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池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


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嘉明はそう言ったきり

2014年02月27日 19:09

474 名前:1/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:02:38.03 ID:F91xE93Q
池田光政の家老、池田伊賀守長明は加藤嘉明の外孫でもあり、父が早逝した長明は、一時期嘉明に
養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。

ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。

「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」

「十五~六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。

475 名前:2/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:04:50.57 ID:F91xE93Q
慶長2年(1597)7月、日本軍は巨済島沖で朝鮮軍船団数百艘と対峙した。諸将は対策を話し合ったが、
加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。

ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。

「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。

「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。

476 名前:3/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:07:05.87 ID:F91xE93Q
河合庄大夫・庄次郎親子ら五人を連れた嘉明一行の船は、敵船団の中を進んでいった。
「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」

船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。

嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)


この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。