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赤松家、そして大物崩れの事

2013年04月03日 19:50

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 15:38:49.79 ID:vI2wcPwD
播磨の赤松殿の事を、蓬庵様(蜂須賀家政)が安太夫にお尋ねになり、私が参って物語をした。

その内容は、性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
ご器量のある方で備前播磨美作3ヶ国の国主の座を守っておられた。

ところが備前の浦上(村宗)と、性雲様(義村の養父・赤松政則)の北の方(洞松院)が
仲良くなられ、義村様に毒を盛り、相果てられた。

これにより浦上は、その御後に赤松晴政様が立てられた。この時晴政様はご幼少であったので、
その経緯を全くご存じなかった。
晴政様が16歳になられた時、小姓衆が密かに囁き申し上げたため、初めて自分が擁立された経緯を
知ったのである。

晴政様は阿波の御屋形様(細川持隆か)の婿であったため、阿波との間に浦上を殺す密謀を
交わした。

そのうちに、阿波と播磨の間に合戦が起き、播磨衆は摂津国天王寺に陣取り、阿波衆は堺に陣取った。
(享禄4年(1531年)大物崩れの戦い)
この時、晴政様は兵庫の高山で寝返りの合図の狼煙を上げられ、この寝返りにより
天王寺の播磨衆は崩れ、大物と西宮の横河にて水に溺れ、1万人が死んだ。

このように安太夫に申し上げた。

この合戦について阿波では、『溺れ死んだ戦死者は皆蟹になった、その蟹の甲羅は
人の顔のようであった』と言われた。
これは歌念仏に作られ、その念仏の名は「しまむら念仏」と呼ばれた。

このことを覚えていた人が慶長の年号の頃まで存命であり、語られていたのである。
(三好記)

三好記より、大物崩れについての証言である




144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/03(水) 17:14:46.53 ID:ziJWCEde
平家以外にもカニになった人たちがいたのか。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 17:21:43.04 ID:wE8I+kH0
>>143
   (~)
 γ´⌒`ヽ
  {i:i:i:i:i:i:i:i:}
 ( ´・ω・)  観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄
  (:::::::::::::)  舎利子 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
   し─J

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 18:13:20.26 ID:/eUye+tw
>>143
蟹になったのが、宇喜多能家を夜討した島村豊後守の父と言われてるんですね。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/03(水) 21:54:30.76 ID:47EmYUcI
蟹食い放題だな。
てか、西宮の川ってどこだろう?
武庫川かな?

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 12:37:25.40 ID:5fI42eIS
>>143
>性因様(赤松義村)はその身長が3尺(約1メートル)ほどだったが、
まだ子供という意味かと思ったら推定没年30歳前後だった
ちっちゃいおっさんで有名な山県昌景より更に一尺短いって最早妖精かなんかじゃないのかw

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 17:28:37.38 ID:bc5BS2dc
>>154
三尺入道、赤松義則も満祐もちっちゃかったし
赤松一族はコロポックルの親戚と考えるのが妥当

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/04(木) 17:56:30.79 ID:SY64RZc2
>>156
http://en.wikipedia.org/wiki/Ovitz_family

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島村蟹

2012年07月15日 20:45

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:43:39.02 ID:dHBxf5HS
島村蟹

享禄4年、細川高国浦上村宗と、細川晴元三好元長赤松政村(晴政)の間で合戦の火蓋が切られようとしていた。
そして、6月4日、三好方の諸勢が、打出、天王寺、木津、今宮に攻めかかった。
大物(だいもつ)崩れの戦いである。

細川高国はここを先途と防戦したが、その先鋒を務める浦上勢は小勢であったために敗れ、浦上村宗は討ち死にしてしまった。
村宗の臣・島村弾正(貴則)はこの事態に「無念なり!」と叫んで敵を引っつかみ、野里川の淵に飛び込んで死んでいった。

この時以来、彼が死んだ淵では甲羅に武者の顔のあるカニが見られるようになり、今に至っている。
周辺に住む者は、このカニのことを「島村蟹」と呼んでいる。
(足利季世記)

島村蟹とは、標準和名「ヘイケガニ」のことである。
遠浅の干潟でも見られるというこのカニは、そのインパクト抜群の姿のために様々な地方名を持っている。
江戸時代後期の『本草綱目啓蒙』という書物には、島村蟹の他にも、長田蟹(元ネタは「主をきり婿をころすは身のおはり むかしはおさだ今は山しろ」の長田忠致)、
清経蟹(平清経)、武文蟹(太平記の登場人物・秦武文)、治部少輔蟹(石田かどうかは不明)というようなものが挙げられている。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:44:54.44 ID:dHBxf5HS
ちなみに、「標準和名」に歴史上の人物の名を冠する動物には、
例えば、昆虫では、ジョウカイボン(浄海坊=平清盛。火傷のような炎症を起こす別種の有毒昆虫と混同され命名されたらしい)

トウゴウヤブカ、トウゴウカワゲラ(東郷平八郎)、カミムラカワゲラ(上村彦之丞)、オオヤマカワゲラ(大山巌)、ノギカワゲラ(乃木希典)
(外人の研究者が名付けた「学名」を「和名」に反映させている)

魚類では、キントキダイ(坂田金時)、クマガイウオ、アツモリウオ
(それぞれの体色に由来)

シュンカンハゼ(俊寛僧都)、タメトモハゼ(鎮西八郎為朝)、ベンケイハゼ
(それぞれの標本の産地(薩摩硫黄島の対岸、運天港の近く、田辺湾)+容姿に由来するらしい)
等があるようです。

戦国時代の人物にちなんだ標準和名の動物とか、いかにもありそうな気がするけど・・・

タメトモハゼ「魚類に限って言えば、小耳に挟んだことも無い!」

まあ、変化球でアカハチハゼ(石垣島の豪族・オヤケアカハチ)とか、
伊達者という言葉に由来するという、お洒落な縞模様のダテハゼなんてのがあったりしますが。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:48:23.09 ID:poa2keyK
ハタハタ「サタケウオ・・・」
サナダ虫「・・・」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 21:49:17.96 ID:poa2keyK
あ、標準和名の魚か失敬した

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 22:13:24.40 ID:dHBxf5HS
そうだ、サナダムシがあったね。
魚類くらいしか把握できてないもので、完全に忘れてた。

サナダムシ

形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から
「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。

あと、地方名なら戦国の人名由来のものは色々ありそうですね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 23:26:49.08 ID:KkSrYP1x
>>514
話の本筋からは離れるけど、
いわゆる「大物崩れ」って戦の範囲がえらく広範囲に及んでるんだけど、
これってどう解釈したらいいのかな?

細川浦上連合軍が西宮の神呪寺に布陣してた赤松勢に
背後から襲われて総崩れになったことになってるんだけど、
天王寺や今宮のあたりから大物まで延々と布陣してたなんて考えづらいし・・・


520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 00:17:39.65 ID:PKmFApoL
>>519
『後鑑』収録分を使ったので前後の文章が分からないけど、
ただ単に『足利季世記』作者の誤解または故意で、数ヶ月にわたる一連の戦いを
一日のものとして描いてるだけじゃないのかな?

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 06:08:15.45 ID:73R7Butz
>>514
    (~)
  γ´⌒`ヽ
   {i:i:i:i:i:i:i:i:}
  ( ´・ω・)  
  (V)    (V)
    し─J


522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 10:03:56.86 ID:jLTHAmro
蛍なんかゲンジボタル・ヘイケボタルだな。

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/15(日) 11:31:50.35 ID:JUJOLVZM
しまむらガニワロタw

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/16(月) 20:08:41.44 ID:zifDkflF
>>515
あんま関係ないけど、スカシカシパンとかのカシパン類って昔は「桔梗貝」って呼ばれてたそうだが
明治の学者が菓子パンからカシパン類なんて権現様のようなネーミングをしたせいで今に至るという・・・

室町幕府第12代将軍足利義晴誕生

2012年02月19日 21:50

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 17:22:03.32 ID:ab8T0jwT
室町幕府第12代将軍足利義晴誕生


赤松家落日の時(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5907.html)の後の話。
浦上村宗によって全てを奪われたかに見えた赤松義村であったが、彼はまだ復権を諦めたわけではなかった。
義村は京を追われた足利義澄の子である足利亀王丸を引き取って養育していたが、
この子どもの身柄はまだ村宗にはまだ掴まっていなかったのである。

永正17年(1520年)12月、義村は亀王丸を伴って置塩城を脱出し、海路で明石へと渡り衣笠範弘を頼る。
義村はそれから東播磨の諸将に呼びかけて村宗討伐の兵を結集させて最後の賭けに出のであった。

翌永正18年(1521年)2月義村方の先方の赤松村秀・弘岡左京らが室津まで進軍した村宗軍と対峙。
「いよいよ決戦」・・・そう思われた矢先になんと弘岡がそのまま村宗の陣へと駆け込み裏切ってしまった。
いきなりプランが崩壊した義村軍に早くも勝ち目が無くなり、義村は兵を一旦引くことを余儀なくされた。

しかし、ここで優勢である村宗の方から義村へと和議の申し込みが入る。
京都で足利義稙と細川高国の対立が激化しており、高国は新将軍擁立を目論み村宗に連絡して亀王丸の上洛を打診していたのである。
復権への欲が出たか、義村は村宗と誓紙を交わして和睦し、同年7月6日に亀王丸の身柄を高国へと引き渡した。

だが亀王丸の上洛が済んだ後、村宗は誓紙を一方的に破棄し義村の身柄を拘束して幽閉した。
そして9月17日、赤松義村は村宗の放った刺客に襲われ、刺客の一人の左手首を切り落とすなど抵抗したものの切り殺された。
同年12月25日、亀王丸は育ての親の死について知らぬまま上洛してついに征夷大将軍となり、「足利義晴」を名乗った。


余談だが後年、足利義晴浦上村宗が上洛した時に「将軍襲職の恩人である」としてその再開を喜んでいたと伝わる。




109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 18:43:29.34 ID:MvK+LWGf
養育されていたつもりもなかったのか

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 19:42:36.24 ID:o7VjYBPQ
赤松家ここで終わったな。二度と守護三国に影響力が及ば無くなった。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:03:32.05 ID:da2LXFMF
足利義晴自体は影薄いけど、偏諱受けた大名は多いよな

武田晴信、伊達晴宗、尼子晴久、南部晴政

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/19(日) 20:35:29.81 ID:2pVPU0wl
>>111
ちょうど黄金世代の親の代だからね

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 03:29:16.54 ID:Qc+QZG8A
>>111
赤松晴政「赤松義村の子供なのに…」

まぁ大物崩れで晴政が浦上を背後から襲って殺すのも道理だな。
どうせ大物崩れが起こらなかったら晴政も用済みで始末されたはず。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 09:13:08.87 ID:x+0Yv8HS
>>108
この時代も面白いよなー
信長の野望はこの時代を舞台にしたゲームを出すべき
蒼天録なんて無かった


115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 11:06:48.87 ID:bkyxPwdY
そうなるともう「信長」の野望じゃなくなるんだけどなw
昔、源平を扱った光栄のゲームあったな~

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 12:56:53.14 ID:6iZObSRe
>>108
相手が優勢な場合に和議に応じるのは馬鹿。


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 22:58:03.98 ID:HvdNzsJ5
>>116
相手が優勢なら当然和議に応じるだろうさ。
むしろまずいのはその後。

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 07:37:29.17 ID:4CjbdSAD
上杉朝定「相手が劣勢なのに和議するとかありえんよねー」

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 11:18:16.97 ID:S5QUgtuu
真田パパン「それは時によりけりだ。くくく・・・」

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 16:02:49.32 ID:lke3g88j
信長から降伏勧告きたら100%罠だな
北畠とか伊勢長島とか遠山城とか...

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:16:15.91 ID:u2zSX/im
>>120
信長は、だいぶ経ってから追放したり処刑したりするから怖い。
家康辺りは、どうやって死亡フラグを回避したんだろう。


122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 17:45:05.07 ID:+4rptUCo
>>121
息子と嫁さんで華麗に回避

赤松政秀、永禄9年正月11日浦上攻めのこと

2011年12月23日 22:01

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 20:01:20.03 ID:1yW4B2Ym
浦上さんちは名前が似てる人多すぎw
こんなのみてたら直家さんの思考があんなんなっても不思議ないと思えちゃうw



490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 01:14:23.30 ID:HJ8lQWr+
>>486
「播磨鑑」では、人名関係がえらいことに。
姫の年齢もこれでいいのか?

赤松の惣領と龍野の城主赤松下野守政秀は浦上に遺恨あって、老臣内海勘解由左衛門、湯浅長門守、
江渡越中守等と相謀って、
永禄9年正月11日に押し寄せた。
その日、城は村宗の息子宗景の婚礼で、酒宴乱舞で上も下も酔いつぶれている。
そこへ3百余騎の龍野勢が、海を押し渡った先の大手と、地続きの北口の2箇所から一斉に攻めかかったのである。

思いも寄らぬことに城は大混乱となり、酒で足腰の立たない兵は次々と討たれていくが、
村宗は騒がずに下知し、火の出る勢いで戦った。
婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)も小長刀を取って敵中に駆け入り、思う存分戦った後に自害。
その様子に敵も味方も「女といえど武士の子はかくや!」と感じ入ったのであった。

やがて奮戦していた村宗も討たれ、子息の宗景も死を決意したが、
「これは不慮の災難であるから、皆が討ち死にして敵に利を取らせるよりも、
一旦落ち延びた後に仇を報ずるべきでございます」
と明石大炊助が必死で止め、菖蒲谷治部小輔というものを添えて搦め手の門前から小船に乗せ、
備前国へと落としたのである。

なお、室津の住民は婚礼の夜に討たれた姫のことを悼んでひな祭りを延期しました。
これが室津で行われている「八朔のひな祭り」の由来だと言われています。
永らく伝えられたこの風習も一時期途絶えていましたが近年復活し、今年も盛大に開催されました。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 01:46:46.64 ID:HJ8lQWr+
赤松政秀さん、
赤松晴政の名代として毛利元就に使いし、元就の以来で刀の鍔を自作していたり、
聖徳太子縁の斑鳩寺(太子町)を再建したり、
娘が信長の養女として関白二条晴良の嫡男に嫁いでいたり、
読書家で数千冊の蔵書があり、藤原惺窩がそれを引き継いだ広秀のもとに入り浸ったり
と、いろいろ凄い人なんだけどねえ。

政秀にすれは包囲網の形成を阻止し、主家の仇を討った大勝利だけど、戦国の掟は残酷だねえ。
敵にとっても自分にとっても。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 03:46:17.23 ID:TJav4rlU
>>490
色々凄いな、これw

30年以上前に死んだ村宗が黄泉がえって宗景が室津にいる。政宗どこいった。

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 08:36:00.41 ID:+Ybzg5M+
>>490
>婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)

年齢は干支を一回り下って16歳とかかな?
28歳だと父親の黒田職隆の12歳の時の子どもって事になってしまう
ショタ好きには有りかもしれないが

赤松家落日の時

2011年10月23日 22:00

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:13:18.25 ID:rmL9jZXQ
赤松家落日の時


応仁の乱後に復活した赤松家の当主、赤松政則が死亡した後にその名籍を就いだのは
七条家からの養子である赤松義村という人物であった。
しかしながら相続時に幼少であったために浦上則宗など譜代の老臣が亡くなった後も実権を握ったのは
政則の正室である洞松院であり、義村は長らく「神輿」のような状態に置かれた。

しかしながら義村も成長するに伴って洞松院や家中を牛耳る老臣の存在を疎ましく思うようになり、やがて
家中の改革に乗り出した。
その手始めが永正14年(1517年)に敷いた浦上村宗・小寺則職の2宿老と自身の側近から選抜した3奉行による
合議制であった。
ここで最大の狙いが洞松院との癒着の強い浦上村宗の排斥である。
やがて狙い通りに合議の中で主権争いが始まり、小寺や3奉行の讒言によって村宗を追い込み、やがて
義村は村宗の出仕を差し止めた。

もちろん納得できない村宗は永正16年(1519年)に兵を集めて居城の三石城に篭り対決姿勢を見せたが、
村宗の弟の宗久(備前守護代)はこれには従わずに赤松側に付いた。
村宗の失脚に加えて浦上の分裂…あとは三石の反乱軍を討伐すれば義村の野望は果たされるはずであった。
だが要害に築かれた三石城はなかなか落ちず、やがて村宗は根回しによって西備前に勢力を誇る松田元陸と同盟し、
松田が三石を攻める赤松の背後を突くという噂が立つと兵を退かざるを得なかった。

「まさか長年浦上と対立していた松田が味方するとは…」義村としては大誤算である。
しかも悪い流れは続くもので永正17年(1520年)、今度は村宗派に美作守護代の中村則久などが転じて
赤松家に対して反旗を翻した。
今度は小寺則職を総大将にして美作に向かわせたが、宇喜多能家の撹乱などで200日以上経っても中村の篭る
岩屋城を攻略できず、
やがては浦上と松田の連合軍に則職が逆に討たれるという無惨な結果に終わった。

備前・美作戦線で優勢に立った浦上軍はついに播磨へと侵攻し、赤松軍を蹴散らし、ついには義村は
正室(洞松院の娘)と離縁させられ、嫡子である才松丸の身柄を引き渡した上で隠居に追い込まれた。
そして村宗は若干8歳の才松丸(後の赤松晴政)を元服させて傀儡とし、自らがその後見人となって
赤松家を掌握したのであった。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 19:48:13.39 ID:Vf6Z+BE9
>>458
名君名将の子で有能と見られていた二世が、
「意外と、甘いようで」と足元救われるのも
戦国でよくある興亡史の一典型なんだろうな。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 20:06:08.19 ID:7hbCiVGx
守護代の弟はどうなったんだろう…殺したのかなぁ

漁夫の利

2011年02月14日 00:00

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 13:23:34 ID:GOTpJhPV
漁夫の利


1522年、主家赤松氏を凌ぎ備前・美作・播磨ら3カ国を牛耳る浦上村宗と淡路に追われて浪人となっていた
浦上村国・小寺藤兵衛の間で戦争が起こった。
浦上村国が別所・在田・龍野赤松氏を引きこむなど暗躍し、村宗と戦えるだけの兵力をかき集めたのである。

開戦直後は村国方も奮戦するが名将、宇喜多能家などを擁する村宗軍団は強く徐々に
敗色が濃厚な情勢となってきていた。
しかしここで両軍を揺るがす知らせが舞い込む・・・内戦に漬け込んで但馬の山名誠豊が備前に
攻め込むというのである。
ここで村国はすかさず村宗に接触を図る。

村国「そもそも同姓の誼に背いてまで今貴殿と対峙しているのも、全て赤松家再興のためであって、
決して私怨によるものではない。いまもし兄弟垣に争って山名に国を奪われてしまっては、
    あとで臍を噛んで後悔しても間に合わない。ついではここで和睦し、幼君政祐(のちの晴政)を立て
、一緒になって山名の軍勢に当たり、これを撃退しようではないか!」

村国は方針を転じ、村宗の専横を赤松の家臣として憎んでいる訳でこの戦は私闘ではないことを饒舌に語り、
和議を説いた。
自分から戦を仕掛けてきておいて厚かましい事この上ない申し出だが、かつて浦上家には苦い経験があった。
1480年代に山名との間で起こった福岡合戦の際に家中の分裂に浸け込まれ、実際に領国から追われてしまった
経験がある。
村宗は渋々ながら村国との間に和議を交わし、対山名の為に共同戦線を張る提案を受け入れた。

そして山名家と赤松・浦上連合との戦に移行するのだが驚愕したのは山名軍である。
非常に短期間の間に内戦がすっかり収まっていて迎撃体制が整えられていたのだから・・・
結果として備後からまで兵をかき集めてまで侵攻を画策した山名軍は翌1523年まで居座るも敗れ、
但馬へと逃げ帰った。


この一件で一番得をしたのは不覚にもガチガチの反村宗派である村国の復権を許した村宗でも無く、
意気込んで侵攻した割にはまるで得るものがなかった山名でも無く
劣勢だったはずの浦上村国であったという話。




795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 13:41:44 ID:zzRd3SbN
山名はこんなんやってるから力が無くなっていったんだろうな。

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 18:03:24 ID:y+6+7etR
下野のどっかの家を思い出すな

内部争いしてるけど外から攻められると結束するところと、
漁夫の利とかすごく得意そうな人がいるあたり

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 18:05:55 ID:bY7KRaDa
>>794
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E5%B4%A9%E3%82%8C
大物崩れ

川中島や設楽が原よりもダメージが大きい

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 19:55:31 ID:biupT8EZ
>>798
損害 ほぼ全滅 
で噴いたw

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 20:33:49 ID:GOTpJhPV
赤松晴政は大物崩れでせっかく盛り返したのに尼子が来るということで内戦をやめて浦上政宗と和睦したら
また数年後に家を牛耳られてたでござる。


これも悪い話かな。

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 20:50:38 ID:zzRd3SbN
毛利元就が井上一族の専横がどれだけ酷いかの例えに「赤松家中の浦上」って表現を使ったねぇ。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 20:58:14 ID:Tu25HnAN
政宗って名前の奴に碌な奴はいない

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 22:54:03 ID:ZPhr0khT
>>802殿後方の味方陣から一斉銃撃でござる!

名倉玄番親子の逃走

2010年10月08日 00:00

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:36:04 ID:APjb1OUC
1518年に赤松政村が三石城に篭る浦上村宗を攻めた時の話。

数で勝る赤松方は浦上方の城を破竹の勢いで落としたため
赤松方が油断したところで、村宗は忍びに命じて
「村宗は病に臥せっており、城方の士気は下がり篭城もままならない。」
と虚言を流させた。

これを真に受けた赤松方はすっかり気を良くし、不忠者の村宗の
滅亡ももうすぐであると陣中で酒宴を開く等完全に油断しきっていた。

村宗は赤松方の油断をよくよく見極め、勇士70人ばかりを選び
嵐と暗闇に乗じて夜襲を決行した。
完全に油断して備えもほとんどなかった赤松勢は面白いように討たれ
皆我先にと逃げ去っていった。

赤松方の名倉玄番はその夜深酒して酔いつぶれて寝ていたところ、
俄かに夜襲があったため長男の次郎三郎が父を担いで逃げ出したのだが、
次郎三郎は多数の敵に追いかけられたためもはやこれまでと観念し
父を岩陰に隠すと、迫りくる敵を引き付けながら戦い遂に討ち死にした。

次男の三郎四郎は敵中を斬り抜け父が隠れていた岩陰に辿り着き
共に逃げようとしたのだが、玄番は大の臆病者であったため
わが子を敵を間違えて逃げ出した。
三郎四郎は「敵ではありません!三郎四郎です!」と声をかけながら追いかけたが
半狂乱になっていた玄番は耳を貸さずに逃げ回った。

そうこういているうちに三郎四郎は敵兵に見つかってしまい
その場で討ち死にしてしまった。

玄番はうまく山陰に逃れ、明け方になって放たれ馬がいたのを
見つけるとこれに乗って逃走した。




540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:43:27 ID:OfLOgCMs
村宗ってなんか言いにくいね。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:52:31 ID:U8U8ceuJ
土持信村

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/07(木) 18:57:36 ID:JN5bt3rq
>>540
言い難いといえば足利義材の偏諱を頂いた連中の名前

北畠材親<「きたばたけ きちか」でーす
京極材宗<「きょうごく きむね」でーす
宗材盛<「そう きもり」でーす