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6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


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江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

信長は手早き大将なので

2018年11月10日 16:44

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 17:20:01.51 ID:WhLjlONa
(姉川の戦いの直前)

織田信長は龍ヶ鼻に本陣を張り、総軍は横山城を取り囲んで攻めること急なり。城中には三田村・大野木・野村・
高坂、その他宗徒の者どもが少しも弛まず防戦するが寄手は大軍のために叶い難く、頻りに小谷へ加勢を乞うた。

浅井長政は小勢ながら捨て置き難く、8千余騎で小谷より出勢して大寄山まで着陣した。その時、越前よりも加勢
に朝倉孫三郎景健の1万余騎が26日に近江へ着陣する。神君は23日に近江坂田郡に御着きになり、24日に

信長の龍ヶ鼻の陣所へ御越しになって御対面された。浅井方では越前の加勢が来ることに力を得て「明日必ず一戦
すべし!」と評議した。長政の計策は「信長本陣の龍ヶ鼻まで50町あるので、ただちに攻め掛かれば人馬は

疲れてしまうだろう。今夜野村・三田村へ陣を移して、明日の夜明けに信長本陣へ切り入らん!」とのことだった。
浅井の家人・浅井半助はこれに「信長は手早き大将なので、野村・三田村までの陣替は覚束なく思われます。

今少し軍勢の様子を御覧になるべきでは」と申した。一方で遠藤喜右衛門(直経)は「長政の御謀はもっともなり。
是非一戦で勝負を決しなさいませ。私は敵中に紛れ入って、信長と引き組み討ち果たしましょう!」と申した。

長政は大いに喜び、27日の深夜に越前勢は三田村へ帰り、浅井勢は主計村・野村に移る。果たして半助の言葉に
違わず信長は「敵方が終夜火を焚くのは朝に合戦を心掛けているものと見た」と味方の備定めをされた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


朽木は節義も一時の所縁も忘れて

2018年08月24日 10:12

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 01:51:18.15 ID:k0eQsWFI
元亀元年(1570)4月27日、浅井父子とその他近江の城主らは金ヶ崎・手筒山両城ともに
降参したとの由を聞いて、信長の後ろを遮って討とうとした。信長は大いに驚いて兵を引き、

28日、朽木越えのため引き返した。越前勢は追いかけて戦い、信長はまさに討死せんとしたが、
松平三河守家康が後殿して朽木谷に差し掛かった。この時、朽木信濃守元綱は8百余騎で難所に

引き受け信長を討とうと遮った。信長は通れず、松永弾正久秀は朽木と旧好があったので松永が
まず行って朽木を頼んだ。

朽木は節義も一時の所縁も忘れてこれを許し、信長を通した。信長は虎口を逃れて京都に至った。
近江の諸士は皆、朽木に義のないことを憎んだ。浅井長政は朽木を辱めて曰く、

「元綱はなぜ馬を他門に繋ぎ肩をそばだて尾を振るのか! そもそも朽木は江州先方の士にして、
しかも佐々木家血脈の一流ではないか! その業の口惜しきことよ、名字を汚した士なり!」

これに朽木は一言の返答にも及ばなかった。

――『浅井日記』



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 10:15:27.32 ID:c4dUWH66
きっと松永が朽木の子息を拐って手出ししないよう言い含めたのだろうな

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 10:44:03.08 ID:uwltokou
まとめブログの8605
草が風になびくような

>家康は
>「お前のような地位の低いものは、草が風になびくようなものであるから、深く責める必要はない。
>本領安堵はこれまでと変わらない」
>とおっしゃったので、元綱も家康の寛容さに感動し、涙を流しながら退いたそうだ。

「朽木越えの時は助かった」とでも言えば家康の株はもっと上がっただろうに

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 21:26:17.80 ID:R8yzVX6v
赤座、小川「…」

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 12:09:54.01 ID:wY6mtzYB
>>51
王者は誰にも頭を下げないし、例え黒であっても白と言い切り白と認めさせねばならないのだよ

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 09:32:55.76 ID:Ak7DzSzb
>>51
家康は取り残されてたから朽木越えしてねえよ。
秀吉と一緒に普通に撤退だ。

形は人であるが、心は畜生である

2018年01月05日 15:54

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 01:10:37.80 ID:GQe9Igv/
小谷落城の時、浅井備前守長政が既に自害に及ぼうとしているのを、織田信長
不破河内守(光治)を遣わし、このように伝えた

「今までの縁者の好があるのだから、私の方に少しも疎意な気持ちはない。
ただ兜を脱いで、降参してほしい。」

長政はこれに返答もせず、しきりと自害しようとしたのを、傍の者達が諌めた

「信長がこれほどまで慇懃な礼を遣わした以上、何か仔細があるのでしょう。
どうか平に御降参あって、御家の相続を成されるべきです。」

この説得に長政も遂に同意し、「であれば、父下総守(久政)の生害も御免あるべし」と申し送り、
城を出て、百二三十騎ばかりで、降参の体を示した。

信長はこれを櫓の上から目にすると、声高に罵りの声を上げた
「彼は長政か!何の面目あって降参するのか!?」

長政は大いに面目を失い、その道から赤尾美作守の宿所に入り、そこで自害して果てた。

この時、浅井の重臣である浅井石見守赤尾美作守も続いて一緒にはせ入り自害せんとしたが、
大勢の敵に隔てられ、また彼らは老齢でもあったので足がついていかず、剰え生け捕られてしまった。
信長は彼らを引き出させ、また罵倒した

「汝らは故なきことを長政にすすめ、朝倉と一味して親しき我を敵と致し、
今このような姿に成り果てた。何か言いたいことはあるか!?」

赤尾は何も言わなかったが、浅井石見守は居ずまいを直して言い放った
「事新しき仰せに候!朝倉義景を相違わず立て置くとの誓状の血判が未だ乾かぬ内に、
越前に攻め入った事、これによって長政は義理を違えず義景に一味したのだ!

只今も、『城を出られ候へ、別儀あるまじき』と様々に言ってきたが、長政は
『信長の心中は、手の裏を返すつもりなのだ。ただ自殺すべし。』そう申されたのを、
『もし天命あって長政様の命が続けば、時節を得て信長をこのように仕りましょう!』と、我らが
達って諌めた、そのためにあのようになったのだ。

御辺はただ、天運が強いだけだ。義理を知らず恥を知らず、全てに偽りを行い、
形は人であるが、心は畜生である!」

そう憚ること無く言うと、信長は激怒した
「汝はその言葉と違い、生け捕られているではないか!」

「我ら老衰し、止むを得ず生け捕られた。だがこのような事、古今に例も多い。
武勇にて敵を討たず、偽りを以って人を滅ぼす。これは武士の恥辱である。
今に見ておれ、御辺は必ず、下人に頸を斬られるであろう!」

信長は憤激に耐えず、杖で石見守を打った。石見守はカラカラと笑い
「搦め捕った者へのかくの如きはからい、あはれ良き大将の作法かな。
いかほどでも打てや犬坊!」
そう言い放った。

この後両人とも、斬罪となった。

(士談)



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 14:10:16.44 ID:Y5hAbSpF
江戸時代の人はこういう信長像を信じてたんやなぁって

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 10:59:06.70 ID:fLWOIJC3
かと言って現代の信長像が正しいとも限らないのが難しいところ
七回忌にはすでに世間に忘れられた存在になってたり
秀吉がその後の法要をやめても非難の声すら出なかったり
信長と同時代を生きた人間達のドライな対応を考えると
現代の持ち上げとの差が興味深いね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 11:07:57.66 ID:eCvOkl/F
三好長慶だってあっという間に忘れ去られたしなぁ。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 11:14:44.36 ID:VaK1oG/E
信長の信奉者は三斎の他には誰がいたんだろう

459 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/06(土) 11:44:25.80 ID:BFNYuTQs
森一族は信奉してそうだが

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 12:54:14.27 ID:027hV0Ea
政宗

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 13:12:31.57 ID:b26EW6jH
信長の場合忘れられたんじゃなく秀吉に吸収されたといった方が正しいだろう

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 19:23:00.32 ID:V+zRlDZ1
実は信長が暴君だったって話を広めたのは秀吉なんだよね。
秀吉が編纂させた天正記なんかは、露骨には書いてないけど「信長はすごい暴君だから裏切られまくった!
そんな信長に誠心誠意忠義を尽くした秀吉偉い!」
って基調で書かれてるし。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 19:52:49.88 ID:VtzcOti0
怖くて逆らえずに共犯者に成り下がったただのヘタレやん

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 20:06:27.07 ID:b26EW6jH
>>463
それに従った全日本人はヘタレを超えたヘタレであり君もその子孫ということになるんやがw

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 20:26:49.68 ID:51Y0Y3LF
なのに「俺は信長ほど甘くない」と言っちゃうラスボス。どんだけやん

浅井殿を打ち潰そうと心がけなさったことによって

2017年03月07日 21:34

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』

このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶

2016年03月06日 11:41

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 00:31:56.39 ID:wMKdL7YO
天正元年の12月下旬頃より、織田信長配下の大名小名は遠近を限らず一人残らず岐阜に集まり、
正月元旦の出仕のための準備をした。

そして元旦、儀式厳重にして信長も打ち祝い、酒も出て既に三献に及ぶ時、

「珍しき肴が有る。今一献あるべき」

そう言って黒漆の箱を出してきた。人々、何であろうかと怪しみ見るところ、
柴田勝家が呑んでいる時、自ら箱を開けると、そこには金箔で覆った頸3つがあった。
それぞれには札が付けられており、朝倉左京大夫義景、浅井下野守、子息備前守長政、
彼ら3人の頸であった。

万座の人々これを見て大いに喜んだ
「この御肴にては、下戸も上戸もおしなべてただ食べよ!」
そう言うがまま各々歌い舞い、酒宴はしばらく止むことはなかった。

信長は言った
「皆々がいずれも数年苦労をいたし、勲功重畳するによって、このような肴を以って酒宴に及ぶ
事ができた。誠に大慶、これに過ぎたことはない。」

そうして刀脇差しなど数多出して下された。

(甫庵信長記)

有名な逸話ですが、ドラマなんかじゃ信長の行為に家臣たちドン引き、ってパターンが多いのに、
こちらでは信長のサプライズ披露に一同大盛り上がりで大フィーバーなのですね。



416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 06:31:32.92 ID:S+0nU0Jf
>>415
まぁ、敵の髑髏みてビビる様じゃ、戦国武将やってられないでしょうけど

…最大の問題は、小瀬甫庵が今で言う山田風太郎って事なんですよねぇ…

桶狭間の奇襲も、長篠の三段撃ちも、橋の下の秀吉も、話の出所はみーんな小瀬甫庵…

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 08:14:43.45 ID:9f1O8Ufp
正月祝いのドクロについては、信長公記でも一座は沸いたとあって
「ドン引きした」なんてのはそれこそ戦後の小説の類からなんだよなあ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 09:15:24.03 ID:llBUOtPS
当時の庶民だって、晒し首を見るのは娯楽の一つだったんでしょ。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:18:45.51 ID:M2FNLIul
滝川一益が諫言した逸話もあるでお

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:19:29.42 ID:3rdYTjdp
佐々成政な

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 15:19:51.03 ID:ndK+URkg
まぁウソなんですけどね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:06:10.63 ID:Od0Q5EBR
これか。佐々成政、信長への諫言・いい話 
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2132.html

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:30:50.14 ID:1HlgnIZB
>>418
今より死体見る機会多かったからそんなでもなかったのかもね
裁判傍聴するような感じかね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 17:47:53.08 ID:ogl0BerH
節なら首実検で慣れてるだろうし、髑髏なら腐乱生首よりマシだしいいかーって感じじゃね?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 18:59:08.59 ID:XNriMdrd
ああ、武士か。何かと思った。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 21:51:32.57 ID:+PZ9S6Yh
戦国時代の武士なんて道端に死体が転がってたら
とりあえず試し切りする連中だぞ
鎌倉時代の武士よりは優しいけど、現代人よりはずっと鬼畜だよ

そのようなことはあるはずもないものを、

2016年02月05日 12:41

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 00:56:23.91 ID:wJtdm8/P
浅井の平生の存念は、越前が平定すれば、江北は肝要の
場所であるため、浅井も追い立てられるであろうというもので、

その旨嫌疑に及び、先年敵対したのだとか。

およそ信長公は大心第一の将であるため、そのようなことは
あるはずもないものを、

このように疑ったのは浅井の運の窮するところであろうか。

――『当代記』



浅井長政嫡子、万福の事

2016年02月03日 18:37

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 08:01:35.51 ID:bT7LTetB
備前守(浅井長政)の嫡子に万福という者がいた。越前に人質として
送り遣され、越前平定後は加賀国に行って隠れていたが、

盲人となったので、母、または祖母公(信長の母)を頼って出たところ、
近江国木本にて信長により誅殺された。

――『当代記』



浅井長政斎藤龍興と軍の事

2015年01月25日 17:07

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 16:01:16.11 ID:nDHE0pBS
浅井長政斎藤龍興と軍の事

浅井備前守長政は玉淵川を場所を決めて斎藤龍興と戦をした。
或る時長政は五百ばかりの兵を選び、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に、柵の木を結んで待ち受けた。
龍興は一万ばかりで出てくると長政は聞いて、百人ばかりを菩提の小道から敵の後ろへ回らせ、自ら四百ばかりで、敵が気を緩めているところを夜討ちした。
思いもよらぬところから鬨の声が上がったので、龍興は内通している者がいると思い、慌てて岐阜に引き返した。
長政は大垣のあたりに火をかけたので、龍興は
「敵が勝ちにのって大垣を攻めるのだろう、いざ援けよう。」
と岐阜を出たら、長政はすぐに引き返して、熟練した足軽三十人を樽井の土民の家に隠して、龍興が樽井に入って士卒が疲れたので、
兵糧を食べて油断しているときに、隠れていた足軽達は、所々に火をかけて焼いて煙を立てた。
長政は思いもよらぬ所へ押し寄せて散々に敵を打ち破り、すぐに南宮山に登って敵を待った。
龍興は二度も敗北し、口惜しく思って、四面を取り巻いて余さず討とう、と押し寄せた。
長政はこれを見て、
「敵は大軍である。十死一生の戦とはこのことだ。我が下知がないうちは矢の一筋も射てはならない。」
と言って攻めかかって来るのを待って、山の上から一文字に切ってかかれば、龍興大いに敗北して、これより長政を恐れてまた戦をすることは無かった。
(常山紀談)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 20:10:13.10 ID:gS2gNwYx
wiki見たら1563年に美濃遠征とある
留守中に六角が攻め寄せたんで赤尾が兵500で殿したらしい

遠藤喜右衛門の諫言

2012年06月28日 21:02

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 21:13:38.31 ID:zrrGgult
永禄11年8月5日、上洛を開始した織田信長は7日、馬廻の侍わずか二百四五十で、妹婿である
浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。

その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。

これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには

「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。

であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。

ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」

こう言葉を尽くして説得した。これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには

「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。

それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
そんなことは、絶対にあってはなりません。」

長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
しかし遠藤が重ねて申し上げる

「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
見えるのです!
どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」

そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。

後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)





204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 21:22:30.85 ID:JEjEBXW+
>>202
信長の運の強さは異常

本当になんか憑いてたんじゃないか?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 21:40:40.85 ID:WXxewK+D
遠藤「もう手遅れですわ」(ブツブツ・・・)

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 08:47:45.14 ID:4lvFuVTE
>>202
遠藤さんは素晴らしい武士だな
もっと評価されるべき

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 09:23:46.25 ID:zaxIDqfm
もう出てるけど、長政が離反を決意したときには逆に、もう討つには手遅れだから止めなさいと諫めるんだよなあ

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 09:29:30.47 ID:DFjGMWq7
まあ裏切らなきゃ別段潰されはせんだろ
気付いたら家臣になってるだけで

元亀4年(1572)2月 浅井長政書状

2012年06月10日 21:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:11:17.85 ID:YCk9mbPc
武田信玄の上洛戦により信長包囲網が活発化する中の、元亀4年(1572)2月の浅井長政書状

『(上欠)書状を拝見したところ、懇ろな言葉をいただき恐悦に思っています。
去年12月22日の御合戦(三方原合戦)の次第を承り、耳目に驚愕を覚えました。
三河のことは、これも又信玄様の思い通りに掌握されたとのこと、その事は追々聞いております。
実に珍重であります。
日をおかず尾張・美濃に進軍なされること、偏にお待ちしております。

公方様(足利義昭)も立場を明確にされ、御内書を作られ信玄様に送られました。
こちらの方面でもその後威光を以って、(近江)滋賀郡全体が我が手に属しました。
朝倉義景は緊急に出陣することに決まりました。

申し上げている内容について、我々の方では油断はありません。
織田方から甚だ多くの調略などが行われるでしょうが、猶以て別して我らとご入魂頂ければ、恐悦に存じます。
詳しいことは使者に申し含めました。信玄様に直接申し伝えます。恐惶謹言。

元亀四年二月廿二日              長政(花押)

武田左衛門大夫殿(穴山信君)人々御中


(土屋文書)

『                浅井備前守
                     長政
(越中)勝興寺 御同宿中

前回お便りをしたところ、懇ろなる返報に恐悦に思っています。
そちらの方面の状況を承り、満足に思っています。

及ばずながら申し上げます。今は堅固な備えを構築することに専念すべきです。
輝虎(上杉謙信)との講和をお望みになっているようですが、武田信玄にご相談なくそのような行動をするのは、
全くあなた方にとって勿体のない話です。敵の計略に乗せられる可能性もあります。
我々は示し合わせ同盟をし、互いに同心を誓った、別格の関係なのです。
この事は常々、御門主様(本願寺顕如)の御意も得ています。

また、今月13日に公方様(足利義昭)も立場を鮮明にされ、朝倉義景、そして私に御内書を下されました。
そのためこれをあなた方にもご披見していただきたいと思います。

当国(近江)の滋賀郡も、全体が我が方に属しました。
東国では遠江・三河は申すに及ばず、東美濃の加治田、津保、鉈尾の三ヶ所の城が、揃って武田信玄
属し、甲州勢の先発隊は東美濃に乱入しました。
朝倉義景は我が方面への早々の出兵を決定しました。

申し上げた内容は、着々と進行しております。
諸方面の態勢をこのまま進めていけば、我らの目的が達成されるのは確実です。
どうか活動を停滞させることなく、積極的に策動していくことが肝要です。なお、度々ですが御備えの方は
宜しきように整備してください。

追ってまた申し入れます。恐惶謹言

(元亀四年)二月廿六日               長政(花押)


(勝興寺文書)

浅井長政が信長包囲網間の連絡調整に尽力しているのが、よく解る書状である




882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:18:02.29 ID:CX7wcsOz
9月には滅んだんだっけ浅井

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:36:12.04 ID:oGF3ZDbo
浅井タン・・・(*´д`)/ヽァ/ヽァ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:41:55.71 ID:qglBnDHt
信玄の病死まで、あと一年と少し・・・

886 名前:sage[] 投稿日:2012/06/10(日) 23:22:45.80 ID:z6kcZuJ3
信長包囲網の調整役か。
どんな心境だったんだろうね。

徳勝寺由来

2011年12月05日 22:01

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 00:47:30.15 ID:9LE/C9C7
天正元年(1573年)浅井家が滅亡し、羽柴秀吉が江北一円を与えられ、長浜城を築き
文禄四年(1595年)長浜城に内にある寺を移した

それは浅井家の菩提寺であり、元々は小谷城の背後にある上山田村にあった医王寺という寺を
浅井家初代、亮政が小谷城と共に同山麓に移して菩提寺にしたものだ
それを秀吉は、亮政の法号、徳勝寺殿にちなんで、徳勝寺と改名した

時は流れて徳川の世となった慶長十一年(1606年) 時代は二代将軍秀忠の頃
徳川譜代の内藤信成が長浜を与えられた際、城下の田町に同寺を移転させた
秀忠は、江の父祖の寺なのだからと配慮し、寺領三十三石余を安堵した

更に時は流れて寛文十二年(1672年)
長政の百回忌に、彦根藩主の井伊直惟が現在の地に移転し境内を整備した

江戸中期の頃、中御門天皇が長政に従二位大納言を追贈して以来、皇室が年忌ごとに香料を下賜する慣例になった

そして現在、境内には、亮政・久政・長政の三代の供養墓が並び
寺内には、浅井氏三代の夫婦像や一族の位牌、過去帳などが所蔵されている

逸話じゃないけど、一つの菩提寺でも色々な配慮がされているんだなぁと思ったので




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 09:53:28.26 ID:LT1PHWv7
凄い寺だが、霊感強い人が行ったらなんかこう…

浅井長政、斎藤龍興を評す

2011年05月20日 00:01

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 11:32:25.09 ID:WpXvErRg
永禄7年(1564)7月の末、尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興が戦い、
龍興が敗北した。
また同年8月10日にも両者は戦い、この時は斉藤勢が大敗北をした。
しかし龍興は決して、信長に降伏しようとはしなかった。

さて、この事を知った近江の浅井長政は、赤尾という家臣にこんな言葉を漏らした。

斎藤龍興という人は誠に、今の世の義士である。

将来、我々の武威が盛んになれば必ずこの人を幕下に加えよう。
もしまた我々の武威が衰えて他の勢力に付かねばならぬ時が来たら、
必ずこの人を頼ろう。

ああ、今後の世の中に義士が現れるとは私には思えない。
ただ裕福な商人の友を作ってこれを縁とし、それにへつらうような士や将ばかり多い
世の中ではないか。」

浅井長政による、斎藤龍興評である。
(浅井日記)




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 12:54:24.20 ID:FPEAlSY0
負けっぱなしの人の下に付いたり、家臣にしようとしたりする
意味が解らんが…
気概だけは立派なり!ってことなん?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 13:31:56.12 ID:EktnG6Iv
六角に屈した事とかもあると思う

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 14:38:53.63 ID:5OyY7kHY
浅井長政が天庵さまと出会ったとしたら、もはや何が興るか想像できない

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 18:45:04.49 ID:FCmIQRs1
天庵さまって別に義士じゃないよな。奇怪な徳はあるけど

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:20:01.94 ID:vLE0dyFo
龍興もどの辺が義士なんだ…
信長=(当時の長政にとって)悪 に一貫して反抗してるから?
それ以外では暗君エピソードくらいしか知らなかったのでwikipe見たら
長政の甥か従兄弟に当たるんだな
キリスト教に接近したからかもしれんが、宣教師からの評価も高い

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:22:11.67 ID:Hbqph87K
宣教師の武将評価ほど信用ならないものはない

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:02:44.33 ID:yGWwilAu
宣教師の記録を信じるなら、あの一条兼定はスーパー聖人君主なのである。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:13:08.36 ID:stFhYcRd
聖人が悪人の策謀に勝てるわけもなく

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:27:07.36 ID:M28elnrz
>>685
義士は菅谷さんと小田領民の皆さんだな。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:43:27.19 ID:q0LMY/Jh
宣教師が入れ込んだ大名が悉く衰退したのは策謀に劣る聖人だったからかw

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:19:55.89 ID:APCW+l9I
織田秀信とか前田玄以の息子(パウロ、長男のほう?)も宣教師からは高く評価されていた


693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:25:39.57 ID:RJMZT/VL
竜造寺「カエサルとか言われて調子こいてたら釣られたクマー」

磯野員昌、お礼参りと称して

2011年04月03日 00:00

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 11:14:42.32 ID:LFR3emiD
戦国乱世であるからには、政略結婚と一口に言っても、遠隔地に輿入れするのは容易なことではない。
間を美濃国の斉藤に遮られた尾張国の織田と近江国の浅井の場合は、次のような策を講じて信長の妹・お市を
浅井長政のもとに送り届けたという。

永禄3年正月、剛勇で鳴る浅井家家臣・磯野員昌は大病にかかるも九死に一生を得た。
ついては伊豆・箱根・三島明神・浅間神社に祈願した霊験のおかげなのでお礼参りをしたいと東海・東山道筋の
各城主に員昌の使者が送られた。

員昌は音に聞こえた勇士。戦乱の世とはいえ、お礼参りとあれば今川も北条も通行を許可しない訳には行かない。

しかし員昌のお礼参りは口実だった。
道中、尾張に立ち寄った員昌は織田家の佐久間信盛と密会し、お市と浅井長政との婚姻の話を取り決める。

翌永禄4年6月、員昌は再びお礼参りの旅に出る。今回は夫婦共に参拝したいと今川・北条に申し送り、女輿や
侍女を多く連れて東国を巡る旅となった。

そして、帰路に立ち寄った清洲にて、員昌の妻として輿に乗っていた替え玉の女性とお市とを入れ替えた。
その後、お市を加えた員昌一行は何食わぬ顔で小谷まで戻り、無事長政の祝言を執り行ったのである。

以上、後に姉川の合戦における十一段崩しで有名となる磯野員昌は意外と策謀にも長けていたという、
「川角太閤記」に記されたウソみたいな本当の作り話。




689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 14:16:54.07 ID:cuHJRVlm
嘘みたいだろ、でもやっぱり作り話なんだぜ

691 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/02(土) 15:31:48.08 ID:n8K4t/gZ
普通に使者とかが往来してたんと違うの?

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 16:43:16.50 ID:679CCU9z
著作権の問題で最終巻が発売されなかった『信長』だと
市自身のアイデアで対斎藤には囮の輿をしたて、市は少数の侍女を従えた旅人を装って小谷に入っていたっけ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 21:37:42.86 ID:ThEttSCr
>>692
メディアファクトリーから最終巻出てるよ
なぜか改訂版だと松永久秀の髪が黒くなってるがw

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 00:58:44.28 ID:UOCUQZ4x
桶狭間の頃から蘭丸が近侍しているね。
信忠もかなり早い頃から登場しているね。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 05:56:44.83 ID:us+ZgtUB
>>694
森成利(永禄八年~天正十年)

ははは御冗談を

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 07:33:27.13 ID:HTW7epGZ
>>696
>>692>>693

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 07:37:05.19 ID:us+ZgtUB
>>697
なるそういう流れね

浅井長政の姉、昌安見久尼

2011年03月31日 00:01

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:28:36.96 ID:vituTarA
もしかしたらその評判の悪い大河ドラマでもやってたかも知れないけど、見てないので既出だったらスマン。

小谷城の南にある実西庵。その庵主・昌安見久尼は浅井長政の姉である。
天正元年に浅井家が滅亡した際、お市と浅井三姉妹は一時、この実西庵に身を寄せていたという伝承がある。
信長の手勢がこの庵にお市と三姉妹を探しに訪れた際には、昌安見久尼が法衣の中に三姉妹を隠して守ったという。

しかし、いくら子供とはいえ三人も法衣の中に隠せるものか?

実は、昌安見久尼は身長175センチ、体重105キロという巨躯の持ち主。幼少時からあまりに大柄だった為に、
早々に結婚を諦めて尼になったとさえ言われる女性であった。

織田兵にしてみれば「お前のような尼がいるか!」といいたくなったかもしれない。

そんなデカい姉がいたのなら、と浅井長政デブ説の傍証になりそうなので、イケメン説を信じる人にはちょっと残念?な話。




409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:44:59.31 ID:ne50t0eo
淀殿もデカかったという話あったよね。
身長170㌢超とか。

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:57:09.36 ID:C7A/BqTr
以前いい悪いスレで淀殿の身長が168cmという記述を見て、出典を探してみたら
肖像画の着物の寸法から推定・計算したものらしいね

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 21:57:29.48 ID:nvLGpUYl
織田も浅井も当時としては高身長な家系なんだな

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 22:17:39.25 ID:vh5Qr9dM
高虎「北近江の米を食べると大きくなれるのでござる」
清正「左様。今浜あっての某でござる」
正則「然り然り」

浅井長政「横に大きくもなるとは」
遠藤直経「殿……」


413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/29(火) 22:50:18.84 ID:/aa9rkyr
石田佐吉「・・・」