津田信澄殺害

2014年04月09日 18:46

914 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/09(水) 02:32:41.57 ID:LF7xZMN8
(本能寺の変が起こった)当時、信長の三男の三七殿(織田信孝)はまだ堺にいて、彼の父が所領として
与えたかの四つの国(四国)を兵士たちとともに占領に赴く準備を整えていた。彼は父と兄への謀反及び
その訃報に接するや、引き返してその件に復讐するための準備を直ちに開始し、まず従兄弟の
七兵衛殿(津田信澄)を血祭りにあげて身辺を固めようと欲した。

七兵衛は信長の兄(原文ママ)の息子であり、信長が父の遺産の相続者に成ろうとしたため、七兵衛の父は
殺害されたのであった。この若者は信長の殺された者の息子であるとともに、明智の一女を娶っていたので、
彼が義父と組んでこの謀反を企てたのだと思わぬものは居なかった。

この若者は当時、信長の命令によって、丹羽五郎左衛門(長秀)と名乗る他の武将とともに、堺から
二里半ほどの所にある大阪城を警備していた。

信長の三男、三七殿の軍勢は、四国の諸国の征服に向かう彼に伴うべく、各々異なった地方から集合し
編成されていた。しかしそのため、謀反の報に接するや、兵士たちの多くは彼から離れ逃げ去っていった。
三七殿はそのため焦燥感をいだき、復讐という希望の実現が遅延することを非常に悲しんだが、自らの元に
とどまった軍勢を率い、信長の息子の親友である他の武将(丹羽長秀)と従兄弟(信澄)の居る大阪に
向かった。

この時、従兄弟は自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿が入ってこないように内部から盛んに懇請し
奔走していたが、様々な交渉の末、五郎左衛門の好意によって三七殿は大阪に入った。
そして二日間滞在したあと、三七殿は五郎左衛門と協議し、トルレ(塔)の最上段から出ようとせず
しきりに身辺を警戒していた従兄弟をいかにして殺害するかについて結論を下した。

彼らが考案した策略は、五郎左衛門が三七殿を船まで送るという、ごく普通の行為を装い、そこで三七殿と
五郎左衛門の家臣の間で騒動が起こるように仕組み、七兵衛の家臣らは城から出ようとせず、
七兵衛自身に至ってはなおさらで、疑いが現実になるのを恐れ外に出なかったので、この偽りの騒動で
五郎左衛門の家臣が敗北したように見せかけ城内に逃げ込んだところを、三七殿の家臣も追跡して入り、
一団となって塔の内部の七兵衛の居る場所を襲撃することであった。

その策略が実行されたあと、同所では、ある人々は七兵衛が自らの手で切腹したと言い、他の者達は
若い身分ある武士たちが彼を殺害したと述べている。

これにより三七殿が勇気と信用を獲得すると、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼の元を訪れ、
主君として認めるに至った。
彼は従兄弟の首級を堺の街近くに晒すように命じた。事実、この七兵衛という若者は異常なほど残酷で、
誰もが彼を暴君とみなし、彼が死ぬことを望んでいたからである。

(ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝による、津田信澄殺害についての、フロイスによる記録である。





915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 02:44:00.10 ID:JFOd6dae
信澄討ったのって上田宗箇だっけ?

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 03:05:08.24 ID:cUyWbTYT
信澄には信包や森くっつけて九州任せようとしてたんじゃ無いかと密かに思ってる

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:01:01.67 ID:Wq+OPh5f
信澄って暴君だったのか?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:53:08.44 ID:T6RTPCLC
キリシタンに興味を示せば・で仏教徒なら×
そんなもんだろ

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