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親の長左衛門はその一命を毛利家の用に立てました

2019年12月21日 19:46

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 11:20:34.49 ID:1c6R1sst
備中高松城の戦いより二、三ヶ年の後、小早川隆景、吉川元家は御上洛され、太閤様(豊臣秀吉)より様々に
饗された。その上で「陸地の仕置」(境目の確定)を頼むとの御意にて、黒田官兵衛殿を差し添えその作業を
成していた頃、清水宗治の遺児である清水源三郎(景治)は、この境目が未だ確定していない状況の中、
所属の決まらない、備中の河辺牢人のような体でそこに在った。

この時、小早川隆景公、黒田官兵衛殿は源三郎の私邸に立ち寄られるとこのように申した
「この度、太閤様の御意に、清水宗治については比類なき者であり、その子供が有るなら御自分の元に差し上げ
るように、知行などを遣わす。との仰せである。」

これに対し源三郎は答えた
「御意の段、千萬忝き儀であります。しかし親の長左衛門(宗治)はその一命を毛利家の用に立てました。
である以上、私も輝元家中に在って奉公仕りたいと考えています。」

これに隆景公、官兵衛殿は
「尤もの申し様であり、比類のないものである。仰せに成ったこと、太閤様に能々申し上げよう。」
と仰せになった。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/21(土) 20:02:04.90 ID:HFnBUg40
>>428
ボロはきてても心は錦!
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カヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候

2019年12月20日 19:07

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 11:30:47.88 ID:dQahfqyj
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに  隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。

その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、

この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。

これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元公、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)



これにて異議なく奥郡も隆景公が手に入れられたのである

2019年12月18日 17:40

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/18(水) 15:08:24.44 ID:fk6UWCwO
備中国の沖郡半国は、石川左衛門佐殿が旗頭であり、その下に一郡半郡の大将である、長谷川、清水、
林、鳥越、尾石、上原、中島、などといった歴々の侍が持ち固め、隣国からの侵入を防いでいた。
また同国奥郡の内を、須々木、秋山その他にて持ち固めていた。

ところが、石川左衛門佐殿に実子がなかったため、奥郡の内、須々木、秋山の一家より養子を取り、これに
高松城を渡して後に相果てた。この養子は筑前守と申したが、これも若い頃に相果て、男子が無かったため
高松城は城主の居ない事態となった。そこで旗下の者達が内談し、筋目の儀である事から、須々木か秋山と
談合して城主を定めようと申していた。

このような中、清水長左衛門(宗治)は高山という城に在ったが、彼は「侘所の者を我々の旗頭と認めるのは
心外な事である。願わくば私が下知をしたい。」と考えていた。この時長谷川と申す者も、高松城主と
成ることを望んでおり、どうなるのか心許ない状況であった。

そのうちに、長谷川方の内談として、「清水長左衛門も高松城主を望んでいると伝え聞く、とにかく先手を
越されては厄介なので、折を見て長左衛門を滅ぼそう。」という話が伝え聞こえた。

永禄八年八朔の出仕の日、諸侍が残らず登城した時、清水長左衛門はこの長谷川を手討ちにし、旗下の衆に
「今日より高松城主は私に定まった!野心の衆が有ったため只今存分にした!」
と申し渡した所、これに否を唱える者は一人もなく、「そういう事ならば人質を申し受ける。」と、
残りの者達より四、五人の人質を城中に取り込み、それより様々に下知を加え、以降国中が固まったという。

その後、毛利家が各地で強盛となり、備中沖郡についても小早川隆景公の御旗下となった。
ところがこれに関して、須々木、秋山らが手切れを成した。この時は因幡国鳥取籠城の時期で、
清水長左衛門はこれに出陣していたため留守をしており、息子の才太郎は当時八歳であったが、高松城下の
小川で五、八人の体にて遊びに出ていた所に、須々木、秋山より、忍びの者数人が密かに高松城近辺に
派遣されており、この時才太郎を拐い人質に取って帰った。

長左衛門が留守でもあり、取り返す手段もなく、城の留守居より因幡国へ注進がなされた。これを
隆景公に申し上げ、清水長左衛門は帰国して須々木、秋山と和平の手を遣わしこれを調え、才太郎の兄弟を
須々木の娘へ遣わすという事で、才太郎を取り返した。そして又すぐに因幡へと出陣した。

その後、因幡は毛利家の御利運となり、帰陣の際に備中奥郡も支配下に置きたいとの、隆景公より御談合があり、
須々木、秋山を「舅入の祝いである」として饗し、高松へ呼び寄せた所を討ち果たし、これにて異議なく
奥郡も隆景公が手に入れられたのである。

(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)

清水宗治も非常に戦国の国衆らしい動きをしていたのですね。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/19(木) 09:02:13.80 ID:uE+yDcay
>>681
清廉潔白なイメージが…w

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 21:51:58.76 ID:R4W40bDn
好い人では生きていけないのか

黒田官兵衛、才知を以って

2013年10月30日 19:14

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 19:21:46.75 ID:YBvvq51b
天正10年(1582)3月、羽柴秀吉は清水宗治の籠もる備中高松城を攻める。
しかし秀吉は、この城を力攻めにすると味方に多くの損害が出ると見て、
高松城の、地勢が低く二方が山に近く、またその中に川が流れている地形を見て、
水攻めにするしかないと、城の二方30余町(約30メートル弱)の間に堤を作らせた。

その堤の内に、大小7つの川より水を流し入れた。水は一ヶ所に落ち合って堤の入り口まで
4,50間(約40メートル前後)というところで大河と成って堤を破壊した。
これをせき止めようと。大石を数多く投げ入れたが、水の勢いが強く、2,30人で
持つような石でも容易く流された。
また枝葉の多く茂った大木を多く伐って川上につなげて流しかけ、その他様々に手立てを変えて
流れを抑えようとしたが、水の勢いは強く、竹木土石、尽く押し流され、どうしようもなかった。

秀吉はこれを大いに憂い、黒田官兵衛に
「どうにか才覚を以って、緊急に堤を築き立ててほしい」
と仰せ付けた。

官兵衛はこれを受け、川下にある大船を、人夫を多く派遣して2,30艘引き上げさせ、
水上に錨を入れて、土手の間に、この2,30の船を隙間もなく並べて繋ぎ止め、
その中に大石を多く積み、そこで船の底を破ると、船はたちまち沈んだ。

そして、かねてよりその辺りの家屋を破壊して竹木土石を多く集め置いていたのであるが、
それを沈んだ船に投げ入れた。

これによって即座に水をせき止め、その後、土石を以って難なく堤を築き立てた。

はじめこの堤を築こうとし、水の勢いが強くてせき止めかねたのを、
官兵衛のこのような巧みによって終に完成させたことに、秀吉の御感は甚だしいものであった。

(黒田家譜)

有名な、黒田官兵衛、才知を以って備中高松城水攻めの堤を築く、というお話。





笠井又八郎は蘇った

2013年07月19日 19:51

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 20:53:39.77 ID:FkOVtbEo
備中国賀陽郡平山村の笠井又八郎は若いころ、清水宗治に仕え、非常に目をかけてもらっていたが、
天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。

又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。

ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。

墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには

「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。

そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。

ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」

そう、夢うつつのように語った。

その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。

そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)




727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 21:08:23.54 ID:wMkXErXu
岡山の鬼城って最近再建されたところ?

日向記に記された高松城水攻め

2013年06月02日 18:53

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 11:36:42.89 ID:b++FDpAO
高松の城という名城がある。
三方は深い沼が遠くまで広がり普段でも人馬が通ることが出来ない。
残る一方は水堀が幾重にも連なり深く水をたたえゆるやかに波うっている。
毛利家が数年にわたり精を尽くして拵えた要害である。

とりわけ城主は勇気智謀を兼備する清水長左衛門尉(宗治)という者だ。
輝元より加勢として弓鉄砲の頭難波伝兵衛尉、近松左衛門尉など二千
を超える軍勢が到着して籠城した。

秀吉卿はただ水攻めするより他に策は無いとお考えになられ、近辺の
在々を放火してから堤を築いて攻めようと、焼き払いに出向かれた。

四月十三日から城の周辺三里の間に堤を築き始めて、昼夜の別も無く
急いで二十五日には完成した。五月一日より大小の河川の水を引き入れ、
谷川にも水道を付けかけられた。

五月十日頃には大半が水に浸かって人が住める場所は無くなっていた。
堤の上には柵をめぐらせ、下には町屋造りに小屋を建て小路をこしらえ
夜番廻番が絶えることが無かった。

堤の近くには十町間隔で要害を拵えて軍兵を入れおき、終日油断なく
警戒をつづけていた。

五月十二日、毛利輝元の先勢五万騎を小早川隆景、吉川元春が大将と
して率い釈迦峰不動嵩に陣を敷いた。五月二十日には輝元が着陣して
高松城を救おうとするかに見えたが、両陣の間の十町ばかりが大河か
滝のようになって隔てていた為、勝敗を決し様がなく対陣がながなが
と続くと思われた。

秀吉卿はついに毛利と決戦する時が来たとお考えになり、五月十五日
に信長公へ飛脚を送られ「輝元が高松城を救う為に数万騎を率いて
出陣してきたので対陣しております。御合力をいただければ、その軍勢
をすぐさま追い崩して、今年中に西国はことごとく幕下に属されるのは
確実でしょう」と言上した。

信長公は、惟任日向守(明智光秀)、筒井順慶、長岡与一郎(細川忠興)、
池田紀伊守父子、中川瀬兵衛、高山右近など総計三万五千余騎を羽柴
筑前守に合力させるべく五月下旬に備中へ向けて出陣するように仰せ
だされた。

惟任日向守は家康公御上洛に馳走するよう仰せだされていたが、この
ように事が急だったので言うまでも無く従われた

五月二十五六日の頃より高松の町屋はことごとく水に沈んでしまった為、
清水宗治兄の月清入道、難波、近松も降を乞い、六月四日午刻に小舟一艘
が乗り出し、皆腹を切った。検使堀尾茂助は四人の首を添えて秀吉公の
お目に掛けた。彼らはいずれも仁義の死を遂げた者であった。

六月五日朝、堤を切って落とし水が流れ出す音は千雷のようであった。
そして高松城を請けとり、杉原七郎左衛門尉が入れ置かれた。

伊東民部大輔祐兵は冠城の御陣より高松御陣に六月まで供奉されていた。

(日向記)

日向記に記された高松城水攻めの記録である。

関連する本能寺の話が別項として立てられてるので、この部分だけを
見てると「えっ?」と言う印象を受けてしまう。





清水宗治が切腹するまで

2012年01月29日 21:58

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:15:37.70 ID:dV7cpYjB
天正10年(1582)6月

備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。

秀吉からの和議の条件は以下の通り

・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
清水宗治には切腹を仰せ付けられること

「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」

安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した

「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」

安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した

「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」

安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」

それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると

「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。

こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。

安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」

安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し

「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」

と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。

清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)




649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 18:35:56.38 ID:lzWD42wk
毛利家ってなんでこんなに家内の結束が固いんだろうな
清水だって毛利の中じゃ外様なのに

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 19:02:30.89 ID:zB0rRwcG
出典から分かるように大本営発表だから美談にしてるが・・・

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:13:27.85 ID:skFjOdns
まあこれ御両三殿がすぐに了承してたら高天神城落城後の武田みたいに
国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:33:24.55 ID:bIApyMfZ
え?これ備中高松城攻めの話だぞ?
清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:04:04.52 ID:J1U8VOXD
>>652
確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが
通説じゃなかったっけ?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:13:18.80 ID:/TYHd38b
どっちが正しいねん(笑)

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 05:51:29.66 ID:35cGvL6C
>>652
当時2ちゃんは無かった

清水宗治、切腹前日に

2011年03月18日 00:03

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/16(水) 21:15:26.66 ID:lG4vdcEB
高松城の守将、清水宗治が明日、切腹をするという日のことである。

宗治は左右のものに命じて髭を剃らせた。これにその場にいた者達は聞いた

「我らの命、もはや旦夕に迫っております。長左衛門(宗治)様はそんな時期に何故、
髭を剃って容貌を整えるのでしょうか?」

宗治、彼らを返り見ると笑って

「それはな、秀吉が私の首を信長に献じたとき、もしその首が垢付き鬚髯蓬々としていては、
宗治の奴め久しく包囲されていたため、顔は憔悴して少しの生色も無し、などと嘲られるではないか。
私はそれを大いなる恥辱だと思う。だからこうして整えるのだ。」

と語ったという。

のち、明智光秀を滅ぼし小早川隆景と再開した秀吉は、隆景にこう言ったという

清水宗治は、武士の鑑であった。」


清水宗治、切腹前日のエピソードである。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 11:57:31.40 ID:nLDsgA/O
死に際だからこそ身奇麗さを気にするというあたり
まさに武士のダンディズムだな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 12:00:44.17 ID:yMqHK86B
よく目やにがついてると恥だとか言うが
フケは恥にならなかったのかな