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伊東義祐父子、伊予に亡命す

2016年06月05日 22:03

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:24:47.85 ID:fhquBQUK
大友勢が耳川の戦いで敗北すると、豊後に亡命していた伊東義祐父子の居住も何ともなく心苦しい
ものとなっていった。そのような折、嫡子祐兵の奥方は容儀美しい女性であったので、義祐父子を
殺害して奥方を奪い取り、大友義統の嫡子惣五郎(大友義乗)の妻としようとする、という企てが
あると、密かに伝える者があった。

この頃、この奥方は母の阿喜多夫人の宿所を訪ね臼杵城中にあった。そこで川崎駿河守が工夫して、
阿喜多夫人の侍女に新大夫という心利いた者があり、彼女に計略を授け、夜に紛れてゴミ取りの
穴より彼女を盗み出した。

その頃伊東義祐父子は野津の光明寺を忍び出て、彼女らを途中で待ち受け、海辺に向かって
落ちていった。ここでは落合四郎左衛門尉兼家が、かつて薩摩に人質に行った折に拝領した
金作りの刀で小舟一艘を買い取り、これに伊東父子を乗せた。そして

「私もお供仕りたいのですが、年老いて、却って足手まといになるでしょう。願わくば、
早く御運が開かれ、御吉左右の程を承りたい事です。」
そう、涙を流して別れた。そして落合は程なく、豊後にて病死した。

伊東義祐父子は、供の男女20人余を引き連れて伊予の道後へと渡った。時に天正7年4月。
道後は代々河野家の居城にてこの時の領主は河野四郎通直であったので、先ずはこの人を
頼みとしたが、河野は、
「日向一国の領主であった人を、今流浪の身であると言っても、抱えおく事は出来ない。」
そう言って保護を拒否した。

伊東父子はどうするべきかと、進退を失い困惑した。
しかしここで、河野家の一族である大内次郎左衛門尉信孝という者が、その知行である久保田の
寿王庵に迎えたいと表明し、伊東父子はここで天正7年4月から同10年正月まで、貧しい月日を
送った。彼らは朝夕の食事すら調わない有様で、川崎駿河守は、一人で酒を醸造しこれを売り、
奥方の女房であった阿竹の方という女性は仕事の合間に木綿の帯を織って道後の町で売って、
これらを朝夕の助けとなした。
また三部(名は快永)という山伏は下野の者であったが、日向に下り数年の間義祐の恩顧を蒙った故に、
この時も付き従い、諸事の調度を取り賄った。

こうして、苦しい生活の中でも、心は慰められ滞在していたそうである。

(日向纂記)



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:49:57.33 ID:+NFWd+lq
寄生虫やん

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:05:58.77 ID:TYTWMosG
宗茂だって浪々の折りはみんなにおんぶにだっこやったやん

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:53:34.34 ID:a6XJEzQL
宗茂の場合普段と変わらぬ姿を見せることが何よりも家臣の励みになるという特殊?な関係なので…

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時には名前がダブることはよくある

2014年10月04日 18:50

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 13:13:27.37 ID:ldOnwHp9
ちょっと名前に関するネタ書いてもOK?

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:06:22.99 ID:952/XcN7
おk
ふさわしくなければ無理やりここの人が逸話にもってってくれる




451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:13:54.27 ID:ldOnwHp9
戦国時代はもちろんのこと、各地の武将は色々な名前を名乗ってきた。
時には名前がダブることはよくある。

一族内で同じ名前になることも珍しくなかった。
しかし、それは当主ではないただの一族衆も含めてである。

当主名前が『A⇒B・・・・A⇒B』となっている当主は朝倉氏景⇒朝倉貞景、松浦隆信⇒松浦鎮信、河野通宣⇒河野通直、岩城親隆⇒岩城常隆の4ケースがある。
毛利家の家臣である福原家の場合は広俊⇒貞俊と元俊⇒広俊がある。
見落としあったらすまん。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:20:18.78 ID:ldOnwHp9
福原広俊カルテット
毛利家の家臣である福原家には4人の福原広俊が存在した。
1人は毛利元就の祖父。
1人は毛利元就の家督相続時の15人の宿老の起請文に署名した際に筆頭として署名した。
1人は関ヶ原で毛利家の断絶を防ぐために徳川家康と内通し、毛利家の居城の選定を話し合った。
1人は江戸期の人で当初広次を名乗るが、父・元俊の一字をとり広俊と名乗る。


河野通直カルテット
伊予の大名・河野家には4人の河野通直が存在した。
1人は南北朝の人で河野通堯であり、改名して通直と名乗った。
1人は通堯の曾孫であり、教通から改名して通直と名乗った。
1人は教通の孫であり、来島騒動を巻き起こした。
1人は事実上最後の河野家当主である。


朝倉教景クインテット
越前の大名・朝倉家には5人の朝倉教景が存在した。
1人は結城合戦で足利持氏の子を生け捕りにし、足利義教から偏諱を賜り教景と名乗った。
1人は教景の子で、最終的に家景と名乗った。
1人は家景の子で、敏景、孝景と名乗った。
1人は英林孝景の子で、宗滴の兄である。
1人は朝倉宗滴でおなじみの朝倉教景である。

朝倉クインテットのみ2名が当主となっていない。
それでも親子4代続けて同じ諱(一時的に名乗ったのも含む)はそうそうないだろう。
幼名ならば竹千代の親子8代が最高。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:27:44.93 ID:ldOnwHp9
朝倉家当主の諱かぶりは更にあり、4つもあった。

4代目と9代目がつけた貞景
4代目と6代目が為景
3代目と8代目がつけた氏景
7代目と10代目がつけた孝景

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:33:27.45 ID:ldOnwHp9
ということでこの人たちの逸話を書くときは混乱する場合があるので注意が必要だ。
宗滴さんの場合は混乱しないだろう。



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:06:41.37 ID:NnSZ5mC+
一条さんみたいに量産されてたのとはまた違うんだな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:07:03.93 ID:lh91U3Xj
戦国初心者のころ島津家久さんのこと混同してたわ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:13:33.48 ID:952/XcN7
当主じゃないのも入れたら色々いるな
服部正成(まさなり)
服部正就(まさなり)

牧野新次郎康成(やすなり)
牧野半右衛門康成(やすしげ)

松平家忠×3
深溝松平、形原松平、東条松平

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:15:36.63 ID:4MFqRPFY
その点伊達政宗は両者で200年ほど開きがあるから混同の可能性はない

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:49:49.29 ID:Pq5QPfOX
>>456
ここのスレで良い家久と悪い家久で覚えたら楽というのを知った。

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:50:55.40 ID:ldOnwHp9
相馬盛胤は2人しかいなかったから入れなかった
相馬義胤は3人なのでこれも同じ。うち1人は鎌倉前期だし

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:56:34.08 ID:ldOnwHp9
>>457
能登系 義続───義綱
二本松系 義継───義綱

畠山氏のサイトの人のところもちゃん親子の読みが同じってのを見てた。

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 18:01:52.19 ID:ldOnwHp9
て、関係ないか

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 18:02:54.73 ID:mYD4KyOV
>>458
室町初期に、今川氏被官の駿河伊達氏に伊達政宗がいるな。

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 18:22:16.35 ID:ldOnwHp9
>>463
しかも息子が忠宗とは・・・
何かの一致ですか?
たぶん今川範忠からの一字だと思うけども

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 21:48:30.67 ID:f60r///+
>>452

諱のかぶりは、極論すれば知られていなければ問題にならないから

逆に官名まで含めた被りは支障をきたすね
特に朝廷から正式に官職名をもらう場合は氏姓と官職名まで含めた重複は許されないし、
江戸時代に入ってからは結構厳しかったらしい

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/05(日) 06:10:03.26 ID:fA1T0Sss
そのおかげで幕末にもなると名前が誰も知らない漢字だらけに

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/05(日) 22:12:20.15 ID:qclDonCW
こんなだっけ?

河野氏
通直(通堯)┳通義━通久┳通直(教通)━通宣━通直━通宣━通直
        ┃        ┗(3代)━通直
        ┗(5代)━通宣


相馬氏
盛胤━顕胤━盛胤━義胤━利胤━義胤

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/05(日) 22:40:12.27 ID:uyeY3UZO
河野家や福原家の当主の諱が交代で重複してるのを見てると
漫画のおぼっちゃまくん家の歴代当主の写真(茶魔とお父さんそっくりの顔が代わりばんこ)を思い出す

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/06(月) 10:48:38.13 ID:Bd4LrDeL
>>437
ですよねーw

武田信治は伊予国に住み

2013年07月25日 19:55

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 23:15:46.76 ID:MDDnDXwB
武田信治は伊予国に住み、河野四郎通直に属した。
通直の死後、信治は仙石越前守秀久に付いて豊臣秀吉に仕えようとした。

秀久は先に秀吉の命により、大友氏の加勢となって豊後国に至り、
島津の兵と戦って利を失った。この時、秀久は信治に救われて逃げることができたので、
この事が露見するのを恥じて、信治のことを秀吉に讒言した。

そのために信治は高野山に逃れ、その妻子を安芸国竹原に隠した。
その後、織田信雄が伊予国に下向の時、信治はおもむいてこれに属した。
信雄は土方雄久と天野雄光をもって秀吉に請い求め、信治を剃髪させてその死を償はせた。

信雄が京都に帰る時、信治はこれに従い、終身扶助を被って死去した。

――『寛政重修諸家譜』




759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 01:17:16.66 ID:igpQpala
ググってみれば、この人若狭武田の流れなんだな
系図の書き換えがどうのと子孫の人のHPにあったが、それが正しければ武田元明の従兄か従弟なのか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:18:18.51 ID:TmkU2EJ9
仙石はやっぱりクソだなって話?

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 02:32:07.35 ID:0WfaAUvp
武田信治でググると武田真治と穴山勝千代ばっかり出てくるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:49:20.26 ID:aUKSJxzL
安芸武田家、若狭武田家でググったら

安国寺恵瓊:安芸武田家
蠣崎信広:安芸武田家5代目(若狭武田家2代目)武田信賢の息子とされる
木下勝俊(長嘯子):武田元明の息子という奇説あり

どこまで本当だろ

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/24(水) 20:57:50.13 ID:igpQpala
いくら奇説とはいえ、1569年生まれの人間が1562年生まれの人間の息子ってことはあんまり無いだろうww

豫州河野家の木鉄砲

2011年05月24日 01:12

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 11:30:39.39 ID:mqf8o2ov
永禄年間(1558~70)、伊予の河野通直は、安芸・毛利氏の拡大に対抗するため
豊後の大友義鑑(宗麟)と同盟した。

さてその頃、鉄砲の技術の先進地といえば永正よりこのかた、豊後大友家だとされていた。
そのため河野通直は友好関係を利用し大友家に頼み豊後府中より鉄砲技術者を派遣してもらい、
家中の者たちに煙硝の採取の仕方、弾薬の製造方法などを学ばせ、火器を大量に生産した。
この鉄砲の大量装備により河野家の防衛力は格段に強化され、その鉄砲術は
「河野流」として東国まで響き渡ったという。

しかして、瀬戸内海で中国、九州と面する長い海岸線を持つ伊予において、
その海邊を守るには鉄砲の砲弾を大きくすること、すなわち大筒の製造こそ
最も効果があると、当時の河野家は考えた。

ではあるが、ノウハウが無い以上すぐに大筒を作ることは無理である。
そのため河野家は大筒製造のため様々な研究を始めた。

ところで河野家が考えたのは、木の砲身の大筒であった。おそらく金属の砲身を作るような
鋳造技術がなかったためであろう。

まず、松の生木を繰り抜いて砲とし、これに金輪をはめてしっかりと固め、
この砲径に合わせた弾丸を作り弾薬を調合して発射実験を行った。
が、これは弾丸を撃ち出すと必ず砲身も破裂し、とても実用に堪えるものではなかった。

次に、同じく松の砲身を今度は縄で巻いた物で試したが、やはり砲身は壊れた。
このように様々な実験を繰り返したものの、どれも上手く行かなかった。

そんな時、ある者が工夫をなして、竹の輪を作って砲身を桶のようにせめ懸けて固め、
これで弾丸を発射。何と、これだと木筒は破損せず弾丸は無事発射された。

この事を喜んだ河野家は、さらに木筒の技術研究を薦め、その運用術も様々に実験した。
そして海邊にこれを多く設置し、敵船が攻め上がってくれば間近まで引きつけた上で
高楼より下に向かってこの大筒を発射。これに当たればいかなる大艦もたちどころに
破壊され、河野の大筒の威力に敵はあえて伊予の海邊に近づこうとしなかったという。

豫州河野家、木鉄砲のおはなし。
(南海治乱記)




773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 11:36:11.07 ID:Df+DbdQY
伊予の大名さんは研究好きだね

幕末の伊達も色々やってるけど

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 16:42:10.62 ID:wmKs6MBJ
大坂の陣でも登場するし
木砲って意外と頻繁に使われていたのかな。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 16:52:49.84 ID:s4/UxCrB
木砲良さそうだけど火薬が大量に必要そう
貧乏大名じゃ気軽に発射出来ないな

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 19:34:28.92 ID:Iiy+65HJ
鉄製の大砲は輸送面で問題がでるそうだ。
道は悪いし、山道が多くて、重い鉄製の大砲は避けられたらしい。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 20:05:26.96 ID:/vQHDJKn
モンゴル軍ばりのカタパルトはダメだったのか。

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/24(火) 22:26:20.69 ID:pCDoygft
>>776
携帯に秀でた大砲といやあグスタフ2世アドルフだな
その名も皮製大砲<故障が多かったみたいだがな
だがスピードと破壊力は現代を凌ぐほど凄まじいものがあったらしい、確か検証してた