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甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?
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秀吉はこれを識量して

2019年02月20日 18:17

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 18:28:01.04 ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』


すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


伊藤内蔵という者を討つ

2018年12月18日 18:28

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 17:51:17.65 ID:ZMc4njbi
瀧川左近(一益)が未だ匹夫の頃、伊藤内蔵という者を討つ事を、諸人あぐんでいた。そのような中、
ある宮の拝殿で、内蔵がここに参詣する時必ず座する柱が有ったのだが、左近はここに密かに穴を開けておき、
内蔵が社参した時、この穴より鉄炮で撃ち殺した。

この事でその場の人々は大いに立ち騒いだが、左近はその中を何事もなかったかのように退いた。
しかしこの時刀の鞘を落としていたことに気が付き、これを無念に思い、再び立ち帰って鞘を取って
また退いた。
(武功雑記)

肝が座っているのやら座っていないのやら


滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

名馬を2頭も貰った滝川さん

2018年10月16日 21:16

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:15:36.68 ID:aYmZcFzl
天正10年(1582)3月12日に信忠卿(織田信忠)は、武田勝頼父子やその他の首を実検せられ、

滝川左近将監一益の大功を賞し給い、吉光の脇差ならびに“一の日影”と名付けた名馬と金子5百両に
感状を添えて賜り、今回討ち取った首を関加平次・桑原助六郎に持たせて信長公の本陣に参られた。

(中略)

23日、(織田信長は)滝川左近将監一益に対し「今回、武田勝頼父子の首を得たのみならず、軍功は
抜群であるから」と仰せられ、関東総管領を命じて「陸奥・出羽まで賞罰征討を沙汰し、もし決し難き

事があれば徳川殿の御旨を受けて計らうように」と仰せになり、伊勢の本領五郡に添え信濃佐久・小県
二郡を賜り、上野厩橋城に居城するように命じられ“海老鹿毛”という駿馬に脇差を添えて下賜された。

諸人羨まざる者なし。

――『改正三河後風土記』

名馬を2頭も貰った滝川さん



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:42:50.36 ID:hDUMUMtw
>>363
ここで徳川の名前を出してくるのが、いかにも三河な資料…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:41:00.85 ID:3Zo5jnv6
関東管領といえど所領は伊勢と信濃の分国、北条から見ると笑っちゃうレベル

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:55:24.80 ID:fORrQkXO
上野は?滝川の指揮範囲全部で100万石近いのでは?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 19:29:05.65 ID:ITZGz8H9
担当地域と領地が違うってのは、考えてみれば北条と似たようなものか

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 20:25:23.08 ID:wqAxIbJP
>>366
指揮範囲はともかく、現実としてはほとんど領地を持たず厩橋城などのいくつかの城を確保しているに過ぎなかったので、徹頭徹尾織田政権の存在を前提とした関東管領だな。滝川は。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 06:53:08.18 ID:HviX83N+
傘下の豪族が日和ったら籠城するしか打つ手なくなるよね

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 09:35:00.72 ID:ODXOLop4
そんな事したらその豪族が滅ぼされる

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 12:14:10.41 ID:/rA8Mwv+
信孝は岐阜に籠城するしかなかった

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 23:31:50.48 ID:X8J89QXk
滝川「馬より茶器が欲しい…」

神流川の戦い、戦後

2018年10月13日 17:06

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 16:15:45.83 ID:asM7S4h2
(神流川の戦い敗戦後)

厩橋城に引き返した滝川一益は、今日討死した人々の姓名を書き記して金銀を添え城下の寺院へと送り、
追善供養を頼んだ。その後、一益は上野衆を招き集めて終夜酒宴を開き、自身で鼓を打って謡を歌った。
その後、一益は扇を取り直し「兵の交り頼み有る中の酒宴哉(謡曲『羅生門』の一節)」と歌い舞えば、

倉賀野淡路守(金井秀景)も拍子を取り「名残今はと啼く鳥の(謡曲『源氏供養』の一節)」と歌って
互いに興に乗じた。さて一益は太刀・薙刀ならびに金銀や、その他日頃秘蔵した書画・珍器を尽く取り
出し、上野衆に授けて今日の一戦の功労を賞した。一益は鳥鳴く空も明けると暇乞いし、

「厩橋城を打ち立つ」と言って、人々の人質をすべて各領地へと帰した。上野諸将は皆一益の大勇義信
に感動して涙を流し、倉賀野まで付き添い送った。沼田城では真田安房守(昌幸)が郊外に赴いて迎え、
厚く馳走し諏訪まで送って来た。一益は始めは木曽路を気遣っていたのだが、

木曽左馬頭(義昌)も一益の義勇に感動したのか軍勢を数多差し添え伊勢長島の一益の所領まで送った。
一益が難無く帰国したところ早くも光秀は誅に伏し、三法師丸(織田秀信)は織田殿の家督として安土
に在城していたので一益は安土へ参り拝謁し、つつがなく居城の長島へ帰った。

世人は一益を称して“鬼滝川”と字せしという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い一日目
神流川の戦い二日目



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 18:08:58.32 ID:7+dcbMCb
鬼滝川
神流川

字面的にあってるような

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:54.90 ID:06zbrJY1
コロッケの弟子の神無月がなんだって??

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:50:37.32 ID:JrNRmdHT
立ち振る舞いが爽やか過ぎるのが一益の美点であり欠点だったんだろうか
酷い立ち回りだが武略知略を感じさせる鬼武蔵と逆だったらどうしてたか気になる

神流川の戦い二日目

2018年10月12日 20:16

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:18:19.04 ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』


神流川の戦い一日目
神流川の戦い、戦後
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:39:04.99 ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう




299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:26:57.76 ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:35:21.71 ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:37:00.47 ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 23:20:55.14 ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな

神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


滝川今の一言天晴な盟主

2018年10月10日 19:34

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:45:26.22 ID:87+YFNsB
滝川左近将監一益は織田殿の仰せを受けて関東を管領し、上野厩橋城にあって威名は奥羽までも輝いた。
そこに6月7日の晩景、京都から杉山小介貞次が急使として来たり、織田殿父子横死の次第を告げた。
一益は大いに驚きしばし黙然として伏せ沈んでいたが、ややあって篠岡平右衛門、津田治右衛門、滝川
儀太夫(益氏)の三臣を呼びその事を告げた。義太夫はこれを承り、「これは天下の大事なり。

しばらく隠密に秘せられるのがしかるべきでは」と言った。一益は聞いて、「汝が申すことも一理ある。
しかしながら“好事門を出でず。悪事千里を走る”という諺のようにこれは隠しても一両日も過ぎずに
知られるだろう。他人の口から洩れる時はかえって衆人の疑念を生じ、国中は騒動するであろう。私は

関東所属の諸将を尽く招いてこの事を披露し、これまで預かっていた人質をも返して自身は一刻も早く
上洛し、運を天に任せて亡君の仇を報じる。もし上野の諸将がこの虚に乗じ私を食い止めて討ち取らん
とするならば、それも時節である。一戦して討死するのも義のあたるところ、なんぞ命を惜しまんや。

もしまた諸将が志を変じずに味方すると言うなら、小田原の北条へ使者を立てて北条父子を引き出して
一戦を遂げ、その勝ち負けに構わずに一益は上洛して亡君の弔い合戦をする」と言うと、上野・武蔵の
諸将へ「急いで面議することがあるので早々に参着するべし」と通達した。よって内藤大和守秋宣・

小幡上総介信真・同三河守信尚・長尾但馬守顕長・由良信濃守国繁・真田安房守昌幸・蘆田深谷左兵衛
憲盛・本庄安中越中守・成田下総守氏長・木部宮内定利・上田又次郎入道安独斎・和田右衛門大夫信業・
渋川相模守氏勝・高山遠江守重光・名和対馬守宗元・倉賀野淡路守秀景・五閑刑部らを始めとして、

上野・武蔵の諸将はみな厩橋へと集まった。一益は諸将と対面して、「今度上方で不慮の大変があった。
明智光秀が叛逆して信長御父子は討たれさせ給うとの由の注進があり、一益は急ぎ上洛して亡君の弔い
合戦をせんとす。各々の人質は箕輪城に入れ置いたが尽く返し参らす。各々はこの弊害に乗じて

一益を討ち、それを手柄に北条へ降参せんとするならば只今ただちに一戦して一益の首を進上すべし!
もしまた信義を守り旧約を変ぜず、私めの下知に従わんと思いなさるならば、只今より小田原へ使いを
立てて『厩橋を渡すので北条父子は出馬なされよ。一戦して一益は上洛することであろう』と申し遣わ
すべし!」と言い捨てて奥に入った。その後、諸将は寄り集まって評議し内藤と小幡が一番に進み出て

申したことには、「滝川の今の一言は天晴な盟主と見え、義勇現れしものと覚える。かような事の大切
を少しも包み隠す様子もなく、まっすぐに申し出して我々の人質を返さんと言われては我々はどうして
不義の振舞いができよう。ただ一筋に同意して死生を共にする他ない!」と言い、諸将ももっともだと

これに応じた。その旨を滝川儀太夫を取り次いで返答すると、一益は聞いて再び諸将に対面し「各々の
義信、誠に感悦するところなり。一益は主君の弔い合戦を急ぐといえど上方近くに信雄・信孝の御兄弟
がおられ、柴田や丹羽など譜代の歴々が数多いるゆえ賊臣・光秀が誅に伏すのは一益の上洛を待たない

だろう。ここに北条氏政という表裏者は、信長公御父子が討たれ給うと聞けば早速旧盟を変改し、この
弊害を幸いと一益を討ち取る謀を巡らすのは必定だ。敵に先を取られる前にこちらから小田原へ使者を
遣わし、厩橋を渡すと申し送れば氏政父子は早々に出馬することだろう。その時に一戦して上洛するか、
一益が討死するか、運は天に任すべきと思うがいかがか」と言った。諸将は聞いて「仰せもっとも義の

当たるところ、誰が否と申しましょう」と返答した。よって同じく11日に蔵田小次郎を使者として
小田原へ遣わし、翌12日に小田原へ参りその旨演説すると氏政父子は「これ天運の賜物」と大いに
喜び「早々に出馬して受け取る」と答えた。小次郎が馳せ帰りかくと申せば一益は「そうだと思った。
この上は運の程を試すとしよう」と言って用意した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:13:28.21 ID:CHjRchcL
ええ話というかどこか要領の悪さを感じるな
織田家臣団の中で秀吉や光秀と熾烈な出世競争してきたタマとは思えない
しかも散々こねくり回して負けとるやないか

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:17:47.85 ID:dpeX0mQH
>>333
ここまではカッコイイんだよなぁ…。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:19:47.68 ID:YIy1byHU
坂井政尚だっけか
息子を亡くし意気消沈して戦死したように、一益も信長という希望を失って気が抜けてしまったのかもね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 22:02:04.57 ID:fsWVmvMn
勝家も一益も還暦前後の爺さんだからなぁ…

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 02:32:41.67 ID:+bk2wro/
>>337
そもそも滝川一益は引退させてくれと信長に頼んでるししゃーない

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:22:35.82 ID:yxuOoXB8
絶頂期が終わったら後は下り坂

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか

柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)


義太夫が心剛であり

2018年05月10日 18:25

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 22:01:45.51 ID:wx5+9+Fx
滝川左近将監(一益)の家臣に、滝川義太夫(益氏)と云う者があり、彼は左近の甥であった。

羽柴秀吉と滝川一益が戦った時、伊勢国嶺城に人数1200ばかりにて立て籠もったのを、
秀吉より仙石権兵衛、木村常陸、脇坂中務、服部采女、筒井なにがし等、八千余騎にて
45,6日に渡り攻めたがこれを落とすこと出来ず、金堀を入れて地中より攻めようとした。
しかし城方はこれに気が付き、城中に、羽柴方が掘り進める方向に横堀を作り、
焼き草に鉄砲の火薬を混ぜてここに入れた。
羽柴方の金堀が城中に掘り入ると、これに火をつければ、金堀たちは残らず焼け死んだ。

秀吉はこれを無念に思い、四万余騎の軍勢にて自ら采配を取り、
「この程度の小城、手で揉んで揉み殺すべし!かかれ者共!」と下知して攻めたが
落とすこと出来ず、48日の間に、秀吉方の死傷者は2万ほどにもなった。
しかし城中も、死傷者7,800人にのぼった。

滝川義太夫は心剛にして隠れ無き鉄砲の上手であった。
この籠城戦、後半は弾薬兵糧もなく、18日間を持ちこたえた。
そのうち、城内では馬や人をも食料としていると、秀吉にも聞こえてきた。

秀吉は義太夫を惜しみ、滝川左近にこのような使いを立てた
『義太夫は城中に弾薬兵糧ももはや無いようだ。押し殺すのは容易いが、あのように
城を今まで持ちこたえたのは、古今の名人である。彼に城を明け渡すように申して欲しい。』

これに左近は「尤もである。私も彼を不憫に思っている。」として、
義太夫に対し使いを立て、『急ぎ城を明け渡すように』と伝えた。
これに対し義太夫は
「左近様の自筆の書状ならば渡しましょう」
と、返答した。

その後、左近は自筆の書状を遣わしたため、義太夫は城を明け渡した。
この時秀吉は義太夫に言った
「左近はどうあっても討ち果たす。お主は我が方へ来い。五万石を遣わす。」
これに義太夫
「忝ない仕合、身に余ることですが、左近が生きているうちは、例え百万石を下されようとも
参ることは出来ません。御免なされ候へ。」
そう断った。
秀吉はこれを聞くと
「汝の心中であれば、左近が生きているうちはこれを見届けるであろう。
その間は、町人にでもなっておけ。」
そう言って、黄金二千枚に感状を添えて与えた。

嶺城は非常に小さな城で、亀山城などに比べると大変に劣るものであったが、これを保ったのは
義太夫が心剛であり、また分別深い人物であったからだと、人々は語った。義太夫はこの頃、
51,2歳であったという。

一方の亀山城には大野左次と言う者が大将として、二千ばかり籠め置かれていた。
秀吉は1万ばかりで押し寄せ、10日あまり攻めると、左次は叶わぬと思い城を明け渡し
滝川左近の居城である長島へと逃げ込んだ。
しかし長島において
「この者比興者である。二十日も城を保てず逃げ来ること、士たるものの所業ではない。」
そう批判され、同国大島という所にて切腹させられた。
惣じてこの左次は、常々心がけが薄かったが。終に主の役に立たず犬死したと、人々は語った。

(祖父物語)



883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 00:09:39.86 ID:I159reua
前田慶次郎の父親?かもしれないとしか知らなかったけど
ちゃんとエピソードあるんだな

少年のときは少年のように

2018年04月25日 15:39

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 00:02:36.86 ID:PxqwokfF
少年のときは少年のように


滝川一益の士に井口又兵衛という武功の者がいたが戦死してしまった。
その子供が十二、三歳になると、一益のお茶取りとして仕えるようになったが
十七、八ぐらいの小姓が無礼をして、井口が持っていたお茶をこぼさせた。

井口は相手に構わず懐紙でよく拭いてから下がったが
その後、次の間に件の小姓を呼び出して刀で突き刺した。
傍輩どもが騒いでこの事を一益に申すと、一益は涙を流し
「よくもまぁ父に似ない奴だ、何の役にも立たないだろうな」
と申されたので、近習の士どもが不審に思い
「井口の振る舞いは老士でも出来ない程のことです。
 どうしてそのようなことを仰せられるのですか」
と申すと、一益は
「だからこそだ。今年十二、十三で老士のような振る舞いをする者が
 年を取って何の役に立つだろうか。少年のときは少年のように
 後先考えず粗忽に働いてこそ、働きぶりがしっかりしているところと
 そうでないところが自然と分かってくるものなのだ。年の功を積んで
 不甲斐ない働きをしてきたことを悔やみ、よく働くようになる者もいれば
 粗忽で勢いだけの無分別な者が、老後に分別が出来るようになることもある。
 若いときと老いてから、そのときどきの拍子序破急があってこそなのだ。
 今から分別しすぎた振る舞いをする者は、年を取った後に隠居や法体
 世捨て人のような士になってしまうだろう。それは私の欲するところではない」
と言われたという。


――『筆のちり』


小柄な馬を用いるべき

2017年11月01日 23:14

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 20:29:31.41 ID:jQaAtfFj
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:17:19.48 ID:l2YmBqit
何で四尺二寸で160センチなの?

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:22:14.12 ID:NdoPDHxu
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:09:43.86 ID:fV6F543b
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:54:13.10 ID:l2YmBqit
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:58:46.64 ID:gmo4JNSz
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:27:09.34 ID:5JFwwVmX
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:32:22.91 ID:5JFwwVmX
孔子じゃなくて曾子だった

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:06:32.63 ID:YQViDZEX
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:22:39.68 ID:HrvqbaGt
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 02:13:14.33 ID:P79UcJ+O
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 11:39:43.34 ID:qp2MZxTP
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い

一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


滝川はよく察したようだ

2017年05月13日 17:37

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:16:00.86 ID:mIfYNUY+
太閤が岐阜を御攻めになった時のことだろうか。滝川左近(一益)は7寸ほど
の黒の馬に乗り、斥候に出馬した。

太閤は御覧になり、「滝川自身が物見に出るのは夜討ち致す心積もりなのだ。
容易には打たれまいぞ」と仰せになり、太閤の御備に柵を御付けなさった。

滝川はこれを見ると、「秀吉はこちらへ夜討ちする心積もりのようだ」と言って、
その場所から3里引き取った。

太閤はその時に仰せられて、「滝川の備へ夜討ち致そうと存じたが、滝川は
よく察したようだ」との御事であったという。

両方の大将の思慮は、符節を合するが如し。

――『武功雑記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:20:22.70 ID:Wq27HkK7
7寸の馬に乗るって何者?

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:47:13.60 ID:UMYW+heA
>>897
人間の身長と同じで尺を省略してるだけじゃないのかな

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 09:01:40.12 ID:uVKdKg7z
普通のサイズ+7寸 じゃなかったっけ?

901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/13(土) 10:21:14.93 ID:8PuObztG
標準体高が四尺でそれを超える分を寸で数える

与えなかった者の馬は

2016年07月25日 13:46

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 02:35:17.88 ID:8T2sXMC4
滝川一益が武蔵野合戦(神流川の戦い)に打ち負けて撤退した時、
極暑の頃だったために馬はたいへん疲れ、全身が汗にまみれた。

川を馬に乗って渡る時、馬に水を与えた者と与えなかった者がいた。
水を与えた者の馬は、10町ほどでみな行き倒れたのだが、与え
なかった者の馬は、別段の支障はなかったという。

――『武将感状記』



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:38:19.20 ID:qe87IzyC
体育教師「よし、運動中は水飲むなよ!」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:44:13.86 ID:Ej7RqOj7
>>914
なんでだ?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:47:28.36 ID:qe87IzyC
人間なら水だけで塩分与えないと帰って血中の塩分濃度が低くなり、
血中の塩分濃度を高くするために体外に水分を出そうとして
水を飲むとよけいに脱水状態になるとか

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 08:02:43.74 ID:JZ2D5XOT
水中毒ってやつか
水ばっかり飲んでるとバテるぞとよく言われたっけか

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 17:20:06.39 ID:8xAJT9gO
ノドが乾いても水を飲ませてもらえず
疲れたら馬針で脚をブスブス刺される
戦国時代の軍馬は地獄だぜぇ

鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


滝川一益「服が乾くまで暫く待って下さい。」

2015年10月17日 12:22

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 00:35:30.38 ID:T1GsVD9m
ある老人の語ったところによると。戦国の頃、衣服も質素であったのは言うまでもないことで、
滝川左近一益が関東の管領として厩橋に至ると、諸将が対面のため駆けつけたが、その時

「ただ今一つある衣服の、垢の付いたのを洗ったため丸裸なのです。服が乾くまで暫く待って下さい。」

そう言ったと語り伝えられている。
しかしその後泰平に成って、衣服も美々しくなったが、寛文の頃までは、なお戦国の遺風があって、
金銀や利潤のことを語るのは武士の恥だと心得てしなかったものだ。

酒井雅楽頭忠清が大老であった時、春の末の頃のこと、殿中で下に着ている服が汗で濡れたのを、
休所の欄干にかけて乾かしていたが、その服も所々継当てられていて、とても見苦しいと、
帰宅してから語った。

ところが衣服を司る老女がこれを聞いて
「時が移って君は驕ってしまった!私が生きている間にこんなことになるなんて!」
と、絶句したという。
これは厳有院様(徳川家綱)の時代の事だという。

(明良洪範)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 09:58:29.29 ID:HCgkqS4U
おあむさんげきおこ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 10:01:50.91 ID:2u0qoykE
裸に鎧着用で問題なし

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 11:21:48.13 ID:Ot3kUTrA
蒸れ蒸れっすよ

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 17:37:17.09 ID:Usi9GtWj
???「衣服も鎧も必要なし!編み笠ひとつあればそれで十分!」

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 19:34:36.42 ID:r0DXq3kg
天海「時の流れには逆らえんな」