船手のあしらい神妙なり

2017年06月04日 19:38

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 17:36:56.32 ID:8oGghPA5
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。


長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。

村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」

そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。

そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。

(士談)


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相馬義胤の秀吉への臣従

2017年01月02日 20:56

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 08:19:11.54 ID:TySr3gnB
豊臣秀吉公は天正10年、明智日向守光秀を討ち取った後、天下を順次掌握した。
天正18年、秀吉公は諸国において私の争論そしてはならぬと、固く禁制としたことを触れられた。
そのため伊達と相馬の間の調略は、互いに停止した。

同年、秀吉公は相州小田原に発向され、北条の門族を征伐されるということが、この国までも確かに
聞こえ来た。そのため「将軍(秀吉)の御支配に預かるなら本望である。ともかく小田原に参陣然るべし」
と、相馬義胤は相州へ参上し、浅野弾正少弼長政を頼りこれを言上した。

秀吉公は相馬に対し、少々悪印象を持っていた。しかし石田治部少輔三成が殊更に懇意があり、
浅野長政以上に頼りと成り、これによって相馬の言い分は疎意なく巨細に上聞に達し、故に秀吉公は

「相馬は小身ではあるが武勇の士将にて、大身の敵に向かって度々の戦功有りと聞いた。」

と仰せになり、義胤の謁見を許した。

その後、義胤は妻子とともに上洛し、北野の千本に屋敷を給わりそこに居住した。
この年、後の相馬大膳亮利胤は11歳であった。
またやがて佐竹修理太夫義隆の御母堂となる桂雲院殿は、天正19年にこの千本の屋敷にて
誕生されたのである。

(奧相茶話記)

相馬義胤の秀吉への臣従について。石田三成に世話になったことをこれだけハッキリ書いているのも珍しい。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:01:51.94 ID:wVQJxPkt
なるほど

おかげで、世界史上でも有数の長期に渡って領土を治めた名家が存続できたのか

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:24:49.35 ID:93XZxViO
そりゃ利胤も初名は三成から偏諱を貰って三胤ですからな。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 14:08:23.09 ID:LNdqipkQ
浅野を頼るか石田を頼るかで命運が別れる東北の大名たちw

東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事

2016年11月17日 10:32

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 00:45:43.15 ID:nsYOTjzX
東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事


 東照宮が聚楽で秀吉に御対面され饗礼が有った日に、
秀吉は白い紙子を羽織に縫ったものを着られていた。
その頃三十二歳だった蒲生氏郷が狐紙子と名付けそう呼ばれていたという。

浅野弾正長政が東照宮に「その羽織を御所望してください」とささやいた。
東照宮はみだりに人の物をもらう事となるからと断ったが、

「御所望されましたら秀吉様は大いに喜ばれるでしょう。
この羽織はもともと具足の上に着るために仕立てられたものなので、
一旦は断られるかもしれませんが、そこをなんとか羽織を求め手に入れてください。
秀吉様はこれにまさることがないほど喜ばれるでしょう。」

と長政は重ねて申してきたので、
東照宮はやむをえず言葉に従うことになった。

 そして聚楽の城門で毛利宇喜多を始めとした者と居並んで拝謁し、
さて茶を献上された後、東照宮はかの羽織の事を仰せられた。
秀吉は喜んで羽織を自ら着せられ、大名に向かって、
「わたしに具足を着させまいとの事である。
秀吉は誠に天の冥加に叶ったものである。」
と語られた。

 東照宮は帰られた後、長臣達に聚楽の事々を話されたときに、
「私に羽織を贈った後に秀吉は『私に具足を着させまいとの志である』と
諸大名に向かって言われた。
『これからは私が具足を着て出向くことになるのだから、秀吉の鉾先に向かうこと誰ができようか。』
と中国四国に語りつがせるためである。
広く世人の口にされることとなり、筑紫の末まで聞かれることになるだろう。
天下の大名に威を示す謀略である。
その遠大な謀をたやすく計ることはできない。
秀吉のこの計略には力で推し量ろうにも及び難い。
されども私が志すところは別にある。」
との仰せがあったという。
(常山紀談)


秀吉にいいようにつかわれ、プロパガンダに利用される家康....
この年は天正14年(1586年)なので、蒲生さんは三十一歳なのでは?



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:56:39.35 ID:GDJQT7/A
>>330
聚楽第だったという設定なら天正15年だから合ってるでしょ。

にっかり青江

2016年08月21日 10:23

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3
>>26
にっかり青江の別パターンか

太閤の家において三奉行とは

2016年07月19日 18:47

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 02:53:44.13 ID:wR6zY0cc
太閤の家において三奉行とは、石田治部少(三成)、増田右衛門(長盛)、
長束大蔵(正家)のことである。

四奉行は、先の3人に徳善院(前田玄以)を加えたものである。五奉行は
先の4人に浅野弾正(長政)を加えたものである。

――『武功雑記』



徳川家康「言わぬほうがマシだ。」

2016年03月12日 14:18

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/11(金) 19:00:42.70 ID:cGLcVCWY
天正19年、愛息鶴松を失った豊臣秀吉は、10月19日、諸大名、奉行たちを尽く集め、
朝鮮への出兵を宣言した

「先ず朝鮮を征して、従えばこれに先登させて進むべし。従わずば尽く攻め平らげ、
そのまま大明国に攻め入ろう。何の難しいこともない。各々、どう思うか!?」

諸大名は驚愕した。みな、秀吉は愛子を失い、嘆きのあまり狂気したのだと思い、
口を閉じて答える者はいなかった。
徳川家康は上座に居たが、彼はこう思っていた。我々は連年の軍旅に疲れ、去年に成ってようやく
一息ついたというのに、またもや兵を三韓に出せば、人民がどれだけ困窮するか言葉にもしがたい。

そして秀吉の言葉が聞こえなかったかのように、何も答えなかった。
秀吉は家康が答える様子がないのを見て、憤怒の表情になり、歯を食いしばり拳を握った。

その時、毛利輝元、前田利家、上杉景勝などが、その気色に恐れ口々にいった
「甚だ然るべき、誠に神功皇后以来の大事業です!武将と呼ばれるほどの人物の中で、兵威を
異朝に輝かせるのは、秀吉公にあらずして誰が及ぶでしょうか!」

このように阿ると、秀吉はたちまち喜びを表情に表し、すぐに九鬼嘉隆に命じて、伊勢の浦にて
巨大な艦船数百艘を作るよう命じた。その中で最も巨大なものは日本丸と号した。また中国四国九州の
諸大名は、秀吉の命に従い戦船を調え粮米を集め、兵を動員した。このように、当座の狂言とばかり
思われたものが、終に実際の出来事となり、大小名に至るまで興を覚ます思いをした。

こうして御前伺候の者たちが退出する中、浅野長政一人、見舞いと称して徳川家康の屋敷を訪ねた。
長政は聞いた

「今日の、秀吉公が韓朝を攻めるという話をどう思うか?」

「…名を末代に留めようとする者は、これを是とするだろうか?はっきり言えば、全く益のない企てである。
仮に三韓を攻めて日本に従わせたとしても、それから得られる利益はない。みな日本の費えになってしまう
だろう。
また、大明を日本の国力で従わせることが出来るとは思いもよらない。年月を経ても大明は雌伏するだろう。
10年も20年も戦えば、日本は兵力が尽きて、却って異国に奪われてしまう。
また大明を攻めてその兵を撤退させる時、大明の国王が、どうしてそれをそのまま置いておくだろうか?
彼らを見捨てることは出来ないのだから、撤退させるためにさらに軍を派遣しなければならない。
そうなれば日本の民はさらに疲弊し、亡国となるだろう。

あの時私は、秀吉公が怒ってその仔細を問うて来たなら、叶わぬまでも問答して押し止めようと思っていた。
ところが輝元たちが秀吉公に阿って非を是とした。忠臣の法ではないよ。
秀吉公は愛子に別れ、狂してああいう心が出たのだろうが、3年5年も過ぎずに後悔するだろう。
去年、北条が滅んでようやく静謐と成ったのに、今また朝鮮への企てを成す。是非を論ずるまでもない。

おおよそ、天下の主は万民の父母である。天下は一人の天下ではない。それなのに我意にまかせ名利を
貪り、民を苦しめる。本人は果報によって安穏に居られるかもしれないが、子孫は覚束ないだろう。
惜しいかな、秀吉公は、士を恵み民を慈しめば武運長久であるのに。」

長政はこれを聞くと言った「願わくば、秀吉公を諭していただけないだろうか?」

しかし家康
「皆が一同揃って然るべからずと諌めれば、もしかすれば説得することも出来ただろう。
だが、私一人が何度言っても、承服するような性格ではないだろう?
曲がった言葉を出す者は、また人の言葉も曲げて入るという。言わぬほうがマシだ。」

これに長政も「その通りだ」と答え、夜になって帰っていった。

(伊逹秘鑑)



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/11(金) 19:10:28.83 ID:IF10bqjj
>>297
家康が反対しても潰されるだけだろうしなぁ…。
五大老全員反対してれば秀吉も内乱で負けると思って止めるかも?

浅野長政「今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。」

2015年11月10日 15:32

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 23:14:11.25 ID:xI4lJMJz
文禄2年の冬、豊臣秀吉は朝鮮での戦がはかばかしからぬを怒り、徳川家康を始め配下の大名を
名護屋の陣に集めこのように言った

「朝鮮の軍、今のままではいつになったら戦況が定まるかもわからぬ。そこで今は、この秀吉自ら
向かおうと思う。30万の軍勢を3手に分けて、前田利家蒲生氏郷に大将をさせ、三道より向かい、
朝鮮を打ち破り、真っ直ぐに大明に攻め入ろうと思う。
我が国のことは家康に任せれば心配もない。
方々、これをどう思うか?」

ところがこれを聞いた家康は、怒りも顕に利家、氏郷の方に向かい
「日本の大名も多き中に、あなた方二人が選び出されて一方の大将を賜ったのは、
弓矢取っての面目、何がこれに過ぎるでしょうか?
かく言う家康も、弓馬の家に生まれ戦いの中で年老いました。今、この大事に及んで、どうして
人々の跡に留まって、徒に本朝を守っていられるでしょうか?
少勢ではあっても、この家康も軍勢を率いて、必ず一方の先陣を承りたい!
そのためにも、あなた方のご推挙を仰ぎたい。」

ここに浅野弾正長政が進み出た
「暫く待たれよ徳川殿!殿下のここ近年の御振舞、昔の御心のままと思われているのか?
今の殿下は、古狐が入れ替わった者だ。それに何を言っても…」

この言葉が終わらぬ前に、秀吉は激怒し刀に手をかけ叫んだ
「やあ秀吉が心、狐が入れ替わったとはどういう事か!?その理由を申せ!
もし説明できないのなら、その素っ首打ち落としてくれん!」

浅野長政は少しも騒がず、
「この長政ごときが何百人首刎ねられても、どれほどの事がありましょうか?
仰せですので言いましょう。近年、意味もない戦を起こし、異国のみではない、
我が国内においても、父を討たせ子を打たせ、兄弟を失い、夫に別れ、妻に離れ、
嘆き悲しむ者天下に満ちている!
また、その戦のための兵糧の徴収、軍勢のための賦役、これにより六十余州の内は
悉く荒れ野となった!
今日、五畿七道の内は群盗強盗が蜂の如く沸き出て、安心できる場所すらない。

徳川殿がどのように思っても、これを防ぎ動揺することなく御跡を守るのは不可能です。
これらの事を理解されているからこそ、徳川殿は先陣を望んだのです。

ここで、昔の殿下であればこの程度のこと、気が付かないはずがありません。
しかし気がついていない。これはただ事ではない!きっと古狐が入れ替わったに違いない!

賤しき者達の諺にこんなものがあります。『人を取ろうとするスッポンは、必ず人に取られる』と。
それはまさにこの事です!」

そう憚ることなく言ってのけると、秀吉も怒りのまま
「狐であろうがスッポンであろうが、おのれが主人と頼っている者に、雑言を吐くこと奇怪である!」
そう叫んで長政に飛びかかろうとするのを、利家と氏郷が慌てて二人の間に入り押し隔てた。
「殿下、多くの者達が御前に伺候しております!長政の首を刎ねるのにお手を下されるまでも
ありません!弾正!弾正も何とか言え!」

しかしそう言われても長政はさらぬ体で受け流し、その場の人々に挨拶して、自分の陣に帰り、
御使を待って腹を切ろうとしていた。しかし秀吉は、長政の処分について重ねて言い出そうと
しなかった。

このような時に、肥後国に逆徒が起こったとの早馬が参った。秀吉は大いに驚き、徳川家康に使いして、
浅野長政を連れて参上するように』と仰せ下した。そして長政は召され、赦免された。

(藩翰譜)



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:44:41.59 ID:O6IysmEn
さりげなくやれば良いのに主張するから・・・

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 05:58:58.21 ID:QjSotLI4
この話同様の内容で岩淵夜話や常山紀談にもあるな

関八州を手に入れたという恩

2015年10月04日 12:02

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 03:10:30.97 ID:32dSqDEt
内府(徳川家康)と大納言様(前田利家)が、未だ仲直りなさっていなかった時、
浅野弾正(浅野長政)殿が、大納言様とも内府とも仲が良くお話しされる間柄でした。

そこである時、内府のもとへ弾正殿が訪れなさって、いつもの通りお話ししながら碁を打ちなさっていた時、内府が仰せられたことには、
「大納言については、今度のことは理由もないことであった。」
などと少し後ろめたいことを申しなさった。

そこで弾正殿は、
「私は前から、大納言殿に悪い噂がたっていることは嫌でございました。
その理由は、内府も目を付けられていますが、大納言と内府は、差し出した手の大指と小指だと存じています。
内府は我らに、上様のもとへ出頭なさったときに盛んに口添えしたことで、関八州を手に入れたという恩があります。
また大納言殿は私共父子の命の親でございます。
そのことをお心得なさってください。」
と申されました。

内府も「もっとも」と申されたそうである。

これを大納言様がお聞きになさり、ついに内府との仲は良くなりました。
このことは、『弾正殿一代、とんでもない事を申し上げたものだ』と、皆は褒め称えたことです。
(利家夜話)

家康の関東移封は長政らの力によるものらしいです



殿下が駿河の国府に行こうとなさったのを

2015年10月02日 17:47

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/01(木) 22:23:21.85 ID:ZcP9QP2f
 天正十四年の秋、関白(豊臣秀吉)の妹君が徳川殿(家康)のもとへ送られた時、浅野長政に送らせた。
この年に徳川殿が御上洛したとき、長政は饗応の事を司って御旅館へ参上した。これより後、徳川殿の申次を承った。
関白が島津を討ちなさった時は大隈国に向かい、北条を亡ぼしなさった時は武蔵国に向かった。
このとき、殿下が駿河の国府に行こうとなさったのを、石田治部少輔三成が(秀吉の)お耳のそばに寄り、

「家康は北条と関係のある仲である。いかなる謀があるかわかりません。
彼の城に入りなさるべきではありません。」
とささやいた。

 (秀吉は)確かにそうだと思われる様子で、馬を控えて時が経過した。長政が参ってこのわけを聞くと

「どうしてそのような事があるだろうか」

と諫み争うことを言ったので、関白の疑いはたちどころに消えて、国府の城に入りなさった。
(藩翰譜)

やはり三成はこういう役に充てられるんですね




772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 01:06:43.57 ID:/85poPQe
江戸時代を通して、そういうイメージが付いてるんだろうなあ

我々だって、上杉家でやたら弁達者なヤツはあいつとか、
秀吉子飼いで酒癖が悪い大名はあの人とか、
イメージが固定されてるからなあ

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 01:43:36.83 ID:KezYINSi
現にここのスレだって
DQNだのヤンデレだの鬼嫁だのガチホモだの総領息子だの
いろんなキャラが固定してるんだからしゃーないわ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 02:44:01.82 ID:cD5vV5Jz
そういえば最近鮭様って見かけないな

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 03:40:03.12 ID:QP9lnwiU
へー
この前はどこで見かけたのよ鮭様を

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/02(金) 05:14:24.50 ID:I0PXGS8P
鮭様なら俺の隣で寝てるよ

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/02(金) 06:50:16.23 ID:+zRUjHK8
鮭様も地に落ちたものだな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 09:03:44.93 ID:k51S+lJH
さーもん有りなん

首がつながった事は、ひとえに

2015年09月12日 15:29

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 15:15:10.65 ID:PGOmkzUM
関白豊臣秀吉が天下の黄金を改めて造らせなさった時、浅野長政の家臣がこの黄金を偽って造りだした。
事が発覚するに及んで、長政は連座し、すでに処罰されることに決まっていた。
徳川家康殿は不憫に思われて、忍んで彼の家に入られて、事を由来をよく尋ねて明かされて、長政が罪のないように深く心にかけられたので、長政の咎は許された。
「このたび、首がつながった事は、ひとえに徳川殿の御恩によるところだ。」
と長政は喜ぶこと深かった。
(藩翰譜)

家康の人脈つくりの上手い話




九戸城落城

2015年09月02日 08:56

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 00:01:40.69 ID:JNt17zIE
九戸政実の乱で九戸城を攻めていた諸将は、城が備え固く落ち難いことに加え、
疾病が流行して大いに苦しんだ。

そのような中、九戸の苦戦を聞いた奥州仕置の総大将である豊臣秀次の軍勢が進み三迫に陣し、
徳川家康も岩出山に陣したことが京都の豊臣秀吉に聞こえ、背後にいる伊達政宗を警戒した。

蒲生氏郷たち九戸攻めの軍は、城を攻めても抜くこと能わず、諸軍の兵糧も乏しくなり、
浅野長政の陣に集まって軍議した。ここで、井伊直政が発言した

「賊兵は嶮に寄り良く戦っており、未だ力攻めすべき時ではありません。
しかし賊は勇気はありますが智略を持っていません。謀を以ってこれを誘い、彼らの生命を保証すれば、
きっと従うでしょう。」

諸将は賛同し、書状を作り九戸城傍の長興寺の僧に持たせ、城に入り九戸政実を説かせた。
政実はこれに従おうと思い、籠城衆の多くも賛同した。畑尾山重勝は反対し死諫したが
政実は従わず、15日、久慈直春ら数人とともに浅野長政の陣に赴き降伏した。
長政はたちまち政実らを捕縛した。

九戸の重臣である七戸家国櫛引清長らは欺かれたことを知ると、政実らを奪還しようとしたが
及ばず、次に蒲生氏郷を討とうとその陣に突撃した。氏郷の将である長谷川、福原、寺西、前野、
明石といった者達がこれを遮り戦死した。

櫛引清長は蒲生軍によって銃撃され負傷し、七戸家国と共に退き、九戸城に入って自刃した。
七戸家国は搦手より出て甲冑を脱ぎ、南部信直の陣営に向かって叫んだ

九戸政実は西軍(豊臣軍)によって欺かれ遂に虜とされた!私は今まさに死のうとしている。
すなわちこの城は落ちる。
乞う!君兵を早く進めてこれを取れ!他をして先んぜられるべからず!」

そう言い終わると城に戻って、残っていた者たちを説得し搦手より逃がし、自身は城に残って
自刃して果てた。

こうして、南部信直は最初に九戸城に入り城兵を鎮撫した。

(九戸戦史)


九戸戦史より、九戸城落城の模様である。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 03:30:02.35 ID:LQ+hPAWo
浅野じゃないのか

孝高・弾正、碁を打って三奉行に対面せず

2015年08月07日 12:59

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 19:37:45.27 ID:6LDCYi5a
朝鮮の王城に在陣していた日本の諸勢、尽く撤退したが、宇喜多秀家が先ず最初に退いた。
この秀家の元に黒田孝高、浅野弾正(長政)が出向いて対面し、太閤秀吉より仰せ越された
趣を述べて、晋州の城攻めについて評定した。その日はそこで宿し、帰陣してくる者たちを待った。

その後、三奉行(石田三成、増田長盛、大谷吉継)が都より引き戻り、黒田孝高の宿所に来て
対面することを請うた。その時孝高は、浅野長政と共に奥の間で碁を打っていたが、
三奉行、特に石田三成が平生権勢に誇ることを憎み、表座敷に待たせて、対局の途中であった碁を、
打ち終わり石を収めた後、「対面するのでこちらに来るように」と伝えさせたが、三奉行は
孝高と浅野長政が碁をしている声を漏れ聞き、彼らが早く出てこないことを怒って、この時すでに
立ち帰っていた。

その後、孝高・浅野両人は三奉行に使いを出して追いかけさせ、『こちらに帰ってきていただきたい』と
伝えたが、三奉行は憤って帰らなかった。これに対し孝高と浅野長政は『我らは既に、総大将である
宇喜多秀家に遭って軍のことをしばしば評議した。太閤の命により軍評定をしようと使いを遣わしたのに、
帰ってこないのは彼らの誤りである。』そう言って再び使いを出すこともしなかった。

その後、三奉行はこのことを恨み、「孝高・弾正は囲碁におぼれ我ら3人が来たことにも気が付かなかった。」
等と言って、人に会えばこのことを語り謗った。更に後には、太閤秀吉にこれを訴えでた。


*貝原益軒の注釈
(この時、孝高・弾正が碁を打って三奉行に対面しなかったのは右に記す通りである。
ただし、太閤記に書かれているのは、伝える者の誤りを信じて、知らずに虚説を記している。
孝高・弾正はこれより先2月に既に渡海しており、この時に渡海したのではない。
軍評定のため宇喜多秀家が都より先に帰った所を対面し、また三奉行をも待っていたのである。
太閤記には、この時弾正・如水日本より使いとして渡海し、太閤の命を告げんとて三奉行を
待っていたと書かれているが、これは虚説である。2月26日太閤より黒田長政に送られた書状にも、
『浅野弾正、黒田勘解由、都在陣衆令相談、見計陣所可相定』とある。
また5月1日太閤より朝鮮に在する弾正、勘解由、三奉行に与えられた書状がある。
2月より既に渡海していたことは、これを以って知るべきである。
その上、黒田孝高はこの時まだ剃髪しておらず、太閤記で如水と称しているのも誤りである。)

(黒田家譜)




浅野幸長と伊達政宗は

2014年11月16日 17:27

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:25:06.71 ID:1T7aCUnZ
浅野幸長伊達政宗は、最初大変仲が良かった。

政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。

そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。

その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。

秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。

政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。

以来両者は、君臣共に絶交となったという。


(『浅野長政公伝』)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:04:05.54 ID:O2pJ7Riw
>>810
不思議な事に大久保長安事件では名を連ねている両名

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 20:52:06.13 ID:lIO5SLnR
>>813
この二人、戦国逸話スレ情報などからして何故か真田のお兄ちゃんと仲がいいんだよなw

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:48:52.60 ID:VgWnhJNQ
>>814
そりゃ極悪親父にもまれりゃたいていの椰子は許せるようになるだろうw

宇都宮家滅亡

2013年12月04日 18:58

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/04(水) 09:13:28.40 ID:PK20oFe9
宇都宮下野守国綱は代々下野宇都宮十八万石を領し、関東にて豪家の一つであった。

しかるに慶長十二年十二月二十三日に無嗣のまま卒去。これまで宇都宮に無嗣の場合
庶流多賀家よりこれを継ぎ、多賀に子が無い場合は宇都宮の庶子を遣わして継いだ。

今度はこれに反し家老神野川与左衛門は密かに正安らと相談して浅野弾正三男を養子
として家名を立てようとした。

多賀はこれを聞いて大いに怒り正安がこの事を談合する為に上方へ登ったのに追っ手
を遣わし正安を殺害し、神野川与左衛門の元へも討手を送って屋敷を取り囲んだので
与左衛門は思うさまに戦ってから切腹した。

この事を家康公が聞かれ大いに咎められ多賀には切腹を仰せ付けられ、宇都宮の所領
は没収となり、永く続いた家名が断絶したのは惜しまれる。

かの家の祖、栗田関白道兼公の玄孫宇都宮宗円以来、代々弥三郎下野守を称し数百年
宇都宮の領主であったが、この時一朝にして滅びたのは無情のことであった。

後裔は今わずかに残って水戸家に仕えている。

(翁草)

大意は残ってるけど時期やら登場人物やらがえらい事になってる逸話
伝言ゲームって怖いよね





浅野長政の約束

2013年09月07日 20:02

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 18:06:04.11 ID:7bpdfZ+l
天正十九年、豊臣秀吉は南部信直の老臣、九戸政実が陸奥国において諸士を集めて
近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、関白秀次を大将として進発させた。

この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに
浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。

長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。

その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、
長政に命じて中途で政実を誅殺した。凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。

――『寛政重修諸家譜』





立花宗茂の妙技

2013年08月20日 19:52

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 22:47:52.49 ID:R1/uJbW+
浅野弾正長政はかつて、柳川に至って立花宗茂の客となった事があった。
この時宗茂は、長政を伴い一日、鷹狩を行った。

ところが田園を探し尽くしても獲物を獲ず、たまたま飛ぶ鴨を見つけても、
鷹は普段は敏捷なこと無双なのに、この時は一羽も捕らえることが出来ず、
宗茂は甚だ不満な有様であった。

帰路、田の畦のはるか向こうに一羽の鴨を見つけると、宗茂は長政に向かって言った

「今日の狩りでは、鷹はその功を奏することができませんでした。
あなたの為に、あの一羽を獲りたいと思います。」

そうして矢を引き絞り、14,5間(約25~27メートル)隔てた鴨に向かって射ると、
一発、直ちにその鴨を斃した。

浅野長政はその妙技に大いに驚いたが、なお一箭を残していた宗茂は、これを弓に当て
従者を呼んで
「鳥はいないか!?鳥はいないか!?お前たちどうして捜さないのだ!?」
そう次の獲物を捜させるが、長政はこれを止めて

「あなたの射術の妙技については、私は既にこれを理解しました。
しかし、もし今一度これを試みて万一失敗すれば、前功もたちまち虚しくなるというものです。
再び行うのは、止めた方がよろしいでしょう。」

しかし宗茂は笑って答えず、と、この時一羽の鴨を見つけた。
翩々としてススキの穂の上の方におり、頭と尾がわずかに見えた。これは「ほう白」であった。

宗茂はこれを見るや直ちに矢を放つと、左翼を貫き「ほう白」は地に落ちた。
長政は宗茂を喝采し、いよいよその妙技に感心したという。
(古雄逸談)




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 22:50:19.54 ID:To1S2tIh
これが主人公補正ってやつか

伏見城、御学問所の茶会

2013年07月28日 19:09

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 20:46:19.88 ID:MbCsF4HX
伊達政宗公が、ある時のお話に

「昔、太閤殿下(秀吉)が伏見におられた時に、御城の内に御学問所と名付けたお座敷を建てられてな、
その御殿は4つの隅に御数寄屋を付けられていて、そこで東西の諸大名衆に御茶を下されたことがあった。
亭主は4人、太閤様、家康公、加賀の利家、そして私であった。

その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
終夜様々に昔物語などして楽しんだ。

翌日、数寄屋の場所などを4人がクジをとって決め、担当の数寄屋の掃除など準備をし、
台所もそれぞれに設置してあったので、出す料理についても互いに隠し合うように決めた。

客は一体誰なのか一切知らされていなかったが、茶会の始まる直前に仰せ付けられたのが、
私の担当する数寄屋へは、佐竹義宣、浅野弾正(長政)、加藤肥後(清正)、上杉弾正(景勝)などという、
私が絶交した連中ばかりを客に仰せ付けられたのである。(中絶の衆ばかり客に仰付けられ候)

そういう事なので何か変わったことをしたいと思ったのだが、にわかの事なのでどうしたものかと悩んだ、
その折はつまみ菜の旬で、御汁につまみ菜を調理していた。これだ!と汁を沸かし返して熱々にし、
先に作っていた汁が暫く置いていたため冷めているので、客にも迷惑だろうと、このぐつぐつに煮えた汁と
素早く取り替えて出した。

この御汁を吸った客達は皆、一口も飲み込めず吐き出したが、又同じように御汁を出し、
間もなく盃酒を出したため、客は皆、終始迷惑した様子であった。

さて、4ヶ所の数寄屋での茶会が終わり、御学問所へ再び4人の亭主が集まり、それぞれその日の
客の有り様などを段々と語り、私の番になって

『今日の客は皆々、私にとって一段とよく知った人々でしたので(一段と知音の衆に御座候間)、
何か特別な馳走をしたいと考えましたがそうもいかず、時期ですのでつまみ菜を御汁にして
熱くして出した所、口を付けた途端に火傷をしたようで、暫くは箸にて唇をかかえ、痛みに舌打ちを
していましたよ。』

と物語した所、太閤様は

「さてもさても!したりしたり!」

と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。

その後、翌日の客の御相談をしたのだが、太閤様がお考えになったのは、天下の諸将を
様々に組み合わせ、またいろいろ手を加えられ、絶交している者達の仲をご自身でお直し
されようという御奥意があったのだと、これは後に気がついたことだ。」
(政宗公御名語集)

既に↓で出ている話ですが、おそらくこれが出典で、内容もまとまっていたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3521.html

しかしこれはいつ読んでも、客全員の唇を火傷させた時の政宗の会心のガッツポーズが
見えてくるような逸話ですねw




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 23:25:16.38 ID:CgDRu7b5
>>95
>その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
>と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。

修学旅行中の中学生・・・

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 10:29:00.78 ID:XVHoPB3S
花の慶次のオールスター温泉みたいなことやってたんか

南部信直の申し入れ

2013年01月25日 19:50

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 21:15:45.13 ID:/cMzjHMl
「奥羽津軽一族」に書いてあったのを抜粋。

九戸政実らが投降したことで諸将は各陣所に引き上げていったが、一方で南部信直浅野長政の陣所を尋ねた。

津軽為信は実父高信の仇である。幸いにも為信がこの地に在陣している。まさに天与の機会である。
 この際、為信を攻めて父の仇を討ちたい。是非、貴将の許しをいただきたい。」
と申し入れをした。

これに対し、長政は
「この度の出陣は貴殿に対して謀反を起こした政実を討伐するためであり、
 この機会に津軽為信に対し私怨を晴らさんとすることは認められない」
と拒否した。

この時信直は言葉もなく下がったが、次いで蒲生氏郷の陣所を訪れて同様の願いを述べた。
これに氏郷も同調、ともに長政の陣所を訪れ重ねて願いを繰り返した。

これに対して長政は
「為信は殿下に属し、それに拠って朱印を賜りたる者であり、此度も当地で十分武功を顕し、
天下へ忠勤を示している。
 そのような時に貴殿が私怨を晴らそうとする行為は容認できない。」
と拒否し、津軽為信には不測の事態を避けるために即刻の帰国を勧告し、為信は従って帰国した。


なお、後に名護屋で津軽が馬鹿にされたことで津軽家と浅野家は絶縁しているので
本当にあったやり取りなのかは疑問が残る。


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283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 21:56:55.38 ID:sfOCPR+u
工場長が同調しちゃうのがちょっと意外

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/24(木) 21:59:56.63 ID:voF6uaqJ
津軽と九戸どこで差がついた

時流の読みとしたたかさの違い

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 08:36:14.11 ID:ASx27AZm
>>282
まあ、南部と津軽は相手をディスる為に無茶苦茶な話を書き残してるからなぁ

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 11:47:46.61 ID:uij6e+ed
●∀・「もっと仲良くしようぜ!」

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 14:25:14.84 ID:hDIRbCtu
>>283
工場長の娘か養女だったかが
信直の息子の嫁になってるし、仲は良かったんだろう

佐々成政の滅亡について

2012年12月30日 19:50

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 17:58:24.40 ID:6swtotlv
佐々陸奥守は柴田などと同じく織田信長譜代の家である。信長の死後、
太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。

さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。

太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。

――『老人雑話』




945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 18:30:24.49 ID:jGus6LDt
日本人が他人の間違えを訂正するときついでに人格否定になってしまうのはいつからの伝統なんだろう?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 08:53:40.44 ID:i/jmB30T
浅野さん宇都宮でも何かやらかしてるし
権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?

昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:10:08.90 ID:FQuRrf3p
伊達が逆恨みしてただけじゃねーのw

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:14:22.76 ID:yEczM5Nn
内匠頭の事を考えると、家風ってのも納得できちゃう

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 15:15:03.10 ID:GPkwHloS
浅野って北条攻めで小勢ばっかり攻めて恩賞貰えなかったり、九戸に圧倒的兵力で
歯が立たなかったりで戦ではろくなイメージが無いな

挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:33:27.76 ID:di0KPi6D
長政ってどういうわけか地味に嫌われてるよな

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:43:39.54 ID:xzIqKjG7
長政自身の問題もあるかもだけど
立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:51:10.22 ID:hcZfLqjy
伜どもの活躍で浅野家に悪いイメージはない

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:03:09.32 ID:di0KPi6D
思えば奥州仕置あたりも汚れ役もいいとこだよなぁ
「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:25:51.52 ID:c0om2kDi
>>953
それだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:29:20.71 ID:rsk1zaCt
豊臣風なんてものはない、全て誰かの猿真似なんだから。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:57:39.65 ID:pay35FP+
戦国時代の浅野家に悪いイメージは無い
だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:11:14.54 ID:SeZsMtLu
電柱に子猿、電柱に子猿!

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:19:01.75 ID:bsCCajT9
お前ら、何度も既出だが「長政」って略すなw

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:22:16.19 ID:ForaGXAd
ちくしょうw
うちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:23:13.97 ID:Df2MEhDu
黒田のほうはNGMSと略すと決まっているし、
木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:32:48.82 ID:SeZsMtLu
高坂「…」
真田「…」
保科「…」

決めつけイクナイ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:41:30.56 ID:Df2MEhDu
その三人は弾正だと三弾正の誰かわからないから、
受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
[ 続きを読む ]

ティアン・キット侍従より、フィリピン総督への書簡

2012年12月01日 19:53

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 14:37:03.30 ID:Ss79z7lE
天正19年(1591)ティアン・キット侍従より、フィリピン総督への書簡

『今より前には、嘗ては互いに通信したことなしと雖も、礼儀を尽くしてこの書簡をしたためる。

我が偉大なる主君関白は、来年戦争を行わんため中国に向かわんとしている。もし同国が、他の諸国とともに
降伏し貢物を送らざる時は、仮に遠しと雖も、戦士を派遣してその国を占領せいむべし。
これ故に、付近の諸国はみな降伏して命令に服従している。

貴殿の富める国に対しても、また戦争を行おうと考えていたが、原田(孫七郎)が関白の顧問会議の一員である
何某に告げ、同人が関白に告げた所によれば、もし日本国およびその宮廷において決定したるところを通知せば、
必ず貢物を贈るべきが故に、戦を行う必要なしとの事であった。
右の意見に従いて、この書簡を贈る。

私は当国の大官の一人であり、我々が速やかに相まみえられるよう、この書簡の如くいたせば、
貴国は安全に眠れることを得るであろう。

恐れること無く、躊躇すること無く、私が派遣する人物、すなわち私の通事に一切の秘密を語れ。
適当なる、敬意を表す。

天正十九年九月十一日。シャウリュウキュウ発(地名らしい。不明)。執事』
(異国往復書簡集)

この「ティアン・キット侍従」なる人物、浅野長吉、すなわち浅野長政であったらしい。
長吉→チョーキツ→ティアン・キット、となった模様。

大陸出兵と同時期に進められていた、豊臣政権によるスペイン勢力への圧力の一端である。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 14:50:54.49 ID:63HARdOs
なんちゅう傲岸な

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 15:29:29.94 ID:3tkmdVk/
フィリピン総督「こいつアホだ」

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 19:37:14.75 ID:xmo7rtAl
>>577
19年9月って九戸なんとかの乱のころ?
忙しいな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/01(土) 19:39:54.21 ID:5YiYLZ5M
九戸政実「なんとか扱いされてしまった…」