FC2ブログ

黒田官兵衛、才知を以って

2013年10月30日 19:14

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:21:46.75 ID:YBvvq51b
天正10年(1582)3月、羽柴秀吉は清水宗治の籠もる備中高松城を攻める。
しかし秀吉は、この城を力攻めにすると味方に多くの損害が出ると見て、
高松城の、地勢が低く二方が山に近く、またその中に川が流れている地形を見て、
水攻めにするしかないと、城の二方30余町(約30メートル弱)の間に堤を作らせた。

その堤の内に、大小7つの川より水を流し入れた。水は一ヶ所に落ち合って堤の入り口まで
4,50間(約40メートル前後)というところで大河と成って堤を破壊した。
これをせき止めようと。大石を数多く投げ入れたが、水の勢いが強く、2,30人で
持つような石でも容易く流された。
また枝葉の多く茂った大木を多く伐って川上につなげて流しかけ、その他様々に手立てを変えて
流れを抑えようとしたが、水の勢いは強く、竹木土石、尽く押し流され、どうしようもなかった。

秀吉はこれを大いに憂い、黒田官兵衛に
「どうにか才覚を以って、緊急に堤を築き立ててほしい」
と仰せ付けた。

官兵衛はこれを受け、川下にある大船を、人夫を多く派遣して2,30艘引き上げさせ、
水上に錨を入れて、土手の間に、この2,30の船を隙間もなく並べて繋ぎ止め、
その中に大石を多く積み、そこで船の底を破ると、船はたちまち沈んだ。

そして、かねてよりその辺りの家屋を破壊して竹木土石を多く集め置いていたのであるが、
それを沈んだ船に投げ入れた。

これによって即座に水をせき止め、その後、土石を以って難なく堤を築き立てた。

はじめこの堤を築こうとし、水の勢いが強くてせき止めかねたのを、
官兵衛のこのような巧みによって終に完成させたことに、秀吉の御感は甚だしいものであった。

(黒田家譜)

有名な、黒田官兵衛、才知を以って備中高松城水攻めの堤を築く、というお話。





スポンサーサイト



笠井又八郎は蘇った

2013年07月19日 19:51

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 20:53:39.77 ID:FkOVtbEo
備中国賀陽郡平山村の笠井又八郎は若いころ、清水宗治に仕え、非常に目をかけてもらっていたが、
天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。

又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。

ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。

墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには

「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。

そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。

ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」

そう、夢うつつのように語った。

その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。

そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)




727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 21:08:23.54 ID:wMkXErXu
岡山の鬼城って最近再建されたところ?

日向記に記された高松城水攻め

2013年06月02日 18:53

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 11:36:42.89 ID:b++FDpAO
高松の城という名城がある。
三方は深い沼が遠くまで広がり普段でも人馬が通ることが出来ない。
残る一方は水堀が幾重にも連なり深く水をたたえゆるやかに波うっている。
毛利家が数年にわたり精を尽くして拵えた要害である。

とりわけ城主は勇気智謀を兼備する清水長左衛門尉(宗治)という者だ。
輝元より加勢として弓鉄砲の頭難波伝兵衛尉、近松左衛門尉など二千
を超える軍勢が到着して籠城した。

秀吉卿はただ水攻めするより他に策は無いとお考えになられ、近辺の
在々を放火してから堤を築いて攻めようと、焼き払いに出向かれた。

四月十三日から城の周辺三里の間に堤を築き始めて、昼夜の別も無く
急いで二十五日には完成した。五月一日より大小の河川の水を引き入れ、
谷川にも水道を付けかけられた。

五月十日頃には大半が水に浸かって人が住める場所は無くなっていた。
堤の上には柵をめぐらせ、下には町屋造りに小屋を建て小路をこしらえ
夜番廻番が絶えることが無かった。

堤の近くには十町間隔で要害を拵えて軍兵を入れおき、終日油断なく
警戒をつづけていた。

五月十二日、毛利輝元の先勢五万騎を小早川隆景、吉川元春が大将と
して率い釈迦峰不動嵩に陣を敷いた。五月二十日には輝元が着陣して
高松城を救おうとするかに見えたが、両陣の間の十町ばかりが大河か
滝のようになって隔てていた為、勝敗を決し様がなく対陣がながなが
と続くと思われた。

秀吉卿はついに毛利と決戦する時が来たとお考えになり、五月十五日
に信長公へ飛脚を送られ「輝元が高松城を救う為に数万騎を率いて
出陣してきたので対陣しております。御合力をいただければ、その軍勢
をすぐさま追い崩して、今年中に西国はことごとく幕下に属されるのは
確実でしょう」と言上した。

信長公は、惟任日向守(明智光秀)、筒井順慶、長岡与一郎(細川忠興)、
池田紀伊守父子、中川瀬兵衛、高山右近など総計三万五千余騎を羽柴
筑前守に合力させるべく五月下旬に備中へ向けて出陣するように仰せ
だされた。

惟任日向守は家康公御上洛に馳走するよう仰せだされていたが、この
ように事が急だったので言うまでも無く従われた

五月二十五六日の頃より高松の町屋はことごとく水に沈んでしまった為、
清水宗治兄の月清入道、難波、近松も降を乞い、六月四日午刻に小舟一艘
が乗り出し、皆腹を切った。検使堀尾茂助は四人の首を添えて秀吉公の
お目に掛けた。彼らはいずれも仁義の死を遂げた者であった。

六月五日朝、堤を切って落とし水が流れ出す音は千雷のようであった。
そして高松城を請けとり、杉原七郎左衛門尉が入れ置かれた。

伊東民部大輔祐兵は冠城の御陣より高松御陣に六月まで供奉されていた。

(日向記)

日向記に記された高松城水攻めの記録である。

関連する本能寺の話が別項として立てられてるので、この部分だけを
見てると「えっ?」と言う印象を受けてしまう。





清水宗治が切腹するまで

2012年01月29日 21:58

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:15:37.70 ID:dV7cpYjB
天正10年(1582)6月

備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。

秀吉からの和議の条件は以下の通り

・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
清水宗治には切腹を仰せ付けられること

「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」

安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した

「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」

安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した

「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」

安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」

それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると

「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。

こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。

安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」

安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し

「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」

と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。

清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)




649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 18:35:56.38 ID:lzWD42wk
毛利家ってなんでこんなに家内の結束が固いんだろうな
清水だって毛利の中じゃ外様なのに

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 19:02:30.89 ID:zB0rRwcG
出典から分かるように大本営発表だから美談にしてるが・・・

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:13:27.85 ID:skFjOdns
まあこれ御両三殿がすぐに了承してたら高天神城落城後の武田みたいに
国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:33:24.55 ID:bIApyMfZ
え?これ備中高松城攻めの話だぞ?
清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:04:04.52 ID:J1U8VOXD
>>652
確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが
通説じゃなかったっけ?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:13:18.80 ID:/TYHd38b
どっちが正しいねん(笑)

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 05:51:29.66 ID:35cGvL6C
>>652
当時2ちゃんは無かった

清水宗治、切腹前日に

2011年03月18日 00:03

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/16(水) 21:15:26.66 ID:lG4vdcEB
高松城の守将、清水宗治が明日、切腹をするという日のことである。

宗治は左右のものに命じて髭を剃らせた。これにその場にいた者達は聞いた

「我らの命、もはや旦夕に迫っております。長左衛門(宗治)様はそんな時期に何故、
髭を剃って容貌を整えるのでしょうか?」

宗治、彼らを返り見ると笑って

「それはな、秀吉が私の首を信長に献じたとき、もしその首が垢付き鬚髯蓬々としていては、
宗治の奴め久しく包囲されていたため、顔は憔悴して少しの生色も無し、などと嘲られるではないか。
私はそれを大いなる恥辱だと思う。だからこうして整えるのだ。」

と語ったという。

のち、明智光秀を滅ぼし小早川隆景と再開した秀吉は、隆景にこう言ったという

清水宗治は、武士の鑑であった。」


清水宗治、切腹前日のエピソードである。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 11:57:31.40 ID:nLDsgA/O
死に際だからこそ身奇麗さを気にするというあたり
まさに武士のダンディズムだな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 12:00:44.17 ID:yMqHK86B
よく目やにがついてると恥だとか言うが
フケは恥にならなかったのかな