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城には後藤という鋭将がある

2022年01月01日 17:19

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:38:14.04 ID:G5eAbucL
大阪冬の陣、大阪方が十一月三十日に天満、船場を自焼して城内へ撤退した時、天満、船場は
高家華麗に甍を並べていたため、火も甚だ盛んであり、明日まで燃え続けた。
この時後藤又兵衛が曰く

「(池田忠継の)備前勢が、この撤退を追撃して天満に入ってくるだろう。そのため壮士たちを
烟の下に伏兵として置いて、敵が侵入すれば不意に発して功名すべき。」旨を下知したため、
勇壮の士がここかしこに伏していたが、備前勢はみだりに近づくような事は無かった。
この予想の相違に対して悉く、後藤が己の武勇を誇って、恣の下知を下していると嘲る色が見えた。
しかし又兵衛は

「何事も時に依っては見積もりが相違するものだ。備前勢が必ず付け入るべき所で、疑義したのには
理由がある。池田忠継の相備に、花房助兵衛(職秀)が未だ存生で来ているのだろか。であれば
彼の意を加えたのであろう。」と言った。

冬の陣の御和睦の後、戸川弥左衛門が後藤又兵衛を招き宴会をした時、又兵衛は聞いた
「今回の戦で、天満、船場の外塁を自焼してその兵を郭の内に引き取った時、どうして
備前、備中の軍勢は城兵を追尾して討たなかったのか。」

弥左衛門曰く
「私の愚兄である肥後守を始め、烟に紛れて付き慕わんと進んだのだが、花房助兵衛がそれを固く制し、
『城には後藤という鋭将がある。恣に追撃して不覚をするべきではない。』
と言った為に、これを討たなかったのだ。」
と答えた。

誠に又兵衛が察したことと相違無かったという。

新東鑑



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/01(土) 13:59:36.06 ID:oWQyyJs/
慶長十九年十一月三十日は
グレゴリオ暦だと1614年12月30日
2日ずれてたら1月1日だったのが惜しい
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池田兄弟の活躍

2021年06月28日 19:16

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/28(月) 18:32:44.66 ID:5p3QGKF9
大阪冬の陣の際、
池田武蔵守(利隆)は、播州姫路より尼崎に取り付き、神崎川を渡り、中津川を越えようとした時、
御検視であった城和泉守(昌茂)がこれを止めようとし、池田家の家老と武論の言い合いをし、
武蔵守は止まること無く、船橋・投げ筏を以て中津川を越え、天満表より仕寄った。
後の城和泉守改易はこの為であった。

池田左衛門督(忠継)は備前より軍を発し、これも神埼。中島筋より取り寄せ、自身の采配にて、
大和田の渡を越えて、大阪より出撃した敵を数多く討ち取り、尽く追い崩して、野田・福島を取りしぎ、
その後仙波へ廻り、蜂須賀と陣を列した。
緒軍に勝れた働きによって両御所様(家康・秀忠)より御感状が下された。彼はこの時十六歳であった。

管窺武鑑

大阪冬の陣の緒戦における、池田兄弟の活躍について


謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



池田忠継 「鬼孫なり」

2018年12月03日 21:03

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:57:47.67 ID:c+sukp8m
池田忠継 「鬼孫なり」


龍峰寺様(池田忠継)御歳16歳、慶長19年大坂冬の御陣のときに初陣であった。
とりわけ美男であったが兼ねてから御病身でもあったので
陣中での機嫌(体調)を気遣われていた。
しかしながら、御家老・荒尾但馬(成房)、荒尾志摩(隆重)、和田壱岐(正信)を初め
諸士の大将・諸物頭などを大広間に集めて、御軍令を仰せ渡された。

(忠継は)此度の軍を天下泰平の御一戦と思われていたのか
「御当家は将軍家の御恩により、別に立てることが出来た御家であるので
 此度の御一戦限りと一心に思い出陣すれば、いずれも忠義を遂ぐべし」
と仰せられたので、但馬、志摩を初めみなその御忠志の程に感銘を受け、上下一同
感涙の涙を流したことを、瀏節但馬(荒尾成利・成房の長男)がよく覚えていて
興禅院(池田光仲・忠継の甥)へ御物語申し上げたと、伝えられている。

(中略)

大坂冬の御陣で忠継が大和田を御渡りになるとき、傅役の喜多村織部を先乗りさせ
敵陣を見た後、御馬を(川に)入れて御渡りになった。
御勇気比類なく敵を追い討たれた事を、権現様(家康)がお聞きになり
「鬼孫なり」
と褒め称えられたので、秀忠公より鉄楯を給わったという。


――『因府録抄』

家康は忠継に対して即刻感状を出したため、冬の陣の諸大名と比べて誰よりも早い
11月7日付け(ほかは12月24日付け)の異例の感状が残っている。
(参考:図録『館蔵品選集Ⅱ』鳥取市歴史博物館)


毛利孫左衛門、村山越中を詰る

2018年06月18日 19:04

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 19:45:36.52 ID:UyI9nnUz
毛利孫左衛門、村山越中を詰る

 大坂冬の陣の時の話。

 池田左衛門督忠継の使番、毛利孫左衛門が先陣に出向いたところ、村山越中が毛利に向
って、「俺、今朝からずっと前線に張りつきっぱなしで疲れたよ。指物も鉄砲に撃たれま
くってボロボロになった」という。

 それに対して、毛利は「俺は、500人の侍の中から選ばれて、母衣を許された者だ。お
前になど騙されない。お前は竹束の陰から出ていないだろう。その証拠に、指物の先の方
しか破れていない」と答えた。
 村山は返す言葉がなかった。

 常山紀談より意訳。

 ばつが悪い話。
 なんで、毛利孫左衛門、こんなけんもほろろな対応なんだろうと思ったけど、この村山
越中さん、かなり評判の悪い人だった模様。
 ウィキペディアの杉原重政の項目によれば、1601年に諫言した杉原重政を上意討ち。同
年、岡山城の金蔵から金を盗み出奔。3年後に池田忠継に仕えるが1616年に私闘で殺人を
犯してまた出奔。加賀前田家に仕える。しかし、周囲と争いが絶えなかったため、翌年暇
を出される。その後、備中で重政の息子、重季に仇として討ち取られる。
 かなりのトラブルメイカーで、おそらく池田家中でも、あちこちで衝突していたのだろ
うなあ。


870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 19:47:11.93 ID:UyI9nnUz
 上でやり込められた村山越中。
 他の軍記では、同じ大坂冬の陣で、剛勇を見せたという記述があったりもする。国会図
書館のデジタルコレクションに収録されている「武人百話:精神修養」という本では、橋
の上で、敵弾の下、友軍が放置した竹木縄を回収して、掃除して、自陣に戻ってみせたと
いうエピソードが収録されている。


我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

鏡石神社

2016年12月18日 10:46

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 10:41:21.49 ID:Wpo5C6J5
鏡石神社


岡山県備前市八木山にある鏡石神社の御祭神は日乃星照の命(池田輝政)で
その縁起は以下のようになっている。

八木山村に住んでいた八木浄慶は、この地方の蝋石を発見したといわれ
蝋石で仏像を造ることをなりわいとしていた。
備前市三石光明寺・西片上真光寺・蕃山正楽寺などに伝来する大日如来坐像
大滝山実相院の虚空蔵菩薩像などが浄慶作として知られる。

『備前孝子伝』によると、慶長7(1602)年に岡山藩主だった池田忠継の父輝政が
浄慶の親孝行の志が篤いことを聞き浄慶を褒め称え、永代扶持の高六石を与えた。
感激した浄慶は、その後慶長18年(1613)年に輝政が没したことを聞くと
蝋石で輝政の像を刻み、朝夕これを拝礼して輝政の恩に報いた。
また死に臨み、その子八木左衛門に僧となって輝政の像を祭祀するよう遺言した。

八木左衛門は父の遺言に従い出家して輝政像を祭祀することにしたが
母への孝心が厚いことを聞いたその時の岡山藩主池田光政が
「お前が出家して子孫が断たれるのは親への不孝のはじまりで
 輝政像を祀る者も絶えることになろう」
と諭したところ悔い改めたので、還俗させて八木左衛門復善と名乗らせ
十三石余を加増して二十石の土地を与え、八木山山中に祠を建てて
輝政の像を納めさせたので、左衛門の子孫が代々お祀りするようになったという。

池田輝政の像は今も同社の御神体として祭祀されており
万治三(1660)年に光政が与えた感状などが鏡石神社の神主の八木家に伝来している。


――『岡山県総合文化センターニュース No.412』



425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 10:54:08.32 ID:W3oghmAZ
>>424
MTMS「†悔い改めて†」
八木左衛門 彡(゚)(゚)「おかのした」

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/19(月) 10:50:32.72 ID:Gv33q/C1
父の遺言に従ったら親不孝の始まりといわれて悔い改めるとかいろいろ大変だ