池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)
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首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

2017年05月16日 16:44

養徳院   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 18:05:48.54 ID:Es7c86KE
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状


織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。

時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________

一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。

私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。

総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。

慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。

なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________

同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。


嘆きの中の喜びとはこのことです

2017年04月29日 16:44

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 15:51:31.95 ID:HmLp52Lk
嘆きの中の喜びとはこのことです


一部既出だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5244.html)
秀吉が小牧長久手で池田恒興・元助親子が討死した後に
天正12年4月11日付けで恒興母の養徳院にあてた手紙

 今度の勝入(池田恒興)親子のことは、簡単に申せることではありませんが
 其れ様が御力を落とし御愁嘆されているのは推量申し上げます。
 我々もこちらに出向き、敵にあって十町、十五町とやりあっていたところに
 親子の人の不慮があり私も力を落としたこと、数限りもございません。

一三左衛門殿(輝政)、藤三郎(長吉)殿、両人が何事もなかったことは私の
 嘆きの中の喜びとはこのことです。両人はせめて取り立ててこそ
 勝入の御奉仕に報いることになり、心に叶うことだと思います。
 
一其れ様が途方に暮れておられるだろうと存じていましたので、こればかり
 案じていましたが、ぜひとも賀を御致しになって御嘆きを止められ
 両人のことをお世話されれば、勝入親子の弔いにもなることですから
 是非とも頼みますので、御女房衆(恒興妻)にも力をおつけなさって下さい。

一そのほか残った宿老衆は、三左衛門殿につけるように致したいので
 その御覚悟をなされ御愁嘆を止めるようになさって下さい。

一勝入を見るように、筑前(秀吉)をご覧になって下さい。何様にでも
 馳走申し上げます。物参りもなされるように致します。
 心のままに物などを召し上がり、身を完調になさって下さい。

一浅野彌兵衛(長政)に申し含め御見舞いに行かせます。私もそちらへ
 参りたいのですが、只今は手前のことで参上することが出来ません。
 ここもとの暇が空いたら御見舞いに参り、そのとき勝入親子と
 親しくしていた話でもせめて物語り致したいと思います。
 何かにつけて其れ様の御心の内を推量し、御気の毒に思います。
 返す返す御女房衆にもこのことを申したく思います。
 孫七郎(三好信吉、のちの秀次)ですが、そこもとの配下が動揺していると知り
 (行きたいと言ったので)御城(大垣城)の留守居に遣わして参らせます。
 孫七郎めも命を助かったのですが、せめて三左弟兄[兄弟のこと]の為にと
 声を上げて騒いでいるのだと嬉しく思いました。
 詳しくは彌兵衛に申して下さい。


――『侯爵池田宣政氏文書』 



868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/30(日) 17:02:42.31 ID:srdj1iUc
武将なのに1人で突っ込んじゃうのは
組織の力発揮できなくてイクナイ的な
すぐ自分でやっちゃう上司に言いやすい金言ってありませんか?

徳川四天王のだと、文字数多い気がする。

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 17:14:40.67 ID:4wr/3SC2
>>867
今の軍隊の上司も部下が死んだら手紙書くんだろうか、書くとしてもここまでかけなさそう。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 18:08:47.19 ID:1GrJCw1u
ぺリリューて漫画では死んだ部下の家族宛の手紙を書くのも上官の仕事だって書いてたな

伊木清兵衛、池田輝政に家督を継がせ

2016年11月09日 13:37

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 01:44:51.50 ID:eCKCRg+Q
伊木清兵衛池田輝政に家督を継がせ


(小牧・長久手の戦いの後)ある人が語ったところによると
参州(三河)への中入りは勝入(池田恒興)が再三願ったから
(やらせたのに)そのせいで秀次は大いに敗軍した。
勝入と嫡子(之助、輝政の兄)などは猛将勇士といえども討ち死にし
秀吉は大いに(勝入が)不覚を取ったことを怒っていたので
勝入の跡目はどうなるだろうと危ぶまれていた。

勝入の家臣伊木清兵衛は元来秀吉と情が厚かったので
(輝政に継がせるように)度々申していた内に
(秀吉の)陣屋に輝政や他の家臣を伴って参上するように
指示があったのでいずれも参上した。

陣屋は秀吉がいる間は八畳、次の間は十二畳あるところで
輝政は敷居の内際、清兵衛は敷居の外際、森寺清右衛門・土倉四郎兵衛・
片桐半右衛門・日置猪右衛門・和田八郎等は清兵衛のあとに並んで俯伏していた。

「勝入の今までの居城、大垣は輝政に与える。
 輝政は年若なので老功の清兵衛を勝入同然に思うように。
 家老どもも清兵衛の差図に背くことなく輝政に忠勤をするように」

と(秀吉が)おっしゃったので、各々拝礼をして退出するときに
清兵衛が喜びの余り臥し転ぶ(体を地に投げ出して、あちこちと転げ回った)のを
秀吉が見て、喜びが身に余って見えるのは忠誠心からなのだなぁと感心して褒めたという。


――『池田軍功記』



307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 02:50:49.10 ID:DAC+KoZN
まるで犬

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 05:57:38.99 ID:UIGOKJU/
たそがれはかわいいなあ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 09:45:18.72 ID:ywcH1qs3
武者は犬ともいへと?

池田話三連発

2016年04月10日 10:04

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 00:04:29.42 ID:bPmoY5Ei
昨日になってしまったけど今日は小牧長久手戦の日ということで恒興の話に便乗して
池田話を三連発で。
(悪い話かなと思う微妙なのもあるけどそこは恒興の命日に免じて許してくだされ)

その壱
恒興が10才になった頃信長の遊び相手として信長に仕えることになった。
その頃、母養徳院は吉法師の麻上下(肩衣と袴と思われる)を拝領しており恒興が
仕えるにあたり信秀と謁見することになった時にこの上下を着用させた。
信秀はその恒興を見てその上下がとても似合っていると言ったという。
この上下には織田家の紋である蝶紋が入っていたが池田家でも代々蝶の紋を用いることを
この時に許されたそうな。

(池田勝入斎信輝公少伝)

その弐
恒興が13歳の時、同列の小姓と口論となった。
この小姓は信長のお気に入りでもあったが恒興が父無し子であったことを
普段からバカにしておりこれを元になじることも度々あったという。
(多分この日の口論もそれ絡みであったと思われるが)恒興は無念に感じながらも
信長の屋形でのことだったので憤りを押し込めその場を去った。
しかし憤りが収まらない恒興はこの小姓を待ち伏せし帰宅途中であったところを
バッサリと造作もなく斬り倒してしまった。
その場に居合わせた小姓の仲間達は一斉に刀を抜くと恒興に斬りかかったという。
近くにいたのか運良く森寺がこの騒然の場に来て恒興に斬りかかる者達を次々と
斬るなどして追い払うと恒興を連れ出奔してしまった。
信長は怒りまくったが帰参を許されるまでの間、森寺は信長の気性を知っていたためか
恒興を故郷の伊勢で匿っていたのだという。

(同少伝及び信長の逸話関連あれこれ等を加味)


その参
輝政は年をまたいで産まれたが生年決定で論議になった。
産気づいたのは子年だが産まれ落ちたのは丑年、さてどうするかといった具合である。
最終的に産土神である中村八幡宮に占って貰うことになり出た結果は子年であった。
そのため、輝政は以降子年生まれとされたという。

(同少伝)

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 01:12:10.50 ID:bPmoY5Ei
>580の補足を少し

その壱関連
池田履略で光政によると池田の家紋は蝶以前は釘貫だったらしい。
恒興戦死時に着用していた柿色の布が残っていたらしくそれには釘貫と丸貫の違い紋が
入っていたそうだ。
この布の所在地も書いてあったけど今もあるかはわからん。

その参関連
輝政の出生地、通説では清洲なんだが(池田履略も清洲)こっちでは小牧となっていて
当時の池田の館は小牧山山中にあったとされている。
館跡があるらしくここが輝政の出生地らしい。

その弐関連
こっちにも鉢巻話は載っていた。
戦も年代も違っていたりこの弐とつながっている感じではあるんだけど、具足を
用意しようにも金がないから養徳院に助けを求め彼女が集めた綾といった上質の布や
彼女の持ち物である鏡の類まで森寺は売って金を工面して古具足を調達したが兜はなく
鉢巻で戦に出たと大筋は合致していた。
だからどちらにしても若い頃の恒興が苦労したというのは間違いないなさそうかな。


小牧の日に恒興や池田家についての史料をじっくり見ることになったのも何かの縁だろうけど
個人的に楽しかった。
こういう縁を結んでくれたこのスレや鉢巻話レスに感謝!




池田恒興の若かりし頃のお話

2016年04月07日 13:58

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 00:02:07.84 ID:f9PHNxji
池田恒興の若かりし頃のお話

池田恒興は織田信長の乳兄弟だが、母養徳院が信長の乳母としてまた信長の父信秀の
側室として城に上がっていたため幼い頃より恒興の父親である池田恒利配下の森寺に
預けられ養育されていた。
しかし母親がそのような立場であっても特別に扱われるわけもなくその生活は決して
楽ではなかった。
そして月日が流れ桶狭間の時、周りの同輩の者達はこれが最期の戦になるだろうからと
鎧兜の類を良いもので揃えていた。
養父森寺も恥はかかせたくないとしていろいろ工面し養徳院にも助力を願い鎧はどうにか
用意することができたが兜までは用意できないままいよいよ出陣の時を迎えた。
事情を知った恒興は兜があるとかえって臆病になるからこれでよいと戦勝と安全を祈り
母自らが縫ったという鉢巻を付け今までの恩の礼を述べた後出かけていった。
かくして恒興は鉢巻姿で桶狭間の合戦に挑んだという。(池田略記他)

後世、信長と信忠を祀る建勲神社に池田家家臣が信長の忠臣達として彼らを描いた肖像画を
奉納したがこの中にある恒興の絵はこの逸話に倣い鉢巻姿となっている。


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自ブログに書こうと思っていたんですがここでは池田家関連はあんまりパッとしない話が
多いのととある池田関連ブログ由来の恒興異常な持ち上げ話が一人歩きしているようなので
牽制の意味も込めて書いてみました。



568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 23:33:56.98 ID:oMmc4p0+
江戸時代にあれ程栄えた池田家の始祖の苦労話

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 23:47:59.15 ID:nN/joG22
池田恒興って遅咲きだよな咲いたら死んじまったが

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:28:37.54 ID:YBc4GxC4
臣下の妻女を略奪して側室にするなんて尾張の殿様はキチガイが多いね

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 03:54:19.53 ID:ny74cQy8
恒興は子供時代から信長の遊び相手として召しだされてたというのに、
桶狭間(24歳)の段階でまだ森寺に養育されてたっていう話?
24歳なら信長の弟の元嫁をもらって、すでに所帯持ちなのにと考えると変な話

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 05:55:02.41 ID:3vef3Usw
織田の家中は信長にケツ掘られた奴ばっかやん
だから皆晩婚で若い時に子供が出来ないのさ

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 06:13:29.00 ID:pyx04zEo
利家「せやな」

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 19:13:31.17 ID:Hujt822F
>>571
書き方の問題なんだろうが桶狭間の頃まで養育されていたというわけではなかろう。
森寺は後見も担っていたから用意したとしてもおかしくはないよ。
同輩が立派な備えなのに我が子も同じと思われる恒興が見劣りするのは自分も
恥をかくようなもんだし所帯持ちだからといって立派な甲冑まで揃えられる程
裕福だったとは限らないと思われ。(良い甲冑は当時もかなり高価)

あと幼いといっても信長の元に出仕し始めるのは10歳の頃だしこっちもだからといって
楽な生活だったとは限らないわけで少し恒興を特別視しすぎなんじゃないかと。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 19:58:30.97 ID:ny74cQy8
特別視してる持ち上げ話の実態を知らないから、話についていけない
でもこの話も眉唾だよね。恒興が桶狭間に従軍したって事実なのか
岳父の荒尾善次が今川方についてるのに

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 20:38:27.51 ID:Hujt822F
俺は逸話を書き込んだ人間じゃないから持ち上げ話は自分もわからない。
特別視と書いたのは信長との関係なんかからそんな貧乏めいたわけがないと
決めつけ前提で書いているように読めたからなんだよ。
もし違ったら謝る、すまない。

池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔

2015年10月11日 19:23

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 13:03:43.17 ID:7oCeuLK0
池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔、美濃の豪族高木何某を暗殺したことがあった。
ある時江戸へと使いに行く森寺を高木の息子達が仇を取ろうと待ち伏せしていた。それを噂で聞きつけた森寺、わざわざ待ち伏せ場所にまで見に行くとそこには800人程が待ち受けていた。しかし森寺は堂々とその間を通り抜けていくが、何故か誰もかかってこない。
何事もなく通り過ぎた後、従者を使いに送って
「そこにいるのは本当に高木の倅共か?お前らの親の仇がここにいるぞ?どうしてかかってこないのだ。さあ、来いよ」と伝えさせたが、結局誰もかかってこなかった。
「あーあ、仇を取る絶好の機会だったのに。もう仇はとれないぞwww?」と森寺は笑いながら去っていった。

その後、高木は場所を問わず親の仇を取ることを許されたが、森寺にも身を守らせた上、「仇とれなかったら森寺の勝ち」というルールが決められた。
そこで森寺、火縄に火のついた鉄砲五丁・矢を番えた弓10丁、鞘を外した槍5本を持った家来30人を常に引き連れるようになった。秀吉の前に出仕した時も同様であり、殿中での帯刀を許されていた。
伏見城の落成を祝って諸大名が集まる中、周りから「今日こそ危ないからやめておけ」と忠告を受けたが森寺は意に介しない。いつもは持っている刀も従者に預けて手ぶらのまま、広間にいた仇の連中の間を堂々と通り抜けていき、そのまま帰っていった。

その後、慶長4年に病死という最期を遂げたそうだ。

『常山紀談』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8795.html
↑稲葉一徹の前で主君恒興への贈答品を粉砕した男のその後の話



砕けるものなら砕いてみよ

2014年09月27日 18:45

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:00:18.13 ID:XYmsWdGL
池田勝入の家臣に、森本政右衛門忠勝と言う者があり、彼は優れた荒武者であった。
この森本政右衛門が18歳の時のこと

勝入の元に、稲葉伊予守一鉄より備前焼の焼き物が贈られてきた。しかし政右衛門はこれを見て言った

「これは備前焼ではありません。偽物です。こんなもの、伊予守の面前で打ち砕いてみせましょうか。」

勝入はそれを聞くと
「それは無礼なことだ。しかし伊予守の面前で打ち砕くことが出来るものなら、打ち砕いてみよ。」

「どうして彼の面前で打ち砕くことが難しいでしょうか!」
そう答えると焼き物を持って稲葉一鉄の元に向かった。一鉄はそういうことだとも知らず対面すると、
政右衛門はその焼き物を取り出して

「これは備前焼にあらず、偽物でありますからお返し申す!」

そう言うと側の柱に打ち付けて砕き、そのまま走って逃げた。
この事態に一鉄は「そいつを止めろ!」と下知したが、政右衛門は逃げ延びて勝入の元へ帰った。

勝入は政右衛門の身を心配して門の内で待っていた所に彼は帰ってきて、「しかじかしました。」と、
証拠として砕けた焼き物の一片を見せた。
その後、政右衛門は勝入に申し上げた

「先程殿は、『無礼であるが砕けるものなら砕いてみよ』と張り合いをかけられました。
このように煽られては、若き者達は、例え骨を砕かれようとも必ずやってやると思うでしょう。
今回私が、逃げ切って帰ってこられたのは幸いでした。どうか、以後お慎み有りますように。」

(明良洪範)

森本政右衛門、稲葉一鉄の目の前で焼き物を砕く、というお話。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:14:21.86 ID:1tk20FeK
やれるもんなやってみろ(チラッチラッ)という主君のネタフリに応えたいい話じゃないか(白目)

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:25:58.62 ID:yY2ICs9n
鬼武蔵に家康がいない岡崎を攻めましょうといわれて、
よしやってみろと乗っかり不幸にも逃げ帰れなかったお話ですね

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 11:44:49.06 ID:Y4GRFGo0
>>375
池田勝入に森 ときたから、あの人の逸話か?
と思ったら別人だった。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 12:19:23.36 ID:iPkEM/Cw
四天王のあの方と森本を混同してたら成敗されるところだったセーフ

昨日の広言にも似ぬものかな!

2014年07月25日 18:50

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/25(金) 01:01:08.38 ID:MsYe8bme
姉川の戦いの前夜、織田信長の御前にて軍議が行われていた時、徳川家康
「今回の合戦は、二の手の働き次第で勝利を得るでしょう。」
と発言した。しかしこれを聞いた池田勝三郎(恒興)は

「どうして敵を二の手まで越させようか!」

そう傲慢げに発言した。家康はこれに「そのようにあってほしいものです。」と、
さにあらぬ体で席を立った。

さて、姉川の合戦が始まると、池田恒興の備は浅井の先鋒にさんざんに切り崩され、
酒井忠次の備に崩れかかった。
忠次はこれを見て

「おことは昨日の広言にも似ぬものかな!」

と言いながら、長刀の石突の部分で、恒興の馬の三途(馬の尻の方の、背骨の盛り上がって
高くなっている部分)を打つと、馬は驚いて恒興は落馬した。
その頃の人々は、池田常興が忠次によって落打ちにされたと、誤り伝えたこともあったそうである。

(落穂集)





永井伝八郎への加増

2014年04月03日 19:00

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 17:02:10.23 ID:hE78VDN9
永井伝八郎(直勝)は十五歳で、池田勝入(恒興)と家康公の合戦に初陣を遂げた。
父の頼みで、安藤彦兵衛が初陣の手引きをすることを引き受けたという。
合戦は池田方が負け退くと、家康公の軍勢はさらに本城へと押し寄せ、
勝入が打ち出てきたところ、彦兵衛が渡り合い、槍で倒した。
彦兵衛は伝八郎を呼び、首を取るよう促すと、伝八郎は倒れた敵に馬乗りになり兜をとりのけた。
顔を確認した伝八郎は、
「初首に坊主の首は嫌だ」
と言い立ち去ろうとすると、倒れながら勝入が、
「見事な心がけの若武者である。
ワシこそが日本に隠れもない武勇の大将池田勝人斎だ。
我が首を取りて、末代までの手柄とせよ」
と言った。
すると伝八郎は引き返してきて、首をかき落とし、家康公のお目にかけた。
安藤は自身がまず槍をつけたことを言わず、伝八郎の手柄としたのである。
その後、和睦ということになり、家康公は勝入の息子三左衛門(輝政)を婿とされた。
その婿入りのとき、三左衛門が是非とも永井に会いたいと言い出した。
家康公をはじめ皆の者が、どうしたものかと気遣ったが、永井はそれを伝え聞くと、
「三左衛門殿にとって、拙者は親の敵であるから、婿入りの肴に我が首を御希望されるのかもしれない。
そうと知り出向かないとあっては武家の門に傷がつく」
と言い、すぐに御前へと参上した。三左衛門は永井に盃をさし、
「我が父の首を、あなたは十五歳にして討ち取ったと伝え聞いています。
十五にして比類なき高名手柄、日本が日本である間はその武勇隠れもないことでしょう。
ところで永井殿は知行はいかほどいただいているのか?」
と尋ねると、話を聞いておられた家康公が、
「永井には七万石与えている」
と仰せになられた。
すると三左衛門は、
「これほどの剛の者には少なく思われます。
永井殿へ御加増くださるよう、拙者からお願い申し上げます」
と言うと、家康公はその場で十五万石への加増を決めたとのことだ 【葉隠】




694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 17:57:41.77 ID:tTCr7JUK
え、石高が史実の10倍以上になってない?

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 21:08:05.88 ID:Zuu52779
四天王超えである

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/04(金) 16:33:22.96 ID:o/J4rtuS
>>694
このちょっと数字を盛る感じがいかにも逸話っぽくていいね

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/04(金) 18:41:28.43 ID:v7DrC6jR
四天王が五人も居るんだから
石高が十倍だっておかしくない…(白目で)

輝政は栗を手に受けて

2013年08月26日 19:50

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 18:02:06.74 ID:vLA1EGRy
ある日、池田恒興は囲炉裏で栗を焼いて食べていた。この時、側には十歳ほどの輝政がいた。
恒興は輝政を試してみようとして「この栗が欲しいか」と尋ねると、輝政は「欲しいです」と言った。

そこで恒興は火箸で火の中にある焼栗を取り出して、そのまま差し出した。輝政は栗を手に受けて
押し戴き、何気ない様子で食べた。

――『名将言行録』




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 18:27:25.40 ID:U43fJV3M
リアクション芸人じゃないんだからw

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 19:24:24.41 ID:T+mlkPFf
そういや池田家じゃなかったっけ饅頭苦手な小姓に持たせたら、手が腐って死んだとか言う話

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 19:52:04.41 ID:2J+/Kijn
饅頭恐い

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:36:39.54 ID:NdSD+sXp
苦手とかそういうレベルを超えているなw

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 21:29:08.02 ID:n5dbDePS
そろそろ熱いお茶が恐ろしゅうございます

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 22:05:58.03 ID:LnviN91z
饅頭アレルギー?なんてあるのか

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 14:08:22.86 ID:3a8FtYZC
なにそれこわい

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 15:53:53.35 ID:tcK433oS
蕎麦アレルギー、米アレルギー、小豆アレルギー
↑饅頭に使いそうじゃね?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 15:56:19.95 ID:U2EEhzjR
小麦スルーしてどうする

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 16:01:26.87 ID:76msazCA
持っただけで手が腐って死ぬとか、アレルギー云々の問題じゃねーよwww

善悪報応の理は決しがたい

2013年01月29日 19:51

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 23:46:18.10 ID:aBPZahBa
善悪報応の理は決しがたい。細川はかつて不仁だったが、今子孫は盛んである。

池田勝入は信長の乳母の子で、城介殿や常真と同じ乳房に育った人だ。
常真に向けて弓をひく理はないのに、小牧の陣で太閤の黄金五十枚の賄にあざむかれて
常真の敵となった重悪の人である。

しかし、その子は備前、備中、播磨に手を伸ばし、因幡、伯耆に手を伸ばす子孫もいる。
一方で加藤肥牧(清正)などは律儀な人だが、子孫は既に絶えてしまった。

――『老人雑話』




329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 00:03:32.99 ID:piD4P2sK
ちょっとまって!
勝入入道と同じ乳房で育ったのは、城介殿や常真さんのパパの信長さんだと思うの・・・

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 12:14:37.59 ID:hpGkLg9I
息子たちの乳母も兼任してたんだろ
俺は50手前だがまだまだ元気で白いミルクがいっぱい出るぞ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 12:17:13.67 ID:d1qysb2o
こういう伝承ミスで構築される逸話の成立過程に興味がある

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 12:51:37.96 ID:e+3He9uu
老人雑話「なお武田や大内が滅んだのは当然の報い」

清須体制の成立前後の、情勢とその分析

2012年03月04日 22:34

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 08:06:20.03 ID:z1dbpBgd
「多聞院日記」、天正10年(1582)の記事より

6月29日
『大乗院(尋憲)殿が安土より帰られた。三七殿(織田信孝)から御念の入った御礼を受けたそうだ。
まずは大慶である。
伊勢の御本所(織田信雄)と三七殿との所領に対する存念が一致せず、諸軍勢が未だに集結したままであるという。』

7月6日
『天下の状況、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽五郎左衛門(長秀)、池田紀伊守(恒興)、堀久太郎(秀政)の、
以上5人によって分捕りのようにされてしまった。
信長の子供たちはいずれも取り立てられなかったという。浅ましい、浅ましい。』

7日
『天下の状況、本所(織田信雄)と三七(織田信孝)との所領に関する論争のため、両人共に三法師の
名代を辞任し、信雄は伊勢を取り、信孝は美濃ばかり。上野殿(織田信包)へは伊賀一円だと言う

柴田勝家は長浜一円二十万石、堀久太郎は城介殿(織田信忠)の子供たちの御守りを命ぜられ、
そのためとして近江の中郡二十万石。丹羽五郎左衛門は高嶋郡と滋賀郡、池田紀伊守は十七所、大阪を取り、
羽柴筑前(秀吉)へは山城国一円、丹波国一円(これは筑前の弟小七郎のもの)、西の丘、勝竜寺以下、
河内にて東ノ山以上、それらが概ね、秀吉の意のままになったようである。

それから下京六条に城を建設するという話だ。ここに三法師を入れ、その名代を置くことはなく、
先の五人、柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が常駐して意見申し上げ、盛りたてていくのだとか。

筒井順慶は大和国一円、宇智郡を与えられたそうだ。
これには羽柴秀吉が、筒井が所領できるよう熱心に運動したとのことである。
しかしこれで、大和は今後も静謐が保たれるだろう。

以上、このように相定まったが、かなりの問題が残されたままである。
なにより信長の子息達は大勢いるというのに、何れも全く取り立てられていない。
必ず何らかの狂いが出てくるだろう。』


清須体制の成立前後の、情勢とその分析の記録である。





256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 17:43:44.24 ID:NMWqnEVD
>>254
Q太郎パねぇ。清洲会議出てないよなwwww

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 18:29:51.94 ID:JM5TmENz
名人の立場もかなり微妙なとこだよな。誰からも気を遣われる

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:24:05.38 ID:okSBeQKy
キュッキュキュッキュキュッキュ久太郎はね御守なんだ御守なんだ御守なんだけれど(ゴメン)

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:25:15.00 ID:rACJ8lMi
信長が死んでなければ、長浜は名人のモノ

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 02:19:21.78 ID:y/4ZV0Ux
高橋名人か

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 17:29:42.68 ID:DCKxR8Nx
名人と蘭丸は同じ系統な気がするけど、蘭丸には森家の血が流れてるので....

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 18:15:28.02 ID:c/g9TG66
ヒャッハー!になるとw

森寺政右衛門忠勝「以後、ご自重あれ。」

2011年09月02日 22:04

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 00:32:59.02 ID:NkInj7FZ
出遅れた感もあるし、いい話か微妙だが引き続き池田勝入

池田恒興の家臣に、森寺政右衛門忠勝という男がいた。恒興の守役と言うべき藤左衛門秀勝の子であり、
若いころから恒興に仕え、伊木清兵衛忠次とともに恒興の両腕たる男であったが、「常山紀談」に
『優れたる荒者』と書かれるように武勇に優れ、そして荒々しい男だった。

ある日、恒興が政右衛門に徳利を見せた。「どうじゃ!備前焼の逸品だとか。稲葉一鉄にもらった物だ。」
徳利を見た政右衛門、一言「ニセモノですな。」
「何だと!?」
「今ごろ一鉄殿は、さぞかし笑っておりましょう。にっくき奴輩ですな。この徳利を一鉄殿の目の前で
割ってやったら、さぞかし痛快でしょうな。」
「そりゃそうだが、さすがに無礼だろ。というか、あの一鉄の前でそんな事、やれるモンならやってみろ。」

恒興の言葉を聞くが早いか、政右衛門は徳利を抱えて飛び出した。
「…いかん!アイツの気性では、本当にやりかねん!」

ようやく気づいた恒興だったが、時すでに遅し。屋敷の門前まで出てハラハラしながら待っていると、
政右衛門が五体満足で駆け戻って来た。「せ、政右衛門!お前、無事だったか!」
「おう、殿!これを御覧あれ!!」
政右衛門は懐から、首だけになった徳利を差し出した。
「やりやがったぁぁああ!!」

「使者と申して一鉄殿に対面し、縁側の柱に徳利を叩きつけて、木っ端微塵にしてやりましたわい。
『そやつを捕らえろ!!』と叫んだ一鉄殿の顔、殿にも見せてやりとうござるな。まあ、縁側に出ていた
おかげで、こうして逃げ延びて参りました。」
「な、何という事を……」

「殿が悪うござる。およそ人の主たる者、一言たりとも慎みあるべし。わしの発言は確かに無礼でしたが、
それを『やれるものならやってみろ』などと侍が言われれば、たとえ骨を刻まれようと、やらいでか!
今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。」




393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 00:38:47.83 ID:qltNker9
悪い話の方が良い気もするがw

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 01:05:13.46 ID:L6/ZS2/d
主君の失言に対し身をもって諌めた…といえば良い話なんだろうけど
そもそも政右衛門の偽物指摘が発端だからなあw

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 01:53:04.32 ID:2wEtdf1N
殿の胃腸がマッハ

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 02:22:38.95 ID:dqmKRenL
>今回、帰って来れたのも運が良かっただけ。以後、ご自重あれ。

これ一瞬恒興の言葉かと思ったら、割った本人の言葉なのかよw

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 02:58:07.90 ID:wNbJCAQ6
正直、どの辺がいい話か分からない
>>394の解釈にしても、失言ってほどでもないと思うしなぁ…

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 05:36:09.56 ID:hSSto5aG
政右衛門の度胸がいい話

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 05:56:11.51 ID:+Xlvpj6r
で、本当に偽物だったのかな?

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 06:39:41.89 ID:obEJMzYV
>>392
めんどくせえええええええ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/02(金) 07:17:33.71 ID:Os8P/mhs
一鉄の反応からして本物だったような気がw

秀吉、池田恒興の母親の養徳院に宛て書状

2011年03月23日 00:00

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 22:05:40.07 ID:o9Epjr9y
長久手の合戦の後、討ち死にした池田恒興の母親の養徳院に宛てたラスボスさんのお手紙。

息子さんの討ち死の報を聞きさぞ悲しんでいると思いますが、孫の三左衛門殿と藤三郎殿が
無事であった事が不幸中の幸いかと思います、私がこの両者を引き立ててあげようと思ってますので
お袋様のお嘆きは御尤もですが亡くなった勝入親子の供養のためにも孫二人の面倒を
お願いします。またお袋様がよろしければ私を勝入斎の代わりと思って下さい、どんなことでも
お世話します。またお袋様には物詣もなされるように取り計らいますので人の言う事も
良くお聞きになって身をご寛容になさって下さい。

で、その後もちょくちょく手紙を出してたようで。

「貴女様も私の母と同じようにお世話しますので私の母と一緒に京や堺に遊山にお出かけ下さい、
必要なものがあればご用立てしますので」みたいな手紙の内容が伝わってたりも。

ラスボスさんは池田恒興のお母さんに凄く気を遣ってるんだけど、若い頃に世話になってんのかいな?




460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 22:13:48.52 ID:aa+YH4EW
>>459
この当時の恒興がまだどちらかというと「協力してもらっている」感が強かったことに加え、
信長の乳母だったってのもあるんじゃないかと

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 23:40:42.08 ID:RN3Gn2ky
養徳院さんは池田恒興の母であり、織田信長の乳母であったと同時に
池田恒利と離縁して織田信秀の側室にもなっていたからな。

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 23:56:59.97 ID:6nevVd9t
養徳院見てきたけど94歳ってすげー

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/22(火) 09:00:20.60 ID:S2MJJPg7
かつての憧れの人だったりして
憧れだから強引に物にとかそんな気にならなかったとか?

織田信行謀殺事件

2011年02月15日 00:00

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/14(月) 01:41:58 ID:nyeM28P7
弘治3年(1557)、尾張、清須に置いて織田信長は病気と偽り、その実弟、武蔵守信行を
謀って招き、これを謀殺せんとする。
このとき信長は信行を殺すため、三人の士を潜ませた。

が、信行もさるものである。座敷に置いて謀を察すると、三人の刺客を巻き、いち早く廊下へと逃れた。
このまま信行の家臣団が控えているところまで行き着かれれば、城外へと脱出も不可能ではない。
信行の謀殺は失敗か!?と、その時である

廊下に控えていた池田恒興がとっさに信行を捕らえ、これを刺し殺した。
信長の謀があわや失敗するところを救ったのだ。
これにより信長の尾張統一が大きく進んだのは、言うまでもない。

織田信行謀殺事件に関する逸話の一つである。

結果はいいけど、これ自体はそれほどいい話でもないなと思ったのでこっちに。
(寛政重修諸家譜)




822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 00:31:59 ID:vTNhSUf/
>>804
命だけでなく嫁まで奪ってしまう勝入斎さんはやりてやなぁ~