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政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



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老いたりとも槍の又左

2022年09月29日 15:54

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 21:56:23.61 ID:TRfck96B
利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し

秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する

「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した

なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか



421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/29(木) 17:35:41.44 ID:GnixVJCR
>>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね

今、そのような事をするのは無用である

2022年08月03日 18:28

558 名前:sage[] 投稿日:2022/08/03(水) 16:02:14.92 ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

新東鑑



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 16:27:19.19 ID:Sg3FcvIH
こんな上司はイヤだな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 17:01:10.29 ID:YqfozYQV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2893.html
小瀬甫庵、取材する

こっちでは立花宗茂とセットで出ていた

奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

2022年07月10日 13:10

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/09(土) 21:34:26.58 ID:2gq925Tz
朝野雑載」から奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

太閤は薨ずる時に「喪を秘すように」と御遺言されたにもかかわらず、石田三成は家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
その後、浅野長政が「太閤口切の茶壺です」といつものように家康公に持ってきたが
家康公は顔色を変えて「茶壺は庭に捨てよ」とおっしゃった。
浅野があわてて理由を尋ねると
家康公「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、我が取り直したというのに忘れられたのか」
すると浅野長政が「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。
そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
そののち、家康公は西の丸に移られるということで増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、一国を賜るべき大功もなした。
それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、土方雄久と大野治長は召し出された。
また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。



只今秀吉公御死去

2021年04月29日 17:38

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/29(木) 14:39:47.50 ID:f09WRf9y
庚午(1630年)十二月に書写、丁巳(1617)年、池田光政様が御咄遊ばした。

秀吉公の御卒去は深く秘密とされたが、この時石田治部(三成方)より八十島と申す者が
使いとして、東照宮(家康)へ内密に申して曰く

「只今秀吉公御死去」

と申し上げた。

その後、秀吉公の御使者より東照宮に、蜜漬けが届けられた。
そしてその後、浅野弾正(長政)が御使として、御肴を持参して参られるということを
東照宮に申し上げた。

普段であれば、御使者が参った時は袴、肩衣を召して御馳走遊ばされていたのだが、
この時東照宮は以ての外の御様体にて、「弾正これへ」と召した。
弾正参り、御口上を申し上げた。
神君はややあって、以ての外の御機嫌にて

「今まで、死したる人の方より、使者を以て音信が有るという事は承ったことがない。
先程来た蜜漬けにも大毒満々たる故、この庭のふみ石にて打ち破って置いた。」と仰せになった。

弾正は
「そのようなことは有りません!」と色々弁明を申し上げた。
神君は
「治部方より御死去の日、注進があり、委細聞いたのだ。」と仰せに成られた。
浅野は申した

「石田を始め、堅く誓紙を取り交わしたというのに、彼が約束を変じた故に面目を失いました。
この申し分が実際の所であり、重ねて御奉公申し上げるでしょう。」
と申した。

その心の故に、関ヶ原にて御味方仕ったのである。

烈公間話



691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 08:27:11.36 ID:yZrxDgdY
>>689
老人に甘いものは毒、もう糖尿病なんてあったのか

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/01(土) 10:36:30.64 ID:xYlT6RcQ
>>691
米を大量に喰うから糖尿病(飲水病だっけ?)はあったけどこの文の趣旨はそれじゃない

かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き

2020年12月18日 18:10

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:21:42.04 ID:Z7QWz4kr
佐久間玄蕃允盛政は、二十一日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では、険阻を隔てて、柴田勝家と合流することが
出来なかったため、蔵王の社を出、北ノ庄城の後巻(救援)のために加州に赴いた所で、中村の郷民たちによって
取り囲まれた。盛政はこれを見ると
「我既に運命尽き、又戦ったとしても利はない。かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き、一言云うことが有る。」

そう言って彼等に捕われた、そして北ノ庄に連行されると、これを見た浅野弥兵衛長政は云った
「君は鬼玄蕃と言われたほどの人ではなかったのか?何を以てか死することを得ないのか。」

これを聞いた盛政は咲って云った
「汝は愚かである。源頼朝は大庭景親に負けてふし木の中に隠れ、義昭将軍(原文ママ・義稙の事か)は
細川政元に囚われて幽閉されたが、ついに免れて大功を立てた。将たるもの、どうして容易く敵に死を
免ずる事をするだろうか。」
(汝ハヲロカヤ、源頼朝ハ大庭景親ニマケテフシ木ノ中ニカクレ、義昭将軍ハ細川政元ニトラハレテ
ソノカコミヲウクトイヘトモ終ニマヌカレテ大功ヲ立テタリ。将タル者何カ容易ク敵ニ死ヲ免スコトアランヤ)

聞く者皆、舌を鳴らしたと云う。

佐久間軍記



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:45:49.31 ID:h8twP6Rp
舌を鳴らすって当時はどういう気持ちの表れなんだっけ
今だとねこを呼ぶ気持ちの表れだが

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 17:59:33.49 ID:Z7QWz4kr
>>768
この場合はおそらく、佐久間盛政が秀吉軍の前で不敵なことを言ったので舌打ちした、という感じかと。

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 18:31:59.74 ID:a6o/ts1Y
>>769
なるほど、不快で舌打ちしたったことね

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 09:50:00.40 ID:re0CaR1W
賞賛だろうに

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 12:50:51.45 ID:V1a9YlEB
賞賛だよね

長政はむかっ腹を立てたのだった

2020年07月23日 18:15

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 13:18:48.62 ID:eEqaTPVh
まとめの2593
家康と浅野長政、囲碁を通じた友情

の詳しいバージョンが「爛柯堂棋話」という碁関連の話を集めた本にあったので

権現様は囲碁友達の浅野長政とつねづね囲碁を楽しんでいたがある日は負け続き。
対局中、そばにいた本因坊算砂(囲碁の家元・本因坊の家祖)に
権現様が「この石を跳ねるしかないかなあ」と聞いたところ
算砂「おっしゃる通り、跳ねるしかないですね」
と言ったもんだから、そのまま跳ねたところ権現様の勝利。
長政は大いに怒り脇差に手をかけ、算砂に
「今度助言したら討ち捨てるからな!」と怒鳴った。
その後、また権現様が長政のところに来るということで、長政の末子の長重は
「父上、家康公との対局ではわざと負けてください」
と言ったが、長政は
「公相手だからと言って、勝てる碁にわざと負けろというのか?」と立服。
そして庭で毛氈を敷き、二人が対局をしていたところ、長則があらかじめ呼んでいた算砂が
「日差しが強いので傘をさしましょう」
と穴の開いた唐傘を、権現様にとって好手となる位置にちょうど穴からの光が当たるように置き
悟った権現様はそこに石を置き長政に勝利。
長政はむかっ腹を立てたのだった。



【ニュース】九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達

2020年06月12日 17:43

126 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/12(金) 12:01:16.61 ID:U6CsS30m
ニュース「九鬼氏に剃髪禁じる書状 石田三成ら五奉行通達 鳥羽市教委」
https://news.yahoo.co.jp/articles/e55878b95cf98410de3d035aa58aa1fc1ba67758


許可なくハゲると怒られるでござるの話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/15(月) 19:00:38.89 ID:FUJyT+vk
>>126
そら、人望なくすわな、
ハゲをハゲと言うだけでも謀反ものだのに。

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/16(火) 12:37:23.76 ID:lklO+LpT
嘉隆はともかく、
守隆は子供も居ないのに急にハゲたら
何事かあった→秀吉死んだと受け取られるのはありえるから
ほいほいハゲられても困るってのはよく解る

日曜大工中にペンキが髪にかかったからついでに丸刈りにしたらいつのまにか浮気がばれて頭丸めたことになったのでよく解る(隙自語)

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/17(水) 23:42:29.47 ID:crQi+9Pc
秀吉の死に際して古田織部の親父が殉死してるけど
こういう殉死も怒られたり、やめろって通告出したりしてたんだろうか

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/18(木) 07:18:19.29 ID:ZRrTS4LA
大名じゃないし勝手にすれば?

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/22(月) 21:00:53.80 ID:e7wXX+Ce
>>132
そんなにふるおりの親父が秀吉から恩顧を受けたか微妙だよなあ。美濃出身だし、ふるおり自身も直接的な関わりは中国征伐からだろうし、人脈的にはどっちかというと光秀よりだし
息子を見いだした秀吉に感謝していたのかな、そこそこの禄ももらったみたいだし。そんな人はたくさんいるけど

秀吉の着陣

2019年10月31日 17:20

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 16:45:26.45 ID:yQb9vk7z
豊臣秀吉は天正十八年三月六日、尾州清州城に着陣、暫く滞陣して後、十八日に駿州藤枝の宿に入り、
翌十九日駿府へ入った。徳川家康はこれを待ち受けるため長窪の陣より帰っていたが、これに対し
石田治部少輔三成の寵臣が讒訴した
「家康公に二心有りとの噂が陣中に立っています。駿府城へはお入りに成らないほうが良いと
思われます。」
しかしこれを聞いた浅野弾正少弼長政が
「そのような事あるがずがない、それは風説であります。」
と秀吉に断言した。秀吉もその噂を意に介さず駿府に入城した。
駿府城での家康の接待は至れり尽くせりであり、秀吉も大いに喜び、その後清見寺へ移り、
また暫く滞在した。

家康は秀吉の通行のため、予め富士川に船橋を架けていた。しかしこれに対しても、疑心を持った者が
橋になにか仕掛けがしてあるかもしれないと疑義を唱えた。そこで浅野長政が、先ず自分から試しに
渡り、その旨を秀吉に伝えた。これにて秀吉も安心して船橋を渡ったという。

二十二日、家康は再び長窪の自陣へと戻った。
二十七日に秀吉は沼津に着陣。これを待ち構えていた諸侯は浮島ヶ原へ出て秀吉に謁見したいと
前日より申し出ており、秀吉も征途の途中ながらそれを許し、近侍五、六名を限って召し連れ
対面したが、自分だけは京を出るときと同じ綺羅びやかな服装で出た。
徳川家康を始め、北畠内府(織田信雄)など、諸将、諸士雲霞の如く居並んで秀吉を迎え、その着陣を
祝った。

その後秀吉は竿ヶ原へ出て、昨年北条氏政父子の使者として大阪入りした石巻左馬允康政を拘束し、
牢輿に乗せてここまで連れてきていたが、この場で一命を助けて伊豆相模の境で小田原へ向けて追放した。
これは秀吉の着陣を北条父子に知らせるためである。

(関八州古戦録)



297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/01(金) 06:45:25.96 ID:Z2BT9e6D
この時期の秀吉さんは自己プロデュースが本当に上手いよなぁ

佐久間玄蕃の最期

2019年02月07日 09:39

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 19:54:36.66 ID:Ofct1FS2
(柴田勝家自害後)

秀吉卿より諸侯大夫、その他馬廻小姓中へと端午の祝儀として美酒肴がおびただしく下し賜れた。

秀吉卿は坂本に10余日御滞留されたが「権六郎(柴田勝家の子)と玄蕃(佐久間盛政)は洛中を
引き渡して六条河原で生害するように」との旨を浅野弥兵衛尉(長政)へ仰せ出されたことにより、
その沙汰に及んだ。権六は是非に及ばず、その様子は骨髄に徹して見えたのであった。玄蕃は曰く、

「中川(清秀)を討ち取った後、勝家の下知に任せ早々に本陣へ引き取っていたならば、どうして
この期に及んだだろうか。戦功をまっとうして上方勢を侮らなければ、秀吉を今の私のようにして
いたというのに。果報甚だしき筑前であることよ」

と言ったので、浅野はこれを聞いて数々の悪口をすれば、玄蕃は振り仰いで、

「大忍の志をおのれらに言って聞かせるのもどうかと思うが、そもそも頼朝は虜の身となり池の尼
(池禅尼)の便りで許しを受け、後に平家を攻め平らげて父の仇を報じたのだ。生きて封候を得ず、
死して五鼎に煮られようとも侮らない。これが偉丈夫の志ではないのか! 知らぬのだな!」

と言って浅野を睨み付け大いに叱り、「あっぱれ大剛の者なり!」と人は皆感心し合ったのである。
玄蕃は「所詮夢なり」と言って硯を乞い、一首をこう詠んだ。

「世の中をめくりも果ぬ小車は 火宅の門を出るなりけり」

玄蕃は途中で表情を変えることもなく首を打たれた。“鬼玄蕃”と言われたこともあったというのに
(このような最期を迎えてしまった)。

――『賤嶽合戦記』



秀吉は越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与えて上洛した。山口甚兵衛(宗永)と副田甚左衛門
(吉成か)は佐久間盛政を警固して上洛する。秀吉は浅野長政を使者にして盛政に曰く、

「私は汝の大功を知っているので誅するに忍びない。怨敵の心を翻して私に従うのだ。九州の諸将
は未だ私に属してはいない。汝に肥後国を授けて九州を征伐させよう」

盛政は答えて曰く、

「命を助かり、あまつさえ大国を授けられることは後代の誉れである。私が九州に赴けば、これを
討ち治めるのは1年の内に実現することであろう。しかし、私が上洛して秀吉に対面すれば、必ず
や憤怒を生じ、思わず秀吉を切ることだろう。そうでなくとも肥後に下って謀叛を起こすであろう。
命が助かる恩も国主となる恩も報じずに、かえって災いをなしても良いのだろうか。殊の外の恩で
はあるが、早く死罪にするべきである(返テ禍ヲナサハ可乎トテモノ恩ニハ早死罪ニ可行也)」

長政は帰って秀吉にこれを告げ、秀吉はまた長政を使者にして曰く、

「私に謀があると思うのか。天の照覧に任せて私は偽ってはいない。早く私を求めて従うのだ」

盛政はこれに、

「まったく秀吉に謀があるとは思っていない。勇士たる者、一言を出して翻してはならない。私は
明日必ず車に乗って洛中を一見し、河原で誅されるものである」

と答えたという。秀吉はこれを聞き「勇士の一言は綸言(綸言汗の如し)。もう一度言い聞かせた
としても、従いはすまい」と盛政に最期の衣装を賜った。盛政は白小袖の上に、染物の赤裏が付い
た大広袖を着て車に乗った。その姿は身長6尺、血眼で面は曲見、頬には髭があった。

5月12日。盛政30歳。盛政は洛中を渡り、世に聞こえる“鬼玄蕃”を見ようと貴賤上下は馬車道
に横たわって男女は巷に立ち並んだ。これを見て盛政は睨み回し行き、河原で討たれたという。

――『佐久間軍記』


668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:07:43.45 ID:Ofct1FS2
秀吉が佐久間玄蕃(盛政)を御教訓されるために、蜂須賀彦右衛門(正勝)を槇島へ御使者に立て
られて仰せになったことには、

「勝家(柴田勝家)は以上の次第なれば、必ず是非もなしと思いなさるのだ。早く後のことは何事
も目算して捨てられよ。やがて年が明ければ、多くの国が手に入ろう。その時に大国を一国与える
ものである。この上は秀吉を勝家と思いなされば、秀吉も満足するものである」

ところが、思いの外の玄蕃の返事であったと聞いている。

「仰せの次第は承り届けました。合戦の勝ち負けは世間の習いであるものです。勝家に合戦の御利
運があったなら、秀吉を私めの成り行った姿になされたと存じます。しかし、勝家が自害した以上、
玄蕃は浮世に留まりたとえ天下を下されようとも、秀吉と勝家を思い替えるなど思いも寄りません。

自害したく存じますが、心で考え直すと『どのような糾明を受けるかと悲しんで自害したのだよ』
と取り沙汰されれば、屍の上の不覚であるため自害は留まったのです。死罪の体を如何様にも行わ
れよ。さあ早く早く!」

玄蕃はこのような御返事に及んだ。その返事の次第を申し上げれば秀吉は「それは玄蕃に似合った
返事だな。心底を残しなさらぬ事の神妙さよ。君子に二言は無い故、重ねての教訓には及ばず。そ
れならば腹を切らせよ」と、森勘八(毛利高政)を御使者に立てられた。すると玄蕃は申されて、

「秀吉に一言の訴訟あり。ここで首を刎ねられては密かに死んだようなものです。願わくば車に乗
せて縄下の体を上下に見物させ、一条の辻から下京に引き下げさせなさって頂ければ、忝く存ずる
ものなり。その上であれば、秀吉の威光も天下に響き渡るのではないか」

秀吉はこれを聞こし召され「玄蕃の遺言に任せよ」と仰せになり、玄蕃を京に召し寄されて「車の
次第は粗相にしてはならぬ。潔く飾り立てよ」との仰せで、玄蕃の所には「これを着なされ」と御
小袖2重を遣しなさった。玄蕃がこれを見て申し上げたことには、

「忝く存じます。しかしながら、紋柄仕立ての様は気に入り申しませぬ。大紋の紅物の広袖で、裏
は紅絹紅梅の小袖を賜りたく存じます。これを着て車の上に乗り、目立って『あれこそ玄蕃よ!』
と見られるためなり。軍陣の時の大指物ように人目に掛かり申したいのである。紋柄の小袖では、
軍陣の時の鉄砲の者などの指物に似ているようなものである」

秀吉は聞こし召され届けて「最期まで武辺の心を忘れずにいることよな。惜しい惜しい」と仰せに
なり、望みの如くのような小袖を2つ用意され、1つは白の小袖でいずれも広袖である。それを玄
蕃の宿へ遣されて差し上げ、玄蕃はこれを戴き紅物の横紋を着た。さて車を差し寄せた時に玄蕃は、

「わざと縄を掛けよ。越前敦賀の在郷で百姓めらに召し捕らえられた時、玄蕃に縄を掛けたことは
天下に隠れなき事である。縄を掛けずに渡されたならば『玄蕃は縄の詫び言を致したか』と見物の
者も不審を思い立てるであろう」

と縄に掛かって車に乗り、一条の辻から下京まで玄蕃の遺言に任せて渡した。京中の上下見物衆は
取り囲んで群衆をなすこと限りなし。玄蕃は「さて、下京の町屋に入れ置け」と申し上げた。

秀吉の仰せには「夜に入ってからまた槇島に玄蕃を遣しなさり、御成敗の次第を昼に行うことは無
用である。夜に首を刎ねよ」と仰せ出され、また森勘八に仰せ付けられて「槇島に着いたらすぐに
野に敷皮を敷かせる。ただちに御切腹召されよ」と、脇差を扇に据えて玄蕃に差し出した。

すると玄蕃は「腹を切るなどということは、世の常のよくあることでしょう。腹を切るくらいなら、
どうして今日の車の上で縄を掛けようか。この上から縄を後ろ手に回して、よく縛められよ」と申
されたが、昼の高手小手の縄で縛めたまま、玄蕃の首を刎ねた。勘八殿は玄蕃の遺体を念を入れて
よく納め置き、この後に石堂を据えて玄蕃の墓印に定め置かれた。

秀吉が玄蕃を槇島に長く御置きになったのは、玄蕃を惜しく思し召され「長く置けば心も和らぐだ
ろう」と思し召されたためと聞いている。秀吉直々の御教訓をなされれば、おのずと玄蕃が申し上
げることもあるだろうとのことであった。しかしそうはならず、この通り彦右衛門を遣されて君子
に二言は無しと思し召されてこのあらましと、相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:03:01.87 ID:J4Ys0hA7
>>666
面白い違いだ

彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ

2019年02月02日 20:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 23:31:44.36 ID:wYso0K98
佐久間玄蕃允盛政は21日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では険阻を隔てて勝家(柴田勝家)に通じる
ことができず、蔵王社を出て北之庄城の後巻のために加賀へと赴いたが、そのようなところに中
村の郷民が赴いて、盛政を取り囲んだ。盛政はこれを見て、

「私はすでに運命尽き、また戦おうとも利はあるまい。かの藤吉猿面郎の所へ私を連れて行け!
一言申すべき事がある!(彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ)」

と申し彼らに捕らわれた。その後、北之庄でこれを見た浅野弥兵衛長政は「あなたは“鬼玄蕃”
と言われた人ではないのか。どうして死ぬことができなかったのだ」と申した。盛政は笑って、

「汝は愚かだな。源頼朝は大庭景親に負けて節木の中に隠れ、義昭将軍(足利義稙か)は細川政
元に捕らわれてその囲みを受けるも、ついには免れて大功を立てたのだ。将たる者が、どうして
容易く敵に死を許すことあらんや!」

と申し、聞く者は皆舌を鳴らして感嘆したという。佐々源六勝之(佐久間勝之)は勝家に従って
北之庄に至り、その後に盛政のことを聞き加賀尾山へ赴いて北之庄の後詰をしようしたが、兵は
集まらず越中に帰ったという。

――『佐久間軍記』


福島正則、岐阜城を落とした後の書状

2018年12月09日 19:09

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 21:11:53.48 ID:ad9LGzCa
福島正則、岐阜城を落とした後の書状


遠路よりの書状ありがたく拝見いたしました。私は羽三左殿(池田輝政)、
左京殿(浅野幸長)と相談しているところです。

一昨日の廿二日に三左衛門尉殿、左京殿、遠州衆が川越えをしようとした際
岐阜衆が少々出てきたので、一戦に及ばれ敵を追い崩し手柄とされました。
昨日は羽越州殿(細川忠興)、加左馬殿(加藤嘉明)と私が稲葉山へと取り詰め
すぐに(岐阜城は)落去しました。
中納言殿(織田秀信)のことですが、色々と降参のことを申されてきたので
小姓ども二、三人と共に尾州へ送りました。

こちらのことで歯がゆいこともあるでしょうが、羽三左、左京殿と談合し
秀頼様の御為によいようにするつもりですので、御心を穏やかにして下さい。
恐惶謹言

                        羽左衛門大夫
  (慶長五年)八月廿四日                 正則 
浅弾正様(浅野長政)


――『浅野家文書』


滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

必要なのは頭と肉と腸

2018年06月02日 13:35

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 21:04:39.75 ID:OgMQNIEj
 文禄2(1593)年12月、奉行の浅野長吉と木下吉隆が秀吉の意向を受けて、在陣武将た
ちに虎狩りを命じた文書が残っている。

 秀吉様の御養生のために虎を捕獲して塩漬けにして送れ。必要なのは頭と肉と腸で、皮
は自由にしていい

 この文書を読むと、当時虎は不老長寿の薬として重用されており、朝鮮での虎狩りは秀
吉の滋養強壮の薬を調達するために行われていたようだ。秀吉が文禄3年4月12日付で加藤
清正に宛てた朱印状では、清正が秀吉の命令に従って実際に虎を狩って秀吉に送っていた
ことがわかる。熊本日日新聞社編『加藤清正の生涯』p74

 虎の利用法。秀吉の仙薬調合の材料確保のために組織的に行われていた。加藤清正以外の部将も、虎狩りに従事していた。
 皮は好きにしていいというのは、実際に虎狩りに従事した大名たちへの反対給付の意味もあったのかも。



正直も不律儀に移り

2017年12月25日 16:29

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 12:51:46.80 ID:XbXTQwZe
正直も不律儀に移り


あるとき、浅野家の家老が参上して
「金奉行と扶持方奉行は相役を仰せ付けられるべきです」
と申したところ、浅野長政はそれを聞いて
「只今の通り、一人役では盗むと思ってこのように言うのだろうが
 我はかねがねその心得で、正直な人を選んで申し付けるようにしている。
 侍は己の勝手向きがどれだけ逼迫しようが盗みはしないものだが
 近世の侍は盗む侍もいるようだから、もしこの後相役を添えれば
 二人なら盗むと言う声が、いずれにせよ多くなるだけだろう」
 
「もっとも盗みをするのではないかと疑えば、この両役には限らないので
 この役も無心する、この人も覚束ないと言って相役にしていけば
 馬廻りの人数も次第に少なくなり、江戸詰に多く当たるようになれば
 馬廻りの侍が内心で"諸役人は楽でいい"と心得るだろう。そうなれば
 侍の志はきたなく、正直も不律儀に移り、どうにかして役人になれば
 差し当たって貧苦を逃れられるだろうと、正直を作り家老や出頭人に
 賄賂を贈るようになるだろう。このような風俗を心得ようとすることが
 国政仕置の要である」
と指図したという。


――『浅野考譜』


船手のあしらい神妙なり

2017年06月04日 19:38

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 17:36:56.32 ID:8oGghPA5
羽柴秀吉による中国退治の時、村上彦右衛門(通清)は船手の案内を命ぜられ、浅野長政に付けられた。


長政は備前児島を攻めるべしと、児島に上がり様子を窺った。村上も手船一艘にて同道し、塩飽より下津井の
浦まで行き、山に上り児島の様子を見て回っていた所、敵が大勢出てきた。

村上は申し上げた
「船は陸と違い、急に乗ることが難しいものです。先に船に乗ってください。後は某におまかせあれ。」

そして長政を引き立て船に乗せると、自身は後を取り鎮めて居た所、敵2,3百が打ちかかってきた。
しかし村上が山影にわずかの手勢を待ち伏せにしているのを見て、敵も警戒しかかってこず、
少々の近づいてくる敵も皆追い払って船に乗り込んだ。

そこに敵も追々襲来したが、船と陸のことであれば、別状無く引き取ることが出来た。
秀吉はこのことを聞いて、「船手のあしらい神妙なり」と、感状並びに陣羽織が与えられたという。

(士談)


相馬義胤の秀吉への臣従

2017年01月02日 20:56

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 08:19:11.54 ID:TySr3gnB
豊臣秀吉公は天正10年、明智日向守光秀を討ち取った後、天下を順次掌握した。
天正18年、秀吉公は諸国において私の争論そしてはならぬと、固く禁制としたことを触れられた。
そのため伊達と相馬の間の調略は、互いに停止した。

同年、秀吉公は相州小田原に発向され、北条の門族を征伐されるということが、この国までも確かに
聞こえ来た。そのため「将軍(秀吉)の御支配に預かるなら本望である。ともかく小田原に参陣然るべし」
と、相馬義胤は相州へ参上し、浅野弾正少弼長政を頼りこれを言上した。

秀吉公は相馬に対し、少々悪印象を持っていた。しかし石田治部少輔三成が殊更に懇意があり、
浅野長政以上に頼りと成り、これによって相馬の言い分は疎意なく巨細に上聞に達し、故に秀吉公は

「相馬は小身ではあるが武勇の士将にて、大身の敵に向かって度々の戦功有りと聞いた。」

と仰せになり、義胤の謁見を許した。

その後、義胤は妻子とともに上洛し、北野の千本に屋敷を給わりそこに居住した。
この年、後の相馬大膳亮利胤は11歳であった。
またやがて佐竹修理太夫義隆の御母堂となる桂雲院殿は、天正19年にこの千本の屋敷にて
誕生されたのである。

(奧相茶話記)

相馬義胤の秀吉への臣従について。石田三成に世話になったことをこれだけハッキリ書いているのも珍しい。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:01:51.94 ID:wVQJxPkt
なるほど

おかげで、世界史上でも有数の長期に渡って領土を治めた名家が存続できたのか

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:24:49.35 ID:93XZxViO
そりゃ利胤も初名は三成から偏諱を貰って三胤ですからな。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 14:08:23.09 ID:LNdqipkQ
浅野を頼るか石田を頼るかで命運が別れる東北の大名たちw

東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事

2016年11月17日 10:32

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 00:45:43.15 ID:nsYOTjzX
東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事


 東照宮が聚楽で秀吉に御対面され饗礼が有った日に、
秀吉は白い紙子を羽織に縫ったものを着られていた。
その頃三十二歳だった蒲生氏郷が狐紙子と名付けそう呼ばれていたという。

浅野弾正長政が東照宮に「その羽織を御所望してください」とささやいた。
東照宮はみだりに人の物をもらう事となるからと断ったが、

「御所望されましたら秀吉様は大いに喜ばれるでしょう。
この羽織はもともと具足の上に着るために仕立てられたものなので、
一旦は断られるかもしれませんが、そこをなんとか羽織を求め手に入れてください。
秀吉様はこれにまさることがないほど喜ばれるでしょう。」

と長政は重ねて申してきたので、
東照宮はやむをえず言葉に従うことになった。

 そして聚楽の城門で毛利宇喜多を始めとした者と居並んで拝謁し、
さて茶を献上された後、東照宮はかの羽織の事を仰せられた。
秀吉は喜んで羽織を自ら着せられ、大名に向かって、
「わたしに具足を着させまいとの事である。
秀吉は誠に天の冥加に叶ったものである。」
と語られた。

 東照宮は帰られた後、長臣達に聚楽の事々を話されたときに、
「私に羽織を贈った後に秀吉は『私に具足を着させまいとの志である』と
諸大名に向かって言われた。
『これからは私が具足を着て出向くことになるのだから、秀吉の鉾先に向かうこと誰ができようか。』
と中国四国に語りつがせるためである。
広く世人の口にされることとなり、筑紫の末まで聞かれることになるだろう。
天下の大名に威を示す謀略である。
その遠大な謀をたやすく計ることはできない。
秀吉のこの計略には力で推し量ろうにも及び難い。
されども私が志すところは別にある。」
との仰せがあったという。
(常山紀談)


秀吉にいいようにつかわれ、プロパガンダに利用される家康....
この年は天正14年(1586年)なので、蒲生さんは三十一歳なのでは?



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:56:39.35 ID:GDJQT7/A
>>330
聚楽第だったという設定なら天正15年だから合ってるでしょ。

にっかり青江

2016年08月21日 10:23

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3
>>26
にっかり青江の別パターンか