毛利・宍戸の和睦

2016年04月30日 17:01

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 09:18:46.56 ID:SZUuzKNG
毛利元就より、宍戸元源へ和睦の申し入れがあると、元源は孫で嫡男の隆家、深瀬隆兼をはじめ親族重臣らを集め
これを協議した。
この席で、元源の弟である深瀬隆兼はこう主張した

「私の愚案によって判断するに、今、将軍家の権威は明け方の月のように薄く、頼みに成らない仲、
西国の武士は尼子・大内両家に属しています。その中において毛利元就は智謀万人に越え、さらに
大内と通じて尼子を討とうと欲しています。

仮に我らが元就を討とうとしても、大敵の大内が後ろに控えているので滅ぼすのは難しいでしょう。
また、尼子は家が古すぎます。武道廃り、晴久の政治も正しくなく、与して我らに何の益があるでしょうか?
京都に加勢を乞うても、肝心の中国において背くものが多ければ、多勢を下向させることも出来ません。

毛利元就に合力し両家一和すれば、備後・安芸の諸士は招かずして参るでしょう。
また、我々が老衰する前に元就と和平しておけば、元就は良将ですから、若き隆家の師として
彼以上の人物はありません。」

この言葉に元源はじめ一門も同調し、天文二年に和睦を受諾し音信を通じた。しかし未だ、元就・元源の
両者が参会することはなかった。

明けて天文三年正月十八日、毛利元就が年始の儀として宍戸氏の領地である五龍に来た。
宍戸元源はこれを慇懃に饗応し終日物語あったが、このとき元就は寵臣である粟屋右京、国司右京の
両人だけを留め置き、その他の人数はみな郡山に返し、主従三人だけで五龍に滞留した。

宍戸元源は、元就が隔心なく人数を返したその志に感じ入り、打ち解けて終夜、軍法の評判、
隣国諸士の甲乙などを論じ合い、旧知のように親しく語った。
虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う事である。

元就は言った
「このように別心無き上は、私の嫡女を隆家殿に進め、親子と仲と成れば家中の者達までも
心やすく交流できるでしょう。元源殿が同心いただければ本望です。」

元源答えて曰く
「その志、甚だ悦び入り候。私も老衰におよび、息子元家に死に遅れ、隆家は未だ若輩です。
まったく無力に思っており、これこそ私の方から、時節を見て申し入れたいと思っていたのです。
それをそちらから仰せを承ること、まことに深き値遇です。

元就殿は子息も多くありますから、今後は隆家の兄弟も多くなります。
隆家のことはすべて、元就殿に任せます。どうか御指南を頂きたい。」

そして「子孫長久の酒を進めましょう!」と、その座に一門を召し出し、家中貴賎を問わず
酒宴を成した。

元就が吉田に帰ると、その後吉日を選び婚姻の礼を整え、吉田と甲立の境に假屋を建て
双方より人数を出し、宍戸家が嫁女の輿を受け取った。
毛利方の責任者、桂元澄、児玉就忠が式対して渡すと、宍戸方の責任者である江田元周は、
輿の側にスルスルと歩み寄り、戸を開いて輿の中を見、元就の息女に紛れない事、篤と見届け、
桂元澄に向かい

「確かに受け取った!」

と答えた。後で元就はこれを聞くと
「現在は乱世であるから、元周振る舞いも当然である。総じて宍戸家の者達は志何れも健やかで、
わが家の若き者たちも見置きて手本にせよ。」
と、これを賞賛したという。宍戸家との婚姻により、近隣の大半は毛利元就に従うように成った。

(宍戸記)



646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 13:53:21.53 ID:9vuFlLAf
隆家って結局は隆元の義兄になるわけだし、後年の毛利家の繁栄を思えば
大英断だったな
以降の処遇も手厚かったと聞くし

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 16:10:10.69 ID:99N7f508
ノブヤボだと良い笑顔だな

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私は当家の軍神と成り

2016年04月23日 17:42

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/23(土) 09:28:54.86 ID:I0Yl7va5
愛宕山で修行していた司箭院興仙はある時、実家の宍戸家のある安芸国五龍城へ帰ると
兄の宍戸元源に向かって言った

「私は年来の願望成就を得ました。然れば、世間を徘徊して褒貶の唇にかかるのも益無く、
今後は親戚を離れ人倫の交わりを絶って無為の世界に入ろうと考えています。
孝長の道も今日限りです。

これは私が修行中に誓願を込めた物です。」

そう言って、赤地に金の日輪を書いた軍扇に、自筆で梵字を書いたものを取り出した。

「この扇を持って戦場に向かわれれば、弾矢の難はありません。また伏兵夜討ちその他
不意のある時は、扇に必ず奇特が有ります。

勝負は時の運、生死には期があり天命に帰するものであって、この司箭の力及ぶところでは
ありません。ですが、私は当家の軍神と成り矢面に立って守護いたします。

衆を愛し、惻隠辞譲の道を正し、賢を求め耳に逆らう言葉を容れ、義を以って恩を割き、
佞奸を遠ざけ讒言を容れず、衆と苦楽を共にし心と力を尽くせば、戦わずして勝ち、
招かなくても人は来て、国は治まり威凛々として敵も従います。

また、士を侮り己を誇り、諫言を拒み忠賢を遠ざけ恩愛に偏するようでは、巧弁の佞臣たちが募って、
賢愚長幼の序を失い凶災を呼び寄せます。
明神も、一体どちらを擁護するでしょうか?この司箭もそのような災いを祓うことは出来ません。」

そして画像を一枚取り出し
「この両頭の不動は厳島明神の神詔によって私が得た霊仏です、これを、当家の守護仏として
斎戒尊崇を怠ってはいけません。」
このように兄弟は終夜別れを惜しみ語り合った。

翌日、祝屋城に至り、元源の子である深瀬隆兼と対面し、
「今後、再開することもないだろうから、私が多年学んだ兵術の妙理を伝えおく。」と、
兵書を授け密法を伝えた。これは源九郎義経、鬼一法師より伝わる軍記といわれ、また
太郎坊より伝わる剣術は、宍戸・深瀬・末兼の三家の外には伝えることを許さないとした。
その伝法については、新たに斎戒すること7日にして後にこれを伝えた。

また、典川作の刀一腰を隆兼に譲り、その後愛宕山に帰ると、柳を以て自像を刻んだ。
愛宕の瀧川の上に座し、容貌を水鏡に映し刻んだ。厳島にて賜った白羽の扇を負い、その形
山伏の姿で、涼やかに尊聖陀羅尼を梵字にて書いている坐像であった。
今も愛宕山太郎坊の脇に立つ司箭の像がこれである。

何かある時は、この像が変化して、或いは沙門となり或いは女体と成り、或いは衣冠をして
座しているように見えるなど、様々に変化して見える。
愛宕山七不思議という伝説が有り、七つの妙があると言い伝わっているが、この司箭の像の変化も
その一つである。

(宍戸記)