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貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



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幸い、武田家の御殿は公方家の作法である

2022年09月23日 19:08

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/22(木) 19:59:55.16 ID:M0b9Mbse
総じて、諸人が腹立つように仕る者を「喧嘩好き」と考え、これを法度に仰せ付けられるならば、
諸人の作法も良くなり、人が腹立つことも無くなる。腹を立てなければ喧嘩の有るべき仔細もない。

幸い、武田家の御殿は公方家(将軍家)の作法である。公方の御屋形造りは、第一諸人の付き合いに
慮外の無いことを肝要と考えている故に、諸侍が伺候致した時は、縁ばかり歩くように造られている。
これは中興鎌倉にて、源頼朝公より始まった。その後、足利尊氏公がその図を以て都にて造られた。
屋形造りについて、人々に慮外無い事を旨として設計するのが、公方家の屋形造りなのである。

この事について、いつぞや原隼人(昌胤)が小田原に御使者として向かわされた際、武田信玄公の
御意を以て、帰りに鎌倉見物を仕った。その鎌倉は絶えて久しく、何の跡も見ることは出来なかった。
ではあったがその地の町人、百姓共に、侍と見れば笠を脱ぎ馬より降り、いかにも慇懃なる
民百姓の作法であったと、隼人は帰国後信玄公に言上した。信玄公はこれを聞かれると

「いにしへの頼朝公のまつりごと、万事宜しく、以来西明寺時頼の仕置、今に残ってそのようなのだ、
そしてこういった事を観察したのは心の付いた事である。」

そう仰っしゃられ、隼人殿について斜め成らず感心されたことを、それがし(高坂弾正)は良く覚えている。

甲陽軍鑑

公方家の屋形作りについて



島津家由緒

2022年03月15日 19:12

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/15(火) 13:42:55.32 ID:Zb4IE7Az
近衛殿の御家令である、近藤兵部大輔が物語したことである。

島津家の事について、かつて、近衛殿に仕えた豊後の局という女性が、関東に下って源頼朝に仕えたが、
二位殿(北条政子)が彼女に嫉妬し、梶原景時に対し、「由比ヶ浜に沈めよ。」と命じた。
梶原はこれを請けて局を捕えた所、局はこのように訴えた

「私は京都に在った時、近衛殿の御憐れみを受けて既に懐妊しております。我が身がいかように成っても、
この子までを空しく成されることの悲しさよ。」

これには梶原も、佐殿(頼朝)がどのように思われるかも恐れ、殊に懐妊している事も憐れに覚えたため、
二位殿には「沈めました」と報告し、密かに鎌倉から落とした。そして摂津国難波のほとりの石の上にて
出産した。それは男子であった。この事を近衛殿に申し出ると、近衛殿は男子を慈しみ育て給った。

男子成長の後、関東にこの由が聞こえたため、頼朝は呼び迎え給うた。そして折節、薩州の島津に
継子が無かったため、この子を与えられた。
これにより島津は頼朝の御子の血筋とも申すが、実は近衛殿の御子の血筋なのである。
この男子出生の時の石のほとりには一社の産土の神が祝われ、今も島津家の上下共に、往来の度毎に
参詣しているという。

慶長・関ケ原の役で、島津家の人々を近衛殿は密かに家に隠された。その人々を隠し置かれた
土蔵は近年まで「島津蔵」と伝えていたのだが、現在では焼失したという。

紳書抄

島津家の由緒について



惣じて殿下の大胆闊達な事は

2019年12月07日 16:55

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:00:50.62 ID:RNLP5dbp
天正十八年七月十三日、小田原開城の後、豊臣秀吉公は小田原城に入られ、最前に笠懸山で約束した
通りに、徳川家康公に伊豆相模武蔵上総下総上野下野安房の八ヶ国を参らせ、また家康公の上京の
折々における旅中の用途の為として近江国伊香、野洲の両郡、また海道筋にて一万石を与えた。
そして旧領である東海の五ヶ国は殿下が受納され、諸将に今回の勲功の賞として分け与えた。

そのような処置の後、陸奥出羽の両国も平均なさしむべしとて、同十四日に秀吉公は小田原を発した。
前田利家父子、宇喜多秀家、蒲生氏郷が秀吉公より先陣の命を蒙り、その他の諸大将も先隊後躯の
列を守り、順々に打ち発った。数ヶ国の大軍が昼夜を分かたず野も岡も平押しに押し行き、
五里七里の間には、神社仏閣市店農家に軍勢の宿と成らない所は無かった。

そういった中、長岡幽斎法印玄旨は病気によって休暇を賜り、同十五日足柄竹ノ下より甲斐国に入り、
信濃路を経て京へ戻った。

秀吉公の方は、「このついでに鎌倉を一見したい。」と、相州藤澤駅より駕を枉げられ鶴ヶ岡の
八幡宮に参詣された。参詣が終わって右大将家(源頼朝)の廟所を尋ねられ、白旗の社(白旗神社)で
あることを申し上げると、そちらに詣でられ戸帳を開かれると、頼朝卿の影像をつくづくと眺められ

「おおよよ微賤より起こって天下一統に切り従え、四海を掌に握った者はあなたとこの秀吉のみである。
しかしながらあなたは多田満仲の後胤であり、王氏より出てからもそう隔たっていない。その上、
先祖に伊予守頼義、陸奥守義家が相続いて関東の守護をなし、故に国侍に馴染みも多く、被官の筋目が
有るのを以て流人の身であるといっても、義兵を挙げるや否や旧好を追って東国武士が属従し、
速成の大功を建てられた。

一方で私は氏も系図もない匹夫より出て、茂みの中から世上を靡かせたのだから、あなたよりこの秀吉の
創業の方が大なること明白である。しかし何れにしてもあなたと私は天下友達と言うべきであろう。」

そう言って影像の肩先をほとほとと叩き、からからと笑って立ち下がられた。扈従の者達も興に入り
「誠に活気の大将である。」と言わぬものは居なかった。

惣じて殿下の大胆闊達な事はこの話だけではない。宇都宮に出馬された砌に、御伽衆が侍座して
夜話をしていた折に、佐野天徳寺上杉謙信の、信州川中島の戦い、常州山王堂の戦いなどを語り、
「彼が勝れて剛絶なる大将であった証拠は、輝虎が関東へ越山するとの話が聞こえれば、諸家の
輩は一人ひとり身構えて手袋を引き弓矢を伏せた。そして謙信が帰陣して三国峠を越えたと聞くと、
大夕立と雷鳴が過ぎ去った跡のように、ようやく息をついて安心して座したものであった。」
と話した所、殿下はこれを聞かれると

「天徳寺よ、その信玄謙信の両入道も早くに死んで幸せであったな。今まで生きていたなら
私の今度の帰洛の時に、乗輿の先に立たせ、朱柄の傘、大長刀を担がせ力者として供をさせた
だろうに、早世して外聞も能く名を残せた。何が座備、車懸りか、戯言である。」

そう宣われた。これには天徳寺も言葉を失い苦笑するより無かった。

(関八州古戦録)



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:10:30.46 ID:JKruuVtX
関連
5875
『秀吉の大器』


9758
車懸りや座備が何だというのか


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:20:18.14 ID:JKruuVtX
これも関連に追加
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豊臣秀吉、成り上がり者の心意気・いい話

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豊臣秀吉、天下人の自信

七書の名言を用いなさった大将は、頼朝公、信長公。

2015年11月11日 08:31

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 00:46:53.60 ID:Vpr+gTBL
 貴人は勿論私風情まで、自分の悪しき所は見えぬもので、貴人へ諫言を申す人は甚だ少ないものと御心得なさってください。
 『主将の法務は英雄の心をとる』と記す七書の名言を用いなさった大将は、頼朝公、信長公
この外に本朝には伝え聞いておりません。これは我が朝の風俗と思われます。
 
 右幕下(頼朝)は鎌倉にいらしたまま、義経、範頼を大将として平家を征伐なさり、信長公は毎度家臣に敵国を拝領させると仰せ付けられたとのことである。
その他の大将はいつも自らを大将として征伐なされた。

(本阿弥行状記)

そうかなあ、二人以外にもいるような



976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/11(水) 02:04:32.36 ID:JsEdPrm9
謙信「ふむ…つまり良き大将とは本拠に留まり周りに目を光らせる者と言うことだな」
義光「まして大将自ら先頭に立って突撃などしないものであるな」

信長「……」