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菅沼新三郎とその妻

2020年07月14日 18:28

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/14(火) 18:05:53.04 ID:I+miO3Td
三河国の菅沼伊豆守父子(菅沼満直・新兵衛尉)、同菅沼新三郎(定忠)は、去る元亀三年より家康から
寝返り武田信玄に属し、天正三年の長篠合戦以降は信州に在国していたが、今度の甲州征伐にて降参し、
河尻肥前守(秀隆)を頼ってかの陣中に居たのを、家康が信長に言上し、則ち生害となった。

諏訪の祝女はこの菅沼新三郎の妻であったが、この事を聞くとすぐに、自分の子供たちを刺殺し、自身も
自害した。この女房は普段から大力であり、その伯母も、かつてこの高遠で比類なき働きをして死んだとの
事で、相似たる女であると、人々は皆語った。

当代記



194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 07:25:50.27 ID:KpZDFIsf
祝女って何でしょうか?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 10:47:27.59 ID:m0kw6D0r
>>194
検索してみたら沖縄の女性神職者だそうだけど
なぜここで沖縄の神職者の呼称が登場するんだろ?

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:06:26.59 ID:XljmzuPv
>>194
>>195
祝女は「はふりめ」といって、中世の言葉では神社の神職の女性のこと。
まあ一般的に巫女の事だね。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:09:07.90 ID:KpZDFIsf
ほうりでググったら出てきた、さんくす。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:20:29.82 ID:tYNj3Jm7
祝は神職の1つだから、祝女は巫女と同じなんじゃない?
ちなみに諏訪氏は諏上社の大祝を務める家柄
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【雑談】家康の甲斐侵攻について

2019年05月04日 14:57

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:51:34.98 ID:PRZ30gr7
>>965
そうだね
以下の書状読んでもその事は一目瞭然だな

天正十年七月七日付羽柴秀吉書状 徳川家康

今度信長不慮之事御座候付而、信州・甲州・上州ニ被置候者共罷退候、然者両三ケ国之儀、敵方江非可被成御渡儀候条、御人数被遣、被属御手候之様ニ被仰付、尤存候、猶追而可得御意候、恐惶謹言

羽柴筑前守

七月七日
秀吉(花押)

家康様
参 人々御中

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:54:20.87 ID:hSMBTF6g
穴山梅雪は徳川の刺客に暗殺されたのだ・・・!

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 20:41:32.12 ID:RrNc2vL6
穴と雪の女婿はどうしてこうなった

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 21:23:47.25 ID:m17ZCduB
>>969
そら7月にもなれば清洲会議も終わって秀吉の天下統一が始まってんだから織田もクソもないわな
こんな書状もらう前からコソコソ旧武田領を狙って暗躍する家康さんカッコイいです

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 22:00:31.75 ID:j1SebWKH
河尻秀隆が死んだ後の書状やん

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 23:53:38.79 ID:ieTMNxY6
家康のことにまで構ってられないし東国の抑えも必要だから、
仕方なく侵略行為には目を瞑って後付けで領有を認めることにしたってところ

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:33:05.76 ID:9qfooK/C
河尻が健在の頃から武田旧臣相手に河尻の領地内の土地を安堵するって送っちゃってるからね
言い訳は無理だね

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 00:50:19.81 ID:f7GzcNhS
>>974
>>975
丁度織田家が内紛状態やからなあwwwww何方の側も家康を敵に廻したく無いしね。

建て前が何にしろ、信長死去で甲斐信濃上野の三ヶ国無主に成ったから拾うって事だね。
川尻は、家康視点では逝ける死者、バンパイアぐらいにしか思ってないよ。

弱点を使って退治、日光「国人一揆」、十字架「織田家の事後承諾」、銀の杭「軍事介入」で
退治しただけだな。

「火事場泥棒?持ち主居ないんだから拾っただけ」って言い分ですな、狸の大妖怪主観では。

甲斐は結局信玄の子の代で滅び

2019年05月03日 16:27

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:23:18.51 ID:g74bPE9v
さて東照宮(徳川家康)は浜松にいらっしゃった。信玄方から度々攻め寄せられて難儀であったのを、
信長が救はれたことにより別条なし。

駿府には穴山(信君)という大名がいた。東照宮とともに信長に帰す。ある時、両人が同道して上京
することがあって、方々を見物し、京から大坂和泉に行くが、堺にいらっしゃる内に明智が謀反して
信長を弑逆する。

これより両人は伊勢路を越え本国へ帰るが、穴山は路次で一揆に殺されたという。また東照宮の所為
であるともいう。

さて駿府も易々と東照宮の御手に入る。甲斐に河尻与兵衛(秀隆)という者がいたが、これも東照宮
が討ち滅ぼして甲斐を取った。甲斐は結局信玄の子の代で滅び、信長に攻め付けられ天目山で自害す。

――『老人雑話』



河尻秀隆の最期5撰

2019年05月03日 15:09

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 12:59:03.48 ID:r3toUv4n
河尻秀隆の最期5撰

本能寺の変後の混乱の中で散った秀隆の最後を語る同時代史料は皆無ですが、後世の書物には細部の異なる形でいくつものパターンが記録されているのでご紹介。

①当代記

6月10日頃、本多百助、家康の命により甲斐国に派遣される。

彼の国は織田信長により河尻与兵衛が置かれていたが、信長が他界したことが伝わると人々は河尻に服従せず、百助に従う様子を見せた。

やがて一揆が起こり、河尻の居所に押し寄せた。百助はこれをなだめ、河尻に事態収拾のために上方へ帰ることを求めた。

河尻はこれに応じず百助を生害し、その後自害して果てた。家来等は上方へ退いたので、家康が甲斐を横領なされた。

②三河物語

本多百助は河尻与兵衛とは知り合いだったので急いでやって来て、「一揆が起こったら援軍を差し向ける」と言った。河尻も「ありがたい」と言った。

しかし実際は百助が一揆を煽動し自分たちを討とうとしていると思っていた。河尻は百助を馳走すると、蚊帳を吊って寝かせた。

その後長刀を持って来ると、釣り手を斬って落として突き殺した。一揆の者はこれを聞くとただちに押し寄せて河尻を殺した。

③落穂集

信長は甲斐半国を河尻与兵衛に下されたとき、甲斐は領地並であるのでいろいろと面倒を見てやってください、と家康に申された。

その後、家康は百助を甲斐に派遣したが、河尻はこれを自分を討つ計略があるものと考え違いを起こしてしまった。

ある夜、河尻は稚小姓を用いて百助を殺した。百助の家来はこれを知ると怒り、武田の浪人に訴えて一揆を起こした。

河尻は家を襲撃され、従者も全員が殺害された。討手は武川衆の三井十右衛門という。

報告を受けた家康は大変喜び、岡部・成瀬・芦田を派遣し、甲州経営を始められた。

④岩淵夜話

本能寺の変後、家康は度々、手紙や使者を送り河尻の様子をうかがってあげていた。ところが河尻は全くこれをありがたいとは思っていなかった。

むしろ、名のある武田の浪人は河尻に仕えようとせず、家康に奉公しようとする者が多いことから、家康には何か裏があると考えていた。またそのために国からつれてきた僅かな家臣のみを頼みとしていた。

やがて家康は河尻が甲州に嫌気が差しているとの噂を耳にし、百助を派遣して「百助を案内として私の領内を通れば安全に上方へ帰らせる」と伝えた。

河尻はこれを聞くと怪しみ、6月14日に小姓を用いて百助を殺した。

武田の浪人はこれを聞くと「家康公にこのようなことをするやつに遠慮はいらない」などと言い、一揆を結んで河尻を攻め殺した。

家康は百助の死を知ると、河尻の事を思って色々してやったのに、相談役として付けた百助を殺すとはなんたる不義理だ、それにしても惜しい男を河尻などのために殺されてしまったと涙を流した。

家老らは軍勢を派遣して河尻を打ちましょうと言ったが、そのようなことはこの家康がすることではない、しばらくこのままにして様子を見ようと言われた。

⑤武田三代記

信長親子は明智光秀に殺された。河尻は国を捨てて逃げようとしたが、道路の害を恐れて進退窮まり、如何ともしがたい状況に陥った。

源君はこれを知って不憫に思われ、上方へおくり届けてあげようとした。

しかし間に合わず甲州の土民が蜂起し河尻を打ち殺してしまった。浅ましいことである。

首は三井が取り、勝頼の墳墓に供えた。諸人、これを感ぜずことなしと言う。



962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 13:24:12.63 ID:GQfzXxkN
家康は悪くないってことにしてるのは全て共通なのね

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:04:02.93 ID:xjWKeatT
>>962
そもそも家康の甲斐侵攻は「織田政権」の承認のもとに行われているんだから悪く書きようがないだろ。
織田家臣なのに政権中央の意向に反した行動をした河尻のほうが悪い

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:25:31.63 ID:TISqcbEJ
家康が織田政権の承認を得たのはあくまで織田家臣退去後の上野・信濃・甲斐を敵方に渡さないために軍勢を出して確保することだろ

河尻が健在の甲斐に侵攻する許可を得た訳ではないし河尻が政権中央の意向に反した行動を取ったわけでもない

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 16:39:13.93 ID:xjWKeatT
>>965
それを家康は織田政権から委任された以上、家康の指揮命令に従わなかったらそれは織田政権への謀反と
解釈されても仕方ないと思うぞ。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/03(金) 16:57:24.06 ID:TISqcbEJ
>>966

もう一回整理してほしいんだが、織田政権は河尻・滝川・森・毛利などの織田家臣が退去したあと、敵方にその知行地の3か国(上野・甲斐・信濃)を渡さないために家康に軍勢派遣を認めてるんだよ

当然、それ以前の家康に河尻等の織田家臣に指揮命令する権利は認められていないし、河尻が家康の命令に従わなかったとしてもそれが織田政権への謀反とみなされる道理がない

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 17:42:08.71 ID:mGxBMjMX
帰国後即甲斐国人に調略開始、穴山旧領を押さえた上で
川尻に「美濃に帰ったらどうです?」って使者送ってんだよな、家康

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 13:08:38.50 ID:0e5zpXHp
>>963
政権中央の意向に反した行動って何?
道中危険だから領地に留まったんでしょ。
それと家康に保護されて逃げ帰るっていうのもバツが悪いよねえ。
石田三成がいい例でしょ。武断派なら死んだ方がマシと思ったはず。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 16:36:53.95 ID:Js/5uKIb
>>981
当時の武士ならなんとか逃げ延びて屈辱をはらそうとするんじゃないかね
それが無理なら自害か玉砕か

これ武略なり

2019年04月27日 15:54

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:13:34.77 ID:2r7o4uZh
信長は5千騎で今川義元の4万の人数を鳴海で敗った。義元の首を取ったのは川尻与兵衛(河尻秀隆
という者なり。後に信濃で死す。

この時、信長は清洲にいて乱舞し、先手から送られる文箱をも開き見ず、皆が「負けた」と推し量った
のである。信長は馬を出し、熱田の神前でしばしまどろみ夢を見ている体で、応じる声が3度あった。
これ武略なり。

さて大雨の降る中で信長が馬を進めると、輿を控えて諫める者あり。その時、信長は鞍の前輪を叩いて
敦盛の『人間五十年』のところを舞われたという。

人々は皆それならばと押し掛かった。義元が台子で茶会をしているところに急に打って掛かって、勝利
を得たり。この時、義元の勢4万は七備に陣を立てていた。しかし間道から本陣へ掛かった故に、七備
も空しくなったという。

――『老人雑話』



936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:18:07.66 ID:mExy/+Tj
>>935
毛利新介「!?」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 16:24:35.08 ID:YVf5kat/
伝言ゲームのように話が変わっていくんでしょう
それにしてもこの場合の乱舞ってなんだ

田峯・長篠菅沼氏の滅亡と二人の烈女

2019年03月23日 18:44

741 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 19:17:10.36 ID:4YZR64+2
田峯・長篠菅沼氏の滅亡と二人の烈女


武田勝頼滅亡後、山県、小山田はじめ武田氏の重臣らは悉く誅殺された。そんな中、三河衆の菅沼伊豆守・新兵衛父子(長篠菅沼氏)と、菅沼新三郎(田峯菅沼氏)は河尻秀隆を頼って降伏し、その陣中で保護されていた。


かつて両菅沼氏は奥平氏と合わせて山家三方衆と呼ばれ奥三河に所領を持ち、徳川家康に従属する国衆だった。しかし元亀3年からは武田信玄に属し、天正3年の長篠敗戦以後は所領を失い、信州伊那に在していたのだった。


やがて菅沼氏が河尻秀隆に匿われていることは家康の知る処となった。早速家康から信長に言上があり、誅殺の許可が下った。


さて新三郎の妻は諏方の祝女だったが、夫の最期を知ると子供らを自ら手にかけ自害を遂げたと言う。この妻は大変な大力と評判の女であった。またその伯母も女ながら高遠城の戦いにて比類なき働きをしたとのことである。


全く相似たる女がいたものよと人々の噂になったということだ。


『当代記』



742 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/23(土) 16:04:58.20 ID:E+cfZHyu
神官系の女性は肝が座ってるっていうことなんでしょうか

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/23(土) 21:08:22.03 ID:xFAIIgU0
戸次統常の母ちゃんは志賀氏だし、べつに出身は関係ないんじゃないかな

甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?

河尻塚

2014年05月03日 19:03

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:14:04.42 ID:ZwYI2HzU
河尻塚

天正10(1582)年6月、京で織田信長が明智光秀の謀反に斃れると旧武田領の甲斐と信濃のあちこちで一揆が起きた
伊賀越えで難を逃れた徳川家康は一揆の話と甲斐の河尻秀隆のかねてからの圧政を不安視し、家臣の
本多信俊を甲斐へと派遣した

本多信俊「信長公は亡く、信濃の森殿も美濃へ引こうとされているとの由、河尻様が尾張に戻られる様ならば
主家康は東海道をお使いくださいとの事です」

秀隆は信長に恩義の厚い実務主義者だったために
信長の死に乗じて家康が秀隆の命と甲斐を狙っているものと勘繰った

秀隆は殺されるよりは先に信俊を片付け様と、光秀討伐と甲斐の統治の話を信俊に持ち掛け積翠寺を
信俊の宿とした

その夜信俊の下に密かに武田の浪人が訪ねて来た

某「河尻秀隆が使者殿を殺そうとしております。府中城内にも武田の旧臣仲間がおり、この申し出に
  間違いはございません」

本多信俊「…」

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:29:18.56 ID:ZwYI2HzU
明朝本多信俊は同じく河尻宛ての使者であった名倉信光を予備のために寺に残すと、従者を連れて
河尻の待つ城へと向かった

秀隆は「では早速だが明智討伐と甲斐についての案件を話すとしよう」と信俊の注意を他に引き付け、
細かな評定を行い、夜寝所で休んでいた信俊の寝首を欠いた

翌日寺には武田の手の者が来たが、信俊は戻って来ていない

山県昌景の旧臣だった三井弥一郎昌武といった者が手勢を連れ河尻の城へと押し寄せた

三井「徳川様の使者が来ているはずだ。織田に用は無い。甲斐は徳川様に与する由本多信俊殿に話をさせよ」

河尻秀隆「甲斐の国主は私である。織田と徳川には同盟がある由、浪人風情といち使者に話をさせる
     言われはない」

三井「明日再度返事を聞きに来る。それまでに覚悟を決められよ」

三井は知らなかったが、すでに信俊はこの時点で殺されていた

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/03(土) 04:48:32.35 ID:ZwYI2HzU
次の日の朝、二千はいた河尻軍の城の守備兵の大半が秀隆に愛想を尽かし、夜の内に密かに城中から
退散していた

ガランとした城に残る兵は百人足らず

黒母呂衆「殿(河尻秀隆)、もはやこれまでにござれば潔く腹を召されませ。我らは死出の供を務めまする」

秀隆「たわけ!何故ワシが腹を切らねばならぬ?
一揆勢は烏合の衆ぞ。代表者を城内に招き、片付ければ残った奴輩は退散するであろう」

この言葉に城内に残っていた兵らはおおいに失望した

守備兵組頭「門を開け。大勢は決した…」

秀隆「貴様、なにを?」

河尻を見限った兵らは三井らを城に入れると
武器を手放し、地に投げ捨てた

秀隆に最期まで従った者わずか二十人余り

内八人が討死し、残りも一揆勢に降伏した

川尻秀隆は三井の言に従い、切腹
享年56

遺骸は無造作に掘られた穴にさかさまに投げこまれ埋められた

「河尻肥後守之墓碑」

これが信長の黒母呂衆筆頭から一国の主となった
河尻「肥前守」秀隆の墓に刻まれた碑文である