池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


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門出の朝は黒米飯

2018年07月06日 19:10

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 18:24:45.96 ID:eCXlS6rg
門出の朝は黒米飯


あるとき池田輝政公は、出陣の朝に飯炊きに膳を進められたものの
気分が悪く召し上がらないことがあった。

そこで家臣の淵本彌兵衛が下々の飯の内から(黒米を)取ってきて
山折敷に据えて食べさせたところ、(輝政は)大いに喜んで戦に勝利した。
それより後は、門出の朝は黒米飯を山折敷に載せて
彌兵衛が配膳するようになった。

この彌兵衛は美濃国野間にて、腰に鎌をさして道の傍らにうずくまり
「御馬の草苅として奉公させて下さい」
と野を巡っていた信輝公(恒興)に申し上げたので、公が歳を聞いたところ
十六歳と申したので、永禄十年に召し抱えた者だという。

それから彌兵衛は度々功労があり、のちに利隆の正室福照院付きとなって
三百石を賜ったという。


――『備陽武義雑談』『吉備温故秘録』


池田恒興、息子に正室の実家を継がせる

2018年06月28日 16:27

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 00:06:56.30 ID:wWSPXeF5
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる


尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。

仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。

善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。

善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。

このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。

和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。


――『池田家履歴略記』

* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
 恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
 子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 14:39:10.59 ID:7FJJQwwj
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。

我は常に軍旅の事を

2018年06月24日 14:45

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 21:19:53.04 ID:4kKiA17m
我は常に軍旅の事を


(池田輝政が)あるとき厠に入ったかと思うと、けしからぬ声が聞こえてきたので
お側の人々が驚いて厠に走り入ると、卿(輝政)は笑って
「我は常に軍旅の事を考えているのだが、今も図に当たったなと思ったら
 つい声が出てしまった。怪しまなくていいぞ。沙汰なし沙汰なし」
と仰せられたと、老人が語り伝えている。


――『有斐録』



36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/23(土) 23:52:48.83 ID:PEJlXB4/
・・・どんな声出したんだよ。側仕えが駆け込んでくるって。

今は諸浪人の多くが先知を減じ

2018年06月16日 21:17

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/16(土) 12:05:27.02 ID:odU49sW/
今は諸浪人の多くが先知を減じ


下方覚兵衛*は元々は蒲生氏郷に四百石で仕え、その後は小早川秀秋に呼ばれ
千二百石で仕えていたが秀秋が亡くなったため、池田家臣の土肥周防の誘いで
慶長八年、池田輝政のもとへ召し出された。

土肥周防が輝政の嫡男・利隆に氏郷時代の知行四百石で仕えるようにと
折紙を渡すと、覚兵衛は
「中納言(秀秋)のことで浪人になってしまったので、ただいま無双の御当家へ
 召し出されるのならば、いかようでもお請けしたいのですが、せめて
 先知(千二百石)の半分は下されるべきでしょう」
と申したため、周防が折紙と違う知行を求めてくるのは困るとして
断ろうとしたところ、輝政が
「今は諸浪人の多くが先知を減じ、そのままで終わってしまうことがあるから
 このようなことを言ったのだろう。この先配慮をしてやるように」
と仰せられたので、翌年から覚兵衛には百俵の合力米が支給された。

覚兵衛はその後出世していき、慶長十六年には光政の守役に任ぜられた。
そのとき輝政と利隆の相談の結果、池田家の譜代同然に扱われることになり
家督を継いだ光政が領国に帰るときには、妻子と一緒に江戸で留守を守った。
元和七年に亡くなるが、最終的には千百石を拝領したという。


――『吉備温故秘録』

* 祖父が小豆坂七本槍の下方左近であったことから、蒲生氏郷に仕える。
 氏郷の死後、堀秀治に仕え越後にいたが、小早川秀秋に召し出される。
 光政とは家族ぐるみで交流があり覚兵衛の死後、妻は岡山城の水の手に
 屋敷を拝領し、光政から"水の手の祖母"と呼ばれ慕われた。


南部越後母衣串をぬかざりし事

2018年06月05日 18:00

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:47:03.08 ID:HI+KkJjp
南部越後母衣串をぬかざりし事

岐阜の城攻に、池田家の士南部越後門際に押詰めたるに、門の潜戸狭く、懸けたる母衣に
支えて入り得ず、側より、母衣串を抜いて入るべし、と言え共、否々たとえ入り得ずとも
此母衣は脱ぐまじ、と呼はる。其中に門開きて馳入りたり。其武者振甚だ見事なりし、と
其時の人言いしとなん。
(常山紀談)

 ちょっと、かっこ悪い話。
 くぐり戸に、母衣が引っかかってじたばたしているシーンを想像すると、ちょっとかわ
いい。武士は目立ってなんぼやな。




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/04(月) 19:49:14.84 ID:Q/kW/O78
入ってからあとは見事だったんか

池田輝政の立身について

2018年04月19日 18:28

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 17:03:26.34 ID:IiAJoYMQ
池田輝政の立身について


備前宰相殿(輝政三男・忠雄)は光政様(輝政嫡孫)に輝政公の御立身について

「輝政公の御立身は古今にないことだ。遠国を数ヶ国公方より恩領した人は
 いるかもしれないが、輝政公は自身の武功によって切り取ったのだ。
 輝政公が家康公より備前播磨淡路三ヶ国を残らず拝領したことは無類の
 ことである。その上美作は森武蔵守殿(輝政の姉婿)の縁者が治めていて
 阿波国は家臣の出羽(輝政甥・由之)と縁続き*で隣国に姻戚がいるのに
 数ヶ国下されたというのは、無双の事である」

と仰せられていたという。


――『烈公間話』

*池田由之の正室は蜂須賀家政の長女


阿房丸

2018年03月19日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

慈悲なる覚悟

2018年03月02日 18:05

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 16:04:32.52 ID:WpYcxGcE
慈悲なる覚悟


以下は小牧・長久手の戦いで織田信雄が秀吉と単独講和した直後に
秀吉が池田家臣・伊木忠次を通じて池田輝政に送った書状。

 
わざわざ申し遣わします。

一こちら(伊勢国)では、長島・桑名へ押し詰め城を数か所に拵えたので
 そのまま秀吉が縄生城に越年して長島を攻略しようとすると
 信雄は考えついたのか和睦を懇望してきたのでそれに同心しました。

一人質は信雄の実子ならびに源五殿(織田長益)の実子と、滝川三郎兵衛尉(雄利)
 中川勘右衛門尉(定成)、土方彦三郎(雄久)、松庵(新庄直忠)以下はいずれも
 実子か母が人質に出ます。いかようでも秀吉次第と誓紙を出させました。

一北伊勢は向こうに渡し、今度拵えた城は敵味方ともに破却となりました。

一尾張では、犬山・甲田には秀吉の手勢を入れ、そのほかの新しく作った城は
 敵味方ともに破却となりました。

一家康も信雄同様に和睦を懇望しています。
 しかしながら信雄が若人を引き入れて、秀吉に対して重々不届きを働いたので
 すぐにでも三河へ押し詰めて思い通りに申し付ける覚悟でいましたところ
 家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
 よいと言っているようです。
 それと同時に信雄も外聞があるので詫び言を入れ、色々懇望してきたのですが
 秀吉の家康に対する恨みは深いので、まだ思案が落着していません。
 許し置けない者について、日頃から無念を晴らすつもりでいたのですが
 とにかくこちらに任せる様子であると聞いたので、私は慈悲なる覚悟をもって
 過半は許すべきでしょうか、心中難しく思っています。

一右のようになっていますので、全てが決着すれば十五日には馬を納めることに
 なるでしょうか、またおいおい申します。

かくのごとく申し遣わしたところ、家康がしきりに懇望するので
人質を受け取って済ませることになりました。そのように心得て下さい。    

  十一月十三日      秀吉(朱印)
    伊木長兵衛尉(忠次)殿 



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 13:50:38.76 ID:eEeAEuPX
>>566
>家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
>よいと言っているようです。

これって石川数正は出奔でなくて人質ってこと?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 15:39:44.19 ID:ilBYxqGL
人質となった翌年出奔した

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 04:07:31.30 ID:W/C92D4S
>>571
秀康を届ける役だから、送った後帰るまでは人質(証人)扱い

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 08:07:46.17 ID:F2HxrR4q
家に帰るまでが○○というやつですな

紀伊守殿は利口ぶっている

2018年03月02日 18:04

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 00:03:44.89 ID:P+np5evY
紀伊守殿は利口ぶっている


浅野紀伊守(幸長)殿は(池田)輝政公の妹婿であるが、仲はよくなかった。
(輝政公は)紀伊守殿は利口ぶっていると言って嫌っていたという。

尾張の名古屋城普請の時、紀伊守殿が口の上手い者を使者にして
輝政公のところによこして
「このたびは名古屋普請ですので、駿府や江戸に向かわれる際は立ち寄って
 普請を見ていかれるべきだと存じます。輝政公も御立ち寄りあるべし」
と申し伝えてきたが、輝政公は同心されなかったので、その使者を呼ばれて
「いかにももっともなことです。浅野殿は尾張殿(徳川義直)の御筋目に
 なられたので一段と分別が付いたのですね。私も立ち寄った方が
 首尾よく進むのでしょうが、私は不知恵者なのでこのようなことを
 するべきだとは気が付きませんでした。このような分別を一度しても
 続けられるとは思いませんから、立ち寄ることはないでしょう」
と拗ねた御返答をした。

浅野殿はこのような拗ねた返答はあんまりだとご立腹されたという。


――『烈公間話』


天下に名ありし者ども

2018年02月11日 16:32

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 03:48:33.01 ID:kn27m74I
天下に名ありし者ども


関ヶ原の戦いの後は、功名がある浪人が多くいるようになった。
池田輝政公は播州へ御入国された後、"天下に功名を顕す者"と聞けば
禄の多少を選ばず、その人相応に召し抱えられていたので
我も我もと浪人が御当家を望んで来るようになった。

浪人の取次は若原右京に仰せ付けられていたので、表向きは若原が
勝手に奉公構の浪人などにも堪忍料を遣わしたことになっているが
実は輝政公の御意向からしたことであるという。

輝政公が御逝去された後、御葬儀の場で大勢の浪人たちが
「今世に希なる名将と別れたことは身の不幸である。最早世に望みなし」
と御霊柩を拝し、御儀式が終わると姫路城下から離散した。
このときの浪人の家が因幡(鳥取池田家)には多くあるが
これは忠継公忠雄公光仲公の御代に改めて召し出されたのである。

浪人を密かに扶持しておいたのは"天下に名ありし者ども"だからだろうと
古老が物語したのを國府内蔵之丞が聞き及んだので、話の由を聞いた。


――『因府夜話』



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:42:30.03 ID:JSpUq3d3
>>630
忠継と忠雄は岡山時代に召しだして国替えの時にまんま鳥取に
移動したのか長吉(恒興三男で初代鳥取藩主)やその息子と
利隆や光政が召しだしたのが鳥取に土着していて国替えの時に
鳥取藩士として残ったのかそのあたりがよーわからん
少なからず忠継と忠雄が鳥取藩主として召しだしたというのは
まずあり得んのは確かだけどな

どうして一張の弓をもって

2018年02月04日 17:19

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 11:42:28.57 ID:RnpmeMsj
どうして一張の弓をもって


(池田輝政の)船奉行、菅若狭*1は雪荷*2が村取り*3した良弓を持っていた。
国清公(輝政)がそれをご覧になり
「さても引き心地のよい弓かな」
と言われたので数日弓を留め置いた後、弓を返した。

そのとき(若狭が)この弓を大久保何某に贈ってしまったので(輝政の家臣の)
中村主殿がこのことを、(輝政と)話をしたときに何気なく申し上げたところ
(輝政は)意外にもお怒りになり、悔しいことと仰せられた。

丁度そのとき菅が出仕してきたため、伺候していた者は手に汗をかいたが
(輝政は)菅を呼び出すと、普段より懇ろに菅と談話され、鴨の羹を与えられた。

その夜、主殿が伺候して
「あのように気遣いされるのは、御軽薄なことです」
と申すと、国清公は笑われて
「どうして一張の弓をもって、勇功の士に換えられるだろうか」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』

*1 淡路水軍の菅達長の次男で小早川秀秋に仕えていたが、その死後輝政に仕えた。
*2 弓術の流派、日置流雪荷派の祖の吉田雪荷のこと。
  雪荷の村取りの技術は天下に名高いと言われていた。
*3 和弓の額木や関板を鉋や小刀で削って仕上げること。


黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。


浅井の御娘は秀忠に

2018年01月07日 18:01

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』


池田利隆、生母との逢瀬

2017年12月07日 18:58

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 19:44:01.42 ID:wehhV3dI
池田利隆、生母との逢瀬


池田輝政の正室絲姫(中川清秀の娘)は、天正12年に利隆を出産し
その後病気になり実家の中川家に帰ったとされる。
『池田家履歴略記』では、絲姫は利隆の出産後に出血が収まらず
物狂いのようになってしまい、遂に治らなかったという。
真偽はともかく、輝政が督姫を継室に迎えた後も池田家と中川家には交際があり
関ヶ原前には絲姫の弟・秀成が輝政の仲介によって家康に忠誠を誓ったりするなど
池田家側からの一方的な離縁でなかったことだけは確かである。

『中川氏御年譜』でも、慶長13年に
中川家の大坂屋敷に住んでいた性寿院様(清秀の正室で絲姫の母)が
岐阜様(絲姫。輝政と共に岐阜城に住んでいたことがあった為そう呼ばれた)と
小長様(秀成の兄秀政の娘)と一緒に中川家の領地の岡へ向かう前に
"松平武蔵守利隆様"が三人の送別の為に饗応をしたとの記録が残っている。

利隆は絲姫のことを引き取りたいと、中川家の家老にまで書き送ったものの
大阪の陣前後の騒がしい時期であったため、遂に叶うことのないまま
絲姫は元和元年岡城において五十歳で亡くなり、西光寺に葬られた。



池田輝政への呪い

2017年10月29日 19:16

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/29(日) 18:50:14.36 ID:TyHBz7w9
池田輝政への呪い

1609年(慶長14年)、城が完成して間もない12月12日の日付で、池田輝政に宛てた不気味な手紙が届いた。

それには輝政と夫人に天神(天狗)が取り付いて呪いを掛けようとしている。
「その呪いを解いて欲しいのなら、城の鬼門に急いで八天塔を建てて、大八天神を祀れ」と書いてあった。

これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。
そこで輝政はさっそく刑部神社を場内の三門内にお迎えし、祀ることにした。

ところがそれからも悪いことが続いた。
1611年(慶長16年)には、輝政がついに重い病気に倒れた。
そこで今度は、呪いの手紙に書いてある通りに、呪文を解く護摩祈祷を行い、
八天塔を刑部神社の横に建てると、輝政の病状は回復した。
その喜びも束の間、1613年(慶長18年)輝政は呆気なく亡くなり、その子供たちも次々に若死にした。

やはり、刑部大神の祟りに違いない。
「誰も居ないはずの天守閣に夜な夜な怪しい灯りがともり、大勢の人が泣き喚く声が聞こえる」
噂はその後も消えなかった。


ソース元 姫路城周辺情報サイト↓より
ttp://castle-himeji.com/dic/a/osakabe/



206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 08:06:02.47 ID:YhjL3Wh0
これらは豊臣秀吉が城を築くときに姫山から総社に移した刑部神社の祟りだと人々は噂した。


池田輝政「何で太閤殿下や秀頼公でなく、私が呪われるんですかねぇ?」

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 08:22:55.65 ID:HvVIgT7R
だって引きこもりだよ?
遠出するなんて無理無理

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 11:58:06.47 ID:6fXAveTk
天守閣から年1回しか出てこない刑部姫w

209 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:00:25.06 ID:p2EHdXT7
>>207
妹は遠く猪苗代から生首持参で遊びに来るくらいアグレッシブなのに、お姉さまの方が干物姉なんですか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 12:10:47.86 ID:NdoPDHxu
そも狐なのか蛇なのか

211 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/31(火) 12:18:37.77 ID:G+3TkRin
>>210
妹は亀姫だけど、猪苗代城近所の田んぼで大入道に扮した大狢が退治されたらお城で怪異が起きなくなったとか…
ひ、姫じゃないから別の妖怪だよな…

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 13:10:42.29 ID:awjLPz8q
引きこもりにご利益がある、
とすれば参拝?が増えるかな

鬼松出たか、堀出たか

2017年10月19日 21:18

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 20:19:59.21 ID:QI+GkoqQ
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 10:46:43.50 ID:XGaKRpq4
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 20:28:54.82 ID:nnJM5Bc+
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

輝政公関ヶ原行軍順見の事

2017年09月16日 21:54

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:54:49.52 ID:KtXQnXKS
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 03:19:31.94 ID:eamhuJlz
当たり前じゃ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 08:11:09.45 ID:goG3qGCB
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

下間頼広の出奔と栄転

2017年09月04日 18:23

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ