・」 と答え、そのまま黙り込んでしまった。
軽口叩いたつもりがとんでもない地雷を踏んでしまったと、蕃山は深く嘆いた。

しかし、wikiを軽く覗いたら親父さん病死って・・・あるぇー?

命にまつわる話題を軽々しくいった儒者の悪い話





29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 22:08:02.85 ID:aBXe/gc/
欸冬(フキ)畑で討たれたと伝わるは祖父の恒興だな

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 22:17:00.63 ID:9J7KTrdJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4354.html
確かに畑で討たれたようだ>恒興

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 22:39:42.35 ID:fQyb4ZDi
揚げ足取るようだけど祖父は輝政ですがな

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 10:35:52.29 ID:QurygYdp
っていうかなんで「革新」のグラだと抜刀してるんだろ?

名乗り出たのは、鍋島勝茂だった

2011年08月26日 22:30

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/26(金) 10:36:37.94 ID:VLpOzuAJ
寛永10年(1633)8月、徳川家光は品川沖で新造の御座船『安宅丸』の進水式を行なった。

百丁の櫂、四百人の水夫を用いたという巨船の進水式は、松平信綱・阿部忠秋などの重臣が早船で
周囲を警護する中、伊達政宗親子・池田光政毛利秀就ら江戸在番の大名を招き、大々的に行なわれた。

無事に進水式が終わり、祭事を行なって船の魂入れをした後、品川の海岸で酒宴が開かれた。

「♪舟より御下りなば、拷訴(拷問)を致そう。」「♪拷訴と言わば、捨身の行。」
「♪命を取ろう。」「♪命を取るとも、ふっと下るまじ。」

酒宴の座興で、池田光政伊達忠宗と組んで、能楽『自然居士』
(説法者・自然居士が、人買いの舟に乗り込み、売られようとしている子供たちを救う、という筋書き)
の謡をして、喝采を浴びた。続いて、金森重頼が仁王のマネをして受けを取った。

「…お船方にとりてはァ…お船祝いがござんするゥ…フゥフゥ…蓬莱山は、ハヒー沖の船で…ゼェゼェ……」
「もういい…!もう…休めっ…!秀就……!」
“松平(毛利)長門守秀就は、ふとり過たる人ゆへ大黒舞を舞ひしが、誠にふつつかなれば、
舞果てずして止みぬ。”(徳川実紀)

「さ、されば次は、それがしが領内に伝わる須古踊りを仕る!」
名乗り出たのは、鍋島勝茂だった。
エイヤットウ「♪あわずばかえれ かえれきみ このほどに さだめことばを まちれども……」
踊る勝茂の姿を、家光はじめ一同は黙って見つめた。

「……うっ……くっ………ぐっ、ぐははははははははははっ!!!」
見つめていたのだが、厳格をもって知られる池田光政が、真っ先にこらえ切れず吹き出したのに釣られて
爆笑の渦に包まれ、宴は盛会のうちに果てたという。


よかったね直茂さん、息子さんはしっかり成長(?)してますよ…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5695.html




239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/26(金) 20:59:13.14 ID:2/fmLTF6
>>236

輝元のときは気位があってワザと踊らなかったのか
下手で馬鹿にされるから踊れなかったのかと二通り見れたけど
今度は秀就を助けるためにワザと下手に踊ったか
それとも本当に下手だったのか、この前の逸話と並べてみると面白いね

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/26(金) 21:14:51.27 ID:sLZeWD61
>>236
自分はわざと下手に踊って流れを変えたとみたい
勝茂も大人になったんだろうか
それはそれとして、光政さんの爆笑姿がなんかツボったw 楽しそうだなあ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/26(金) 21:23:53.49 ID:3Ti9DVXE
もしも、直茂パパンが信之兄さん並みに短命だったら、「お前は何故、あのような下手な踊りを披露したんだ?」と説教食らってたと思うんです

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/26(金) 21:34:46.46 ID:ruwEWR6Z
徳川家光がいたからじゃない?別に勝茂側には毛利のご機嫌うかがう必要もないわけで
江戸期の外様大名って将軍の寵を競ってお互いにライバル心むき出しだったからさ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/26(金) 21:35:58.85 ID:sLZeWD61
それなら政宗が一番変になってないとおかしい!

244 名前:人間七七四年[[sage]] 投稿日:2011/08/27(土) 00:04:39.15 ID:DU5wA9HS
つか光政ってこの面子の中じゃ一番年下だよな
それが爆笑って非礼じゃないのか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 00:21:26.24 ID:M1RyOch3
まあそれは野暮ってもんだよ

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/27(土) 01:54:12.32 ID:eUzoBoEv
>>234
事実政宗は一番変じゃないかw