583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の
増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。
この
増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。
さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、
増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。
これより以前、
渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。
「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」
しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」
「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」
家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。
さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。
郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、
渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。
『右衛門尉(
増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』
そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た
筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。
584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、
渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し
『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』
と、
渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた
「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」
寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは
渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。
さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。
この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し
藤堂高虎より扱いが入り
「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」
そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時
渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を
藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。
(大和記)
大和郡山城明け渡しについての逸話である。
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった