961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 21:32:40.78 ID:VJX4jmh7
津軽に残った
石田三成の血筋
関ヶ原の戦いで
津軽為信は東軍に加わったが、嫡子の信建は大阪城にいて、
豊臣秀頼の小姓を務めていた。西軍敗れるの報が伝わると、小姓仲間だった
三成次男・重成を連れ帰り、津軽で匿った。
重成は後に杉山源吾と名を変えた。子孫は家老も出す藩重臣となり、通字は
「成」を使った。墓などでは豊臣姓を名乗った。
962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 21:47:27.55 ID:VJX4jmh7
>>961の続き
信建は1607年、為信死去の直前に夭逝し、2代藩主は弟の信枚が継いだ。
彼が1610年頃に正室に迎えた辰姫=辰子は高台院(ねね)の養女になって
いたとはいえ、三成の三女だった。
直後に家康養女の満天姫を正室として迎えたため、辰姫は側室に退き、
関ヶ原の戦功で加増された上野国大舘に暮らして大舘御前と呼ばれた。
その後も2人は睦まじく、信建は参勤途中に大舘に立ち寄った。
妻2人は各々男児を産んだが、3代藩主は辰姫が生んだ信義が継いだ。
後に御家騒動の火種にもなるが、信枚の遺志が強かったと言われる。
満天姫が産んだ信英は旗本→黒石藩祖として遇されたが、福島家からの
連れ子だった大道寺直秀は悲劇的な最期を遂げる。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-534.html963 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/04(火) 22:07:02.93 ID:VJX4jmh7
>>962
辰姫と初期弘前藩については、弘前市本社の「陸奥新報」で今春から、
郷土史家の田澤正氏が「津軽信建と『津軽の江』」という大河ドラマに
ちなんだ連載をしている。信義は「じょっぱり殿様」と言われるくらい
良くも悪くも我が強い藩主だった。田澤氏は「祖父は家康に挑んだあの
三成であるという自負から自由に行動したといわれる」と記している。
他にも弘前は城の稲荷社で密かに祀った像が明治になって豊太閤坐像と
判明したり、「大坂屋」という御用菓子商が「冬夏」なんていう菓子を
藩主に献上していたりする。
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyo/bunkazai/shi/shi20.html南部氏から必死こいて切り取った津軽を安堵してくれた豊臣政権に心底
感謝していたのだろうと思われる。
弘前藩は御家騒動が起きまくりだったのに、公儀が北辺の安定を重視した
ためか、改易はもちろん、一時検討された転封もなかった。
964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 22:40:25.42 ID:iCqeDVeC
津軽藩って弘前城に確か秀吉奉ってたりしたよな
965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:13:19.92 ID:dtRA/sGh
後は津軽は近衛の関係者扱いになってるから、
公家+朝廷に手を出しづらかったのかもしれない。
966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:19:31.48 ID:ZDhfc0BI
ヒゲ殿は関羽を尊敬してたから義にあつい
その精神を汲んで
967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 23:58:13.99 ID:k1UPp5jt
津軽は隣の佐竹に金を借りたり人馬をやりくりしてもらったりしているが、貧乏だったのか?
970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/05(水) 05:06:01.58 ID:Uh4EZWYz
>>966
気に入った女の旦那を殺したり、その女に抵抗されて殺したりする人だけどな
971 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/05(水) 13:12:42.57 ID:jifG1Ana
>>965地元の小説や稗史では、為信の軍師である沼田祐光(面松斎)が天海と
親しかったとされることが多い。さらに関ヶ原で為信とともに東軍に随行し、後に
家老を務めた服部康成という人物がいて、家康が鬼半蔵の一族を監視役を兼ねて
送り込んでいたという説もある。
旧恩への義理と外交を使い分けて、うまく世渡りした印象。西軍人脈だけだと
叛意を疑われかねないが、徳川から重臣と正室を迎えていれば警戒されにくい。