弓矢の礼儀

2017年08月07日 18:26

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:06:10.56 ID:ptMNn+dR
北条陸奥守氏照の家臣の内に、中山勘解由、石原主膳という人に知られた武士があった。
この内中山は、小田原征伐のさい八王子城にて討ち死にし、石原は氏照の供をして小田原城にあり、
氏照自害の後は井伊直政に仕えた。彼は武功ある武士であったので、直政より旗を預けられた。

関ヶ原の岐阜城攻めの際、浅野幸長の軍勢は、岐阜城の出城であった瑞龍寺を乗っ取った。
浅野勢は瑞龍寺内部になだれ込んだが、その時何故か浅野の旗を立てるものが居なかった。
他の部隊も近くを通ったが、この事に気づくものが無かった中、いい直政の兵が搦手より押し入り、
石原の下知にて直政の赤旗を城の内に押し立てた。その上で浅野勢のうち大将分の者を招くと
石原は言った

「瑞龍寺は井伊直政の勢が乗っ取った!」

浅野の者たちは驚き反論した、「これは存じもよらぬことを承る。幸長の手にてここは乗っ取ったのだ!」

「ならば城を攻め取った印は何であるか?」

「我等は勢はいずれも城の中を走り回っているではないか!」

石原これを聞くと、傲然と言い放った
「それは御自分の功名というものだ。御旗印の一流も見えない以上、実正とはいい難い。
我々は旗を上げた。これこそ証拠である!」

これに幸長の家臣たちは言葉に詰まり、返答できないでいた。
と、ここで石原は大笑いし

「いやいや、この話はここまでにしよう。各々がどうも弓矢の礼儀をご存じないようなので、
あえてこのような事を申したのだ。勿論この城を落としたのは各々が粉骨された故であるのだから、
我々は旗を降ろし、城をそちらに参らす。」

そういって、旗を撒いて撤収したという。

(士談)



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:30:00.50 ID:99qRtOQS
>>131
いい話スレだけど、喧嘩になるかと思った

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:49:24.48 ID:Oii5T9zM
後の「ショー ザ フラッグ」である
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上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

浅野幸長が早逝したのは

2017年01月07日 20:16

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 18:23:25.52 ID:DMsbktqS
浅野幸長が早逝したのは


慶長18年8月25日、紀伊国主の浅野幸長が死去した。
近年唐瘡にかかってしまったので、今年は夏中在京した後に
養生のため紀伊に下国されたが、そのまま亡くなられた。
おととしは加藤清正、浅野長政、今年は池田輝政、大久保長安と死んだのは
ひとえに好色ゆえの虚の病という話である。

この浅野幸長も五年前に葛城という遊女を買い、無右衛門尉という傾城を買って
そばに置いて慰まれていたので、その果てに早逝されたとのことだ。
跡を継ぐ息子がいないので、紀伊国は誰が拝領するのだろうかと噂になった。


――『当代記』

大身が相次いで死ぬと、雑にまとめられてしまう悪い例。



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 23:48:38.51 ID:01a7hoED
梅の毒ですね

淡路国をしてやったり

2016年12月27日 19:10

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 16:00:30.58 ID:7PUV8B8k
淡路国をしてやったり


慶長15年2月、池田輝政は駿府で家康に謁し、淡路国六万六千石を加増された。
これは三男の忠雄殿(このとき9歳)が賜ったところである。

この時に浅野幸長も登城していたので、世上の風聞では
「今日、池田浅野両家のうちどちらかに淡路を賜うだろう」
と言われていたので、両家の伴人は皆耳をそばだてて待っていた。

輝政が玄関から出てこられ、お供の士の安藤牟三郎をお呼びになり
「お前はどこそこに行って『今日御前において淡路を我にお預けになった』
 と言ってくれ」
と仰せられたので安藤は承り走り出たので、呼び返しになられて
「お預かりと申せ、拝領とは申すな」
と命じられたが、其の頃の天下諸士は闊達であるのが流行っていたので
安藤が下馬の橋を走り出たのを、傍輩が立ちふさがって
「安藤いかにいかに」
と言葉をかけると、牟三郎は扇を開いて頭より上に高くあげ大音声で
「淡路国をしてやったり、してやったり」
と叫ぶと、池田の士が不覚にも一度にあっと声を出したので
下馬中の一同はどよめき声は静まらなかった。


――『池田家履歴略記』



人で葺く

2016年12月26日 16:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 20:41:55.00 ID:rz8P6Z61
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/26(月) 10:32:15.16 ID:pDCciezT
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

浅野幸長の機転・および石川五右衛門の顛末

2016年05月10日 11:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 01:43:25.42 ID:qqwO0VTT
石川五右衛門という盗賊は、豊臣秀吉の時代、大小名および諸士群参の日になると、大阪並びに聚楽の
営中に紛れ入って、諸席に置かれた重代の宝刀、或いは鋭利な良刀を、己の鉛刀に代えて帯び、退き出た。
このため心ならず惰弱の汚名を被り、歯噛みして憤る輩多かった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関において刀を従者に遣わし、短刀ばかりにて営中に登った。
衆人その才知を賛美し、これに習い、みな従者に刀を持たせるようにした。
これにより石川五右衛門の計略も絶たれ、その後営中に紛れ入ることはなくなった。
またここから、営中に入る時刀を従者に持たせるのが士風となったのだとか。

ある説に、石川五右衛門は盗賊の張本にて、暴悪のこと多かった。ここに京都松原通新町の西に居住していた
右筆の何某は、石川の友人であったので、命あって召し捕える事が仰せ付けられた。
そこで彼の者は計り、茶会に託して我家に石川五エ門を騙して招待し、これを生け捕った。
これによって、世に言う釜煮の刑が行われたと伝わっている。

(新東鑑)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 13:04:56.47 ID:WAFCxkCW
石川五右衛門ってホントに実在したのかねえ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 12:51:11.61 ID:E+gdZ11k
>>600
大阪府島本町にある水無瀬神宮の門には石川五衛門の手形がある

信じるか信じないかは人それぞれ

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 13:40:42.63 ID:3Nb414DO
実在は信じるがそれは信じない

士卒の身命、大将のお命

2015年04月05日 14:15

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/04(土) 19:18:27.42 ID:+uCFsa96
朝鮮の役における第一次蔚山城籠城戦のさい、明軍に囲まれた蔚山城内は食料、飲料水の補給が断たれ、
既に5日と成った。
上下、飢渇に疲れ果て、軍勢は憔悴しきっていた。

ここに不義の佞人があって、蔚山城の主将である加藤清正、浅野幸長、太田一吉の三大将に密かに申し上げたい
事があるというので、太田一吉が加藤、浅野の両将に使いを立てて会合しこれを聞いた。

彼の者ここで
「傍の人を退けていただきたい。」と申し上げる。

そこで太田一吉は、田中小左衛門尉、九津見兵蔵、大河内茂左衛門尉に向かって下がるように命じた。
田中、九津見は畏まって座を立ち役所の方へといったが、大河内は
『どうもこの者、怪しい思慮を巡らしているようにみえる」』と思い、言葉を怒らせて太田に
「このように夥しい漢人・江南人に囲まれ、たった今でも討ち死にし冥土までお供申すべきそれがしに、
一体何をお隠しなさるのですか!」
そう荒らかに申し上げると、彼の者も是非無く、そのまま三大将に向かって申し上げた

「この城内は既に米も水もなく、皆近いうちに餓死してしまうでしょう。しかしここにおられる
三大将のお命は、士卒に比すべき物ではありません。
上のお為、御身の為、すみやかに城内より脱出され、後詰の兵を催して下さい。
幸いに御馬三匹ありますればこれを召して川を渡り、向かいの地に到着するのは非常に簡単な事です!」

この言葉に三大将は目を見合わせていたが、彼らが何の返事もしない内に、大河内が怒鳴った

「それ!軍将が飢渇を軍士と共にするのは、古よりの道である。しかもこの籠城と申すは、
遠く日本の地を離れ大明の攻めを受け、命を惜しいと思し召すなどあっていいことではない!
そのような事は、日本にあってもなお恥とすべきこと。いわんや他国においては!
たとえ命が助かったとしても、何の面目があって人にまみえることが出来るだろうか。

例えば、士卒の身命に大将は変わることは出来るが、大将のお命に士卒を変えることは出来ない!
このような不義なる申状は、大将のお耳に入れるべきものではない。孺子よ推参である。立ち退け!」

そう荒々しく言い放つと。三大将は一同に「大河内の口上、至極もっともである」と同意したため、
不義の佞人は手を失い、顔を真っ赤にして退出した。

大河内はそのまま座を立つと、「馬があるからあのような佞人が出てきたのだ」と、大声で舎人を呼んで
「大将たちの御馬を引き出せ!」と命じ、腰の刀を引き抜くと一匹づつその首をはねた。

(朝鮮記)



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/04(土) 19:42:30.20 ID:YZefENOO
籠城5日で水も食料もないってスゲーな

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/05(日) 13:37:08.14 ID:O+VQJwmX
城が出来てすぐ、兵糧入れる間もなく始まったからね

浅野幸長の能登配流

2014年11月18日 18:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:56:27.29 ID:/RSIwZRJ
大河ドラマでスルーされたのが切なかったので
>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます


浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。

そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。

そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。

事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。

何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。

そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。

しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。


↑ここまでが能登配流の経緯

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:03:07.60 ID:/RSIwZRJ
↓ここからは帰参にまつわるお話(こちらはいい話なので、おまけとして)


文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。

そこで徳川家康が、

「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」

と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。

使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。

幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。

これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。



(共に『浅野長政公伝』より)




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:48:45.67 ID:sWAI5QZj
下手にこの時期御赦なんか出なかったら、渡海せず朝鮮にも行かず遊女遊びもせず、梅毒にもならずそしたらもうちょい長生きできてたかもな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:42:11.51 ID:AhAL2do8
一生懸命よくわからん土地で戦って、後妻もらったら難癖つけられて切腹させられそうになるんだもんな。そりゃ、心離れるわ。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:44:12.62 ID:7E5JT4/m
>>825
この時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。


ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:53:55.97 ID:i85WcvmH
大河の忠興はヒドかったぞ

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 01:49:10.04 ID:4lAv9pPZ
>>827
確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:20:44.84 ID:AhAL2do8
>>827
ジミーさんって大河ででてきたことあるんだろうか。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:29:12.46 ID:4nD8sGuB
>>828
いくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは

>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:47:58.93 ID:mOvZS9tu
大河みてたらことのほか三才が肥満体で笑った

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:57:43.13 ID:7E5JT4/m
>>828
大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw

>>830
功名が辻にも一応いたような…?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 08:55:44.94 ID:BuhQ+WP2
ジミーさん大河出演歴あるのか。ネタがなくなると主演あるかな。清正とのダブルキャストで。二人の加藤とか。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 14:33:14.58 ID:Q1hBnzee
>>834
砂加藤「俺も仲間に入れてくれよ~」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 16:52:14.88 ID:LwSHz8/F
飛び加藤も忘れてるし

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 19:42:49.60 ID:c3cxOapc
ジミーさんは葵三代ならちょいちょい出てるよ
>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 07:16:00.85 ID:jG4jvGsl
賤ヶ岳七本槍が主役の大河ならジミーさんも主役

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 08:19:37.26 ID:8OLblkt5
松山:坂の上の雲
会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう

浅野幸長と伊達政宗は

2014年11月16日 17:27

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:25:06.71 ID:1T7aCUnZ
浅野幸長伊達政宗は、最初大変仲が良かった。

政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。

そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。

その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。

秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。

政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。

以来両者は、君臣共に絶交となったという。


(『浅野長政公伝』)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:04:05.54 ID:O2pJ7Riw
>>810
不思議な事に大久保長安事件では名を連ねている両名

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 20:52:06.13 ID:lIO5SLnR
>>813
この二人、戦国逸話スレ情報などからして何故か真田のお兄ちゃんと仲がいいんだよなw

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:48:52.60 ID:VgWnhJNQ
>>814
そりゃ極悪親父にもまれりゃたいていの椰子は許せるようになるだろうw

講談の終わったあと幸長は

2014年04月07日 19:02

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:23:49.73 ID:cC/WF0ye
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)の邸宅で、孟子一段を講談したことがあった。
このとき講釈したのは、『生於憂患而死於安楽』(憂患の有る時には生き、安楽な時に死ぬ)という段であった。

講談の終わったあと幸長はこのように言った

「私は石田治部(三成)と仲が悪かった。治部が生きていたころは、彼に隙を与えまいと、身を謹んで
人に非を入れられないようにし、体も健康であった。

今は治部も死に、その上御所様(徳川家康)とは懇ろな関係で、(その頃未だ徳川と関係の悪かった)
佐竹や島津とも特に何かあるわけではない。だがこれによって気が緩み、却って病気になってしまった。
賢人の言葉というものは、少しも相違がないものだ。」

(老人雑話)

敵の喪失により自分も弱ってしまった、という浅野幸長の述懐である。




884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:58:10.77 ID:xy6/elfq
真田のお兄ちゃんの死因が判明

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:24:26.40 ID:J+qydBC1
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
既出

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:26:37.45 ID:J+qydBC1
しかし、島津、佐竹についての訳は違うな

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 05:54:20.28 ID:koYRP92t
島津・佐竹についての部分の解釈も、真田のお兄ちゃんとの関係を見出す住人の解釈も真逆の印象

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 22:59:40.77 ID:4AKn74+k
>>883

親父は関ヶ原後の大坂城城内をみて「治部少がいた頃はこんなことはなかった」と嘆き、
息子は「治部少が生きていたころは、緊張して身体健康だった」と言い....
何だこの親子

895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 23:11:03.96 ID:FBU9TbXr
ツンデレやな~

松原内記刺殺事件顛末

2014年02月02日 19:06

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 20:35:03.48 ID:hYoT6XAn
慶長14年(1609)5月18日、紀伊国主である浅野幸長の用人(近習)であった松原内記が、
左内と言う者(年齢17歳)に刺し殺されるという事件があった。その内容はこのようなものである。

この左内という若者は京都の人間であったが、浅野家に奉公したいと思い、そのために紀伊に下ることを、
つてを以って松原内記に言い送った。松原はこれを承知し、紀州に下ってきた左内を招き、小袖などを
与えた。

ところが、この時松原は左内を一目見て恋慕し、幸長に紹介せず、彼をわたくしに抱え置き、
懇ろに遇した。

そのような中、6月になって丹波国に普請があるということで、松原内記浅野幸長の命令により
丹波へと行くこととなった。

この頃までに、松原が密かに抱えた左内の事は内々に幸長の耳にまで入り、幸長は内記を一目見たいと
度々松原の屋敷を訪問したのだが、松原は深く彼を隠したので、終に見ることが出来なかった。
しかし松原は、自分が丹波国に行っている間に幸長に彼の事が露見してしまうと恐れ、左内を
自分が出発する20日前に、人を付けて京都へと密かに行かせた。

ところが、この後書状が左内に送られ、そこには『今後松原内記はお前を相抱えない』とあった。

左内はこれを見ると大変に怒り、父母親類にも隠して紀州へとただ一人下り、松原内記の屋敷に忍び込み、
彼が居間で寝ているところを、大脇差を以って三刀で殺害した。そして自身も、その場で自害した。
左内という若者は、大変美麗であったそうだ。

しかしこの事件は、近習を殺された浅野幸長を激怒させた。彼は左内の紀州への奉公を助けた
京にいる彼の叔父の坊主が、この件に関して内々に知っていると考え、大御所徳川家康の居る
駿府の奉行達、並びに女房衆に、この叔父を抑留するよう申し送った。

これを家康は承知せず、また京都所司代の板倉伊賀守も、この件に関しては「浅野幸長の存念は
然るべからず」と発言した。京畿の庶民たちも、「これは紀州殿(幸長)が筋の通らない事を言っている」
と批判した。

それでも浅野家では、「この事をこのまま放置してしまえば、我らの京都での外聞然るべからず」と
しきりに駿府に訴え出たため、駿府でもこのまま黙視することは出来ず、かの叔父の僧侶を
11月に浅野家に引き渡し、彼は牢に入れられた。

(当代記)

浅野家における、衆道がらみの事件の顛末である





浅野幸長「大膳よ、必ず沖を通ってはならん」

2013年08月27日 19:52

213 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:28:53.20 ID:E86BTfVu
あるとき、浅野幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、
そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。

城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は
洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。
ところがこれを聞いた幸長は、

「今日は泊っていった方がいい。ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、
小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。
是非泊っていくといい。見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。」

と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。

次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。
幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、
幸長は長政に自分の家老や物頭らを
「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」
と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。

幸長は川口まで長政を見送り、
この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。
幸長は大膳に、

「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。
わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。」

と申し付けた。
そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。
ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。
さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。
大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、
長政は礼に刀をやって大膳を帰した。

一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと
何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。

214 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:30:55.46 ID:E86BTfVu
戻ってきた大膳は一通り送別が済んだ事を報告したが、
それを聞いた幸長は不満な様子で「それだけか?」と尋ねた。
すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから

「さても今日は迷惑なことでした!
黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので
大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」

と答えた。
これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、

「わしが聞きたかったのはそのことだ。
わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、
その程度の事に気がつかない訳がなかったな。

そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。
この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、
様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。ただの見舞いのはずがない。

そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、
西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。
そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。
これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。
そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。」

と理由を説明し、
「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」
と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。

(浅野長政公伝)より


長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。
前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと
時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると
海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:12:01.09 ID:Q+yKU0Wp
>213
腹黒っ!NAGAMASA(浅野の方)も宇都宮や九戸でも腹黒い事してたよな。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 14:14:22.89 ID:sQ4s80q3
>>213
見舞い禁止されてるのに、大して親しくも無いのが来たら警戒するよな

黒田長政は常々こうぼやいていた

2012年09月22日 20:29

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 12:28:22.84 ID:96f3VvAj
黒田長政は常々こうぼやいていたという。
「オレは14歳で初陣して以来、手柄を何度も取った。
しかし、人は皆『如水の子だから当然だ』という目をしている。
その点、幸長はさして武辺者でもない弾正(浅野長政)の子だから、
あまねく天下から武勇をもてはやされている」と。





530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 12:56:45.43 ID:F7XLBAkn
>>528
10歳くらい年下の幸長に嫉妬するとは

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 13:07:52.18 ID:QuUwL04t
>>528
え?クロカンの方が無辺者のイメージ無いけど...

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 13:23:50.56 ID:F7XLBAkn
武辺者ってのは個人の武勇だけじゃなくて戦場での采配巧者も含むから如水は武辺者で良いんじゃない?
それも同時代の人から見ればとびきりの武辺者だと思うけど

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 13:43:27.23 ID:uCrdzVEh
クロカンが武辺者だからというよりは
あのクロカンの息子なんだからさぞ出来がいいんだろう、
とか思われてたんじゃないかと

橋本六郎の腰兵糧

2012年09月20日 20:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:50:17.79 ID:mT5W41pB
慶長の役の時のこと。蔚山築城に伴い、城外に駐屯していた浅野幸長は、明軍の奇襲を受けた。何とかこれを防ぎ
退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。

浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。

「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」

やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」

六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。

「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」

戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)


橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:58:25.28 ID:6+IZfnb9
橋本六郎の場合は幸長に食わせたほうが
中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 19:46:43.89 ID:htmcZuen
>>496
半ばネタなのに思いっきりマジレスせんでも…

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 22:35:28.68 ID:wUnYQsSP
さり気なく河内守が屑過ぎw

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 23:39:52.44 ID:7951B03d
なんの糧食も持たずに戦場に行くとも考えられないし
河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか

もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 23:45:18.01 ID:pQEoZRdk
自分の家人に持たせてたけど、死んだかはぐれたんでしょう

浅野幸長は一計を案じた

2012年09月04日 20:51

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 23:36:49.60 ID:z0uybhUz

石川五右衛門が出没していた頃のこと。朔望(陰暦の1日と15日)など登城の日に、
五右衛門は人々に混じって聚楽の城中に侵入し、自分のなまくら刀を他人の
良刀とすり替えていた。

人々は五右衛門の悪さに憤りを覚えてはいたがどうすることもできないでいた。
そんな時に浅野幸長は一計を案じた。玄関で従者に刀を渡して置き、短刀だけで
登城するようにしたのだ。

人々は幸長の智恵に感心してこぞって真似をするようになった。これによって
五右衛門の策略は大いに阻まれたという。またこれを境にこの習慣が士風となった
ということである。

――『名将言行録』





344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:27:27.96 ID:vCHaTzWD
石川五右衛門については数多の俗説伝説があるよね
元々は伊賀忍者で、百地丹波と不仲になり抜け忍となった者だというのもその一つ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:36:48.38 ID:0vYdCqOT
釜茹での話も色々あるよね

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:53:39.75 ID:vCHaTzWD
住んでる地域に五右衛門というパスタ屋があるのだが、
もしかして「釜茹で」で天下の大泥棒とパスタかけてるのか?
と、ふと思った・・・

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 13:54:23.27 ID:B7gmyh/L
実際は油揚げだし…(´・ω・`)

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 14:54:16.33 ID:vsfNtztb
ゴエモンは釜煎りだったって説と途中まで熱湯で油を足したって説もあるみたい


349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 15:15:16.92 ID:toG6VeEQ
天ぷらになって家康を殺したんだっけ

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 16:23:47.36 ID:tbL+Xau1
揚げてたのか…油がもったいない

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:18:49.30 ID:kKXWwvby
高価な油をふんだんに使うというもったいないことをわざわざして
関白の威光を天下に見せつけた、と聞いたような

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:49:17.22 ID:vCHaTzWD
泥棒犯罪を防ぐ抑止力としての刑の側面も言わねば片手落ちだろう

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 00:04:47.76 ID:LHDOh62O
>>348
熱湯に油足すなんて想像しただけでとんでもないことになりそうなんだがw

鳶が鷹を産む

2012年08月21日 20:54

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 21:07:09.61 ID:e5SeXbOW

小田原の役の時、わずか十五歳の浅野幸長は疱瘡を病んでいたにもかかわらず、
父長政に出陣させてほしいと頼みこんだ。だが長政は「お前はまだ若い上に
病気でまともに立っていられないではないか。共に出陣できるわけがない」と

許してはくれず、再三頼み込んでもやはり許されなかった。しかし幸長の意志は
固く、老臣の堀田孫左衛門、松井又右衛門と相談して、先に出陣した父を追って

関東までやって来てしまった。さて幸長は岩槻城攻めでは馬を馳せて首級をあげた。
また、忍城攻めで長政の備えが崩れて引く時、幸長は槍を横たえて自軍の兵を
せき留めると「我はここにあり、お前たち私を見捨てるなよ」と只一騎進んでいった。

味方はこれを見て一同に引き返し、千駄口の砦を乗っ取った。その後、ある者が
秀吉に「幸長は御下知を待たずして勝手に動きましたぞ」と告げたが、秀吉は
「あの長満が生まれて七夜目に長政の家に入って、その泣き声を聞いた時、

『これは鳶が鷹を生んだな』と誉めたことがあったが、今の働きはまさに逸物の
鷹である」と大層上機嫌だったので、その者は口をつぐんだ。これによって幸長の名誉は
大いに知れ渡ることとなった。

――『名将言行録』




144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 21:13:38.19 ID:X48DWtBf
浅野長政で鳶なのか・・・

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 21:20:11.97 ID:KmVOnD3k
告げ口したある者とはどなたの事で?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 22:34:59.76 ID:dLuJ7em6
名将言行録だから細かいことはいいんじゃないかw

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 22:56:42.34 ID:/1Z1Z7ZW
>>146
確かに>>143後半の太閤殿下の言を見ると、あたかも忍城攻めに太閤殿下が参加されて
いるような記述だしな… 恐るべし、超時空太閤HIDEYOSHI

慶長十五年(1610)卯月十九日浅野幸長書状

2011年10月25日 22:00

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:49:33.51 ID:gXVxfZeL
慶長15年(1610)4月、名古屋の浅野幸長が出した、京にあった浅野長晟からの書状への返答

『卯月(4月)16日に出されたあなたの書状は、17日には届きました。さてさて早い飛脚であったものです。
今、名古屋では(名古屋城普請の)御鍬始が行われ忙しくて時間を作ることが出来ず、本日19日に
この返事を渡しました。

さて、秀頼様がその方に二千石の知行を与えようとしている件についてです。

前にも申したように、このことは石豆州(石河貞政)に申し使わされました。そこで市殿(片桐且元)に
相談した所、「あなた方の方で弾正殿(幸長・長晟の父、浅野長政)の所に、この事を知らせれば
拝領しても問題は無いでしょう。」との旨を、片市殿(片桐且元)の家臣を通じて、石豆州、杉伯州(杉原長房)から
貴殿にご返事として届いていることと思います。

そして片市殿から
「今回の御知行拝領の事、あまりグズグズしていてはいかがかと思います。
早く二千石の御知行をお渡ししたいものです」
と、懇ろに申し置きをされている以上、あまりこの件を長引かせるのは宜しくないでしょう。

片市殿の御指図の通り、弾正様の所に、お尋ねに使者を遣わせるべきです。
その時はあわせて、その書状の受取を下さるようにと、お断りもしておきましょう。

それから私の方では今日、江戸(幕府)に、この件を相談する遣いを出しました。
この件については、その遣いが帰ってから判断することにしましょう。

そうそう、京都御番のこと、いよいよ油断なく勤めて下さい。
又、追々お手紙致します。恐惶謹言

紀伊守 幸長(花押)

卯月十九日 浅野但馬守(長晟)殿 御返報 』
(浅野家文書)

この二千石を長晟が拝領したのかどうかよく分からない。ちなみにこの前の3月、長晟は幕府より
備中国足守(蘆森)ニ万四千石を加増されている。

関ヶ原から10年経った当時、豊臣秀頼からの「新恩」に対しての、非常に微妙で警戒的な空気が見えてくるような
書状である。




501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 20:37:21.27 ID:z2RiFBf6
>>497
人物名分かりにくすぎw
こういうのどうやって解読するんだよww

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:07:52.76 ID:uIv37/Hc
片桐且元が片市なのはなぜ? と思ったら
官位が東市司だからか

しかし名前を書かないやら、省略やらで、解読するの大変そうだな
中国はどうだったんだろう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:26:59.08 ID:HsKQDjlr
政宗みたいのは、まあ例外として、
当時の人にとっては、官名で呼ぶのが普通だろうからなあ
苗字の頭文字+官位の頭文字はわかりやすいのかもしれん

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:39:11.85 ID:soW1mmlW
当時の手紙に書かれてる名前とか凄くいい加減だよね~
一通の手紙だけでなくその前後で頻繁にやりとりしてるからあれで通じるんだろうな~

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:46:57.87 ID:uIv37/Hc
自分だって手紙書く時、一々日付入れたり、細かく状況説明なんて入れないから、仕方ないやなぁとは思うけど
名前の当て字は凄いね 本気で読めれば(通じれば)いいんだよ! って感じだし
そのおかげで、この人何人いるんだよ と複数説唱えられたり
漢字が違うから、この人じゃない と存在否定されたりと大変

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:07:22.95 ID:xuAT/Sul
現代人で旧字に拘ってる人とかに比べるとすごい大らかだよね


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:48:22.74 ID:6kmBJijk
名前呼ぶのって相当特別な関係なんだっけ?親とか娘の婿とか?

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:05:29.50 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:06:22.78 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:07:16.94 ID:aRxVnAXK
すまん連投した
花瓶に火薬詰めて爆死してくる

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:08:08.46 ID:k2r+lsAw
そしてまっくろくろすけになると言う事か

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:20:24.65 ID:sTfMlLQ7
名前を全て平仮名で書いてくれたら後世の人間が悩まなくて済むのに

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:21:24.60 ID:NBgkNDfT
>>511
間違っても国宝級の茶器に火薬詰めたりするなよ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:54:53.08 ID:NjXGtHNA
いえやす ちくぜん てる
を思い出した。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 08:22:26.50 ID:PfR2GCwX
>>501
このスレにどっぷりつかってしまったせいかなんの疑問もなく人物名が理解できてしまったw
会社ではなんの役にもたたないがw

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 09:45:11.52 ID:PzuxZXTC
>>521
しかし人生を豊かにしてくれる

浅野内膳の書院

2011年09月04日 23:28

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 17:06:28.13 ID:FiCafuW0
悪い話か微妙だが

浅野幸長が数奇屋を建て直した際、家臣の浅野内膳が使わなくなった建材をもらい受け、自邸に書院を建てた。
新書院お披露目にあたって、内膳は幸長の父・浅野長政堀親良(秀治弟・長政婿)を茶会に招待した。

当日、内膳みずからの出迎えによって新書院に案内された長政は、その四方を見渡して眉をひそめた。
内膳自慢の新書院、内装は数寄を凝らし華麗を極め、茶器も高価な名物道具ばかりであった。

「内膳よ。千五百石の分限には、過ぎたる振る舞いよな。この長政、かかる贅沢は大嫌いじゃ。
こんな場所で、今日の接待に預かるわけには行かぬな。
真に馳走の志あらば、以前からの部屋でも、亭主が心をこめて接待すれば良いのではないか?」

「も、申し訳ござらぬ!まこと、大殿の仰せの通り。」
「ならば、この書院は要らぬな?」
「え?」
「おーい、みんなー!」

自分はおろか親良の従者まで集めた長政は、命じた。

「この書院を取り壊せ!!」

命に応じた屈強な従者たちは、さっそく袴を脱ぎ、着物の尻を端折って、竣工したばかりの書院を破壊した。
更地になった新書院を見届けた後、長政は以前からの書院で、心行くまで茶を楽しんだ。
(名将言行録より)




691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 17:56:46.22 ID:i0k4tUol



こ  れ  は  ひ  ど  い




692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 18:08:45.19 ID:UuF0Kzeq
これは

ひどい

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 18:11:43.72 ID:2mN6vEsB
また長政sageかよ

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 18:12:11.35 ID:j+dlDxLg
こんなのってないよ
長政さん的には説教のつもりだったんだろうが

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 18:14:48.13 ID:UuF0Kzeq
浅野長政って、そんなに贅沢嫌いな人だったの?

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 18:16:49.99 ID:eR7hWYuJ
秀吉の縁者の割りに大坂城とかも嫌いだったのかな

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 19:14:06.33 ID:XCrDs8dV
縁者っていっても嫁の方だったよね?

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 19:20:21.12 ID:DfgTYlFG
これは謀反起こしてもいいレベル

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 19:28:12.05 ID:UuF0Kzeq
その後の内膳さんの様子が気になる

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 19:40:45.28 ID:VBtu9ui5
>使わなくなった建材をもらい受け

本来なら捨てるところを再利用してるんだから褒めるべきだろwww

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/04(日) 19:49:39.62 ID:DfgTYlFG
取り壊される書院が量産型エヴァに食い散らかされた弐号機みたい

内膳「殺してやるっ!」

ある時、浅野幸長が古田織部から

2011年07月27日 23:09

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 18:15:12.99 ID:EeG8E2xt
古田織部「五金時殿くらいで」



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 21:44:40.24 ID:/pLjZPZs
>>173
ある時、浅野幸長古田織部から、狭い茶室での道具の置き方・所作の仕方等の稽古を受けた。

「よいですかな浅野殿、客も炉も自分の右側にある時はこうする。客が右、炉が左の時はこう。」
「ふむふむ。」
「客も炉も左の時はこう、客が左、炉が右の時は…って、この辺は前の稽古の時どう教えましたかな?」
「………済まぬ、忘れたようです。」


そこで二人は、前回の稽古で同席した上田宗箇を呼んで、この件について問いただした。

「………申し訳ござらぬ、それがし、師の教えを失念いたし申した!!」
「(え~)………」
「………?」
「……………」

「…と、とにかく、こういうものはその場その場でやってみなけりゃワカランものにござるよ。」
(織部候云、兎角その座敷にて置合てみねば、たしかならず)

「なるほど、そういうものですか。」
「うむ、そういうものです。」


織部のおかげで一つ勉強になった
…わけもなく、こーゆーお人に「白黒つけろ」とか㍉にゴザルよ。




182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 09:56:45.63 ID:K5IF7UPx
>>175
みんな忘れたのかよwwww

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 19:02:15.87 ID:IUg9pvcb
>>175
織部も忘れてる?www

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 19:10:52.93 ID:O5JhFgs2
消防のころ先生が答え忘れてみんなに聞いてもわからなかったこと思い出した

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 19:30:13.96 ID:WBUAFs8e
小学校の問題の解答くらいは、その場で考えられるだろ・・・と思うけど、焦るとそれすらも分からなくなるんだよね

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 19:38:13.40 ID:Gb/IrSc2
これ、小学校の問題と解答とかそういう話じゃなかろ。
マニュアルも正答もない、どうやったら非礼にならずに人をもてなせるかという話なんだから。
当然正解なんてないよ

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 19:46:37.99 ID:O5JhFgs2
前の稽古の時教えたことあるんだから正解はあるだろ

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 19:57:05.26 ID:Gb/IrSc2
「教えたことある」なんて文中に書いてないけどねw

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 20:03:41.54 ID:O5JhFgs2
読解力が乏しいのか、単に引っ込みがつかなくなっちゃったという
ちょっと悪い話

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 20:43:32.16 ID:YemAPnjX
ひどいオチだw

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/27(水) 21:32:09.63 ID:r2+J8sfP
ひどいお茶でもある

大野治長、 命がけの復権

2011年02月07日 00:00

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:49:57 ID:CTv09xKa
命がけの復権

1599年、徳川家康暗殺疑惑により大野治長は失領し下野に流され結城氏預かりとなっていた。
この事件、事実関係を洗うとどう考えても冤罪であったのだがとにかく治長は失脚したのだ。
しかし翌年、そんな治長にも転機が訪れる。「関ヶ原の戦い」である。

結城晴朝の斡旋で蟄居は解かれていた治長。なんとかしてこの天下が動く戦いで自身の立場を変えたかった。
しかしながら急な事であった上に領無しなので金も用意できない。やむなく浅野幸長に頼み込んで護衛の兵を
十人程度借りている。
ほぼ一兵卒のような立場だがこれでやるしかない。治長は浅野隊の中に加えてもらい戦地へと赴いた。
それで時は流れて関ヶ原本戦・・・なのだが、幸長隊の配置は前線からかなり遠かった。そこで治長は

治長「俺を最前線に立たせてくれ!頼む!」

どうしても功を挙げようと必死であった。幸長も意を汲み取り、治長は本戦直前におそらく真っ先に敵に
接触するであろう福島正則隊に入れてもらう事になった。
そして戦端が開くと治長はわずかな人数の護衛と共に目の前の宇喜多秀家の部隊に飛び込んでいく。
最前線も最前線でがむしゃらに奮闘する治長はついに宇喜多家の鉄砲頭、河内七郎右衛門を一騎討ちの末に
討ち果たすという武功を挙げたのだった。

戦後、この話は家康の耳にも届いたようで、大野治長は1万石を与えてられている。
更に、治長は片桐且元と共に徳川家と豊臣家の調整に尽力し5000石を加えられ1万5000石の領主として
復権を果たしたのであった。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:52:35 ID:CTv09xKa
これだけならいい話っぽいんだが家康暗殺疑惑で冤罪をおっかぶせたのが家康なことを考えるとマッチポンプ感が
否めないのでこっちに。

ついでに同じく失脚してた土方雄久もひっそり復権してるので功を挙げなくても復活してたかもしれない。

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:58:03 ID:s0gTutn0
キャリア官僚然としたイメージあるんだが治長も武士だったんだなぁ。

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:59:02 ID:4p8p5ikx
浅野幸長の父、長政も暗殺疑惑に巻き込まれた一人ってのも重要なポイントだね

686 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/07(月) 00:31:25 ID:bkhC9RCC
なんで家康は治長に冤罪をでっちあげたんだろうな。家康にとって治長はそれ程までに厄介かつ
邪魔な男だったのか?

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:36:12 ID:0c1F5dkv
>>686
そもそも家康のでっち上げだったって部分に疑問を持ったほうがいい。

家康暗殺の話は家康のあずかり知らぬところで出来たもので、具体的な名前の上がった
噂が出た以上、時の執権者として家康は何らかの処分を行わざるをえない。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:38:01 ID:c4EXQvxV
片桐買収が、とっくに済んでたから、片桐の政敵の治長を消そうとした説を唱えてみる

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 00:43:31 ID:vt8kLmCf
>>688
十年以上後の大坂の陣の政治状況と一緒にしちゃいかん。
はっきり言えばこの当時、事実は関係なくこういう不穏な噂に名前が出た事自体が
問題があり、これを処分しなかった場合、未だ絶対的な権力を確立していない
家康では、その権威に疑問符を持たれる。

いい悪いじゃなくて、そうせざるを得ない状況であり、あたかも後の展開のための
布石だったように考えるのは、ちょっと小説的すぎる話だわ。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:11:12 ID:mRS2tjXJ
あれは家康の陰謀だったとしても本命は前田であって治長はついでに過ぎないかと

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 01:49:55 ID:znbdUFah
そういや姜の「看羊録」には
前田利長が上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・加藤清正・細川忠興と同盟して家康を狙い
それを知った石田三成が家康に通報、家康の命で近江の要害に籠った、なんて話が載っている。

あと家康が淀殿を室に迎えようとしたがすでに大野治長の子を孕んでいたので断られ
怒った家康が治長を流刑にしたなんて話も。


692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:15:36 ID:0c1F5dkv
>>690
前田に関しては家康どころか豊臣家の許可も取らずに無断帰国なんてしてるから、
謀反の話が出てもしょうがない、と言うかむしろ出て当然の話だな。

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 04:05:54 ID:jegn2kvv
宇喜多に突っ込んだ時の治長の護衛は浅野から借りた人達なのか市松が新たに
付けてあげたのかどっちなんだろ…w

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 17:07:40 ID:3cxDHPP7
悪い話じゃないな。治長が頑張ったいい話じゃん。