池田輝政の立身について

2018年04月19日 18:28

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 17:03:26.34 ID:IiAJoYMQ
池田輝政の立身について


備前宰相殿(輝政三男・忠雄)は光政様(輝政嫡孫)に輝政公の御立身について

「輝政公の御立身は古今にないことだ。遠国を数ヶ国公方より恩領した人は
 いるかもしれないが、輝政公は自身の武功によって切り取ったのだ。
 輝政公が家康公より備前播磨淡路三ヶ国を残らず拝領したことは無類の
 ことである。その上美作は森武蔵守殿(輝政の姉婿)の縁者が治めていて
 阿波国は家臣の出羽(輝政甥・由之)と縁続き*で隣国に姻戚がいるのに
 数ヶ国下されたというのは、無双の事である」

と仰せられていたという。


――『烈公間話』

*池田由之の正室は蜂須賀家政の長女


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阿房丸

2018年03月19日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

慈悲なる覚悟

2018年03月02日 18:05

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 16:04:32.52 ID:WpYcxGcE
慈悲なる覚悟


以下は小牧・長久手の戦いで織田信雄が秀吉と単独講和した直後に
秀吉が池田家臣・伊木忠次を通じて池田輝政に送った書状。

 
わざわざ申し遣わします。

一こちら(伊勢国)では、長島・桑名へ押し詰め城を数か所に拵えたので
 そのまま秀吉が縄生城に越年して長島を攻略しようとすると
 信雄は考えついたのか和睦を懇望してきたのでそれに同心しました。

一人質は信雄の実子ならびに源五殿(織田長益)の実子と、滝川三郎兵衛尉(雄利)
 中川勘右衛門尉(定成)、土方彦三郎(雄久)、松庵(新庄直忠)以下はいずれも
 実子か母が人質に出ます。いかようでも秀吉次第と誓紙を出させました。

一北伊勢は向こうに渡し、今度拵えた城は敵味方ともに破却となりました。

一尾張では、犬山・甲田には秀吉の手勢を入れ、そのほかの新しく作った城は
 敵味方ともに破却となりました。

一家康も信雄同様に和睦を懇望しています。
 しかしながら信雄が若人を引き入れて、秀吉に対して重々不届きを働いたので
 すぐにでも三河へ押し詰めて思い通りに申し付ける覚悟でいましたところ
 家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
 よいと言っているようです。
 それと同時に信雄も外聞があるので詫び言を入れ、色々懇望してきたのですが
 秀吉の家康に対する恨みは深いので、まだ思案が落着していません。
 許し置けない者について、日頃から無念を晴らすつもりでいたのですが
 とにかくこちらに任せる様子であると聞いたので、私は慈悲なる覚悟をもって
 過半は許すべきでしょうか、心中難しく思っています。

一右のようになっていますので、全てが決着すれば十五日には馬を納めることに
 なるでしょうか、またおいおい申します。

かくのごとく申し遣わしたところ、家康がしきりに懇望するので
人質を受け取って済ませることになりました。そのように心得て下さい。    

  十一月十三日      秀吉(朱印)
    伊木長兵衛尉(忠次)殿 



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 13:50:38.76 ID:eEeAEuPX
>>566
>家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
>よいと言っているようです。

これって石川数正は出奔でなくて人質ってこと?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 15:39:44.19 ID:ilBYxqGL
人質となった翌年出奔した

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 04:07:31.30 ID:W/C92D4S
>>571
秀康を届ける役だから、送った後帰るまでは人質(証人)扱い

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 08:07:46.17 ID:F2HxrR4q
家に帰るまでが○○というやつですな

紀伊守殿は利口ぶっている

2018年03月02日 18:04

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 00:03:44.89 ID:P+np5evY
紀伊守殿は利口ぶっている


浅野紀伊守(幸長)殿は(池田)輝政公の妹婿であるが、仲はよくなかった。
(輝政公は)紀伊守殿は利口ぶっていると言って嫌っていたという。

尾張の名古屋城普請の時、紀伊守殿が口の上手い者を使者にして
輝政公のところによこして
「このたびは名古屋普請ですので、駿府や江戸に向かわれる際は立ち寄って
 普請を見ていかれるべきだと存じます。輝政公も御立ち寄りあるべし」
と申し伝えてきたが、輝政公は同心されなかったので、その使者を呼ばれて
「いかにももっともなことです。浅野殿は尾張殿(徳川義直)の御筋目に
 なられたので一段と分別が付いたのですね。私も立ち寄った方が
 首尾よく進むのでしょうが、私は不知恵者なのでこのようなことを
 するべきだとは気が付きませんでした。このような分別を一度しても
 続けられるとは思いませんから、立ち寄ることはないでしょう」
と拗ねた御返答をした。

浅野殿はこのような拗ねた返答はあんまりだとご立腹されたという。


――『烈公間話』


天下に名ありし者ども

2018年02月11日 16:32

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 03:48:33.01 ID:kn27m74I
天下に名ありし者ども


関ヶ原の戦いの後は、功名がある浪人が多くいるようになった。
池田輝政公は播州へ御入国された後、"天下に功名を顕す者"と聞けば
禄の多少を選ばず、その人相応に召し抱えられていたので
我も我もと浪人が御当家を望んで来るようになった。

浪人の取次は若原右京に仰せ付けられていたので、表向きは若原が
勝手に奉公構の浪人などにも堪忍料を遣わしたことになっているが
実は輝政公の御意向からしたことであるという。

輝政公が御逝去された後、御葬儀の場で大勢の浪人たちが
「今世に希なる名将と別れたことは身の不幸である。最早世に望みなし」
と御霊柩を拝し、御儀式が終わると姫路城下から離散した。
このときの浪人の家が因幡(鳥取池田家)には多くあるが
これは忠継公忠雄公光仲公の御代に改めて召し出されたのである。

浪人を密かに扶持しておいたのは"天下に名ありし者ども"だからだろうと
古老が物語したのを國府内蔵之丞が聞き及んだので、話の由を聞いた。


――『因府夜話』



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:42:30.03 ID:JSpUq3d3
>>630
忠継と忠雄は岡山時代に召しだして国替えの時にまんま鳥取に
移動したのか長吉(恒興三男で初代鳥取藩主)やその息子と
利隆や光政が召しだしたのが鳥取に土着していて国替えの時に
鳥取藩士として残ったのかそのあたりがよーわからん
少なからず忠継と忠雄が鳥取藩主として召しだしたというのは
まずあり得んのは確かだけどな

どうして一張の弓をもって

2018年02月04日 17:19

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 11:42:28.57 ID:RnpmeMsj
どうして一張の弓をもって


(池田輝政の)船奉行、菅若狭*1は雪荷*2が村取り*3した良弓を持っていた。
国清公(輝政)がそれをご覧になり
「さても引き心地のよい弓かな」
と言われたので数日弓を留め置いた後、弓を返した。

そのとき(若狭が)この弓を大久保何某に贈ってしまったので(輝政の家臣の)
中村主殿がこのことを、(輝政と)話をしたときに何気なく申し上げたところ
(輝政は)意外にもお怒りになり、悔しいことと仰せられた。

丁度そのとき菅が出仕してきたため、伺候していた者は手に汗をかいたが
(輝政は)菅を呼び出すと、普段より懇ろに菅と談話され、鴨の羹を与えられた。

その夜、主殿が伺候して
「あのように気遣いされるのは、御軽薄なことです」
と申すと、国清公は笑われて
「どうして一張の弓をもって、勇功の士に換えられるだろうか」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』

*1 淡路水軍の菅達長の次男で小早川秀秋に仕えていたが、その死後輝政に仕えた。
*2 弓術の流派、日置流雪荷派の祖の吉田雪荷のこと。
  雪荷の村取りの技術は天下に名高いと言われていた。
*3 和弓の額木や関板を鉋や小刀で削って仕上げること。


黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。


浅井の御娘は秀忠に

2018年01月07日 18:01

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』


池田利隆、生母との逢瀬

2017年12月07日 18:58

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 19:44:01.42 ID:wehhV3dI
池田利隆、生母との逢瀬


池田輝政の正室絲姫(中川清秀の娘)は、天正12年に利隆を出産し
その後病気になり実家の中川家に帰ったとされる。
『池田家履歴略記』では、絲姫は利隆の出産後に出血が収まらず
物狂いのようになってしまい、遂に治らなかったという。
真偽はともかく、輝政が督姫を継室に迎えた後も池田家と中川家には交際があり
関ヶ原前には絲姫の弟・秀成が輝政の仲介によって家康に忠誠を誓ったりするなど
池田家側からの一方的な離縁でなかったことだけは確かである。

『中川氏御年譜』でも、慶長13年に
中川家の大坂屋敷に住んでいた性寿院様(清秀の正室で絲姫の母)が
岐阜様(絲姫。輝政と共に岐阜城に住んでいたことがあった為そう呼ばれた)と
小長様(秀成の兄秀政の娘)と一緒に中川家の領地の岡へ向かう前に
"松平武蔵守利隆様"が三人の送別の為に饗応をしたとの記録が残っている。

利隆は絲姫のことを引き取りたいと、中川家の家老にまで書き送ったものの
大阪の陣前後の騒がしい時期であったため、遂に叶うことのないまま
絲姫は元和元年岡城において五十歳で亡くなり、西光寺に葬られた。



池田輝政への呪い

2017年10月29日 19:16

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 18:50:14.36 ID:TyHBz7w9
池田輝政への呪い

1609年(慶長14年)、城が完成して間もない12月12日の日付で、池田輝政に宛てた不気味な手紙が届いた。

それには輝政と夫人に天神(天狗)が取り付いて呪いを掛けようとしている。
「その呪いを解いて欲しいのなら、城の鬼門に急いで八天塔を建てて、大八天神を祀れ」と書いてあった。

これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。
そこで輝政はさっそく刑部神社を場内の三門内にお迎えし、祀ることにした。

ところがそれからも悪いことが続いた。
1611年(慶長16年)には、輝政がついに重い病気に倒れた。
そこで今度は、呪いの手紙に書いてある通りに、呪文を解く護摩祈祷を行い、
八天塔を刑部神社の横に建てると、輝政の病状は回復した。
その喜びも束の間、1613年(慶長18年)輝政は呆気なく亡くなり、その子供たちも次々に若死にした。

やはり、刑部大神の祟りに違いない。
「誰も居ないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、大勢の人が泣き喚く声が聞こえる」
噂はその後も消えなかった。


ソース元 姫路城周辺情報サイト↓より
ttp://castle-himeji.com/dic/a/osakabe/



206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 08:06:02.47 ID:YhjL3Wh0
これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。


池田輝政「何で太閤殿下や秀頼公でなく、私が呪われるんですかねぇ?」

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 08:22:55.65 ID:HvVIgT7R
だって引きこもりだよ?
遠出するなんて無理無理

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 11:58:06.47 ID:6fXAveTk
天守閣から年1回しか出てこない刑部姫w

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:00:25.06 ID:p2EHdXT7
>>207
妹は遠く猪苗代から生首持参で遊びに来るくらいアグレッシブなのに、お姉さまの方が干物姉なんですか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 12:10:47.86 ID:NdoPDHxu
そも狐なのか蛇なのか

211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:18:37.77 ID:G+3TkRin
>>210
妹は亀姫だけど、猪苗代城近所の田んぼで大入道に扮した大狢が退治されたらお城で怪異が起きなくなったとか…
ひ、姫じゃないから別の妖怪だよな…

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 13:10:42.29 ID:awjLPz8q
引きこもりにご利益がある、
とすれば参拝?が増えるかな

鬼松出たか、堀出たか

2017年10月19日 21:18

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 20:19:59.21 ID:QI+GkoqQ
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 10:46:43.50 ID:XGaKRpq4
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 20:28:54.82 ID:nnJM5Bc+
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

輝政公関ヶ原行軍順見の事

2017年09月16日 21:54

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:54:49.52 ID:KtXQnXKS
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 03:19:31.94 ID:eamhuJlz
当たり前じゃ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 08:11:09.45 ID:goG3qGCB
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

下間頼広の出奔と栄転

2017年09月04日 18:23

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ

君の為にして自ら為にせざるときは

2017年08月23日 18:23

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 03:06:48.06 ID:0sMZAtSc
秀吉が朝鮮を征伐した時、池田三左衛門尉輝政は船奉行の中村九郎兵衛に命じて兵糧を
肥前名護屋に船で運ばせた。中村は提灯2,3百と太鼓3,4十を買って名護屋へと到った。

時間は巳の刻で潮の状態も良かった。しかし中村は玄海ヶ島に船を止めてわざと日暮れを
待ち、亥の刻になって船を漕ぎ入れた。そして2,3百の提灯に火をともして連れ、3,4
十人が太鼓を打ち立てると、火の光が海中に写り、太鼓の音は城の上に広く響いた。

秀吉が使者を遣わして、「何者ぞ?」とお尋ねになったところ、「輝政の家来・中村九郎兵衛
が兵糧を漕いで来た船である」と答えた。秀吉は元来華美を好んだので中村の迎合は甚だ
秀吉の心に適い、すぐに秀吉は中村を朝鮮に渡海させなさった。

中村が朝鮮に到ると合戦はすでに無くなっていた。(中村朝鮮に到れば軍すでに解けぬ。)
その時、兵糧はまさに尽きるというところだったので、諸将は大いに喜んだ。

これは誠に中村に才略があったとはいえ、虚名であって実際の功ではない。しかし、主君の
ためであって、自分のためにするわけではない時は、少しは認めるべきであろう。

(是誠に中村才略ありと云へども虚名也、実功にあらず。君の為にして自ら為にせざるとき
は少しくゆるすべし。)

――『武将感状記』


近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」

2017年07月09日 10:46

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 23:27:44.34 ID:PtOrjCfS
 関ヶ原の時、三河岡崎の田中兵部大輔吉政の子民部少輔長胤(吉次)は、
父大坂に同心したりといふを聞きて、宇都の小山を忍び出で、居城岡崎に帰りけるを国清公(池田輝政)聞し召し、
竹村半兵衛を召され、「我吉田に帰るまで民部を牛窪に押へとどめ置け」と仰せらる。
竹村、「これは安き事には候はねども、いかさま計ひて見候はん」とて道に出迎へ、
鉄砲の者を百姓の家に隠し置き、具に支度を言ひ含め、其の身は山のせばみに出で出で待つ所に、長胤来られり。
竹村、「池田三左衛門ひそかに申せと申すことの候てこれに出で候」といへば、
長胤馬廻りの人を遠ざけられしかば、竹村静かに歩み寄り、
「別の子細も候はず、押留め申せと三左衛門下知したるよ」といひもあへず、
左の手に長胤をひしとらへ、一尺ばかりの脇差を抽いて長胤に押し当てたり。
従者ども、「こは口惜しや」と怒れどもせんかたなし。
竹村言葉をかけ、「近く寄られなばわれは殺さるるとも民部殿をば刺貫き申さん。
唯押留め申すのみにて、別の事は候はず」と呼ばりける処に、
百姓の家に伏せ置きたる鉄砲の者ども駆集り、鉄砲を長胤に差しあてて、
「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」と声々に呼ばはりけり。
長胤力無く竹村に従ひて百姓の家に入れば、押止めて四方を堅く守りけり、
かくて東照宮聞し召し、「父は既に味方になれる上は許し候へ」と仰せられしかば、
長胤則ち出でられけり。
(常山紀談)


長顕、軍に従えないことを憤って

2017年07月07日 17:34

79 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/07(金) 06:18:01.37 ID:E7nZay3K
 長顕(田中吉次)、軍に従えないことを憤って、父に訴えたけれども許されず、長顕手勢30騎ばかりを引具し忍び出て、父に先立って馳せ参じた。
(田中)吉政これを聞いて大いに驚き、池田侍従(輝政)に事情を告げた。輝政が吉田城を守らせていた竹村彦右衛門のもとに早馬を立て、長顕を押し止むべき由と下知した。
長顕は吉田の城を避けて本坂城を過ぐるところを竹村は追いかけて吉田の城に伴わせようしたところに輝政より飛脚が到来して、止める必要はないという。
是は徳川殿、長顕の志の程を感じ許すことによって父子共に向かう
(藩翰譜)

関ヶ原時、東海道の大名が自分の城をと人質を家康に差し出すも吉政の人質が江戸からが逃げてきたという逸話

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/07(金) 06:26:22.82 ID:E7nZay3K
いい話に書いちゃったけどまあいいか


我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに