一つとして難ずるべき所無し

2017年06月09日 18:40

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 18:36:19.82 ID:ezl2clO7
竹中半兵衛には、若くして弓矢巧者の評判があった。

織田信長の時代、柴田滝川といった人たちは寄り合いで
「若輩者に何ほどのことがあるだろうか。いつか竹中に出会った時、弓矢の詮索だてを致せば、
一句も言えずに理に詰まるだろう」
などと彼を評していた。

そのような折、羽柴秀吉は中国より竹中を使者として、信長に仔細を言上するため京に上らせた。
柴田たちはそんな寄り合い話をしていただけに、内々に竹中と参会したいと望み、「ならば招き入れて
一献を勧め、そして詮議をも致そうではないか。」と、竹中を柴田の所へと招待した。

その場において一礼の後、柴田がまず言った
「この度、中国において毛利家との対陣の様子、筑前(秀吉)の思惑などを話してみよ。」

竹中聞いて
「私は筑前殿よりその思惑を承ってはおりません。何事を申せるでしょうか?」
そういって、それを語ることを辞退した。
すると柴田は重ねて

「ならば筑前の思惑は差し置き、そなた自身の考えもあるだろう。御辺の思惑、如何様に
この戦をすべきか、それを語られよ。」

竹中、止むを得ずして、毛利家弓矢の風情、此の方のあしらい方、双方の考えといったことを
一々に説明し

「未だ上様(信長)に、筑前殿よりの使いの趣を言上いたしておりません。先ず御前を済ませたいと思います。」
そう挨拶して出ていった。

その場に居た、柴田、滝川、丹羽、佐久間といった歴々は竹中の言ったことを聞いて
「彼は前々に聞いていたより、なお勝っていた。
今日の物語、毛利家のあしらい、弓矢の勘弁、一つとして難ずるべき所はなかった。
ならば、弓矢の才というものは、合戦の経験の多い少ないによるものでは無いのだろう。」
そう感じ入ったという。

(士談)


スポンサーサイト

滝川はよく察したようだ

2017年05月13日 17:37

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:16:00.86 ID:mIfYNUY+
太閤が岐阜を御攻めになった時のことだろうか。滝川左近(一益)は7寸ほど
の黒の馬に乗り、斥候に出馬した。

太閤は御覧になり、「滝川自身が物見に出るのは夜討ち致す心積もりなのだ。
容易には打たれまいぞ」と仰せになり、太閤の御備に柵を御付けなさった。

滝川はこれを見ると、「秀吉はこちらへ夜討ちする心積もりのようだ」と言って、
その場所から3里引き取った。

太閤はその時に仰せられて、「滝川の備へ夜討ち致そうと存じたが、滝川は
よく察したようだ」との御事であったという。

両方の大将の思慮は、符節を合するが如し。

――『武功雑記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:20:22.70 ID:Wq27HkK7
7寸の馬に乗るって何者?

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 02:47:13.60 ID:UMYW+heA
>>897
人間の身長と同じで尺を省略してるだけじゃないのかな

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/13(土) 09:01:40.12 ID:uVKdKg7z
普通のサイズ+7寸 じゃなかったっけ?

901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/13(土) 10:21:14.93 ID:8PuObztG
標準体高が四尺でそれを超える分を寸で数える

与えなかった者の馬は

2016年07月25日 13:46

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 02:35:17.88 ID:8T2sXMC4
滝川一益が武蔵野合戦(神流川の戦い)に打ち負けて撤退した時、
極暑の頃だったために馬はたいへん疲れ、全身が汗にまみれた。

川を馬に乗って渡る時、馬に水を与えた者と与えなかった者がいた。
水を与えた者の馬は、10町ほどでみな行き倒れたのだが、与え
なかった者の馬は、別段の支障はなかったという。

――『武将感状記』



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:38:19.20 ID:qe87IzyC
体育教師「よし、運動中は水飲むなよ!」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:44:13.86 ID:Ej7RqOj7
>>914
なんでだ?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:47:28.36 ID:qe87IzyC
人間なら水だけで塩分与えないと帰って血中の塩分濃度が低くなり、
血中の塩分濃度を高くするために体外に水分を出そうとして
水を飲むとよけいに脱水状態になるとか

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 08:02:43.74 ID:JZ2D5XOT
水中毒ってやつか
水ばっかり飲んでるとバテるぞとよく言われたっけか

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 17:20:06.39 ID:8xAJT9gO
ノドが乾いても水を飲ませてもらえず
疲れたら馬針で脚をブスブス刺される
戦国時代の軍馬は地獄だぜぇ

鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


滝川一益「服が乾くまで暫く待って下さい。」

2015年10月17日 12:22

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 00:35:30.38 ID:T1GsVD9m
ある老人の語ったところによると。戦国の頃、衣服も質素であったのは言うまでもないことで、
滝川左近一益が関東の管領として厩橋に至ると、諸将が対面のため駆けつけたが、その時

「ただ今一つある衣服の、垢の付いたのを洗ったため丸裸なのです。服が乾くまで暫く待って下さい。」

そう言ったと語り伝えられている。
しかしその後泰平に成って、衣服も美々しくなったが、寛文の頃までは、なお戦国の遺風があって、
金銀や利潤のことを語るのは武士の恥だと心得てしなかったものだ。

酒井雅楽頭忠清が大老であった時、春の末の頃のこと、殿中で下に着ている服が汗で濡れたのを、
休所の欄干にかけて乾かしていたが、その服も所々継当てられていて、とても見苦しいと、
帰宅してから語った。

ところが衣服を司る老女がこれを聞いて
「時が移って君は驕ってしまった!私が生きている間にこんなことになるなんて!」
と、絶句したという。
これは厳有院様(徳川家綱)の時代の事だという。

(明良洪範)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 09:58:29.29 ID:HCgkqS4U
おあむさんげきおこ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 10:01:50.91 ID:2u0qoykE
裸に鎧着用で問題なし

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 11:21:48.13 ID:Ot3kUTrA
蒸れ蒸れっすよ

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 17:37:17.09 ID:Usi9GtWj
???「衣服も鎧も必要なし!編み笠ひとつあればそれで十分!」

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/17(土) 19:34:36.42 ID:r0DXq3kg
天海「時の流れには逆らえんな」

滝川一益の転落

2014年05月23日 19:07

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 19:20:11.04 ID:RWbobTCw
滝川左近(一益)は、関の城、亀山の城、長島の3ヶ所を所領する大名であった。

羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた時(賤ヶ岳合戦)、一益は勝家の後巻をしようとしたのだが、勝家敗れるの報を聞くと、
秀吉に降参をした。

後、秀吉と織田信勝との関係が悪化し合戦となった時(小牧長久手合戦)、秀吉に対して抜群の忠節を成そうと思い、
この頃、蟹江城は織田信勝・徳川家康方の城であったが、この城主と内通して心変わりをさせ、一益はこれに入城
しようとした。

伊勢より船に乗って向かった所、蟹江城の周辺ではにわかに潮が引いて、船が着岸することが出来なくなってしまった。
この頃一益は病中であった事もあり、肩輿に乗ってようやく城に入り、従う者達も多くは入城できず、船に乗ったまま
海に漂っている状態であった。

ここに、徳川家康が急襲を仕掛け皆殺しにした。一益の身はあつかいと成り、信雄・家康の味方となって、
秀吉のことを謀ると約束し、生命は助かったが、自身もあまりの事と思ったのか、妙心寺に入って落髪、出家した。
その後一益は、越前において死んだそうである。

信長の時代、天下の政道は4人の手にあった。すなわち柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、である。
滝川一益の武勇は無双の名があって、度々関八州を引き受けて合戦した。関八州の者は、滝川の名を聞いただけで
恐れたほどであったのだが、末に至って散々の体となったのである。

(老人雑話)

滝川一益の転落についての記述である。





滝川さんのちょっとした勇み足

2014年05月19日 19:11

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:32:52.16 ID:0+1esdaL
滝川一益が、伊賀国衆を退治したとき、
つづけて甲賀に陣を張り、重ねて信長に使者を立て、
「甲賀衆をこの際、退治いたしましょう」
と申し上げた。

信長はこれを聞き、
「滝川は武勇の士なりと言えども、情を知らぬ。
甲賀は己の本国生地であろう。
例え信長が退治を申しつけたとしても、詫び言いたすべき所を、
是非退治を、と申す様、不道である」
と、言い、その後はあまり賞を与えなかった。

                  『異本小田原記』

滝川さんのちょっとした勇み足の話。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 20:37:21.33 ID:K9ROe21Z
滝川さん身内に恨みでも合ったのかね

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:20:06.06 ID:bJIgUvyy
そらまぁ、尾張まで流れていって就職したことを考えると、故郷ではあんまりいいことなかったんじゃないの

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:25:08.88 ID:HCLvtvw2
だから珠光小茄子が貰えなかったのか・・・

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:29:11.27 ID:YDeANWAP
その後はたったの上野一国しか与えなかった

339 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/05/18(日) 22:32:17.98 ID:EKkKofWP
上野一国って、地理的条件を除けば悪くはないんじゃね?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 22:44:20.52 ID:Wh8Oshgl
上野一国って言うけど、信長は上野国衆の領地はほとんどそのまま認めているから、
一益は直接的には厩橋城とその一部の枝城程度しか支配できていないんだよね。
滝川一益の関東支配は、信長の威光あっての限定的なものでしか無く、一益が嫌がったのも
わからんでもない。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:45:33.85 ID:w+UXueac
そんなこと書き込むと現代の真田家当主が悲しむぞ

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/18(日) 23:51:44.85 ID:AD5N25Fc
最初は認めて~は上野だけの話じゃ無いし

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:37:09.87 ID:dkjLWj4b
本能寺の後に上野の国人集めて、光秀を倒すために国へ帰るけど
北条に味方して私の首を討ちたい者は遠慮なく攻撃していい
と言い張った一益は格好いい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 00:52:48.66 ID:VEUi/lf+
>>343
まあ実際には普通に秘密にしてたらしいけどねw
上野の国衆には北条経由で本能寺の件は伝わった。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 04:43:27.53 ID:onfILAIp
>>340
そういう言い方するんなら、一益がもらったのは「関東」だぞ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/21(水) 11:03:48.84 ID:XYhB37jT
>>345
だから、権限と実態が乖離しすぎてる、って話じゃないの?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 00:22:31.15 ID:zo2Jw5KY
>>346
直轄領の大きさについての話にしか読めないが

人の徳

2014年05月05日 18:08

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 04:43:19.79 ID:CtjeyP82
人の徳

織田信忠に従い武田勝頼を破った滝川一益は功績により上野と北信濃を新領として織田信長に与えられた

一益は厩橋を居城に定め、上野の国人衆に従来の本領を安堵する約束を行い、合わせて武田家滅亡により
上野に逃れていた武田の旧臣らに対しても「一益は関東には不案内。地の利は生まれ育ったその方らが
断然に詳しいだろうから是非に力を貸してほしい」と融和策を敷いた

信長が本能寺の変で斃れると、一益は上野の主だった城将や国人らを集め
京の本能寺で明智光秀の謀叛により信長親子が死んだ事を述べ
滝川一益は上野を離れ上方へ戻る。信長公の弔い合戦に臨むつもりである。
これを好機と感じこの一益の首を獲り北条へ寝返ろうと思う者は遠慮なく申し出よ。恨みはせん。
戦いを仕掛けてくる者とは一戦交えてでもワシはなんとしても光秀を討ちに西へ進む」と思いを吐いた

北信濃の藤田信吉が離反し
時を経ずに北条軍が上野へと侵攻を開始

一益の漢気に感じ入り「武士の鏡」と滝川一益が上野を離れるのを惜しみ、反北条の意を表した上野衆もいた

一益は上野の国人らを城に招き、別れの酒宴を開くと城の宝物を惜しみもなく与え、箕輪を後にした

一益は北信濃から尾張を目指したが、道中の木曾義昌が滝川勢の通過に難色を示した

一益は真田昌幸らから預かっていた人質を義昌に渡す約定を取り付け、信濃路の通行の権を得た

清洲についた時には一益抜きで織田家の指針を決める「清洲会議」はすでに終わっていた

織田家内での一益の権威は清洲会議を境に大きく失墜したが
森・毛利が全面的に敗走し、河尻が討たれた織田家の東国前線にあって
関東調停役としての人柄を見せた
滝川一益の没落に関してのお話

215 名前:214[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 04:49:47.40 ID:CtjeyP82
「一益は~」の書き出しばかりで読み辛くてすみません

…藤田信吉の所領
北信濃と書いてしまいましたが、もしかして…北上野?




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 09:25:05.77 ID:IFd5Lhkm
一益帰る前に北条と一戦交えて敗れてるがあれは必要だったのだろうか
軍団率いて信濃は通れなかったとしたら結果オーライだろうが何とも勿体ない

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 10:22:02.79 ID:CtjeyP82
>>216
北条軍は5万、滝川勢は上野衆を交ぜて2万。
上野衆にとっても火事場泥棒に似た北条軍に地元を好き勝手にさせるわけにはいかなかったから
「いくさ」という形での意地(抵抗)を滝川一益への付き合いとして、最後の奉公と上野衆の誇り代わりで
示したのでは?

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 10:24:41.90 ID:CtjeyP82
長野業正の亡き後の上野は軍神・信玄・北条の草刈り場にも似た雰囲気みたいだから…

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/05(月) 15:48:30.22 ID:PTPkC1JZ
真田昌幸「俺のターン!ドロー!」

蟹江城と漢たち

2014年02月23日 18:59

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:34:10.18 ID:wlbpESpp
蟹江城と漢たち

小牧・長久手の戦いにおいて惨敗を喫した羽柴秀吉は、方針の変更を迫られることとなった。
両軍の陣地構築により膠着状態となった尾張北東部から伊勢・尾張南部に目を向ける。
当時、徳川家康は尾張の清洲城、織田信雄は伊勢の長島城に拠って各々指揮を執っていた。
秀吉は両者の連絡を断ち切るため、清洲・長島の中間にある蟹江城の奪取を計画する。

この計画の実行者にふさわしい者が陣中にいた。蟹江城の元城主で、先年秀吉に敗れ軍門に
降っていた滝川一益である。

一益はまず志摩水軍の九鬼嘉隆を調略で味方につけ、海上からの攻撃を可能なものとすると、
蟹江城内部の工作に取り掛かった。

この時、蟹江城を守っていたのは、佐久間信盛の子佐久間信栄である。折りしも信栄は信雄
の命により、伊勢萱生砦の修築に赴いており、城主不在の状態であった。城主留守の蟹江城は、
本丸を信栄の叔父佐久間信辰(信直)が、二の丸を信盛の妻(おそらく信栄の母)の弟である
前田長定(種定)が守り、その周辺の支城には、前田城に長定嫡子の前田長種、下市場城に長定
弟の前田長俊(利定)、大野城に信栄股肱の家臣である山口重政がそれぞれ配置されていた。
また、蟹江城本丸には信栄の妻子とともに、人質として各支城の家族が集められていた。
肉親と股肱の家臣に留守をまかせた信栄であったが、実はこの肉親は敵方の肉親でもあった。
前田長定は秀吉方として北陸で戦っている前田利家の本家にあたり、かつ嫡子長種の妻は利家
の子幸姫であった。信栄はこの点を考慮すべきであったかもしれないが、やむを得ないだろう。
つい数年前までは同じ織田家中で敵と戦っていたのである。攻める側の滝川氏でも一益の娘婿の
滝川雄利が信雄家老としているのであるから。

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:35:32.39 ID:wlbpESpp
さて、一益は当然のことながら、味方に繋がりのある前田長定に狙いをつけた。事前に加賀
前田家からの工作もあったかも知れない。長定はあっさりと内応を承諾した。自身だけでなく、
前田城の長種、下市場城の長俊も誘い、前田一族総出で裏切ることにしたのだ。だが大野城の
山口重政には事前勧誘をしてはいないらしい。裏切りの可能性は低いと見たのであろう。

天正12年(1584年)6月16日、長定が上げた狼煙を目指し、九鬼水軍の軍船に分乗した滝川軍
三千が蟹江城に迫った。長定の誘導によりそのまま二の丸を占拠する。そして、本丸の信辰に
城の明け渡しを要求した。激怒したのは信辰である。信栄の妻子を刺し殺し、城に火を放ち
自身は自害すると言い放ち、要求を突っぱねた。一益・長定としては、一刻も早く城を奪取
したい。交渉を繰り返し、長定の子を人質に出し、信栄の妻子の安全を保障することで本丸
確保に成功する。信栄の妻子は信辰に守られてこの日のうちに城を脱出した。

蟹江城陥落と同時に前田・下市場両城とも秀吉方となり、残るは大野城である。重政の母を
人質にとった長定は使者を遣わし重政に寝返りを勧める。だが重政は「信栄に対して二心は
抱けぬ。我が志を分かって母は殺されても恨みはしまい。己は城を守り信栄の恩に報いる」
と答え使者を追い返した。と同時に、信栄・信雄・家康に急を報せた。

報せを受けた家康は折りしも入浴中であったが、すぐに浴衣を着込むと馬を駆った。後を
追えた者は井伊直政ただ一人であったと言う。往時の織田信長を髣髴とさせる動きである。
信雄もことの重大さをよく分かっていたのだろう。いつもの彼らしからぬ(笑)機敏な動きで
駆けつけた(まとめ・信雄の奮戦 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6917.html)。

滝川一益らも手を拱いていた訳ではない。援軍到着前に大野城を落とそうと川を遡上して
攻撃したが、船に松明を投げ入れられ数隻が沈没、上陸した部隊も城兵と井伊直政の軍に
破れ撤退し、一益は蟹江城、九鬼嘉隆は下市場城に逃げ込む。

早くも6月18日夜には、下市場城が陥落、嘉隆は海上に逃げ、裏切組の長俊は斬られた。
23日には前田城が落ち、長種は逃亡、織田・徳川方により海上は完全に封鎖された。
信栄を先陣に22日より始められた蟹江城包囲戦は、篭城した一益らの奮戦により多くの
死傷者が出たが、早急な援軍が見込めないと悟った一益は和睦を受け入れ、7月3日に
至り開城した。人質となっていた重政の母は無事開放された。一益も無事退去できたが
裏切りの張本人である長定は命を全うできなかった。逃げる途中で妻子ともども殺害
されたのである。後世の史料では一益の命令で斬られたということに変えられてしまって
いるが…。

こうして蟹江城は奪還された。秀吉は7月半ばに尾張西部から総攻撃をかけるつもりで
いたが間に合わなかった。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:37:05.41 ID:wlbpESpp
だがしかし、戦いの後、佐久間信栄は織田家中における家老の地位を守り抜くことは
できなかった。蟹江城失陥の責任を問われたためではない。蟹江城の戦いのおよそ
一月前の5月、京都で謀反が発覚し、多くの公家が逮捕されるという事件が起きた。
首謀者は佐久間道徳、信栄の弟とされる人物である。秀吉は影で道徳を操っていたのは
信栄に違いないと考え、織田信雄との和睦条件に信栄の自害を加えてきたのである。
このため、信栄は信雄のもとを離れ、佐久間家の旧領三河国笹原に隠れ住んだ(三河の
うち現豊田市中心部は以前から織田領であり佐久間氏が勢力を扶植していた)。
こうして信栄は武将としての人生を終えた。後に赦され豊臣、徳川と仕えるが茶人、
御咄衆として仕えたのであり、武将としてではない。居城失陥が彼の戦績の最後であった。

残された佐久間家の人々は織田信雄に仕え続けた。信雄改易後は、蟹江での戦いが縁と
なり、徳川に仕え、佐久間信辰は後に館林城の留守居役となった。その息子は信栄の養子
となっている。山口重政は苦労に苦労を重ね大名の地位を維持した(まとめ・ある若者の
その後の運命 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8237.html)。

敗者のうち前田長種は加賀国に逃れ、加賀八家の一つ前田対馬守家の祖となった。後年、
微妙公こと前田利常を養育している。

滝川一益はまもなくこの世からふっと消えていった…
(まとめ・滝川一益の最期 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3242.html)


夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと


蟹江城は翌天正13年(1585年)の天正地震により壊滅し、今はただこの地にかつて城が
あったことを示す石碑が立つのみである。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:20:02.12 ID:Y7fu0rke
ここはいつからチラシの裏になったの?

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:36:11.08 ID:f27vMd/J
>>567-569
原典ないけどこれ小説なの?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 00:58:26.11 ID:JJQL3nwu
創作物の投稿は守備範囲外だよなぁ

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/23(日) 06:11:57.79 ID:pfIwyu7K
前投稿された藤堂高虎の主君替えシリーズもほとんど小説ぽかったような

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 07:51:14.88 ID:7Kqo9BzW
なんか創作っぽいやつは高確率で徳川が絡んでんだよなあ

滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと

2013年10月24日 19:18

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:12:12.73 ID:JWtR0ukI
滝川一益がいまだ匹夫だった時のこと。伊藤内蔵という者がいて、
多くの人がこの者を討ちあぐねていたところ、

一益は思案して、ある宮の拝殿に伊藤が参詣する時に座るところの柱に
穴をあけておき、伊藤が社参した時にその穴から鉄砲で撃ち殺した。

これに立ち騒ぐ諸人の中を一益は障りなく退いたのだが、
刀の鞘を落としたことを無念に思って引き返し、鞘を取って退いた
ということである。

――『名将言行録』




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:15:30.31 ID:EkpOBQfM
どこからつっこめと

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:35:40.34 ID:I65kX809
ケツからだろう

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:43:53.36 ID:2dc+yolJ
なぜ鞘だけ落としたw

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 18:57:23.67 ID:F3ZUhnVt
ノブ野望で滝川一益の鉄砲ステータスが高いのはこの逸話のせい?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 19:59:45.10 ID:p0HZ9wCZ
××人皆殺し!とか書いてあるから貶してるのかと思ったら
実は、カッケー!スゲー!!ってアゲてるんだった、なんて話を聞いてから
こういう話をどう受け取ったらいいのか分からなくなった…。

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 20:53:18.98 ID:+3FCDnJC
書かれてないけどこれは上意討ちか何かで、
首をとる必要があったから、その時に鞘を忘れたってことなのか?

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 21:00:15.42 ID:vQURCEwh
穴のあいた柱って残ってないのかな
つか穴あけてる最中に来たら間抜けだな

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 23:34:19.32 ID:UDBh0w+w
いまだ匹夫というか、やり口がまさに匹夫としか

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:48:56.43 ID:/qbf96ER
鞘だけ落としたってことは、抜き身で腰に差していたのか?
それとも抜き身をぶら下げて帰ろうとしたのか?

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 04:55:42.87 ID:95vLKmEi
『武功雑記』巻十(p33)にも同様の記述あり
http://bushomemo.blog.fc2.com/blog-entry-700.html
だそうだ

千葉良胤、織田信長からの勧告状に

2013年10月20日 19:15

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 10:52:19.68 ID:cEfgxVoU
天正10年(1582)、甲斐武田家を滅ぼした織田信長は滝川一益に関東を任せる。
そして関東での一益の行動を便利にするため、下総の千葉良胤(原文では胤富)に、一益に従い
協力するようにとの勧告状に、名馬一等を添えて使者を出した。

千葉良胤はその勧告状を見て、激怒した。

「甲州の武田が没落し、小田原の北条も織田に従ったからといって、これは上見ぬ鷲の思いあがりというものである!
こんな文書をよこすとは、奇怪至極。

たとえ総州の千葉家が小国だとはいえ、右大将頼朝公以来の、武家の名門である。
関八州において何れの列侯に、我が千葉氏の上座に座るものがあるだろうか!

一時の武威に奢って、誰も彼も自分に靡いてくるなどと考えるのは、もっての他の事である。
このような書状、返事に及ばぬ!」

そう言うと信長の送ってきた馬の尻尾を切って通に放り出し、使者の髪を剃り落として坊主にし、厩橋に返したという。

(関八州古戦録)




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 21:36:20.14 ID:EJUFdxRT
>>530
馬は献上品ということにしてもらっとけば良いのに

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 03:48:20.34 ID:tQ2ARwAR
>>530
実在の疑われる良胤はないと思うわ
仮に実在したとしても、この時期は奥州に追放されてた頃だろうし
あと良胤は大の信長贔屓で、それが原や北条に嫌われて追放されたことになってる

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 10:51:37.39 ID:qix5bUKE
というか
「関八州において~」
って、この時期の千葉氏って小田原北条氏の支配下、とまではいかずとも、庇護下みたいなもんなんじゃないの
胤富亡くなってるし

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/21(月) 18:11:41.05 ID:qghfbuzv
しかし、なぜ北条は直重をあのまま入れて千葉を乗っ取ろうとしなかったんだろ?
直重を追い出せるだけの力が原にあったとは思えないけどなあ

滝川一益「私の紋は殿より」

2013年02月25日 20:05

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 08:25:16.70 ID:Ej/xhwgj
ある時、織田信長の御前で家臣を集めての酒宴の席でのこと、
滝川一益がこのようなことを言った

「私の紋は殿より一つ少ない4つですが、それでも立派に立っておりますぞ!」

これは説明が必要であろう。信長の家紋といえば有名な織田木瓜であり、
これは5弁の木瓜なのだが
http://www.harimaya.com/kamon/column/mon2/mokko2.jpg
mokko2.jpg

滝川氏の紋は同じ木瓜ながら、4弁なのである
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/buke/takigawa.jpg
takigawa.jpg

これを聞いた信長は機嫌を害したように
「何だ、お主はわしに立ち向かう気か!?」
と言ったが、一益は

「いいえ、殿を上に立てるのでございます。」

そう見事に受け答えたという。
(家紋逸話辞典)




523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 11:05:58.86 ID:QScXydi2
馬上でもウンコはできますぞ!

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 12:42:26.47 ID:uh+jpmGk
(`Д´)いい加減尻の話はやめい!

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 14:16:56.08 ID:DwgtOsy9
木瓜を尻の○と申すか

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 15:51:03.73 ID:Lyn37Doj
ちょっと待て家紋が木瓜の人にマジ謝れw
因みに我が家は何の変哲もない丸に木瓜だ

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/25(月) 17:28:52.12 ID:Ub5n/s1R
たしかに>>525は浅はかで失礼だよな(笑)
木瓜紋が全国何人いると思ってんだという


「つんつくおどり」

2012年11月29日 19:51

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:49:05.47 ID:7gcmoWU5
「つんつくおどり」
現在も四日市市日永地区に伝わるこの踊りは、
滝川一益が起源に関係していると言われているようです。

説は2つあり、1つは滝川一益が母の隠居所を実蓮寺境内に建築する際に、
地固め工事に歌った歌謡と動作を元にしているというもの。
もう1つは、滝川一益が毎年大雨のため田畑が流出してしまう農民の困窮を見て、
天白川の堤防を築き、その際の地固め、地つきに歌ったという説です。

そしてその踊りがどんなものかというと、天明八年(1788年)の司馬江漢の日記には、
「十二歳から十七歳の男女、手と手をとり、輪になってツンツクツンツクとて踊るなり。
中に十五、六の男の子、白きさらしの手拭いをほうかむりして、うたをうたいて太鼓をたたく。
(中略)その夜も前夕の通りツンツク踊あり。踊と云うには非ず、
ただ手と手を取り、伸びたり屈んだりするのみ。誠に田舎の踊りなり」とある。

こんな思春期の少年少女たちがドキドキできる
マイムマイムみたいな踊りを滝川一益が作っていたとは。
ちょっと面白かったのでいい話に。




信雄の奮戦

2012年10月21日 19:29

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 22:21:38.38 ID:EFQoOfEl
信雄の奮戦

小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた

『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった

「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した


家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした




20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:18:40.19 ID:2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/21(日) 09:37:44.12 ID:k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが

駿足の家康

2012年01月10日 21:59

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/10(火) 17:38:30.97 ID:wNhN+rjs
駿足の家康

小牧長久手の戦いの最中、蟹江城が滝川一益に調略され秀吉方となると、
一益は九鬼嘉隆と共に三千の兵を率いて、まず一益が五百の兵と共に入城し、
次いで大野城を攻め始めた

このことを近場にいた井伊直政が家康に報告するために清須城に向かい、
入浴中の家康に告げると、家康は報を聞くなり浴衣のみを着て蟹江へ出陣し、
蟹江にいた一益と船上の嘉隆の間を分断してしまった

この時、随身したのは直政のみ、途中合流した五百余のみで行われたこの行動は
後に家康一代の勝事と言われた




375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/10(火) 19:16:01.18 ID:scpl3IOl
>>373
褌もはかずに出陣したのか

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 00:15:18.56 ID:30dwQ4ZC
アーッな事する前だったろコレ

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 00:49:12.37 ID:ie1TmtpU
>>373



                     l   /  .r―――┐l
.       ,、r‐''''''''''''''''ー 、      l  /   /      | |
      ,r'         `' 、   ,ゝ、',,,,,,,,_/       | |
     /             ヽ, '     / ゙゙゙゙̄'''''''''''''''''ヽ
.    / ,             ヽ    / zェ:、、,_   _,,、」,
   ,,'  ;    ,、、,_  ニニ  ,、」、   /.          |
   l.  :;;;i    ´ .._`ー   ‐''"....|   / ヾニ・=   .i=・ コ
   l:,;'"`'、,    .ニ=ミ..  ヾ= 〈  /         l   |  混ざりたいのか、家康?
.   ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン  .., .:::'''"゙, ./      ィ   ,l  .!
    l;゙、',.::l;;;i ///// r   ヽ./// l,/,..     r'`ニニヽ,  .l'、
    l;;;;`‐;;;;;ヽ   . './'ー'''ー‐' ',  l;;;,,,ヽ  ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ  ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:'.;;;`‐、';:;:;:;`;;;;';;;';";;/   ヽ、_
'    ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"i、_,-、/  `ノ;;;;;`-、:、;;:;:;:;:;;;;;;;;;;;;;;;ン      \
      '';;;;;;;;;;;;;;'     二  ,イ  '''   ``'‐.、ーァ'7"        |
       '''''''''  , ‐---,ェr'".         ``'‐.、         |
            `''''''''"",ノ             ヽ         |
            `'---‐'"               \       |
              ヽ                  ヽ      |
                                  /      /
               |                 /      /
                                /      /
丶    ◎   _,,.. -─ ‐- .、.._.   ◎   /   /      /
  `` ‐-----‐ '"         `` ‐-----‐ '"


378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 02:58:07.39 ID:3MNtkTbt
機を見るに敏な家康の話だったのにカワイソス
やっぱ家康は戦うまいな。
三方原の時は寡兵で若かったが小牧長久手以降の家康なら信玄も倒せると思う。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 03:00:46.90 ID:a1Fv7SHC
家康の戦の真骨頂は機動性と隠密行動の巧さだね。
そのへんは信玄に大いに学んでいると思う。

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/11(水) 03:30:51.62 ID:B6xEIrgn
石橋を叩いても渡らないと思われている割に
勝機を逃さないのは見事だな

天下人になるだけの才能は持っていたって事なんだろうな

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 09:05:37.24 ID:tYXbS7EK
>>377
謙信さん畠山さんと仲がいいですねw

滝川一益二話

2011年09月01日 22:01

384 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/01(木) 20:01:07.31 ID:dm3WrxJx
滝川一益が桑名城で読書をしていると庭に雷が落ち、家臣が大騒ぎしたが、

「うろたえるんじゃあないッ! 滝川武士はうろたえないッ!」

と顔色一つ変えずに読書を続けたという。また、厩橋城主だった頃は一着しか無かった服が
洗濯中で全裸で過ごしていた所に来客が来た際も

「私の服が乾くまで待っていてもらえ。」

と服が乾くまで待たせたという。以上、「名将言行録」より滝川一益の豪胆さを示す逸話である。




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:11:26.79 ID:6aZ2QESu
褌も一着…?

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:22:07.74 ID:iYm2bJ12
一軍の将にもなって着物一枚ってことはないだろwww
「俺は将門とは違うぜ~www」的なパフォーマンスだべwww

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:24:23.46 ID:6aZ2QESu
この時の来客って名前があったような
池田恒興だったかな 違ったかな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:38:38.66 ID:tr+CvJPh
名将言行録の該当箇所には「諸将」としか書いてなかった

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/01(木) 20:42:49.72 ID:c0sAsYNR
今日は池田勝入の脇役祭か?

藤田信吉、沼田城を

2011年05月09日 00:00

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:30:00.26 ID:CWGiIk4L
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。

この報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。

が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw

が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。

彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った

「俺の城を返せ!」

義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」

これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。

確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。

滝川義太夫はこう返答した

「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」

全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。

が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。

情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 02:37:11.47 ID:tBaDcalj
関ヶ原の時といい急時になると元気な奴だな

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:43:51.60 ID:4jEqj5/V
そして、素早いだけで行動自体は空回りのあたりがなんとも

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:58:54.30 ID:iz42pG+B
藤田さん、いち早く勝ち組についたのに何故か改易されてる。よくわからんな
目端は利くけど保身がヘタクソなというか

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 13:47:30.50 ID:Yxzp1z0j
>>90
大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:05:58.27 ID:eAI+U6WX
育ちが複雑だからなんとか一旗上げたくて空回りしてたのかなあ

余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており~」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 23:06:31.09 ID:EU92LFgI
信吉は何の後ろ盾もない状況から、よく頑張ったと思うけどなあ

あと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…

滝川一益と雀・いい話

2008年10月16日 10:50

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/14(木) 23:06:15 ID:4xoZcDaX
滝川一益が上野厩橋にいたころのはなし

ある日一益が何人かの家臣と亭で休憩をしてると周囲を警戒しながら餌を食べている鶴を見つけた。

しかしもう少し近くを見てみるとその鶴の周囲にじゃれあい、好き勝手に餌を啄ばんでいる沢山の雀がいるのを見つけた。

昔の自分と今の自分を比べた一益は家臣たちに呟いた。
「あの鶴はまるで私、大勢の雀は家来である貴様らのようだ」
「大名ともなればあの鶴と同じく一時として安心できるときはない、心配してばかりだ。
だが貴様ら雀はあのように自由気ままな暮らしが出来る」
「貴様らは鶴を羨んだり、また、鶴になろうなんて思わず、今の雀の楽しみを楽しみ給え」

晩年、一益は雀に戻ったわけだが実は幸せだったのかもしれない。