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関東律儀の風にて、斯くの如し。

2021年06月23日 18:27

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/23(水) 15:40:02.75 ID:WZDH2Cja
関東衆が神流川の戦いおいて、滝川一益に対しあのように粉骨を尽くしたのは、滝川の智より出たものである。
信長公御生害(本能寺の変)の事についての密書が到着した時、滝川の家老達は、「先ず隠密し給え」と、
その情報を隠すことを勧めた。これに対して一益は

「悪事千里を走る習いなのだから、隠せば却って顕れるだろう。信長公より私が関東管領に仰せ付け
られ、手柄次第に切り取るべしとの御朱印を頂戴した。士は義を立てる者であるのだから、弔い合戦の
ために上る私に対しては、加勢する事こそ本意であり、背く士は有るまじ。

しかし、もし隠して上ろうとすれば、滝川は主君から離れた東国を持ちこたえることが出来ず
逃げ上がるのだ、として、追いかけ討ち留めようと申し合いする事必定である。

顕して申し聞かせれば、義を守る士は、却って見届けるだろう。
それでも、もし敵対するのであれば、信長公の追腹と思えば本望である。」

と言うと関東衆を呼び集め、信長御生害の様子を申し聞かせ
「私を上らせ給うのも、上らせなくするのも、各々の心次第である。」
と申した事で、関東衆はこれに感じて、武州の一戦(神流川の戦い)にも、滝川の先陣をして
粉骨した。

滝川は神流川の戦いの後、倉賀野より箕輪城に入り一宿し、そこでの様子も良かったため、関東衆は
いよいよ心を変ぜず、それより松枝に移り、碓氷峠を越えて追分に出て、信州小室へ懸かり、
諏訪へ行き、中山道を経て、七月朔日、勢州長島の城に到着した。
この時、関東信州の、その通路の士大将衆は、何れも一益に人質を出して見届けた、という。

関東律儀の風にて、斯くの如し。

管窺武鑑



276 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/23(水) 19:22:40.67 ID:mKXoheLL
管窺武鑑(夏目軍八定房)
定房は永井美濃守の家臣。父・定吉は上杉家臣。

上杉関連の軍記物。最初に父・定吉が仕えた上杉謙信・景勝の事を記し「上杉記」とも称される。
次に夏目家と縁のある景勝家臣の藤田能登守信吉、定房が仕えた永井家について記し、夏目家についても記す。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/23(水) 19:30:10.69 ID:mKXoheLL
上記は米沢市図書館の記述ですが
該当する永井尚政は信濃守です
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南部越後について

2021年04月27日 18:20

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/27(火) 14:20:54.68 ID:EBmutGnO
南部越後について、彼は滝川殿(一益)の侍であり、滝川縫殿(当家番頭家次)の父出雲(辰政)の
父である。武勇有る能人であった。

かつて信長公が「小田原その他の敵を押さえるように。」と仰せに成られたが、南部越後
滝川家に従っての初合戦に参加しなかった。その時滝川は、使者を以て「どうして合戦に参加
しないのか」と、厳しく尋ねた。南部は答えて曰く
「御家中の士、この戦で皆武功をなされており、私ごときがここで働いても目に立たないためです。」
と答えた。そして重ねての軍で大きな手柄をしたのだという。

またある時、敵の城を攻める時に、柵際へ味方が大勢付いたが、ここで南部越後は「この柵をくぐって
行き、敵城に乗ろう」と考え、兜をくぐらせて見た所で、敵は門を叩き鬨の声をあげた。
その大音に驚き、味方はどっと逃げた。ところが越後は、大きな前立てを打った兜を着け、
その前立てを傾けて柵を潜ろうとしていた時であったので、前立てが柵にひっかかり、味方の勢が
敗走した中、南部越後一人がこらえて留まっていると見えた。
これを見た味方の勢は引き返した。これも大いなる功名となった。

後で南部は云った「私は勇気があってこらえていたのではない。先に言った通り、やむを得ず
ああなったのだ。」

しかしこの言葉によって、猶々手柄と成った。日頃武功が多かった故である。

この越後は、武蔵様(池田利隆)御家に罷り在り、大阪御陣の時、片桐市正(且元)の
大阪よりの退き口において、大阪方がこれへの追尾を行った。
尼崎には建部内匠(政長)が居り(当時十二歳)、武蔵様よりその補佐として南部越後
遣わされ、彼も尼崎に居た。

この時、尼崎勢は市正を助けず、この事を市正は東照宮(徳川家康)へ
『武蔵守は大阪に内通しているのではないか』
と申し上げた。
そのため、これに対して番大膳が東照宮の元に罷り出て、申し訳を仕った。

東照宮の仰せに曰く
「武蔵守の手に南部有り。しかも彼は尼崎の城に在って、なにか理由も無く片桐且元
助けないということは有るまじきと思ったのだ。」と仰せになった。

烈公間話



141 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/27(火) 19:04:23.09 ID:fKzeA+2Y
南部越後は北勢四十八家の一つ、富田城主南部家の人物とされ
蒲生氏郷の配下の時代にキリシタンになったといいます
浪人後に輝政に三千石で召しだされたと

鳥取藩のキリシタン史で名前の出てくる医師森元交(もりげんこう)も南部越後の子だとか

桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

2020年08月21日 16:50

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 21:59:40.40 ID:96SZy5U2
『湯浅甚助直宗伝記』
桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

今川義元と信長の合戦の時、湯浅甚助は14歳で(小姓として)供奉していたところ、「少年の出陣は無用である」と仰せられたので、尾州笠寺の法印に預けられた。
桶狭間で合戦が始まったところ、鬨の声や鉄砲の音がおびただしく聞こえてきた。
そこで笠寺に残っていた小姓衆は信長公の替え馬に乗って戦場にはせ参じ、甚助は敵と槍を合わせ、練り倒して取った首を信長公の御前へ持参した。
すると、信長は「若輩者が戦場の騒がしいところに、なぜ軍法を破って現れたのか」とご立腹だったので、本陣へ帰った。
すると、敵の大将、義元を討ち取り、合戦に勝利したので信長はとてもご機嫌になり、笠寺へ帰陣した。
法印が合戦勝利に祝いの言葉を捧げ、飛び出した小姓衆のことの顛末を子細に話し、「武勇の励みがあったので少年まで手柄を立て、言葉がありません」と詫び言を申したので、みなが許された。
その後、三河長篠の合戦のときに、信長は甚助を呼び、「先手の滝川一益の備えへ参れ。敵は色めき立っている。早く敵の備えを崩し、どっと攻めかかれと伝えよ」と命じた。
これによって一益の陣所にはせ向かい、信長の命令を伝えたところ、信長の命令の通り、(同じ先手の)家康公が敵の先手に挑みかかり、敵の侍大将、馬場信春の備えを崩した。
このとき甚助は、甲州方の采配を手に持った武者と槍を合わせ、(馬から)突き落として首を取った。采配を添えて首実検に供した。
この委細は一益が見届けており、後日、信長公へ披露した。
これによって信長公から感状をいただき、「先手への軍使に向かって首尾よくこなし、さらには首を取って猛威を振るってから帰ってきたこと、神妙である」と声をかけられ、加増された。
これらは信長公記に記されていないが、甚助家来の倉知道珍という侍が詳細を知っており、語り伝えている。
(中略)
天正10年6月2日、明智光秀が謀反の時には、甚助は町屋に泊まっていたが、光秀の逆心によって京中が騒動になっていたので本能寺にはせ参じ、猛勢をかき分けて寺内に駆け込み、討ち死にした。
本能寺で死んだ面々の石塔が阿弥陀寺にある。



雀の楽しみを楽しみ候へ

2020年06月21日 17:55

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/21(日) 10:54:20.63 ID:+NODlI7m
滝川一益が関東の管領であった時、山屋敷に亭を造り、閑暇の時はここにて休憩をした。

ある日、広野に鶴が数多下り餌を食らっていた。これを見るに、鶴の中でも番をしている鳥は
四方を幾度も見合わせて、一声鳴く時も用心し、他の鳥とは格別であった。
また植木の枝、亭の軒端には雀多く来て、人をも恐れず餌を食らい、友鳥戯れていた。
一益は近臣に

「あれを見よ、鶴が用心するのと、群雀の何心無きは、人と比較すれば、鶴は私の冥加に叶う。
大名と成り、国郡多く領知して、数万人を我が物にすれども、一言をも遠慮して粗末に言わず、物を食するとも、
膳番目付などと役人が有り、濫りに食うことをしない。夜は寝ずの番、外には夜回り時回りという役人が
有って、我一人寝た後までの用心をし、家中大小上下領内の万民も、我一人を目当てにするのだから、片時も
身を楽々と持つこと出来ない。あの鶴の身持ちと同じことだ。私の昼夜の心遣いを察して見よ。
汝等は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しみ候へ。」

そう言ったという。

名将言行録



心得ざる左近の言い分かな

2020年05月13日 18:15

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 01:10:04.09 ID:6M4HJyPQ
安八郡西の保の城主・不破河内守通貞(光治)は、東美濃の遠山刑部允正元の孫であるという。
通貞の父は不破彦左衛門通直といって、西の保村の城主である。

一説に不破氏の先祖は山城国の松井蔵人直家といった者であるが、笠置の城没落の後に六波羅
の命に従い、後醍醐天皇を探し奉った。この恩賞として、美濃国に数ヶ所の荘園を六波羅より
賜って初めて当国に至り、不破郡府中村に居住した。その後に氏を不破と改めて、その子孫は
不破・多芸の両郡に数多おり、府中の住人・不破隼人直重は江州の篠原で討死した。

さてまた退翁軒法印の日記を見ると、天正元癸酉年(1573)12月、不破河内守通貞は滝
川左近将監一益に対し、刀傷に及んだことがある。これをもって見る時は源姓ではなかろうか。

その故は、滝川一益の長女を不破通貞の嫡子・彦三郎通家(直光)に嫁がせたいとの由を申し
入れたところ、滝川はどういうわけかこれを承諾しなかった。「我が娘は筋目正しき大名の内
へ嫁がせようとこそ思えども、不破などには得参らせ難し」と言ったである。これを聞いて通
貞は大いに怒り、

「心得ざる左近の言い分かな! 私は今は信長の臣であるといえど、その昔を言えば清和源氏の
後裔である土岐・遠山の正統にして、当国の本家である! 滝川は何程の者なるぞ! 彼はただ
江州佐々木出の浪人者とは聞いているが、祖父の来歴も分からない! 近年ようやく信長公の御
取立てに預かった者だが、今は勢いに乗って当家を侮るとは奇怪なり!」

と立腹して、その年の12月11日の夜に滝川の宿所へ打ち入り、刀傷に及んだと記してある。
しかれば、これなどをもって考える時は(不破は)当国の侍で土岐氏の庶流であろう。山城の
国から来たというのは不審である。

按ずるに土岐頼貞の末子に五郎頼之という者がいるが、不破郡府中に居住したと言われている。
これすなわち通貞の先祖だろう。しかしながら通貞までの来歴の次第は詳らかではないという。

――『美濃国諸旧記』




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 13:17:44.63 ID:4JVWnVPW
由緒正しき清和源氏の流れだったら息子の嫁も良いとこから貰えよw
なお正室は北畠具教の娘らしいが

清州会議後の情勢と丹羽長秀

2020年04月11日 14:48

969 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:21:52.15 ID:CIFVpg9h
秀吉卿は天正十年十月十五日、信長公の御葬儀を相勤め、以来城南の宝寺を城郭と成し(山城国山崎城)、
梁于を畿内に棟、万民を撫育し、城介信忠卿の御若君が信長公の嫡孫であったので、江州安土山へ据えられた。
北畠中将信雄卿を、若君が15歳に成らせ給う迄の御名代と成し、諸事御計らいあったが、これも安土山に
置き奉り尊崇した。頗る君臣親愛の様子が巍然としており、まさに忠臣と言うべき姿であった。

秀吉卿は真に小柄な人物であったが(秀吉卿ハ真小輩之人なるか)、数ヵ国を領するのみ成らず
若君を守り立てるというのも名のみであり、実際には天下の政務はこの人に有った。そのため
故将軍(信長)の如く、威は月を追って加わり、禄は年を追って増した。これ偏に離倫の才知、絶類の武勇に
よってのものである。

然るを、小智小見なる傍輩はこれを妬み、これを悪む事甚だ以て浅からず、とりわけ深く妬み思うは、
修理亮(柴田)勝家に極まっていた。京童のうち、秀吉卿に頼り幸いいみじき者を。柴田方の町人は
羨みつつ、越前に至って秀吉卿の威勢の程を語るため、妬心は日々に生じ怨みは月々に増した。
これ誠に、古今不易の同情である。

これによって、柴田勝家は瀧川左近将監一益と与し、縁者でも有ったので、相談して言いけるは
「秀吉は、今若君を安土に置き奉り、おのれは後見として天下の裁判自由に至り、是非に及ばずとは
この事どもである。彼は、贔屓のものにはその沙汰快しとし、頼る者には粗略がないという。
今、小さな葉の内に切り取らねば、後日斧を用いることに成るだろう(「両葉不去、将用斧柯」の故事)。」
こうして織田三七信孝にありましを申し上げ、秀吉を押し下さんと謀った。

かくて丹羽五郎左衛門尉長秀を「この赴きに与してほしいと御頼みされるべきだ。」と瀧川より指図があり、
信孝より三宅中記が派遣され、長秀へ委細に仰せに成ると、
「秀吉が後見であることを嫌い、他の誰かにその沙汰が及んだとしても、若君幼稚の間は悪口両説を
絶えて申すまじき事、よくよく思召しに成るべきです。」
とだけ申し、しっかりと「与する」という返事はなかった。

長秀はこのように考えていた
「天下の裁判は、中々勇猛に達しているだけでは、古今成らざる例、和漢甚だ以て多い。
武勇を以てすれば、柴田形には十に八、九目出度い事こそ多い。何故かと言えば、第一に柴田は信長公の
老臣において武勇の長であり、殊に北国には前田左衛門尉、佐々内蔵助、不破彦三、原彦次郎などという
歴々の勇者多く有し、その上勝家甥である佐久間玄蕃允、舎弟久右衛門尉、同三左衛門尉、同源六郎、
何れも確かなる者にて、まして武備あり。これ偏に柴田に対し肩を比べるべき人無き事瞭然である。

一方で、天下の器にあたる地位は、能き人を知りてそれを用いる実があり、度量大やうにのび、才知盡くし、
武勇に達しながらも武を以て事とせず、賞罰両輪の如く用いると雖も、賞を強く、罰を弱く施し、何事も
理の正に当たり、せわせわしくしない。法度の立てるべき本は、己を正しくして他を悪む事も大やうに、
広く衆を愛し、民を撫育し、財貨を愛さず、専ら威の柄をよく養う、という類にある。

970 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:22:14.21 ID:CIFVpg9h
私は久しく信孝、勝家、一益の行いを窺ってきたが、彼らは武勇を以て事とし、その他は勝れない。
これは鳥とすれば、羽翼が片方だけあるようなものだ。それでどうして自由を得られるだろうか。

秀吉卿は勝家より勇功は少ないが、江北浅井父子を敵として小谷の城に向かって対陣し、終に大利を得、
その後播州の強敵の中に在国し、これも程なく一国平均に治めた。これは一国から六国を滅ぼした秦の威に
似ている。殊に勇猛も且つ備わり、才知は古今に独歩している程に見える。であれば秀吉が天下を席巻
すること、掌握に覚える。
また、勝家が大利を得ても、若君をないがしろにしてしまうだろう。周公旦のような事は、昔でさえ
稀であったのに。今の日本でどうしてありえるだろうか。ならば何れであってもはかばかしき事は無い。
同じであればどうすべきか。」

そのように、家臣である由戸田半右衛門尉、高木佐吉、坂井与右衛門尉などに対し悲嘆した。

「大方は、秀吉こそ天下の器に当たるだろう。惜しいかな、華麗に身を飾り、自己の栄華こそ天下国家を
知っての本意であると思っている。また翫物喪志(無用なものを過度に愛玩して、本来の志を見失ってしまうの意)
の癖もある。しかしこういった癖病を除けば、賢君と言うべき人物だ。何にしても彼こそ天下の器に近い。
天下の器に当たる才は、天のなせる所である。天が作るものを、人の道としてどうして妨げられるだろうか。
思いもよらぬところだ。

信長公には御連枝歴々多く、大臣数多侍っていたが、明智を討つ時は、池田高山に在し、さりながら秀吉着陣を
待ち得てこそ合戦を始めた。であれば、則ち主君の怨敵を滅ぼしたのは実際には秀吉卿である。
その上故将軍(信長)御葬送を、莫大な費えも厭わず勤めたのもこの人である。あれといいこれと言い、忠義
甚だ多い。天が忠義を感じられること当然であり、秀吉は何れも天の心に合う所が多く見える。どうして天心に
背けようか。私は天理に従おうと、深く思う。」

そう密かに老臣たちに評した所、各々承り「御遠慮、御尤も宜しきと存じ奉ります。これ当家繁栄すべき
金言であります。」と限りなく喜んだ。

賤嶽合戰記

清州会議後の情勢と丹羽長秀について。



971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:24:41.45 ID:993hYZ3y
長秀さんが勝家に与したら情勢変わっただろうか
でも他の人も似たような考えだったのかもしれんし無理かな?

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 11:13:28.03 ID:V/uRSZPV
真冬に滝川を落とした秀吉が有利すぎた

尼子勝久・通久兄弟の切腹

2020年03月17日 18:03

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 12:10:13.79 ID:DxVeY+n/
上月城の戦いの終盤

吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは

「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」

として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。

こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで

「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」

そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。

雲州軍話首

尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 14:00:05.78 ID:uq7TRT/o
織田勢転戦しすぎててちょっと記憶が薄いんだけど
佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ

北畠具教の滅亡

2020年03月07日 16:31

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:03:05.01 ID:4mIamn/1
天正四年には、織田信長公は近江国安土山に城を拵え給いて、岐阜は御子信忠へ譲られた。
同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。

この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。

信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。

こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。

卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。

こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)

氏鄕記



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:24:49.62 ID:D3fNQvLL
人間50年か
まるでドラマでのノブさんの最後のようだ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:04:51.91 ID:oyNgTpDB
>>896
北畠信意は信雄ではないんだ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:27:33.61 ID:4mIamn/1
>>898
どうもこの『氏郷記』は具房と信意(信雄)の諱を混同していると思われます。

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 13:08:04.80 ID:3FlUNxOP
https://i.imgur.com/RM8snGg.jpg
「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:22:51.38 ID:z5ApWnH5
>>896
剣豪将軍らしい最後でこっちのが夢がある

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:34:24.41 ID:R5CMkxWC
>>901
剣豪将軍の話じゃないんだが?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 23:35:06.84 ID:jDbW28ko
ロマンと実際どうだったかって別やしなぁ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 08:46:07.12 ID:A/2T+4ly
>>902
将軍じゃなくて大名でした、失礼

一益退去

2019年10月20日 15:53

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 14:12:47.91 ID:WlBR2NHp
天正十年六月十九日、滝川一益は本能寺の変を受けての、北条氏との神流川の戦いに敗北する。

この日、晩景になると敵もそれほど追い打ちをかける姿勢は見せず、一益は敗卒を駆けあつめると、
国衆たちに、もう一度力を合わせ、生死の有無を決する戦いをすべきかどうかという伝令を出した。
しかし皆は「人馬ともに疲れ果て、日も既に暮れている」事で、「明日を待って一戦交えるべし」との
返答であった。一益もこの上は力及ばず、またこのような疲れ武者で目に余る大軍に向かっても
戦果を得ることは出来ないと判断し、国衆たちに触れを出し、速やかに陣払いをすると神流川を渡り、
ひとまず倉賀野淡路守秀景の城へ入ってしばらく休息し、それから厩橋城へと戻った。まさに負け戦であった。

翌日、一益は武蔵野で討死した味方の士卒の供養を城下の寺に頼み、金子百両を渡して回向した。
その後、上州衆を集めると、「この度の戦いで粉骨して働いた無二の志は、生きている限り忘れない。」と
感謝を伝え、それまで預かっていた人質を悉く返すことこそ真の弓矢の道であると、彼等に返した。
そして
「これよりすぐに上洛して、小田原の北条とは和睦をなし、この上の迷惑を、皆にはかけぬつもりである。」
と今後についても話し、繰り返して感謝を伝えた。

それから、今日が今生の別れとなるだろうからと酒宴を催した。二十夜の更待月(ふけまち)がくまなく
城内の庭を照らし、涼しい風もようやく立って、生き返ったような夜であった。
一益は鼓を取って「つわものの交わり頼ある中の…」り今様を謡うと、倉賀野淡路守が
「名残いまはと啼く鳥の…」と和した。
互いに抔を交わして別れを惜しんだが、夏の夜は短く、既に明け始めると、滝川一益父子は
「さらば」と厩橋を発った。
小幡、倉賀野をはじめ上州衆は、返された人質までもが道々に警護に立って彼等を見送った。

明けて二十一日、松井田城に着くと、津田小平次、稲田久藏の兵一千余騎に守られ碓氷峠を越え
信州小諸に付いた、そこで一日逗留し、諏訪街道より木曽路を経て、七月一日、伊勢国の領分、
唐櫃島に到着した。

およそ今度の滝川一益の命運ほど、変転の激しいものはなかった。人が予測できるような事では
無かったのに、一益がよくその中を切り抜け生き残ったのは、彼の処世の上手さも在ったのであろうが、
彼自身の誠意が神に通じたのであろうと、人々は噂した。

(関八州古戦録)

滝川一益の、関東よりの撤退について。一益についてはかなり好意的に描写されていますね。



278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 15:42:28.18 ID:weGQo7Ul
鬼武蔵の撤退についてもあるのだろうか
既出とかぶるかな

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 16:33:40.12 ID:OKDUeII+
有能なのに、なぜかドラマ等では地味な一益さん
伊勢攻め自体が描写されないこと多いし
北勢48家とかなかなかおもしろいと思うんだが

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 18:39:46.47 ID:iGxZu7xH
終わり方がね…

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 22:10:29.82 ID:d2rGB6b5
映画の清洲会議ではそこそこ目立ってた

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/20(日) 22:47:39.33 ID:4NQZ+C9a
>>279
真田丸ではそこそこ出番が

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 08:46:49.19 ID:5hhUmyRm
一応、一益の最高役職が関東管領だから!

上見ぬ鷲

2019年10月19日 17:28

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 13:45:37.91 ID:tJZLWrU3
甲州征伐の後、織田信長滝川一益を関東管領としたが、この時信長は関東における一益の行動に
便利なように、総州の千葉介胤富を一味につけようと(ただし千葉胤富は天正七年に死去している。
後を継いだ千葉邦胤との混同であり、以下邦胤とする)、書状に名馬一頭を添えて使者を出した。

ところがこの書状を見た千葉介邦胤は、その内容が無礼であると激怒した

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田へ付いたからと言って、上見ぬ鷲(鷲は他の鳥を恐れず、
警戒のために空を見上げる必要がない。何も恐れはばからぬさま)の思い上がりである!
このような書状をよこすとは奇怪至極、たとえ総州の千葉介邦胤小国とは言え右大将頼朝公以来の
名家であり、関八州に於いていずれの列侯が、わが千葉介の上座に座るというのか。
一時の武威に奢り、誰もが彼になびいて来ると思っているのだろうが、以ての外である。
返事に及ばぬ!」

そう言うと信長が贈った馬の尾を切って道へ放り出し、使者の頭も剃り上げて厩橋へ追い返したという。

(関八州古戦録)

どれだけ無礼な書状だったのか。



271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 19:42:04.34 ID:T3laPqfw
馬が可哀想だと思いました

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 20:53:47.18 ID:YAAZcgX4
一応文章は丁寧だったんじゃないかと推測
信長はその辺バカじゃないし、千葉側も情勢を知ってるし
・人質の要求
・回答期限があった(せかした)
・領地替え
怒るとしたらこんなとこ?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 21:35:28.80 ID:vgH2YXzB
そもそも関東管領にしたって時点で創作だろ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:00:55.59 ID:8Bh4YjPD
別所もそうだけど武士の意地で勝てない戦やらされる家臣はたまらんかったやろうねえ

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:05:53.47 ID:zpNVJK7z
戦国時代は割と簡単に主君を見限ったりするんじゃなかったっけ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/19(土) 23:56:14.14 ID:vgH2YXzB
メンツは命より大事ってのは前近代では普通だったからそこは仕方ないけど

甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は

2019年03月01日 21:08

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 18:57:47.48 ID:g5ewcyU1
(甲州征伐の時)

ここに甲信両国の主・武田四郎勝頼あれば、年来の朝敵をなす故、秋田城介朝臣信忠は信濃に至
り出馬されて、高遠城を取り巻いた。

ここは勝頼の舎弟・仁科五郎(盛信)ならびに小山田備中守(昌成)相践の地なり。川尻与兵衛
尉秀隆(河尻秀隆)は調略をもって即時に攻め崩し、ことごとくこれを討ち果たした。

その勢いをもって甲州韮崎府中に入り、勝頼は一戦に及ぶも堪えず、敗北して天目山に隠れた。
信忠先勢の川尻与兵衛尉と滝川左近将監一益は、かの山中に追い詰め入り、数度の合戦に及ぶ。

武田勝頼・同嫡子太郎信勝・同左馬助勝定(信豊か)・逍遙軒(武田信廉)ならびにかの一族は、
ことごとくその首を討って来た。甲州・信州・駿州三ヶ国が本意に属する旨は(織田信長の)上
聞に達し、よって御動座あり。三ヶ国御一見の時、残る関東・鎌倉の諸大名はことごとく御味方
に馳せ参じたものである。

――『天正記(惟任退治記)』

河尻秀隆が活躍してますね



697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 19:22:02.22 ID:olrrmJYZ
信勝を討ったあとは東美濃で武田に備え信忠の付家老に抜擢され武田滅亡後は甲斐を賜り大出世
ええ奴やったで

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 02:58:55.19 ID:hF8oIddC
>>697
お前何百年生きてるの?

秀吉はこれを識量して

2019年02月20日 18:17

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 18:28:01.04 ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』


すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


伊藤内蔵という者を討つ

2018年12月18日 18:28

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 17:51:17.65 ID:ZMc4njbi
瀧川左近(一益)が未だ匹夫の頃、伊藤内蔵という者を討つ事を、諸人あぐんでいた。そのような中、
ある宮の拝殿で、内蔵がここに参詣する時必ず座する柱が有ったのだが、左近はここに密かに穴を開けておき、
内蔵が社参した時、この穴より鉄炮で撃ち殺した。

この事でその場の人々は大いに立ち騒いだが、左近はその中を何事もなかったかのように退いた。
しかしこの時刀の鞘を落としていたことに気が付き、これを無念に思い、再び立ち帰って鞘を取って
また退いた。
(武功雑記)

肝が座っているのやら座っていないのやら


滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

名馬を2頭も貰った滝川さん

2018年10月16日 21:16

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:15:36.68 ID:aYmZcFzl
天正10年(1582)3月12日に信忠卿(織田信忠)は、武田勝頼父子やその他の首を実検せられ、

滝川左近将監一益の大功を賞し給い、吉光の脇差ならびに“一の日影”と名付けた名馬と金子5百両に
感状を添えて賜り、今回討ち取った首を関加平次・桑原助六郎に持たせて信長公の本陣に参られた。

(中略)

23日、(織田信長は)滝川左近将監一益に対し「今回、武田勝頼父子の首を得たのみならず、軍功は
抜群であるから」と仰せられ、関東総管領を命じて「陸奥・出羽まで賞罰征討を沙汰し、もし決し難き

事があれば徳川殿の御旨を受けて計らうように」と仰せになり、伊勢の本領五郡に添え信濃佐久・小県
二郡を賜り、上野厩橋城に居城するように命じられ“海老鹿毛”という駿馬に脇差を添えて下賜された。

諸人羨まざる者なし。

――『改正三河後風土記』

名馬を2頭も貰った滝川さん



364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 16:42:50.36 ID:hDUMUMtw
>>363
ここで徳川の名前を出してくるのが、いかにも三河な資料…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:41:00.85 ID:3Zo5jnv6
関東管領といえど所領は伊勢と信濃の分国、北条から見ると笑っちゃうレベル

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 17:55:24.80 ID:fORrQkXO
上野は?滝川の指揮範囲全部で100万石近いのでは?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 19:29:05.65 ID:ITZGz8H9
担当地域と領地が違うってのは、考えてみれば北条と似たようなものか

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/16(火) 20:25:23.08 ID:wqAxIbJP
>>366
指揮範囲はともかく、現実としてはほとんど領地を持たず厩橋城などのいくつかの城を確保しているに過ぎなかったので、徹頭徹尾織田政権の存在を前提とした関東管領だな。滝川は。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 06:53:08.18 ID:HviX83N+
傘下の豪族が日和ったら籠城するしか打つ手なくなるよね

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 09:35:00.72 ID:ODXOLop4
そんな事したらその豪族が滅ぼされる

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 12:14:10.41 ID:/rA8Mwv+
信孝は岐阜に籠城するしかなかった

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 23:31:50.48 ID:X8J89QXk
滝川「馬より茶器が欲しい…」

神流川の戦い、戦後

2018年10月13日 17:06

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 16:15:45.83 ID:asM7S4h2
(神流川の戦い敗戦後)

厩橋城に引き返した滝川一益は、今日討死した人々の姓名を書き記して金銀を添え城下の寺院へと送り、
追善供養を頼んだ。その後、一益は上野衆を招き集めて終夜酒宴を開き、自身で鼓を打って謡を歌った。
その後、一益は扇を取り直し「兵の交り頼み有る中の酒宴哉(謡曲『羅生門』の一節)」と歌い舞えば、

倉賀野淡路守(金井秀景)も拍子を取り「名残今はと啼く鳥の(謡曲『源氏供養』の一節)」と歌って
互いに興に乗じた。さて一益は太刀・薙刀ならびに金銀や、その他日頃秘蔵した書画・珍器を尽く取り
出し、上野衆に授けて今日の一戦の功労を賞した。一益は鳥鳴く空も明けると暇乞いし、

「厩橋城を打ち立つ」と言って、人々の人質をすべて各領地へと帰した。上野諸将は皆一益の大勇義信
に感動して涙を流し、倉賀野まで付き添い送った。沼田城では真田安房守(昌幸)が郊外に赴いて迎え、
厚く馳走し諏訪まで送って来た。一益は始めは木曽路を気遣っていたのだが、

木曽左馬頭(義昌)も一益の義勇に感動したのか軍勢を数多差し添え伊勢長島の一益の所領まで送った。
一益が難無く帰国したところ早くも光秀は誅に伏し、三法師丸(織田秀信)は織田殿の家督として安土
に在城していたので一益は安土へ参り拝謁し、つつがなく居城の長島へ帰った。

世人は一益を称して“鬼滝川”と字せしという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い一日目
神流川の戦い二日目



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 18:08:58.32 ID:7+dcbMCb
鬼滝川
神流川

字面的にあってるような

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:54.90 ID:06zbrJY1
コロッケの弟子の神無月がなんだって??

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:50:37.32 ID:JrNRmdHT
立ち振る舞いが爽やか過ぎるのが一益の美点であり欠点だったんだろうか
酷い立ち回りだが武略知略を感じさせる鬼武蔵と逆だったらどうしてたか気になる

神流川の戦い二日目

2018年10月12日 20:16

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:18:19.04 ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』


神流川の戦い一日目
神流川の戦い、戦後
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:39:04.99 ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう




299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:26:57.76 ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:35:21.71 ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:37:00.47 ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 23:20:55.14 ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな

神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


滝川今の一言天晴な盟主

2018年10月10日 19:34

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:45:26.22 ID:87+YFNsB
滝川左近将監一益は織田殿の仰せを受けて関東を管領し、上野厩橋城にあって威名は奥羽までも輝いた。
そこに6月7日の晩景、京都から杉山小介貞次が急使として来たり、織田殿父子横死の次第を告げた。
一益は大いに驚きしばし黙然として伏せ沈んでいたが、ややあって篠岡平右衛門、津田治右衛門、滝川
儀太夫(益氏)の三臣を呼びその事を告げた。義太夫はこれを承り、「これは天下の大事なり。

しばらく隠密に秘せられるのがしかるべきでは」と言った。一益は聞いて、「汝が申すことも一理ある。
しかしながら“好事門を出でず。悪事千里を走る”という諺のようにこれは隠しても一両日も過ぎずに
知られるだろう。他人の口から洩れる時はかえって衆人の疑念を生じ、国中は騒動するであろう。私は

関東所属の諸将を尽く招いてこの事を披露し、これまで預かっていた人質をも返して自身は一刻も早く
上洛し、運を天に任せて亡君の仇を報じる。もし上野の諸将がこの虚に乗じ私を食い止めて討ち取らん
とするならば、それも時節である。一戦して討死するのも義のあたるところ、なんぞ命を惜しまんや。

もしまた諸将が志を変じずに味方すると言うなら、小田原の北条へ使者を立てて北条父子を引き出して
一戦を遂げ、その勝ち負けに構わずに一益は上洛して亡君の弔い合戦をする」と言うと、上野・武蔵の
諸将へ「急いで面議することがあるので早々に参着するべし」と通達した。よって内藤大和守秋宣・

小幡上総介信真・同三河守信尚・長尾但馬守顕長・由良信濃守国繁・真田安房守昌幸・蘆田深谷左兵衛
憲盛・本庄安中越中守・成田下総守氏長・木部宮内定利・上田又次郎入道安独斎・和田右衛門大夫信業・
渋川相模守氏勝・高山遠江守重光・名和対馬守宗元・倉賀野淡路守秀景・五閑刑部らを始めとして、

上野・武蔵の諸将はみな厩橋へと集まった。一益は諸将と対面して、「今度上方で不慮の大変があった。
明智光秀が叛逆して信長御父子は討たれさせ給うとの由の注進があり、一益は急ぎ上洛して亡君の弔い
合戦をせんとす。各々の人質は箕輪城に入れ置いたが尽く返し参らす。各々はこの弊害に乗じて

一益を討ち、それを手柄に北条へ降参せんとするならば只今ただちに一戦して一益の首を進上すべし!
もしまた信義を守り旧約を変ぜず、私めの下知に従わんと思いなさるならば、只今より小田原へ使いを
立てて『厩橋を渡すので北条父子は出馬なされよ。一戦して一益は上洛することであろう』と申し遣わ
すべし!」と言い捨てて奥に入った。その後、諸将は寄り集まって評議し内藤と小幡が一番に進み出て

申したことには、「滝川の今の一言は天晴な盟主と見え、義勇現れしものと覚える。かような事の大切
を少しも包み隠す様子もなく、まっすぐに申し出して我々の人質を返さんと言われては我々はどうして
不義の振舞いができよう。ただ一筋に同意して死生を共にする他ない!」と言い、諸将ももっともだと

これに応じた。その旨を滝川儀太夫を取り次いで返答すると、一益は聞いて再び諸将に対面し「各々の
義信、誠に感悦するところなり。一益は主君の弔い合戦を急ぐといえど上方近くに信雄・信孝の御兄弟
がおられ、柴田や丹羽など譜代の歴々が数多いるゆえ賊臣・光秀が誅に伏すのは一益の上洛を待たない

だろう。ここに北条氏政という表裏者は、信長公御父子が討たれ給うと聞けば早速旧盟を変改し、この
弊害を幸いと一益を討ち取る謀を巡らすのは必定だ。敵に先を取られる前にこちらから小田原へ使者を
遣わし、厩橋を渡すと申し送れば氏政父子は早々に出馬することだろう。その時に一戦して上洛するか、
一益が討死するか、運は天に任すべきと思うがいかがか」と言った。諸将は聞いて「仰せもっとも義の

当たるところ、誰が否と申しましょう」と返答した。よって同じく11日に蔵田小次郎を使者として
小田原へ遣わし、翌12日に小田原へ参りその旨演説すると氏政父子は「これ天運の賜物」と大いに
喜び「早々に出馬して受け取る」と答えた。小次郎が馳せ帰りかくと申せば一益は「そうだと思った。
この上は運の程を試すとしよう」と言って用意した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:13:28.21 ID:CHjRchcL
ええ話というかどこか要領の悪さを感じるな
織田家臣団の中で秀吉や光秀と熾烈な出世競争してきたタマとは思えない
しかも散々こねくり回して負けとるやないか

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:17:47.85 ID:dpeX0mQH
>>333
ここまではカッコイイんだよなぁ…。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:19:47.68 ID:YIy1byHU
坂井政尚だっけか
息子を亡くし意気消沈して戦死したように、一益も信長という希望を失って気が抜けてしまったのかもね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 22:02:04.57 ID:fsWVmvMn
勝家も一益も還暦前後の爺さんだからなぁ…

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 02:32:41.67 ID:+bk2wro/
>>337
そもそも滝川一益は引退させてくれと信長に頼んでるししゃーない

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:22:35.82 ID:yxuOoXB8
絶頂期が終わったら後は下り坂