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渡辺水庵翁は火燵が嫌いであったが

2021年02月19日 19:32

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/19(金) 13:47:24.94 ID:AmlJjt7b
渡辺水庵翁(了)は火燵(こたつ)が嫌いであったが、年寄が火燵に当たらないのも
そっけないものであるとして、いかにも火を弱くして、常に寄り添っておられた。

寒き頃、客が来れば「先ず火燵へ寄り給え」と招いたが、老人とは言え彼は武功有る人であり、
たやすく近づくという人は少なかった。

しかしこのようでは物語も出来ないと、置火燵(熱源部分に囲炉裏の代わりに火鉢を用いたもの)を
出すと、客も心安く火にあたり、ゆるやかに四方山の物語をした。客多き時などは、さらに置火燵を
出したという。

今どきは、このような客あしらいをする人は稀である

備前老人物語



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私は法度に背き

2020年11月01日 16:28

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/01(日) 14:00:31.50 ID:YBnQkKyS
(秀吉の四国征伐で)阿波一宮に押し詰めた時、私(渡辺了)は法度に背き、鉄砲の者の中に混じり、
城方の出丸一つが取り固められておらず、その様子も敵は気がついていなかったので、この方より割り込み、
取り固めてこれに付き、ついに出丸二つが自焼し、この勢は本丸へと撤退しました。

このような仕方を仕ったため、我が方にも負傷者が多数出ましたが、戦闘自体は残る所無く成功したので、
私は法度(による処罰)をも逃れました。

私のその時分の主人は次殿(羽柴秀勝)で、歳は二十四、指物は鳥毛の棒でありました。
この仕方は銘々所々にて存じている面々が今も多くいるので、御不審あらば、証人を連れて申させます。
大したことではありませんが、書き付けておきます。

渡邊勘兵衛武功覚書

軍法に違反しても成功すればOKって所は有ったんですね



435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/01(日) 21:08:11.98 ID:gfNQ0oXe
西股総生「戦国の軍隊」の冒頭で
渡辺勘兵衛武功覚書の山中城攻めの際の突撃シーンが紹介されていたけど
毎回一番乗りを志してよく死ななかったもんだと思う

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/02(月) 00:45:04.54 ID:rKBagEyL
狙撃できる技能を持った奴なんて、そうそう居ないからな

吉村には似合わぬこと

2017年06月13日 15:30

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 14:59:20.56 ID:j0uYUwB8
睡庵(渡辺勘兵衛了)が坂本に居住していた時、睡庵の家来が大津の町において喧嘩のこと有りと聞いて、
吉村又兵衛(宣充)、その頃は牢人であったが、睡庵のもとに急いで駆けつけてきた。

水庵は対面するや言った
「喧嘩見舞いであるのなら、特別のこともないので帰られよ。
ほかに話したいことがあるのなら、飯を食ってから話されよ。」

吉村
「喧嘩のことを聞いて急いで見舞いに来たまでである。そういうことならば帰る」
そういって帰ったが、この時睡庵は次男を道まで遅らせた。水庵は次男にこう申し含めていた

「私は直に言わない、汝、密かに吉村に伝えてほしい。今日の見舞いのこと、吉村には似合わぬことである。
我等の手の者の喧嘩のこと、別にこれといった仔細のあるものではない。こういう事には天下の大法が
大方定まっている。我が者が斬り殺されれば相手の者は切腹に成るし、人を斬れば此の方の者が切腹と成る。
である以上、気遣いに成ること無い。

こういったことに吉村が大急ぎで京より来るというのは、まるで一揆合いで手足の働きをするの若者の
ようではないか。以降慎まれるように、と」

然るべき事である。

(士談)


つまるところ、その時の運

2016年06月05日 22:00

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 12:49:34.06 ID:fD1chIg3
渡辺水庵(了)が常に語りなさったことには、

「私は若年より戦場に臨むごとに、先陣を心がけなかったことがない。
そうとはいえども、その好機に乗ることは稀であった。

つまるところ、常の心がけの上でその時の運によるのであろう。
言葉にはしがたいことだ」

とのことである。

――『備前老人物語』




今の戸田殿の先祖の事である。

2015年11月29日 17:09

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/28(土) 23:08:32.19 ID:d+tbKNRi
 小田原の陣で山中の城を落とそうとしていた時、中村家の臣渡辺勘兵衛と申す者、
城へ一番乗りをしようと決めていたが、東照宮のご家臣戸田左門が一番乗りをしてしまった。

 終わった後に、左門は勘兵衛と話しかけた。

「賭けとなってしまったことは残念に思います。
もっとも貴殿の働きは殿下の軍奉行、黄母衣衆に見届けられていましたよ。」

という趣旨の会話を東照宮の御座の隣でしていたので、家康の耳に入ってしまい左門は御前へ召出されてしまった。

「只今お前が申したことを逐一聞き届けた。もっともではあるが、聟の氏直の持ち城を、我等が手勢で攻め落とたところで、
たいして手柄にもなることはない。お前が骨を折った事は、我等にさえ聞き届けたら済むことで、今後山中の城攻めの事では、
とにかく力を入れるべきではない。」

との旨を仰られた。

程なくして、国替えの時に、戸田左門に五千石の加増が有ったという。今の戸田殿の先祖の事である。
(本阿弥行状記)



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 00:35:47.05 ID:rjToysbX
だれか解説してくれ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/29(日) 08:00:19.40 ID:U5u6YrIq
婿攻めに力を入れる非道な家康という汚名を着せるんじゃねーよ

式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

2015年01月23日 18:52

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 01:11:00.74 ID:TqpKgmMl
小田原の陣において、北条方の支城である山中城が激戦の上攻略されると、太閤様(豊臣秀吉)は
内府公(徳川家康)、信雄公を相手にしながら、中納言殿(豊臣秀次)、次に丹波の少将殿(豊臣秀勝)より
戦いの模様を聞いた。その中でも特に奮戦した中村式部少輔(一氏)に関しては
「式部少輔は中納言(秀次)に付けていたが、今度の手柄をよく吟味して、相応の取り計らいをするように。」
と申し付けた。その上で今度の戦いの褒美として、中納言殿に御腰物、御太刀、御馬、少将殿に御腰物、御馬を
遣わされた。

そうして太閤様は中村式部少輔を召し出し、自身が着ていた唐織の羽織を脱ぐと、式部少輔に手づから着させ、
「今度の手柄を奉行に申し付け、褒美として国を与える。」と直々に伝えた。
これに、その場に居並ぶ諸大名衆、残らず「尤もなことである」と、感じ入った体で、式部少輔の
冥加に叶いたる段、身に余ることであった。

所がそれに続いて、太閤様が仰ることには
「中納言に付いた人持ち(部隊長)には、私から羽織を与える。今回、山中に早く着いた順番に呼び出し、
式部少輔より渡すように。」
と仰せになり、小姓衆が羽織を一つ一つ運び、式部少輔の脇に置いていった。

これは内府公、信雄公を始めとした諸大名の面前で行われていたが、この事について誰も特に言い出す
様子はなかった。そこで式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

「今度の合戦の様子、軍勢についても如才無く運用されたと言いましても、早い遅いは、それぞれの心に任せて
出来るものではありません。何れの者達も、油断していたわけではないのです。そのことは御眼前にて
ご理解されていると思います。
従って、御羽織を拝領して頂く事については、一同に召し出して拝領させて頂きたいのです。」

これを聞いて、内府公は信雄公の方を向いて言った
「式部少輔の申し上げた事、尤もな発言であります。」

諸大名もこれに、どよめきたって同意した。そこで太閤様も「では、そのようにしよう」と仰せられた。

これは中村式部少輔が、私(渡辺勘兵衛了)を相手に語ったことである。

(渡邊水庵覚書)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:51:16.13 ID:+CjCiSmu
これって中村一氏が一番乗りを果たした渡辺了への知行を値切る口実に使われた
「悪い話」じゃないの?

大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

『天下七兄弟』、辻小作と中黒道随

2011年12月10日 22:00

辻小作   
965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 18:17:54.50 ID:zanXQKqT
谷出羽(衛友)、稲葉内匠(正成)、池田輝政の重臣・丹羽山城(助兵衛)、増田長盛の家臣・渡辺勘兵衛、
福島正則の家臣・可児才蔵と辻小作、そして石田三成の客将・中黒道随は、身分や年齢を超えて交際しており、
互いに武勇に励むことを誓い、『天下七兄弟』と称した。

慶長5年(1600)9月、関が原の戦いにおいて、道随は石田隊として槍を振るったが、深田に馬を踏み入れてしまった。
「もはやこれまで」と覚悟を決めた道随は、味方が次々と落ち行く中、ただ一人踏み止まり、押し寄せる雑兵を
さんざんに蹴散らしまくった。

福島隊にあってこれを見ていた辻小作は、可児才蔵に呼びかけた。

「おい、才蔵よ。道随ならば良い手柄となろう。やるぞ!」
「薄情な事を言うな!我らの仲ではないか。助けてやれい。」
「むう。生け捕りにせんと思うたが、お主がそう言うなら・・・おーい、道随よ!日頃のよしみじゃ、助けるぞ。
これにつかまれ!」

道随のもとに馬を寄せた小作は、槍の柄を道随に突き出した。

「小作よ、何のマネじゃ。この期に及んで助かろうとは思わん。自害するゆえ、見届けよ。」
「なんじゃ。だまし討ちにするとでも思っとるのか?我らの間で、何をたばかる事があろうか。天地神明にかけて
お主を助けるぞ!」

ここまで言われて道随も槍の柄をつかみ、それを小作主従が引っ張り上げ、二人は連れ立って福島陣に戻った。
先に戻っていた才蔵は、道随の顔を見て喜んだ。
「やあ、良く生きとったな!」
「何とか引っ張り上げて来たぞ。やれやれ、骨が折れたわい。」小作は、具足を全て脱ぎ捨て大の字になった。


「・・・『武装も解いておらぬ先刻までの敵を前に、何という侮ったる振る舞いか!』
腹が煮えくり返ったワシは、槍を構えかけたが、命を救ってもろうた恩を思い、見逃してやったわ。」

のちに井伊家に仕えた道随は、若者たちを前に関が原のことを振り返り、そう言って笑ったという。
(常山紀談より)





966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 19:03:15.77 ID:bCgBfl6W
井伊家って旧石田家臣結構いるのかな

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/10(土) 19:36:35.23 ID:U5XJc8Mf
>「おい、才蔵よ。道随ならば良い手柄となろう。やるぞ!」



>「なんじゃ。だまし討ちにするとでも思っとるのか?我らの間で、何をたばかる事があろうか。天地神明にかけてお主を助けるぞ!」



小作気持ちの切り替え早すぎだろww

藪内匠正照と渡辺勘兵衛

2011年07月11日 23:20

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 22:22:08.62 ID:ktV8s8B2
中村一氏の家臣、藪内匠正照は、秀吉の中国攻めのころから武功をもって知られた歴戦の士であり、
主家が駿府14万石をつかむきっかけとなった山中城攻めにおいても、一番乗りの大功を立ててのけた。

ところが、この攻城戦に同じく一氏に仕えていた渡辺勘兵衛も参加しており、その大半月の前立が
関白秀吉の目にも止まり、勘兵衛こそ一番乗りということになってしまった。
事実を知っていた一氏は転封後、内匠に5千石、勘兵衛に3千石を給したが、勘兵衛はこれを不満とした。


そんなある日、勘兵衛から内匠に書状が届いた。

“拙者儀、貴殿存じよりの子細ありて、中村家を立退く。ついては顔を合わせたく、町外れにて待つ。”

内匠は、ただちに両刀を携えると、町外れに向かった。そこには、完全武装の勘兵衛が愛馬に乗り、
抜き身の長刀を引っさげて待ち構えていた。

「おぅ来たか。わしはこれにてご当家を立退くが、一言の挨拶も無く去るのは、わしの本意ではない。
…が、わしが足を止めてまで頭を下げようと思うのは、お主の他におらなんだわ。」
「ふん、言うてくれるわ。」
「まぁ、これまでの我らが間柄に臆せず、良くぞ来てくれた。これを置き土産にくれてやろう。」

勘兵衛は、手に持った抜き身の長刀を内匠の目前に突きつけた。
「ならば、わしも餞別せん。」
内匠は全く動じる事なく自分の脇差を抜くと、同じく勘兵衛の鼻先に突きつけた。

「かたじけなし。」「痛み入る。」
長刀と脇差を取り換えた二人は丁寧に礼を交わしつつも、互いに油断無く睨み合いながら立ち別れた。
(明良洪範より)

その後、渡辺勘兵衛は増田家・藤堂家と仕えた後、牢人となるも、天下の名士として知られた。
藪内匠正照は中村家改易後、細川忠興に仕え、その子孫は細川家・紀州徳川家で重く用いられた。

参照
大指物の故であった


563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 22:26:36.06 ID:wxEGIBHV
藪内、リーチなげえな

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 23:08:03.18 ID:q/mwT7a6
藪さんだろ

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 23:40:38.01 ID:MOeCiGZF
難しい間柄だな
今更恨みはないけど、去り際に何かやってやりたいって感じなのかな

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 00:57:04.82 ID:EqiZO4Y2
関白に認められた意地と、きちんと評価してくれる主人をもった誇りとですれちがったけど、相手を認めてるから
挨拶しておきたかったんじゃないのかな

睡庵翁と風呂屋の話

2010年11月07日 00:02

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 22:00:48 ID:IvAz7A42
京にあるその風呂屋の横には、汗をかき過ぎた客が使えるように、いつも竿に湯帷子や真新しい下帯がかかっていた。

風呂焚きとして二人、垢掻きとして別に二、三人の下男を雇っており、その他に上がり口に屈強な男を一人置き、
他の下男は脱衣所には入れないようにしていた。そのため客は安心して裸になり、衣服・荷物を預けて風呂を楽しんだ。

この風呂屋の主人・睡庵老人の所には毎日のように訪ねて来る者があったので、老人は毎日決まった時間に、訪問客
のみならず、客の使用人にも食事を振舞った。訪問客は、おかげでゆっくりと心行くまで老人との会話に興じた。

また老人は、自分はコタツが嫌いだったが、「顔を突き合せねば、話も弾まぬ。」として、炭の火をごく弱くして
置ゴタツを作らせ、来客同士が遠慮せず近寄って会話できるようにしたという。


備前老人物語に、「今時かく客あしらいする人まれなるべし」とまで書かれた、睡庵こと渡辺勘兵衛の風呂屋の話。
百戦錬磨のご隠居が一緒のコタツに当たらせてくれて、面白い話してくれる銭湯・・・ちょっと行ってみたいかも。






171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 23:43:38 ID:iU7q1OIr
>>165
行ってみてえし、入ってみてえ
昔の生活って、今からやると大変だろうけど、でもなんか憧れちまう