池田輝政への呪い

2017年10月29日 19:16

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 18:50:14.36 ID:TyHBz7w9
池田輝政への呪い

1609年(慶長14年)、城が完成して間もない12月12日の日付で、池田輝政に宛てた不気味な手紙が届いた。

それには輝政と夫人に天神(天狗)が取り付いて呪いを掛けようとしている。
「その呪いを解いて欲しいのなら、城の鬼門に急いで八天塔を建てて、大八天神を祀れ」と書いてあった。

これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。
そこで輝政はさっそく刑部神社を場内の三門内にお迎えし、祀ることにした。

ところがそれからも悪いことが続いた。
1611年(慶長16年)には、輝政がついに重い病気に倒れた。
そこで今度は、呪いの手紙に書いてある通りに、呪文を解く護摩祈祷を行い、
八天塔を刑部神社の横に建てると、輝政の病状は回復した。
その喜びも束の間、1613年(慶長18年)輝政は呆気なく亡くなり、その子供たちも次々に若死にした。

やはり、刑部大神の祟りに違いない。
「誰も居ないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、大勢の人が泣き喚く声が聞こえる」
噂はその後も消えなかった。


ソース元 姫路城周辺情報サイト↓より
ttp://castle-himeji.com/dic/a/osakabe/



206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 08:06:02.47 ID:YhjL3Wh0
これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。


池田輝政「何で太閤殿下や秀頼公でなく、私が呪われるんですかねぇ?」

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 08:22:55.65 ID:HvVIgT7R
だって引きこもりだよ?
遠出するなんて無理無理

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 11:58:06.47 ID:6fXAveTk
天守閣から年1回しか出てこない刑部姫w

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:00:25.06 ID:p2EHdXT7
>>207
妹は遠く猪苗代から生首持参で遊びに来るくらいアグレッシブなのに、お姉さまの方が干物姉なんですか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 12:10:47.86 ID:NdoPDHxu
そも狐なのか蛇なのか

211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:18:37.77 ID:G+3TkRin
>>210
妹は亀姫だけど、猪苗代城近所の田んぼで大入道に扮した大狢が退治されたらお城で怪異が起きなくなったとか…
ひ、姫じゃないから別の妖怪だよな…

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 13:10:42.29 ID:awjLPz8q
引きこもりにご利益がある、
とすれば参拝?が増えるかな
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鬼松出たか、堀出たか

2017年10月19日 21:18

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 20:19:59.21 ID:QI+GkoqQ
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 10:46:43.50 ID:XGaKRpq4
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 20:28:54.82 ID:nnJM5Bc+
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

輝政公関ヶ原行軍順見の事

2017年09月16日 21:54

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:54:49.52 ID:KtXQnXKS
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 03:19:31.94 ID:eamhuJlz
当たり前じゃ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 08:11:09.45 ID:goG3qGCB
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

下間頼広の出奔と栄転

2017年09月04日 18:23

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ

君の為にして自ら為にせざるときは

2017年08月23日 18:23

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 03:06:48.06 ID:0sMZAtSc
秀吉が朝鮮を征伐した時、池田三左衛門尉輝政は船奉行の中村九郎兵衛に命じて兵糧を
肥前名護屋に船で運ばせた。中村は提灯2,3百と太鼓3,4十を買って名護屋へと到った。

時間は巳の刻で潮の状態も良かった。しかし中村は玄海ヶ島に船を止めてわざと日暮れを
待ち、亥の刻になって船を漕ぎ入れた。そして2,3百の提灯に火をともして連れ、3,4
十人が太鼓を打ち立てると、火の光が海中に写り、太鼓の音は城の上に広く響いた。

秀吉が使者を遣わして、「何者ぞ?」とお尋ねになったところ、「輝政の家来・中村九郎兵衛
が兵糧を漕いで来た船である」と答えた。秀吉は元来華美を好んだので中村の迎合は甚だ
秀吉の心に適い、すぐに秀吉は中村を朝鮮に渡海させなさった。

中村が朝鮮に到ると合戦はすでに無くなっていた。(中村朝鮮に到れば軍すでに解けぬ。)
その時、兵糧はまさに尽きるというところだったので、諸将は大いに喜んだ。

これは誠に中村に才略があったとはいえ、虚名であって実際の功ではない。しかし、主君の
ためであって、自分のためにするわけではない時は、少しは認めるべきであろう。

(是誠に中村才略ありと云へども虚名也、実功にあらず。君の為にして自ら為にせざるとき
は少しくゆるすべし。)

――『武将感状記』


近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」

2017年07月09日 10:46

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 23:27:44.34 ID:PtOrjCfS
 関ヶ原の時、三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤(吉次)は、
父大坂に同心したりといふを聞きて、宇都の小山を忍び出で、居城岡崎に帰りけるを国清公(池田輝政)聞し召し、
竹村半兵衛を召され、「我吉田に帰るまで民部を牛窪に押へとどめ置け」と仰せらる。
竹村、「これは安き事には候はねども、いかさま計ひて見候はん」とて道に出迎へ、
鉄砲の者を百姓の家に隠し置き、具に支度を言ひ含め、其の身は山のせばみに出で出で待つ所に、長胤来られり。
竹村、「池田三左衛門ひそかに申せと申すことの候てこれに出で候」といへば、
長胤馬廻りの人を遠ざけられしかば、竹村静かに歩み寄り、
「別の子細も候はず、押留め申せと三左衛門下知したるよ」といひもあへず、
左の手に長胤をひしとらへ、一尺ばかりの脇差を抽いて長胤に押し当てたり。
従者ども、「こは口惜しや」と怒れどもせんかたなし。
竹村言葉をかけ、「近く寄られなばわれは殺さるるとも民部殿をば刺貫き申さん。
唯押留め申すのみにて、別の事は候はず」と呼ばりける処に、
百姓の家に伏せ置きたる鉄砲の者ども駆集り、鉄砲を長胤に差しあてて、
「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」と声々に呼ばはりけり。
長胤力無く竹村に従ひて百姓の家に入れば、押止めて四方を堅く守りけり、
かくて東照宮聞し召し、「父は既に味方になれる上は許し候へ」と仰せられしかば、
長胤則ち出でられけり。
(常山紀談)


長顕、軍に従えないことを憤って

2017年07月07日 17:34

79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/07(金) 06:18:01.37 ID:E7nZay3K
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 06:26:22.82 ID:E7nZay3K
いい話に書いちゃったけどまあいいか


我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

牧野成里、池田輝政の仲介により帰参

2017年06月07日 18:54

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 02:05:06.33 ID:MvKnZtxw
牧野成里池田輝政の仲介により帰参


牧野伝蔵成里は十六歳で父の仇を討って当家(徳川家)を立ち退き
久留米侍従(長谷川)秀一や関白秀次に仕えた。
関白の事があってからは、石田三成に仕え関ヶ原の戦でも石田方にいたが
大敗したので兵十余人ばかりを引き連れ、大敵の中を切り抜けて
池田輝政の所に来たので、輝政は播州に(伝蔵を)伴って帰った。
そのまま輝政の所に身を寄せ、剃髪し一楽斎と名乗った。

(伝蔵が)播州で輝政に(徳川家への)帰参の事を乞うたが、年月を経ても
その沙汰がなかったので、ある時播州から伏見に参り輝政に向かって
「させもが露も年ふりし」*
などとほのめかせば、輝政は
「まだそのような折ではない。成里は先に帰国するように
 我もまた見はからうとしよう」
と言って慰めた。
その後(家康の)御夜話に侍する者に、(輝政は)この後折を見て
成里の事を言い出してくれと頼んだ。

ある夜(家康が)三遠にいらっしゃったときの話だが、いつもより機嫌よく
伺候している者の膝近くまで御座を進められ、近づかれて来られたので
牧野伝蔵と板倉四郎左衛門が縁故のあることに話が及んだときに
「伝蔵は今も永らえているようですよ」
と一人が申し上げた。
君(家康)はどうとも思っていないような様子だったので、みな固唾を呑んだ。

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/08(木) 09:44:40.99 ID:49cEHkDI
この時輝政も御次の間の襖際に蹲って仰せを聞いていて
「(この上は加増された備前に代えても伝蔵の事を執り成さねば……)」
と思っていたが、(家康が)江戸の者を呼べと仰せられ
(近臣が)鵜殿兵庫重長がおりますと申したところ
「兵庫を江戸に遣わして
 『ここで勇士を一人掘り出したので差し上げる』と申せ」
と仰せられたので、輝政が喜びを堪えることが出来ず
御次の間から走り出て、上意に対してありがたいと感謝すると(家康は)
「成里は大剛の者なので永らえていて喜ばしく思ったのだ」
と仰せられたので、輝政は
「近日召し連れてまみえさせます」
と申せば
「我が会うまでもない。江戸に遣わし将軍家にまみえさせよ
 幸い明日は酒井忠世が井伊直政を連れて江戸に参るのでそれと同道させよ」
と仰せがあった。

輝政が御前を出ていこうとしたところ、近藤石見守秀用の一族の某が
輝政の袖を引き
「秀用の事もこの機会にお許しを願って下さい」
と言った。輝政は
「牧野の事だってかろうじてお許しをもらったのだぞ。秀用の進退など
 どうして気にされることがあるだろうか。我が力の及ぶ所ではない」
と拒めば
「あの方が今日ほど御機嫌のよいことはまたとないことでしょう
 ぜひともお執り成しになって下さい」
と言ったので、輝政が再び御前に出て申し上げると
すぐに恩免をもらえたので、輝政は言うまでもなく
秀用の喜びも尋常ではなかった。

かくして成里は江戸に参り、還俗して旧名に戻り三千石の新地を賜った。
のちに叙勲して伊予守と称したという。


――『東照宮御実紀』『武徳編年集成』

*百人一首に選ばれている藤原基俊の和歌
「契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり」の隠喩。
基俊が息子の官職を人に頼んだが得られなかったときに詠んだもの。



天下は御前に参るでしょう

2017年05月29日 18:37

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 01:32:19.40 ID:N9Ip1c+w
天下は御前に参るでしょう


萬治四年の二月三日、備前において(池田光政が)焚き火をされているとき
五郎八様(池田政種)、信濃殿、八之丞殿、猪右衛門殿に御咄された。

「関ヶ原御陣に大坂の諸大名衆が人質を出したときのこと
 話に出る津田左京は大坂での留守居を首尾よく務めたので
 輝政様は殊の外御機嫌であった」

「その左京は左源太にとってはなんだったか……父か祖父か」
と言って重次郎(左源太の息子)を召され御問いになると
「祖父です」
と(重次郎は)申し上げた。
「父は何と云ったか」
と(光政が)仰せられたので
「彌次右衛門と申します」
と申し上げた。
そこにいて聞くようにとの御意だったので(重次郎は)御前に伺候した。

(光政の)仰せに曰く
その左京は粗忽者だったので輝政様へ
「斯様に御前が御全盛であれば、追付天下は御前に参るでしょう」
と申し上げると、輝政様は殊の外御機嫌を損ねられ
「常の者(無役)ではないので、成敗を申し付けるところだが
 左京は若く子細があるので免じる。
 再び免じることはないので、つつしむように」
と仰せられた。

「子細と仰せられたのは大坂の留守居のことだろう」

「このことについてよく覚えていたので咄したが、その時分は
 輝政様は御威勢が夥しく、姫路はもちろん備前にも諸大名が
 上り下りに寄られた。また輝政様が駿河に御越しのときには
 尾張様(義直)、紀州様(頼宣)などが阿部川まで御出迎えになられたという」


――『有斐録』


養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状

2017年05月16日 16:44

養徳院   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 18:05:48.54 ID:Es7c86KE
養徳院、孫の池田輝政に宛てた遺言状


織田信長の乳母だった養徳院は、慶長13年10月16日に94歳で死去した。
非常に長寿だったために、実子と共に義娘である善応院(輝政母)にも
先立たれた養徳院は、慶長4年には輝政に遺言状をしたためている。

時期ごとに計四通あるが、以下は慶長8年に書いた最後の遺言状。
__________________________________

一筆書き置きます。私は八十九になり時間がありませんので申します。
私が果てましたら、長良の真福寺・鵜飼のあたりの知行八百石は
太閤様(秀吉)の御朱印通り相違ありません。
桃巌様(信秀)、総見院様(信長)より長らく知行されていることを
太閤様が御改めになり、そのまま長良八百石を賜ったのですから
妙心寺の桂昌院と護国院に、私が果てましたら寄付して下さい。
もし不届き者が何か申しましても、堅く仰せ付けて下さいませ。

私が果てましたときには、人の知らない内にすぐに焼いてしまって
志の事はあり次第で茶湯料にもすること
宙外(桂昌院の住持)へ申し置きます。
儀式よろずのこと御無用と、宙外へは堅く申し置きますので
後々の二寺のこと御油断なく御心懸けなさって下さいませ。

総見院様の御為に桂昌院は建てました。
護国院は勝入(恒興)の為、六親(親族全体のこと)の為に建てました。
ですから御油断なく御肝煎りして下さいませ。
其れ様皆々が御繁盛されているのを拝見してから
仏になることに満足しています。
返す返す二寺のことを頼みますので、詳しく申し上げておきます。

慶長八年三月廿一日の天赦日に書き置きます。めでたくめでたくかしく。

なお、今の大府様(家康)も、私に御目を懸けて下さいますので
(このことを)詳しく御申し上げになって下さいませ。
__________________________________

同年の2月12日、家康の将軍宣下の同日に輝政は少将に昇進している。


天下の干城

2017年05月09日 21:31

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/08(月) 22:35:32.82 ID:QgdMaSn8
天下の干城


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9934.html
↑の話の別バージョン

国清公(池田輝政)は烈祖(家康)の愛婿である。
播備淡三国を領し、恐れ多くも時の人はさかんに西国将軍と呼んだ。

人となりは剛毅にして沈静で、上には恭順に勤める。
倹素で珍玩を嗜まず、婦女を近づけない。
かつて亡命していた材武の士を招いて
米穀・金帛をもって撫養し、危急のときの備えとした。

常に人に語っていたことは
「人主は多くの士を養い、厳しく武備して
 天下の干城の材にするべきで、財を繋ぐべきではない」


――『池田志』

材武:「史記」から、才能と勇武があること。
干城:〔「干」は楯の意〕「詩経」から、楯となり城となって国を守る武人のこと。


嘆きの中の喜びとはこのことです

2017年04月29日 16:44

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 15:51:31.95 ID:HmLp52Lk
嘆きの中の喜びとはこのことです


一部既出だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5244.html)
秀吉が小牧長久手で池田恒興・元助親子が討死した後に
天正12年4月11日付けで恒興母の養徳院にあてた手紙

 今度の勝入(池田恒興)親子のことは、簡単に申せることではありませんが
 其れ様が御力を落とし御愁嘆されているのは推量申し上げます。
 我々もこちらに出向き、敵にあって十町、十五町とやりあっていたところに
 親子の人の不慮があり私も力を落としたこと、数限りもございません。

一三左衛門殿(輝政)、藤三郎(長吉)殿、両人が何事もなかったことは私の
 嘆きの中の喜びとはこのことです。両人はせめて取り立ててこそ
 勝入の御奉仕に報いることになり、心に叶うことだと思います。
 
一其れ様が途方に暮れておられるだろうと存じていましたので、こればかり
 案じていましたが、ぜひとも賀を御致しになって御嘆きを止められ
 両人のことをお世話されれば、勝入親子の弔いにもなることですから
 是非とも頼みますので、御女房衆(恒興妻)にも力をおつけなさって下さい。

一そのほか残った宿老衆は、三左衛門殿につけるように致したいので
 その御覚悟をなされ御愁嘆を止めるようになさって下さい。

一勝入を見るように、筑前(秀吉)をご覧になって下さい。何様にでも
 馳走申し上げます。物参りもなされるように致します。
 心のままに物などを召し上がり、身を完調になさって下さい。

一浅野彌兵衛(長政)に申し含め御見舞いに行かせます。私もそちらへ
 参りたいのですが、只今は手前のことで参上することが出来ません。
 ここもとの暇が空いたら御見舞いに参り、そのとき勝入親子と
 親しくしていた話でもせめて物語り致したいと思います。
 何かにつけて其れ様の御心の内を推量し、御気の毒に思います。
 返す返す御女房衆にもこのことを申したく思います。
 孫七郎(三好信吉、のちの秀次)ですが、そこもとの配下が動揺していると知り
 (行きたいと言ったので)御城(大垣城)の留守居に遣わして参らせます。
 孫七郎めも命を助かったのですが、せめて三左弟兄[兄弟のこと]の為にと
 声を上げて騒いでいるのだと嬉しく思いました。
 詳しくは彌兵衛に申して下さい。


――『侯爵池田宣政氏文書』 



868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/30(日) 17:02:42.31 ID:srdj1iUc
武将なのに1人で突っ込んじゃうのは
組織の力発揮できなくてイクナイ的な
すぐ自分でやっちゃう上司に言いやすい金言ってありませんか?

徳川四天王のだと、文字数多い気がする。

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 17:14:40.67 ID:4wr/3SC2
>>867
今の軍隊の上司も部下が死んだら手紙書くんだろうか、書くとしてもここまでかけなさそう。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 18:08:47.19 ID:1GrJCw1u
ぺリリューて漫画では死んだ部下の家族宛の手紙を書くのも上官の仕事だって書いてたな

岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

我と等しき芹好き

2017年04月02日 16:46

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:13:42.79 ID:6QFGocbe
我と等しき芹好き


(池田輝政は)常に芹を嗜まれて、備前国御野郡に生えるものを上品として
この芹を取ることを禁じられた。
ある士がこれを盗んだので、百姓達はそのことを萩田庄助に訴えた。

庄助がそれを(輝政に)伝えると
「さてさて憎きことかな、それはただ取ったのか、あるいは盗んだのか」
と仰せられたので、庄助は盗んだのですと申した。
「我が留め置いた芹を、強引に取ったのならひとしお憎いことだが
 盗んだということは、きっと我と等しき芹好きではないだろうか
 そのままにしておくべし」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』


猿楽の日の論争

2017年03月24日 16:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 12:18:57.67 ID:EesewEeL
猿楽の日の論争


三河での話だろうか、(池田輝政が)あるとき御祝の猿楽を設けられた。
そのとき、今日は誰でも大きな音を出して踏み歩くのは構わないが
もし論争などする者があれば弁明させずに処罰するべしと命じられた。

自らも猿楽をなさっていたとき、拝見している者の中で口論が起こり
既につかみ合いになっていたため八田八蔵、梶浦太郎兵衛などが
走っていって取り鎮め双方を預け置いた。

御前に戻ると(輝政が)
「さっきは騒がしかったが何事だ?」
と尋ねられたので太郎兵衛は
「あれは山椒にむせていた者を傍に居た者が介抱していたのです。
 遠くから見ると誠に喧嘩のように見えました」
と申したので、国清公(池田輝政)は承知なさって
「それではもうよくなったか、汝が見て帰れ」
と仰せられたので、太郎兵衛は参り
「もうよくなりました」
と申した。

晩に件の両人が御前に伺候すると
「今日の山椒は"出来事"だったな」
と仰せられたという。


――『池田家履歴略記』



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 09:45:10.89 ID:5MyGKhHW
山椒でむせるのが戦国なのか
七味でむせるのが江戸
コショーでむせるのが昭和

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 15:28:12.93 ID:UDgSMzCB
後の山椒大夫である

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:29:23.26 ID:G7jiN6nF
江戸時代、うどんの薬味として七味が発明される以前は、
胡椒をうどんにかけていたそうな。
この胡椒がいわゆるブラックペッパーの事かどうかは知らん。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:37:47.41 ID:CqLihekp
山椒大夫というか安寿と厨子王は江戸時代より前だろう

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:54:11.56 ID:6BVBn8UD
九州の方じゃ唐辛子を胡椒と呼ぶらしいが

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:07:22.55 ID:BUdxZnGN
「胡椒」は唐辛子を意味する古語[1]。九州一部では方言として残り、ここでは一般的な「コショウ」ではなく「唐辛子」の事を指している。なお、「コショウ」は「洋胡椒」と呼んで区別する。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:22:10.84 ID:/jAVy11V
胡椒が日本に伝わったのは唐辛子よりはるかに前

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:32:07.07 ID:cp3xw1UF
落語の「くっしゃみ講釈」
(ある講釈師に恨みを持つ男がその講釈をくしゃみでめちゃくちゃにしてやろうと
最前列で胡椒を燻べようとするが、八百屋で売り切れていたため唐辛子を燻べる、て話)
のオチが九州ではできないな

男「この講釈師、いかさま師、おたまじゃくし
お前のくしゃみを聴きに来たわけじゃないわい」
講釈師「はっくしょん、あんた、私になにか故障(不満)がおありか?」
男「胡椒がないから唐辛子を燻べたんじゃ」

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 20:13:42.58 ID:3QnhJZkp
山椒にむせてたとか信じている馬鹿はいないよねコレ(´・ω・`)