我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから
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鏡石神社

2016年12月18日 10:46

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/18(日) 10:41:21.49 ID:Wpo5C6J5
鏡石神社


岡山県備前市八木山にある鏡石神社の御祭神は日乃星照の命(池田輝政)で
その縁起は以下のようになっている。

八木山村に住んでいた八木浄慶は、この地方の蝋石を発見したといわれ
蝋石で仏像を造ることをなりわいとしていた。
備前市三石光明寺・西片上真光寺・蕃山正楽寺などに伝来する大日如来坐像
大滝山実相院の虚空蔵菩薩像などが浄慶作として知られる。

『備前孝子伝』によると、慶長7(1602)年に岡山藩主だった池田忠継の父輝政が
浄慶の親孝行の志が篤いことを聞き浄慶を褒め称え、永代扶持の高六石を与えた。
感激した浄慶は、その後慶長18年(1613)年に輝政が没したことを聞くと
蝋石で輝政の像を刻み、朝夕これを拝礼して輝政の恩に報いた。
また死に臨み、その子八木左衛門に僧となって輝政の像を祭祀するよう遺言した。

八木左衛門は父の遺言に従い出家して輝政像を祭祀することにしたが
母への孝心が厚いことを聞いたその時の岡山藩主池田光政が
「お前が出家して子孫が断たれるのは親への不孝のはじまりで
 輝政像を祀る者も絶えることになろう」
と諭したところ悔い改めたので、還俗させて八木左衛門復善と名乗らせ
十三石余を加増して二十石の土地を与え、八木山山中に祠を建てて
輝政の像を納めさせたので、左衛門の子孫が代々お祀りするようになったという。

池田輝政の像は今も同社の御神体として祭祀されており
万治三(1660)年に光政が与えた感状などが鏡石神社の神主の八木家に伝来している。


――『岡山県総合文化センターニュース No.412』



425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/18(日) 10:54:08.32 ID:W3oghmAZ
>>424
MTMS「†悔い改めて†」
八木左衛門 彡(゚)(゚)「おかのした」

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/19(月) 10:50:32.72 ID:Gv33q/C1
父の遺言に従ったら親不孝の始まりといわれて悔い改めるとかいろいろ大変だ