215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/29(日) 13:09:28.85 ID:9IYKMAH/
槐記から沢庵の逸話二つ
享保十年五月十八日の記事より 沢庵と烏丸光広
今日、数寄屋での家煕様のお話に、「春屋の書は遠州がもてはやしたために沢庵、江月の書とともに世上に流布しているが、宗和は春屋が大嫌いであった。よく無禅が話していたが、宗和が『今日もよき茶の湯に呼ばれた。何から何までよく出来ていたけれども、例の坊主めが床の間にあったわ』と嘲っていたそうだ。応山も春屋ほど下手な書はないと、その悪筆ぶりをつねづねけなされていた。
沢庵は讃を書くことがあまりに多かったので讃沢庵と呼ばれていた。わけても歌の讃が多かった。沢庵は歌を烏丸光広に師事してよほど修行したそうだ。光広が異見して歌を詠むことをしきりに止めて『禅には和歌はいらぬものだ』と手紙を送ったが、その返事の最後に、『夢窓に庭の癖あり。雪舟に画の癖あり。愚に和歌の癖あり』と書いて、さらにそのあとに『世の中の 人には癖の あるものを 我にはゆるせ 敷島の道』と書いて送られたという。これより光広も許して指南されたとか。」
享保十一年霜月十六日 沢庵と近衛信尋
(家煕様のお話)その昔、応山公の御前に沢庵和尚が伺候して、お暇を述べて下がろうとしたが、「今しばらく」と応山公がお止めすると、「今日は法華八講の中日ですので、まずお暇いたしましょう」と出ようとした。応山公、呼び返されて「八講なのに中日とはどういうことか」と問うと、沢庵、「四つ椀の中椀のようなものと思し召せ」と答えて下がったとか。こういう頓智のある人物は定めて茶の湯も上手であろう。
法華八講は、法華経八巻を午前午後に一巻ずつ、日に二巻ずつ講じる法会のこと。
四つ椀は飯椀、汁椀、平椀、壺椀の四つ一組の椀。中椀は二番目に大きな椀(多くは汁椀)のこと。
いずれも偶数なので真ん中はないわけですね。
217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/29(日) 20:47:29.02 ID:bxvNmP/+
>>215 に出てくる無禅は槐記享保十一年七月十六日の記事に詳しく経歴が載っていて、まとめると
「七歳の時に長山公に召し使われて以来、三藐院公(信尹)、応山公(信尋)、良山公(尚嗣)、禅閣(基熙)、准后(家熙)、関白(家熙の長男家久)の七代に仕え、家久が六歳の時に亡くなった。年は百十九歳だったというが、本人が年は言わなかったので定かではない」
長山公はググると近衛尚嗣の道号となっているが、ここでは尚嗣の道号は良山となっている。また、家久から数えて七代前は近衛前久だが、ウィキによると道号は竜山。どちらが正しいかは分かりません。
この七月十六日の記事には、まとめサイトに「かの浪人が甲冑を帯びて発足した」のタイトルで載っている話と同一の話が載っていて、新東鑑の筆者は槐記のこの記事を参考にした可能性が高そうです。
槐記から沢庵の逸話二つ
享保十年五月十八日の記事より 沢庵と烏丸光広
今日、数寄屋での家煕様のお話に、「春屋の書は遠州がもてはやしたために沢庵、江月の書とともに世上に流布しているが、宗和は春屋が大嫌いであった。よく無禅が話していたが、宗和が『今日もよき茶の湯に呼ばれた。何から何までよく出来ていたけれども、例の坊主めが床の間にあったわ』と嘲っていたそうだ。応山も春屋ほど下手な書はないと、その悪筆ぶりをつねづねけなされていた。
沢庵は讃を書くことがあまりに多かったので讃沢庵と呼ばれていた。わけても歌の讃が多かった。沢庵は歌を烏丸光広に師事してよほど修行したそうだ。光広が異見して歌を詠むことをしきりに止めて『禅には和歌はいらぬものだ』と手紙を送ったが、その返事の最後に、『夢窓に庭の癖あり。雪舟に画の癖あり。愚に和歌の癖あり』と書いて、さらにそのあとに『世の中の 人には癖の あるものを 我にはゆるせ 敷島の道』と書いて送られたという。これより光広も許して指南されたとか。」
享保十一年霜月十六日 沢庵と近衛信尋
(家煕様のお話)その昔、応山公の御前に沢庵和尚が伺候して、お暇を述べて下がろうとしたが、「今しばらく」と応山公がお止めすると、「今日は法華八講の中日ですので、まずお暇いたしましょう」と出ようとした。応山公、呼び返されて「八講なのに中日とはどういうことか」と問うと、沢庵、「四つ椀の中椀のようなものと思し召せ」と答えて下がったとか。こういう頓智のある人物は定めて茶の湯も上手であろう。
法華八講は、法華経八巻を午前午後に一巻ずつ、日に二巻ずつ講じる法会のこと。
四つ椀は飯椀、汁椀、平椀、壺椀の四つ一組の椀。中椀は二番目に大きな椀(多くは汁椀)のこと。
いずれも偶数なので真ん中はないわけですね。
217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/29(日) 20:47:29.02 ID:bxvNmP/+
>>215 に出てくる無禅は槐記享保十一年七月十六日の記事に詳しく経歴が載っていて、まとめると
「七歳の時に長山公に召し使われて以来、三藐院公(信尹)、応山公(信尋)、良山公(尚嗣)、禅閣(基熙)、准后(家熙)、関白(家熙の長男家久)の七代に仕え、家久が六歳の時に亡くなった。年は百十九歳だったというが、本人が年は言わなかったので定かではない」
長山公はググると近衛尚嗣の道号となっているが、ここでは尚嗣の道号は良山となっている。また、家久から数えて七代前は近衛前久だが、ウィキによると道号は竜山。どちらが正しいかは分かりません。
この七月十六日の記事には、まとめサイトに「かの浪人が甲冑を帯びて発足した」のタイトルで載っている話と同一の話が載っていて、新東鑑の筆者は槐記のこの記事を参考にした可能性が高そうです。
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