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武蔵守はその容貌の逞しさを感心し

2018年11月06日 18:07

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 18:22:37.48 ID:xOwWXg/m
元和元年(1615)丁卯夏に、また大坂御陣あり。貞泰(加藤貞泰)と松平本名池田武蔵守
利隆は同じく神崎口に属す。伝えによると、貞泰は謀を進めて陣を張ろうとした時、

松平武蔵守の軍士が貞泰の備の前に進んだ。この時、家臣の加藤主馬光尚は武蔵守本陣に至り、
「直に申し上げたき事がある」と言った。武蔵守が対面した時、主馬は近々と進み出て、

「御人数を御開き下さるべし」と言った。武蔵守は同意して早速人数を開かせ、これによって
貞泰は先陣となった。主馬は遥かに座を下り、「早速の御許容かたじけなし」と申し述べる。

武蔵守はその容貌の逞しさを感心し「時に甚だ寒い。酒ひとつ」と言うと、近習の者が大杯を
持って来て主馬に遣した。主馬は「仰せかたじけなし」と言って引き受け引き受け3杯飲んだ。

武蔵守は猶もまたその意気の凄まじさを賞し、また酒を差し上げると、主馬は辞退せずに再び
これを飲んだ。これより見れば、武蔵守と先陣を争ったのは冬陣の時であろうと言われている。

一書によると夏御陣の時は貞泰は中嶋口に向かい、落城の後に御暇を下されて米子へ帰ったと
言われている。

――『大日本史料(加藤光泰同貞泰軍功記)』


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菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

2018年09月13日 21:12


133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 21:23:53.83 ID:qWWCnxkC
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

慶長12年6月、駿府城の修築のため江戸から神君(家康)の荷物が送られていた。
国清公(池田輝政)は、船奉行の菅小左衛門に荷物の運送を命じた。
駿州清水で島津家の士が池田家の加子(船夫)に狼藉をして、加子四、五人に
怪我を負わせた後、江尻まで逃げていくということがあった。

そのとき小左衛門は陸にいたが後からこの由を聞くと、たった一人駆け出し
跡を追いかけて、島津家の家来が乗っている船に飛び込んだ。
奉行二人の内の一人と、下っ端を四、五人切り殺し、残った奉行を船の梁に
縛り付けて、自分の姓名をしっかり名乗ってから帰った。

当然このことは問題になってしまったが、(池田家臣の中では)
「小左衛門から仕掛けた喧嘩じゃないし、向こうが狼藉をしたんだから
 やむを得ないことなので、小左衛門は助命されるだろう」
という声もあったが、(幕府直参の)三浦志摩守が国清公の方へ参って
「喧嘩両成敗は天下の御法ですので、お助けすることは出来ないでしょう」
と言ったので、国清公もどうにも出来ず、小左衛門に腹を切らせることになった。

小左衛門はこのとき三十一歳だった。
死に臨み友人の安宅次郎左衛門に、遺言状を書き送った。

遺言状(『菅文書』)で小左衛門は父の惣兵衛について
「惣兵衛は年寄りなので、そちらの家に呼んで毎日慰めてあげて下さい。
 一、二年の間だけでもいいのでお願いします」
と、後事を託している。

小左衛門の子の九郎太郎は三歳だったが、父の知行四百石を与えられた。
九郎太郎が五歳のとき、(国清公は)家臣の石丸雲哲に
「あの九郎太郎は成長しただろうか、お城へ連れてくるように」
と仰せられたので、九郎太郎が登城すると国清公は膝元に呼ばれて
懇ろに仰せられたあと、菅若狭に守り立てるように命じられたという。

国清公が亡くなり興国公(池田利隆)が播磨に入ったとき、新参の者は暇を賜ったが
まだ十六歳で無役だった九郎太郎はそのまま仕えることが許されたという。


――『池田家履歴略記』



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:31:03.63 ID:a5yC5vEo
こんなんどうしたら正解だったんや

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:38:59.57 ID:oPuUvg4k
>>133
>加子四、五人に怪我を負わせた
これで五人も殺したのか…と引いてしまうのは現代の価値観かねぇ。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:57:17.33 ID:1fmrxVb6
>>134
黙っていたら腰抜けとして処罰
反撃したら両成敗で処罰
詰みである
…仕掛けられないようにつねに警戒してろって事かな
でも向こう見ずな奴はこっちの警戒とかお構いなしだろうしな

>>135
やられたらやりかえせな精神だなぁ…
こういうの見るとハムラビ法典ってなるほど穏健な方なんだなと思わされる

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:03:12.47 ID:MdIF2uXQ
やられたらやり返してよい、ただしそれ以上はやり返すなの精神と
やった方も応じた方も罰なの精神は割りと似ている気がする

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:25:24.85 ID:uGl7Zatq
長崎喧嘩みたいに徹底的に報復した後、先行して死ぬのが精神衛生上良さそう
どんなに精神強い人間でも沙汰待つ時は辛いだろうし

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 05:13:36.68 ID:joeuWfgB
>>135
綱吉による教化は本当に重要だったんだなぁ…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 10:10:59.23 ID:A3TosaDU
>>134
損害賠償を請求すれば良い。断られたら暴れる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:04:56.52 ID:ErgQINDx
武士の場合、損害より面目の問題なんだよなあ

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:28:59.19 ID:7tKdY49C
鉄砲玉の身分はそうだろうね

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:30:33.38 ID:uzG3c2Dm
室町時代から「故戦・防戦法」で理由の如何にかかわらず先に手出ししたほうを罪に問う、とやっても
ちっとも紛争を予防できなかった挙げ句の「喧嘩両成敗」なわけでな。

ちなみに江戸期を通じて「喧嘩両成敗」を適応した事例は、実は殆どないらしい。
法執行の側も、これが極めて理不尽な法であることを重々承知していた模様。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 16:39:09.53 ID:LoLm7Buv
赤穂事件も喧嘩両成敗の対象にならなかったしなぁ
あれは浅野が罰せられるのは当然とも思うが

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 07:34:05.39 ID:fSDtPYjS
どちらに理があるとか先に手を出したとか理非究明に時間がかかりすぎて評定が滞ったので家中の争いについては喧嘩両成敗にしたと言うのが実情だな

喧嘩両成敗を採用した大名も国衆の争いなんかは相変わらず理非究明をうたってるしね

その心持ちがないのは不孝だ

2018年07月25日 21:38

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:33:26.46 ID:IOR1qyBx
その心持ちがないのは不孝だ


池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。


――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。


斎藤織部落武者を助くる事

2018年07月06日 19:09

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 18:30:59.94 ID:/LwZ2lnk
斎藤織部落武者を助くる事

大坂落城の日、興国公(池田利隆)の士斎藤織部、黒母衣かけて西国道に落行く敵に追付
き、すでに討取らんとせしに、彼敵ふり顧りて、落武者の首取られたりとも、さばかりの
武功とも言うべからず。如何に助けられんや、という。斎藤、従者に差せたる相印の腰指
を与えて、疾く落ちられよ。見咎むる者有らば、池田が内の斎藤織部という士の従者ぞと
言われよ、と教えければ、忝き由謝して落ち行きけり。帰陣の後斎藤が友来たりて、大坂
にて落武者の中に我縁の者が候が、救け給い相印まで与えられし故、遁れ出でて密に参り
て斯く申せし、と言いけり。斎藤後人に語りて、我其時此武者を討たんは易し。されども
落武者の降参するを斬りたりとも、母衣懸けたる我に如何許の功名とかすべき。今は却っ
て奥深く覚ゆ。猥に人数を殺すのみを武と思えるは、大きなる僻事にてこそあれ、と言い
しとぞ。

(常山紀談)

 ずいぶん親切な。


我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

最早五十万石を領知する者は

2017年12月13日 19:35

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 



506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

池田利隆、生母との逢瀬

2017年12月07日 18:58

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 19:44:01.42 ID:wehhV3dI
池田利隆、生母との逢瀬


池田輝政の正室絲姫(中川清秀の娘)は、天正12年に利隆を出産し
その後病気になり実家の中川家に帰ったとされる。
『池田家履歴略記』では、絲姫は利隆の出産後に出血が収まらず
物狂いのようになってしまい、遂に治らなかったという。
真偽はともかく、輝政が督姫を継室に迎えた後も池田家と中川家には交際があり
関ヶ原前には絲姫の弟・秀成が輝政の仲介によって家康に忠誠を誓ったりするなど
池田家側からの一方的な離縁でなかったことだけは確かである。

『中川氏御年譜』でも、慶長13年に
中川家の大坂屋敷に住んでいた性寿院様(清秀の正室で絲姫の母)が
岐阜様(絲姫。輝政と共に岐阜城に住んでいたことがあった為そう呼ばれた)と
小長様(秀成の兄秀政の娘)と一緒に中川家の領地の岡へ向かう前に
"松平武蔵守利隆様"が三人の送別の為に饗応をしたとの記録が残っている。

利隆は絲姫のことを引き取りたいと、中川家の家老にまで書き送ったものの
大阪の陣前後の騒がしい時期であったため、遂に叶うことのないまま
絲姫は元和元年岡城において五十歳で亡くなり、西光寺に葬られた。



何宗であっても松を立てよ

2017年07月07日 17:33

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 10:57:24.12 ID:18PP1XD/
何宗であっても松を立てよ


ある年の十二月晦日に興国公(池田利隆)が櫓に上り
家臣の高木内記の家をご覧になったが門松がなかった。
「どうして門松を立てないのか」
と(利隆が)尋ねたので、内記は
「それがしの宗旨は一向宗であるので、いつも松かざりもいたしません」
と答えたが、興国公は
「何宗であっても松を立てよ」
と仰せられたので、すぐに御厨から人が来て門松を立てたという。


――『池田家履歴略記』

浄土真宗の門徒が神道由来の門松を避けていたというお話。



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 15:29:45.75 ID:uVcwbxIo
浄土真宗の人が自分のこと一向宗っていうんです???

池田利隆の乳母

2013年10月31日 19:19

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 17:35:45.16 ID:sbzUBMtC
池田利隆の乳母は古田甚内の妻である。ある日、利隆が門外で
遊び戯れていると、狂った僧が来て利隆を奪い、空室に入った。

衆人はただそこを取り囲むばかりであったところ、乳母は衣を持って
静かに落ち着いて僧に近づいた。

「とても寒いですから、どうぞしばらくその子を私に貸してください。
あなたがこの衣を着た後に、お返しします」と、乳母は僧に言った。

すると僧は利隆を放したので、乳母は利隆を抱いて離れた。

――『皇朝金鑑(日本智嚢)』




461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 21:12:53.66 ID:6wUnyXdP
乳母の機転は素晴らしいが、狂った僧って怖いな

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 14:10:14.69 ID:wzWHPK96
>>461
私、錯乱坊

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 18:36:20.41 ID:5XK1ent5
本願寺だ!

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 21:28:04.52 ID:KlJ4x1QH
>>462
運命(さだめ)じゃ

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 21:44:20.57 ID:VlTXoGo4
そのうち、うる星やつらのネタも通用しなくなるのだろうか…

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 23:47:33.83 ID:amd12zl7
うる星って、もう30年過ぎたのか

高木内記の殉死

2013年08月27日 19:50

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 18:20:53.14 ID:y6/AsSPv
元和二年、池田利隆が亡くなった。高木内記は起臥の愛を受けたというわけではないが、
無双の寵臣であった。これ故に高木は「かねてより覚悟したことなので殉死する」と言った。

これを番大膳と芳賀内蔵助は「内記が殉死するならば、私達も莫大な御恩を蒙った以上は
存命しがたい。しかし、一国の政事を執ってゆく二人が殉死することは、

幼君に対してこの上ない不忠だ。だから私達は他の人口などに拘らずに幼君を守り立てる所存だ。
どうか内記も殉死は止めてくれ」と理を尽くして留めた。

高木はひとまず二人に対して殉死を留まったのだが、かねてより思い詰めたことであったので、
利隆の死後、四十九日に当たる日より食を絶ち、その年の八月二十日に餓死した。

当時、高木の死は「世上の殉死よりもひときわ困難な死を遂げた」と評された。

――『埋礼水』




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 06:33:01.12 ID:Rf3PPeou
切腹より餓死の方が評価されるとは

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 07:48:09.50 ID:Xe/O/6xA
平盛国辺りに倣ったんだろか

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 11:09:46.68 ID:raFkBi0C
切腹はしないと約束しちゃったので餓死しました!

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 12:52:14.73 ID:PRTuB8UT
まぁ切腹の方が辛くはないだろからな・・・

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 13:49:38.83 ID:P2Log87N
番さんと芳賀さんの止め方も微妙だな
死なれるとおれたちの面目が立たなくなる
みたいな言い方はどーなんだろ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 15:10:28.41 ID:mvRMVnsr
正直でいいやん

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 15:17:14.22 ID:P2Log87N
まあそれ言ったら高木さんが一番正直だろ

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:02:36.98 ID:S0YR5kHe
ごくごく個人的な印象に過ぎないんだが、大膳を名乗る武将は多いけど、なぜかあんまり
いい場面で登場する記憶がない。

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:13:00.78 ID:PkBgnFPb
悪いスレで大膳が二人続けてでたからとか

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/28(水) 21:27:11.51 ID:3DKrPWwb
んじゃ弾正で

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/29(木) 11:01:33.74 ID:0AvAjFMu
>>986
既出の逸話でなら谷川大膳が居るじゃない。

稀にみる女体化戦国もので描かれたら一途なドジっ娘にされそうだが。

池田家の親子大膳

2010年11月14日 00:01

伴大膳   
251 名前:1/2[] 投稿日:2010/11/12(金) 22:02:11 ID:Pcp9T+QH
慶長19年(1614)、大阪城に置いて徳川への内応を疑われた片桐且元は大阪城から居城である摂州茨木に
逐電する。これにより大阪冬の陣が始まるのだが、この時のこと

泉州堺の津においてかねてから且元と心を通わせていた柴山小兵衛が大阪方の兵に攻められ困難な状況にある、
との知らせが入り且元は急遽兵を出した。且元の兵は、建部三十郎の収める尼崎まで至ると、茨木からの
兵だけでは心持たないと、建部三十郎に援兵を要請した。

建部三十郎はまだ幼少で、このころ尼崎城には建部の親類である池田利隆から、池田越前、宮城大蔵といった
武将が、兵と共に派遣されており、且元の軍はそれを知っていたため兵を請うたのである。

ところが尼崎の者達は且元の動向を未だ疑っており援兵を出さず、このため片桐軍は大敗を喫した。

このことは当然問題と成る。特に尼崎城に将兵を派遣していた池田利隆には世間からも、
大阪方に内通か!?と大いにとりざたされた。


さて、冬の陣の講和後、京の二条城において大御所、徳川家康直々に、この事件の詮議が行われた。
池田家からは宿老であり、家康からもよく知られている伴大膳というものが派遣された。

大膳は家康に対し様々に言い訳した。しかし家康の怒りは解けず、ついに

「今更色々言ったところで、現前に味方の兵が討たれていたのを見殺した事実は覆らぬ!
武蔵守(利隆)の心底、甚だ疑わしい!」

そう怒声を投げつけるとそのまま立ち上がって退出しようとした。その時である


伴大膳、脇差を後ろに投げ捨て、腹ばいに家康のものへと近づき小袖の裾にすがりつき

「これは何と情けのない上意でしょうか!?武蔵守(利隆)が御姫様(家康の娘で池田輝政の正妻督姫)の
お腹から生まれたのではないから、武蔵守をお孫とは思っていないということでしょうか!?

今、私の申し訳を聞きとどけて頂けないのなら、一体いつ、我が池田家の申し訳が聞かれることはあるのでしょうか!?」

そう、涙を流して訴えた。
家康は伴大膳のその姿に誠を感じ

「…よし。今お主の言うこと、聞き分けた。
早く帰って武蔵守に、安堵せよと伝えるが良い。」

これを聞くと伴大膳は手をあわせて平伏し、お礼を申し上げ急いで御前より下がった。



252 名前:2/2[] 投稿日:2010/11/12(金) 22:03:14 ID:Pcp9T+QH
大膳が退出すると家康は、その場に居た者達にこんな事を話し始めた。

「あの伴大膳の父親も大膳と言って、武蔵守(利隆)の父、池田三左衛門(輝政)がまだ若年で庄三郎と
名乗っていた頃、その馬卒をしていたのだ。

小牧長久手の戦の時のことだ。父勝入、兄庄九郎(元助)が討死したと聞いた輝政は、自分も討死せんと、
戦場に馬を乗りつけようとした。
ところが輝政の馬の轡を取っていたかの父の大膳は輝政の命を聞かず、輝政の乗るまま馬を
引き下がらせはじめた。

輝政は怒り狂い、『離せ!離せ!』と馬上より鐙をつけたままの足で大膳を蹴りつけた。
2,3町(約2,300メートル)の間蹴り続け、大膳は頭から血が滝のように流れだした。
だがそんな事も構わず彼は馬を退かせ続け、ついに輝政を無事、退却させた。

あの時輝政が討死すれば、池田の家も絶えてしまっただろう。今、彼の家が播磨一国の大名としてあるのは、
その大膳の働きによって生き残ったが故のことなのだ。

…さすがその親の子ほどもある。あの大膳も主のために自分の身を庇うことがなかった。
今の世にわしの前に出て、あれほどのことを言う者を、他には知らんよ。
武蔵守は、良き人を持っておられる。」

そう、機嫌よく語ったという。


池田家の親子大膳、についてのお話。




253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/12(金) 22:31:09 ID:Ef4tJDkb
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3216.html
この逸話の某の息子か

宿老までなるなんて、息子はえらく出世したな。
利隆は見る眼があったな。