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関ヶ原前の緊迫した通信事情

2022年10月04日 19:12

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/03(月) 19:27:03.40 ID:HQYAPPYE
慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた



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中納言秀秋は隣邑の領主を蔑ろにし、

2022年08月12日 18:56

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/11(木) 20:20:05.19 ID:n/mKMT7Y
関ヶ原の戦いの結果、中納言(小早川)秀秋は備前美作拝領の後、岡山に在城して威を震い、
隣邑の領主を蔑ろにし、領境忘れたように振る舞った。そのため、同じく関ヶ原の後、
備中庭瀬三万石を領し小早川領と接した肥後守(戸川達安)との関係も宜しくは無かった。

そのような中、小早川秀秋とその重臣の間の関係が悪化し、二名が小早川家を立ち退いた。
この両人の内、稲葉内匠佐は、肥後守を頼ってひとまず庭瀬まで立ち退こうと欲した。

この事を肥後守も承諾して、小早川領と庭瀬の境に堀切して橋を掛け、柵木等を用意し、専ら
防戦の支度をした。その当時は、宇喜多浪人の名の有る者達が所々に散在しており、彼らに対し
肥後守は合力致し置いていたため、いざという時は彼らが庭瀬に馳集まるはずで、そうなれば
備作両国の人数で攻めかかっても容易には取り潰されることも無いと見えた。

さて、稲葉内匠が立ち退く日限に至り、肥後守より池田市右衛門、森三郎右衛門という物頭両人に、
足軽五十人を付けて、境目の少し先の川にある白石という橋まで出迎え稲葉内匠を守護し、庭瀬へと
帰った。内匠は使者を以て

「段々の御手当を忝なく存じます。これを忘れることはありません。美作表を何の問題もなく
引き払った上は、これより直に立ち退きます。」

と謝礼した。そして肥後守は町口まで出て面会し、互いに式礼して立ち別れた。
内匠は児島下津井より船に乗って上方へ登った。

その後、小早川秀秋も肥後守方へ手入れがあって、
「近隣の事でもあり、誠に宿老の事、よろず頼みこれを存ずる」旨を申し越した。
故に、以後は肥後守も小早川家に出入りするようになり、庭瀬に秀秋卿を招待した時、
秀秋より大左文字の刀を送られ、肥後守からは通天と号した駿馬を送った。これは関ヶ原の
槍場で用いた馬で、無類の駿足であったものを進上した。それよりはいよいよ懇意になり、
肥後守は弟の戸川主水を秀秋卿へ遣わし、彼は備前に居住した。

程なく、秀秋は逝去して家は断絶し、その後には池田輝政が入国された。池田家とは殊に従来より
懇意であったので、隣邑となって、いよいよよしみ、親しくなった。

戸川記



巨盗に下されるのと同じこと

2022年03月12日 16:33

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/12(土) 12:58:33.65 ID:fmgbaJGW
長久手の役にて、池田勝入(恒興)、および嫡男の紀伊守(元助)が戦死したが、これに対し秀吉は、

「勝入は我に属すと言えども、その心中を察するに忠実では無かった。嗣を絶って勝入の家臣である
伊木清兵衛に六万国を与えよう。」

と、伊木清兵衛へその内意を伝えた。この伊木、元の氏は香川であったが、これより先、尾州伊木山の
群賊を滅ぼすという大きな武功を為した事を以て、苗字を伊木に改めたのである。

秀吉の内意に対し伊木は
「嫡男であった紀伊守様が既に没したと言えども、次男である古新様(輝政)には、将たるの器量が有ります。
願わくばこの古新様に勝入様の領地を賜り、池田の家を継がせて頂ければ、それは私のような田舎者を
大国に封ぜられるより超異の御恩となります。」

そう伝えたが秀吉は聴かず、これを受け入れるようしばしば厳命が下った。

伊木は大いに悩み
「命に従えば富貴を得、命に違えば死を選ぶか、追放されて亡ぶかのどちらかでしょう。
しかし主君の遺跡が絶えるのを患わず、自利を得るというのは、貧暴邪匿の凶人の成すことです。
そしてそのような者に郡邑を下されるというのは、偏に巨盗に下されるのと同じことであります。」

そのように歎き訴え続けると秀吉も、伊木の類い少ない忠貞節義に感じ入り、これによって
池田家の後継ぎとして古新を立てたのだという。

(志士清談)


大殿様は御討死されてはおりません

2021年05月05日 17:49

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/05(水) 15:56:59.97 ID:EaH3ck5c
長久手合戦にて、池田勝入公(恒興)が御討死に成ったと輝政公がお聞きに成り、敵陣へ
駆け込もうと成されたのを、伴道雲(大膳父ナリ)が御馬口に取り付き

「大殿様は御討死されてはおりません、御退きに成られたのを、私は見ました!
こちらの方にお越しになってください!」

と申し、無理に御馬を引き退かせた。

烈公間話



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 10:27:33.03 ID:saBtFYXk
物知らずで申し訳ないんだけと、池田さんとこの大膳とはどなた?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 11:11:11.57 ID:y9wa6Qwj
番(ばん)大膳景次
この逸話の番藤左(右?)衛門は輝政に助けたことを恨まれて恩賞をもらえなかったけど、
輝正の息子の利孝隆の代で恩賞を貰ったとか

岐阜城主十代衆

2021年05月04日 17:08

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 01:10:47.30 ID:ME61kjQd
(岐阜城の戦いの時)

時に池田三郎左衛門尉輝政は当城の案内者なので、城山の後ろ水手口から攻め上った。
さてこの輝政は案内者たること理なり。この頃“岐阜城主十代衆”と言い伝える事がある。

その衆は、斎藤山城守秀龍入道道三、一色左京大夫義龍、斎藤右兵衛大夫龍興、織田弾正忠
平信長、同三位中将信忠、同三七郎蔵人侍従信孝、池田勝三郎信輝(恒興)、同三郎左衛門
輝政、羽柴少将秀勝、中納言秀信なり。

輝政は右の十人衆の内なれば、よく案内を知る故についに攻め落とした。

――『美濃国諸旧記』



148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/04(火) 17:49:08.99 ID:xJbwI1WL
どうしても腕を組みながら高速で走り抜けるジャイアントな絵柄しか思い浮かばないのであった

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/06(木) 00:24:03.94 ID:VLdNf4zT
厳密に言えば
信孝没落後、恒興は大垣城に入って嫡男の庄九郎元助が岐阜城に入ったわけだが
1年程の話だから誤解、もしくは忘れ去られてるんだろうな

尾張家はこのように、御入魂であったのである。

2021年05月03日 19:08

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/03(月) 16:53:05.12 ID:xtvZpTjR
池田輝政様の御逝去の時、武蔵様(池田利隆)は江戸に在った。
帰国のための御暇を得る時分であったため、武蔵様にはこの事を申し上げず、お聞き無きように、と
御老中の内意であったため、御暇が出た後にお聞きになり、これへの御愁傷は大方成らないものであった。

直ぐに帰国の途につき、成宮にて尾張大納言殿(徳川義直)より、成瀬隼人正が御使として出られ、
その他にも御家来衆が武蔵様を迎えるために御出になった。

武蔵様の御愁傷の様子を隼人正は見て
「左様に御愁傷されていては、幼少の御舎弟たちを、今後お取り立てなさることも出来ません。
御酒を参らせられますように。」
と、御酒を乞い、先ず自分が中椀にて二つばかり呑み、武蔵様へ進上した。武蔵様が無理に呑まれた時、

「そろそろ潮時が良いでしょう。早く御船に召してください。」

と言って、実は未だ潮時の前であったのだが、御船を召された。しかし潮時前であったので
船が出されぬままであったのを、隼人正は股立を高く取り自身海に飛び込み、武蔵様が召した船を
押し出した。隼人正がこのような体であったので、他の尾張家の諸士も各々海に飛び込み船を押した。
これにより船は浮き出た。

池田輝政公の御妹は浅野紀伊守(幸長)の室であり、また尾張殿は紀伊守の聟君であった。
然れば、尾張殿の御内室は武州様の姪子である。それ故に、尾張家はこのように、武蔵様に対して
御入魂であったのである。

烈公間話



加茂郡加治田の城主は

2021年05月02日 16:40

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/02(日) 15:34:35.17 ID:wBTwM86N
加茂郡加治田の城主は  斎藤新五郎長龍 同子斎宮龍幸

新五郎(斎藤利治)は龍興(道三の誤り)の子なり。信長に仕えて天正13年6月2
日、京都二条の城で、明智の家来・内藤内蔵助利一(斎藤利三)のために討死す。

その子・斎宮は岐阜中納言秀信(織田秀信)の小姓だったが、慶長5子年(1600)
8月23日、岐阜落去の際、信友・足立中務・武藤助十郎とともに、白昼に女の姿で
出立ち、長良川を越えて北山に落ちて行った。

その子孫は松平大和守道基(直基)に仕える。また池田三郎左衛門(輝政)の家にも
いるという。

――『美濃国諸旧記』



池田輝政の死

2021年04月30日 16:56

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/30(金) 14:31:25.20 ID:s9vSCkNd
ある年の十月、物語されたことである。
池田輝政様が姫路に於いて右京殿(池田政綱)の屋敷にお越しになり、その日より御気色悪しく、
御城へと帰られたが、この時鳥が多く飛び来て、御駕籠に当たったという。これは春の事であった。

まもなく御快気され、江府(江戸)へ御参勤成された。同八月頃に御帰国、翌慶長十八年に、
また御気色が悪化し、その時、座敷の書院、床の障子にまた、鳥が数多飛んで来て当たったという。

まもなく、逝去された。これは加藤九左衛門が覚えており、光政様に物語申し上げた内容である。
輝政様の逝去は、慶長十八年正月二十五日、享年五十歳であった。

烈公間話



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 21:01:22.25 ID:ADexeFwu
弱った輝政を見て喰ろてやるチャンスだと思ったんやな

ただ一つ、申したい事

2021年02月24日 19:20

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

備前老人物語

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな

池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話

2021年02月05日 18:11

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:12:06.78 ID:LioMPBtl
池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話


・池田家が姫路城から出た後も、天守閣の五重目に池田輝政の具足や武具が残されていた。
 ところが酒井忠道が、天守閣で怪異に遭ったという理由で神社(刑部神社?)を作ってしまった。
 本当は輝政の甲冑が邪魔なので、しまうための口実が欲しかっただけだろう。

・土人(姫路の民衆)は池田輝政が作った姫路城の堀を「三左衛門殿堀」と呼ぶ。
 池田治政の室は酒井忠恭の娘だが、輿入れしたときに三左衛門堀と呼んでいたらしい。
 土人でさえ"殿"を付けているのに……。

――『思ひ出草』

酒井忠道も忠恭の娘も冠山と同時代の人物だがよっぽど印象が悪かったらしい。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:25:47.88 ID:P3bpF9A9
やっぱり転封の時の引き継ぎって揉めるんだな
酒井雅楽頭家は井伊と並ぶ大老を出せる家で表立って文句は言えんだろうし痛し痒し

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 18:28:53.75 ID:l/ixw+YE
>>542
まんが日本昔ばなしでもやってたね
天守の怪談

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 20:54:55.53 ID:ZxrGO+IB
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-193.html
鍋島直茂と佐賀城の幽霊 ・悪い話

こっちの刑部姫はちょっとかわいいのに

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11015.html
池田輝政への呪い

こっちはおそろしい

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
ついでに妹の猪苗代の亀姫

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:33:41.25 ID:yYnETLgR
>>543
検地帳を燃やしたり青田刈りする気狂いもいるしな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:51:19.31 ID:Fns5OabQ
>>546
地主とのトラブルが一番ヤバいもんな

謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



薩摩国の習いは硬口であり

2020年08月12日 17:23

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 16:50:43.48 ID:4yYz9Hx3
慶長十二年六月頃、九州島津の使者が駿河に下り、駿府に在府中に、船に乗り遊君を召し連れ遊んだ。
酒興のあまり、見苦しきことも有ったのだろうか、当時駿府の普請を行っていた普請衆がこれを見て
嘲り笑った。

薩摩国の習いは硬口であり戯言を知らず、笑われた事を恥辱と思い、喧嘩を仕掛け闘争に及んだ。
それぞれの小者たちは退散したが、池田三左衛門(輝政)家中の者たちは残り留まって戦い、島津の使者を
搦め捕った。

後日これは追放されたが、かの者は恥辱であるとして、切腹するので、相手も成敗されるようにと
奉行衆に届けた。奉行衆は「この事は我々では治めがたいものです」と徳川家康に言上した。

こうして池田三左衛門家中で、この時の普請物主と、島津の使者、両人が成敗された。

当代記

喧嘩両成敗ですね。



250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 17:03:28.69 ID:NzwLtqdx
江戸末期とやってること変わらんのか

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:21.61 ID:mb3/KsK0
島津とかいう蛮族

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:46.48 ID:tsLUhoru
薩摩弁と播州弁(尾張弁?)の喧嘩か

彼は時分を待っているのではないか

2020年08月09日 18:14

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 12:42:13.86 ID:2a8mygWz
慶長十一年の頃、江戸の普請中に福島左衛門大夫(正則)と池田三左衛門尉(輝政)の間で云い事が
起こりかけた。どういう事かと言えば、福島正則の下女が欠落ちをして池田輝政の屋敷に居たのだが、
正則の中間が輝政の屋敷の外を通った時に彼女を見つけ、門内に入り台所の前に押し付けこれを捕らえた。
しかしそこに池田家の侍中間が出てきて、「狼藉者である」として、この中間は搦め捕られた。

福島正則はこれを報告されると
「国を出る時、家中の上下に触れたように、今度の江戸普請中、喧嘩致すべからず、人に頭を叩かれたとしても
堪忍した者には褒美を与え、喧嘩を仕掛けた者は一族妻子まで同罪とするという旨を下知しておいたのに、
このような儀は是非に及ばない。三左の屋敷に搦め置かれた中間、并びに女をこちらに返されるよう使いを
以て述べ、返し遣わされればこれの首を刎ねる。
この中間を搦め捕った三左衛門の中間たちに関しては、あい構わず、折檻などなさらないように。」

このように正則より申し入れがあり、輝政も「神妙の御存分、承った。」と申し、正則の宿所に自ら赴き、
礼謝に及んだ。正則も翌朝、輝政の宿所に参り、「昨日の御出忝ない」と申し述べたことで、この件は
無事に落着した。

この左衛門大夫正則という人物は短慮かつ荒々しく、被官以下は常に戦慄していたのであるが、
今回このように神妙な存分は奇特であると、その頃の人々はみな感じ入ったという。
また「彼は時分を待っているのではないか。」とも云われた。

当代記



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 12:53:13.60 ID:v6EIud7L
伊奈図書の時と大違い

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 13:05:51.10 ID:UMJ2Jo/g
この時代の人はすぐに感じ入るよな

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 17:04:49.08 ID:fVDrMUUd
正則がシラフとか
この時期何かの病気だったんじゃないか

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 21:09:46.74 ID:ngSxZ2q8
酒が入っていなければ名君

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/10(月) 00:12:12.55 ID:wPKUX87e
暴走族が捨て猫を拾うと褒められる理論でもある

加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」

2020年05月27日 18:19

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 16:35:46.90 ID:rwYxnWI8

池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記



池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?

御両君の御心合し候

2020年02月11日 12:36

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:15:59.58 ID:AgX5X1rx
御両君の御心合し候


興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。

このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。

津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 02:06:41.23 ID:H65jIjyD
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

伴道雲が御馬口に取り付き

2019年09月02日 15:53

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 21:03:18.90 ID:J7AQ/r7P
長久手にて勝入公(池田恒興)が御討死致されたと輝政公(池田輝政)は御聞きになられ、
敵陣へ駆け込もうとなされた。

これを伴道雲(原注:大膳の父である)が御馬口に取り付き、「大殿様は御討死ではあり
ません! 御退きになられたのを私は見申した!」と申して、「こちらへ御越しなされ!」
と申し、無理に御馬を引いて退いたという。

――『烈公間話』