25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/28(火) 01:55:04.92 ID:Q9hZfobb
近年京都の乱(応仁の乱)より起こって、近隣諸郷はみな兵革の岐と成るのみではなく、関東の乱逆は
年久しく、騒動は更に止まず、日を逐って蜂起が起こった。
この概略は、去る享徳の頃より、関東では兵乱が再興して、鎌倉の新御所(足利)成氏朝臣は公儀を
蔑ろにし、恣に戦伐を行ったため、執事である上杉の一党は京に言上し、これによって公方家より、
成氏御退治のため、駿河の国主、今川上総介範忠を大将として御旗を賜り、多勢を付けられ鎌倉へ
発向した。また関東では上杉の一党。その他国人が大軍を促し、これも鎌倉へと攻め寄せた。
これによって成氏た忽ち一戦に打ち負け、野州古河へ没落した。この時享徳四年(1455)六月十六日、
鎌倉は兵火のために焼き払われ、治承以来の幕府の地は、ただ一片の赤土となって、これにより後も永く
里民の郊居となった。
今川範忠はこれより帰陣したが、その頃、東国の古家として、千葉、小山、宇都宮、結城、佐竹、那須、
小田、壬生を関東の八家と称し、大名であったが、それ故に、上杉の幕下であることを恥じ、無二に
御所方へ心を寄せ、上杉との合戦止まず、関東は治まらなかった。これによって、去る長禄元年(1457)、
京都より御下知があり、渋川左衛門佐義鏡を、関東の探題職として指し下し、上杉を愈々以て関東の管領とし、
諸家その下知に従って成氏を退治すべき旨を相触れたのだが、東国の者共は猶も御下知を用いなかった。
これによって上杉らは又京に訴望し、公方家の御舎弟である政知卿を申し下し奉って、寛正年中(1460~66)
この政知を関東の御所と称し、東国の大名高家、みなこの御所へ拝謁させ、上杉をその管領として
関東の乱を鎮めようとした。鎌倉炎上の後に御所無き故、政知卿は豆州堀越に御寓居あって、堀越御所と称した。
こうして上杉勢と成氏勢は、武州五十子という所で数年対陣し、未だ雌雄を決せざる所に、文正元年(1466)
二月十二日、上杉家の大将である、兵部太夫(上杉)房顕が病死し、翌年より応仁の大乱が起こり、都鄙悉く
戦国と成り、ただ騒動に月日を送ったが、終に文明十年(1478)の春、上杉方と成氏朝臣の和睦あって、
古河城に安居され、近隣を少々領知された。またこれによって堀越公方の政知卿は、威勢尽き果て、誰も
取り立てる者が無く、僅かの所帯を領して堀越に御住居あったという。
『應仁廣記』
戦国初期の関東、いわゆる「享徳の乱」についての記事ですね。
近年京都の乱(応仁の乱)より起こって、近隣諸郷はみな兵革の岐と成るのみではなく、関東の乱逆は
年久しく、騒動は更に止まず、日を逐って蜂起が起こった。
この概略は、去る享徳の頃より、関東では兵乱が再興して、鎌倉の新御所(足利)成氏朝臣は公儀を
蔑ろにし、恣に戦伐を行ったため、執事である上杉の一党は京に言上し、これによって公方家より、
成氏御退治のため、駿河の国主、今川上総介範忠を大将として御旗を賜り、多勢を付けられ鎌倉へ
発向した。また関東では上杉の一党。その他国人が大軍を促し、これも鎌倉へと攻め寄せた。
これによって成氏た忽ち一戦に打ち負け、野州古河へ没落した。この時享徳四年(1455)六月十六日、
鎌倉は兵火のために焼き払われ、治承以来の幕府の地は、ただ一片の赤土となって、これにより後も永く
里民の郊居となった。
今川範忠はこれより帰陣したが、その頃、東国の古家として、千葉、小山、宇都宮、結城、佐竹、那須、
小田、壬生を関東の八家と称し、大名であったが、それ故に、上杉の幕下であることを恥じ、無二に
御所方へ心を寄せ、上杉との合戦止まず、関東は治まらなかった。これによって、去る長禄元年(1457)、
京都より御下知があり、渋川左衛門佐義鏡を、関東の探題職として指し下し、上杉を愈々以て関東の管領とし、
諸家その下知に従って成氏を退治すべき旨を相触れたのだが、東国の者共は猶も御下知を用いなかった。
これによって上杉らは又京に訴望し、公方家の御舎弟である政知卿を申し下し奉って、寛正年中(1460~66)
この政知を関東の御所と称し、東国の大名高家、みなこの御所へ拝謁させ、上杉をその管領として
関東の乱を鎮めようとした。鎌倉炎上の後に御所無き故、政知卿は豆州堀越に御寓居あって、堀越御所と称した。
こうして上杉勢と成氏勢は、武州五十子という所で数年対陣し、未だ雌雄を決せざる所に、文正元年(1466)
二月十二日、上杉家の大将である、兵部太夫(上杉)房顕が病死し、翌年より応仁の大乱が起こり、都鄙悉く
戦国と成り、ただ騒動に月日を送ったが、終に文明十年(1478)の春、上杉方と成氏朝臣の和睦あって、
古河城に安居され、近隣を少々領知された。またこれによって堀越公方の政知卿は、威勢尽き果て、誰も
取り立てる者が無く、僅かの所帯を領して堀越に御住居あったという。
『應仁廣記』
戦国初期の関東、いわゆる「享徳の乱」についての記事ですね。
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