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皆々家一つで育った片口者なので

2018年11月22日 18:12

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 13:45:43.46 ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。


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扇でお顔をしたたかに打って

2018年11月10日 16:45

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 10:25:29.90 ID:5FRsjJ5D
扇でお顔をしたたかに打って


八田豊後*は無銘二尺三寸の郷(義弘)の刀を所持していた。
国清公(池田輝政)は右の刀を指し上げよと度々仰せられていたが、そうしなかった。
ある夜お酒を飲んだ後(国清公は)豊後を呼んで、度々所望の刀を出せと仰せられた。

豊後は
「度々お断り申し上げる通り代々所持している刀で、これをもって
 御馬先を仕るべしと心がけていますので、指し上げることは出来ません」
と言った。その時国清公はお怒りになり長押にある薙刀を取られたので
豊後は扇で(国清公の)お顔をしたたかに打って退出した。

元来お酒に酔った後の話なので、御側の衆が(国清公を)取鎮め
「豊後のことは我らに仰せ付けて下さい」と押し留めた。
その後しばらくして酔いが覚められた後、深酒されていたものの豊後を呼んだ。
豊後はお手討ちだろうと覚悟してすぐに登城し、直に御寝所へと通された。

「我は酒に酔い其方を手討ちにしようとしたが、我の誤りであった。
 其方いささかも心にかけてくれるな」
と(国清公が)仰せられたので、豊後は不覚にも落涙して退出した。
国清公の御行跡は、大方この類が多かったとか。


――『備陽武義雑談』

* 池田家臣。先祖は楠木正成の家臣だったが千早城が落城した後に伊勢へ行き
 北畠家に仕えたという。父の代に北畠具教が殺害され、一緒に浪人となった。
 池田恒興が伊丹城に在城しているときに召し出された。輝政が参議に叙任した際
 太刀持ちが必要だったため陪臣ながら任官した。最終的に三千石を拝領したという。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 13:36:46.47 ID:Rb9DE5g9
話の中身だけ見ると正則の逸話って言われても違和感無いな

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:39:24.07 ID:sXciHy0v
最後、落涙したあと刀を献上するかと思ったけどそんなことは無かったぜ。
郷はSSRだからね、仕方ないね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:57:45.30 ID:uqMFgxk/
高虎「やはり酒はいかん。飯、いや餅を食うのが一番良い。」

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 19:40:42.06 ID:p0i+gKso
輝政さんストレス溜まってたんだろうね

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:08:27.04 ID:QjvIsSdR
これがのちのツッコミハリセンになるのか

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 06:34:01.03 ID:Rtctq3rn
下戸の光秀にションベン飲ませようとしたアレだな

彼女は獰猛な牝ライオンのように

2018年10月27日 11:20

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 22:28:54.76 ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』



滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

池田輝政の肖像画、モデルは木像

2018年10月13日 17:08

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 13:30:12.37 ID:9x7iTW91
池田輝政の肖像画、モデルは木像 子孫継政が描く、県立博物館確認(山陽新聞)
ttp://www.sanyonews.jp/article/805266/1/

岡山藩池田家ゆかりの国清寺(岡山市中区小橋町)に伝わる、同家の礎を築いた
池田輝政(1564~1613年)の木像が、金山寺(同市北区金山寺)が所有する
輝政の肖像画のモデルであることが12日までに分かった。
画は輝政の子孫、第3代岡山藩主・継政(1702~76年)の筆で、研究者は
「彫刻を基にした肖像画は少ない上、結び付きが証明された珍しいケース」としている。

岡山県立博物館(同後楽園)が19日開幕の特別展「岡山ゆかりの肖像」のため調査。
木像と肖像画は特別展で公開される。

肖像画
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/e52bbd30c95052f37c8e28ba14aeb19e.jpg
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木像
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/316a2843b84eeebb6f10d19ed72ceffe.jpg
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割と目がくりっとしてる?



後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

2018年09月13日 21:12


133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 21:23:53.83 ID:qWWCnxkC
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する

慶長12年6月、駿府城の修築のため江戸から神君(家康)の荷物が送られていた。
国清公(池田輝政)は、船奉行の菅小左衛門に荷物の運送を命じた。
駿州清水で島津家の士が池田家の加子(船夫)に狼藉をして、加子四、五人に
怪我を負わせた後、江尻まで逃げていくということがあった。

そのとき小左衛門は陸にいたが後からこの由を聞くと、たった一人駆け出し
跡を追いかけて、島津家の家来が乗っている船に飛び込んだ。
奉行二人の内の一人と、下っ端を四、五人切り殺し、残った奉行を船の梁に
縛り付けて、自分の姓名をしっかり名乗ってから帰った。

当然このことは問題になってしまったが、(池田家臣の中では)
「小左衛門から仕掛けた喧嘩じゃないし、向こうが狼藉をしたんだから
 やむを得ないことなので、小左衛門は助命されるだろう」
という声もあったが、(幕府直参の)三浦志摩守が国清公の方へ参って
「喧嘩両成敗は天下の御法ですので、お助けすることは出来ないでしょう」
と言ったので、国清公もどうにも出来ず、小左衛門に腹を切らせることになった。

小左衛門はこのとき三十一歳だった。
死に臨み友人の安宅次郎左衛門に、遺言状を書き送った。

遺言状(『菅文書』)で小左衛門は父の惣兵衛について
「惣兵衛は年寄りなので、そちらの家に呼んで毎日慰めてあげて下さい。
 一、二年の間だけでもいいのでお願いします」
と、後事を託している。

小左衛門の子の九郎太郎は三歳だったが、父の知行四百石を与えられた。
九郎太郎が五歳のとき、(国清公は)家臣の石丸雲哲に
「あの九郎太郎は成長しただろうか、お城へ連れてくるように」
と仰せられたので、九郎太郎が登城すると国清公は膝元に呼ばれて
懇ろに仰せられたあと、菅若狭に守り立てるように命じられたという。

国清公が亡くなり興国公(池田利隆)が播磨に入ったとき、新参の者は暇を賜ったが
まだ十六歳で無役だった九郎太郎はそのまま仕えることが許されたという。


――『池田家履歴略記』



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:31:03.63 ID:a5yC5vEo
こんなんどうしたら正解だったんや

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:38:59.57 ID:oPuUvg4k
>>133
>加子四、五人に怪我を負わせた
これで五人も殺したのか…と引いてしまうのは現代の価値観かねぇ。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 20:57:17.33 ID:1fmrxVb6
>>134
黙っていたら腰抜けとして処罰
反撃したら両成敗で処罰
詰みである
…仕掛けられないようにつねに警戒してろって事かな
でも向こう見ずな奴はこっちの警戒とかお構いなしだろうしな

>>135
やられたらやりかえせな精神だなぁ…
こういうの見るとハムラビ法典ってなるほど穏健な方なんだなと思わされる

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:03:12.47 ID:MdIF2uXQ
やられたらやり返してよい、ただしそれ以上はやり返すなの精神と
やった方も応じた方も罰なの精神は割りと似ている気がする

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:25:24.85 ID:uGl7Zatq
長崎喧嘩みたいに徹底的に報復した後、先行して死ぬのが精神衛生上良さそう
どんなに精神強い人間でも沙汰待つ時は辛いだろうし

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 05:13:36.68 ID:joeuWfgB
>>135
綱吉による教化は本当に重要だったんだなぁ…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 10:10:59.23 ID:A3TosaDU
>>134
損害賠償を請求すれば良い。断られたら暴れる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:04:56.52 ID:ErgQINDx
武士の場合、損害より面目の問題なんだよなあ

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:28:59.19 ID:7tKdY49C
鉄砲玉の身分はそうだろうね

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 12:30:33.38 ID:uzG3c2Dm
室町時代から「故戦・防戦法」で理由の如何にかかわらず先に手出ししたほうを罪に問う、とやっても
ちっとも紛争を予防できなかった挙げ句の「喧嘩両成敗」なわけでな。

ちなみに江戸期を通じて「喧嘩両成敗」を適応した事例は、実は殆どないらしい。
法執行の側も、これが極めて理不尽な法であることを重々承知していた模様。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 16:39:09.53 ID:LoLm7Buv
赤穂事件も喧嘩両成敗の対象にならなかったしなぁ
あれは浅野が罰せられるのは当然とも思うが

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 07:34:05.39 ID:fSDtPYjS
どちらに理があるとか先に手を出したとか理非究明に時間がかかりすぎて評定が滞ったので家中の争いについては喧嘩両成敗にしたと言うのが実情だな

喧嘩両成敗を採用した大名も国衆の争いなんかは相変わらず理非究明をうたってるしね

誠に愁嘆止む時無く

2018年09月06日 21:09

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 18:07:05.93 ID:iW3ksRbv
誠に愁嘆止む時無く


小牧・長久手の戦いで、池田恒興と嫡男の元助を始め家臣二十余人が戦死した。
(『池田家履歴略記』では親子の討死をうけ、周囲にいた家臣が切腹したとする。)
家督を継いだ輝政は、戦死した臼井藤丸の父親に書状を送っている。


去る四月九日、尾州合戦の節に父子始め家人二十余人が戦死し
藤丸もその中にあったこと、愁傷お察し致します。
私も父子の最期の次第がありましたので、察して下さいますように。
(後略)

五月三日      照政
               臼井一心老人


以上の書状は、池田輝政の確認されている発給文書の中で最古のもの。
父親の臼井一心は59歳、藤丸は一心の次男で25歳だった。
一心は同年の夏に、藤丸の肖像画と共にその上部に書付を残している。


池田勝入公・元助公に随い、尾陽において天正十二年甲申四月九日戦死。
御両君はじめ廿余人の討死を聞き及び、誠に愁嘆止む時無く、かなしみの余り
愚息が幼像を画して忌日に懸け、香華を手向け、法華を読誦し畢んぬ。


臼井家の子孫は後に鳥取藩士となったため、この書状と肖像画は
臼井家に伝来する資料として、現在は鳥取県立博物館に所蔵されている。


建部政長、父の所領等を安堵される

2018年09月01日 21:23

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 11:28:42.71 ID:Zzgw7J2Y
建部政長、父の所領等を安堵される


建部政長の祖父・寿徳は信長の家臣として中川重政、丹羽長秀の代官を勤め
本能寺の変後には秀吉家臣として、摂津尼崎三万石の郡代となった。
跡を継いだ寿徳の嫡男・光重は秀頼の近習を勤め、豊臣家の作事奉行として
吉野水分神社をはじめ寺社造営に関わったが慶長15年、33歳で没した。

政長はそのとき僅か8歳だったので、政長の外祖父*にあたる池田輝政
秀頼が幼少を理由に所領等を没収するつもりであることを知り、それを嘆いて
東照宮(家康)や台徳院殿(秀忠)に言上したため、片桐且元に仰せがあり
(秀頼に没収を撤回させて)政長は無事に、父・光重の跡を継ぐこととなった。


――『寛政重修諸家譜』

* 政長の母は池田輝政の異父姉の七条の娘で、輝政の養女として光重に嫁いだ。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 18:20:34.68 ID:8csF2RtP
こういう時に頼りになる口を利いてくれる者が人望を集めてくんだろな

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/01(土) 18:47:59.20 ID:UhKkcb2m
秀頼もたいしてかわらんから、あったとしたら淀か大野か

大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話

2018年08月24日 10:15

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:10:59.80 ID:t0gJgy7I
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話


池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。

さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。

その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。

池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。

蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。

実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は"一人もやっていない"と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。

さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。

そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
 十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:11:23.07 ID:t0gJgy7I
甲を脱がせると五十過ぎの老法師の首に見えたので、何の用にも立たない首でも
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。

大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。

このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。

十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。


――『雪窓夜話』



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 20:52:17.21 ID:kogqW73A
>>207
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)

池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


門出の朝は黒米飯

2018年07月06日 19:10

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 18:24:45.96 ID:eCXlS6rg
門出の朝は黒米飯


あるとき池田輝政公は、出陣の朝に飯炊きに膳を進められたものの
気分が悪く召し上がらないことがあった。

そこで家臣の淵本彌兵衛が下々の飯の内から(黒米を)取ってきて
山折敷に据えて食べさせたところ、(輝政は)大いに喜んで戦に勝利した。
それより後は、門出の朝は黒米飯を山折敷に載せて
彌兵衛が配膳するようになった。

この彌兵衛は美濃国野間にて、腰に鎌をさして道の傍らにうずくまり
「御馬の草苅として奉公させて下さい」
と野を巡っていた信輝公(恒興)に申し上げたので、公が歳を聞いたところ
十六歳と申したので、永禄十年に召し抱えた者だという。

それから彌兵衛は度々功労があり、のちに利隆の正室福照院付きとなって
三百石を賜ったという。


――『備陽武義雑談』『吉備温故秘録』


池田恒興、息子に正室の実家を継がせる

2018年06月28日 16:27

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 00:06:56.30 ID:wWSPXeF5
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる


尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。

仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。

善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。

善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。

このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。

和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。


――『池田家履歴略記』

* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
 恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
 子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 14:39:10.59 ID:7FJJQwwj
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。

我は常に軍旅の事を

2018年06月24日 14:45

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 21:19:53.04 ID:4kKiA17m
我は常に軍旅の事を


(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
 つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。


――『有斐録』



36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 23:52:48.83 ID:PEJlXB4/
・・・どんな声出したんだよ。側仕えが駆け込んでくるって。

今は諸浪人の多くが先知を減じ

2018年06月16日 21:17

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 12:05:27.02 ID:odU49sW/
今は諸浪人の多くが先知を減じ


下方覚兵衛*は元々は蒲生氏郷に四百石で仕え、その後は小早川秀秋に呼ばれ
千二百石で仕えていたが秀秋が亡くなったため、池田家臣の土肥周防の誘いで
慶長八年、池田輝政のもとへ召し出された。

土肥周防が輝政の嫡男・利隆に氏郷時代の知行四百石で仕えるようにと
折紙を渡すと、覚兵衛は
「中納言(秀秋)のことで浪人になってしまったので、ただいま無双の御当家へ
 召し出されるのならば、いかようでもお請けしたいのですが、せめて
 先知(千二百石)の半分は下されるべきでしょう」
と申したため、周防が折紙と違う知行を求めてくるのは困るとして
断ろうとしたところ、輝政が
「今は諸浪人の多くが先知を減じ、そのままで終わってしまうことがあるから
 このようなことを言ったのだろう。この先配慮をしてやるように」
と仰せられたので、翌年から覚兵衛には百俵の合力米が支給された。

覚兵衛はその後出世していき、慶長十六年には光政の守役に任ぜられた。
そのとき輝政と利隆の相談の結果、池田家の譜代同然に扱われることになり
家督を継いだ光政が領国に帰るときには、妻子と一緒に江戸で留守を守った。
元和七年に亡くなるが、最終的には千百石を拝領したという。


――『吉備温故秘録』

* 祖父が小豆坂七本槍の下方左近であったことから、蒲生氏郷に仕える。
 氏郷の死後、堀秀治に仕え越後にいたが、小早川秀秋に召し出される。
 光政とは家族ぐるみで交流があり覚兵衛の死後、妻は岡山城の水の手に
 屋敷を拝領し、光政から"水の手の祖母"と呼ばれ慕われた。


南部越後母衣串をぬかざりし事

2018年06月05日 18:00

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:47:03.08 ID:HI+KkJjp
南部越後母衣串をぬかざりし事

岐阜の城攻に、池田家の士南部越後門際に押詰めたるに、門の潜戸狭く、懸けたる母衣に
支えて入り得ず、側より、母衣串を抜いて入るべし、と言え共、否々たとえ入り得ずとも
此母衣は脱ぐまじ、と呼はる。其中に門開きて馳入りたり。其武者振甚だ見事なりし、と
其時の人言いしとなん。
(常山紀談)

 ちょっと、かっこ悪い話。
 くぐり戸に、母衣が引っかかってじたばたしているシーンを想像すると、ちょっとかわ
いい。武士は目立ってなんぼやな。




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:49:14.84 ID:Q/kW/O78
入ってからあとは見事だったんか

池田輝政の立身について

2018年04月19日 18:28

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 17:03:26.34 ID:IiAJoYMQ
池田輝政の立身について


備前宰相殿(輝政三男・忠雄)は光政様(輝政嫡孫)に輝政公の御立身について

「輝政公の御立身は古今にないことだ。遠国を数ヶ国公方より恩領した人は
 いるかもしれないが、輝政公は自身の武功によって切り取ったのだ。
 輝政公が家康公より備前播磨淡路三ヶ国を残らず拝領したことは無類の
 ことである。その上美作は森武蔵守殿(輝政の姉婿)の縁者が治めていて
 阿波国は家臣の出羽(輝政甥・由之)と縁続き*で隣国に姻戚がいるのに
 数ヶ国下されたというのは、無双の事である」

と仰せられていたという。


――『烈公間話』

*池田由之の正室は蜂須賀家政の長女


阿房丸

2018年03月19日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

慈悲なる覚悟

2018年03月02日 18:05

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 16:04:32.52 ID:WpYcxGcE
慈悲なる覚悟


以下は小牧・長久手の戦いで織田信雄が秀吉と単独講和した直後に
秀吉が池田家臣・伊木忠次を通じて池田輝政に送った書状。

 
わざわざ申し遣わします。

一こちら(伊勢国)では、長島・桑名へ押し詰め城を数か所に拵えたので
 そのまま秀吉が縄生城に越年して長島を攻略しようとすると
 信雄は考えついたのか和睦を懇望してきたのでそれに同心しました。

一人質は信雄の実子ならびに源五殿(織田長益)の実子と、滝川三郎兵衛尉(雄利)
 中川勘右衛門尉(定成)、土方彦三郎(雄久)、松庵(新庄直忠)以下はいずれも
 実子か母が人質に出ます。いかようでも秀吉次第と誓紙を出させました。

一北伊勢は向こうに渡し、今度拵えた城は敵味方ともに破却となりました。

一尾張では、犬山・甲田には秀吉の手勢を入れ、そのほかの新しく作った城は
 敵味方ともに破却となりました。

一家康も信雄同様に和睦を懇望しています。
 しかしながら信雄が若人を引き入れて、秀吉に対して重々不届きを働いたので
 すぐにでも三河へ押し詰めて思い通りに申し付ける覚悟でいましたところ
 家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
 よいと言っているようです。
 それと同時に信雄も外聞があるので詫び言を入れ、色々懇望してきたのですが
 秀吉の家康に対する恨みは深いので、まだ思案が落着していません。
 許し置けない者について、日頃から無念を晴らすつもりでいたのですが
 とにかくこちらに任せる様子であると聞いたので、私は慈悲なる覚悟をもって
 過半は許すべきでしょうか、心中難しく思っています。

一右のようになっていますので、全てが決着すれば十五日には馬を納めることに
 なるでしょうか、またおいおい申します。

かくのごとく申し遣わしたところ、家康がしきりに懇望するので
人質を受け取って済ませることになりました。そのように心得て下さい。    

  十一月十三日      秀吉(朱印)
    伊木長兵衛尉(忠次)殿 



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 13:50:38.76 ID:eEeAEuPX
>>566
>家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
>よいと言っているようです。

これって石川数正は出奔でなくて人質ってこと?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 15:39:44.19 ID:ilBYxqGL
人質となった翌年出奔した

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 04:07:31.30 ID:W/C92D4S
>>571
秀康を届ける役だから、送った後帰るまでは人質(証人)扱い

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 08:07:46.17 ID:F2HxrR4q
家に帰るまでが○○というやつですな

紀伊守殿は利口ぶっている

2018年03月02日 18:04

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 00:03:44.89 ID:P+np5evY
紀伊守殿は利口ぶっている


浅野紀伊守(幸長)殿は(池田)輝政公の妹婿であるが、仲はよくなかった。
(輝政公は)紀伊守殿は利口ぶっていると言って嫌っていたという。

尾張の名古屋城普請の時、紀伊守殿が口の上手い者を使者にして
輝政公のところによこして
「このたびは名古屋普請ですので、駿府や江戸に向かわれる際は立ち寄って
 普請を見ていかれるべきだと存じます。輝政公も御立ち寄りあるべし」
と申し伝えてきたが、輝政公は同心されなかったので、その使者を呼ばれて
「いかにももっともなことです。浅野殿は尾張殿(徳川義直)の御筋目に
 なられたので一段と分別が付いたのですね。私も立ち寄った方が
 首尾よく進むのでしょうが、私は不知恵者なのでこのようなことを
 するべきだとは気が付きませんでした。このような分別を一度しても
 続けられるとは思いませんから、立ち寄ることはないでしょう」
と拗ねた御返答をした。

浅野殿はこのような拗ねた返答はあんまりだとご立腹されたという。


――『烈公間話』