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「刃傷あってはお家の一大事」

2014年07月19日 19:09

327 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/07/18(金) 22:59:30.28 ID:BBI/UJGJ
旗本の方の進藤正次さんの話が出たので少々時代は下るがもう一人の進藤正次さんのお話を一つ。

弘前藩三代目津軽平蔵信義は江戸勤番中、屋敷に大名たちを招いて深夜まで酒宴を張った。
ところが、大名の一人と口論になったため、その大名は裏口からひっそりと帰ってしまった。
信義はこれを知ると激怒し、「首をひき抜いてくれん」と刀をかざして玄関から走り出た。
その時、進藤庄兵衛正次がすばやく門を閉じ、その場に平伏し信義の行く手を遮った。

信義は、正次の首元に刀をつけ、「門を開けよ」と怒鳴ったが、「刃傷あってはお家の一大事」と正次は動かなかった。
しばらくにらみ合いが続いたが、信義はあきらめて屋敷に戻った。
一方の正次は信義の刀がかすって流れ出た血をぬぐい、夜通し門を守り続けた。

(進藤家譜)

津軽さん家の進藤正次さんでした。
時代は下ったけどすでに2つくらい信義さんの逸話出てるからいいですよね。
この進藤さん後に鬼庄兵衛とか呼ばれる家老にまで抜擢されます。




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/18(金) 23:19:50.20 ID:Fmlp0bYo
>大名の一人と口論になったため

南部じゃないのは確か

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津軽信義、幕府の尋問に

2012年11月11日 19:00

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 00:52:36.28 ID:U660Ng4G
津軽信義は幼少時代より母・辰姫とともに弘前藩飛び地大館に幽閉されていた。
その幽閉時代に母は死去、その後は乳母である船橋半左衛門の妻によって育てられた。
信義が藩主になると、国許の家臣をほとんど知らないために船橋半左衛門が重用されることとなったが、
国許の家臣、特に譜代の家臣に不満が募った。
そこで、譜代の兼平信孝乳井建定らが江戸の町屋に篭城し、船橋追放を幕府に訴えた。
これを受け、津軽信義土井利勝松平信綱阿部忠秋らの尋問を受けることとなった。

まず土井利勝は、
「訴状によれば《主君のためにした》としているが平蔵殿(信義)はどのように考えるか」
対する津軽信義は、
「私が若輩のため、家臣どもはいきなり目安をもって公儀に訴え出てしまった。
藩邸より立ち退いた者には帰ってるように再三の説得をしたが、難題を申して聞き入れてくれない。
私には何が良いのか悪いのか判断がつかない。
この上はご公儀においてよろしく御裁断申し上げる。」

と、15歳ながら神妙な回答をしたため、土井利勝
「若年ながらこの分別、私達も子を持つ者として考えさせられる。
特に平蔵殿には岳父がおらず親族も少ない。
相談相手もなく辛いことだろう。苦衷のほどはよく判る」
と、落涙した。これにつられて同席した幕閣も貰い泣きし、信義に対して「お構いなし」の裁定が下された。

余談であるがその後、津軽信義は、娘の萬を土井利勝四男・利房に嫁がせている。

尋問部分は白川亨さんの「石田三成とその子孫」に書いてあり、元の出典は『服部長門守宛、乾四郎兵衛、
船橋半左衛門書状』のようです。





359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 01:02:18.51 ID:Km/8uD4Z
みんな涙脆いなw
それにしても土井利勝松平信綱阿部忠秋の三人の前で話すのは緊張しそうだなー

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 01:07:25.65 ID:4fW2CcqC
>>358
そういや白川亨さんって、今年亡くなられたね。

武功夜話を真書として扱ったりミスはあったけど、実証的石田三成研究の
端緒をつけた人で、惜しい人を亡くしたものだ。

361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/11(日) 03:43:07.88 ID:BonGPYJ3
で反抗した人達のその後はどうなったんだろう?

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 07:49:41.61 ID:AKuoj+Ih
と後の宇都宮藩主が尋ねておられます

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 09:17:46.43 ID:WHBQaoke
船橋半左衛門兼平信孝乳井建定も喧嘩両成敗で他藩お預けになり、
裁定に反発した藩士たちが両派問わず出て行って、城の警備にも事欠く有様になったそうな。
・・・あれ、悪い話?

「何とかしてよ、ハットリくん」「またでござるか、ノブヨシ氏」。

2011年10月05日 22:03

971 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:12:42.57 ID:jifG1Ana
地元の小説や稗史では、為信の軍師である沼田祐光(面松斎)が天海と
親しかったとされることが多い。さらに関ヶ原で為信とともに東軍に随行し、後に
家老を務めた服部康成という人物がいて、家康が鬼半蔵の一族を監視役を兼ねて
送り込んでいたという説もある。

旧恩への義理と外交を使い分けて、うまく世渡りした印象。西軍人脈だけだと
叛意を疑われかねないが、徳川から重臣と正室を迎えていれば警戒されにくい。




972 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:23:29.48 ID:jifG1Ana
>>971この津軽のハットリくんは、のび太ならぬ3代藩主・信義の大ぼらの
尻拭いをさせられたことがある。

江戸城年賀で「金沢城の六尺太鼓は日本一」と聞いた津軽信義は「弘前では
その程度は子供の玩具。城内には十尺に余る太鼓がある」と口走ってしまう。
居合わせた諸大名が「されば雪解けを待って見届け役を送ろう」と衆議一決
したため、焦った信義は国元へ早馬を走らせた。

「何とかしてよ、ハットリくん」「またでござるか、ノブヨシ氏」。

服部康成は急いで大太鼓を作らせ、春に間に合わせた。弘前入りした検使は
大太鼓の現物を見届けて、唖然としながら帰って行ったという。

4代藩主・信政はこの大太鼓を本所上屋敷に運び込み、隅田川を越えて響き
渡る轟音は江戸名物になった(弘果という地元企業のHPより)。

今でも夏の弘前ねぷた&青森ねぶた祭では、打ち手の背丈より大きい太鼓が、
山車とともに市街を巡行します。




973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 13:47:18.49 ID:FY+B0z0m
のぶよし。をプロデュース


974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 13:49:17.54 ID:kgb62dC/
やたら長い大根とかじゃなくて良かったな

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 15:54:02.13 ID:rgO8GD7Y
弘前ねぷた見に行ったら太鼓の上にサラシ巻いたおにゃのこが4人くらい乗って叩いてた
あれはよいものだ

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 17:46:07.19 ID:Vqj51m+Z
よくある小咄なら
「俺の地元にはこんなでっかい太鼓があるんだぞ」
「それなら俺の地元にはこんなでっかい牛がいるんだぞ」
「そんなでっかい牛がいるもんか」
「いなきゃその太鼓の皮を貼れないじゃないか」

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 17:53:06.62 ID:w121xO+F
>>972
実際には太鼓なんて作らず見届け役に
くのいち忍法の肉接待と忍法黄金色の菓子折り
が炸裂している

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 20:00:59.15 ID:CxokdZHx
>>972
本所七不思議の1つ、津軽の太鼓に繋がる話かな
火事の時板木を鳴らすのが普通なのに、津軽屋敷からは何故か太鼓の音がしたってやつ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 22:08:01.78 ID:Pq0DlnoY
他にも伊達の殿様がホラ吹いて豆鉄砲を作ってたよな
「座敷で蝿を射つのに使う」とか言って

あと佐竹の殿様も「秋田の蕗は傘に使える」とか言っちゃって、
領民狩りだして大きな奴を国中探しまわった話もあったな