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謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



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丸山豊後は武勇の名あり

2019年03月31日 21:24

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 19:35:04.80 ID:n3TCtUyB
丸山豊後は武勇の名あり。備前宮内少輔(池田忠雄)に仕え、常に直言して忌諱を避けず。

ある日の大臣饗で宮内少輔は起きて衣服を着替え、加藤主膳が刀を取って近侍した。主膳は
宮内少輔から男色の寵を受けていた。豊後はこれに言って曰く、

「用足しに行く時は、大人といえども屁をするものだ。御側に寄るな」
(行便時雖大人豈不氣泄哉勿逼近云)

宮内少輔はこれを聞き、笑って止まなかった。

(原注:一本にはこの一条なし)

――『老人雑話』



大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話

2018年08月24日 10:15

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:10:59.80 ID:t0gJgy7I
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話


池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。

さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。

その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。

池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。

蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。

実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は"一人もやっていない"と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。

さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。

そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
 十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:11:23.07 ID:t0gJgy7I
甲を脱がせると五十過ぎの老法師の首に見えたので、何の用にも立たない首でも
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。

大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。

このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。

十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。


――『雪窓夜話』



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 20:52:17.21 ID:kogqW73A
>>207
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)

淡路国をしてやったり

2016年12月27日 19:10

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 16:00:30.58 ID:7PUV8B8k
淡路国をしてやったり


慶長15年2月、池田輝政は駿府で家康に謁し、淡路国六万六千石を加増された。
これは三男の忠雄殿(このとき9歳)が賜ったところである。

この時に浅野幸長も登城していたので、世上の風聞では
「今日、池田浅野両家のうちどちらかに淡路を賜うだろう」
と言われていたので、両家の伴人は皆耳をそばだてて待っていた。

輝政が玄関から出てこられ、お供の士の安藤牟三郎をお呼びになり
「お前はどこそこに行って『今日御前において淡路を我にお預けになった』
 と言ってくれ」
と仰せられたので安藤は承り走り出たので、呼び返しになられて
「お預かりと申せ、拝領とは申すな」
と命じられたが、其の頃の天下諸士は闊達であるのが流行っていたので
安藤が下馬の橋を走り出たのを、傍輩が立ちふさがって
「安藤いかにいかに」
と言葉をかけると、牟三郎は扇を開いて頭より上に高くあげ大音声で
「淡路国をしてやったり、してやったり」
と叫ぶと、池田の士が不覚にも一度にあっと声を出したので
下馬中の一同はどよめき声は静まらなかった。


――『池田家履歴略記』



そのため彼らが放つ弾丸は

2014年12月20日 17:30

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/20(土) 13:26:51.83 ID:JiiCjlFq
 大坂冬の陣の時、徳川方の部将石川忠総が2300の兵で芦島という場所を占領した。
 そこは河口付近に位置し、潮の出入りがあった。石川忠総はそこの少し小高い場所に本営を置いた。
 そして、敵がいる馬喰ヶ淵の砦へ夜を徹して鉄砲を撃ちこんだ。兵士たちが河口の水に足をひたしながらも
懸命に射撃を続けたおかげで豊臣方の兵が芦島まで来ることはなかった。
 そうして対峙するうちに徳川方の池田忠雄の家来である北川久太夫という武士が一人で小舟を使って
敵の馬喰ヶ淵の砦を偵察しに行った。小舟はすぐに砦の敵兵に発見され、雨あられと鉄砲玉が飛んできた。
北川は小舟の中に身を隠してから隙を見て小舟を漕ぎ出そうとしたが、いつの間にか潮が引いていたので
小舟を動かすことが出来なかった。
 そこで北川は身を隠しながら、腰の薬袋から鉄砲玉を取り出して敵が撃つごとに鉄砲玉を川に投げ込んだ。
敵兵は自分たちの撃った弾が小舟よりも手前に落ちてると勘違いして、銃の照準を上の方に向けた。そのため、
彼らが放つ弾丸はことごとく小舟の上にそれてしまった。こうして、北川久太夫は潮が満ちるまでやりすごし、
無事に味方の陣地へ帰還できたのである。  (武徳編年集成)



413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/20(土) 20:18:52.44 ID:FteN32ff
いったいどんだけ鉄砲玉もって歩いてるんだよ

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 09:41:41.79 ID:LE8SGgmX
最大積載量 持てるだけ