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三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


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貧乏の時によく仏神の心に叶う

2018年08月16日 20:13

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 15:23:07.36 ID:FW+EssqZ
弘治2年(1556)、相模小田原の北条氏康は切り誇り、武徳をもって足利左馬頭晴氏の
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。

伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。

浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。

――『浅井日記』


今世武道に正しき将なし

2018年08月11日 18:30

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 15:23:21.09 ID:ZG86LWeA
天文21年(1552)2月26日、細川二郎氏綱とその弟・藤賢が摂津より上洛し、
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。

3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。

この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。

松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。

6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。

義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。

7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。

(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」

義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」

(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)

――『浅井日記』


今の武将(将軍)は有名無実なり。

2018年08月10日 18:59

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:54:32.36 ID:Wo/D1KX8
天分22年(1553)正月3日、六角義秀朝臣が元三会を勤行された。精進代
雞足院導賀、浅井久政が代官として登山した。

7月28日、将軍家(足利義輝)の許容により、前右京大夫晴元父子が上洛した。
これは佐々木左京大夫義賢(六角義賢)があらかじめ申しなしたからである。

久政はこれを嘆いて「ああ、これは乱のもとか。今の武将(将軍)は有名無実なり。
足利家の滅亡はほとんど近きものとなった」と言った。

8月朔日、三好長慶は前の右京大夫晴元父子が許されて上洛したと聞き、摂津・
河内両国の兵2万余人を引き連れて上洛した。将軍家は防戦に

及ばず、京都を去って丹波国山国に下りなさった。同13日、義藤公(義輝)は
勅命により上洛された。

――『浅井日記』

浅井日記は久政を悪く描いてないのは面白いけど六角義秀がバンバン出てくるし、
久政隠居もスルーされててうーんとなる。



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 17:58:55.02 ID:knCl25iW
存在してると都合が悪いから抹消されたんだろうな
秀吉に

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:59:07.54 ID:1tByHFeu
>>24
つまらん。ありえん。

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:22:17.15 ID:RFs/7dHc
もう六角家中の人間にしか見えん

ああ、将軍家が他界されれば三好が時を得て

2018年08月09日 12:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:50:39.07 ID:8eEbnfec
(江口の戦い敗戦後)

天文18年(1549)11月26日より、将軍大御所(足利義晴)は御病気となる。
上池院法印紹弼が御薬を調進し奉る。

12月4日、御所御快気により伊勢国の住人・加多兵庫助教員が所持する竟花と号する
大鷹を、彦部雅楽頭晴直をもって召され長等山で御狩をされた。近衛准后父子、細川家
以下が供奉し、三井の衆徒ら多くが出迎え夜に入って御帰りとなった。

浅井久政は進藤山城守貞治に語って曰く、「将軍家の様子を見るに、武の御器量は甚だ
少なし。伊勢の加多が秘蔵する鷹を召して御慰みとなさるのは、今なさることではない。

ただ義士を集めて武林のもとに慰みなされば、何ともなく御運も開かれるであろう。
人はその作用に疎き時、必ず家を失うものぞ。

将軍家は和歌に達しなさるよりも武に達しなされば、まことに先祖の大功もおのずから
輝かせなさることだろう」とのことであった。

同21日よりまた将軍大御所は御病気となる。今度は片岡大和守晴親が御薬を奉った。

19年正月5日より、足に腫気があり、また上池院が御薬を奉った。同8日には山徒
正覚房法印の勧めによって御近習12人が登山して、中堂まで千度巡礼を行った。

久政はこれを聞いて曰く「人は必ず滅びんとする時に、まず空しく物事にかかって内に
留まらない。よって物を頼むのだ。これが前触れである。

鬼神には常に祈るもので事に臨み祈るべきものではない。ああ、将軍家が他界されれば
三好が時を得て、天下は三好のものとなるであろう。

これは武将の勤めてはならぬ過ちである。自己の神明を磨き出す人は希であるから、
皆々がこのようなものである」と言ったのだという。

――『浅井日記』


浅井久政切腹と鶴松太夫

2018年01月03日 10:13

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/03(水) 00:12:42.24 ID:roPPjTax
浅井下野守(久政)が、小谷城にて切腹の時、舞の名人である鶴松太夫という者、
日々の相伴にも外れないほど、久政より寵愛を受けており、

「この度も御相伴仕るべく候」

そう言うと、最後の酒宴を行い、久政の介錯を遂げると、その身が「同座を汚さんことは
恐れあるに似たり」と、縁の下へ降り、腹を掻き斬ったという。

譜代重代の侍であっても、このような時には降参不義の心出来るというのに、
その身はそういった役では無いにも関わらず、日々の恩を感じ義を思い、
死を快く致したのであり、めったにないことである。

(士談)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/03(水) 23:17:42.30 ID:BP2J77Zv
>>550
この二人の会話、どうやって後の世に伝わったのか気になる

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 00:30:29.50 ID:2tRca7P/
中間辺りが聞いてそのまま逃げたんだろ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 05:33:40.83 ID:hAfKTC9U
>>559
ここは逸話を紹介するスレであって、それが真実かどうかを検証するスレじゃない

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 08:08:45.53 ID:9IhVluh/
>>561
気になっただけで検証とか言い出したら、定番の上野介さんさえ出てこれなくなっちゃうよ

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 12:45:42.46 ID:Qlprx8oR
検証じゃなく感想レベルのことやんな

564 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/04(木) 22:29:33.72 ID:midqhiQE
>>558
殉死は譜代の重臣よりむしろ
身分が低くても主君の傍で仕えてた者が殉ずることが多いらしいな

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 15:29:55.51 ID:1W/VvMEw
>>564
譜代の重臣が追い腹でポコポコ死んだら困るわな
一緒に死んでくれって駄々こねた謀将さんもいるけど

このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶

2016年03月06日 11:41

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 00:31:56.39 ID:wMKdL7YO
天正元年の12月下旬頃より、織田信長配下の大名小名は遠近を限らず一人残らず岐阜に集まり、
正月元旦の出仕のための準備をした。

そして元旦、儀式厳重にして信長も打ち祝い、酒も出て既に三献に及ぶ時、

「珍しき肴が有る。今一献あるべき」

そう言って黒漆の箱を出してきた。人々、何であろうかと怪しみ見るところ、
柴田勝家が呑んでいる時、自ら箱を開けると、そこには金箔で覆った頸3つがあった。
それぞれには札が付けられており、朝倉左京大夫義景、浅井下野守、子息備前守長政、
彼ら3人の頸であった。

万座の人々これを見て大いに喜んだ
「この御肴にては、下戸も上戸もおしなべてただ食べよ!」
そう言うがまま各々歌い舞い、酒宴はしばらく止むことはなかった。

信長は言った
「皆々がいずれも数年苦労をいたし、勲功重畳するによって、このような肴を以って酒宴に及ぶ
事ができた。誠に大慶、これに過ぎたことはない。」

そうして刀脇差しなど数多出して下された。

(甫庵信長記)

有名な逸話ですが、ドラマなんかじゃ信長の行為に家臣たちドン引き、ってパターンが多いのに、
こちらでは信長のサプライズ披露に一同大盛り上がりで大フィーバーなのですね。



416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 06:31:32.92 ID:S+0nU0Jf
>>415
まぁ、敵の髑髏みてビビる様じゃ、戦国武将やってられないでしょうけど

…最大の問題は、小瀬甫庵が今で言う山田風太郎って事なんですよねぇ…

桶狭間の奇襲も、長篠の三段撃ちも、橋の下の秀吉も、話の出所はみーんな小瀬甫庵…

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 08:14:43.45 ID:9f1O8Ufp
正月祝いのドクロについては、信長公記でも一座は沸いたとあって
「ドン引きした」なんてのはそれこそ戦後の小説の類からなんだよなあ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 09:15:24.03 ID:llBUOtPS
当時の庶民だって、晒し首を見るのは娯楽の一つだったんでしょ。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:18:45.51 ID:M2FNLIul
滝川一益が諫言した逸話もあるでお

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:19:29.42 ID:3rdYTjdp
佐々成政な

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 15:19:51.03 ID:ndK+URkg
まぁウソなんですけどね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:06:10.63 ID:Od0Q5EBR
これか。佐々成政、信長への諫言・いい話 
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2132.html

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:30:50.14 ID:1HlgnIZB
>>418
今より死体見る機会多かったからそんなでもなかったのかもね
裁判傍聴するような感じかね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 17:47:53.08 ID:ogl0BerH
節なら首実検で慣れてるだろうし、髑髏なら腐乱生首よりマシだしいいかーって感じじゃね?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 18:59:08.59 ID:XNriMdrd
ああ、武士か。何かと思った。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 21:51:32.57 ID:+PZ9S6Yh
戦国時代の武士なんて道端に死体が転がってたら
とりあえず試し切りする連中だぞ
鎌倉時代の武士よりは優しいけど、現代人よりはずっと鬼畜だよ