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ただ一つ、申したい事

2021年02月24日 19:20

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

備前老人物語

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな
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池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話

2021年02月05日 18:11

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:12:06.78 ID:LioMPBtl
池田家の子孫・池田冠山が書いた姫路城の悪い話


・池田家が姫路城から出た後も、天守閣の五重目に池田輝政の具足や武具が残されていた。
 ところが酒井忠道が、天守閣で怪異に遭ったという理由で神社(刑部神社?)を作ってしまった。
 本当は輝政の甲冑が邪魔なので、しまうための口実が欲しかっただけだろう。

・土人(姫路の民衆)は池田輝政が作った姫路城の堀を「三左衛門殿堀」と呼ぶ。
 池田治政の室は酒井忠恭の娘だが、輿入れしたときに三左衛門堀と呼んでいたらしい。
 土人でさえ"殿"を付けているのに……。

――『思ひ出草』

酒井忠道も忠恭の娘も冠山と同時代の人物だがよっぽど印象が悪かったらしい。



543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 14:25:47.88 ID:P3bpF9A9
やっぱり転封の時の引き継ぎって揉めるんだな
酒井雅楽頭家は井伊と並ぶ大老を出せる家で表立って文句は言えんだろうし痛し痒し

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 18:28:53.75 ID:l/ixw+YE
>>542
まんが日本昔ばなしでもやってたね
天守の怪談

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 20:54:55.53 ID:ZxrGO+IB
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-193.html
鍋島直茂と佐賀城の幽霊 ・悪い話

こっちの刑部姫はちょっとかわいいのに

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11015.html
池田輝政への呪い

こっちはおそろしい

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5655.html
ついでに妹の猪苗代の亀姫

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:33:41.25 ID:yYnETLgR
>>543
検地帳を燃やしたり青田刈りする気狂いもいるしな

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 12:51:19.31 ID:Fns5OabQ
>>546
地主とのトラブルが一番ヤバいもんな

謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



薩摩国の習いは硬口であり

2020年08月12日 17:23

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 16:50:43.48 ID:4yYz9Hx3
慶長十二年六月頃、九州島津の使者が駿河に下り、駿府に在府中に、船に乗り遊君を召し連れ遊んだ。
酒興のあまり、見苦しきことも有ったのだろうか、当時駿府の普請を行っていた普請衆がこれを見て
嘲り笑った。

薩摩国の習いは硬口であり戯言を知らず、笑われた事を恥辱と思い、喧嘩を仕掛け闘争に及んだ。
それぞれの小者たちは退散したが、池田三左衛門(輝政)家中の者たちは残り留まって戦い、島津の使者を
搦め捕った。

後日これは追放されたが、かの者は恥辱であるとして、切腹するので、相手も成敗されるようにと
奉行衆に届けた。奉行衆は「この事は我々では治めがたいものです」と徳川家康に言上した。

こうして池田三左衛門家中で、この時の普請物主と、島津の使者、両人が成敗された。

当代記

喧嘩両成敗ですね。



250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 17:03:28.69 ID:NzwLtqdx
江戸末期とやってること変わらんのか

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:21.61 ID:mb3/KsK0
島津とかいう蛮族

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:46.48 ID:tsLUhoru
薩摩弁と播州弁(尾張弁?)の喧嘩か

彼は時分を待っているのではないか

2020年08月09日 18:14

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 12:42:13.86 ID:2a8mygWz
慶長十一年の頃、江戸の普請中に福島左衛門大夫(正則)と池田三左衛門尉(輝政)の間で云い事が
起こりかけた。どういう事かと言えば、福島正則の下女が欠落ちをして池田輝政の屋敷に居たのだが、
正則の中間が輝政の屋敷の外を通った時に彼女を見つけ、門内に入り台所の前に押し付けこれを捕らえた。
しかしそこに池田家の侍中間が出てきて、「狼藉者である」として、この中間は搦め捕られた。

福島正則はこれを報告されると
「国を出る時、家中の上下に触れたように、今度の江戸普請中、喧嘩致すべからず、人に頭を叩かれたとしても
堪忍した者には褒美を与え、喧嘩を仕掛けた者は一族妻子まで同罪とするという旨を下知しておいたのに、
このような儀は是非に及ばない。三左の屋敷に搦め置かれた中間、并びに女をこちらに返されるよう使いを
以て述べ、返し遣わされればこれの首を刎ねる。
この中間を搦め捕った三左衛門の中間たちに関しては、あい構わず、折檻などなさらないように。」

このように正則より申し入れがあり、輝政も「神妙の御存分、承った。」と申し、正則の宿所に自ら赴き、
礼謝に及んだ。正則も翌朝、輝政の宿所に参り、「昨日の御出忝ない」と申し述べたことで、この件は
無事に落着した。

この左衛門大夫正則という人物は短慮かつ荒々しく、被官以下は常に戦慄していたのであるが、
今回このように神妙な存分は奇特であると、その頃の人々はみな感じ入ったという。
また「彼は時分を待っているのではないか。」とも云われた。

当代記



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 12:53:13.60 ID:v6EIud7L
伊奈図書の時と大違い

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 13:05:51.10 ID:UMJ2Jo/g
この時代の人はすぐに感じ入るよな

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 17:04:49.08 ID:fVDrMUUd
正則がシラフとか
この時期何かの病気だったんじゃないか

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 21:09:46.74 ID:ngSxZ2q8
酒が入っていなければ名君

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/10(月) 00:12:12.55 ID:wPKUX87e
暴走族が捨て猫を拾うと褒められる理論でもある

加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」

2020年05月27日 18:19

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 16:35:46.90 ID:rwYxnWI8

池田家臣の若原右京は殊の外肥満した大兵で、顔に指で押せそうな程の疱瘡の痕がびっしりとあった。
月代を半額にし長い刀を携えいかつい見た目ながら、弁舌鮮やかなゆゆしき男であった。
国清公(池田輝政)の御威勢が増していくにつれ、(池田家は)諸国の浪人を数多く扶持することになった。

ある日後藤又兵衛(基次)、明石掃部助(全登)、小倉作左衛門(行春)らが姫路に登城し
広間に陣太鼓が数々あるのを見て、又兵衛が
「当家で貝太鼓を司る者は誰であろうか」
と聞くとみな「知らず」と言った。ちょうど右京が縁側に通りかかったので再度聞いたところ
又兵衛が言い終わらないうちに「我が司っています」と右京が言った。
掃部が「武者奉行は誰であろうか」と聞くと、右京は
「某が承っています。諸法度相詞、物見のことまでみな我から申し付けています」と言った。
作左衛門が「陣場奉行は誰であろうか」と言うと、右京が「某です」と言ったので
各々のお尋ねはここまでとなった。

「総じて当地(姫路)は上方への往来があり、海陸肝要の所です。しかも近くには諸浪人の集う大坂が
 あり、秀頼公は若輩なので関東(幕府)の御内存が将来どうなるか分かりません。もし変があればと
 輝政は先手の旗本軍勢一切の備配りを兼ねてから定め置かれています。そのほか三カ国の国法軍法
 御不審のことがあれば尋ねてください」
と右京が言うので、三人は不興顔で言葉もなかった。
そこに「殿様御召しなり」と右京が呼ばれ、座を立った。掃部助は
「さてさて、尊大なことを言う憎き奴かな。あの男の働きといえば、関ヶ原一戦のみである。
 我らの前で、まるで人がいないような過言をするのは出しゃばりではないか」
と憤った。又兵衛は
「右京の無礼は譬えられないくらいだが、さりながらあの頬玉や人を手のひらに握り込むような
 様子は只者ではない。この家中で一人当千の者だろう。只今吐いた広言程度はやれぬ者ではない。
 太守は人を選び取る上手である」
とかえって感嘆したという。

それゆえ(右京は)播磨の童謡に
「右京、主殿に及びもないが せめてなりたや殿様に」
と謡われたという。これにてそのときの権勢思いやるべし。


――『池田家履歴略記



池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?

御両君の御心合し候

2020年02月11日 12:36

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:15:59.58 ID:AgX5X1rx
御両君の御心合し候


興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。

このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。

津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 02:06:41.23 ID:H65jIjyD
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

伴道雲が御馬口に取り付き

2019年09月02日 15:53

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 21:03:18.90 ID:J7AQ/r7P
長久手にて勝入公(池田恒興)が御討死致されたと輝政公(池田輝政)は御聞きになられ、
敵陣へ駆け込もうとなされた。

これを伴道雲(原注:大膳の父である)が御馬口に取り付き、「大殿様は御討死ではあり
ません! 御退きになられたのを私は見申した!」と申して、「こちらへ御越しなされ!」
と申し、無理に御馬を引いて退いたという。

――『烈公間話』



冥加尽きて逆心があった

2019年08月29日 17:22

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 16:48:58.29 ID:idWAWTqs
古田織部は家康公の御意に入り、御懇意だった茶道者である。そのうえで古田は度々功名があった。
しかしながら茶湯の沙汰ばかりで世上の武名は少ない。茶湯は害となるのである(茶湯害ト成也)。

御庭の物数寄を古田が致されたところ、(家康は)円座(敷物)を御手自ら古田へ敷きなさったの
だという。これによって諸大名は殊の外古田を敬った。

駿府で輝政様(池田輝政)を始め、御館で諸大名の列座で料理があった。その中半に古田が来られ
ると、皆が座を立って(古田を)膳に座らせた。その時、茶道が終わって「数寄屋を見なされ」と
連れ立って数寄屋を見せ、脇道から帰ったのだという。

古田は以上の通り諸人の崇敬があったのだが、冥加尽きて逆心があったのだという。

――『烈公間話』



池田輝政の最期

2019年08月20日 16:44

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 15:12:23.45 ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 20:47:37.86 ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 22:38:50.73 ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

池田輝政、晩年に松平氏を賜る

2019年03月14日 16:25

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/13(水) 22:48:15.34 ID:F5e/KcLN
池田輝政、晩年に松平氏を賜る


慶長16年(1611年)3月に池田輝政は、二条城での家康と秀頼の会見に同席したが
次の年の1月に中風を発症し、3月には秀忠が輝政の嫡男の利隆に連日書状を送るほどの重態となった。
8月に快復した輝政は、その報告のために13日には駿府で家康に、23日には江戸で秀忠に拝謁した。

快気祝いで、松平氏を賜り参議に推薦されることとなった輝政は、9月4日には再び駿府で
家康に拝謁し、山名禅高、藤堂高虎が茶会の接伴役をし、家康から歓待を受けた。
17日に輝政は朝廷に参内し、正式に松平氏を称して参議に任じられた。
利隆のほか、家康の外孫にあたる忠継、忠雄は元服と同時に松平氏の下賜を既に受けていたという。
その後姫路へと帰ってきた輝政は、毛利輝元に書状を送っている。


わざと啓上します。先ごろ東から帰ってきました。(祝いの)御使者のこと光栄に存じます。
愚礼になりますが早々に、蝋燭千丁、綿百把ならびに鹿毛の馬一疋を進覧させます。
詳しくは使者に口上を申し含めますので事細かには述べません。恐惶謹言。

                    松   三左
  後十月廿六日             (輝政印判)
   宗瑞様(毛利輝元)人々御中
 
 未だに手が震えているので、勝手ながら印判で失礼します。以上。

――『毛利氏四代実録 考証論断』

年が明けて慶長18年、中風が再発した輝政は1月25日に数え50才で亡くなった。


中村はそれに逢迎

2019年03月07日 16:52

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/07(木) 11:44:19.44 ID:iijwI8SO
豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、池田三左衛門輝政は、船奉行の中村九郎兵衛に命じて、兵粮を
肥前名護屋に送らせた。中村は名護屋へ出港する前に、提灯2,300,太鼓3,40を買った。
そして船を出し間もなく名護屋という時、時刻は巳の刻(午前10時頃)で潮の状態も良かったにも
かかわらず、玄界灘の島に船を止めわざと日の沈むのを待ち、亥の刻(午後10時頃)になって
船を漕ぎ入れた。この時、船の周りに取り付けた2,300の提灯に火を灯し、3,40の太鼓を
一斉に敲くと、火の光は海面に映り、太鼓の音は城の上にまで響いた。

秀吉は使いを遣わして何事かと問わせた所、「輝政家来中村九郎兵衛、兵粮を漕するの船なり」と答えた。
秀吉という人は素より華美を好み、中村はそれに逢迎(こびへつらうこと)して、甚だ秀吉の心に叶った。
その後秀吉は中村を朝鮮に渡海させたが、彼が朝鮮に至った頃には既に和平が成立していた。しかし
日本軍の兵粮は盡きかけており、諸将は大いに喜んだ。

(武将感状記)


【ニュース】姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ

2019年02月08日 17:57

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:48:10.44 ID:Hub/Hg8U
姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ(姫路経済新聞)
ttps://himeji.keizai.biz/headline/1803/

姫路の化粧品メーカー「しらさぎ化粧品」(姫路市飾東町)が1月28日、姫路城の紋瓦をかたどった
「姫路城紋瓦石鹸(せっけん)」の販売を始めた。

紋瓦石鹸
ttps://images.keizai.biz/himeji_keizai/headline/1549294484_photo.jpg
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平成の大修理で姫路城の瓦を作った「光洋製瓦」(姫路市船津町)の瓦師(かわらし)の協力で原型を製作し、
本物そっくりの質感を出すため竹炭を使い、一つ一つ手磨きでアンティーク加工を施した。
大きさは直径約9センチ、重さは約85グラム。

ココナツオイルとオリーブオイルを主成分に、ペパーミントの精油で香りを付けた。紋瓦のデザインは
「羽柴秀吉の五三桐紋」「池田輝政の揚羽蝶紋」「酒井忠恭の剣酢漿」を再現した。商品には海外からの
観光客を意識し、日本語・英語・中国語で「紋瓦石鹸」「光洋製瓦と姫路城瓦」を説明した紙を同梱する。

パッケージ
ttps://images.keizai.biz/himeji_keizai/photonews/1549294615_b.jpg
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秀吉の桐紋使用はもっと後だけど、まぁ仕方ないか


まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り

2019年02月07日 09:38

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 03:00:58.11 ID:/3anshgn
まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り


(花隈城の戦いのとき、池田恒興は事前に所々に向城を建てて家臣を詰めさせていた)

花隈城から生田の森(生田神社の後方の森)の西の金剛寺山(現在の大倉山)を攻め取ろうと
足軽が出てきて、(家臣の)伊木清兵衛、森寺清左衛門が出陣し大いに戦った。
北の諏訪山に布陣していた信輝公(恒興)、之助公(元助)はこれを見て出陣し、固まって
戦っていると敵はたちまち浮立って旗色が乱れた。

そこを之助公、古新公(輝政)が轡を並べて真っ先に馬を入れて敵を追い散らされたので
敵はこらえかねて、すぐに下知をして城中に逃げ入ろうとした。
両君もすぐに追い詰めて、城の柵際で御兄弟は共に敵を組み伏せ、それぞれ首一つ討ち取って
本陣に帰ろうとしたが、城兵がこれを無念に思ってか、多くが後を追いかけてきた。
両君も危ういところだったが、御先手の秋田加兵衛、堀尾與左衛門、竹村小平太、岩越久左衛門
高木宮など多くが駆けつけて奮戦したので、再び敵を城内に追い込んだ。
このとき、加賀半七があまりに勇んで戦っていたためか討ち死にした。

城兵はまだ屈せず防戦しており、その上五輪作右衛門という大剛の勇士が古新公を
討ち取ろうと駆けて来たので、古新公は引き受けてしばらく戦った。
そこを高木宮が駆け塞がり、一緒に切りかかった。
主従はまだ若年だといえども、その勢いは甚だ勇猛であった。
五輪もここを第一と戦い、勝負は未だ決することがなかった。

信輝公はこれを見て多勢を横合いから駆け入らせたので、城兵は辟易し敗れて逃げ入った。
五輪もただ一人戦っていたものの、味方が引くのを見て引き下がろうとしたので、古新公と
高木宮は一緒に追いかけたが、前に蓮の池があって進みにくかったため城に入られてしまった。
このとき宮はあまりにも身を揉んで働いたので、短刀が鞘走って難所に落ちてしまったが
敵を追い払って、落とした短刀を拾い上げ鞘に収めてしずしずと帰ってきた。
天晴勇士の骨柄かなと人々は感動したという。(高木宮は)時に行年十三歳であった。

信輝公もその勇猛をお褒めになり、(高木宮は)名刀を賜った。
名刀は和泉守(兼定)の長さ二尺二寸のもので、子孫が相伝し家の宝としている。
宮は成長して高木外記*と名乗った。
また信輝公は今日討ち取った首実検を行ったが、之助公廿二歳、古新公十七歳のまだ若年の身で
それぞれ敵を討ち取り、首を提げて並んで出てこられた。
信輝公はこれをご覧になって、強くお喜びになり不覚にもホロリと感涙された。
御側にいる人も、共に感涙をそそいだという。


――『池水記』

* のち鳥取藩士。池田光仲が幼少の際に鳥取城代を務めた。


829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/25(木) 02:51:49.68 ID:cabIDRZ6
平成21年に各務原市へ寄贈され解体した時に
大垣城の門と解ったのも驚きだが
移築先が伊木清兵衛縁の鵜沼であった事に
歴史のロマンを感じる

池田恒興の清兵衛への恩に酬いる気持ちが
この現代に巡ってくるとはなぁ

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/25(木) 05:20:16.23 ID:cabIDRZ6
>>829
https://www2.og-bunka.or.jp/bunka/news/data_466.html


徳川秀忠、池田輝政の屋敷での茶会

2019年01月27日 17:56

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 23:01:01.56 ID:5v4Tc4E9
徳川秀忠池田輝政の屋敷での茶会


慶長六年元旦、内府公(家康)の体調が悪く大坂の城への参賀はなかったが
同月十五日に快復されたので列侯は悉く登城し、新年の慶賀を申し上げられた。

二月三日、秀忠公は池田輝政の屋敷に御茶会に訪れられた。
先月十八日に、内府公から飛騨肩衝の茶入を輝政が拝領したからであるという。
このおもてなしの次第は、以前とは違い(将軍の)御成の作法と大して変わらないようなもので
関ヶ原御勝利以後、外様大名の屋敷を訪問するのは初めてであった。


――『落穂集』


三の重宝

2019年01月08日 18:16

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 16:17:28.91 ID:NOce0VTW
池田輝政公によると、武将の重宝とすべきは、領分の百姓と、譜代の士と、鶏の三品であるとした。
その理由として、百姓は田畑を作り我が上下の諸卒を養う、是れ一つの重宝なり。
譜代の士、たとえ気が合わず扶持を放したとしても、敵国においては、かの者が実際に扶持が放れたと
思わず、間者として入ったのではないかと疑い、故に敵国に逗留すること出来ず、終には我が国に帰って
我が兵と成る。故にこれ二つ目の宝である。
また、目に見える合図、耳に聞こえる合図では、敵の耳目にかかりやすく、敵国の中では簡単には
出来ない。しかし鶏鳴は誰もそれが合図だとは思わないが故に、即ち敵国の鶏鳴にて、一番鶏にて
人衆を起こし、二番鶏にて食し、三番鶏にて打ち立つなどと合図を決めておけば、敵もその合図に
気が付かないという徳がある。これが三つ目の重宝であり、これらを三の重宝と立てたのだ、と
言われた。

(常山紀談)


626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/08(火) 21:05:40.78 ID:Kf8Bs6YY
>>625
鶏は大事な食糧かと思ったら時計あわせか