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滝川今の一言天晴な盟主

2018年10月10日 19:34

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:45:26.22 ID:87+YFNsB
滝川左近将監一益は織田殿の仰せを受けて関東を管領し、上野厩橋城にあって威名は奥羽までも輝いた。
そこに6月7日の晩景、京都から杉山小介貞次が急使として来たり、織田殿父子横死の次第を告げた。
一益は大いに驚きしばし黙然として伏せ沈んでいたが、ややあって篠岡平右衛門、津田治右衛門、滝川
儀太夫(益氏)の三臣を呼びその事を告げた。義太夫はこれを承り、「これは天下の大事なり。

しばらく隠密に秘せられるのがしかるべきでは」と言った。一益は聞いて、「汝が申すことも一理ある。
しかしながら“好事門を出でず。悪事千里を走る”という諺のようにこれは隠しても一両日も過ぎずに
知られるだろう。他人の口から洩れる時はかえって衆人の疑念を生じ、国中は騒動するであろう。私は

関東所属の諸将を尽く招いてこの事を披露し、これまで預かっていた人質をも返して自身は一刻も早く
上洛し、運を天に任せて亡君の仇を報じる。もし上野の諸将がこの虚に乗じ私を食い止めて討ち取らん
とするならば、それも時節である。一戦して討死するのも義のあたるところ、なんぞ命を惜しまんや。

もしまた諸将が志を変じずに味方すると言うなら、小田原の北条へ使者を立てて北条父子を引き出して
一戦を遂げ、その勝ち負けに構わずに一益は上洛して亡君の弔い合戦をする」と言うと、上野・武蔵の
諸将へ「急いで面議することがあるので早々に参着するべし」と通達した。よって内藤大和守秋宣・

小幡上総介信真・同三河守信尚・長尾但馬守顕長・由良信濃守国繁・真田安房守昌幸・蘆田深谷左兵衛
憲盛・本庄安中越中守・成田下総守氏長・木部宮内定利・上田又次郎入道安独斎・和田右衛門大夫信業・
渋川相模守氏勝・高山遠江守重光・名和対馬守宗元・倉賀野淡路守秀景・五閑刑部らを始めとして、

上野・武蔵の諸将はみな厩橋へと集まった。一益は諸将と対面して、「今度上方で不慮の大変があった。
明智光秀が叛逆して信長御父子は討たれさせ給うとの由の注進があり、一益は急ぎ上洛して亡君の弔い
合戦をせんとす。各々の人質は箕輪城に入れ置いたが尽く返し参らす。各々はこの弊害に乗じて

一益を討ち、それを手柄に北条へ降参せんとするならば只今ただちに一戦して一益の首を進上すべし!
もしまた信義を守り旧約を変ぜず、私めの下知に従わんと思いなさるならば、只今より小田原へ使いを
立てて『厩橋を渡すので北条父子は出馬なされよ。一戦して一益は上洛することであろう』と申し遣わ
すべし!」と言い捨てて奥に入った。その後、諸将は寄り集まって評議し内藤と小幡が一番に進み出て

申したことには、「滝川の今の一言は天晴な盟主と見え、義勇現れしものと覚える。かような事の大切
を少しも包み隠す様子もなく、まっすぐに申し出して我々の人質を返さんと言われては我々はどうして
不義の振舞いができよう。ただ一筋に同意して死生を共にする他ない!」と言い、諸将ももっともだと

これに応じた。その旨を滝川儀太夫を取り次いで返答すると、一益は聞いて再び諸将に対面し「各々の
義信、誠に感悦するところなり。一益は主君の弔い合戦を急ぐといえど上方近くに信雄・信孝の御兄弟
がおられ、柴田や丹羽など譜代の歴々が数多いるゆえ賊臣・光秀が誅に伏すのは一益の上洛を待たない

だろう。ここに北条氏政という表裏者は、信長公御父子が討たれ給うと聞けば早速旧盟を変改し、この
弊害を幸いと一益を討ち取る謀を巡らすのは必定だ。敵に先を取られる前にこちらから小田原へ使者を
遣わし、厩橋を渡すと申し送れば氏政父子は早々に出馬することだろう。その時に一戦して上洛するか、
一益が討死するか、運は天に任すべきと思うがいかがか」と言った。諸将は聞いて「仰せもっとも義の

当たるところ、誰が否と申しましょう」と返答した。よって同じく11日に蔵田小次郎を使者として
小田原へ遣わし、翌12日に小田原へ参りその旨演説すると氏政父子は「これ天運の賜物」と大いに
喜び「早々に出馬して受け取る」と答えた。小次郎が馳せ帰りかくと申せば一益は「そうだと思った。
この上は運の程を試すとしよう」と言って用意した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:13:28.21 ID:CHjRchcL
ええ話というかどこか要領の悪さを感じるな
織田家臣団の中で秀吉や光秀と熾烈な出世競争してきたタマとは思えない
しかも散々こねくり回して負けとるやないか

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:17:47.85 ID:dpeX0mQH
>>333
ここまではカッコイイんだよなぁ…。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:19:47.68 ID:YIy1byHU
坂井政尚だっけか
息子を亡くし意気消沈して戦死したように、一益も信長という希望を失って気が抜けてしまったのかもね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 22:02:04.57 ID:fsWVmvMn
勝家も一益も還暦前後の爺さんだからなぁ…

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 02:32:41.67 ID:+bk2wro/
>>337
そもそも滝川一益は引退させてくれと信長に頼んでるししゃーない

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:22:35.82 ID:yxuOoXB8
絶頂期が終わったら後は下り坂
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義太夫が心剛であり

2018年05月10日 18:25

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 22:01:45.51 ID:wx5+9+Fx
滝川左近将監(一益)の家臣に、滝川義太夫(益氏)と云う者があり、彼は左近の甥であった。

羽柴秀吉と滝川一益が戦った時、伊勢国嶺城に人数1200ばかりにて立て籠もったのを、
秀吉より仙石権兵衛、木村常陸、脇坂中務、服部采女、筒井なにがし等、八千余騎にて
45,6日に渡り攻めたがこれを落とすこと出来ず、金堀を入れて地中より攻めようとした。
しかし城方はこれに気が付き、城中に、羽柴方が掘り進める方向に横堀を作り、
焼き草に鉄砲の火薬を混ぜてここに入れた。
羽柴方の金堀が城中に掘り入ると、これに火をつければ、金堀たちは残らず焼け死んだ。

秀吉はこれを無念に思い、四万余騎の軍勢にて自ら采配を取り、
「この程度の小城、手で揉んで揉み殺すべし!かかれ者共!」と下知して攻めたが
落とすこと出来ず、48日の間に、秀吉方の死傷者は2万ほどにもなった。
しかし城中も、死傷者7,800人にのぼった。

滝川義太夫は心剛にして隠れ無き鉄砲の上手であった。
この籠城戦、後半は弾薬兵糧もなく、18日間を持ちこたえた。
そのうち、城内では馬や人をも食料としていると、秀吉にも聞こえてきた。

秀吉は義太夫を惜しみ、滝川左近にこのような使いを立てた
『義太夫は城中に弾薬兵糧ももはや無いようだ。押し殺すのは容易いが、あのように
城を今まで持ちこたえたのは、古今の名人である。彼に城を明け渡すように申して欲しい。』

これに左近は「尤もである。私も彼を不憫に思っている。」として、
義太夫に対し使いを立て、『急ぎ城を明け渡すように』と伝えた。
これに対し義太夫は
「左近様の自筆の書状ならば渡しましょう」
と、返答した。

その後、左近は自筆の書状を遣わしたため、義太夫は城を明け渡した。
この時秀吉は義太夫に言った
「左近はどうあっても討ち果たす。お主は我が方へ来い。五万石を遣わす。」
これに義太夫
「忝ない仕合、身に余ることですが、左近が生きているうちは、例え百万石を下されようとも
参ることは出来ません。御免なされ候へ。」
そう断った。
秀吉はこれを聞くと
「汝の心中であれば、左近が生きているうちはこれを見届けるであろう。
その間は、町人にでもなっておけ。」
そう言って、黄金二千枚に感状を添えて与えた。

嶺城は非常に小さな城で、亀山城などに比べると大変に劣るものであったが、これを保ったのは
義太夫が心剛であり、また分別深い人物であったからだと、人々は語った。義太夫はこの頃、
51,2歳であったという。

一方の亀山城には大野左次と言う者が大将として、二千ばかり籠め置かれていた。
秀吉は1万ばかりで押し寄せ、10日あまり攻めると、左次は叶わぬと思い城を明け渡し
滝川左近の居城である長島へと逃げ込んだ。
しかし長島において
「この者比興者である。二十日も城を保てず逃げ来ること、士たるものの所業ではない。」
そう批判され、同国大島という所にて切腹させられた。
惣じてこの左次は、常々心がけが薄かったが。終に主の役に立たず犬死したと、人々は語った。

(祖父物語)



883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 00:09:39.86 ID:I159reua
前田慶次郎の父親?かもしれないとしか知らなかったけど
ちゃんとエピソードあるんだな