389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 23:21:59.28 ID:CmvOqubw
慶長二十年五月七日
(大阪方は)敵も未だかからぬ内に諸崩れした。この間、私は御使に参り、又敵と手合わせを
していた。しかし秀頼の生害の事が心もとなく思って御城に戻ったのだが、城中は人少なくなっていた。
秀頼は奥と表の間にお入りになり、お側には修理(大野治長)一人、小々姓たちが少々見えた。
私は天王寺表の様子を見てきたこと、また味方敗軍の様子を申し上げ
「さて御生害は何方にて遊ばされますか。」と申すと、「殿守を用意するように」と仰せになった。
そして修理も御供して奥へと参った。私も御供して奥へ参り「鉄砲の薬はどこにありますか」と聞くと、
「たけへ(武部ヵ)助十郎に問え」との事だったので、助十郎に聞いて、鉄砲薬を二人で持って殿守に
上がり、御生害の場所に畳を重ねて敷いて、薬をそこに置いた。そうしている所に頓阿弥が樽を持って参り、
御意が有ると申した。
私は下に下り、秀頼の御前に参って「殿守を用意しました。」と申し上、火縄に火を付けて持ち、
殿守へと御供した。
ところがその後に修理が参り、偽を申して秀頼を止めた。私は「このような時に(切腹を)延ばせば
恥をかくものである。合戦が盛り返したというのは偽です。もはや千畳敷にも火がかかっています。」
と申したが、甲州(速水守久)と修理がたって申して、下の矢倉へと御供した。これは秀頼の名に
傷のつかぬようにしたいという一念であった。
御袋(淀殿)は既に先に下って居られた。秀頼は月見の矢倉の下から外の様子を覗かれた。
市正殿(片桐且元)の屋敷に参る坂の通りに敵が既に侵入しているのが見えた。そこにて内蔵助(渡辺糺)は
切腹した。渡辺長左衛門が介錯したはずである。この屋敷に私が煙にむせて内に入った時、正栄尼(渡辺糺母)は
「介錯してくれるように」と申したため、介錯をした。御ちゃあ、あい、この比丘尼の三人を介錯した。
これは手柄に成るような話ではないが、この時は皆うろたえ、物を申す者も無かった。
秀頼が矢倉に出られると、皆興の冷めたような様子であった。夜に入り、ひき事など長々と申した。
私は「慮外ながら、御手本を仕ります」と言って、脇差を抜いて切腹をしようとした所に、
津川左近(近治)、毛利長門(勝永ヵ)などが来て、私を外に引き出して連れて出た。
八日の朝、「常高院殿(初)に使いに参るように」と仰せになった。私は色々とお断りしたのであるが、
「誰に行くように申しても、敵の中へ出ると申す者がいないので、御頼りになっているのだ。」と
事を尽くして仰せに成られたために、青屋口の京極殿(忠高)陣所へ向かった。
ところがそこに参ると「常高院様は昨日田中まで退かれた。」と、井ノ口左京(高宗)が申した。
矢倉まで左京殿に文を持たせて遣わした所、「どこまでであっても参って、常高院殿に会って
使いの内容を申すように」との事で、私は井ノ口左京の馬に乗って、森口の先の田中に、やがて到着した、
そこで常高院殿に様子を申した所、「若狭殿(京極忠高)に合った上で返事を申す。」と仰せになり、
青屋口まで御出になった。
私はこれに供して返事を承り、水の手まで参った所で、井伊掃部殿(直孝)の手の者に遮られた。
種々にかり事を申したが「京極殿より切手(通行証)を取って来れば入れる。」との事で、是非に及ばす、
切手を取りに帰ったものの、京極殿の方では「切手を出すことは出来ない」という事に極まり、
是非に及ばす、井ノ口左京を頼って「市正殿(且元)を陣屋に訪ねて来てほしい。市正殿を頼って
御城に参る。」と懇願すると、彼は方々へ人を尋ねに使わしてくれたのだが、その使いの帰らない内に、
秀頼の入った矢倉から火が出て、切腹したということであった。
御存知の如く、私は追腹を切るような奉公人では無いので、是非無く左京に送られて京に退いた。
『浅井一政自記』
浅井一政が見た、大阪落城と秀頼の切腹までの顛末
390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 23:53:51.31 ID:0H9cOJuf
腹切るまでうだうだしてんなー
普通なら城兵と民草のために落城する前に腹切って助命乞うもが筋だろうに
慶長二十年五月七日
(大阪方は)敵も未だかからぬ内に諸崩れした。この間、私は御使に参り、又敵と手合わせを
していた。しかし秀頼の生害の事が心もとなく思って御城に戻ったのだが、城中は人少なくなっていた。
秀頼は奥と表の間にお入りになり、お側には修理(大野治長)一人、小々姓たちが少々見えた。
私は天王寺表の様子を見てきたこと、また味方敗軍の様子を申し上げ
「さて御生害は何方にて遊ばされますか。」と申すと、「殿守を用意するように」と仰せになった。
そして修理も御供して奥へと参った。私も御供して奥へ参り「鉄砲の薬はどこにありますか」と聞くと、
「たけへ(武部ヵ)助十郎に問え」との事だったので、助十郎に聞いて、鉄砲薬を二人で持って殿守に
上がり、御生害の場所に畳を重ねて敷いて、薬をそこに置いた。そうしている所に頓阿弥が樽を持って参り、
御意が有ると申した。
私は下に下り、秀頼の御前に参って「殿守を用意しました。」と申し上、火縄に火を付けて持ち、
殿守へと御供した。
ところがその後に修理が参り、偽を申して秀頼を止めた。私は「このような時に(切腹を)延ばせば
恥をかくものである。合戦が盛り返したというのは偽です。もはや千畳敷にも火がかかっています。」
と申したが、甲州(速水守久)と修理がたって申して、下の矢倉へと御供した。これは秀頼の名に
傷のつかぬようにしたいという一念であった。
御袋(淀殿)は既に先に下って居られた。秀頼は月見の矢倉の下から外の様子を覗かれた。
市正殿(片桐且元)の屋敷に参る坂の通りに敵が既に侵入しているのが見えた。そこにて内蔵助(渡辺糺)は
切腹した。渡辺長左衛門が介錯したはずである。この屋敷に私が煙にむせて内に入った時、正栄尼(渡辺糺母)は
「介錯してくれるように」と申したため、介錯をした。御ちゃあ、あい、この比丘尼の三人を介錯した。
これは手柄に成るような話ではないが、この時は皆うろたえ、物を申す者も無かった。
秀頼が矢倉に出られると、皆興の冷めたような様子であった。夜に入り、ひき事など長々と申した。
私は「慮外ながら、御手本を仕ります」と言って、脇差を抜いて切腹をしようとした所に、
津川左近(近治)、毛利長門(勝永ヵ)などが来て、私を外に引き出して連れて出た。
八日の朝、「常高院殿(初)に使いに参るように」と仰せになった。私は色々とお断りしたのであるが、
「誰に行くように申しても、敵の中へ出ると申す者がいないので、御頼りになっているのだ。」と
事を尽くして仰せに成られたために、青屋口の京極殿(忠高)陣所へ向かった。
ところがそこに参ると「常高院様は昨日田中まで退かれた。」と、井ノ口左京(高宗)が申した。
矢倉まで左京殿に文を持たせて遣わした所、「どこまでであっても参って、常高院殿に会って
使いの内容を申すように」との事で、私は井ノ口左京の馬に乗って、森口の先の田中に、やがて到着した、
そこで常高院殿に様子を申した所、「若狭殿(京極忠高)に合った上で返事を申す。」と仰せになり、
青屋口まで御出になった。
私はこれに供して返事を承り、水の手まで参った所で、井伊掃部殿(直孝)の手の者に遮られた。
種々にかり事を申したが「京極殿より切手(通行証)を取って来れば入れる。」との事で、是非に及ばす、
切手を取りに帰ったものの、京極殿の方では「切手を出すことは出来ない」という事に極まり、
是非に及ばす、井ノ口左京を頼って「市正殿(且元)を陣屋に訪ねて来てほしい。市正殿を頼って
御城に参る。」と懇願すると、彼は方々へ人を尋ねに使わしてくれたのだが、その使いの帰らない内に、
秀頼の入った矢倉から火が出て、切腹したということであった。
御存知の如く、私は追腹を切るような奉公人では無いので、是非無く左京に送られて京に退いた。
『浅井一政自記』
浅井一政が見た、大阪落城と秀頼の切腹までの顛末
390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/02(金) 23:53:51.31 ID:0H9cOJuf
腹切るまでうだうだしてんなー
普通なら城兵と民草のために落城する前に腹切って助命乞うもが筋だろうに
スポンサーサイト