財貨が有れば何時も

2017年11月16日 21:09

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 22:17:53.84 ID:vEgaCA4Q
紀州に浅野長晟が在国していた頃、この国の地侍の某、功名の沙汰ありし者であったので
浅野家より扶助があり録豊かで、山中に彼の好きなように住ませ置いていた。

ところがこの者、武義を勤めず職を忘れて、ただ財貨を集めることばかりに熱心であった。
「財貨が有れば何時も、諸道具、人馬ともに揃えることが出来る。」
そう広言していた。

この頃、大阪の陣がはじまった。
彼は財貨を散じて人馬諸器を求め、由々しき姿で出かけた。ところが、集めた者共は元より下々の事であり、
紀伊から大阪までの道で、一人残らず逐電してしまい、残ったのは乗っている馬と我が身ばかりという
有様になった。
このような事では先々はかばかしい働きも出来ず、かといって紀州に変えるのも面目がないと、その場より
行方知らずになったという。

(士談)



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 22:32:32.03 ID:Rp1oDxjj
浅野長晟の動向からして徳川方に付こうとしたのかな
なのに逐電されたのか

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 02:41:43.26 ID:yf4aoXSx
いや豊臣のほうじゃね?負け濃厚だし

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 09:09:49.57 ID:lcvo0AJ8
大名が徳川についてるのにそれは考えにくいのでは…

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 09:43:13.62 ID:gi0/DeLC
じゃあどうして牢人が豊臣に集ったんだ?
勝ち濃厚の徳川に着いたのに逐電てワケワカメ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 10:01:26.44 ID:80FlYgge
金だけ持ち逃げされたつう話だろ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 10:05:55.77 ID:lcvo0AJ8
浪人は行くとこ無い人でしょ?
徳川は勝ち濃厚ったってやっぱり戦するわけだから死んだりケガしたりすることもあるし
いくら当時の日本人が勇敢っつっても臆病者卑怯者のクズもいるわけで

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 21:12:04.25 ID:GO7re+P1
これって、中間や小者の話でしょ。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/16(木) 23:56:41.63 ID:QSnBfgsM
>>316
現代の感覚で語られてもなw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 00:06:00.09 ID:zTBmePbl
>>318
現代の感覚だったらこんな事起こらないだろw
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上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

真田左衛門佐幸村の妻女

2016年12月22日 17:15

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』



名人の芸其練気別段の事

2016年09月06日 18:10

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 14:34:51.15 ID:FDTUj9r9
名人の芸其練気別段の事

 小野流一刀の始祖で神子上典膳というのは、御当家へ召し出されて小野次郎右衛門と名乗った。
その弟は小野典膳忠也と名乗り、諸国遍歴して芸州広島で没した。
これから芸州では忠也流といって、その忠也の弟子が多く、国主も尊崇して今でもその祭祀が絶えていない。

 十人衆という、忠也流を修行する者の中にはこの祭祀の事等を取り扱う者達がいて、
その十人の内の間宮五郎兵衛というものは、とりわけてその芸に長じていた。
同輩家中の師範もしていて、そのころの国主但馬守(浅野長晟)も彼に武剣を学ばれていた。
しかし五郎兵衛は不幸にも中年で卒去したので、せがれの市左衛門は十六歳で跡式を相続した。
但馬守はすでに五郎兵衛の免許の弟子であったので、そのせがれの市左衛門へ教わったことを段々と伝授された。
市左衛門の業も抜群となり免状を渡されようとした時、市左衛門は退いて断ると述べた。

「どうしてそう思い立ったのか?」
と尋ねられると、

「一体親の義ですが、流儀の心得を五郎兵衛は甚だ未熟でして、いちいちその修行が間違っていました。
そのため五郎兵衛の指導のため、国中の一刀流はいずれも下手でしたので、五郎兵衛が師範としていた御家中の者はいずれも稽古が未練でございます。」

と申すと、但馬守はもってのほかだと憤り、

「汝の父の教え方がよろしくないと申すのも無礼である。殊にその方には予が太刀筋を教えたのだ。
それをよろしくないと申すのは、父を、いや主人を嘲るに相当し、いずれにしても不届きである。
理由があるのか!」

と尋ねられると、

「武芸の事を悪いと思っても、父のなされた事であるので言わないでおくのは不忠である。
それがしが悪いと存じましたので、御疑わますのなら同衆の手前で御立合をされるべし。」

と答えた。
但馬守はいよいよ憤怒されて、そのあまり

「小倅とて容赦は無い。立会いせよ!」

とかの十人の内に勝れたる同流の者を選んで、勝負を申し付けられた。
その十人は申すに及ばず、一家中で心得有る者どもが立ち合ったが、一人も市左衛門に勝ったものはなかった。
但馬守も自身で立ち合われたがこれもまた負けられたので、但州は甚だ尊重された。

「親を誹ったのは当座の当座を申し付ける。忠也流の稽古は万事市左衛門に指図させるように」

と申し付けられ、家中に名誉の者が出てきたと殊の外であるとのことであった。

惜しいかな、市左衛門は三十歳にならずして卒去し、その子が跡を相続したという。
但馬守はひどく惜しんだそうだ。
(耳袋)



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 16:33:50.98 ID:QroxL7fd
トントン但馬だったか
血は残すべきでないな

大阪方に止まれと言っても

2014年11月25日 19:56

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 20:43:23.71 ID:y+GediFy
大阪夏の陣の緒戦、樫井の戦いで、浅野長晟の軍勢が大阪方を撃退すると、当時紀州では一揆が起こり
諸所に放火し、その上押し寄せてくるとの風聞があったが、浅野方が勝利すると一揆共はたちまち鎮まり、
放火も止んだ。これは、敗軍すれば落ち武者を剥ぎ取ろうという企みが、一揆の側にあったためだという。

この合戦の経過を仔細に記した報告書を、泉州加田浦より早馬にて二条城に注進し、
浅野但馬守(長晟)は山中まで帰陣しようとしたが、「敵の大軍がもし追い打ちをかけてくれば
一大事であるので、誰かここに留め置きたい。」と言ったが、自分からここに残ると言い出す者は
一人もなかった。

しかしここで熊澤兵庫が進み出て、「私がここに留まります!」と申し上げた。
但馬守は大いに喜び、「汝がここに留まるのならば心安い。」と帰陣の支度を始めた所、
物見より、大阪方の軍勢が北に向かって撤退している旨が報告された。
これに追撃はなくなったと浅野方の者達は一同大いに喜んだが、一人熊澤兵庫は残念がり、

「大阪方に止まれと言っても栓もない。」

と、力を落としたそうである。

(明良洪範)




890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 03:56:56.66 ID:B93gk4uE
泉州加田浦ってどこよ
紀州の加太か

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 06:58:39.32 ID:wneVrhV1
>>890
岡田浦の打ち間違えかも
樫井から近いし

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 16:20:51.41 ID:DsL9mEjk
加田浦でググったら紀州加田浦ってでるな。
間違えたんだろ。

病身者がかかる振る舞いいたし候

2014年09月26日 18:50

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:41:44.20 ID:HBI3MB18
永田治兵衛は浅野家の家臣であったが、多病の質で、「あいつは何の役立つのか」と、
家中から陰口を言われていた。
これに対し永田は、

「下郎であれば健やかでなければ役に立ち難いだろう。だが武士は病身であっても義勇さえ有れば
役に立つのだ。」

そう語った。この事を聞いた者達は、「永田の言葉は、世に言う負け惜しみだ。」と嘲った。

やがて大阪夏の陣、泉州樫井の合戦において、永田は淡輪六郎兵衛の首を取り陣中に帰ると、
彼の陰口をしていた者達に言った

「病身者がかかる振る舞いいたし候。無病の人たちはどうして功名無きか!?」

これに答える者は一人もいなかった。

(明良洪範)




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:55:23.56 ID:NHQhAPWH
浅野家(含む一門)家中で活躍する者
病身者の永田さん、茶坊主の上田さん、さて次は?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 20:07:39.05 ID:R4D+AFtJ
大石内蔵助

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 16:07:17.20 ID:Lv7rbv73
まあ答えられないからって反省したり考えを改めたりしたわけじゃないんですけどね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 17:22:35.87 ID:71cO/wZg
それはそれでダサいな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 19:37:34.02 ID:zKaBtR1k
生きてる価値ないよね
もう死んでるけど

森本儀太夫の土台

2014年09月24日 18:53

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:02:58.58 ID:S8utVFQP
江戸御城の石垣を築く時、桜田、日比谷付近の築き立てを、加藤清正
浅野長晟にお命じになった。加藤家は森本儀太夫(一久)が奉行を行った。

さて、この付近一円は沼だったので、石垣の土台を固める時に森本は指図して
人夫を大勢出し、武蔵野の萱をおびただしく刈り取らせ、それを沼に入れた。
そして、10歳から13,4歳までの子供を集めて、その沼の上で遊ばせた。

子供たちは面白く思って踊り狂った。そうして日を送るうちに、浅野家方では
石垣が大方出来上がった。諸人は皆、森本の指図の埒が明かぬのを笑っていた。

森本は諸人の嘲笑には全く構わず、前述の沼がよく固まったのを見て石垣の
築き立てにかかったので、浅野家方よりはかなり遅れて出来上がった。

ところがある日、大雨が降り、この時に浅野家方が築き立てた石垣は、
土台がよく固まっていないので所々崩れ、再び築き直した。一方で、
加藤家方が築き立てた石垣は、よく固まっていたので少しも崩れなかった。

これを見て諸人は、森本の指図に感心した。浅野長晟はこれを聞いて森本を
招き、そのやり方を問うた。森本は答えて、

「沼などを固めるには、急に固めては完全にはならない。そこで萱を踏み込み、
童子らに踊り狂わせて、自然と固めたのである」

と言った。後世に至っても、沼などを埋めるには、この森本の工夫を用いる
ということである。この森本は加藤家において中老であった。かつ、武勇の
聞こえある良士である。

――『明良洪範』




865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:16:38.11 ID:BlCXq4j6
せいしょこさんの築城能力はよく知られているけどこういう中々表に出ない有能なスタッフの役割も大きかったんだろうなあ

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/23(火) 23:31:50.04 ID:4z+jW3CR
おばちゃん使う武将もいなかったけ?

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 02:25:32.15 ID:msEfpLVX
沼地を固めるために子供たちと相撲とらせたって話だっけか?

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 08:56:00.63 ID:V1jcRmr6
「へうげもの」の築城シーンにもあったな

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 09:13:46.39 ID:eBqypMLF
堤防を作るときにも、わざわざ遠い側から土を持って行って、行き帰りに踏み固められるようにしたとか

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 13:54:10.30 ID:FJwfTTB0
で用済みになったらズドンとやるとw・・・どこだっけ?

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/24(水) 15:43:49.30 ID:V1jcRmr6
>>870
石垣なら仙台城の政宗公に殺されまいと
石工らが踊ったのが起源とされる雀踊りがある

872 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/09/24(水) 21:34:46.67 ID:lB0y2ti4
>>870
丸亀城の石垣を作った羽坂登(重)三郎は石垣の出来を褒められた際にその攻略法を披露したら生駒親正に井戸に埋められました。

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 00:35:57.51 ID:sF5YtMXU
浅野の所の奉行陣も全国指折りの有能揃いな気がするが。長晟も優れた人だし
それにさえ教えを請わせるような人間がいる加藤家って恐ろしいな

浅野長晟は碁石を

2013年09月03日 20:02

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 18:13:10.59 ID:ozVi0goc
浅野長晟は、幼い時より豊臣秀吉の側に仕えた。
ある日、秀吉が徳川家康と囲碁をする時、長晟は碁石を温めて献上した。

家康はその気の利いている事を褒め称え、長晟が成人した後、
常にその人となりを称誉していた。

――『寛政重修諸家譜』




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 19:05:16.62 ID:vp2wnvDa
幽斎様が冷やし碁盤はじめました

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 12:12:10.81 ID:iO7OvFGN
碁石を尻に敷いて暖めていたのか

豊臣家と紀州浅野家とのやり取り

2013年06月23日 19:04

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 21:48:10.40 ID:enzeKdNq
元和元年(1615)4月15日、大阪夏の陣が始まろうとしている頃である。
大阪の豊臣家より使いの吉村兵左衛門が紀州浅野家に下り、家老である浅野右衛門太夫、
浅野左衛門佐、亀田大隅守高綱に豊臣家の意向を仰せ下した。その内容は

『但馬守殿(浅野長晟)に対しては、秀頼公の元を遁れるようなことがなかったので、
疎意に思われるようなことが無かったのに、去年の冬、大阪表に幕府方として出陣してきたことは
全く意外に思われました。

故太閤殿下のよしみを忘れられていないのであれば、我らのお味方として頼りたいと思し召しに
なっております。

但馬守殿の家老であるあなた方3人にも、頼りたいと思し召しになられています。
もし我らにご同心なされるなら、但馬守殿には千枚分銅金(大判千枚分の金)を3つ、
3人の家老たちには1つづつ下されます。
また3人の家老には、秀頼の旗本の騎馬の武士30騎まで預け、直に召し使うことを認めます。』

という内容であった。3人の家老は亀田大隅の所に集まり相談した。

「仰せ下さった趣についてであるが、我らが主人である但馬守様は、関東の御取り立てによって
紀州の主と成ったのであるから、大阪に一味するなど考えられもしないことだ。
そうである以上これは、但馬守様に申し上げるにも及ばぬことである。」

こう結論し、大阪への返答には
『仰せ下さった上意について、畏まり存じ奉ります。
但馬守については、関東の芳恩を蒙っており、仰せ下された趣はその意を得ません。
ですので、御使者をお返しいたします。』

こう吉村兵左衛門に申しわたし、彼を帰らせた。
すると同月20日に、吉村兵左衛門が又もや罷り越し、今度は大野修理(治長)からの承りであると、
3人の家老に書状が下された。大野の書状の内容には

『自分達は兎に角、但馬守殿を味方として頼りたいと考えている。もし気持ちを変えて頂けるのなら、
今の紀州の領地に、大和国を添えて遣わすであろう。
浅野左衛門佐には摂津国を、浅野右衛門太夫には和泉国を、亀田大隅守には河内国を与えよう。』

これに3人は再び集まって相談し、一同に言ったことは
「どのように仰せ下されようとも大阪方に御味方するなど出来るわけがない。
しかし御使が2度にまで及んだ以上、但馬守様にこの事を申し上げ、お返事をして頂かなければなるまい。」

そう考え3人は、浅野長晟にこの事を申し上げた。長晟は聞いて
「お前たち3人はどう思うか」と尋ねた。これに浅野左衛門佐が答えて

「先々代の弾正様(長政)、先代の紀伊守様(幸長)は確かに、故太閤殿下の御厚恩を受けられました。
しかし但馬守様は家康公の御恩を蒙り、今の身代があるのです。そうである以上、我々は並びなき
関東の御味方であると、私は存じ奉っております。」
と申し上げた。長晟は再び「残る両人はどう思うか?」と尋ねた。
これに右衛門太夫も大隅も、「全く左衛門佐の申し上げたとおりです。」と答えた。

長晟は「では、そのように返答するように。」と仰せ付け、3人は『どうあっても御味方することは出来ない。』
と返事をし、吉村を返した。

こういう所に京の板倉伊賀守殿より、浅野長晟に飛脚が到来し、
『日本の大名衆は何れも領国を出立し大阪表へと出陣しているのに、但馬守殿はどうして遅参しているのか』
と申し越してきたため、長晟は「急ぎ出立する!」と、陣触れをされた。
(龜田大隅守高綱泉州表合戰覺書)

大阪夏の陣直前の、豊臣家と紀州浅野家とのやり取りである。





慶長十五年(1610)卯月十九日浅野幸長書状

2011年10月25日 22:00

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:49:33.51 ID:gXVxfZeL
慶長15年(1610)4月、名古屋の浅野幸長が出した、京にあった浅野長晟からの書状への返答

『卯月(4月)16日に出されたあなたの書状は、17日には届きました。さてさて早い飛脚であったものです。
今、名古屋では(名古屋城普請の)御鍬始が行われ忙しくて時間を作ることが出来ず、本日19日に
この返事を渡しました。

さて、秀頼様がその方に二千石の知行を与えようとしている件についてです。

前にも申したように、このことは石豆州(石河貞政)に申し使わされました。そこで市殿(片桐且元)に
相談した所、「あなた方の方で弾正殿(幸長・長晟の父、浅野長政)の所に、この事を知らせれば
拝領しても問題は無いでしょう。」との旨を、片市殿(片桐且元)の家臣を通じて、石豆州、杉伯州(杉原長房)から
貴殿にご返事として届いていることと思います。

そして片市殿から
「今回の御知行拝領の事、あまりグズグズしていてはいかがかと思います。
早く二千石の御知行をお渡ししたいものです」
と、懇ろに申し置きをされている以上、あまりこの件を長引かせるのは宜しくないでしょう。

片市殿の御指図の通り、弾正様の所に、お尋ねに使者を遣わせるべきです。
その時はあわせて、その書状の受取を下さるようにと、お断りもしておきましょう。

それから私の方では今日、江戸(幕府)に、この件を相談する遣いを出しました。
この件については、その遣いが帰ってから判断することにしましょう。

そうそう、京都御番のこと、いよいよ油断なく勤めて下さい。
又、追々お手紙致します。恐惶謹言

紀伊守 幸長(花押)

卯月十九日 浅野但馬守(長晟)殿 御返報 』
(浅野家文書)

この二千石を長晟が拝領したのかどうかよく分からない。ちなみにこの前の3月、長晟は幕府より
備中国足守(蘆森)ニ万四千石を加増されている。

関ヶ原から10年経った当時、豊臣秀頼からの「新恩」に対しての、非常に微妙で警戒的な空気が見えてくるような
書状である。




501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 20:37:21.27 ID:z2RiFBf6
>>497
人物名分かりにくすぎw
こういうのどうやって解読するんだよww

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:07:52.76 ID:uIv37/Hc
片桐且元が片市なのはなぜ? と思ったら
官位が東市司だからか

しかし名前を書かないやら、省略やらで、解読するの大変そうだな
中国はどうだったんだろう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:26:59.08 ID:HsKQDjlr
政宗みたいのは、まあ例外として、
当時の人にとっては、官名で呼ぶのが普通だろうからなあ
苗字の頭文字+官位の頭文字はわかりやすいのかもしれん

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:39:11.85 ID:soW1mmlW
当時の手紙に書かれてる名前とか凄くいい加減だよね~
一通の手紙だけでなくその前後で頻繁にやりとりしてるからあれで通じるんだろうな~

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:46:57.87 ID:uIv37/Hc
自分だって手紙書く時、一々日付入れたり、細かく状況説明なんて入れないから、仕方ないやなぁとは思うけど
名前の当て字は凄いね 本気で読めれば(通じれば)いいんだよ! って感じだし
そのおかげで、この人何人いるんだよ と複数説唱えられたり
漢字が違うから、この人じゃない と存在否定されたりと大変

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:07:22.95 ID:xuAT/Sul
現代人で旧字に拘ってる人とかに比べるとすごい大らかだよね


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:48:22.74 ID:6kmBJijk
名前呼ぶのって相当特別な関係なんだっけ?親とか娘の婿とか?

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:05:29.50 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:06:22.78 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:07:16.94 ID:aRxVnAXK
すまん連投した
花瓶に火薬詰めて爆死してくる

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:08:08.46 ID:k2r+lsAw
そしてまっくろくろすけになると言う事か

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:20:24.65 ID:sTfMlLQ7
名前を全て平仮名で書いてくれたら後世の人間が悩まなくて済むのに

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:21:24.60 ID:NBgkNDfT
>>511
間違っても国宝級の茶器に火薬詰めたりするなよ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:54:53.08 ID:NjXGtHNA
いえやす ちくぜん てる
を思い出した。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 08:22:26.50 ID:PfR2GCwX
>>501
このスレにどっぷりつかってしまったせいかなんの疑問もなく人物名が理解できてしまったw
会社ではなんの役にもたたないがw

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 09:45:11.52 ID:PzuxZXTC
>>521
しかし人生を豊かにしてくれる