ラスボスから茶々への愛の見舞状

2017年07月08日 21:06

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 20:36:43.42 ID:kOydjY6e
読売新聞に載ってたので。
兵庫豊岡でラスボスから茶々への愛の見舞状
秀頼公出産直後に贈られたもので、10月7日から11月26日まで兵庫県姫路市の県立博物館で公開されるそうな。
内容は茶々が高熱を出し、何度も灸をすえて体調が回復したのでそれを喜んだもので、
「これから食事をしっかりとるように。また秋刀魚を送ったので味わうように」とねぎらう一方で、追伸でこんなことも書いている。
「灸が嫌いなはずなのに、それほど高熱だったと聞きましたさすがは拾のおふくろです。」
ラスボスの細やかな性格と茶々への愛情の深さがうかがえると記事には書かれていました。

該当記事
秀吉から茶々へ「サンマ送ったよ」…書状発見
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170707-OYT1T50110.html



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淀殿に仕えた各務兵庫の娘

2017年06月29日 11:48

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/29(木) 00:04:31.96 ID:RInqlD5Z
淀殿に仕えた各務兵庫の娘


森家の家臣・各務兵庫(元正)には息子が2人、娘が5人いた。
長女は森重政の妻だった。
次女は大坂衆で落城後に切腹した竹光伊豆の妻だった。
三女は丹後の田中七兵衛の妻だった。
四女は作州の各務勝太夫の妻だった。
五女は淀殿の侍女だった。

大坂城が落ちる前、淀殿は不憫に思い城を出るように勧めたが
どうあっても出ていかない旨を述べ、小脇差を懐に差したという。

後に京極高知の側室となり一男一女をもうけた。


――『武功雑記』



70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/29(木) 06:23:26.13 ID:Tm2U+4xu
脇差が欲しかったのか

秀頼の御袋は武具を着けて番所を改めなさり

2016年11月23日 14:04

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 02:37:23.98 ID:tdgiVhfs
28日(慶長19年10月)、大坂の城中から出た者が二条に召し寄され質問された。

かの者が申し上げるには、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着けて番所を改めなさり、
これに従う女性3,4人も武具を着けていたという。

また、大坂に籠城の勢は3万余り(但し雑兵共に)という。兵糧・薪・塩・味噌は形式
どおりに蓄えていたという。

――『当代記』




大阪が社稷を失う基

2016年09月02日 19:55

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)




是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり

2016年04月13日 15:16

519 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:54:58.69 ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」

520 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:56:09.09 ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)


二人ともあきれ果てた

2016年04月04日 17:43

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/03(日) 15:18:51.96 ID:s1yGAbCK
大坂城の女中が集まる三の間に大砲の弾が撃ち込まれ茶箪笥を打砕き、淀殿の居間まで悲鳴が聞こえるようになるにつけ、
淀殿の口も和らぎ、織田有楽斎、大野修理へ「何卒和談を取り付けたい、秀頼の為なら自分が江戸へ下向してもいい」と言ったが、
秀頼が承知せず、この上は近臣の出頭の者に諫言させようと相談した。

渡辺内蔵助は鴫野の一戦以後秀頼の前を損し、
薄田隼人も博労淵の出曲輪を取られ、日頃の力量自慢ほどではないと城中のひとに取沙汰されているのを恥じて万事控えめになっている。
木村重成は後藤又兵衛が今福の戦いを秀頼に報告し、以前の倍も信頼を受けている、木村から言ってもらうのがいいだろう、と
有楽斎、大野が木村を招いて、和談の上淀殿を江戸へ差し出すことを秀頼へ提言するように言ったが、これを聞いた木村は
「今の話は片桐が最初に話したことと少しも違いはなく、今さらそのような申し上げはできない。
各々に幾度でも言うが、このような次第になったのは畢竟秀頼さまのご運の末と嘆くほかない」
と言うので、二人ともあきれ果てた。
その後後藤から強く申し付けたことで秀頼も得心し、和議の相談が進むようになった。
この話は難波戦記等にはないが、牧尾是休斎が語ったことである。

落穂集から抜粋

木村重成がいかにも若いな~って感じだ



大阪冬の陣の時の、福島正則

2015年09月08日 18:28

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 12:18:48.56 ID:Hk+BZSPx
慶長19年8月下旬、徳川家康は片桐市正(且元)を江戸に呼び出し、秀頼の奉納した
大仏の鐘の事悪しきとして(方広寺鐘銘事件)、御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るようにと
片桐に申し付けると、片桐は大阪に参り、「御袋様にも秀頼様にも、どうにかしてお下りなされるべきです」と
申し上げた。

秀頼は片桐まで心変わりして大阪に戻ってきたかのように思い、色々あって、福島正則にこの件について意見を
申すようにとの求めがあり、正則は大阪によしみのある堀田角左衛門という武士を上らせ
秀頼に意見を申し上げた

「御袋様が江戸にお下りになり、家康公と御対面した上で再び大阪に帰る事こそ尤もです。
江戸において、御兄弟方とも参会されるのがよろしいでしょう。」

しかし秀頼はこれに同意せず、殊の外立腹し
「重ねてそのような意見を言ってはならない!」との返事であった。

さて、正則はこの使いの堀田角左衛門に、予めこう申し付けていた
「大阪より御返事を取れば、それを私に報告するより先に、直に家康公に差し上げるのだ。」

家康は堀田より届けられた秀頼の返事を見ると、殊の外立腹し、早速京都に出陣することとなった。
諸大名衆も尽く大阪に馳せ向かったが、この時正則は家康に申し上げた

「私には、秀頼を攻めることは出来ません。ですので嫡男の備後守(忠勝)を上らせ、私には
江戸留守居を仰せ付けられますように。」

家康もいかにも尤もであると思い、「では備後守を急ぎ上らせるように」との事で、
備後守は大阪に上った。

(福島太夫殿御事)

大阪冬の陣の時の、福島正則の対応である。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 21:01:51.23 ID:eUZyDxLo
御兄弟方って誰?
御姉妹の間違いで、江の方のこと?

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/08(火) 23:52:28.26 ID:Hk+BZSPx
>>284
原文のままだけど姉妹のことだろうね


大阪が滅びたのは

2014年10月18日 17:24

淀殿   
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/17(金) 19:20:43.94 ID:xGKd6YAm
豊臣秀頼は秀吉の実子ではない、と密かに言う者がある。これは秀頼が生まれた頃、
占卜に妙を得た法師があって、その事を言い始めたそうだ。
その内容は、淀殿が大野修理と密通して秀頼を産んだとされる。
それは秀吉の死後、淀殿は荒淫となり、また大野修理も邪智淫乱、かつ容貌も美しかったためであったという。

また名古屋山三郎が美男であったため、淀殿は彼に思いを懸け、不義のことがあったともいう。

大阪が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正から起こったことなのである。

(明良洪範)




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 07:25:14.16 ID:l4SPivIB
(週刊実話)

みたいなネタだよなこういうのってw

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 09:54:56.41 ID:CwKUNg21
なぜか突然に名古屋山三郎まで淀君とヒャッハーした噂に??

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 10:29:09.74 ID:xEZK3GkH
そりゃとてつもないイケメンで当人も遊び人だから

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:26:02.95 ID:ptRl+AVr
いきり立ったマラを軸に大車輪を回せたらしいな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:36:12.26 ID:2Og4xpmO
森家で や ら な い か ?

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 14:54:43.01 ID:X8Hzw79J
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4981.html
その原型になった話が前に投稿されてた

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:35:28.01 ID:3Od1geXV
>>550
それなんて嫪毐?

運命は既に極まりました

2014年07月12日 19:30

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 00:59:22.10 ID:pX+pr7dS
大阪夏の陣。
真田信繁、後藤又兵衛といった諸牢人も討ち死にし、大阪城もいよいよ落城間近となった。
豊臣秀頼は家臣の今木源右衛門に命じ、切腹の準備をさせた。
そして母公(淀殿)の前に立ち寄り
「御一緒に、自害のため殿主に上がりましょう」
そう進めて立ち上がり、殿主へ向かおうと立ち上がった所、淀殿は秀頼の袖にすがって言った

「今少し、心を落ち着けて聞きなさい。源氏の頼朝は朽木の中に隠れ、死ぬべき場所で死なず、
終に本意を遂げた例もある。なのにどうしてそんなに慌ただしく、腹を召そうと急がれるのですか?」

秀頼はこれを聞いて
「母上の仰ることは確かにその通りですが、私達の運命は既に極まりました。
命を永らえて我が世の衰えを見るよりは、私と同じ道に急ぎ、後世を楽しまれるべきです。
百年の栄華も、一睡の夢と成り果てるのが習いなのですから。」

そういって強く淀殿を振り払い、殿主へと上がっていった。
淀殿はこれを見て、たいへんに嘆き悲しんだ。
その時までは、秀頼母子には未だ男女600人も付き従っていたのだが、この有り様を見て、
皆散り散りに逃げ落ちた。

(秀頼事記)

秀頼の切腹直前の模様である。




659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 01:17:25.45 ID:d0AYzX50
>>616
と同様、淀君は頼朝が朽木に隠れたことを言ってるな
しかし頼朝の頃から朽木谷は貴人の逃げ場所と考えられていたのか、とかいってみる

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 01:54:42.77 ID:w2TVAIiF
蔵で死んだのに殿主とな?まぁそういうことにしておこう。

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 02:16:07.72 ID:4sWUb9Mh
>>659
いや、そうではなく、朽木隠れの故事にかこつけて貴人が隠匿や見逃しを強要したのだろう
教養(強要)のある奴だけがなせる荒業

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 05:52:23.60 ID:5/eyLpzS
この場合は、まんま木の中に隠れたってことでいいんだよね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 07:05:32.12 ID:SLtoAYvJ
石橋山合戦に敗れた頼朝が隠れたのは洞窟だけど
室町将軍の避難所朽木谷とごっちゃにしてる

作者の故意か勘違いかは分からん

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 08:15:50.18 ID:C+DddIdY
>>658
この一連の秀頼の言動みると、秀頼に本当に必要だったのは三河者ばりに
空気を読まない行動型の諫言役だったんじゃなかろかと思う。

天下人として死のうとする覚悟より、あるべきと教えられた天下人のイメージに
取り憑かれて破滅していくような危うさみたいなのが先に来る。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 08:25:10.57 ID:5/eyLpzS
ああ、頼朝は洞窟だったか
誰か木の洞に隠れた人おらんかったっけ?
ひょっとして小説だったかな?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 09:04:24.08 ID:3LdqUCo0
かぐや姫

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 09:10:53.84 ID:HhKNA22e
親父のラスボスにそんな空気の読めない諫言したらどうなるかと考えるとねえ

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 09:13:21.81 ID:fkiG8AFP
諫言ができるような器量のある人達が早死するか、さっさと隠居しちゃうかだからね。
唯一、まともに物が言えたのが家康って時点でもうダメだろ。

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 10:04:17.13 ID:CJdbr5cr
>>665
ググったら源平盛衰記に朽木隠れとあるね
成立時期が鎌倉後期だし広く読まれていたんじゃないのか

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 10:14:57.17 ID:Peaeee37
自分で天下を獲りに行くっていう立場じゃなかったから、生に対する執着が違ったんだろう。
生きて大望を成すってことを考えていない。
信忠さんも同じ感じ。

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 00:33:58.06 ID:+jq56KlR
>>658

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3704.html

の話を思い出すな。
浅井家が滅んだ後も生き残り、太閤御台にまでなった、生命があればなんとかなるという「一代目気質」の淀と、
親の名を汚すことを恐れる「二代目」の秀頼

秀頼の、和議受け入れまで

2014年07月04日 18:52

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 09:33:02.32 ID:E2O7/VxD
大阪冬の陣
幕府軍による備前島からの大筒による攻撃で、大阪城内の櫓が破壊されると、豊臣首脳陣は
これ以上の抗戦は不可能と見て、旗本である七手組の頭たち、そして織田有楽は揃って幕府との
和議を受け入れるよう豊臣秀頼に迫ったが、秀頼は

「この籠城を決断した初めから、私は自分の運を開くつもりはない。父の遺言に任せ、この城を
墓所だと思っている。それなのに何故お前たちは和議を受け入れよと申すのか?」

これには皆言葉なく立ち下がり「秀頼公は、古参の者達の申し分は聞き入れてくれない。この上は
新参の者達の考えを申し上げ、その上で諫めるのだ。」そういって長宗我部、真田、後藤、明石を始めとした
浪人衆に、「この事をどう思うか」と尋ねたが、その評議はそれぞれにまちまちな意見であった。

ここで後藤又兵衛はこういった
「諸大名に内通しているものがあると言われますが、一人も御味方に参るものは居ません。
弾薬も兵糧も限りあるものです。一体、何を頼りにこの和議を受け入れないと仰っているのでしょうか?」

次に真田左衛門佐(信繁)は言った
「籠城というものは、諸人心を一つにしてすら覚束ないものです。であるというのに、この頃の
南面の持ち口の状況を注意して見れば、運生寺(織田頼長)の持ち口では、鉄砲を撃つことを固く
禁止している。先日など誤って発泡したものを斬首し、その頸を晒しさえした。そんな状況であるから
敵は早堀の際まで仕寄せてきている。

また目立つ白い吹貫を、3度まで色々に染め替えるという不審な行動もしている。

そのうえ先日4日には、敵が柵にまで手をかけ、我々はその防御のため、童女に至るまで石を運ぶほどの
危機に陥り、諸人は息を呑んでいたのに、かの織田頼長殿はその前夜から「風邪を引いて咳が止まらない」と
家に入り、傾城(遊女)に身体を揉ませ深夜まで遊んで居られたと、そんな話も承っている。
彼といい此れと言い、疑念が晴れることはない。

この織田頼長殿は有楽斎殿の嫡子であり、秀吉公の御一門、南面の総大将です。そのような人物が
斯くの如くの有り様では、どうしてこの籠城が叶うでしょうか?
相手が和議を言ってきたのを機会として、時節をお待ちに成るべきです。」
そのように申し上げた。

この意見に他の浪人衆も同意した。
織田有楽、大野修理はもとより和議への賛成派であったので、古参新参の者達の意見を合わせて、
先ず、母の北方(淀殿)にこう申し上げた
「形のごとく計略をめぐらし諸大名の心を引いてみたというのに、一人も味方に参るものが居りません。
あまつさえ我等に野心を抱くものも、未だ城中にいると承っている。その上兵糧弾薬も徐々に
尽きてきています。

敵の家康は名将であり、日本中の軍勢をもってこの一つの城を攻めているのですから、味方につこうと
思うものが居ないのも当然なのです。今は、ただ一筋に、秀頼公が御母もろともにお腹を召されて
諸軍勢をお助けになられるか、この和議を許諾して、時節をお待ちに成るか、二つに一つです。」

母の北方はこれを聞いて「源頼朝は朽木の中に隠れて本意を遂げ、越王は心を秘して会稽の恥を雪ぐと申す。
命を捨てるばかりを勇者と申すべきではない。秀頼のためであれば人質となっても関東へ下り、
いかなる目にあっても露ばかりも厭う心はない。古参新参の人々を語らい、秀頼を諌め申すように。」

そして有楽を中心に、秀頼を様々に説得し、秀頼も終に
「私は未だ若年であり、弓矢の道もよく理解していない。おのおの一同がそのように申す上は力及ばぬ。
宜しく計るように。」

と、終に和議の受け入れを許諾したのである。
(秀頼事記)

秀頼の、和議受け入れまでの経緯である。



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:13:05.96 ID:hb+FdUE6
これが本当だとすると秀頼は戦略眼はないにしても
気概だけはあったということか
しかし裏切り者はおいといて、淀君、豊臣首脳陣、浪人勢、秀頼
特に貶めてないのがなんかいい

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:21:45.64 ID:8LDaSUCl
左門「はいはい、ワシのせいワシのせい」

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 23:49:19.92 ID:jTl8WvhA
>>620

最近の説では、淀君自身は人質として江戸に行ことを承諾していたが、
秀頼が母親を人質にすることは受け入れられない
と強硬に反対していたという見方が有力らしいからねえ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 02:35:04.60 ID:9R7ZIt2m
秀頼は交戦、淀は講和と、いままでとは真逆になってきてるし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 03:51:46.28 ID:+DRSuoeO
夏の陣の方はどうなんだ?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:24:12.90 ID:l4p3lJTi
淀殿は最初から講和派だったのか
それとも大砲にびびって鞍替えしたのかどっちだろ

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:51:39.42 ID:Ht6XSUXc
冬の陣前→開戦派
冬の陣中後→講和派
夏の陣前→フェードアウト

お袋様専制と言われるくらい権力をもって居たから
戦前より講和派なら戦になってない可能性が高いくらいの話
いざ始まったら味方する大名ゼロで講和派転向
夏の陣前は秀頼が発言するようになり代弁者でしかない淀君はフェードアウト
真偽はともかく淀君関係を拾っていくとこんな感じ

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 16:42:43.34 ID:0z3bdRYv
>>625

それ以前に、関ヶ原の時点で

通説

淀君 > 西軍
ねね > 東軍

だったのが、

淀君 > 東軍
ねね > 西軍(というか、宇喜多+石田派)

というのが有力になってる
その結果、淀君がお江の事もあって、家康や秀忠に託していたのが切り捨てられたという見方が強い

「福島正則殿に意見を聞きたい。」

2013年06月27日 19:54

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/26(水) 21:05:40.15 ID:tSLvIleb
慶長19年(1614)8月下旬、いわゆる方広寺鐘銘事件が起こり、その交渉のため大阪より派遣された
片桐且元に対し、徳川家康は「御袋(淀殿)か秀頼が江戸に下るように」との要求をした。

片桐且元は大阪に戻り。淀殿・秀頼母子にその通りに申し上げた所、淀殿も秀頼も
「中々江戸に下るということは出来ない」との意見であり、特に秀頼は、且元が心変わりをして
豊臣家を裏切ったのだと考えた。そしてこの件に関しては様々に紛糾し、大阪城の内部では
福島正則殿に意見を聞きたい。」との声が出た

そこで福島正則は、大阪によしみがある堀田角左衛門という侍を上らせ、自分の意見を述べさせた。

『秀頼公の御袋様(淀殿)が江戸にお下りに成り、家康公にご対面なされて、また大阪に戻ってくるのが
一番良いと存じます。その折に姉妹の方々とお会いになるのが宜しいと存じます。』

しかし淀殿と秀頼はこれに同意せず、大いに腹を立て

「二度とこのような意見を言うな」(重ねてヶ様之異見被申まじ)

と返事をした。しかしこの返事を、正則は見なかった。それは使いの堀田角左衛門に、
『大阪からのご返事を頂いたら、直に家康公にお渡しするように。』
と指示していたためである。

こうして家康は大阪の返事とその様子を堀田角左衛門から逐一知らされ、以ての外に怒り、
早速京都へ出陣することとなった。諸大名衆も悉く大阪に馳せ向かったが、福島正則
家康に願い出た

「私には秀頼を攻めることは出来ません。そこで大阪には嫡男の備後守(忠勝)を上らせ、
私には江戸で留守居を仰せ下さるようお願い致します。」

家康はこれを、いかにも尤もだと思い、備後守を急ぎ上らせるようにと命ぜられ、
備後守は大阪に上った。
(福島太夫殿御事)

福島正則から見た、大阪の陣前夜の模様である。





淀は密かに城を抜け出し友人の秋元長朝の陣を訪れ

2012年04月13日 21:34

淀殿   
626 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/12(木) 23:36:53.15 ID:oLfSKLbh
大坂城落城前夜、淀は密かに城を抜け出し友人の秋元長朝の陣を訪れ命を乞うた。
長朝はこれを認め自身の領地である総社に兵糧を運ぶ部隊に淀を紛れさせ送り出した。
淀が総社の地に辿り着くと秋元の手厚い庇護の下、総社の地で何不自由なく暮らしたという。
そんな幸せな日々が続いていたある夜のこと、何を思ったのか淀は一人城を抜け出し、
フラフラと利根川へと向かって行った。
そして利根川の土手の上に立つとそのまま、身を投げて死んでしまったという。
身を投げた理由について地元では、
豊臣家に対する良心の呵責に苦しみ絶望したため身を投げた、とする説や
淀の美貌にハァハァした秋元長朝が無理矢理淀を犯したため、
これを恥じて身を投げた等、さまざまな説が伝わっているのだそうな。

さすがに二人の年齢的に後者の説は無いと思うが…




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 03:36:56.45 ID:DncWcSEU
元北条家臣で井伊の赤鬼旗下に入った人と淀にどんな接点が?というのは無粋か


628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 12:33:41.86 ID:rYeLWVbw
秋元さんのご近所で、淀の側室仲間の成田の甲斐姫が介在すればなんとか・・・

いやそれも苦しい

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 14:54:36.55 ID:bhWIZuFB
その淀どののお墓が建っているお寺には、淀どのが使った駕籠と着物があるそうな
いったい誰のものなのやら

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/13(金) 15:00:51.27 ID:vO0ydZH9
それ、うちのかあちゃんの、というのはさておき、
生前にそのお寺とか近所に行き来があれば、雨とかで汚れた時のために
着物と駕籠を置いておくというのはあったかもしれない。

淀お茶々は盛大に寄進しまくっているので
そういうお寺は多そうだけど、徳川治世になったあとでもゆかりの品を
とっておいてくれるお寺というのはなかなか。

秀頼は秀吉の実子ではない

2011年10月24日 22:03

淀殿   
470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 01:55:43.31 ID:TWz1MrHS
秀頼は秀吉の実子ではない、大野修理の子では?といわれているが、
実は、当時卜占の為に側に置かれて寵の深かった法師こそが実父である。
淀殿が彼と密通して生まれたのが棄君と秀頼だ。

大野は秀吉死後に、淀殿と男女関係になった。

淀殿は容貌は美しいが、その質は邪智淫乱であった。
美男であった名古屋山三にも、思いをかけて、不義があった。

そもそも、豊臣家が滅亡した原因のひとつは淀殿にある。
家中に法のない者は、必ず名を辱め、身を滅ぼすのみならず
家を滅ぼし、後世にまで禍を残す。

秀吉は、匹夫より出て、天下を思いのままに支配された。
だが、無学で道理を知らず、結果、家には法がなく、夫人の本性を
悟ることが出来なかったのも、尤もなことであった。
二世を保ち得ず、跡形もなく滅んでしまわれた。


(『塩尻』)





473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 12:55:54.10 ID:3BXpTFmZ
>>470
そんな法師がいたとは初めて知った
とりあえず、塩尻の作者にはソース出せと言いたい

それにしても、江戸時代に書かれた随筆にはこんなのが多いね
淀の方も、今で言う元アイドルのスキャンダルみたいな感じで
格好のネタにされてたんだろうね

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 18:58:11.06 ID:nokQBqSK
塩尻ってのは今で言うところの週刊ポストみたいなもんか?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 18:59:39.86 ID:0yvZgw4a
最後の最後まで徳川に逆らった女だからな
想像しかできないが、江戸時代には諸悪の根源のような扱いをされてたかも

恐れながら謹んで言上仕ります

2011年09月29日 22:10

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:29:29.02 ID:qwi8IaQd
『恐れながら謹んで言上仕ります。

今の大阪表の状況を、どのようにご覧になっていらっしゃるのでしょうか?
恐れながら私は、驚きいっております。

この以前から秀頼様の御事を、下々が何かにと言っているのも、秀頼様が両御所様(家康・秀忠)の
御座所から遠く離れた場所にあるためだと、恐れながらそう考えています。

年内は余る日数ももう少ないのですが、御袋様(淀殿)が江戸に見物に行くのだと、年内中に
御下向なされてはいかがかと考えています。

きっと秀頼様は、御袋様がそのように下向されるのはどうかとお考えになるでしょうが、とにかく
今の危機的状況を解消させるため、御袋様が取り敢えず下向遊ばされ、来年になれば
秀頼様がご決断を以て、駿府江戸へと軽々とお見廻りなされて、その上で御袋様の方は
御上洛いただけるよう(家康・秀忠の)御沙汰をいただく、と言う方針ではいかがでしょうか?

このように申し上げたのは、私が最近御所様(秀忠か?)と対面した際、御所様は「(大阪方に)何かと
申し出ているのだが、今日に至るまで我々の要請を受諾する様子は無いのだ」とおっしゃっていたからです。

とにかく、四方から色々と言ってきているでしょうが、それらは全てお捨てになって、どうかどうか、
御親子様のうちどちらかが、年内に下向成されるようご決心して下さい。それこそが最善であると私は
考えています。

私めがこのような、本来なら憚るべき事を申し上げたのは、この事で、おそらく御機嫌も悪しくされたとも
思いますが、これも全て太閤様の御恩をひとたび申し受けた身であれば、秀頼様の御ために良きようにと
考え、恐れながら申し上げたのです。

恐惶謹言

(慶長十九年(1614))十月八日 進上

秀頼様』


結果、この申し出は無視された。
大阪冬の陣直前、福島正則淀殿豊臣秀頼母子に江戸下向を勧めた書状である。

(大坪文書)





125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 23:13:25.35 ID:e5L0iW5U
ほんと清正と違って正則は良い子だねぇ

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 09:47:17.09 ID:+m92HzHL
>>124
酒の入っていない市松さんは本当にええ人やで

でも現実が見えてない人たちや
秀頼を神輿に担いで一発を狙ってるような輩には妄言でしか無いだろうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 21:19:52.83 ID:37f5g6AC
>124
これ悪い話か?正則のいい話だと思ったが

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 21:37:00.77 ID:H2eDU9Mk
>133
無視した大坂方の悪い話、だろう

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 23:20:25.06 ID:sYRBxMz/
文治派憎しを家康に利用されて豊臣没落のお先棒担がされたことを悔やんで酒びたりになったのさ

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 23:35:50.06 ID:+m92HzHL
だが待って欲しい
もし豊臣が存続できたとしたら、その時は連日祝い酒を呑むのではないか

どうころんでも市松さんはそれを口実にして酒を呑むだけではあるまいか

大坂の陣と織田信雄

2011年03月21日 00:00

大坂の陣と織田信雄

織田信雄 豊臣秀頼 淀殿


309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 01:08:48.59 ID:FiDCeB1I
慶長19年(1614)、徳川幕府と関係悪化をしていた豊臣家、駿河より片桐且元の持ち帰った
和平案を豊臣秀頼は拒絶する。

そして織田常真入道(信雄)を呼び、

「この上は且元を斬り、挙兵せんと思う。その際は入道に総大将を任せたい」

と言った。これに常心入道

「ははっ。今天下の大名を数えるに、一体誰が故太閤の御恩を受けていない者でしょうか?
一旦挙兵すれば、これに参加するため豊臣家の元にに参らぬものなどおりはしません!

さらにお手元の軍勢も、1,2万もございます。
この入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。
老後の思い出に一方の大将を承り、素晴らしい活躍をお目にかけましょうぞ!」

これに淀殿、秀頼をはじめ豊臣家の人々大いに喜び、
「萬事、入道の計らいに任せる」
と、挙兵することに決まった。

ところがである。常真入道、片桐且元の元に密かに使者を立て、この日あったことを全て
詳細に伝えた。そして自身は夜に入って吹き荒れた風雨にまぎれ、大阪を落ち京に隠れ、
徳川家康が京に上ったことを知ると、二条城へと入った、という。

大坂の陣が始まる瞬間の、織田信雄の行動である。




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 01:30:34.41 ID:5KcQmPYs
むしろ、なぜ信雄さんは総大将を任されるほど、評価が高かったのか?
失態に失態を重ねているのに。現代を生きる我々には信じられない。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 02:08:32.79 ID:jpEEnOlF
>>310
格とか位の問題があるんじゃね?
一応数万の兵を指揮したことがあるし秀頼の親戚だし

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 09:09:46.77 ID:Gz9sJK3s
信雄よりかは信頼できそうな信包と長益は数万の兵を率いたことは無さのそうだしな

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 10:09:28.13 ID:cyZSIvEB
信雄が率いるぐらいなら、ぶっつけ本番で秀頼が率いたほうがましなレベル

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 10:48:43.10 ID:e1ctvNHX
戦場の空気を知らない秀頼よりかはそれを知る信雄の方がマシってことか

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 12:27:39.76 ID:PI3YbuSF
初陣の若者にいきなり大軍を与えて高度な作戦させようとした結果が
あの小牧・長久手の戦いだからな

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 13:12:28.36 ID:NBck8DH9
>入道も若い頃は、1,2万の軍勢であれば型が出来ているかのように使い慣れたものですよ。


若い頃勝手に一万くらいで伊賀に攻め込んで大失敗したやんかと

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:13:21.44 ID:x1eyZms2
いつも思うが伊賀戦や小牧、長久手のころからの信雄を思うと成長っぷりが半端ないな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 17:49:51.67 ID:YJ4WxN8G
決断力はあるから欲出さなければ割と出来る子なのよね信雄
関ヶ原で、自分の判断力のあれさに流石に気づいたのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/20(日) 22:17:52.00 ID:5KcQmPYs
>>319
kwsk