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水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで

2018年07月05日 12:48

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで


908 名前:sage[] 投稿日:2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk
父親大激怒。

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
https://blogs.yahoo.co.jp/tachanace/40076741.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか
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柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)


義太夫が心剛であり

2018年05月10日 18:25

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 22:01:45.51 ID:wx5+9+Fx
滝川左近将監(一益)の家臣に、滝川義太夫(益氏)と云う者があり、彼は左近の甥であった。

羽柴秀吉と滝川一益が戦った時、伊勢国嶺城に人数1200ばかりにて立て籠もったのを、
秀吉より仙石権兵衛、木村常陸、脇坂中務、服部采女、筒井なにがし等、八千余騎にて
45,6日に渡り攻めたがこれを落とすこと出来ず、金堀を入れて地中より攻めようとした。
しかし城方はこれに気が付き、城中に、羽柴方が掘り進める方向に横堀を作り、
焼き草に鉄砲の火薬を混ぜてここに入れた。
羽柴方の金堀が城中に掘り入ると、これに火をつければ、金堀たちは残らず焼け死んだ。

秀吉はこれを無念に思い、四万余騎の軍勢にて自ら采配を取り、
「この程度の小城、手で揉んで揉み殺すべし!かかれ者共!」と下知して攻めたが
落とすこと出来ず、48日の間に、秀吉方の死傷者は2万ほどにもなった。
しかし城中も、死傷者7,800人にのぼった。

滝川義太夫は心剛にして隠れ無き鉄砲の上手であった。
この籠城戦、後半は弾薬兵糧もなく、18日間を持ちこたえた。
そのうち、城内では馬や人をも食料としていると、秀吉にも聞こえてきた。

秀吉は義太夫を惜しみ、滝川左近にこのような使いを立てた
『義太夫は城中に弾薬兵糧ももはや無いようだ。押し殺すのは容易いが、あのように
城を今まで持ちこたえたのは、古今の名人である。彼に城を明け渡すように申して欲しい。』

これに左近は「尤もである。私も彼を不憫に思っている。」として、
義太夫に対し使いを立て、『急ぎ城を明け渡すように』と伝えた。
これに対し義太夫は
「左近様の自筆の書状ならば渡しましょう」
と、返答した。

その後、左近は自筆の書状を遣わしたため、義太夫は城を明け渡した。
この時秀吉は義太夫に言った
「左近はどうあっても討ち果たす。お主は我が方へ来い。五万石を遣わす。」
これに義太夫
「忝ない仕合、身に余ることですが、左近が生きているうちは、例え百万石を下されようとも
参ることは出来ません。御免なされ候へ。」
そう断った。
秀吉はこれを聞くと
「汝の心中であれば、左近が生きているうちはこれを見届けるであろう。
その間は、町人にでもなっておけ。」
そう言って、黄金二千枚に感状を添えて与えた。

嶺城は非常に小さな城で、亀山城などに比べると大変に劣るものであったが、これを保ったのは
義太夫が心剛であり、また分別深い人物であったからだと、人々は語った。義太夫はこの頃、
51,2歳であったという。

一方の亀山城には大野左次と言う者が大将として、二千ばかり籠め置かれていた。
秀吉は1万ばかりで押し寄せ、10日あまり攻めると、左次は叶わぬと思い城を明け渡し
滝川左近の居城である長島へと逃げ込んだ。
しかし長島において
「この者比興者である。二十日も城を保てず逃げ来ること、士たるものの所業ではない。」
そう批判され、同国大島という所にて切腹させられた。
惣じてこの左次は、常々心がけが薄かったが。終に主の役に立たず犬死したと、人々は語った。

(祖父物語)



883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 00:09:39.86 ID:I159reua
前田慶次郎の父親?かもしれないとしか知らなかったけど
ちゃんとエピソードあるんだな

少年のときは少年のように

2018年04月25日 15:39

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 00:02:36.86 ID:PxqwokfF
少年のときは少年のように


滝川一益の士に井口又兵衛という武功の者がいたが戦死してしまった。
その子供が十二、三歳になると、一益のお茶取りとして仕えるようになったが
十七、八ぐらいの小姓が無礼をして、井口が持っていたお茶をこぼさせた。

井口は相手に構わず懐紙でよく拭いてから下がったが
その後、次の間に件の小姓を呼び出して刀で突き刺した。
傍輩どもが騒いでこの事を一益に申すと、一益は涙を流し
「よくもまぁ父に似ない奴だ、何の役にも立たないだろうな」
と申されたので、近習の士どもが不審に思い
「井口の振る舞いは老士でも出来ない程のことです。
 どうしてそのようなことを仰せられるのですか」
と申すと、一益は
「だからこそだ。今年十二、十三で老士のような振る舞いをする者が
 年を取って何の役に立つだろうか。少年のときは少年のように
 後先考えず粗忽に働いてこそ、働きぶりがしっかりしているところと
 そうでないところが自然と分かってくるものなのだ。年の功を積んで
 不甲斐ない働きをしてきたことを悔やみ、よく働くようになる者もいれば
 粗忽で勢いだけの無分別な者が、老後に分別が出来るようになることもある。
 若いときと老いてから、そのときどきの拍子序破急があってこそなのだ。
 今から分別しすぎた振る舞いをする者は、年を取った後に隠居や法体
 世捨て人のような士になってしまうだろう。それは私の欲するところではない」
と言われたという。


――『筆のちり』


小柄な馬を用いるべき

2017年11月01日 23:14

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 20:29:31.41 ID:jQaAtfFj
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:17:19.48 ID:l2YmBqit
何で四尺二寸で160センチなの?

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:22:14.12 ID:NdoPDHxu
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:09:43.86 ID:fV6F543b
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:54:13.10 ID:l2YmBqit
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:58:46.64 ID:gmo4JNSz
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:27:09.34 ID:5JFwwVmX
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:32:22.91 ID:5JFwwVmX
孔子じゃなくて曾子だった

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:06:32.63 ID:YQViDZEX
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:22:39.68 ID:HrvqbaGt
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 02:13:14.33 ID:P79UcJ+O
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 11:39:43.34 ID:qp2MZxTP
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い

一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


滝川はよく察したようだ

2017年05月13日 17:37

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:16:00.86 ID:mIfYNUY+
太閤が岐阜を御攻めになった時のことだろうか。滝川左近(一益)は7寸ほど
の黒の馬に乗り、斥候に出馬した。

太閤は御覧になり、「滝川自身が物見に出るのは夜討ち致す心積もりなのだ。
容易には打たれまいぞ」と仰せになり、太閤の御備に柵を御付けなさった。

滝川はこれを見ると、「秀吉はこちらへ夜討ちする心積もりのようだ」と言って、
その場所から3里引き取った。

太閤はその時に仰せられて、「滝川の備へ夜討ち致そうと存じたが、滝川は
よく察したようだ」との御事であったという。

両方の大将の思慮は、符節を合するが如し。

――『武功雑記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:20:22.70 ID:Wq27HkK7
7寸の馬に乗るって何者?

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:47:13.60 ID:UMYW+heA
>>897
人間の身長と同じで尺を省略してるだけじゃないのかな

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 09:01:40.12 ID:uVKdKg7z
普通のサイズ+7寸 じゃなかったっけ?

901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/13(土) 10:21:14.93 ID:8PuObztG
標準体高が四尺でそれを超える分を寸で数える

与えなかった者の馬は

2016年07月25日 13:46

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 02:35:17.88 ID:8T2sXMC4
滝川一益が武蔵野合戦(神流川の戦い)に打ち負けて撤退した時、
極暑の頃だったために馬はたいへん疲れ、全身が汗にまみれた。

川を馬に乗って渡る時、馬に水を与えた者と与えなかった者がいた。
水を与えた者の馬は、10町ほどでみな行き倒れたのだが、与え
なかった者の馬は、別段の支障はなかったという。

――『武将感状記』



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:38:19.20 ID:qe87IzyC
体育教師「よし、運動中は水飲むなよ!」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:44:13.86 ID:Ej7RqOj7
>>914
なんでだ?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:47:28.36 ID:qe87IzyC
人間なら水だけで塩分与えないと帰って血中の塩分濃度が低くなり、
血中の塩分濃度を高くするために体外に水分を出そうとして
水を飲むとよけいに脱水状態になるとか

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 08:02:43.74 ID:JZ2D5XOT
水中毒ってやつか
水ばっかり飲んでるとバテるぞとよく言われたっけか

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 17:20:06.39 ID:8xAJT9gO
ノドが乾いても水を飲ませてもらえず
疲れたら馬針で脚をブスブス刺される
戦国時代の軍馬は地獄だぜぇ

鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


滝川一益「服が乾くまで暫く待って下さい。」

2015年10月17日 12:22

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 00:35:30.38 ID:T1GsVD9m
ある老人の語ったところによると。戦国の頃、衣服も質素であったのは言うまでもないことで、
滝川左近一益が関東の管領として厩橋に至ると、諸将が対面のため駆けつけたが、その時

「ただ今一つある衣服の、垢の付いたのを洗ったため丸裸なのです。服が乾くまで暫く待って下さい。」

そう言ったと語り伝えられている。
しかしその後泰平に成って、衣服も美々しくなったが、寛文の頃までは、なお戦国の遺風があって、
金銀や利潤のことを語るのは武士の恥だと心得てしなかったものだ。

酒井雅楽頭忠清が大老であった時、春の末の頃のこと、殿中で下に着ている服が汗で濡れたのを、
休所の欄干にかけて乾かしていたが、その服も所々継当てられていて、とても見苦しいと、
帰宅してから語った。

ところが衣服を司る老女がこれを聞いて
「時が移って君は驕ってしまった!私が生きている間にこんなことになるなんて!」
と、絶句したという。
これは厳有院様(徳川家綱)の時代の事だという。

(明良洪範)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 09:58:29.29 ID:HCgkqS4U
おあむさんげきおこ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 10:01:50.91 ID:2u0qoykE
裸に鎧着用で問題なし

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 11:21:48.13 ID:Ot3kUTrA
蒸れ蒸れっすよ

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 17:37:17.09 ID:Usi9GtWj
???「衣服も鎧も必要なし!編み笠ひとつあればそれで十分!」

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 19:34:36.42 ID:r0DXq3kg
天海「時の流れには逆らえんな」

滝川一益の転落

2014年05月23日 19:07

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:20:11.04 ID:RWbobTCw
滝川左近(一益)は、関の城、亀山の城、長島の3ヶ所を所領する大名であった。

羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた時(賤ヶ岳合戦)、一益は勝家の後巻をしようとしたのだが、勝家敗れるの報を聞くと、
秀吉に降参をした。

後、秀吉と織田信勝との関係が悪化し合戦となった時(小牧長久手合戦)、秀吉に対して抜群の忠節を成そうと思い、
この頃、蟹江城は織田信勝・徳川家康方の城であったが、この城主と内通して心変わりをさせ、一益はこれに入城
しようとした。

伊勢より船に乗って向かった所、蟹江城の周辺ではにわかに潮が引いて、船が着岸することが出来なくなってしまった。
この頃一益は病中であった事もあり、肩輿に乗ってようやく城に入り、従う者達も多くは入城できず、船に乗ったまま
海に漂っている状態であった。

ここに、徳川家康が急襲を仕掛け皆殺しにした。一益の身はあつかいと成り、信雄・家康の味方となって、
秀吉のことを謀ると約束し、生命は助かったが、自身もあまりの事と思ったのか、妙心寺に入って落髪、出家した。
その後一益は、越前において死んだそうである。

信長の時代、天下の政道は4人の手にあった。すなわち柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、である。
滝川一益の武勇は無双の名があって、度々関八州を引き受けて合戦した。関八州の者は、滝川の名を聞いただけで
恐れたほどであったのだが、末に至って散々の体となったのである。

(老人雑話)

滝川一益の転落についての記述である。





滝川さんのちょっとした勇み足

2014年05月19日 19:11

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:32:52.16 ID:0+1esdaL
滝川一益が、伊賀国衆を退治したとき、
つづけて甲賀に陣を張り、重ねて信長に使者を立て、
「甲賀衆をこの際、退治いたしましょう」
と申し上げた。

信長はこれを聞き、
「滝川は武勇の士なりと言えども、情を知らぬ。
甲賀は己の本国生地であろう。
例え信長が退治を申しつけたとしても、詫び言いたすべき所を、
是非退治を、と申す様、不道である」
と、言い、その後はあまり賞を与えなかった。

                  『異本小田原記』

滝川さんのちょっとした勇み足の話。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:37:21.33 ID:K9ROe21Z
滝川さん身内に恨みでも合ったのかね

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:20:06.06 ID:bJIgUvyy
そらまぁ、尾張まで流れていって就職したことを考えると、故郷ではあんまりいいことなかったんじゃないの

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:25:08.88 ID:HCLvtvw2
だから珠光小茄子が貰えなかったのか・・・

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:29:11.27 ID:YDeANWAP
その後はたったの上野一国しか与えなかった

339 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/18(日) 22:32:17.98 ID:EKkKofWP
上野一国って、地理的条件を除けば悪くはないんじゃね?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:44:20.52 ID:Wh8Oshgl
上野一国って言うけど、信長は上野国衆の領地はほとんどそのまま認めているから、
一益は直接的には厩橋城とその一部の枝城程度しか支配できていないんだよね。
滝川一益の関東支配は、信長の威光あっての限定的なものでしか無く、一益が嫌がったのも
わからんでもない。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:45:33.85 ID:w+UXueac
そんなこと書き込むと現代の真田家当主が悲しむぞ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:51:44.85 ID:AD5N25Fc
最初は認めて~は上野だけの話じゃ無いし

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:37:09.87 ID:dkjLWj4b
本能寺の後に上野の国人集めて、光秀を倒すために国へ帰るけど
北条に味方して私の首を討ちたい者は遠慮なく攻撃していい
と言い張った一益は格好いい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:52:48.66 ID:VEUi/lf+
>>343
まあ実際には普通に秘密にしてたらしいけどねw
上野の国衆には北条経由で本能寺の件は伝わった。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 04:43:27.53 ID:onfILAIp
>>340
そういう言い方するんなら、一益がもらったのは「関東」だぞ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:03:48.84 ID:XYhB37jT
>>345
だから、権限と実態が乖離しすぎてる、って話じゃないの?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 00:22:31.15 ID:zo2Jw5KY
>>346
直轄領の大きさについての話にしか読めないが

人の徳

2014年05月05日 18:08

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 04:43:19.79 ID:CtjeyP82
人の徳

織田信忠に従い武田勝頼を破った滝川一益は功績により上野と北信濃を新領として織田信長に与えられた

一益は厩橋を居城に定め、上野の国人衆に従来の本領を安堵する約束を行い、合わせて武田家滅亡により
上野に逃れていた武田の旧臣らに対しても「一益は関東には不案内。地の利は生まれ育ったその方らが
断然に詳しいだろうから是非に力を貸してほしい」と融和策を敷いた

信長が本能寺の変で斃れると、一益は上野の主だった城将や国人らを集め
京の本能寺で明智光秀の謀叛により信長親子が死んだ事を述べ
滝川一益は上野を離れ上方へ戻る。信長公の弔い合戦に臨むつもりである。
これを好機と感じこの一益の首を獲り北条へ寝返ろうと思う者は遠慮なく申し出よ。恨みはせん。
戦いを仕掛けてくる者とは一戦交えてでもワシはなんとしても光秀を討ちに西へ進む」と思いを吐いた

北信濃の藤田信吉が離反し
時を経ずに北条軍が上野へと侵攻を開始

一益の漢気に感じ入り「武士の鏡」と滝川一益が上野を離れるのを惜しみ、反北条の意を表した上野衆もいた

一益は上野の国人らを城に招き、別れの酒宴を開くと城の宝物を惜しみもなく与え、箕輪を後にした

一益は北信濃から尾張を目指したが、道中の木曾義昌が滝川勢の通過に難色を示した

一益は真田昌幸らから預かっていた人質を義昌に渡す約定を取り付け、信濃路の通行の権を得た

清洲についた時には一益抜きで織田家の指針を決める「清洲会議」はすでに終わっていた

織田家内での一益の権威は清洲会議を境に大きく失墜したが
森・毛利が全面的に敗走し、河尻が討たれた織田家の東国前線にあって
関東調停役としての人柄を見せた
滝川一益の没落に関してのお話

215 名前:214[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 04:49:47.40 ID:CtjeyP82
「一益は~」の書き出しばかりで読み辛くてすみません

…藤田信吉の所領
北信濃と書いてしまいましたが、もしかして…北上野?




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 09:25:05.77 ID:IFd5Lhkm
一益帰る前に北条と一戦交えて敗れてるがあれは必要だったのだろうか
軍団率いて信濃は通れなかったとしたら結果オーライだろうが何とも勿体ない

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 10:22:02.79 ID:CtjeyP82
>>216
北条軍は5万、滝川勢は上野衆を交ぜて2万。
上野衆にとっても火事場泥棒に似た北条軍に地元を好き勝手にさせるわけにはいかなかったから
「いくさ」という形での意地(抵抗)を滝川一益への付き合いとして、最後の奉公と上野衆の誇り代わりで
示したのでは?

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 10:24:41.90 ID:CtjeyP82
長野業正の亡き後の上野は軍神・信玄・北条の草刈り場にも似た雰囲気みたいだから…

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 15:48:30.22 ID:PTPkC1JZ
真田昌幸「俺のターン!ドロー!」

蟹江城と漢たち

2014年02月23日 18:59

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:34:10.18 ID:wlbpESpp
蟹江城と漢たち

小牧・長久手の戦いにおいて惨敗を喫した羽柴秀吉は、方針の変更を迫られることとなった。
両軍の陣地構築により膠着状態となった尾張北東部から伊勢・尾張南部に目を向ける。
当時、徳川家康は尾張の清洲城、織田信雄は伊勢の長島城に拠って各々指揮を執っていた。
秀吉は両者の連絡を断ち切るため、清洲・長島の中間にある蟹江城の奪取を計画する。

この計画の実行者にふさわしい者が陣中にいた。蟹江城の元城主で、先年秀吉に敗れ軍門に
降っていた滝川一益である。

一益はまず志摩水軍の九鬼嘉隆を調略で味方につけ、海上からの攻撃を可能なものとすると、
蟹江城内部の工作に取り掛かった。

この時、蟹江城を守っていたのは、佐久間信盛の子佐久間信栄である。折りしも信栄は信雄
の命により、伊勢萱生砦の修築に赴いており、城主不在の状態であった。城主留守の蟹江城は、
本丸を信栄の叔父佐久間信辰(信直)が、二の丸を信盛の妻(おそらく信栄の母)の弟である
前田長定(種定)が守り、その周辺の支城には、前田城に長定嫡子の前田長種、下市場城に長定
弟の前田長俊(利定)、大野城に信栄股肱の家臣である山口重政がそれぞれ配置されていた。
また、蟹江城本丸には信栄の妻子とともに、人質として各支城の家族が集められていた。
肉親と股肱の家臣に留守をまかせた信栄であったが、実はこの肉親は敵方の肉親でもあった。
前田長定は秀吉方として北陸で戦っている前田利家の本家にあたり、かつ嫡子長種の妻は利家
の子幸姫であった。信栄はこの点を考慮すべきであったかもしれないが、やむを得ないだろう。
つい数年前までは同じ織田家中で敵と戦っていたのである。攻める側の滝川氏でも一益の娘婿の
滝川雄利が信雄家老としているのであるから。

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:35:32.39 ID:wlbpESpp
さて、一益は当然のことながら、味方に繋がりのある前田長定に狙いをつけた。事前に加賀
前田家からの工作もあったかも知れない。長定はあっさりと内応を承諾した。自身だけでなく、
前田城の長種、下市場城の長俊も誘い、前田一族総出で裏切ることにしたのだ。だが大野城の
山口重政には事前勧誘をしてはいないらしい。裏切りの可能性は低いと見たのであろう。

天正12年(1584年)6月16日、長定が上げた狼煙を目指し、九鬼水軍の軍船に分乗した滝川軍
三千が蟹江城に迫った。長定の誘導によりそのまま二の丸を占拠する。そして、本丸の信辰に
城の明け渡しを要求した。激怒したのは信辰である。信栄の妻子を刺し殺し、城に火を放ち
自身は自害すると言い放ち、要求を突っぱねた。一益・長定としては、一刻も早く城を奪取
したい。交渉を繰り返し、長定の子を人質に出し、信栄の妻子の安全を保障することで本丸
確保に成功する。信栄の妻子は信辰に守られてこの日のうちに城を脱出した。

蟹江城陥落と同時に前田・下市場両城とも秀吉方となり、残るは大野城である。重政の母を
人質にとった長定は使者を遣わし重政に寝返りを勧める。だが重政は「信栄に対して二心は
抱けぬ。我が志を分かって母は殺されても恨みはしまい。己は城を守り信栄の恩に報いる」
と答え使者を追い返した。と同時に、信栄・信雄・家康に急を報せた。

報せを受けた家康は折りしも入浴中であったが、すぐに浴衣を着込むと馬を駆った。後を
追えた者は井伊直政ただ一人であったと言う。往時の織田信長を髣髴とさせる動きである。
信雄もことの重大さをよく分かっていたのだろう。いつもの彼らしからぬ(笑)機敏な動きで
駆けつけた(まとめ・信雄の奮戦 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6917.html)。

滝川一益らも手を拱いていた訳ではない。援軍到着前に大野城を落とそうと川を遡上して
攻撃したが、船に松明を投げ入れられ数隻が沈没、上陸した部隊も城兵と井伊直政の軍に
破れ撤退し、一益は蟹江城、九鬼嘉隆は下市場城に逃げ込む。

早くも6月18日夜には、下市場城が陥落、嘉隆は海上に逃げ、裏切組の長俊は斬られた。
23日には前田城が落ち、長種は逃亡、織田・徳川方により海上は完全に封鎖された。
信栄を先陣に22日より始められた蟹江城包囲戦は、篭城した一益らの奮戦により多くの
死傷者が出たが、早急な援軍が見込めないと悟った一益は和睦を受け入れ、7月3日に
至り開城した。人質となっていた重政の母は無事開放された。一益も無事退去できたが
裏切りの張本人である長定は命を全うできなかった。逃げる途中で妻子ともども殺害
されたのである。後世の史料では一益の命令で斬られたということに変えられてしまって
いるが…。

こうして蟹江城は奪還された。秀吉は7月半ばに尾張西部から総攻撃をかけるつもりで
いたが間に合わなかった。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:37:05.41 ID:wlbpESpp
だがしかし、戦いの後、佐久間信栄は織田家中における家老の地位を守り抜くことは
できなかった。蟹江城失陥の責任を問われたためではない。蟹江城の戦いのおよそ
一月前の5月、京都で謀反が発覚し、多くの公家が逮捕されるという事件が起きた。
首謀者は佐久間道徳、信栄の弟とされる人物である。秀吉は影で道徳を操っていたのは
信栄に違いないと考え、織田信雄との和睦条件に信栄の自害を加えてきたのである。
このため、信栄は信雄のもとを離れ、佐久間家の旧領三河国笹原に隠れ住んだ(三河の
うち現豊田市中心部は以前から織田領であり佐久間氏が勢力を扶植していた)。
こうして信栄は武将としての人生を終えた。後に赦され豊臣、徳川と仕えるが茶人、
御咄衆として仕えたのであり、武将としてではない。居城失陥が彼の戦績の最後であった。

残された佐久間家の人々は織田信雄に仕え続けた。信雄改易後は、蟹江での戦いが縁と
なり、徳川に仕え、佐久間信辰は後に館林城の留守居役となった。その息子は信栄の養子
となっている。山口重政は苦労に苦労を重ね大名の地位を維持した(まとめ・ある若者の
その後の運命 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8237.html)。

敗者のうち前田長種は加賀国に逃れ、加賀八家の一つ前田対馬守家の祖となった。後年、
微妙公こと前田利常を養育している。

滝川一益はまもなくこの世からふっと消えていった…
(まとめ・滝川一益の最期 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3242.html)


夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと


蟹江城は翌天正13年(1585年)の天正地震により壊滅し、今はただこの地にかつて城が
あったことを示す石碑が立つのみである。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:20:02.12 ID:Y7fu0rke
ここはいつからチラシの裏になったの?

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:36:11.08 ID:f27vMd/J
>>567-569
原典ないけどこれ小説なの?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 00:58:26.11 ID:JJQL3nwu
創作物の投稿は守備範囲外だよなぁ

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/23(日) 06:11:57.79 ID:pfIwyu7K
前投稿された藤堂高虎の主君替えシリーズもほとんど小説ぽかったような

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 07:51:14.88 ID:7Kqo9BzW
なんか創作っぽいやつは高確率で徳川が絡んでんだよなあ

滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと

2013年10月24日 19:18

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:12:12.73 ID:JWtR0ukI
滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと。伊藤内蔵という者がいて、
多くの人がこの者を討ちあぐねていたところ、

一益は思案して、ある宮の拝殿に伊藤が参詣する時に座るところの柱に
穴をあけておき、伊藤が社参した時にその穴から鉄砲で撃ち殺した。

これに立ち騒ぐ諸人の中を一益は障りなく退いたのだが、
刀の鞘を落としたことを無念に思って引き返し、鞘を取って退いた
ということである。

――『名将言行録』




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:15:30.31 ID:EkpOBQfM
どこからつっこめと

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:35:40.34 ID:I65kX809
ケツからだろう

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:43:53.36 ID:2dc+yolJ
なぜ鞘だけ落としたw

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:57:23.67 ID:F3ZUhnVt
ノブ野望で滝川一益の鉄砲ステータスが高いのはこの逸話のせい?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 19:59:45.10 ID:p0HZ9wCZ
××人皆殺し!とか書いてあるから貶してるのかと思ったら
実は、カッケー!スゲー!!ってアゲてるんだった、なんて話を聞いてから
こういう話をどう受け取ったらいいのか分からなくなった…。

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 20:53:18.98 ID:+3FCDnJC
書かれてないけどこれは上意討ちか何かで、
首をとる必要があったから、その時に鞘を忘れたってことなのか?

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 21:00:15.42 ID:vQURCEwh
穴のあいた柱って残ってないのかな
つか穴あけてる最中に来たら間抜けだな

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 23:34:19.32 ID:UDBh0w+w
いまだ匹夫というか、やり口がまさに匹夫としか

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:48:56.43 ID:/qbf96ER
鞘だけ落としたってことは、抜き身で腰に差していたのか?
それとも抜き身をぶら下げて帰ろうとしたのか?

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 04:55:42.87 ID:95vLKmEi
『武功雑記』巻十(p33)にも同様の記述あり
http://bushomemo.blog.fc2.com/blog-entry-700.html
だそうだ

千葉良胤、織田信長からの勧告状に

2013年10月20日 19:15

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 10:52:19.68 ID:cEfgxVoU
天正10年(1582)、甲斐武田家を滅ぼした織田信長は滝川一益に関東を任せる。
そして関東での一益の行動を便利にするため、下総の千葉良胤(原文では胤富)に、一益に従い
協力するようにとの勧告状に、名馬一等を添えて使者を出した。

千葉良胤はその勧告状を見て、激怒した。

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田に従ったからといって、これは上見ぬ鷲の思いあがりというものである!
こんな文書をよこすとは、奇怪至極。

たとえ総州の千葉家が小国だとはいえ、右大将頼朝公以来の、武家の名門である。
関八州において何れの列侯に、我が千葉氏の上座に座るものがあるだろうか!

一時の武威に奢って、誰も彼も自分に靡いてくるなどと考えるのは、もっての他の事である。
このような書状、返事に及ばぬ!」

そう言うと信長の送ってきた馬の尻尾を切って通に放り出し、使者の髪を剃り落として坊主にし、厩橋に返したという。

(関八州古戦録)




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 21:36:20.14 ID:EJUFdxRT
>>530
馬は献上品ということにしてもらっとけば良いのに

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 03:48:20.34 ID:tQ2ARwAR
>>530
実在の疑われる良胤はないと思うわ
仮に実在したとしても、この時期は奥州に追放されてた頃だろうし
あと良胤は大の信長贔屓で、それが原や北条に嫌われて追放されたことになってる

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 10:51:37.39 ID:qix5bUKE
というか
「関八州において~」
って、この時期の千葉氏って小田原北条氏の支配下、とまではいかずとも、庇護下みたいなもんなんじゃないの
胤富亡くなってるし

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 18:11:41.05 ID:qghfbuzv
しかし、なぜ北条は直重をあのまま入れて千葉を乗っ取ろうとしなかったんだろ?
直重を追い出せるだけの力が原にあったとは思えないけどなあ

滝川一益「私の紋は殿より」

2013年02月25日 20:05

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 08:25:16.70 ID:Ej/xhwgj
ある時、織田信長の御前で家臣を集めての酒宴の席でのこと、
滝川一益がこのようなことを言った

「私の紋は殿より一つ少ない4つですが、それでも立派に立っておりますぞ!」

これは説明が必要であろう。信長の家紋といえば有名な織田木瓜であり、
これは5弁の木瓜なのだが
http://www.harimaya.com/kamon/column/mon2/mokko2.jpg
mokko2.jpg

滝川氏の紋は同じ木瓜ながら、4弁なのである
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/buke/takigawa.jpg
takigawa.jpg

これを聞いた信長は機嫌を害したように
「何だ、お主はわしに立ち向かう気か!?」
と言ったが、一益は

「いいえ、殿を上に立てるのでございます。」

そう見事に受け答えたという。
(家紋逸話辞典)




523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 11:05:58.86 ID:QScXydi2
馬上でもウンコはできますぞ!

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 12:42:26.47 ID:uh+jpmGk
(`Д´)いい加減尻の話はやめい!

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 14:16:56.08 ID:DwgtOsy9
木瓜を尻の○と申すか

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 15:51:03.73 ID:Lyn37Doj
ちょっと待て家紋が木瓜の人にマジ謝れw
因みに我が家は何の変哲もない丸に木瓜だ

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 17:28:52.12 ID:Ub5n/s1R
たしかに>>525は浅はかで失礼だよな(笑)
木瓜紋が全国何人いると思ってんだという


「つんつくおどり」

2012年11月29日 19:51

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:49:05.47 ID:7gcmoWU5
「つんつくおどり」
現在も四日市市日永地区に伝わるこの踊りは、
滝川一益が起源に関係していると言われているようです。

説は2つあり、1つは滝川一益が母の隠居所を実蓮寺境内に建築する際に、
地固め工事に歌った歌謡と動作を元にしているというもの。
もう1つは、滝川一益が毎年大雨のため田畑が流出してしまう農民の困窮を見て、
天白川の堤防を築き、その際の地固め、地つきに歌ったという説です。

そしてその踊りがどんなものかというと、天明八年(1788年)の司馬江漢の日記には、
「十二歳から十七歳の男女、手と手をとり、輪になってツンツクツンツクとて踊るなり。
中に十五、六の男の子、白きさらしの手拭いをほうかむりして、うたをうたいて太鼓をたたく。
(中略)その夜も前夕の通りツンツク踊あり。踊と云うには非ず、
ただ手と手を取り、伸びたり屈んだりするのみ。誠に田舎の踊りなり」とある。

こんな思春期の少年少女たちがドキドキできる
マイムマイムみたいな踊りを滝川一益が作っていたとは。
ちょっと面白かったのでいい話に。




信雄の奮戦

2012年10月21日 19:29

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 22:21:38.38 ID:EFQoOfEl
信雄の奮戦

小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた

『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった

「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した


家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:18:40.19 ID:2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:37:44.12 ID:k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが

駿足の家康

2012年01月10日 21:59

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/10(火) 17:38:30.97 ID:wNhN+rjs
駿足の家康

小牧長久手の戦いの最中、蟹江城が滝川一益に調略され秀吉方となると、
一益は九鬼嘉隆と共に三千の兵を率いて、まず一益が五百の兵と共に入城し、
次いで大野城を攻め始めた

このことを近場にいた井伊直政が家康に報告するために清須城に向かい、
入浴中の家康に告げると、家康は報を聞くなり浴衣のみを着て蟹江へ出陣し、
蟹江にいた一益と船上の嘉隆の間を分断してしまった

この時、随身したのは直政のみ、途中合流した五百余のみで行われたこの行動は
後に家康一代の勝事と言われた




375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/10(火) 19:16:01.18 ID:scpl3IOl
>>373
褌もはかずに出陣したのか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 00:15:18.56 ID:30dwQ4ZC
アーッな事する前だったろコレ

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 00:49:12.37 ID:ie1TmtpU
>>373



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   l:,;'"`'、,    .ニ=ミ..  ヾ= 〈  /         l   |  混ざりたいのか、家康?
.   ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン  .., .:::'''"゙, ./      ィ   ,l  .!
    l;゙、',.::l;;;i ///// r   ヽ./// l,/,..     r'`ニニヽ,  .l'、
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378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 02:58:07.39 ID:3MNtkTbt
機を見るに敏な家康の話だったのにカワイソス
やっぱ家康は戦うまいな。
三方原の時は寡兵で若かったが小牧長久手以降の家康なら信玄も倒せると思う。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 03:00:46.90 ID:a1Fv7SHC
家康の戦の真骨頂は機動性と隠密行動の巧さだね。
そのへんは信玄に大いに学んでいると思う。

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 03:30:51.62 ID:B6xEIrgn
石橋を叩いても渡らないと思われている割に
勝機を逃さないのは見事だな

天下人になるだけの才能は持っていたって事なんだろうな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 09:05:37.24 ID:tYXbS7EK
>>377
謙信さん畠山さんと仲がいいですねw